「おまえ、何飲んでんだ? カフェラテ?」
一月四日、午後三時――待ち合わせのコーヒーショップに、雅巳は時間通りに現れた。
本当に久しぶりのデートになる。先に来て恋人を待つのは和弘には当然だ。雅巳と会うのだから、もちろん服装にも気を配った。
お気に入りブランドのセーターは霜降りのグレーで、ざっくりとした編地が着心地いい。雅巳の好みを考えて、ジーンズを合わせた。
約束の時間が午後になったのは、雅巳の仕事が予定以上に長引いたからだ。昨夜になって、ようやく新システムの正常な稼動が確認できたと言っていた。
『今、終わった。――打ち上げ? んなもん、あとだ。みんな、すぐにでも寝たいくらいだ。俺も今から帰って寝る』
それなら会うのは午後にしようと和弘から言い出した。仕事が終わったその場から電話をもらえたのが、やけにうれしかった。
向かいの席でメニューをにらむ雅巳を見つめる。たっぷり眠れたのだろう、疲れを残しているようには見えない。
洗い立てのような髪は、いつもと変わらずさらりとしている。葡萄色の薄手のセーターは、雅巳のすっきりとした首筋を引き立てる。
色っぽいな、と思う。そんなふうに和弘が思うのは、同性では雅巳だけだ。自分と会うのに雅巳も着るものを選んでくれたと思えば、心なしか浮き立つ。
「ココア――ないのか」
雅巳がつぶやいた。意外に思えた。
「いつもコーヒーなのに、今日は違うのか?」
「胃が荒れてんだよ。コーヒー飲みすぎ」
よほど大変な仕事だったのだろう。とっくにタバコを吸い始めていてもおかしくないのに、今は取り出してもいない。それなら今夜は和食だな、と和弘は思った。
「ホットチョコレート……砂糖抜きって、できるのかな」
店員に尋ねれば、申し訳ないができないと返された。それでも雅巳はホットチョコレートを頼み、一口飲んで甘いとこぼす。
そんなに甘いのかと笑った和弘に、雅巳は飲んでみろと差し出した。雅巳が口をつけたカップから和弘は一口飲む。
ちょっぴりビターで、とても甘い。
「で、どうすんの、このあと」
雅巳に訊かれる。
「食事してから、お台場のホテルとか?」
そんなふうに言うのは意地悪だ。和弘は、かすかに顔を歪める。
「いいかげん、女扱いすんなよ」
どうしても、雅巳はそれにこだわる。
二ヶ月前のあの日、和弘としては捨て身の体当たりで、雅巳に迫った。自分の気持ちを信じてもらうには、同性の雅巳とも肉体関係を結べると示すほかなかったとしても、本当のところ、かなり情けなかった。
雅巳を抱いて天にも昇るような気持ちになったのは否めない。だが、和弘が欲しかったのは、雅巳の体だけではない。
それなのに、雅巳の気持ちは、まだ言葉にして伝えてもらえていない。互いに仕事が忙しすぎて、デートらしいデートができたのは、この二ヶ月で数えるほどだ。
何かにつけて、雅巳は言う。
『俺は女じゃねえ』
フレンチレストランの予約はキャンセル、代わりに行ったのは居酒屋、ベイエリアを望むホテルの予約もキャンセルで――要するに、女性が喜びそうな場所はすべて却下だ。
一番怒らせたのは、ドアを開けてやったことだった。雅巳の背後から腕を伸ばし、雅巳よりも先にドアを押しただけなのに――。
『俺をエスコートする気か!』
一喝だった。あれには、本気でヘコんだ。無意識のうちにしたことで、それも、恋人を大切にしたい気持ちからだ。恋人が同性だろうと異性だろうと、その気持ちには変わりないはずだ。
きっと雅巳は、まだ本当には信じてくれていないのだと思う。決して女性の代わりではなく、本気で同性の雅巳に惚れているのに。
それでも、初めて抱いたあのときに、恋人同士になれたと信じている。肌を合わせれば、雅巳はたちまちに溶けていくのだから――。
「今日は、初詣だ」
和弘は満面を笑みにして、明るく言った。雅巳は、しかめた顔でホットチョコレートを飲みきり、カップを置くと怪訝に顔を上げる。
