Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    もっと危ないキミになる


     必修専門科目の『数学研究T』が講義時間を二十分も残して唐突に終わったときだった。講師が教壇を離れるのも待ちきれない様子で片山が話しかけてきた。
    「ちょっと」
     前の席から体を捻じ曲げて振り向き、机に片肘をつく。
    「そっち、どうなってるわけ?」
     迫る勢いで広人を睨み上げた。
    「どう、って」
     ムッとして問い返したのは、単に鬱陶しいからにほかならない。何を訊かれたかくらい、広人はわかっている。真貴のことだ。
    「あれ、きみのせいでしょ?」
     片山はわざとらしく顎をしゃくって、机に突っ伏す真貴を指した。
    「あんな離れた席に座っちゃって。今までずっときみの隣だったのに」
     真貴の細い背中からはぐったりと力が抜け、見るからに疲れきっている。講義に集中するのに、よほど気を張っていたようだ。
    「同居人としての責任とか、感じない?」
    「なんで」
    「とぼけるつもり? 支倉が最近おかしいの、自分のせいだとは思わないわけ?」
     片山の自分を責める口調にカチンときた。広人は机の上のものをバッグに戻しながら、不機嫌な声を出す。
    「俺も言いたいことあったんだ。場所、変えよう」
     真貴に声をかけることもなく、片山と連れ立って手近なラウンジに移る。理学部棟一階のエントランスは広く、飲み物の自動販売機が備えられていて、ところどころにスツールが並んでいる。そのひとつに広人が先に腰を下ろした。片山も硬い面持ちで隣に座る。まだ講義中の時間のせいか、ほかに学生は離れたところに数人いるだけだった。
    「四月から様子が変わったように思えてたけど、おかしくなったと感じたのはゴールデンウィークが過ぎてからだ。決定的だったのは、先週。きみが原因らしいと、支倉から聞いた」
     空々しい口調で言われ、広人は醒めた気分になる。
    「真貴がそう言ったのか?」
    「きみに相談したいことがあるのに言い出せなくて悩んでるみたいだった――セックスについて訊きたかったんだってさ。呆れたよ。きみたちがどうなってるのか、マジ聞かせてほしいね」
    「真貴を心配して言うわけ? 片山って、真貴をそんなに気にかけてるんだ?」
     誰とだって一線を引いてるくせに――片山は人当たりがよくて社交的だが、誰にも本心を明かすことはないと広人は踏んでいる。真貴を気遣うようなそぶりを見せても、純粋な気持ちからなのか疑わしい。
    「くだらないな。子どもじみてる。そういうことじゃないだろ? きみだって同じ考えじゃないのか? 支倉は、僕が唯一認めるライバルなんだ。つまらないことで自滅されたんじゃ、我慢できないんだよ」
    「すばらしい論理だな」
    「はぐらかすなよ。支倉がアンバランスなの、知ってて同居してるんだろ? 違うとは言わせないよ」
     念を押すように広人の目をじっと見て、すっと片山は立ち上がった。自販機に歩み寄り、小銭を取り出す。
    「だから俺の責任だと言うのか」
     広人も立ち上がり、片山に続いて自販機にコインを入れた。缶コーヒーのボタンを押しながら呆れて言う。
    「真貴をしっかり管理しろ、とでも?」
     太い黒フレームのメガネの奥から、冷ややかに片山を見下ろした。片山は少しも怯むことなく、まっすぐに視線を合わせてくる。
    「実際、世話を焼いてるんだろ? それも、かいがいしいほどに。きみと同居してから、支倉の世界はきみが中心だ。数学の話以外は、すべてきみの話。うんざりだよ」
    「うんざり――か。なるほど」
     元の場所に戻り、また並んで座る。何も言うことなく、ボトル入りのストレートティーをあおるように飲む片山を横目で見つめながら、広人も缶コーヒーを飲んだ。
    「俺もうんざりだな。四月から真貴をいろんなところに連れ回して、どういうつもりだ?」
    「きみが中心だなんておかしいんだよ。支倉を囲い込むな」
    「やっぱり、そういうことか」
    「ちょっと! わかって言ってる?」
     ギッと片山が睨みつけてきた。場違いにも、広人は毛を逆立てたペルシャ猫が思い浮かぶ。
    「支倉は僕が唯一認めたライバルなんだよ? 今後の数学界に貢献する可能性を想定するなら、きみが世界の中心になってるようじゃダメなんだ。支倉はあんなだから世話をすること自体は歓迎だけど、行き過ぎて支倉の自我を脅かしてるようなら感心できない」
    「なんだって?」
    「きみは支倉に仕えてればいい、って言ってる。崇拝してるんだし」
    「片山――」
     フンと鼻で笑う片山を見つめ、広人はぎゅっと強く手の中の缶を握りしめた。
    「恒星はきみじゃない。支倉だ」
     確かに――確かに、その比喩は妥当だろう。広人も真貴を片山と同じように評価している。真貴と同居を始めたのも真貴の頭脳に心酔したからで、何事にも煩わされずに勉学に励める環境を用意してやりたいと思ったからだ。
     で、俺は惑星か。真貴を中心に回る――。
     侮蔑に甘んじるのは厭わない。しかし片山に言ってやりたかった。
    「本気でそう思ってるなら、もっと慎重に気を遣えよ。真貴がアンバランスなのを認めてるなら、既成の価値観を押しつけたりするな」
    「どうして? 補完は必要だろ?」
    「統合的じゃないんだよ! つぎはぎだらけになって、余計にバランスを欠く!」
    「……何様のつもり?」
     広人に注ぐ眼差しを翳らせ、片山は冷ややかに呟いた。
    「僕を指導するの? と言うより、支倉を教育し直してるんだ? 統合的に、きみがね」
     くすっと笑って、ボトルを口につけた。呆れたように一口飲む。
    「支倉はきみとの同居を解消したほうがよさそうだな。きみたちがどうなってるのか、聞いてよかったよ」
    「まだ話は終わってない」
     席を立ちかけた片山を広人は硬い声で止めた。ため息をついて座り直す片山に手を出したくなる衝動をぐっと堪える。
    「おかしなことを真貴に吹き込むな」
    「なんの話?」
    「セックスは交歓だなんて、おまえの持論だ」
    「ああ、あれね。なんだ、結局きみに話したんだ」
     気のない様子で言って、さらりとした髪を指で梳き上げながら片山は目を合わせてくる。
    「一般論の範疇だと思うけど?」
    「一般論なものか! 体感を先行させるようなこと、真貴に言うなよ! 真貴は――」
     恋愛すら未経験なんだから、と続けそうになり、広人はハッとした。
    「真貴は、なに?」
    「……いや」
    「なんだよ、言えばいいじゃない。話はまだ終わってないんだろ?」
    「待ってくれ――」
     本当に、そうなのだろうか。真貴は恋愛すら未経験なのか――。
    「自分だけが支倉を理解できてるつもりみたいだね。なんだか、失望させられたよ。きみは支倉のサポートに最適に思えてたけど、実は役不足だったってことだ。セックスに関してもそうだけど、気軽にくだらない話もできないような同居なら、なおさら解消したほうがいいんじゃないの?」
     手の中のコーヒー缶をじっと見つめる広人を片山は横から覗き込んできた。
    「それとも単に、きみが童貞なだけ?」
    「余計なお世話だ」
    「セックスが交歓であることを理解できないようじゃ、童貞と変わらないよ」
     顔を向けて睨む広人と鼻を突き合わせるほどの近さで片山は笑った。
    「意外だな、きみはモテそうに思ってたのに」
    「片山――」
    「おい!」
     タイミングを計ったかのように、背後から声が降ってきた。
    「おまえら、いいかげんにしろよ」
