昼食時のにぎわいが過ぎて、学食はかすかなざわめきを残すだけになっていた。そろそろ次の時限が始まるが、『関数解析T』は休講になっている。真貴は食器を返すとココアを買い、片山に付いて窓際のテーブルに戻った。ため息が出る。 広人……来なかった。 新年度に入って広人とはほとんどの講義で別々になったが、昼食時には理学部棟にあるこの学食で顔を合わせていた。片山ともそうなっているのは、履修がかなり重なっているからだ。 真貴は、ぼんやりとテーブルに視線を落とした。つるんとした白い天板に、窓ガラスを透かして木漏れ日の投げかける影が揺れている。 気まぐれな風がもたらす動きは予測がつかない。三次元コンピュータ・グラフィックスを使って、プログラミングしたパターンをいくつか組み合わせてランダムに再生させれば似たような動きを再現できなくもないが、しょせん自然の生み出す不規則性には及ばないと真貴は思う。 ゆらゆらと移り変わる色と形を見つめた。そっと息をつく。美しいと思った。自然科学が確立され、さまざまなことが系統立てられて研究されるようになって幾世紀も経つが、いまだ自然はすべて解き明かされない。不規則に見えていた事象から、何かしら新たな法則を見出せる喜びは、どれほどのものだろう。 「―― 「あ」 『真貴』と呼ばれてハッとした。自分を『真貴』と呼ぶのは広人だけだ。しかし目が捉えたのは、テーブルの向かいから困ったように笑いかけてくる片山ひとりだった。 「また考え事? きみ、すぐトリップしちゃうから――」 「ご、ごめん。なに話してたんだっけ?」 慌てて返した真貴に、片山はフッと口元をゆるめた。さりげなく髪を梳き上げ、いたずらっぽい目になって見つめてくる。 「なに考えてたの?」 「なにって……」 「ひとが心配する目の前で気を取られちゃうことって、何なのか教えてよ」 おもむろに頬杖をつき、細い眉を片方だけわずかに上げた。 「影を見て……3DCGで再現できるかなって――」 「影?」 これ、と真貴はテーブルの上を指差す。片山はそこに目を向け、途端に気が抜けたように肩を落とした。 「なるほどね。どんなふうにして今のきみがあるのか、なんとなくわかったよ」 ギクッとして、真貴は顔を上げる。 「……どういうこと?」 「子どもの頃からそうだったんじゃないの? 何をしていても興味の引かれる方へ気持ちが流れちゃって、していたことを忘れる」 「なんでわかるの――」 くすっと笑って片山は目をそらした。微笑を浮かべた横顔で、テーブルからレモンティーの入った紙カップを取り上げる。 「以前から訊いてみたいと思っていたことがあるんだ」 ――なんだろう。 真貴は軽く緊張する。自分の前にも紙カップがあるが、手は伸びていかない。ココアはもう、冷め始めているだろう。 「中二のとき、『数オリ』でAAランクになったでしょ? なのに、あれっきり出なかったのは、なぜ?」 「え……」 片山は細めた目で視線を流してきた。真貴を見つめたまま紙カップを口に運ぶ。 なぜ、って……。 それよりも、数学オリンピックの国内大会に自分が出場したことをどうして片山が知っているのだろう。片山の言ったとおり、中二で一度出たきりなのに。 ためらいがちに真貴は口を開いた。 「あのときは――」 当時の担任の数学教諭に勧められ、よく知りもしないで出場したのだった。申し込みをすると参考問題集が送られてきて、あとは当日に会場に行って問題を解くだけだったので、実力テストを受けたような感覚だった。 予選を勝ち抜いて本選に進み、最終的には上位二十人前後の『AAクラス』に残り、国際大会に出場する選手の候補になったのだが、その選抜のための合宿には行かなかった。 『だって真貴ちゃん! 選ばれちゃったら外国に行くのよ! 日本代表なのよ!』 まだ中学生なのに――母親に特に反対され、合宿に参加することからして、とてつもなく大変なことに思えたのだ。 『もったいないなー。おまえ、本当に数学が好きなんだから、結果がどうなっても、いい経験になったと先生は思うんだがな』 担任には心から残念そうに言われ、そのときは申し訳ない気持ちになった。 