「初詣? もう、四日だぞ?」
「いいんだよ、おまえは今日から正月休みなんだし、おれの仕事始めは明後日だ」
少し呆れたような目をされてしまったが、異論はないようだ。行き先は、無難に明治神宮と決めていた。
たとえば冬空の下を一緒に歩くだけでも、これまでとは確かに違うと和弘は思う。隣に並ぶ雅巳が、親友同士だったときよりも、ぐっと身近に感じられる。
拝殿で、神妙に手を合わせた。和弘が願うのは、雅巳と心まで溶け合う仲に早くなれますように、だ。
「何をお願いした?」
自分と同じように手を合わせていた雅巳に顔を向ける。
「決まってんだろ。昨日カットオーバーしたシステムに何事もありませんように、だ。そうじゃなかったら、六連休がパァになる」
色気のないことを言ったくせに、雅巳は照れたように顔を背ける。和弘は、自然と笑みがこぼれた。
「――行こうか」
雅巳の手を引いたのは、やはり無意識でだった。すっと逃げられ、ハッとする。
「……おまえらしくもない」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「どこで誰に会うかわからないんだぞ」
それを言われて、雅巳が何を思ったのかわかった。ゲイだと雅巳が打ち明けてあるのは、ごくわずかな相手だけと聞いている。
――だからって。
なんだか悔しい。恋人同士なのに、それらしく振る舞えないのが和弘は残念だ。恋人と手をつないで歩くなど、以前は日常だった。
所在無く、和弘は手をコートのポケットに入れる。境内はにぎわっているが、知った顔に会うとは思えない。
少しうつむいてしまった雅巳の横顔を見る。憂いに翳るようでいても、とてもきれいだ。
できることなら、世間に向かって大声で自慢したい。こいつがおれの恋人なんだ――と。
こんなにも人を好きになったのは初めてだ。それはもう、自覚している。
これまでに交際相手がたびたび替わったのは、実は、振られた相手を追わないことにも原因があるのではと考えたことがある。
別れましょうと言われれば、仕方ないとすんなり応じてきた。相手の気持ちが冷めてしまっては、嫌と言ってもどうにもならない。未練を残すようなことは一度もなかった。
だけど、雅巳は特別だ。
告白したその場で一度は断られたのに、あきらめられなかった。どうしても失いたくないだけでなく、生涯を共に送る相手になってほしいと強く願った。
あんなに躍起になったのは初めてだ。仕事帰りを待ち伏せ、半ばさらうように自分の車に乗せ、雅巳がスピードに弱いのを知っていて、高速道路をぶっとばした。
そうでもしなければ雅巳の本音を聞き出せないと思ったからそうしたのだが、実際にそうできた自分には今でも驚く。
それで、どうにかベッドまでもつれこみ、初めて抱いた雅巳の態度から、雅巳も自分に惚れていると確信したのだが――そうなのだ。まだ、言葉にして言ってもらえていない。あれからも何度か肌を重ねているのに――それを思うと悲しくなる。
この意地っ張りは、いつになったら、愛をささやいてくれるのか。
ふたり並んで歩く砂利道が、重なる音を響かせていた。現実に共にいて、歩みは調和しているのに、心はそうではないのか――。
「主任!」
甲高い女性の声を聞き、和弘は顔を向けた。
「あ、やっぱり主任だ〜」
あけましておめでとうございまーす、と言いながら、真っ赤なコートの女性が足早に来る。和弘の部署で働く今年の新入社員だ。
彼女の連れの女性ふたりを和弘は知らない。社外の友人なのだろう。
「こんな場所でお会いしちゃうなんて驚きました。主任も今日が初詣ですか?」
満面の笑みで、間近から和弘を見上げる。職場の顔になって、和弘も笑って答えた。
「行きそびれてたんだ。きみも、友だちと?」
「はい! 主任も、お友だちとご一緒なんですね」
彼女の後ろで連れのふたりが恥ずかしそうにするのが目に入った。ちらちらと、自分と雅巳とに視線を投げてくる。
