Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    ちょっと危ないボクだから


    「た、ただいま……」
     玄関に入ってつぶやいたきり、真貴はその場にへたり込んだ。ドサッと、大きなバッグが肩から廊下に落ちる。塾で使う教材や数学の専門書で満杯だ。しかし真貴は靴を脱ぐのも忘れ、四つん這いになったまま拳を握る。
     ボ、ボクは、男なのに……。
     今になって悔しさがあふれてきた。自宅に辿り着くまでは、ひたすらに恐いだけだった。
     マキなんて……女の人みたいな名前、つけられたから――。
     そうではないだろう。そんな理由で何度もこんな目に遭うわけがない。わかっているのだが、そうとでも思わなければやりきれなくなる。漢字で書けば『真貴』で『マサキ』と読まれることも少なくないが、読みは実際に『マキ』なのだ。
     名前のせいじゃないなら、何がいけないんだよぉ……。
     にじみ出てきそうな涙をこらえ、唇を固く引き結ぶ。今日もまた、男に迫られてしまった――。
     ちっとも、わからないよ。
     どうしてこんな目に遭うのか。最近は、ことさらエスカレートしている。迫られるというよりも襲われそうになっているのだ。今日は見知らぬ男にいきなり押し倒されてしまった。すっかり暗くなった公園の茂みの陰で、むき出しの湿っぽい地面に。
    「あああ」
     思い出して鳥肌が立つ。相手があまりに直情的なものだったから、圧倒されてなかなか抵抗できなかった。危機一髪で我に返って、思いきり蹴りを入れて逃げてきた。
     先月は別の男に公衆トイレの個室に引き込まれそうになって、だけどあのときのほうがまだましだった。嫌だやめろとわめいただけで腕を放してもらえたのだから。
     いつからこんな目に遭うようになったのか。覚えなどない。抱かせてほしいとあからさまに言われたのは大学に入ってからだが、よくよく思い返してみれば、高校生のときにも似たようなことがあった。何の脈絡もなく唐突に肩を抱かれたとか、さりげなく頬や首筋に触れられたとか――。
     だけど、どのときも同じだった。
    『な、何っ?』
     驚いて問えば、決まって返された。
    『えっ? べ、べつに何って……』
     問われて相手が焦るなら、無意識にされたことと受け取って気にしないできたのだが――違っていたのかもしれない。
     無意識にされちゃうのが問題とか……。
     きっとそうだ。意識的にされるなら拒絶しようもあるが、そうではないから乱暴な目にも遭わされてしまう。となると、無意識を装って意識的にされたことを見逃してきた可能性だってあるはずだ。
     ……なんで〜。
     いったい自分の何がいけなくて何度もこんな目に遭うのか。家庭教師の教え子に切羽詰まった顔でベッドに押し倒されたときは本当にショックだった。それで塾の講師にアルバイトを変えたのだが、帰宅が夜遅くなって見知らぬ男に襲われかけているのでは、元も子もないではないか。
    「どうした?」
     不意に声をかけられ、真貴はのろのろと目を上げた。すぐそこの壁の角から、広人がのっそりと顔を出す。
    「真貴……」
     低く声をもらし、まっすぐに見つめてきた。驚いているようだ。広人は表情をほとんど変えないので、感情を読み取るのが難しい。黒くて太いフレームのメガネをかけていることも一因かもしれない。
    「ひ、ろと……」
     呼びかけた途端、真貴はぶわっと涙をあふれさせた。パチパチと数度まばたくと、長いまつげの先から大粒のしずくが落ちる。広人の上下とも着古したグレーのスウェット姿を目にして、心からホッとする。
     広人だけだ――。
     ふたりきりでいても嫌なことをしないのは。それどころか、しょっちゅう今日のような目に遭う自分を哀れんで一緒に住もうと言ってくれた。男のふたり暮らしとわかれば、少なくともストーカーもどきの変なヤツはいなくなるだろう、と。
     それなのに、ボクは……。
    「……ごめん」