     振り向いた広人の目に、呆れた顔で突っ立っている三浦が映った。気づけば、ラウンジには学生が増えている。話し込んでいるうちに講義終了時刻を過ぎたようだ。
     三浦は長身をかがめ、広人に耳打ちするように言う。
    「さっきからセックスだとか童貞だとか、丸聞こえだぞ。場所、わきまえろっての」
    「品がないな。こっちは真面目に話してたんだ。そんな単語に過剰反応するほうが恥だよ」
     広人より先に、片山が冷たく返した。
    「誰だよコイツ――あ」
     片山に目を移し、三浦はギョッとした顔になった。片山は不愉快そうに眉を寄せる。
    「コイツ、赤いフィアットの――」
    「それが何か? 数学科じゃ見ない顔だけど、深沢、つきあう相手は選んだほうがいい」
     つんと言って、流れる動作で立ち上がった
    「悪いね。このあとも講義なんだ。じゃ」
     広人の声も待たずに離れていった。
    「今のヤツ、数学科なのか?」
     片山を見送るようにして三浦が怪訝そうに呟く。
    「そう」
    「やっぱ数学科って変人ばっかだな」
    「俺も含めて?」
    「そうじゃん」
     別段、広人に異論はなかった。飲みかけの缶コーヒーを空にして席を立つ。自販機の横のゴミ箱に捨てて三浦に振り向いたら、その後方に立っている真貴に目が留まった。
     いつから――。
     視線が合った途端、くるりと背を向ける。そのまま、とぼとぼと外に出ていった。
    「深沢。俺たちも行こうぜ」
     次の『情報数学特別講義T』は数理情報学科の三浦も履修している。
    「――ああ」
     真貴が気になったが、広人は三浦に並んでラウンジを後にした。
    「にしても、さっきの話、何だよ?」
    「え」
     四階の教室に向かいながら三浦が言う。
    「立ち聞きしたんじゃねえぞ、聞こえたんだ。セックスは交歓だとかなんだとか……やっぱ数学科は変人と言うか、呆れた」
    「――なんで」
    「そんなことまで定義づけすんのかよ、おまえら。んなもん、本能と言うか勢いと言うか、理屈で説明することじゃないだろ?」
     広人は、じっと三浦の横顔を見てしまう。手提げと呼んだほうがいいような布製のバッグを肩に引っ掛けるように持って、猫背気味の背を余計に丸めてダラダラと歩いている。長めの茶色い髪がふわふわと揺れるたびに、小さなピアスが見え隠れする。
    「……なんだよ」
     何も言わない広人が気になったのか、じっと見つめる視線に気づいたのか、顔を向けてきた。
    「べつに――」
    「べつにって、なんだよ?」
    「おまえがそんな……情緒的なこと言うとは思わなかったから」
    「なにそれ?」
     プッと三浦は吹き出す。おかしそうに、喉の奥で笑った。
    「情緒的かよ? つか、普通じゃね?」
    「そうだな」
    「そうだな、って……」
     いきなり、バンと広人の背中を叩いた。
    「おまえ、いろいろ頭で考えすぎなんだよー。好きなら好き、したいならしたい、気持ちはそれでいいじゃん? あとは理性で抑えるにしてもさー」
    「わかってる」
    「ってさ。おまえ、もしかして好きなヤツできた? 誰? 俺も知ってる相手?」
     一瞬、広人は返答に詰まった。
    「そういうわけじゃないけど――」
    「なんだよー。なら、なおさら頭で考えてるだけじゃん。ったく、ガッカリさせんなよ。おまえみたいなお堅いヤツがどんな相手好きになるのか、興味あんのに」
    「……興味かよ」
    「興味だよ。好きな相手にどんな顔すんのか、おまえでも赤くなったりすんのか、見てみたいじゃん。おまえなんて、怒ってても表情変えないんだし」
     何も返す言葉がなく、広人は顔を伏せて中指でメガネを押し上げた。
    「って言うか。さっきのアイツ。数学科のくせに軽いよな。おまえとは真逆」
    「え?」
     軽く目を瞠り、広人は三浦を見る。
    「知らない? 赤いフィアット」
    「片山の車?」
    「違うよ、東門に来る『お迎え』の車。派手に美人なお姉さんが乗ってきてさ、最初見たときはなんでこんなとこにとか思ったけど、アイツ乗り込むとこ見ちゃって。情報科じゃ、ちょっとした話題よ? アイツ誰だ、って。まさか数学科だったとはねー。ビックリ」
     広人には関心の湧かない話題だ。ただ片山にそのような交際相手がいるなら、セックスを交歓と言うのも納得できるような気がした。
     年上の女性と体先行のつきあいか――。
     なんとなく、虚しい気分になる。
    「おまえさー」
    「ん?」
    「なんか元気なくない? こういう話に食いつき悪いのはいつもだけど、聞き流してるって言うより、落ち込んでるみたい」
     広人はギョッとしてしまう。それが顔に出たかと内心で焦った。
    「べつに」
    「そう?」
     自分を見る三浦の目が疑わしそうに感じられ、居心地が悪くなる。しかし三浦は、それ以上何も言わずに先に教室に入っていった。後に続き、広人も席に着く。数理情報学科の友人に呼ばれて席を移る三浦を横目に見て、小さくため息をついた。
     落ち込んで……いるよ。
     このところ真貴との距離を測りかねている。どう接すればいいのかわからなくなっている。
     さきほどの講義では一緒になるのに、真貴は時間ギリギリに教室にやってきて、自分を避けるようにずっと後ろの席に着いた。
     ――いつもは一番前の席に座りたがるのに。
     先にいた自分を見て、あえて二列目に席を取ったとでも思ったのだろうか。ならば、自分こそが真貴を避けたことになってしまう。
     そういうつもりじゃなかったけど……そういうつもりだったのかも。
     自分の感情がはっきりわからないなど、広人には珍しいことだ。戸惑いが大きくなる。
     こんなときに隣に来られたら……息苦しい。
     先週の木曜日の夜、アルバイトから帰ったら、アパート二階の自宅部分の窓は真っ暗で、真貴は暗闇にひそむようにしてベッドで丸くなって泣いていた。あの状況で真貴の口から明確に自分とセックスしたいと聞かされて、ひどくショックだった。
    『なんで、こんなこと――俺は、真貴が大切なのに! ずっと大切にしてきたのに!』
     あのあとの土日をふたりで自宅にいて過ごすのは苦痛だった。普段の週末と同じように三度の食事は一緒に取ったが会話も少なく、ほかの時間は自室にこもってもいられなくなって、日曜日は用もないのに適当に外出して午後を丸々つぶしてきた。
     真貴が、自分の顔色をうかがっているようなのが嫌なのだ。
     俺にだけじゃなく……誰にだって無関心だったのに――。
     真貴は他人に興味を示さない。他人から向けられる好意や悪意などのもろもろの感情は、察知してきちんと受け止めるが、自分から他人に感情を向けることはないに等しかった。
     良くも悪くも人づきあいにおいて、真貴は常に受け身だ。
     だから、安心してこれたのに。
     ふと思って、広人はギクッとする。
     安心って……なんで。
     あの晩、泣き濡れた顔で真貴が放った言葉が思い出され、急に胸が苦しくなった。
    『ボクだって広人が大切だ!』
    『誰でもよくなんかない! ボクは、広人じゃなきゃ――』
     なんで。数学にしか興味なかったのに。
     そもそも数学が介在しなかったら、自分など真貴の眼中に入ることさえなかったと思う。当然、今の関係など成立し得なかったはずだ。
     なのに、俺にあんなこと言ったなんて――。
    『支倉はきみとの同居を解消したほうがよさそうだな』
    『行き過ぎて支倉の自我を脅かしてるようなら感心できない』
     ……そういうことなのか?