『そんなこと言ったって、これで真貴ちゃんがもっと変わった子になっちゃったら、お母さん、どうしたらいいの』 しかし母親にそうまで言われては、もう何も考えられなかった。どうも自分は以前から周囲の人を困らせてきたようだし、誰よりも家族をこれ以上困らせるのでは悲しかった。 「それって、マジ?」 片山は身を乗り出してきて大きく目を瞠る。 「そんな理由で、あれっきり出なかったの?」 「うん」 「信じられないな……て言うか、驚きだよ。AAクラスに入れたのだってオナーなのに」 片山はそう言うが、真貴はそれほどの栄誉には思えない。本当に栄誉なら、当時の担任だけでなく家族も喜んでくれたはずだ。 「でも、高校に入ってからも教師に勧められたりしなかった? 断ってきたわけ?」 再び頬杖をついて、片山は疑うような目を向けてくる。 「ううん。何も言われなかった」 「ウソ! 数学教師にも?」 意外そうに言われ、真貴は口ごもる。 「う、うん。たぶん知らなかったんじゃ……」 「内申書に書かれたはずなのに。どんな高校行ったんだよ?」 「……地元の、県立高校」 「なんでまた――」 眉をひそめ、片山は顔を背ける。何が片山の気を損ねたのかわからなくて、真貴はうろたえてしまう。 地元の県立高校への進学は、親との約束だった。大学は好きなところに行ってもいいからと言われ、交換条件のようなものだった。もっとも主要三科目以外の成績はあまり良くなかったので、自分でも妥当な進学先だったと思っている。だが、そこまで片山に話しては余計に気を損ねてしまいそうだ。 それより――。 中学でも高校でも特に知られていなかったことを片山が知っていた理由が気になる。 「その……片山くんは、なんで知ってたの?」 遠慮がちに問えば、あからさまなため息が返ってきた。 「あのね。数学科にいて知らないやつなんて、いないんだよ」 真剣な顔になって片山は言う。 「悪いけど、マジ、信じられないよ。自分が数学科内でどう見られてるかも、わかってないの? 入学したときから一目置かれて、近寄りがたいとまで言われてたんだよ?」 「そ、そうなの?」 真貴は本当に驚いてしまった。一目置かれているとか、近寄りがたいとか、そんなふうに言われたのは初めてだ。『変わり者』という意味合いでなら、なかったこともないが。 「なんて言うか……環境って本当に大事なんだと、今つくづく思ったよ」 片山は呆れたようにつぶやいて、視線を落とした。 環境が大事、て……。 大学に入って親元を離れてからは好きなだけ数学に没頭できていることを思えば、そうなのかもしれない。では親元にいたときはそうではなかったのかと問われるなら、その限りでもないように思う。確かに制限は今より多かったが、大概は生活態度に関してのことだった。 環境が大きく変わったと感じるのは、広人と暮らし始めてからだ。親元にいたときよりも、ひとりで暮らしていたときよりも、ずっと安らいでいられる。 ――なのに。 「僕は、中二ではジュニア大会に出たんだ」 ぽつりと片山が言った。目は伏せたままで、気のない声で続ける。 「あのとき『数オリ』の公式サイトで本選の結果も見て、同じ学年の子が最終に残ったのを知って、とても悔しかった。出ていれば僕もやれたかもしれない、ジュニア大会じゃなくてそっちに出るんだったと思ったよ」 真貴はどう応えればいいのかわからない。戸惑って、ただ片山を見つめる。 「支倉真貴なんて、ちょっと珍しい名前だから記憶に残った。サイトに性別は載らないから、もしかしたら女の子かもなんてことも思った」 目を上げて視線を合わせてきて、素っ気なく片山は言う。 「入学してすぐに、きみだと気づいたよ。同姓同名の別人の可能性はあったけど、きみを知っていくうちに確信した」 真貴は困ってしまう。そのようなことを片山が自分に聞かせる意図がわからない。 「女の子みたいな名前って……」 ぼそっと、気になったことだけを口にした。 