     涙に濡れた大きな目をごしごしとこすり、真貴は慌ててうつむいた。心やさしい同居人に見せられる顔ではない。すっかり汚れているはずだ。涙と――泥で。
    「ボク……」
     言いかけて、先ほどの出来事がまざまざと脳裏によみがえる。無駄なほど広い公園の暗がりで見知らぬ男に押し倒されて――思い出したくない、すぐにでも忘れてしまいたい。だけど、話さなければ広人に余計な心配をかけるだけ――。
    「わ、わかってたはずなのに」
     うつむいていた顔をいっそう伏せて、嗚咽をもらして真貴は続ける。
    「あの公園……近道だけど、『ハッテン場』みたいだから通っちゃだめって、広人に言われていたのに――」
     今のアルバイト先の進学塾は駅前にあって生徒も講師も多くいるから、そこではおかしなことにはならないだろうと広人が紹介してくれたのだった。
    『とにかく誰ともふたりきりにならないことだ。終わったら、ひとりで帰って来るんだぞ。人通りの多い、明るい道なら大丈夫だ』
     この半年間、ちゃんと守ってきた。だから、ずっと何事もなかった。先月の『公衆トイレ事件』は大学からの帰りが遅くなったときのことで、広人にも想定外だった。
    「今日は……考え事していて……」
    「あれか? このあいだの『数学通信』の確率解析のことか?」
    「――うん」
     広人が軽くため息をつくのが聞こえた。真貴は、ますますうなだれてしまう。
    「それで……」
     うっかり『あの公園』に入ってしまったのだ。歩きながらも頭の中は数学論文のことでいっぱいになっていて、周囲にまったく気が向かなかった。
    「話しかけられたの、ボク、無視しちゃったみたいで……なんか、すごく怒られて――」
     あのときの男の怒声が思い出され、今も身がすくむ。
    『もったいぶってんじゃねえよ、こんなとこフラフラしてたくせにさあ!』
     あっと思う間もなく茂みに引き込まれ、地面に押し倒された。
    『オレのは硬くてイイぜぇ? ぐちょぐちょになってすぐにイけるって』
     のしかかってきた男の生ぬるい息が鼻についた。荒々しい呼吸――真貴の両手首をひとまとめに片手でつかみ、もう片方の手で真貴の下肢を慌しくむいて――。
    「思いきり嫌がったのに! ボクに、あんなこと……!」
    「真貴」
     穏やかな響きの声が低く落ちてきた。真貴はヒクッと肩を震わせる。
    「しょうがないな」
     呆れているようにも聞こえたが、その声は真貴の耳に温かく響いた。
     しょうがないな――。
     この一言で広人は何でも許してくれる。
    「風呂、沸いてるから」
     真貴は、そっと顔を上げた。目の前に差し出された大きな手を取る。よろよろと立ち上がった。
     引き寄せられて広人の肩にもたれれば、懐かしいような匂いを感じた。胸の奥深くからため息が湧き上がり、心がやわらいでいく。
    「でも、大丈夫だったんだろ?」
     洗面所に入って、広人はひざまずいて真貴の衣服を丁寧に脱がし始める。
    「うん、一応……」
     そうは答えたものの、妙な感触が不意によみがえって真貴はゾッと震えた。広人はすかさず手を止め、真貴の目をじっと見上げる。
    「だ、大丈夫、だったから……」
     広人の形のよい眉がかすかに寄った。真貴は一息で続ける。
    「い、入れられちゃったけど、指――だけ、だから……」
     途端に、広人の表情が険しくなった。真貴から目をそらし、何も言わずに再び手を動かし始める。
    「……広人?」
    「先、入って。すぐ行くから」
    「うん――」
     裸になって真貴は浴室のドアを開ける。肩越しにチラッと見れば、広人はスウェットを脱いで頭から引き抜いているところだった。
     ボクって……。
     湯船の蓋を開けて湯気に包まれる。真貴は深いため息を落とす。普段から、すっかり広人の世話になっていることを改めて思った。