     そうかもしれない。自分との同居が真貴に影響しているのかもしれない。それも、おかしな方向へ――。
     片山の意見に耳を貸す気になど到底なれないと思っていたが、こうして自分の内心に向き合ってみれば、的確な意見を聞かされたと思えてくる。
     そう……だよな。俺は――真貴に欲情したんだから。
     真貴との距離を測りかねているのも、その情動から逃れるためであるのは、もう明らかだった。どんなに無意識にしてきたことでも、気づいてしまったら無視しきれない。
     真貴を穢したくなんかないのに……真貴が大切なのに。守ってあげたくて同居したのに。好きなだけ数学に打ち込めるようにしてあげたいと思ってきたのに――尊敬してたのに。
     日焼けを知らない、あの白く細い体をベッドに組み敷き、快感に震わせ、愉悦に泣かせて甘く溶かしてみたいと本気で思った。
     先週の――あの夜に。


     五時限目の『情報数学特別講義T』が終わるとすぐに、広人は大学を出た足で家庭教師のアルバイト先の家に行った。火曜日の今日は中学生を教えている。二時間みっちり受験勉強につきあっている間はそうでもなかったのに、帰宅の途につくと、ラウンジで見かけた真貴の姿が思い出されて頭から離れなくなっていった。
     目が合った途端に背を見せて淋しそうに立ち去った姿が、今になって胸に迫ってくる。
     追ったほうがよかったのか――。
     だがあのときは三浦がいたし、五時限目に遅れたくなかったし、それ以前に追ってどうなるものでもなかったと自分に言い訳した。
     重い気持ちのままアパートに着けば、見上げる二階の自宅部分の窓は明るかった。真貴は塾のアルバイトのない日だから、やはりもう帰っているようだ。ため息をひとつ落とし、広人は外づけの階段を上る。
    「ただいま」
     鍵をあけて玄関に入ると、意識して習慣を崩さずにそう言った。
    「おかえり」
     真貴の声が小さく聞こえ、これもいつもどおりに手を洗いに洗面所に入って、足が止まった。
    「……何してるんだ?」
     風呂場のドアが開いていて、中にいる真貴が見える。自室にいるとばかり思っていたから少し驚いた。服を着たままうずくまっているのは、どうも掃除をしているようなのだが、洗い場がとんでもなく泡だらけだ。か細い声が返ってくる。
    「掃除……」
    「わかるけど、なんで」
    「――ごめん」
     なぜ謝るのか訊き返しそうになって、広人は声を飲み込んだ。
    「……しょうがないな」
     いったいどんなつもりで真貴が風呂掃除を始めたのかわからない。だが、何かの弾みで洗剤をぶちまけたらしいことはわかった。
    「手伝うから。少し横にどいて」
    「ひろとぉ」
     情けない声を出して真貴が見上げてくる。広人は裸足になって真貴の隣にかがんだ。
    「ボク――」
    「いいよ、気にしなくて。やっちゃったことは仕方ない」
    「でも」
    「顔にまで泡ついてる」
     つい、指先で真貴の頬を拭った。真貴が息を飲んで目を瞠る。間近でじっと見つめ合ってしまい、広人は急に胸が苦しくなった。慌てて手を引っ込めて口早に言う。
    「ブラシを使うから泡だらけになるんだ。こういうときは流すだけでいい」
     シャワーを取ろうとして真貴の手にあることに気づき、残り湯を使おうと浴槽のふたを開けたら既に新しい湯が張られていた。湯気が立つ。
    「貸して」
     ふたを戻すと、有無を言わさずに真貴からシャワーを奪い、これ以上泡が立たないように気を配りながら、広人は洗い場の隅から排水溝に向けて水を流していく。
    「広人、ごめん」
    「だから謝らなくていいって」
    「でも、ボク……」
    「しょうがないよ」
    「広人――」
     口ごもってうな垂れる真貴に、チラッと視線を流した。細い背中が目に入り、Tシャツの裾とズボンの尻がぐっしょりと濡れていることに気づく。
     滑って転んだか。
     ふうっと息を吐き、広人はおもむろに立ち上がった。
    「真貴。このまま風呂入っちゃえ。まだ少しぬるぬるするけど、入ってるうちにきれいになるだろ。もう、転ぶなよ」
    「え」
     戸惑うように真貴が目を上げてきたが、広人は顔を向けることもなく風呂場を出た。
     自室に入ってバッグを机に置いたら、またため息が出た。あのとき――片山とラウンジで話していたとき、真貴は何か聞いたのだろうか。三浦に聞こえていたのだから、きっとそうに違いない。
     風呂掃除なんて、ずいぶん前に一度か二度しただけなんだから。
     真貴が何を聞いてどう思って急に風呂掃除を始めたのか考えそうになって、やめた。そんなことを考える必要などなく、真貴は明らかに自分との同居に影響されている。
     と言うか、俺に気を遣ってる。
    「なんで、こうなっちゃたかな……」
     思ったことが口に出て、自分の耳に届いた。椅子を引いて座り、広人は天井を仰いで目を閉じる。
     真貴……。
     同居を始めてからこれまでのことを検分するかのように思い返した。つまずきと思えることに当たっては、そうではないと訂正する繰り返しになった。そうしているうちに、たった今目にした真貴の顔が浮かんでくる。頬についた泡を自分に拭われて、驚いたように見つめ返してきた顔――。
    「はぁ……」
     広人は思わず息をつく。じわりと胸が熱くなる。なぜと、自分に問うのもバカらしい。
     同居解消、か……。
     目を開き、じっと天井を見つめた。真貴は相変わらずだが、自分と同居するまでの一年半近くをひとりで暮らしていたのだから、そうなってもどうにかやっていくだろうと思う。
     危ない目に遭わないように用心することも覚えたんだし。
     むしろ自分といたほうが危ないと自嘲した。苦い笑いが込み上がり、広人は口元を歪める。
     でも、引っ越し先は探してやらないと――。
    「広人……聞いて」
     カタッとかすかな音がして、部屋の戸が開いた。広人はゆっくりと椅子を回し、目を向ける。髪もまだ濡れたままの真貴が、大判のバスタオルを羽織るだけの姿で立っていた。
    「ボク……ここにいたい」
     唐突に言われ、ギクッとする。
    「同居、解消にしないで」
     ――あのとき聞いたのは……それか。
    「だったら、ボクも何かしないとダメだと思って……でも、やっぱりうまくできなくて」
    「それで、風呂掃除?」
    「うん――」
     ぽつりとこぼし、真貴は気まずそうに目を伏せる。
    「広人、ごめんね。ボク、広人に手をかけさせるばっかりだ」
    「それは、しょうがないよ」
     途端にビクッとして、おずおずと顔を上げてきた。
    「そういうことは真貴の役割じゃないんだから。でも同居は――」
    「広人」
     こちらにじっと目を向けたまま部屋の中に入ってくる。広人は反射的に身を引いた。椅子の背に体を押しつけ、前に立った真貴を固く構えて凝視する。
     真貴――。
     しかし対峙するかのようだったのは一瞬で、すぐに真貴は視線をそらした。羽織っているバスタオルをきつく引き合わせ、横顔を見せて下を向く。髪の先から水滴が落ちて華奢な首筋を伝った。光を反射する。
     広人は息苦しくてたまらない。着替えを用意しないで風呂に入ったのだから、そんな姿で出てきたのはわかる。だがせめて、自分に声をかける前に何か着てきてほしかった。