このような状況には覚えがある。声をかけてきた彼女は、社内でもなかなか積極的だ。次に聞かされる言葉が思い浮かび、その通りになった。
「ご迷惑じゃなかったら、ご一緒させていただけませんか?」
途端に、後ろのふたりがありがちな反応を見せた。え〜、と照れたように小さくもらす。
まいった、と思う。どのようにでも断れる自信が和弘にはあるが、あえて冒険してみたい気持ちが強まってくる。
澄ました顔で隣にいる雅巳が恨めしい。自分を試すつもりかと言いたくなる。目の前の彼女たちは若くかわいらしく、魅力的だ。
ガツンと一発、お見舞いしてやるしかない。
「悪いな」
まずはそう言って、言葉を切った。自分的にとびっきりの笑顔になって、朗らかに言う。
「今、デート中なんだ」
「え!」
心底驚いた顔で、雅巳が自分を見つめる。その腰を、ぐいっと抱き寄せた。
「こいつ、おれの恋人。いい男だろ?」
彼女たちも目を丸くして、まじまじと見つめてくる。なんだか、いい気分だ。
「何すんだ、おい、放せ!」
雅巳があたふたするのも気分がいい。腰を抱く腕に、余計に力を入れてやった。いっそキスしてやろうかと思った、そのときだ。
「やっだー、主任!」
キャハハと笑い声が上がった。彼女たちは、三人で一緒になって、くすくすと笑い出す。
「了解しました、主任! また今度お願いします、失礼しました〜」
おどけたように言い、あからさまに笑いをこらえながら会釈して、去っていった。
「てめえ、どういうつもりだ!」
顔を赤くして雅巳は予想通りの反応をする。腕はほどいたが、和弘は少しも怯まない。
「あたりまえのことを言っただけだ」
「あれが、あたりまえかっ?」
「違うか?」
「どんな常識してんだ!」
それには真顔になって答えた。
「おまえの言いたいことはわかる。だけど、何もなかったじゃないか」
「相手がよかっただけだろ!」
「そうか? おれは部長が相手でも同じことできるぞ?」
雅巳の目を真剣に覗き込んで、言った。
うっ、と雅巳は声を詰まらせる。うろたえたようなそぶりを見せ、喘ぐように言う。
「……口で言うのは簡単だ」
和弘はフッと口元をゆるめた。うつむく雅巳をやわらかな眼差しで包む。
「おれは、誰にでもおまえを自慢したい。おれの恋人だぞ、うらやましいだろう、って」
弱々しく雅巳は吐き捨てる、
「バカ言うな」
「そうかな?」
雅巳も自分と同じ気持ちになってほしいと和弘は思う。その障害が、女性との交際しか経験のない自分自身ならば――。
「う、な、何っ?」
同性の雅巳とも、公然とつきあえることを証明したい。それを雅巳に思い知らしめたい。
「くっ、ふぅ……」
雅巳の顎を強引に引き上げて唇を重ねた。きつく抱きしめ、少しのためらいもなく舌を挿し入れる――ディープなキスにする。
うっそうと生い茂る木々に囲まれた参道は、既に暗くなり始めている。しかし人足は絶えない。衆人の目にさらされる中、和弘はキスをやめない。
「う、んっ」
どんなに抗っても、体格の差から雅巳は逃れられないでいた。それを承知で、和弘はまだ続ける。
「……や、め」
どうにか唇をずらして雅巳が声をもらしても、すぐに捕まえた。このキスはチョコレートの味がする。
甘い――とても、甘い。
雅巳も熱く溶けてしまえばいいと、和弘は思う。きつく抱きしめられ、体を求める深いキスを受けているのだから。
そうだ……余計なことは何も考えずに……恋人の気持ちだけを信じて――。
ガクッと雅巳の膝が折れる。力が抜けて、後ろに反り返りそうな体を和弘は支える。
「ゆ、る……」
許してとまで言われるなら、そうしないこともない。
「名前で呼べ、和弘、って」
自分をまだ苗字で呼ぶ恋人にささやく。応じなければ、すぐにまた唇をふさぐつもりだ。
「や、だ――和弘……」
消え入りそうな声を聞き、和弘はゆっくりと腕をほどいた。崩れかけた雅巳を抱き寄せ、肩にもたせかけてやる。