「片山くんだって、そうじゃない。『なぎさ』なんて――」 「ちょっと待ってよ〜」 片山は急に情けない声を出した。 「それ、マジで言ってんの? 僕の名前は『渚』と書いて『みぎわ』と読むんだって、一年のときから言いまくってるのに」 「そ、そうだっけ?」 慌てて取り繕うにも真貴は言葉が続かない。困りきって、当の片山に助けを求めるような目を向けてしまった。 「きみってさ――」 言いかけて、片山は口を閉じる。テーブルに腕を組み、諦めたように真貴を見つめる。 「良くも悪くも、本当に、関心のないことにはちっとも構わないんだね。ひどくアンバランスだ」 それを聞いて、真貴はズキッと胸が痛んだ。家族からたびたび言われてきたことと同じだ。 「講義中のきみと普段のきみなんて、まるで別人だよ。ギャップがありすぎる。なんだか、ようやく深沢が理解できた気分だ」 しかしそれには焦った。片山は『深沢』と言って、広人を引き合いに出してきた。 「な、なんで広人?」 「今も一緒に住んでるんだろ? 深沢を見直したくなるよ」 それって……。 つまり、片山にも自分が広人に世話をかけているように見えるのだろう。 真貴は悲しくなる。数学に関わる何かに気を取られると、そうではないことを忘れてしまうのは日常茶飯事だ。つい先ほどを思い返しても当てはまる。 広人のこと考えてたのに3DCGのことに変わっちゃうなんて……ボクには広人も大切なのに。 「で? 最近やけに元気がないのは、なぜ? 講義中まで、ぼーっとしちゃって」 「――え?」 片山は悠長に椅子に座り直してから、苦笑した顔を真貴に向けた。 「さっき僕が話してたこと。心配してるのに」 「あ……」 今度は片山に対して申し訳ない気持ちになる。うな垂れて、真貴は小さく息をついた。 ボクって……。 講義にも身が入らなくなっている理由は明らかだ。先日から、広人が妙によそよそしいのだ。 今日はここに来なかったし……ボクのこと、もう本当に嫌になっちゃったのかも――。 広人を煩わせてばかりだから。あんなことまでお願いして、困らせてしまったから。 『で、できない!』 声を上げて広人が感情をむき出しにするようなことは、それまでなかった。 『なんでって、これもセックスだから!』 広人……。 思い出し、真貴は涙がにじみそうになる。広人がそんなふうに考えていたとは、あのときまで少しもわかっていなかった。 『何もないのにするんじゃ、俺、真貴を襲おうとした男と同じになる』 ……そんなことないのに。あんな人たちと広人が同じだなんて、絶対違うのに。 さすがに自分でも調べてみたのだ。広人に体を洗ってもらい、その流れで気持ちよくしてもらうこともセックスだと当の広人に言われたのでは、もう無関心ではいられなかった。 そのときまで真貴が認識していた性交は、すなわち生殖活動であり、その行為に快感が伴うのは種の保存のため自然に仕組まれたからに過ぎないと納得していた。でなければ、特に発情期のない高等生物であるヒトは子孫を残そうとしないだろう。 『となると、今の世の中で子どものいる人たちは、性的快感に流されたことになるね』 どんなきっかけだったか、高校生のときに同級生と議論になった。 『それなら避妊をどう説明するわけ?』 それはヒトである以上、社会的制約があるからだと答えた。 『矛盾していない? 性交の目的は生殖に限られないと思うよ』 仮に性的快感を得られる満足が目的になるとしても、論点は、やはりそのメカニズムにあるのではないかと言ってみた。 『言いたいことはわかるけど。兄弟が多いのに、よくそんな結論に落ち着けるね』 その一言で物別れに終わり、あれ以来、性交に関する考察は真貴には避けて通ってきた道だ。そのうち現実に経験することになるかもしれないから、そのときになればわかると軽く受け止めていた。 だけど、そんなもんじゃなかった……。 手軽だからとネットサーフィンして、かえって混乱を極めたようになった。