     広人と知り合ったのは大学に入ってからだ。同じ数学科の学生で、一年のときに必修の講義でクラスが一緒だった。真貴は自分から人と話そうとするタイプではないから、広人と話すようになったのも広人から声をかけられてだった。
    『すごく切れるんだな』
    『え?』
     その日の講義での発言を指して言われたと気づくまで、間があいた。
    『セオリーどおりだったはずだけど――』
     戸惑って答えれば、広人は薄く笑った。
    『口頭で明晰に論理立てて解答できるなら、切れると言われても当然じゃないか?』
    『そうかな……』
     最初にそんな会話があって、真貴も広人を気に留めるようになった。真貴にしてみれば、そのクラスで一番頭が切れるのは広人だった。
     話題はもっぱら数学に関してでも、次第によく話すようになった。ゆっくりと時間をかけて、個人として互いを理解するまでになった。真貴がようやく自分の身に降りかかる悩みを打ち明けたとき、広人は即答で一緒に住もうと言った。
    『ひとり暮らしだったよな? それじゃ余計に危ないじゃないか』
     仕方がなかったのだ。憧れの数学教授のいる大学に入れたものの、自宅からは通えなかったのだから。
    『うちにおいで。2DKだから、ふたりでも住める』
     ……ごめん、広人。
     狭い浴室に立ったまま、真貴は両手を見つめる。泥にこすれて汚れている。振り向けば、同じように泥に汚れた腿の後ろと尻が鏡に映って見えた。
     泣きたくなるのは、こんな目に遭わされた被害者的な意識からではなく、間違いなく、広人に対する申し訳なさからだった。
     何から何まで世話になっている上に、わけのわからないうちに男に襲われかけては心配させているのだ。
    「真貴? まだシャワー浴びてないのか?」
    「ひろ、と……」
    「また考え事? しょうがないな。冷えるじゃないか、裸なんだから」
     広人は言いながらコックをひねり、勢いよく出てきた湯の温度を手のひらで確かめる。真貴に向き直ると肩にシャワーを浴びせかけ、背後に回った。
    「……ここ」
     低くつぶやいて、真貴の尻から腿にかけてごしごしと手でこする。湯で流しながら泥を落とされているのがわかり、真貴はうつむいて涙をこらえた。
    「座って」
     おとなしくしゃがんだ。壁の鏡に向かって床に膝をつく。後ろから伸びてきた広人の手がスポンジを取った。
     ボディシャンプーの柑橘系の香りがさわやかに立ち上り、やわらかく泡立ったスポンジが真貴の腕を滑り降りていく。手を開かされ、指の合間のひとつひとつまで丁寧に洗われる。
    「広人……」
     自分と同じようにしゃがんで体を洗ってくれる広人を鏡に見る。メガネをはずした顔は、湯気にかすんでいっそうやさしげに目に映る。
    「ん?」
    「呆れてる?」
     言いにくかったことを声にした。たくさん気づかってくれている広人に少しも応えられないでいる自分が、本当に情けない。
    「しょうがないだろ、真貴なんだから」
     明るく端的に言われ、かえって胸に染みた。
    「真貴みたいにひとつのことに突出した人間は、ほかのことがおろそかになっても当然だ」
    「でも広人は、いろんなことがちゃんとできるじゃない」
     男に迫られたりしないし――胸のうちで、そっと付け加えた。
    「俺? 俺は器用なだけだよ。真貴みたいなエキスパートにはなれない」
    「そうかな……」
     真貴には、広人は何でもできるエキスパートに思える。数学以外の教科の成績もいいし、ふたり暮らしに関わる雑事のほとんどを楽にこなしているのだから。掃除から、ふたり分の食事の用意まで。
    「そうだよ。ほら、目をつぶって」
    「ん――」
     洗面器に汲んだ湯を頭からかけられた。今度は髪を洗われる。
    「広人」
    「なに?」
    「……ありがとう」
     いつもこうだった。嫌な目に遭って汚れて帰ると、広人が隅々まで洗ってくれる。脱力して玄関から動けなくなってしまうから、最初は仕方なくだったかもしれない。