「……くっそぉ」
悔しそうなつぶやきを雅巳はもらす。だが、和弘の肩に顔をうずめ、抗わない。
「どうだった?」
そう尋ねるのは残酷かとも和弘は思う。
「何か、困ることでもあったか?」
周囲に目を向けるよう、雅巳を促した。キスの最中のことは和弘にもわからないが、今は、ふたりを気に止めるような者はひとりとしていない。
「……心臓に、悪い」
雅巳のその言い方に和弘は笑ってしまった。愛しさが込み上げ、そっと髪を撫でる。
ふうっと、雅巳は深い吐息をつく。
「もう、二度とごめんだ」
和弘はそれにも笑って答えた。
「それなら、おれをもっと安心させてくれ」
「……え?」
雅巳は顔を上げた。少し潤んだ目で、和弘をじっと見つめる。
「おれだって、悪目立ちは趣味じゃない」
やわらかな笑みに口元をゆるめ、和弘はしっとりと言う。
「こんなことをしなくちゃ信じてもらえないなら、悲しすぎる」
「やす……」
苗字で呼ばれそうになったのを止めた。雅巳の唇に、指先を押し当てる。
「和弘だ。これからはずっと、名前で呼べ」
自分には珍しく何度も命令口調だな、と胸のうちで苦笑した。
「……わかった」
それには驚いた。素直に応じた恋人の顔を覗き込む。照れくさそうに背けるのが愛しい。
「そんなことでいいなら――」
吐息混じりに雅巳はささやいた。
「雅巳……」
「――和弘」
背けた顔で返した雅巳を和弘はしみじみと見つめる。もう一度キスしたくなったのをこらえるのは、かなり大変だった。
二十八階の部屋に入ったときには、すっかり暗くなっていた。天井から床まで一面のガラス窓の外には、きらびやかな都心の夜景が広がっている。このホテルの売りだ。現実を見ながら、現実を忘れられる。
「センチュリーなんて初めてだ」
窓に頬を寄せ、雅巳は吐息をつく。
和弘は、窓際まで寄ると外に落ちてしまいそうな気分になって駄目だ。それでソファに座っているのだが、夜景を楽しむ雅巳の様子に、ここを予約してよかったと思う。
少しだけ、ハラハラしていた。原宿駅前でタクシーを拾ったのだが、行き先を告げたら、雅巳がどう反応するか――。
『俺をまた女扱いする気か』
そう言われるかと心配だった。だが、雅巳は表情さえ変えなかった。かえってそれが心配になって、雅巳の手をそっと握ってみたのだが、それも拒まれなかった。
なぜなのか、わからない。しかし、雅巳がそのつもりなら、それでいいかと――余計なことはしないでおこうと、握った手は、握ったときと同じように、そっと放した。
「和食のいい店がある。行くか?」
とりあえず食事の前にチェックインを済ませただけだ。雅巳の後ろ姿に向かって、和弘は声をかけた。
「……ん」
目は窓の外に向けたまま、雅巳は言う。
「まだ、いい。……食べたくない」
それならどうしようかと考えながら、和弘は雅巳に見とれる。
室内を照らすのは、フットライトだけだ。夜景を楽しむには、それがちょうどいい。ほのかな明かりは、雅巳のすらりとした立ち姿をも、より魅惑的に見せていた。
ふと、雅巳は窓から離れる。和弘の前を過ぎながら、つぶやくように言った。
「――シャワー浴びてくる」
「え?」
一瞬、和弘は耳を疑った。驚いて目で追えば、雅巳はバスルームに消えていく。
それって……。
和弘の鼓動は急に鳴り出す。後を追いそうになるのを努めて抑え、ソファに座り直した。
「嘘だろ――」
つい、声に出してつぶやいていた。
こんなことは、今までになかったと言っていい。初めてのときは雅巳から仕掛けてきたが、あれは成り行きだったとわかっている。二度目はその翌日の別荘でのことで、まるで当然の流れのように雰囲気が整った。
しかし、三度目からは違う。和弘の印象としては、投げやりとも受け取れる態度で応じられてきたのだ。抱かれてしまえば雅巳は歓びを示すのに、回を重ねるごとに、その印象は強まったようにさえ思える。
雅巳から……誘ってる?