広義で捉えるなら広人が言ったとおりで、決して生殖に至らない行為もその範疇に含まれ、つまり、そのときになってやっと、どうして自分が同性でありながら男の性衝動の対象になりうるのか飲み込めたのだった。 だから……広人にしてもらうのもセックスなのはわかったけど――。 目的がどうであれ、行為そのものは同じであるのだから、やはりそうなるだろう。 男の人にあんなふうにされるの、ものすごく嫌だったのに、ボク……広人だと、ぜんぜん嫌じゃない。 それどころか、広人にされるならとても気持ちがよくて、自分から広人にしてもらいたいと願ってしまったくらいだ。 あれって……本当にセックスなのかな。 「あの――」 真貴はおずおずと顔を上げた。片山は待ちくたびれたように目を合わせてきた。 「片山くんって、セックスしたことある?」 「はぁっ?」 ズルッとテーブルに前のめりになって、片山はぽかんと真貴を見る。片山とは思えないリアクションに真貴は怯むのだが、追い討ちをかけられるように鋭く睨まれてしまった。 「それって、どういう質問? 僕が童貞か知りたいってこと?」 凍りつきそうな声を聞かされ、途端に慌てふためく。 「ち、違う! セックスって実際にはどんなかとか、そういうこと知りたくて――」 口早に言えば、見る間に片山は醒めた顔になった。表情を整えると、呆れたように言い捨てる。 「そんなことは深沢に訊いてよね。一緒に住んでるくらいなんだし。それに、深沢のほうが親切に詳しく教えてくれるんじゃないの」 「え」 ムスッとそっぽを向いて片山は続ける。 「深沢って、それなりに経験ありそうだし。高校生のときとかモテたんじゃないの? 私服だとあんなだけど制服ならイケてそうだ」 そんなことは、真貴は一度も考えたことがない。広人はモテそうだとか、経験がありそうだとか。 そ、そうなのかな、広人……。 片山は、チラッと横目で視線を投げてくる。気づいて、真貴はギクッとする。 「元気がなかった理由って、まさかそれ?」 すぐには何も返せなくて、うつむいてしまった。もごもごと答える。 「その……間接的な、理由――?」 「深沢には訊けなくて、それで悩んでたって言いたいのか」 「そ、そう」 助けを得た気分で顔を上げた。だが片山の呆れたような眼差しは変わっていない。 「だから――え、と……気持ちよくしてもらうことも、セックスって……言う?」 「それって一方的に?」 軽く目を瞠られてしまい、真貴は首をすくめてうなずいた。 「それは違うでしょ。そういうのは奉仕されるにすぎない」 「奉仕――?」 片山は普段の余裕ある態度に戻って言う。 「そう、セックスは交歓だからね、ギブ・アンド・テイクが基本だ。双方が気持ちよくなるんじゃなきゃ、セックスとは言えないよ」 「ギブ・アンド・テイク……」 「そうだよ。相手が少しもよくないどころか、嫌がるのに無理を通すなら、そんなの、強姦と大して変わらないんじゃないの」 それじゃ――。 広人とのことを思い返し、真貴は青くなってくる。 「セックスにどんな幻想を抱いていたのか知らないけど、奉仕された分だけ奉仕できないなら相手に失礼だから。覚えておくといい」 「あ、ありがとう……」 反射的に返せただけで、とっくに上の空になっていた。 「それにしても、きみの口からそんな質問を聞かされるなんて、意外すぎだよ」 きみには驚かされてばかりだ――片山が続けて何か言っているが、もう真貴には聞こえていない。 ――どうしよう。 ひとつのことで頭がいっぱいになっている。 ボク……広人を一度も気持ちよくしてない。 救いを求めるように、そっと片山に目を向けた。 片山は冷めたレモンティーを飲んでいた。余裕ある態度、幼さを残しながらも怜悧な横顔、身だしなみはいつもと変わりなくこぎれいで、体格は同じようなのに、自分とはかけ離れて優雅ささえ漂わせている。 『そんなの、強姦と大して変わらないんじゃないの』 ショックだった。 進学塾の講師のアルバイトは、月、水、金の週に三日で、真貴は中学生の特進クラスの数学を受け持っている。