     濡れて長く垂れた前髪の陰に引き結んだ唇が見える。何か言いたそうにかすかに動き、また固く結ばれる。真貴は入浴したばかりで、頬が淡く上気していて、きっとバスタオルに隠れた薄い胸も同じように染まっているはずだ。広人は無意識にも真貴の鎖骨のあたりを見つめ、何ひとつ身に着けていない肌を思う。
    「広人……ボクって、広人にとって何?」
     不意に問われ、ハッとした。自分の鼓動の速さを意識していた頭を慌てて切り替える。
    「何って――」
     真貴は目を背けたままだ。横顔でうつむいて、身を固くしている。
    「広人はやさしくて、ボクと一緒に住んでくれて、何でもしてくれて……だけど、どうして? しょうがないって言ってボクを許してくれるけど、でも、ボクの役割って――」
     そろそろと視線を流してきた。そうして、ひどくせつなげな眼差しを広人に注ぐ。濡れた前髪の陰で、ゆっくりと目をしばたいた。
    「広人……ボクは数学だけしてればいいの」
    「真貴――」
    「数学ができなければ、何も価値がない?」
    「真貴、なんで」
     驚いて広人は眉をひそめる。耳にした言葉が胸の底に落ちてきて、深く突き刺さった。
    「教えて。お風呂に入りながら、ずっと考えていたんだ。だけど、わからなかった。ボクは広人にしょうがないって言われると、すごくホッとするんだ。でも、しょうがないって広人がボクに言うのは、なぜ?」
    「真貴……」
     あとが続かなかった。どう答えたらいいのか思い巡らそうとするが頭が働かない。
     真貴は打ちひしがれたように広人の目に映る。深い悲しみに沈んでいるように。
    「……本当にわからないんだ。広人がボクを大切にしてくれているのはわかる。ボクは、すごくうれしい。広人といると、誰といるよりも、ひとりでいるよりも、家族といるよりも、とても安心できるんだ。だから、ずっと一緒にいたいと思う。ずっと一緒にいられるなら、広人が嫌がることはもう何もしない。広人に迷惑かけないようにする。本当はボクも広人に何かしてあげたいけど、何もするなって広人が言うなら、そうする。だけど……それだと、ボクって何なのかな?」
     小さく言い切って、真貴はまっすぐに目を合わせてきた。広人はくらみそうになった。胸が苦しくて、息が上がりそうになる。真貴から目をそらしたくなる。
    「さっき……うれしかったんだ。広人に触ってもらえて。この一週間ずっと、遠く感じてたから。でも、そういうことをボクは言っちゃダメなんだよね? ――我慢するよ。同居解消されるくらいなら、そのくらい我慢する」
     独り言を聞くような、醒めた響きだった。
    「ま、き――」
     広人は喘ぎ、耐え切れなくなって真貴から目をそらした。かすかに頭を振る。
    「お願いだから、何か着てくれ。風邪をひく」
     すぐには何も起こらないまま、少しの時間が流れた。真貴は声も出さなければ身じろぎもしない。
    「……やさしいよ、広人。だけどボクは、うれしくて悲しい。泣きたいほど悲しい」
    「なんで、そんなこと――」
    「だって、しょうがないじゃない! こんなに近くにいるのに、広人が遠いんだもん!」
    「真貴」
     広人はうろたえて真貴を見上げる。真っ向から自分を責めてくる真貴なんて、意外だ。
    「わからないよ、広人! 考えてもわからない! ボクはもっと広人のそばにいたいのに、そうしようとすると広人は離れていっちゃうんだから!」
    「そんなふうに、言うなよ!」
     つい、声を荒げてしまった。食い入るように自分を見つめる真貴の視線が痛い。じわりと潤んだ瞳から目が離せない。
    「我慢……する。ボクが我慢すればいいの? そうしたら、ずっと一緒にいてくれる?」
    「――真貴」
     真貴の目に、涙が膨れ上がっていく。
    「でも、淋しいのはどうしようもないんだ!」
    「真貴!」
     いきなり身を翻し、逃げるように真貴は部屋から飛び出ていった。呼び止められなかった。ガックリと肩を落とし、広人は細く長い息を吐く。
     俺に……どうしろって――。
     愚問だ。真貴が自分に何を望んでいるのかわかっている。
     真貴を襲いかけた男と同じになれって?
     それはむしろ自分が望んでいることなのに。
     俺が遠いって……しょうがないじゃないか。
     広人は額に手を当て、メガネごと押さえるようにして支える。思わず机に肘をついた。
     ――こんなふうになりたくなかった。
     真貴の助けになればと、始めた同居だったのに。これでは助けになるどころか邪魔になっている。真貴の心を乱して勉学に手がつかないほどにして、風呂掃除なんて余計なことまでする気にさせて。
     俺は――。
     自分の感情がわからない。そもそも、真貴をどうしたくて同居を始めたのか。
     だから、心置きなく数学に打ち込めるように――。
     だが、真貴はそう望んでいたのか。
     ……俺の、ひとりよがり。
     三浦に言われたことが思い出され、胸が詰まった。
    『何様のつもり? 数学界の未来のためとか言って、他人の人生左右する気かよ?』
     片山の冷たい声が脳裏に響き渡る。
    『支倉を教育し直してるんだ? 統合的に、きみがね』
     矛盾してる――俺は、真貴が大切なのに。
     どれも一方的に押しつけてきただけなのか。真貴にとっていいと思ってしてきたことは、独善でしかなかったのか。うまくいかなくなったからと、今になって同居を解消しようとするのも、そのほうが真貴のためになると思うのも、自分の都合でしかないのか。
     今も、真貴は隣の部屋で泣いているに違いない。広人は深く息をつく。ちゃんと何か着ただろうか。まだあんな姿でいるのだろうか。
     じっとしていられなくなり、立ち上がった。そんな自分に苛立ちながらも真貴の部屋に向かう。どうしても放っておけない。突き放したり干渉したり、矛盾した行為の繰り返しとわかっていても自分を止められない。
     しょうがないんだ、真貴なんだから。
     そう思ってハッとした。開いていた真貴の部屋の戸口で止まり、息を飲む。
     目は、まだバスタオルにくるまるだけで、ベッドの上で膝を抱えて背を丸くしている真貴を捉えていた。頭は、なぜ真貴だとしょうがないと言い切れるのか考えていた。
     ふらついて、広人は壁にもたれた。急激に高まった鼓動に息が詰まりそうになるのをやり過ごそうとする。薄闇の中で目に映る真貴がひどく痛ましく感じられ、すぐに駆け寄って抱きしめてしまいたくなる衝動を堪えた。
     な……んで。
     なんで、なぜ、どうして。
    「広人――」
     顔を上げた真貴が見つめてくる。すがりつくような眼差しを受けて広人の胸はいっそう締めつけられる。
     ……理由、なんて。
     思って、ぐっと歯を食いしばった。
     どうだっていいじゃないか。
    「ひ、ろと?」
     怒涛のごとく湧きあがった感情に押し流され、広人は真貴に駆け寄るときつく抱きしめた。ベッドに片膝を乗り上げ、バスタオルごとしっかりと胸に抱む。
    「……広人」
     真貴が肩に頬をすり寄せてきた。
    『好きなら好き、したいならしたい、気持ちはそれでいいじゃん?』
     三浦に言われたことが頭をかすめたが、しかし三浦に言われたからこうなったわけではないと、広人は内心で強く否定した。
     そんな簡単ではなかったのだ。そんなにも簡単なことでは――。
