Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    かなり危ないキミだもの


    「ひろと……」
     ぴっちりと閉まっている引き戸の向こうから、自分を呼ぶ真貴の声がかすかに聞こえた。
     広人はマウスを動かしていた手を止め、パソコンのモニターに向かって小さく息をつく。意図して間をおいてから答えた。
    「なに?」
    「えっと――」
     声はすぐに返ってきたが、戸はカタリともしない。なのに、間の悪そうな顔でもじもじとする真貴が目に見えるようで、広人はじっとしていられなくなった。立ち上がり、戸口まで大股に進む。ためらいそうになっている自分が嫌で、即座に戸を引いた。
     ……真貴。
     思ったとおり、真貴はうつむいていた。長めの髪の陰で頬がうっすらと染まっている。細い肩が緊張しているように見える。
     やっぱり――か……。
     自分を呼んでおきながら言葉を継げないでいる真貴の心中がわかるから、広人まで緊張してくる。こうやって互いに意識すればするほど、真貴が望むことは特別になってしまうのに。
     広人はため息を落とした。真貴の背後に、すっかり片づいた狭いダイニングキッチンを見る。いつもと同じようにふたりで夕食をとったのは、つい先ほどのことだ。変わりない日常と、変わりかけている日常を思う。
    「広人」
     真貴が怯えるような目で自分を見上げるのを感じた。広人はあえて視線を合わさずに、努めて穏やかに言う。
    「パソコン、まだ立ち上げたままだから。落としたら、行くよ」
     真貴の声を待つまでもなく、わかっていた。風呂はもう、入れるようになっている。
    『広人……一緒に入ろう?』
     今日もまた恥ずかしそうに言われるのかと思ったら、そうなる前に止めたくなっただけだ。
     俺も勝手だな。
     きっかけを作ったのは自分なのに。自分も真貴も嫌でないのなら、あれは間違った行為ではないと思えるのに。
     ――でも。
    「うん……ごめんね、広人」
     謝りながらも真貴の声は明るくなっている。真貴も少しは後ろめたく感じているのは確かなようだが、その後ろめたさが何に基づいているのかを考えると、広人はやはりためらいを捨てきれない。
     真貴が隣の自室に入るのを見届けてパソコンの前に戻った。モニターには今しがたまで見ていたサイトが映し出されている。また、ため息が出た。まさか自分が同性愛関連のサイトを検索するような日が来るとは、今まで思ったことがなかった。
     まいったな……。
     あのとき、どうして快諾してしまったのか。真貴と暮らすようになって半年が過ぎたが、あのときのことを除いては何ひとつ悔いるようなことはない。
     自分との同居を真貴に勧めたのは、紛れもない自分だ。考えようによっては安易な気持ちからだったかもしれない。自分に同居を思いつかせた真貴の身に降りかかる問題は、決して安易ではなかったが。
     具体的に知ったのは、真貴から打ち明けられる直前だった。去年の秋、後期が始まってすぐの頃だ。とっくに帰ったはずの真貴が、大学の東門を出た先の暗がりで若い男に詰め寄られていた。
     目に入った瞬間、恐喝されているのかと思った。真貴なら、大学生になった今でもありえそうだ。なにしろ普段からそのあたりは人通りが少ない。学内への通行に東門を利用する学生も理学部に限られているくらいだ。
    『真貴!』
     それで、咄嗟に呼びかけた。真貴を塀まで追いやっていた男は驚いた顔を上げ、途端に離れていった。
    『広人……』
     向けられてきた真貴の目は涙に潤んでいた。慌てて駆け寄り大丈夫かと問えば、広人は思いもよらない返事を聞かされた。
    『うん……つきあってくれって言われただけだから』
    『え』
    『けど、また来るなんて思ってなかったから、ボク、焦っちゃって……』
    『――真貴。それ、どういうことだ?』
     真貴の説明を聞いて、広人は愕然とした。こんなことは今日が初めてではなく、しかも今の男に限ったことではないと言う。その上、今の男には前期からつきまとわれていたようなのだ。
    『夏休みがあったから、もう来ないと思ってたのに』
     そういうことじゃないだろ……?