にわかには信じられない気分だ。明らかにそうと思えるのに、うれしいような、戸惑うような気持ちに揺れて、落ち着けない。
――だけど。
静かに目を閉じて、和弘は深く息を吸った。こうなることを願っていたのを思い出す。
雅巳が体だけでなく、心も開いてくれるのなら――すべてを和弘にさらけ出す気持ちになってくれたのなら。
何がきっかけだったとしても、そうなら和弘には十分だ。
やけに長く感じる時間をやり過ごす。様々な思いが交錯しそうになるのを押し留める。ただじっと、雅巳がバスルームから出るのを待った。
カチャッと小さく音が響いて、バスルームのドアが開いた。現れた雅巳は、ローブ一枚の姿だ。
本当に――?
今度はドクンと大きく鼓動が跳ねる。意識して、和弘はゆっくりと立ち上がった。戻ってくる雅巳に静かに近づいていく。何も言わずに、ゆったりと胸に包み込んだ。
互いの鼓動が重なる。雅巳も緊張しているのが伝わってくる。
「……うれしいよ」
素直な気持ちが声になって口をついた。和弘は雅巳の顔を上げさせ、そっと覗き見る。眉をかすかに寄せた端整な顔は、弱い光に照らされて、和弘の目に儚く映った。
「俺は――」
震えるような唇は、かすれた声をもらす。
「まだ……迷ってる」
すっと、雅巳は目をそらした。
「――これで、よかったのか」
「どうして」
和弘はすぐに返した。半ば背けた雅巳の顔に、やわらかな眼差しを注ぐ。
「……どうして?」
雅巳は問い返した。目を眇め、和弘に視線を流してくる。苦しそうな声を出す。
「いいのか――?」
「何が」
「……他人には言えても、親には言えないだろ?」
それには、すぐには返せなかった。
無言の和弘から、雅巳はまた、すっと目をそらす。小さな吐息を落とした。
「……小学校から私学に通わせて、立派に育てた息子だ」
つぶやいて、雅巳は離れていこうとした。咄嗟に抱きしめ、和弘はそれを留める。息をひそめ、思わず言った。
「おまえ――今まで、どんな恋をしてきた」
これまでの雅巳の恋は、雅巳の言動から察するだけで詳しくは知らない。雅巳自ら話してくれたのはごくわずかで、それも断片的な、恋に苦しむ様子ばかりだった。
だが、雅巳が恋の歓びを知らないはずがない。幸福な時期もあったはずだ。気が強く、意地っ張りな分、人を愛せば、きっと一途に違いない。
和弘は思う。大切にしようとすると女扱いするなと雅巳が言うのは、もしかしたら――。
「大切にされたこと、ないのか?」
「なに、を――」
雅巳は驚いたように顔を上げた。
「自分を大切にしようとは思わないのか?」
「んな、わけ――」
うろたえたように口ごもる。
「なら、言うな。おれをそんなふうに言うな」
しかし、キッと和弘を見据えた。
「けど、事実だろ!」
「そんなこと、おれたちには関係ない!」
大きく言い放ち、和弘はぎゅっと強く雅巳を抱きしめる。頬をすり寄せ、せつない声を絞り出した。
「何も考えるな、自分の幸せだけ考えろ」
それなのに、雅巳は震える声をもらす。
「でも、おまえの……結婚だって――」
「聞けよ!」
ビクッと雅巳は身を震わせた。その耳元に唇を寄せ、和弘は密やかに言う。
「大丈夫だ。いつか、きっと話す。きっと、わかってもらえる。時間をかけてでも――」
雅巳が怯えた目を向けてきた。和弘は視線を合わせ、フッと口元をほころばせる。
「そうさ――幼稚舎から大学まで、おれは親の言う通りにしてきた。就職して、これと言って何もなく、今までやってきた。とっくに満足しているさ。おれが幸せなら文句はないはずだ」
「和弘……」
「そういうもんだろう? 親って」
じっと目を覗き込めば、雅巳は歪んだ笑みを薄く浮かべる。
「……まいったな」
つぶやいて、力なく、うなだれた。
「どうすればいいんだ――」
和弘は、ほほ笑んで答える。
「おまえのしたいようにすればいい」
雅巳は肩を落として深い吐息をついた。
「簡単に言うんだな」
「難しいことじゃない」
「――おまえらしいよ」