夏期講習、冬期講習、正月特訓、春期講習と、大学の休暇中も出て行かなくてはならないが、これ以上自分に適したアルバイトはないと思う。 何にも煩わされずに好きな数学に没頭していられるならそれが一番いいとしても、アルバイトをしたり、友人を作ったり、友人と交流したりすることも必要に思える。『変わっている』と言われることに抵抗はないが、なるべくなら言われないほうがいい。 『男の子は手がかからなくていいと思っていたけど、真貴ちゃんがお兄ちゃんたちみたいにならなかったのは、お母さんのせい?』 真剣な顔で、それでいて少し悲しそうな顔で、かつて母親に言われた。そのことが今も胸の隅に残っている。 『大人になれば誰だってひとりで生きていくの。真貴ちゃんも生活力をつけなくちゃ。真貴ちゃんはもう、研究者みたいな仕事しかできないに決まってるんだから、どうにか大学院にも行かせてあげる。だから真貴ちゃんも普通に働いていける人になって』 つまり社会に適応しようと自ら心がけろと、暗に言われたのだと受け取った。 だけど、ボクって……。 大学から帰ってすぐに自室のベッドに体を投げ出し、真貴は深い息を吐く。広人はいない。広人の家庭教師のアルバイトは毎日で、木曜日の今日は小学生の家に行ったはずだ。 日が暮れて暗くなってきているが、明かりをつける気にもなれなかった。昼に学食で片山と話したことが頭に浮かんでくる。 『自分が数学科内でどう見られてるかも、わかってないの?』 また、ため息が出た。数学科内に限らず、他人の目に自分がどう映っているかなど、それこそ他人に促されなければ考えてみようともしてこなかった。 こんなふうに落ち込んだときは、どうしても兄弟と自分を比べてしまう。同じ家に育ったのに、自分だけが違うと思える。 長兄の雄貴も次兄の晃貴も、既に社会人だ。晃貴はとっくに家を出て、雄貴はまだ親元にいるが、家にちゃんと生活費を入れている。 妹のるりとは年子だからか、物心つく頃には親はるりにかかりきりになっていた。幼い頃から好きなことに没頭してこられたのは、そのせいもあったのではないかと考える。 『うちのオヤは女の子欲しがってたからなー。じゃなきゃ、四人も産まないだろ』 いつだったか晃貴が言っていた。 『おまえがマキなんて名前になったのも、そのせいなんじゃねえの?』 軽口でほのめかされて少し傷ついた。 同級生に『オンナみてぇ』とからかわれることは、小学生のときによくあった。名前だけでなく、容姿や態度を指してもそう言われた。特に気にならなかったが、気にならないなんて普通じゃないと言われたことが気になった。 でも――。 わかっていても自分ではなかなかできないことがあるのだ。普通にしろと言われて普通にしようとしなければ普通にできないなら、何が普通なのかもわからなくなる。 『そんなの、強姦と大して変わらないんじゃないの』 「うわ〜……っ」 いきなり片山の声が脳裏に響き、真貴は枕に突っ伏した。世間とずれている自覚はあったが、まさかそんなことまで聞かされるほどだったとは。 ……どうしよう。 『俺、真貴を襲おうとした男と同じになる』 広人のその言葉を借りるなら、自分のほうこそ、自分を襲おうとした男と同じだ。 広人……本当は嫌だったんだから――。 『で、できない!』 あの場になって断られ、その瞬間はどんな感情が湧くよりも先に、意外でならなかった。 『なん、で……』 思わず訊いてしまったのは、そのせいだ。 『なんでって、これもセックスだから!』 「うっ」 声を詰まらせ、真貴は枕にしがみつく。意識して深く息を吸い、ゆっくりと吐く。 ……広人。 妙によそよそしくなったのは、あの翌日からだ。取り立てて何が変わったわけではないが、そう感じられる。 怒ってないって言ったけど……あのときもやさしかったけど。 避けられている。昼に学食で会えなかったことが、その証拠に思えてくる。 ……約束してたわけじゃないけど。 悲しくて胸がいっぱいになった。広人は朝も慌しく先に出て行った。どんな気持ちでいても、待っていれば広人はそのうち帰るが、今は顔を合わせるのが恐いようにも思える。 