     思っても声にならなかった。聞かされたとおりなら、真貴はストーキングされていたも同然だ。
    『……よくわからないんだけど。ボク、男の人にしょっちゅう迫られるって言うか――』
     実は家庭教師の教え子にベッドに押し倒されたこともあると聞かされては、広人はもう黙っていられなかった。
    『そんなバイト、今すぐ辞めろ』
     同居しようと言ったのは、その直後だ。
     真貴と暮らすこと自体は、今も少しも後悔してないけど……。
     どこかで何かを間違えてしまったように思えてならない。パソコンのモニター画面を見つめ、広人は何度目になるかわからないため息をつく。
     実際、広人もよくわからないのだ。なぜ、真貴が男に迫られるのか。
     例の家庭教師を真貴に代わって自分がするようになり、当の教え子を知ったが、ごく普通の男子高校生だった。もちろん彼には、真貴と彼とのあいだにあったことを自分が知っているとは悟られていない。
     どっちにしても、あの子に限ったことじゃないんだし――。
     真貴を襲いたくなる男の心理を探ろうとしても無理だった。サンプルがひとりでは統計学的に考察することは不可能だし、ましてや一般論が真貴のケースに当てはまるとは考えにくい。
     隙だらけなのはわかるけど……。
     それだけの理由なら、真貴のような事例が身近にもっとあってもおかしくないとなってしまう。同居して、帰宅した真貴が玄関にくずおれたきり動けなくなるのを何度も目にしてからは、余計にわからなくなった。
     唯一わかるのは、赤の他人の抱く情動など測りようもないということだけだ。だから真貴には、くれぐれも用心するようにとしか言えないできた。なのに、今日になって自分は同性愛関連サイトを検索したりしている。
     俺まで混乱してきたか。
     理由は明らかだ。一ヶ月前のあの日、汚れて帰ってきた真貴を風呂に入れて洗ってやったとき、うっかり快諾してしまったから――。
    『もしかして……こんな目に遭わなかったら、ボク、広人にこんなふうにしてもらえないってこと?』
     あのときまでは、確かにそのとおりだった。
    『だって……広人にこうされるのって、すごく気持ちいいんだもん』
     まさか続けてそう言われるとは、まったくの想定外だった。
    『真貴がそうしたいなら……何もないときでも俺はこうするから――』
     返答に詰まって苦し紛れに返すにしても、もっとほかに言えることがあったのではないかと、今になって自分を疑っている。
     マウスを硬く握りしめ、広人はブラウザを閉じる。これ以上、男同士の性行為について目を触れさせていたくなかった。すっかり重い気持ちになってパソコンの電源を落とす。
     もう、よくわかった。おおよそ想像はついていたが、自分が真貴にしてきたことは男同士の性行為に等しい。たとえそれが、汚された体を自分で洗えないほど消耗していた真貴を手伝うことであっても。
     ……実際、性欲処理にも手を貸したんだし。
     真貴の汚された箇所を洗ってやるとなると真貴の性感を刺激してしまうのは避けようがなく、そんな理由があったにしても、結局は自分が真貴をそうさせたと思えば、真貴をそのまま放置するなんてできなかった。真貴を勃起させておいて捨て置くなんて――。
     しょうがないんだ、真貴なんだから。
     真貴が極端に性知識に乏しいのは既に明らかだ。大学二年生にもなって夢精していると同居して気づいたときは、率直に言って呆れた。
     だから……真貴はわかってないんだ。
     何事もないときでも自分が真貴の性欲処理を手伝うとなると、意味合いは大きく違ってくる。それまでは付随した行為に過ぎなかったものが、目的そのものになるのだから。
     広人は肩を落とし、暗くなったモニターを見つめる。今さらながら、これまでどうして真貴にあのようなことをしてこられたのかと考えてしまう。
     真貴が玄関から一歩も動けなくなっている姿を初めて見たときはショックだった。とにかくきれいにしてやらなくてはと思い、風呂場に連れて行って一心に洗ってやった。真貴もそうされたことで気持ちを落ち着かせられたようだった。
     だから、ずっとそうしてきたんだけど――。
    『だって……広人にこうされるのって、すごく気持ちいいんだもん』
     まさかそんなふうに受け取られていたとは夢にも思っていなかった。
     だから、違うって!