    「うれしい、広人……」
    「しょうがないだろっ」
     渦巻く感情を持て余し、広人は苛立って吐き捨てた。それでも真貴は、うっとりと囁く。
    「しょうがないって、また言ってくれるんだ……言ってよ、もっと。しょうがないって」
     固く口を閉ざし、広人は腕の中の真貴を間近に見る。じっと自分を見つめ返す瞳が愛しかった。ひたすらに求めてくるようで――。
    「広人」
     真貴は静かに続ける。
    「本当は、広人がどんなつもりでもいいんだ。しょうがない、って言われるとホッとする。無理しなくてもいいんだって思えて……気持ちが楽になって、萎縮しないでいられる」
     そう言って笑いかけてきたのだが、見る間に涙を溢れさせた。
    「ご、ごめん……広人――」
     視線を泳がせて顔を背けようとした真貴の頬を広人は捕らえた。そっと向き直らせる。
    「……しょうがないな」
     意図せずとも真貴の望みどおりに口走った声を耳が拾い、やけに甘い響きと感じ取って、広人は胸がいっぱいになった。
    「いいんだ、真貴は真貴なんだから」
     ハッと見開かれた瞳をまっすぐに見つめ、広人は真貴の頬に唇を寄せる。涙をすくい、その味を深く胸に刻みつける。
    「ひ、ろと」
     真貴が喘ぐ。上向いて顎を仰け反らせる。腕を引き抜き、広人の胸にすがりつく。バスタオルがずれて細い肩があらわになった。
    「触って……もっと。ボクに触って」
    「真貴」
    「今だけでもいい、そうして――お願い!」
    「真貴!」
     ことさら強く真貴を抱きしめ、広人は唇を滑らせた。真貴の顎にさまよい、ためらいを捨てて唇に触れた。
    「広人……!」
     もれ聞こえた声は歓喜に満ちていて、広人は止まらなくなる。口づけは深くなり、稚拙に追ってくる舌を絡め取った。
    「ん、ん」
     真貴……!
     口づけに夢中になる真貴はあどけないまでに吸いついてきて、その無垢な甘さに痺れながらも広人はたじろいだ。
     すぐにも押し倒してしまいたいのに。たった一枚、自分と真貴を隔てるバスタオルをはいでしまいたいのに。
     陶酔の隙を突いて罪悪感が忍び込んでくる。おそらく真貴には初めての口づけを奪っている。それだけでなく、口中を荒らして性感をあおっている。
     穢したくなどない。数学に一心に励む真貴を尊敬している。だけど、それと同じくらい強く真貴を蹂躙したいと願っている。
     蹂躙――なのか。
     性欲の捌け口に真貴を貶めてしまうなら。そうして充足を得ようとするなら。
     俺自身も貶めることになる――。
    「ひろ、と」
     広人の怯んで離れていきそうになる唇を追って、真貴は囁いた。
    「もっと……広人。ボクに触って、もっと。ボクも広人に触りたい」
     真貴の眼差しは既に蕩けていて、背筋を駆け抜けた妖しい感覚に広人はおののいた。バスタオルを落として真貴の腕が首に絡みついてくる。頬と頬が重なった。
    「気持ちいい、広人……ずっと、広人とこうしたかったんだ」
    「真貴――」
     気弱に呼び返すだけで広人は何もできない。
    「広人が欲しいよ。どうしたら、もらえる?」
     今にも弾けそうな衝動をひたすら抑える。
    「触ってよ。もっと感じたい、広人と一緒にいるんだって、ちゃんとそばにいるんだって、広人もボクを見てくれてるんだって、広人も、ボクを――欲しがってよ!」
     首に回った腕にぎゅっと強く力が入り、真貴がかじりついてきた。
    「……真貴!」
     真貴の重みに負けて単にバランスを崩したのか、それとも自分から押し倒していったのか、広人にはわからない。
     視界いっぱいに真貴の裸の胸が広がる。折り重なりそうになり、慌てて肘で体を支え、広人は大きく息を飲んだ。
     鼓動が激しい。真貴の裸体に注ぐ自分の眼差しが、情欲に濡れていると意識される。真貴の腕はまだ首に絡んでいて、その近さで見つめ合った。口づけに陶酔した余韻を残す目は、淫らな色に染まっている。真貴のそんな目を見るのは初めてではないが、自分まで同じような目になって見るのは初めてだった。
    「ひろ、と――」
     艶めいた唇が自分を呼ぶ。うっとりとした眼差しにそそのかされる。まだ濡れている髪も妖しく芳しく、白くなめらかな肌も湿り気を残している。
    「……もっと、触って」
     言われなくても広人の手は真貴の胸に触れていた。汚された体を洗ってやるときとは、まったく異なる。洗い立ての真貴の肌を広人は手のひらで辿る。体の奥が痛いほど疼いた。
    「広人、欲しい」
     そんな言葉が淫らな効果をもたらすなど、少しも知らずに真貴が口走っていることは、よくわかっていた。
     だけど――。
     そうであればこそ、自分を求める真貴の気持ちは純粋で、これからどうなろうと、その気持ちを跳ね除けるまねなど自分にはできるはずもなく――。
    「俺は……!」
     広人は苦しい声を吐き出す。
    「欲しかったよ、前から」
     言葉にして認めてしまえば、熱く硬く起ち上がった自身が強く意識された。
    「うれしい……うれしいよ、広人」
    「真貴――」
     涙を溢れさせて真貴は笑う。首に絡めた腕で広人を引き寄せる。そうして、再び頬を重ね合わせた。
    「こうすると気持ちいいんだ。広人のほっぺた、すべすべでやわらかい。ずっとこうしていたい。もっと、くっつきたい」
     真貴の囁きが広人の耳をくすぐった。
    「だから……広人も裸になって」
     羞恥に消え入るような響きだった。
     緩んだ真貴の腕から抜けて広人は膝立ちになる。無言でメガネを取った。真貴がどこまでわかって言っているのか、どんなつもりなのか、もう考えなかった。真貴が望むとおりにしてやりたい。それだけだった。
    「ひろ、と」
     裸になっていく広人を真貴は頬を染めて見上げている。涙に汚れた顔はいっそう子どもじみて見えて、広人はたまらなくなる。
     下肢をあらわにした瞬間、真貴がハッと目を瞠った。うろたえたように視線を泳がせる。
    「真貴」
     努めてやさしく呼びかけ、広人は体を重ねた。真貴を抱き寄せて、肌と肌をぴったりと合わせる。
    「これでいい?」
    「広人……ボク」
    「気持ちいい?」
    「――うん」
     広人の胸で湿った吐息をつき、真貴はかすかに震えた。広人の腕に包まれた中で、小さく身じろぐ。広人の胸に触れ、わき腹を指先でかすめて股間を探ってきた。
    「……あの」
    「ん?」
     広人は抗わない。真貴が何に驚き戸惑っているのか、わかっている。
    「広人も……ボクと、同じ――なんだ」
     確かめるように指先がたどたどしく辿った。裏筋をなぞり上げたのは真貴が意図したことではないとしても、広人はビクッとする。
    「あ」
     真貴のものも起ち上がっていることには既に気づいていた。それが今、さらに硬くなって広人の内腿を押す。
    「どうしよう……」
     上ずって真貴が呟く。広人は応えない。ただじっと、真貴を胸に抱いている。互いの鼓動の激しさを感じていた。
    「広人」
     首と首を絡めるようにして真貴が頬をこすりつけてくる。耳元で、いっそう熱く湿った吐息を落とした。
    「――触って」
     屹立に絡みついてきた指で何を請われたのかわかった。広人はそのとおりにする。