和弘は、そっと、うつむく雅巳の頬に指先を滑らせる。戻ってきた視線にうっとりとして、唇を重ねる。やわらかく、温かいキスだ。
「……たまらないよ」
静かに離れて、ひっそりと雅巳は言う。
「これじゃ、もう、俺はひとりで生きていけなくなる」
「おれも同じだ」
「おまえなしじゃ――いられなくなる」
和弘にすがりついてきた。
「和弘……」
雅巳の呼ぶ声が、和弘の胸に迫る。
「おまえの、匂い――好きだ」
喜びがあふれ出て、和弘は胸を震わせた。
熱情のままに、雅巳をきつく抱きしめる。激しく唇を奪う。確かな結びつきを求める。
「ん……」
せわしなく雅巳のローブを解き、肩から滑り落とせば、それだけで雅巳は全裸になった。
雅巳の手が、もどかしげに和弘の衣服を解いていく。和弘も自らそうした。
並んだベッドのひとつに、ふたりして、なだれ込む。和弘は荒っぽくスプレッドをはぎ、雅巳をシーツの上に組み伏した。
鼓動は高く響き、静まるはずもない。雅巳のなめらかな頬を、胸を、手のひらで存分に味わう。吐息があふれた。
潤んだような輝きを放つ雅巳の瞳を見つめる。吸い込まれそうだと和弘は思う。
「好きだ……愛している」
今まで何度ささやいたか知れない。それでも、この気持ちを言葉にすれば、そうとしかならない。
「和弘――」
呼んだきり、雅巳はじっと動かない。ただ和弘を見上げ、吐息を湿らせていく。
シーツに乱れる細い髪、すっきりと整った顔――情欲に燃え立つようでいても、清潔な美しさを和弘は感じる。
きれいだ――とても愛しい。そして、誇らしい。
求められ、ねだられ、甘えられ、それを満たしてやるだけが恋ではないだろう。自分のほうこそ、今までどんな恋をしてきたんだと、和弘は思う。
きっと、これが初めての本当の恋――長い時間を経て、やっと気づけて手に入れた、本物の恋人――。
「欲しい」
口から飛び出た自分の声に和弘は驚く。しかし、これこそが本当に伝えたいことだと、言葉を補う。
「欲しいんだ、おまえの何もかも――」
心が欲しい、これからの時間が全部欲しい、生涯を共にしたい――。
「……バカだな」
くすっと、困ったように雅巳は淡く笑った。
「おまえはいつもそうだ……素直で、正直で……人がよすぎる」
和弘の首に腕をからめてきた。引き寄せて、ささやく。
「――だから、たまらない」
唇が重なり、雅巳の声は消えていく。
「俺は、とっくに――」
あとはもう、濃密なキスになった。
「……ん」
雅巳のもらす声が和弘の耳を甘く満たす。熱くやわらかな舌をからませ、何度も吸い、その感触に酔い、濡れた響きにも酔う。
雅巳の手が和弘の髪を乱す、背に滑り落ちる。和弘の手も、雅巳の肌をくまなく辿る。
脚もからまり、互いの体の狭間で、それぞれの屹立は十分に硬く結実していた。にじみ出るしずくが、こすれ合う感触をよりなめらかにする。
「ふ……あ」
深く長いキスを終えると、和弘は唇を滑らせていく。愛しい恋人の頬に、耳に、首筋に、キスの雨を降らせながら下がっていった。
「あ」
雅巳の体が跳ね、雅巳の手が和弘の肩をきつくつかむ。和弘は雅巳を押さえつけ、雅巳の好きな胸の一番敏感な箇所を熱心に舐める。
「は、あ!」
もっと雅巳を喘がせたい。もっと甘い声を聞きたい。もっと感じさせて、もっと溶かして、トロトロにさせて――。
「な! か……和弘?」
戸惑う声は聞き流した。雅巳の同性の証を口に含む。
「バ、カ! やめろ――」
乱暴な言葉を吐きながらも、雅巳の声は震えている。
「おまえが……そ、んな……あ、ああ!」
ビクンと雅巳の腰が揺れた。きつくシーツを握りしめる手が和弘の視界の隅に映る。口の中のものは、ぐんと硬さを増す。
「や……め……」
どうしてこれほどまでに雅巳がためらうのか、十分にわかっていた。だが、和弘はやめる気など少しもない。
普段は自分の足で、ひとりで凛と立つ恋人なのだから――いいではないか、こんなときくらい、かわいがって、甘やかして、トロトロに溶かしてやりたい。
「……バカ」