ボク……ずるいよね。 広人の世話になるばかりで何も返してこなかった。心配をかけてきた上に嫌なことまでさせてきた。 ボクが気持ちいいからって、もっとしてほしいだなんて――それじゃ、ボクのこと嫌になってもしょうがないよね……。 小さく息をつき、真貴は枕にしがみついていた手をそっと胸元に置いた。力が抜けて、スッとすべり落ちる。 「……あ」 広人にされたときと同じ感覚が走った。大きな手、筋張って温かな手――吐息があふれる。 広人は……別だよ。 誰とも違う。あのようなことも、広人にされるなら気持ちがいい。自分でするよりも、ずっと。 身をよじり、真貴は胸をまさぐる。広人にされたように、そこにある粒をつまんだ。Tシャツの裾から手をもぐらせる。 「は、あ……」 じかに触れば硬くなって尖った。そこからにじみ出るように快感が広がっていく。 『そういうことは自分でするんだ』 「……うん」 広人に言われたことを思い出し、誰もいない部屋のベッドで真貴はこくんとうなずいた。 ……こういうことは、自分でする。だから、広人、前みたいに戻って――。 話しかけて無視されるわけではない。風呂の用意も食事の支度も、今までと変わりなくしてくれている。 だけど感じてしまうのだ。今までとは違う妙なよそよそしさ――目が合いそうになるとそらして……そう、そらしている。自分を見ようとしてくれない、広人の視線が少しも感じられない。 いつだって……見て、くれて、いたのに。 「あっ」 ズクッと股間が響いた。 あのとき裸の背中に感じた広人の視線――一緒に入った風呂場で、できないと言われて仕方なく自分でしたとき、ずっと感じていた。 ……今も見てくれてたらいいのに。 「――ん、ふ」 鼓動が速まる、息が上がる、胸が熱くなる。 広人はまだ帰らない。ふたりで暮らすアパートは、しんと静かだ。 「は」 真貴は自分の唇からもれる声を聞く。たどたどしくジーンズの前を開いて手を挿し入れ、指を絡めて、すっかり起ち上がっている自身を知る。 「ひ、ろと」 顔が火照る。息を継ぐのも苦しくなる。 『いい? 真貴――』 広人にされたときのことを思った。汚された体を風呂場で洗い流してくれたあと、背後から回してきた手でやわらかくつかんで、それから、きゅっと強く握って、ゆっくりと扱き始めた。 「ん、広人……」 『何も気にしなくていい』 そう言ってくれた。広人はやさしいから。酷い目に遭って汚されてかわいそうだと、体の中まで洗ってくれた。 「は、あ……」 あのときの感覚がよみがえる。狭い器官を広人の長い指が行ったり来たりする感触――全身がざわめいてくる。 「な、んで……ボク……」 広人の指先に教えられた箇所が疼く。今もそこに触れて、強くこすってほしいと体が叫び出す。 ……してほしいよ、広人。ボク、広人にしてもらいたい――。 「あ、あ、あ」 せつない快感にくらみ、真貴は目を開いた。薄闇の漂う部屋が映った。瞳が潤んでいる。手の動きが速まり、広人のやり方をなぞって急激に昂ぶっていく。 イっちゃう……。 『いいよ、イっちゃいな』 ――広人! 『いいんだよ、真貴なんだから』 広人、広人、ひろと! 『しょうがないな』 折に触れ、何度も言われた。そう言われるのが心地よかった。言われるたびにホッとして、冷えて固まりかけていた心が温かく溶け出していくのを感じた。 また言って、広人――しょうがないな、って……。 「う……っ、う、う……」 絶頂に駆け上り、射精の快感に呑まれるのに、真貴は涙をこぼしていた。 気持ちいいのに、気持ちよくない。広人にされるほうが、ずっといい。やっぱり広人にしてもらいたい。 「ひろと……」 湿った息と共に、声になってこぼれた。濡れた手もそのままに、真貴は体を丸めて身じろぎひとつしない。体が次第に冷めていく。 『しょうがないな』 ぎゅっと目を閉じれば、涙が粒になって落ちた。あの響きが恋しくてならない。あの温かな響きを今聞きたい。あの一言で、広人は何でも許してくれて――。 「あ」 ボク……。 