    「あ、あ……広人!」
     たちまちに真貴を組み伏せ、だが握っていたものは放さない。首筋に吸いつき、唇を奪って口中を荒らす。そうしながら、いっそ荒々しいほどに真貴を手で追い上げた。
    「ん、ん!」
     唾液を溢れさせ、真貴がうめく。思いがけない力で広人の腕をきつく掴んでくる。しかし押しのけようとする様子はまったくなく、むしろ広人が離れないように捕らえた。
     口づけを貪り、広人は体中が火照って頭がのぼせたようになる。真貴の喘ぎと自分の胸の高鳴りだけを聞き、いっそう夢中になっていく。
    「はぁっ、ひろとぉ……」
     息苦しくなって唇を離せば、蕩けきった声を真貴がこぼした。興奮をかき立てられ、広人は真貴の肌を唇で辿り下りていく。鎖骨に舌を這わせ、胸に口づけ、そこにある粒を舐め回した。
    「は、ん!」
     手の中のものがぐんと硬くなる。以前から知っている真貴の限界の感触だった。指の合間まで濡れて聞こえてくる音が、今はやけに甘く感じられる。
    「ひ、広人……は……あ」
     素直に悶え、真貴は背を浮かせて身をよじるのだが、まだ広人を放そうとはしない。腕を掴んでいられなくなると、肩を辿って頭を両手で包んできた。広人の髪に指を潜らせ、うっとりとかき回す。
    「広人、広人……ボク――もう!」
     頭を掴む指先に、ぐっと力が入った。
    「――イっちゃいな」
     呟いて、広人はぐりっと真貴を絞り上げた。
    「あ、ん――っ」
     細く高い声を上げて真貴が達する。ぬるく濡れた手で今一度絞って広人は体を離した。
    「や、だ!」
     咄嗟に腕を取られて引き戻される。
    「こんなんじゃ、いや」
     そう言って真貴は、絶頂に染め上げられた顔で広人を見つめてきた。
    「広人も……広人も気持ちよくなって」
    「――真貴」
    「これじゃ足りないんだ!」
     広人の濡れているほうの手を取り、片膝を立てて股間のさらに奥に潜らせようと導く。
    「だって……だって、もっと広人とくっつきたいんだ。せめて、触ったことがあるところは全部触ってよ!」
     今度こそ、広人は本当にくらんだ。急激に息が上がって胸が苦しくなる。もうこれ以上、自分を抑えられない。
    「――いいのか? 真貴」
     ひどく真剣な眼差しで真貴と目を合わせながら、ゆっくりと体を傾けていった。
    「何を言ってるか、わかってる?」
     屹立は痛いほど張り詰めている。
    「真貴が思ってるより、俺は男なんだぞ?」
     もはや潤んでさえいる先端が、真貴の肌を突いてぬめった。
    「――恐くないのか?」
    「恐くなんか、ないよ……」
     真貴は掴んだ広人の手を引いて放さない。
    「もっと、くっつきたいんだ。どんなふうにでもいい。広人の思うように……して」
    「真貴――」
     ギリギリのところで理性が働いた。広人は喘いで吐き捨てる。
    「俺の……せいか?」
    「な、んで! こういうことは間違っているの? 広人ともっと、くっついていたいだけなのに……もっと、深いところで!」
    「真貴!」
     片手ですがりついてきた真貴を広人はぎゅっと抱きしめた。真貴の涙を肩に感じる。
    「広人だけだ、ボクには広人だけなんだよ」
     泣きじゃくるように訴えられ、ここにまで及んで再度ためらったことを激しく悔やんだ。
    「広人だけが欲しい――」
     唇でまさぐるようにして真貴に口づける。
    「穢されるなんて思えない……」
     涙声を飲みこんだ。
    「……ん」
     導かれた箇所に指を潜らせれば真貴の手が離れていった。たまらなく熱い粘膜に吸われるようにして、ずっと奥まで挿し入れていく。
    「ん、んっ」
     口づけたまま、広人は薄くまぶたを上げた。もう真貴は泣いていない。ぼやけて目に映る表情は、うっとりと甘く溶けて見える。
    「……気持ちいい?」
    「ん」
     口づけの合間に囁く。
    「ごめん――」
     思わず呟いていた。
    「俺も……気持ちいい――」
     もっと早くに認めていればよかったのだ。真貴の肌に触れることは自分にも気持ちいいと。そうすれば、真貴を追いつめるようなことにはならなかった。
     間違っていたのは、俺――。
     気持ちが通い合って肌を重ねるなら、相手を穢すことにはならないのに。真貴があまりにも無垢だから何を言われても信じられなくて――。
     聞く気にもなれなかった……。
    「大切で――かわいいよ」
    「ひろ、と……?」
     とろんとした眼差しで真貴が見上げてくる。
    「かわいいよ、真貴!」
    「は、あん!」
     真貴の体に埋めた指先を立て、広人は意図して真貴の性感を強く刺激した。
    「あ! あ……ひろとぉ」
     すがりついていた腕が落ちて、真貴の全身から力が抜けるのがわかる。真貴は息を乱し、頼りなく腰を揺らめかせるだけで、だが硬く張り詰めたものを力強く起ち上がらせていた。
    「真貴……」
     広人は真貴に口づける。頬に額に、そっと。
    「真貴……欲しい。ごめん――」
    「どう、して……ボクは、うれしいのに」
    「真貴」
     広人は指を引き抜いた。ずるっとした感触が走る。
    「あ、ん!」
    「挿れたい」
     その手で片膝を立てた真貴の腿をわしづかみ、苦しい声をもらす。
    「真貴の中に入りたい」
    「そうして……広人がしたいなら、して」
    「ま、き……!」
     血が昇った頭は沸騰しそうで、広人は性急に先端を突き立てる。引き攣れそうになり、角度を変えて、努めてゆっくりと押し入っていった。
    「あ」
     一声上げたきり、真貴は大きく目を瞠る。ひたすらに広人を見つめ、眉をひそめた。
    「真貴」
     いたわる思いを込めて、広人は真貴の頬を手のひらで包む。強引な自分を咎めながらも後戻りできない。何にも比べようもない快感が全身に満ちてくる。真貴を、貫いている。
    「――あ、は、あぁん!」
    「真貴!」
     身をくねらせ、詰めていた息をすべて吐き出すように真貴が高い声を上げた。広人は真貴にかじりつく。根元まで深く刺さった。
    「は、あん、あん、ん、ん!」
    「真貴、真貴」
     身悶えて真貴の背が跳ねる。広人はなだめようと抱く力を強くするのだが、真貴にあおられて余計に昂ぶってくる。
    「広人、ひろとぉ」
     あられもない声を真貴が上げた。
    「も、イっちゃう、もう!」
    「――真貴」
    「す、ごい……の! こんな……いい!」
     信じられない思いで広人は真貴の顔に目を注いだ。潤んで蕩けきった瞳が自分を見上げている。薄く開いた唇から赤い舌先が覗いている。
    「こんなの……知らない。広人……熱い。イっちゃう……広人で、いっぱい」
     舌足らずな口調でうわごとのように口走り、濡れた口元をぎこちない手つきで拭った。駄々をこねる子どものように頭を振る。
    「広人……広人も、気持ちいい?」
    「い――いいよ!」
     もう何も隠せず、ごまかしもきかず、広人は叫んで言った。真貴の中は熱く、きつく、間断なく真貴を揺さぶり続けている。
     こんなふうになるなんて。
     信じられないのは目に映る真貴より、むしろ自分だ。
     こんなふうに、なるなんて!