     だけど、こうして広人の手で洗われていると、本当にきれいになれるような気がする。誰にも触れられていない元の自分に戻れるようで、とても気持ちいい。
    「真貴」
     なかばうっとりとして、真貴は答える。
    「ん――?」
    「今日って……ここも触られた?」
    「あ……」
     広人の泡立った手が胸の粒をつまんだ。
    「そこ、は――」
     トクンと鼓動が跳ねて、真貴の声は喘ぐようになる。
    「……ちょっ、とだけ」
     本当は舐められてしまったのだが言えなかった。言ってしまえば、あのときのおぞましさがよみがえりそうで嫌なのもあった。
    「――ふうん」
     つぶやいて、広人はそこを指先で丁寧に洗う。スポンジで軽くこすられるのとは違って、真貴の背中はぞくぞくしてくる。
    「や……つっ」
    「ああ、ごめん。頭、先に流そうな」
     ビクッと真貴が身をよじったのは流していないシャンプーのせいと思ったのか、広人はそう言った。気づかいながら真貴にシャワーを浴びせる。
    「でも……指、入れられたんだよな?」
    「――うん」
     真貴は、またうつむいてしまった。男の汚い指で探られたことを思い出し、胸が苦しくなる。
    「じゃあ、ちゃんときれいにしよう?」
    「うん」
     内心を察してくれたような広人の声の明るさがうれしくて、真貴はこくりと頷いて返した。すぐにそこにシャワーが注がれ、広人の指先が触れてくる。まんべんなく周りをこすってから注意深く入ってきた。
    「――ん」
    「だめだよ、息を詰めちゃ。中まで洗えない」
    「……う、ん」
     はあっと、大きく息を吐く。
    「あ」
     不意にずぶりと刺さって仰け反った。腰が浮く。真貴は膝立ちになって壁に手をついた。
    「ごめん、滑った。大丈夫?」
    「ん……平気――」
     壁に体重をかけて体を支える。広人の指に中を探られながら、温かな湯で流されるのを感じる。
    「あ、ん――」
     おかしな声がもれた。しかし広人はためらいなく真貴の体の中を洗い続ける。
    「……このへんまで?」
     そうだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。男の指がどこまで侵入したか、感覚も曖昧なら思い出すのを拒みたくなる記憶も曖昧だ。
    「わ、かんないけど――んん」
     今こうして、広人がそんなところまで洗ってくれていることが真貴はたまらなくうれしかった。広人は本当にやさしくて――頭がぼうっとしてしまう。
    「どうだろう……もっと奥まで――かな?」
     広人はつぶやくように言う。
    「そいつ……背、高かった?」
    「そ、う――だったかも」
    「なら、手も大きいな」
    「あん、ん、ん」
     ぐっと奥まで広人の指が届いた。ぐるりと回って、真貴の内壁をこする。
    「ひ、ろと……」
     急に鼓動が激しくなった。真貴はゆるく頭を振って、うつむいたまま喘ぐ声を吐き出す。
    「真貴?」
    「だめ、だよ……そんな、しちゃ――」
     せっかく洗ってくれているのに嫌みたいに言っちゃった――思っても、頭がうまく働かない。
    「――そうか。ごめんな、真貴」
    「な、にが?」
     どうして広人に謝られるのかわからない。顔を覗かれそうになって、咄嗟に身をよじった。広人に顔を見られては恥ずかしい。覗き込まれて、股間にあるものが大変なことになっていると知られては恥ずかしすぎる。
    「真貴」
     広人の低い声が耳元でやわらかく響いた。
    「気にしなくていいんだよ。前にも言っただろ? 前立腺を刺激されたら誰だって――」
    「で、でも!」
     広人は中を洗ってくれているだけなのに、場違いに勃起してしまっているのでは居たたまれなくなる。
    「しょうがないよ、真貴なんだから。自分で処理してないんだろ?」
    「そう……だけど」