     真貴が性知識に疎いのはとっくにわかっていたことで、性行為と変わらない行為でも真貴には別物であったはずで、だが実際には性行為に等しいのだから真貴が性感を得るのは当然で、つまりどれほど性知識に欠けていようと性欲がないわけではなくて――要するに、自分の思慮不足だったとなるのか。
     けど、体を洗ってやること自体はそうじゃないし!
     広人はますます混乱する。少なくとも、これまでは間違ってなかったはずだ。だが先日、何事もなかったのに真貴の望みどおりにしてやったのは間違いだった。
    『ごめんね、広人。……ありがとう』
     どこまでわかって言ったのか――。
     これまでにはしてきたことを今になってできないとは言い出しにくい。理由を説明するにも、どう話せばいいのか。
    『うん……わかった。ごめんね、広人。ボク、迷惑かけてばかりだ――』
     涙に潤む真貴の大きな目が思い浮かんだ。広人はやりきれなくなる。真貴の抱く後ろめたさはあのような行為そのものにあるのではなく、自分の手を煩わせることに対しての申し訳なさでしかないようなのだ。
     なんで、ほっとけないかな。
     干渉しすぎと自分でも思わなくもない。だが真貴は、ひとつのことに熱中すると食事も忘れる。眠ることすら忘れる。何かと手を貸さずにはいられなくなる。
     ……真貴だから、しょうがないか。
     数学界の未来を担うかもしれない人物なのだから。いや、真貴ならきっとそうなる。ならば雑事に煩わされることなく、思う存分、探究心を満たしてほしいと思う。そのために自分が環境を整えてやることなど、それこそ瑣末にすぎない。
    『おまえバカだな』
     いつだったか、三浦に話したら言われた。
    『つか、何様のつもり? 数学界の未来のためとか言って、他人の人生左右する気かよ?』
     そうではない。真貴と言う、数学界における希少な芽を守りたいと思っているだけだ。特に、邪な男の淫らな欲望に穢されるのではたまらない。三浦には、当然そこまで話さなかったが。
    『それでおまえに何の得があるわけ? そんなの、ただの自己満足じゃん』
     そんなことはない。真貴といると研究意欲が高まる。これは自分にとって大きな糧だ。俗っぽいことまで言うなら、ふたりで暮らすとひとりで暮らすよりも生活費が節約できる。
    『だとしてもさー。普通、そこまでしねえよ。もしかしなくても崇めちゃってるわけ? あいつってマジにスゴイのかもしれないけど、なんか紙一重っぽいし、やっぱおまえキモイ』
     それにはムッとした。三浦は数理情報学科だからわからないのだ。真貴を『紙一重』だなんて言うのは三浦くらいだ。数学科の学生なら誰もそんなふうには言わない。
    『て言うか、性格か。おまえって見かけよりずっと面倒見いいし。弟だか妹だか歳の離れたのがいるんだったよな?』
     呆れたように言われては、口を閉じるしかなかった。三浦の言い分にも一理あるかもしれない。三浦は茶髪にピアスで軽薄そうな外見だが、実はそうではないから学科も違うのにつきあいが続いている。
     兄弟感覚――か。
     改めて思い、そんな気になってくる。一番下の妹とは十歳離れているから、ずいぶんと世話を焼いてきた。手を貸したくなる相手を放っておけないのは自分の性分で、真貴とも兄弟感覚で接している可能性は否めない。
     だとしても、あれは……。
     むしろ兄弟感覚ですることではないだろう。兄弟感覚でしてきたなら、余計に背徳感が募る。
     だったら、なんで俺は――。
     がっくりとうなだれ、広人は頭を抱えてしまった。
    「……広人?」
     それなのに、再び聞こえてきた真貴の声に答えてしまう。
    「今、行く」
     遠慮がちに覗いてくる真貴の視線を感じても広人は目を向けられない。戸を閉め忘れていたと気づいたが、もうどうでもよかった。
    「先、入ってて」
    「――うん」
     ……しょうがない。
     思い切って広人は立ち上がった。ダイニングキッチンを大股に横切り、洗面所に入る。
    「真貴」
     低く呼びかけたら、真貴は裸の背をビクッとさせた。肩越しに怯えるような目で広人を見る。
    「な、なに?」
    「……少し冷めてると思うから、火つけて」
    「うん――」