すねたような声を耳が拾う。まだ素直にならない恋人を、素直になるまでかわいがる。
「ん――」
口での愛撫はやめずに、手を伸ばして再び胸をまさぐった。かすめるように脇腹を撫で下ろす。どこもやわらかなタッチで撫で回す。
「は、あ」
雅巳の手も伸びてきて、和弘の頬に触れた。指先を滑らせて、和弘の髪にもぐらせる。
「わかった、から」
震える声は、すっかり湿っている。
「もう、駄目……だ」
口の中のものも震えているようだ。
「もう、イ……く」
その声を聞いて、これが最後となめらかな舌触りをもう一度確かめた。きつく吸い上げ、すぐに口を手に代える。
「ん!」
全身を火照らせ、ひきつかせ、達する瞬間の恋人の顔を見つめる。ほのかな明るさの中、たまらなく色っぽく目に映った。
「は……」
せわしない呼吸に雅巳の胸は上下する。潤み切った瞳が、せつなく和弘を見つめる。
「無理……しやがって……」
頬を染め、泣き出しそうな顔になって言った。和弘は、思わずほほ笑んでしまう。
「無理なんか、してない」
「……嘘言うな」
「本当だ。あたりまえだろう?」
ささやきながら、雅巳に体を重ねる。
「舐めちゃいたいほど好き、って言うじゃないか」
熱い吐息と共に耳に吹き込んでやった。
「なんだよそれ……いつの人間だ、おまえ」
きついことを言いながらも、いっそう頬を染めて雅巳は顔を背ける。それがかわいくて、和弘は雅巳の放ったもので濡れた手を後ろに回した。
「ん」
かすかに眉をひそめ、雅巳は声をもらした。流した視線で和弘を捉える。
「……たまらないのは、おれだ」
わかってしていることなのだろうか。雅巳にこんな顔を見せられるたびに、抑えようなどないほど、急激に昂ぶる。
焦りそうになるのをこらえ、じっくりと雅巳の中をほぐし始める。
「はぁ……」
目に見えて雅巳がさざめくのが、またひどく和弘をそそる。
「好きだよ」
何度でも言いたい。
「愛している」
こんなことしか言えないから――。
「ん」
しがみついてきた恋人を抱きしめる。いっそうさざめかせ、耳元で甘くささやく。
「おまえは覚えてないだろうけど――」
こんなことをしながら話すことではないかもしれない。だが、これだけは、今、聞いてほしいように思えてならなかった。
「おれはきっと、入学式の日に、おまえに惚れたんだと思う――」
あのときはまだ知らなかっただけだ。同性と恋に落ちる可能性を――。
「マジ……おれ、バカだよな――」
ため息がもれた。情欲に渦巻く胸に、ふっと淋しさが過ぎった。
しかし、思いがけず返ってきた声に驚く。
「……覚えてる」
目を見張り、和弘は雅巳の顔を覗き込む。喘いで、雅巳は切れ切れに言う。
「俺も……あの、とき、おまえに――惚れた……と思う」
光を映し、雅巳の瞳が濡れた輝きを放つ。つっと、しずくが頬を伝い落ちた。
「惚れたって……どうにも、なら、ないって……思ったのに――」
熱い吐息を落とし、雅巳はそろそろと和弘に向き直る。受け続ける快感に震えて言う。
「……愛してる、和弘」
「雅巳!」
もう、十分だった。雅巳の手が和弘の指を引き抜き、和弘を導く。たった今、伝え合えた気持ちを確かめるように、ふたりはひとつになる。
「は、あっ、和弘!」
しがみつき、駆け上る雅巳を和弘はさらに追い立てる。かわいがって、甘やかして、自分の腕の中でトロトロに溶かしてやりたい。
ふたりで溶けきってしまえば、きっと二度と離れられなくなるから――心まで混ざり合って、ひとつになれるから。
熱い、熱くてたまらない。
そして、どうしようもなく、甘くてたまらなかった。
了
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◎ぶっちゃけ話◎
わかる方にはわかってしまうので、先に白状しておきます。
そうです、これは、「夜をぶっとばせ」(『小説b−Boy』2005年4月号掲載)の後日談です。
あと、背景画像がカプチーノなのは、スルーしてくださいませ〜
素材:ivory