    「真貴は、夢精するまで放っておくんだから」
     笑い含みに言われて顔が熱くなる。
    「俺は構わないよ。今、しちゃおう?」
     返事をする前に広人の手に絡め取られた。中を洗っていない手が即座に前に回ってきて、硬く起ち上がっている真貴のものをつかむ。
    「……い、や……広人」
    「だめだよ、真貴。自分でできないんだから」
     ささやかれて体温が上がる。床に置かれたシャワーから熱い湯が跳ね上がって内腿を濡らす。
    「……ん……ひ、ろと――」
    「いい? 真貴――」
     こんなふうに広人にされるのは何度目になるだろう。すっぽりと背後から包まれ、温かな吐息を首筋に感じ、真貴はたちまちのうちに上り詰めていく。
     広人……上手なんだもん。
     男なんだから、たまには自分で処理しなくちゃいけないのだと広人に言われて少しはそうしてきたのだが、自分でするよりも、広人にされるほうがずっと容易に達する。
    「真貴……どう?」
    「ん――イきそう……」
    「いいよ、イっちゃいな」
     広人はぎゅっと握り込んでくる。親指の腹で先端を割るようにこする。そうしながらスナップをきかせて、リズミカルに絞って真貴を追い上げていく。
    「あ、あ、あ」
     壁についていた両手を突っぱねた。うつむく真貴の目に、広人の手に包まれている自分のものが映る。筋張った大きな手――腰が前後に揺れる。そうなると、体の中にある広人の指が、たまらなく感じる箇所を強くこする。
    「ど、うしよう……広人――」
    「だから……イっちゃっていいって」
    「でも――」
    「いいんだよ、真貴なんだから」
    「……広人?」
     振り向きざまに顔を上げたら、頬を重ねられた。蕩けそうになる声で広人は言う。
    「何も気にしなくていい――」
    「ひ、ろと……ん、んん!」
     限界を超えて性感が高まったのは、広人の手に意図的にそうされたからなのか――違うように思えた。
     広人のほっぺた……すべすべで気持ちいい。
     理由はそっちだったようだ。頬を重ねられてたまらなく心地よいと感じた瞬間、真貴は放っていた。めくるめく感覚に酔い、広人の胸に崩れて夢見心地に息をつく。
    「大丈夫? 真貴?」
    「……ん」
     頭がほやんとする。狭い風呂場で湿った熱気に包まれているせいだけではないだろう。背中で広人の肌と体温を感じていて、自分の体がゲル化して溶けてしまうように思える。
     広人は真貴を胸に受け止めたまま、床からシャワーを拾い上げた。真貴の目の先で片手を広げ、白く濁った粘液を洗い流す。
    「ごめんね……べたべたにしちゃって」
     ぼんやりと真貴はつぶやいた。広人の肩に頭を預け、そっと目を閉じる。
    「気にしなくていいよ。だけど……ずいぶん粘性が高いな」
     ひとりごとのように言われて顔が熱くなった。恥ずかしい。自分の世話すらできていない証だ。
    「中に入ろう?」
     真貴の全身を流し終えて広人が言った。真貴は支えられて立ち上がり、広人に導かれるまま湯船に入る。
    「ねえ……広人」
    「なに?」
     湯に浸かっても同じだった。広人の胸に背を預け、真貴はホッと息をつく。
    「もう、嫌になっちゃう?」
    「何が?」
     広人は真貴の濡れた髪を撫でる。そうされることが心地よくて、真貴は続ける言葉に詰まった。
    「真貴」
     うなだれる真貴の髪を変わらず撫で続けて広人は言う。
    「人には誰もそれぞれ役割があると思うんだ。社会はそうして動いている。真貴には真貴の役割があって、真貴が自分の役割を果たしているなら、何も問題はない」
    「でも……」
     ちゃぷっと湯を波立たせ、広人は真貴の体に両腕を絡ませる。真貴を抱き寄せ、自分の肩にもたせかけて顔を覗いてくる。
    「危険を忘れてあの公園に入ってしまうほど真貴が没頭していたことって何?」
    「……確立解析」
     いつもの無表情ながらも広人の眼差しがやわらかいことを感じつつ、真貴は答えた。