     曖昧に答え、頬を染める。そうして、ためらいなく下肢をあらわにする。小さく締まった尻、日焼けを知らない肌を目にして、広人は顔を背けた。
     直視できない。酷い目に遭って打ちひしがれた姿なら、まともに見ていられるのに。
     ……矛盾してるよな。
     自分をいさめるようにメガネを取った。洗面台の棚に置く。風呂場に入っていく真貴の後ろ姿がぼやけて目に映る。二十歳にしては華奢な体つきだと今さらながら思う。
     狭い風呂場は湯気が立ち込めていた。真貴は背を見せて浴槽の湯をかき混ぜている。妙な緊張感だと広人は思う。これも二度目なら仕方ないと小さく息をつく。
     シャワーを取ってコックを開いた。湯の温度を確かめて真貴の背中に浴びせた。真貴は驚いた顔で振り向いたが、広人と同じように、無言でその場にしゃがんだ。
     これじゃ、何かの儀式みたいだ。
     これからすることが、いっそう特別になってしまう。雰囲気を変えたくて、広人は口を開く。
    「髪、そろそろ切ったほうがよくない?」
     シャワーに濡れて、真貴の髪は細いうなじを隠す。かがんで前髪を引っ張ったら、鼻の先に届いた。
    「そうだね」
     どこかホッとしたように真貴が答えたのを聞いて、広人も緊張を解いた。シャワーを止めてシャンプーを手に取る。真貴の背後に膝をついて真貴の髪を洗う。
     ……こういうこと自体は嫌いじゃないんだよな。
     真貴が気持ちよさそうに目を閉じるのを見て、そう思った。それ以前に、一緒に風呂に入ることも嫌ではない。このアパートの風呂場は狭いので気は進まないが。
     そういうことか?
     風呂場が広かったら進んで一緒に入るのかと自分を疑う。
     だから……。
     広人は目の前の真貴を見つめる。黙って、おとなしく髪を洗われている。
    「講義、どう?」
     何か会話がほしくて、広人はそう話しかけた。真貴は目を閉じたまま、壁の鏡に向かって答える。
    「ん……だいたい期待どおり。まだ始まったばかりだけど」
     この四月から三年生になって、ほとんどの講義が専門科目になった。昨年度までは必修の講義で大概一緒だったが、今年度はそうはならなかった。
    「半分くらい片山くんと重なってて、前より話すようになった」
     それを聞いて、真貴の髪を洗う手がふと止まった。すぐに気づいて、広人は何事もなかったように再び動かし始める。
     そうか……そうだよな、片山も純粋数学専攻だから――。
     片山とも昨年度まで必修の講義でクラスが同じだった。真貴との共通の友人と言えなくもないが、友人と言うほどのつきあいはない。
     それはむしろ真貴にこそ当てはまる。片山は社交的でクラスの誰とでも円満に接していたから真貴も例外ではなかっただけの話で、真貴が片山に関心を抱いていたようには見えなかった。それもまた、真貴が誰に対しても関心を示さないからであって、片山を相手に限ったことではない。
     しかし今年度になって専門科目の履修が重なり、数学的興味が一致すると互いにわかれば以前より親しくなるのも当然で――そんなことにどうしてかすかでも苛立つのか、広人は自分に戸惑いを覚える。
     内的な探究心だけでなく、外的な刺激を受けることも研究には大切なのに――。
     次々と発表される最先端の論文を読むようなことだけではなく、同じような立場にある者と切磋琢磨できる環境は望ましいはずだ。
    「それならよかったじゃないか、講義について話し合える相手ができて」
     真貴に問いかけるというよりも、どことなく自分を納得させるように広人は言った。
    「でも……やっぱり広人のほうが――」
     もごもごと言って真貴はうなだれる。広人は何も返さずに真貴の髪をシャワーで流した。スポンジを取ってボディシャンプーを泡立てる。目の前にある細い肩から洗い始める。
    「ボク……本当に意外だったんだ。広人が応用数学を専攻するのは想像ついてたけど、教職まで取るなんてちっとも思わなかったから――」
     履修選択シートを見せ合ったときにも言われたことだ。広人は小さく息をつく。
    「しょうがないよ、興味の対象が違うんだし」
    「うん――」