     額に汗が滲む。塊になった熱が出口を求めて体の中で叫んでいる。吐き出してしまいたいけど、まだ終わらせたくない。大切な真貴を貫いているのに。
    「ん!」
     片腕で顔を隠すようにして、真貴がぶるっと震えた。重なる体の狭間に熱が散る。腕の陰から恥ずかしそうに上目で見つめてくる真貴は本当にあどけないほどで、途端に広人は放っていた。
    「ま、き――」
    「ひろとぉ……」
     喘いで広人は真貴の上に崩れる。華奢な体に支えられて深く息をついた。
     呆気ないまでの絶頂を迎え、しかし全身が快感に痺れている。繰り返し口をついて出てくるのは、明らかに満ち足りた吐息だった。
    「はぁ」
     もう何にも抗える気力もなく、そんな吐息を落として、広人は真貴の隣に横たわった。真貴を引き寄せて抱き直す。自分と同じように汗ばんだ髪を緩慢な仕草で顔から払ってやった。
     体を丸めるようにして真貴がすり寄ってくる。火照って、少し湿った肌がこすれ合う感触も心地いい。
     しちゃったな……とうとう。
     ふと思ったが、しかし後悔はどこにもなかった。懐いて胸にいるような真貴が、心から愛しい。
    「広人」
     耳元で、甘ったるく真貴が囁く。
    「セックスは交歓だなんて、嘘だね」
     ハッとして目を向けた。真貴は微笑を浮かべている。やわらかく、清々しい笑顔だ。
    「ひとつになって、半分になった感じ。だけど元に戻るんじゃなくて……ボクの中に広人が、広人の中にボクが残っているような――」
    「――真貴」
     息を飲んで広人は真貴を見つめる。
    「セックスって、こういうことだったんだね」
     何も声が出てこなくて、溢れそうな思いでいっぱいになる胸で、ただぎゅっと、真貴を抱きしめた。


    「どうなったわけ?」
     隣から肘で小突いて、小声で片山が言う。
    「元に戻ったどころか、絶好調みたいだけど」
     尖った目を向けられたが広人は無言で返した。今は理学部特別公開講座の最中だ。教壇には真貴が立っている。『確率解析T』で提出したレポートが担当教授の目に留まり、講師陣による講義が一通り終わってからの参考発表となった。
     理学部生全体を対象とした講座らしく、学科も学年もさまざまな受講者で広い階段教室がほぼ埋まっている。中には情報数理学科の三浦の姿も見える。講義も、予定されていたとおり、専門に偏らずに全般に興味をそそる内容で進められてきた。ただ、教壇に立つ学生は真貴ひとりとあって、今は学術的な興味とは別の関心も集めているようだ。
    「以上から、図4に示される結果が導き出されます。これより、このモデルにおける非超過確率の解析は、次のページの――」
     朗々と響く真貴の声に耳を傾けながら、広人はテキストをめくる。最後の数ページは、真貴のレポートでびっしりと埋まっていた。
     目と耳で捉える内容に集中しているこの瞬間にも、心では真貴を誇らしく感じている。
     やっぱり、真貴は真貴だ。
     尊敬は変わらない。毎晩のように、自分に抱かれて蕩ける姿を見せ続けていても。
    「深沢〜」
     講座が終わるとすぐに、がやがやと騒がしくなった教室を横切って三浦がやってきた。広人は、まだ教壇にいて数人の講師に囲まれるようにしている真貴から目を移す。
    「アイツ、マジにスゴイな。支倉真貴。将来を嘱望されてるとか何とか、納得するしかねえじゃん。紙一重だなんて言って、おまえが怒ったのも無理ないわ」
     三浦は興奮気味に話し出した。
    「まるで別人。普段はあんなオドオドしてるくせに、数学やらせたら天下一品?」
     天下一品てのもアレだけどさ――いつにも増して饒舌な三浦から、広人はこっそり隣に目を向ける。片山は消えていた。
     無理もないか。真貴に一歩リード取られたんじゃ――プライドの高さより素直さ、か。
     手放しに真貴を誉める三浦と片山が居合わせなくてよかったと、ふと思った。
    「つか、おまえもスゴイってこと? あんなヤツと、よく同居できるな。息、詰まらない?」
    「なんで」
    「アイツなんて、もう別格じゃん? ――あ」
     失言したとでも思ったのか、三浦は声を詰まらせた。焦ったように広人を見つめる。
     広人は視線をそらし、教壇の真貴を眺めた。
    「そう、別格だ。だから刺激的。遅れを取りたくなくて本気が出る」
     真貴は、教室を出ていく講師陣に頭を下げている。顔を上げて気づいたのか、こちらを見上げてきた。
    「深沢――」
     三浦がたじろいだ声を出したが広人は目も戻さずに、たった今自分が放った言葉を噛み締めていた。
     そう――遅れなど取りたくない。真貴と対等でありたい。真貴に釣り合う自分でいたい。
     男である自分に抱かれても尚、真貴は輝きを失っていない。むしろ以前よりもいっそう輝いている。勉学に手がつかなくなっていた時期があったことなど嘘のようで、その結果が、今もまだ教壇にいる真貴だ。
     どうなっても、真貴が穢れるなんてことはなかったんだ――。
    『広人……ボクは数学だけしてればいいの』
     言われてショックだった。
    『数学ができなければ、何も価値がない?』
     自分も片山と同じと打ちのめされた。真貴の数学に秀でた一面しか認めてなくて、その枠に真貴をはめようとしていたと知った。
    『しょうがないって言われるとホッとする』
     なぜ繰り返し真貴がそう言うのか、今ならよくわかる。ありのままに受け入れられたと感じるからだ。
     うん……しょうがない。真貴は、真貴なんだから。
     呆れるほど毎晩のように求めてくるのも、真貴だからしょうがない。性知識に乏しく、いっそ幼い子どものように無垢だったのは事実で、だからなのかセックスの快感にも素直で、少しの抵抗もなく愉悦に溺れ、だが――真貴にはそれだけのことなのだ。
     満たされて日常に戻る。切り替えて勉学に励む。真貴の本質は変わらない。
     俺のほうがヤバイ――。
     ふとした瞬間にベッドでの真貴を思い出してドキドキしているのでは始末に負えない。だが、自分の本質もやはり変わりなくて――。
    『ひとつになって、半分になった感じ。だけど元に戻るんじゃなくて……ボクの中に広人が、広人の中にボクが残っているような――』
     ……そうだな。
     これからも、真貴とそんなふうにいられたらいいと思う。そんなふうにいたいと思う。対等に分かち合える関係でいたいと――。
    「広人!」
     明るく呼んで、真貴が階段を駆け上るようにしてやってくる。晴れやかな笑顔だ。
    「うわっ」
     三浦がおかしな声を上げた。
    「ボク、今日は遅くなるから」
     だが気に留めることもなく、真貴は広人の前に立ち、まっすぐに見つめてきた。
    「これから教授室に行かなくちゃならなくて。なんか、夕食会があるとかで誘われて」
     広人も真貴だけを見つめて頬を緩ませる。
    「よかったな。さっきの招待講師も一緒なら、もっと話せるんじゃない?」
    「だといいけど。でも……ちょっと緊張する」