何かに思い当たりそうになったそのとき、部屋の外でかすかな音がした。 「――真貴?」 広人! 「いない? 開けるよ」 答える間もなく、カラッと引き戸が開いた。光がスッと射し込んでくる。足の先から真貴を照らした。 「あ――ごめん、真貴。いないかと思って。窓が暗かったから……具合が悪いのか?」 広人は気づかうように声をかけてきたが、戸口から中へは入ってこない。 「違う、大丈夫」 ベッドの上で、さらに丸く縮こまって真貴は答えた。 「けど、こんな時間に真貴が寝てるなんて――寝るなら、ちゃんと蒲団に入らないと」 「違うんだ、広人」 小声で言い放ち、顔を上げて広人に向けた。広人は逆光の陰にいて、呆然となったように言う。 「真貴……なんで泣いて……」 だが、足を動かす様子はない。真貴は余計に泣けてしまいそうで、慌てて枕に顔を戻した。 ――今までだったら、ここまで、すぐ来てくれたのに。 「ボク……自分でしてたんだ」 「え」 「自分でしろって広人が言ったから、広人が、もうできないって言ったから」 枕に向かって言い捨てた。 「真貴」 こんなふうに言っては確実に広人に嫌われる。そう思うのに、真貴は止まらない。胸を詰まらせていた思いを吐き出す。 「でも、広人にしてもらったほうが、ずっといい。ボク、広人にしてほしい」 「……真貴」 広人は戸惑った声で繰り返し呼ぶだけだ。 「広人、お願い。また、ボクにして。ボクも広人にするから」 言い切った勢いで真貴は広人に振り向いた。 「なに言って――」 「あんなふうにするのもセックスだって広人が言うなら、ボクもちゃんとするから。そうじゃなかったら、強姦と変わらないって……」 「そんなこと、誰が言った!」 「か、片山くん――」 きつく問われ、真貴は反射的に返していた。ハッとして言い繕う。 「教えてもらったんだ、セックスは交歓だ、って。一方的に気持ちよくなるんじゃ相手に奉仕させているだけで、そんなのは……強姦と大して変わらない、って」 「なんで……」 うめくようにもらし、広人は顔を背けた。 「ったく、片山、余計なことを」 忌々しそうにつぶやき、真貴に向き直る。 「だとしても、真貴。わかって言ってる?」 きっぱりと尋ねられ、真貴は返答に詰まった。広人の質問の意図がわからない。 「おまえ……マジに俺とセックスしたい、って言ったことになるけど?」 「あ」 真貴は息を飲んで広人を見つめる。だが、逆光の陰になっていて表情がわからない。ただ、メガネをかけた顔がまっすぐに自分に向けられている。 「広人が……広人が言ったんじゃない」 口を開いたら、掠れた声が出てきた。 「今までしてきたこともセックスだ、って」 戸口に立つ、背の高いシルエットが揺れた。 「――俺のせいかよ」 「違う、そうじゃない! ……でも!」 「真貴」 低く忍び寄るような声が響いた。真貴は大きく目を瞠る。広人が、ゆっくりと近づいてくる。 「片山から、どんなふうに聞いたか知らないけど」 ベッドの横に立ち、真貴を見下ろしてきた。 「セックスは交歓だなんて――そんなこと、本気で信じるわけ?」 「……広人」 真貴は圧倒される。声が続かなくなる。広人は顔半分だけ照らされていて、その表情はひどく真剣に真貴の目に映った。 「真貴」 吐息混じりの声を落とし、広人は静かに身をかがめてくる。真貴の顔を挟んでベッドに両手をついた。膝も片方だけ乗せてくる。 「ひ、ろと……?」 マットレスが沈むのを感じ、真貴の鼓動は一段高く鳴った。目の前が広人でおおわれる。広い胸で視界が閉ざされる。筋張った手に顎を捕らえられた。ぐいっと上向かされる。 「――あ」 広人の顔を間近で見て、真貴は声が出ない。 こんな目……広人のこんな目、初めて――。 「恐いだろ」 ひっそりと問われ、ゾクッとする感覚が背筋を走った。唇から深い吐息がもれる。 「こんなふうに、男に襲われそうになってきたんだろ? 何度も」 広人は極めて冷静に言う。 「俺が恐くないはずがない。俺も、男なんだから」 ひたりと真貴と視線を合わせた。 