     進路に至ってはことごとく違う。真貴は大学院に進み、いっそう純粋数学の研究に勤しむようになるだろう。しかし広人は卒業したら就職する。歳の離れた妹がふたりいるのもあって、自立してひとりで生きていけるようになりたい思いは中学生のころから強かった。
     今のところ、教職に就くかIT関連企業に入社するつもりだ。どちらを取るにしても、生活のために稼ぎながら数学的探究心を満たせる職種に思える。だから履修は、そのために有利になるように選択した。
    「広人に会うまでは、こんなことなかったんだけど……」
     腕を洗われながら真貴は言う。
    「なんて言うか……教室で一緒じゃないと淋しいって言うか、隣にいないと落ち着かないみたいで――」
    「真貴」
     思わず手を止めた広人に真貴は振り向く。
    「変なんだ、ボク。勉強はひとりでするものだし、誰かがいないと不安だなんて今まではなかったのに」
    「……片山がいるだろ? 片山が相手じゃ、話にならないか?」
    「そんなことないけど……片山くんと話すのもおもしろいけど、でも」
     言いかけて、真貴はうつむく。
    「なに?」
    「もっと外に目を向けたほうがいいとか言って……いろんなことに興味をもって視野を広げないと発想が柔軟にならないとか……わかるんだけど、ちょっとついていけなくて」
    「え」
    「このあいだは買い物に連れて行かれた。洋服どんなふうに買ってんのって言われて、店員さんにお任せって答えたら、そんなんじゃダメだって言われて。髪も美容師さん任せじゃダメだって」
    「――は?」
    「片山くんと講義のこととか数学のこととか話せるのは楽しいんだけど、ほかのことだと、ボク、どうしたらいいのかわからなくて――」
     広人はムッとして真貴を前に向き直らせる。無言のまま真貴の背中を洗う。
    「広人……?」
    「嫌なら断っていいんだぞ」
    「――うん」
     片山……正論で真貴を追い詰めてどうする。
     真貴を洗いながら片山の姿が脳裏に浮かぶ。線が細くてどこか幼さを残す顔立ちは、小柄な体格と相まって真貴と似通って見えるが、印象は正反対だ。片山は勉学に長けているだけでなく、身だしなみにも気をつかって、いつもこぎれいにしている。隙がなくて器用だ。
     だからって自分の価値観を真貴に押しつけるようじゃ――。
     思いかけ、ハッとする。
     俺も、片山と同じ……?
     三浦に言われたことが思い出される。
    『何様のつもり? 数学界の未来のためとか言って、他人の人生左右する気かよ?』
     もしかしたら自分も、自分が思い描く真貴の像に真貴をはめようとしているのではないか――。
    「あ……」
     あえかな声を耳が拾い、広人はビクッとする。無意識のうちに真貴の胸を洗っていたと気づく。
    「広人……広人だけだよ、ボクがこんなに安心できるの――広人が初めてだ」
     ま、真貴……!
     慌てふためくのだが広人は態度に出せない。直面する現実に内心で怯む。
    「不思議なんだ……家に家族といたときよりも、広人といるほうがずっとホッとする」
     何を聞かされても答えられない。鏡にぼやけて映る真貴の顔に目が釘づけになる。
     だから……こういうことは……。
     なんという矛盾だろう。真貴の数学における情熱と才能は尊敬してやまないのに、自分は今、真貴の性感をあおっているのだ。
     うっとりとして見える真貴の表情が、先ほどパソコンのモニターで目にした画像に重なった。邪な男の淫らな欲望から真貴を守りたいと思ってきたのに、自分こそが真貴に淫らな行為をしているではないか。
    「ひ、ろと……」
     真貴の手がすっと上がり、胸にある広人の手を取った。やわらかく手首をつかみ、股間へと静かに導く。
     真貴の迷いのない動作に広人は激しく動揺する。今こうして一緒に風呂に入っているのは、真貴には最初からそのつもりであったと改めて思い知る。
     話しているうちに忘れてたなんて。
     言えるはずもない。それなら風呂に入る前に断るべきだ。いや、一緒に入ると決めたときには思い切ったはずだ。しかし――。
    「ま、真貴」
    「……なに、広人」
     蕩けそうな声で答えられ、広人の頬はカッと熱くなる。
    「やっぱ、こういうことは――」
     どう話せばいいんだ!