    「いいんだ、それで。真貴なんだから。真貴は数学を究[きわ]めればいい。それが真貴の役割だ」
     広人の穏やかな目を見つめ、しかし真貴は戸惑う。
    「でも……広人は? 広人だって研究熱心なのに、ボクに時間取られてばかりで――」
    「そんなふうに思ったことはないよ。真貴は刺激的で、俺はいつも触発されている」
    「じゃあ、これからも一緒にいてくれる?」
     咄嗟に身を返し、真貴は広人の胸にすがった。目を瞠り、感情をあまり映さない顔をじっと見上げる。
    「嫌だなんて、一度も言ったことないだろ?」
     口元で淡く笑んで広人は言った。
    「一緒に住もうって言い出したのも俺なんだし」
    「広人……ありがとう」
     広人の大きな手が真貴の頭を包む。引き寄せられて、真貴は広人の肩に顔をうずめた。ホッとする。広人といると安心だ。
     だけど――。
    「ボク、なんで危ない目に遭っちゃうんだろう?」
     危険を回避するように心がけていても根本の問題が解決できなくては、今後も同じような危険にさらされる可能性は否めない。
    「不思議なんだよね。どうしてボクにあんなことしようとするんだろう? 何もなかったら広人を困らせないでいられるのに」
     つぶやくように言って広人に目を上げた。広人は数学に限らず、さまざまな知識を持ち合わせている。あの公園が『ハッテン場』らしいと言ったのも広人だ。そんなことまで知っている広人なら、明確な答えをくれると思えた。
     しかし広人は眉を寄せて真貴と目を合わせてくる。
    「……わからないな」
    「え――」
     真貴は、落胆を隠せなかった。広人は慌てたように言い募る。
    「人の感情なんて、推察はできても言い当てられるものじゃないし。顔も知らない赤の他人が抱く衝動じゃ、なおさら推し量れない」
    「そう、だと……ボクも思うけど」
     では、今後も今日のような目に遭うかもしれないということになるのか。防ぎようがないと――。
    「真貴。ちゃんと逃げ切れているんだから深刻になるなよ。そうなったときは、また俺がきれいにしてあげるから」
    「……うん」
     ガックリと落ちてしまった肩を広人に抱かれる。顔をうずめ、また髪を撫でられる。
    「でもさ……」
    「なに? 真貴?」
    「もしかして……こんな目に遭わなかったら、ボク、広人にこんなふうにしてもらえないってこと?」
    「え」
     髪を撫でていた広人の手が止まった。真貴はそろそろと目を上げる。
    「だって……広人にこうされるのって、すごく気持ちいいんだもん」
    「ま、真貴……」
     見つめる先で広人の頬が赤く染まった。こんなことは初めてだ。驚いて、真貴は大きく目を瞠る。
    「ひ……ろと?」
    「ちょ、ちょっと待って、真貴」
     うろたえる広人を見るのも初めてだ。手のひらで顔をおおい、真貴の視線から逃れるように横を向く。
    「……怒った?」
    「そうじゃない」
    「じゃ、なんで――」
    「真貴」
     戻ってきた広人の視線はやけに真剣だった。真貴の目を見つめ、頬を染めたまま言いにくそうに口を開く。
    「真貴がそうしたいなら……何もないときでも俺はこうするから――」
    「ホント?」
     真貴は、パッと顔を輝かせる。うれしくて広人にしがみついた。
    「いつまでも一緒にいて、広人」
    「うん――」
     即答しても広人は困ったように眉を寄せている。だけど眼差しは温かく、口元には淡い笑みが浮かんでいる。
     吐息を落とし、真貴は言う。
    「広人がいてくれるなら……ボクは安心」
     しがみつく胸に頬をすり寄せた。トクトクと耳に響いてくる鼓動がやけに速いことに気づいて、自分まで顔が赤くなるように感じた。


    つづく


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