     弾むような声だったのが急に小さくなって、真貴は雑に持っている紙の束に視線を落とした。つい先ほどの発表で使った原稿だ。広人はフッと笑みをこぼすと、それを真貴の手から取り上げる。机の上で揃え、はい、と差し出した。
    「大丈夫。発表のときみたいに堂々としてればいい。どんな話題になっても、真貴ならついていけるだろ?」
    「広人」
     メガネの奥から、じっと真貴の目を覗きこんだ。視線が絡み、胸の奥が熱くなる。
    「ふ、深沢――」
     三浦に呼ばれたが気にならなかった。
    「先に帰って、風呂沸かして待ってるから」
    「うん! 行ってくるね、広人」
     はじけそうな笑顔になって、真貴は教室を出ていく。見送って、広人はホッと息をつく。
    「今の……なに?」
     背後から三浦の呟きが聞こえた。
    「なんかアイツ、雰囲気変わってない?」
     出し抜けに、ガッと肩を掴まれた。
    「って、おまえもだよ! やけにやさしい、てか――アイツには、いつもそうなのか?」
     振り向かされ、鼻先に顔を突きつけられる。
    「さあ?」
     広人は内心ギクリとしながらもとぼけるのだが、三浦に容赦はない。いっそう顔を近づけて言う。
    「――なんかあっただろ」
    「え」
     どうしてそうなったのか。三浦に凄まれたところで大したことないのに、途端に動揺が顔に出た。不意に頬が熱くなる。それとなくメガネを押し上げて隠したが、気づかれたようだ。
    「……信じらんねえ」
     離れていきながら呆れた口調で言われた。
    「マジ? なんでビビってんの? どうなってるわけ?」
     広人は何も言い返せなくて、そそくさと出しっぱなしだったテキストをしまおうとする。
    「わっかんねー。なんか、アイツもカワイクなっちゃってるし――」
    「えっ」
    「うわ、なに顔、赤っ! うわー……」
     うっかり顔を向けてしまい、もろに三浦と目が合った。
    「なんでなんで? マジどうなってんの? 教えろよ」
    「三浦〜……」
    「え、怒っちゃった? なんで?」
     唸るだけの広人を見て、三浦は目を丸くする。広人は三浦を置いてすぐに廊下に出るのだが、受講者でごった返している中を追ってこられてしまう。
    「深沢〜。教えろよ〜。何があったんだよ〜」
     媚びるように言いながらも、もはや三浦は笑っていた。からかって楽しまれているのは明らかだ。
    「顔赤くすんの見たの、初めてなんだしさ〜」
     ……ったく。
     何たる失態。だが、勘のいい三浦だから、本当は察しがついているのに、わざと尋ねてきているのかもしれない。
     迂闊には訊けないし――男同士に『おまえらデキちゃった?』なんて。
     そう思った途端、また頬が熱くなる。広人はメガネを押さえ、顔を伏せて先を急ぐ。
     ……俺。真貴と、デキちゃったんだ。
     今さらの自覚に本気で照れた。そう言えば、三浦はさっき――。
    「三浦」
     階段の踊り場に来て、広人はピタリと足を止める。
    「なになに?」
     三浦がうれしそうな顔を近づけてくる。
    「真貴がかわいくなったって、言ったよな?」
    「うん……」
     真顔で問えば、ぽかんと見つめ返してきた。
    「説明しろよ」
    「はあぁっ?」
    「おまえが言ったんだぞ?」
    「そうだけど――わかったよ」
     髪に手をやり、猫背を丸めて気まずそうな目を向けてくる。
    「なんつーか、キョドってウザかったのが、ほわんとなった感じ?」
    「は?」
    「だから、カワイクなったっつーか、ヘンに色気が出たっつーか、なんかこう」
    「もういい」
    「ええっ?」
     サッと身を翻し、広人は階段を下っていく。
    「おい! なんだよ深沢!」
     三浦が追いかけてきたが、もう相手にしなかった。先を急ぎながら眉をひそめて考える。
     気をつけないと……まるでノーマルな三浦にもわかるほど真貴が色っぽいんじゃ――。
     本当は、とっくに気づいていたことだ。真貴が何度も男に襲われかけたのは、その素質が真貴にあったからだ。
     俺が落ちたくらいだし。
     それが自分に抱かれてからは開花して――。
     あああ、そうじゃなくて。
    「はぁー」
     思わず、ため息が出た。
    「今度はなんだよ?」
    「まだいたのかよ」
     チラッと流した視線で三浦を見る。
    「だって今日のおまえ、おもしろいんだもん」
    「俺だって人間だからな」
    「おおっ? みつを?」
    「なんだそれ」
    「知らないの?」
    「いいよ、もう……」
    「深沢」
     歩きながら三浦が肩に腕を回してきた。
    「あんま、考えすぎんなよ」
    「――わかってる」
    「アイツいないんだし、飲みに行くか?」
    「無理。これから家庭教師」
    「苦学生は、しょうがねえな」
     ハッとして足が止まり、広人は三浦を見上げた。
    「ん? なに?」
    「……いや」
     じわっと胸が熱くなる。ふざけながらも、三浦が気遣ってくれていたのがわかった。
    「土曜日なら。――飲みに行こう」
    「えええっ? 今日って何の日?」
    「うるさいな。重いから腕どけろ」
     メールくれよな〜、という三浦の声に送られて理学部棟の外に出る。東門まで来たら、真貴の姿が目に飛び込んできた。トクンと鼓動が響く。真貴は教授たちに続いて、通りに二台並んだタクシーに乗るところだった。
     真貴――。
     無意識のうちに手前で足が止まり、広人は真貴に見入る。後方の一台に最後に乗り込もうとして、ふと、こちらに視線を流した。
     広人に気づいて、パッと明るい笑顔になる。胸の前で小さく手を振った。唇が動くのが見え、何か言ったのがわかる。
     行ってくるね――。
     広人には、そう聞こえた。真貴の姿が消え、二台のタクシーはすぐに発車した。
     行ってくるね、行っておいで、ただいま、おかえり――これまでにも、これからも、何度も繰り返される言葉を広人は思う。
     胸がいっそう熱くなる。心が満たされる。
     今夜もまた、真貴がベッドに潜り込んでくるかもしれないけど、そういうことだけではないだろう。
     だけど、そうなってわかったこともある。
     真貴は大切で危なっかしいから、これからも守っていきたいと思うけど、自分もまた、真貴に支えられている。
     たぶん、三浦にも。もしかしたら片山にも。
    『ホッとするんだ』
     真貴の声が脳裏に響き、俺も、と広人は呟いた。いつもと変わりなく同じ道を歩き出しても、確実に何かが変わっていくのを感じる。
     ああ、そうか――。
     夕暮れに染まり始めた空を見て、思った。ひとつになって半分になる――自分は今、そんな恋をしているんだ。真貴と、同じ思いで。


    おわり


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