     自慰とは自分で自分を慰めるから自慰と言うのであって、他人にしてもらうものではないと今になって言うのか。あるいは、他人にこうしてもらうことは真貴を襲いかけた男にされそうになったことと少しも変わらないと説くのか。
     真貴につかまれている手から力なくスポンジが落ちる。不意に指先が触れて感じ取った硬さに広人はおののく。
    「で、できない!」
     思わず言い放った。
     しちゃったら、俺、真貴を襲いかけた男と同じ!
     逃げるように真貴から離れ、浴槽に忙しなく入る。
    「ひろと……」
     自分を呼ぶ声が悲しそうに耳に響いたが、広人は湯に浸り、背けた顔を戻そうとはしなかった。
    「広人――」
    「ダメだよ、真貴。やっぱ、そういうことは自分でするんだ」
    「でも……」
    「わかってる、言い出したのは俺だ。けど、もうできない」
     きっぱりと言い切ってしまえばしんとした静寂に包まれ、広人は無性に居たたまれなくなる。しかしここで決然とした態度を貫けないようでは今後に自信がもてない。
    「広人……怒ったの?」
     間があって、真貴が探るように訊いてきた。
    「そうじゃない、怒ってないよ、ぜんぜん」
    「じゃ、どうして?」
     深い吐息を落とし、広人はうなだれる。ゆらゆらと揺れる湯の表面を見つめて言う。
    「真貴――何もないのにするんじゃ、俺、真貴を襲おうとした男と同じになる」
    「なん、で……」
    「なんでって、これもセックスだから!」
     どう説明したらいいのか悩んだのが嘘のように言い捨てていた。抑えられなかった。傷つけないように真貴を気づかうよりも、自分の感情を優先してしまった。
     自己嫌悪に陥る広人の耳に、真貴の声が忍び込んでくる。
    「でも……広人は別なのに」
     ――え?
     広人は咄嗟に顔を上げた。真貴の裸の後ろ姿が目に入る。
     真貴……。
     背を丸め、真貴は前かがみになって洗い場にしゃがんでいる。鏡に映る表情は、これだけ離れていては広人には捉えられない。
     だが、何を始めたのかはよくわかった。細い肩が手の動きに合わせて揺れている。動作がぎこちないのは真貴だからで、それでも目に見えて性感を昂ぶらせていく。
    「……は」
     顎を小さく仰け反り、吐息をついた。立ち込める湯気よりも熱く湿っぽく響いた声に、広人はたまらなくなる。
     今、ここで始めなくたって――。
     そんなふうに思っては身勝手だろう。真貴は体を洗われただけで、あそこまで昂ぶっていたのだから。
     罪の意識が湧いてくる。自分で体を洗えない真貴にするのは正当で、そうではない真貴にするのは不当と感じたのは間違いだったか。同じことをするのに、名目の有無がそんなにも重要か。
     だけど、それじゃ……。
     思考は堂々巡りだ。同性愛関連のサイトで動画まで見てしまったあとでは、なおさらためらいを捨てきれない。
     ためらうのは真貴に性行為を施すことだ。動画まで見たのに、そのときの気持ちは淡々としたもので、男同士の性行為そのものには少しも嫌悪感が湧かなかったし、視覚的に性感が刺激されることもなかった。
     だから……なんで俺が真貴とセックス――。
     広人は沈む心地で醒めた目を真貴に向ける。その途端、顔が火照った。
    「は、あ」
     背をしならせ、左手を壁について体を支え、真貴は夢中になっている。顎が上がり、薄く開いた唇から溢れる吐息が目に見えるように感じられ、広人の鼓動は唐突に駆け出す。
     日焼けを知らない肌がうっすらと上気している。背中に光る水滴は、シャワーのなごりなのか、快感から滲む汗なのか。
    「あ、あん!」
     自分でして声を上げるなんて――。
     少しも責められない。真貴は性的な知識にも経験にも極端に欠けているのだから。大体が広人の目の前で始めてしまったくらいだ。
    「ん、ん、ん」
     もう、すぐにも達しそうなのだろう。濡れて、いっそう黒く艶やかな髪が揺れている。股間にもぐる右手の動きも速まっていくようで――。
    「真貴……」
     つい、広人は呼びかけてしまった。絶頂に達する真貴を見たくないなら目を背ければいいだけなのに、視線は真貴に張りついたままで自分ではどうにもならない。
    「ひ、ろと……」
     小さく喘ぎ、真貴はひっそりと振り向いた。濡れて落ちた前髪と、壁に伸びた腕に隠され、目だけが覗く。
     ま、き……!