真貴は体中がさざめき立つのを感じる。さざめいて、震え出しそうになるのをこらえる。 「ひろ、と」 かすかに喘いだ。鼓動は、とっくに駆け出している。胸が苦しくて、息も継げないほどで、しかしそれは広人に顎をつかまれているせいではない。 「……わかっただろ? 俺も真貴を襲おうとした男と同じだ。勘違いしちゃいけな――」 「ち、違う!」 驚いて、咄嗟に言い放った。 「真貴――」 「広人は違う」 「なんで。なんで、わからな――」 「恐くないんだ、広人なら。今だって、ぜんぜん恐くない!」 「……真貴」 まっすぐに広人の目を見上げた。顎をつかむ手から弱々しく力が抜ける。離れていきそうなその手を真貴はしっかり押さえた。 「今わかった。ボクが、そうしてほしいから! してほしいよ広人、少しも恐くなんかない。嫌なんだ、やさしくても広人が離れていくのは。一緒に暮らしているのに、淋しくなるのは嫌――」 涙があふれてきて、頬を伝って広人の手を濡らす。 「真貴、なに言って……」 広人の眼差しが頼りなく揺れるのを見ても、真貴はひたすら言い募る。 「嫌なんだよ……もう。ボクがいけないのはわかっているけど、距離をおかれるのは嫌だ。もっとそばにいてほしい、ボクのこと、見ていてほしい」 「見てるし! 一緒に住んでるのに、もっとそばにいてほしいって」 目に見えて広人は動揺する。だが真貴は、さらに畳み込むように言う。 「今日の昼、来てくれなかった!」 「あれは」 「嫌だ、淋しくなりたくない!」 言い切って、広人の手を頬にすべらせた。 「ば、バカ!」 広人は手を引っ込めようとするが、真貴は放さない。 「なんで、こんなこと――俺は、真貴が大切なのに! ずっと大切にしてきたのに!」 「ボクだって広人が大切だ!」 「やめてくれ!」 真貴の手を振り払い、広人は慌しくベッドを降りた。 「だから、どこまでわかって言うんだ!」 背を見せて、床に向かって吐き捨てる。 「俺に、真貴を穢せるわけ、ないだろ!」 「……広人?」 「だから……俺は真貴が大切なんだ――」 広い肩が、がっくりと落ちた。 穢す、って……なに? 広人の言った意味がわからなくて、真貴はうろたえた。広人は打ちひしがれたように、まだそこにいる。尋ねることはできる。尋ねていいのか真貴は迷う。迷うが、ここで保留にしては、いっそう気まずくなったままだと思う。 「広人……穢すって、どうして?」 「あたりまえだろ!」 叫んで振り向かれ、真貴はビクッと縮こまった。 「気持ちよくなりたいからって、それだけの理由でセックスするって、どうなんだよ! 交歓だって? ふざけんな! そんなの、性欲処理に相手を利用しあうだけだ。ふたりして気持ちよくなれるなら、誰が相手でもいいのかよ!」 「ち、違う!」 上ずって真貴は叫び返した。 「誰でもよくなんかない! ボクは、広人じゃなきゃ――」 「それだって、気持ちいいからなんだろ!」 「広人!」 呼び止めても、広人は足早に戸口に向かった。引き戸に手をかけ、ふと足を止める。 「真貴」 ためらうように呼んで、チラッとだけ視線を寄越した。 「ケータイの電源……講義が終わったら入れろよ。いつも言ってるだろ?」 「あ――」 広人は真貴の視界から消える。閉められなかった引き戸の向こうに、真貴は呆然と狭いダイニングキッチンを見る。 ボク……。 唇を噛み、気持ちを奮い立たせて手を伸ばした。床に置いてあったバッグの中を探る。ケータイを取り出して開く。 広人――許して……! 着信メールが一件あった。送信者は広人で、送信時刻は今日の午前だった。 《ごめん、今日の昼はプログラミング演習の準備で行けない》 バタッと真貴はベッドに倒れる。仰向けになって見つめる天井が、じわっと歪んだ。 ボク……どうしちゃったんだろう……広人に何をしちゃったんだろう――。 ただ悲しくて、どうにも悲しくて、あふれ出る涙に任せ、頬を濡らし続けた。 もう、何も考えられそうにない。何を考えても、わかることなどないように思えた。 つづく ◆作品一覧に戻る |