     とろんと甘みを帯びた眼差し――細めた目でうっとりと見つめられ、広人は声にならない叫びを上げた。
    「……広人」
     再び甘ったるく呼ばれ、駆け寄りたくなる。自分が信じられない。いつのまにか、自分もすっかり勃起している。
    「真貴……」
     かすれた声が唇からもれた。深く息を飲み、喉が鳴る。この衝動――真貴に駆け寄って、自分はどうしようというのか。
    「広人……広人!」
     真貴は急激に昂ぶったように広人を繰り返し呼ぶ。
    「ま、真貴!」
     たまらず、広人は呼び返した。
    「広人、い――いい!」
    「真、貴……っ」
     呼びかける声が裏返った。自分は何もしていない。なのに、真貴は自分にされて達するかのように、絶頂を訴えてくる。
    「イく、イっちゃう、広人!」
     もう、耐えられなかった。ザバッと湯を溢れさせ、広人は一足飛びに真貴に寄る。
    「ひろとぉ……」
     達して洗い場に崩れそうになる体を支えた。膝をつき、背後からすっぽりと胸に包む。
     真貴の火照りを素肌に感じる。こすれ合う感触が、とてつもなく艶かしい。
     なっ……なんで!
     どんなに知ろうとしてもわからなかったことが、一瞬でわかってしまった。
     真貴が腕の中から見上げてくる。射精の余韻に酔う、潤んだ大きな瞳が――。
     たまらない。薄く開いた唇も誘うようで、そこに濡れて覗く赤い舌先も実に淫猥で――。
    「……ひろと?」
     甘えた声がまつわりつくように響いてきて、広人はぐっと歯を食いしばった。
     耐えるしかない。真貴を襲いたくなる男の心理が、身をもって知れてしまったなんて。今はただ、この昂ぶりが真貴に悟られないように祈るだけだ。真貴の秘められた箇所は、硬く起ち上がった先から数センチと離れていない。
    「広人……」
     それなのに、真貴はうっとりと目を閉じて広人に全身を預けてくる。そうして、広人の肩に頬をすり寄せた。
    「ま、真貴――」
     広人は顔が熱くてならない。息も上がるようで苦しくなってくる。
    「やっぱり、広人は広人だ。やさしい――」
     ここに及んでそう言われては、もう何も返せなかった。
     俺がやさしいなんて……。
     自分こそが真の狼かもしれないのに。腕に抱く真貴はあどけないほど無垢で、広人は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。
     真貴――。
     愛しいと思う。守りたいと思ってきた。それなのに、穢したい欲望に負けそうになった。無防備に全幅の信頼を寄せてくる真貴に、いつまで応えられるか――もう自信がもてないように感じる。
    「広人……ありがとう」
     目の前で動く唇をしっかりと見つめた。
     だから……どこまでわかって言うんだ。
     唇を合わせたくなる衝動を抑え、深い吐息を落とすのが広人には精一杯だった。
     真貴は裸の胸に熱く、危ういほど頼りない。


    つづく


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