Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    エクスチェンジレス
    《Exchangeless》
    ―『プライスレス』その後―



     梅雨の中休みの夜、内神田[うちかんだ]のオフィス街をジュンは泳ぐように歩く。蒸し暑さを払う夜風が心地いい。駅に向かう会社員の波に逆らい、足を止めることなくケータイを取り出し、電話帳のトップに登録してある番号にかける。
    「――ユースケ?」
     恋人の名を口にして、自然と頬が緩んだ。
    「今、どこ?」
     居酒屋が目に入り、歩道に立ち止まる。過ぎていくスーツ姿の男たちから好奇の視線を感じても、少しも気にならない。いつものことだ、慣れている。
    「会社のそばの飲み屋? そんなの、わかってるよ。訊いてんのは店の名前」
     ガードレールまで下がって、そこに軽く腰掛けた。クリームベージュに色を変えた髪を指で梳き上げる。うなじに風が通り、うっすらと浮いていた汗がすっと冷える。
    「え? 聞こえない、もう一回言って」
     ユースケの声を聞きながら、視界に捉えていた居酒屋の看板を確かめた。ジュンは、そっと息をつく。トクンと鼓動が小さく跳ねる。
    「ねえ、そっち行ってもいい?」
    『おまえなー』
     すぐに苦笑した声が返ってきた。
    「マズイなら言って。行かないから」
     咄嗟にそう口走った自分の声は、ユースケの耳にどんなふうに響いたのか。
    『……ったく。しょうがねえな、来な。キタムラがいるけど、キレるなよ』
    「なにそれ? なんで今さら、ぼくがキレるわけ?」
     怒って言ってみたのだが、声は笑っていた。ジュンはおもむろに立ち上がり、ケータイを耳にしたまま歩き出す。
    『よく言うぜ、前は派手にキレまくったくせに』
     わざとらしく言われて、くすっとしてしまう。確かにそんなこともあったが、もう半年近く前の話だ。
    『それより、そっちはどうしたんだよ? 今日は合コンだったんだろ?』
    「んなの、いつまでもいるわけないじゃん。ただのつきあいだし、抜けてきた」
     途端にユースケは吹き出す。ゲラゲラと遠慮のない笑い声がケータイから響いてくる。
    「ちょっと。酔ってんの?」
    『悪い悪い、けど笑える〜』
    「なんで」
    『つきあいとか、おまえが言うからだろ』
     少しムッとしたが、それもそうかと思い直した。以前の自分では考えられなかったことだ。たとえ『つきあい』でも、他人に自分を合わせるなんて。
     そんなやり取りをしているうちに、目指す居酒屋の前に来ていた。ジュンは、ためらいなく古びた引き戸を開ける。
     うわ、オヤジばっか……。
     場所柄そうだろうと予測していたが、目に映る光景は、いっそ見事だ。狭い店内は男の低い声でざわついていて、どのテーブルも、スーツの上着を脱いだ会社員で埋まっている。
     迎え入れた店員を片手で適当にあしらい、ジュンはケータイを離さずに目でユースケを探す。
    『……あれ? 今どこだ、ジュン?』
     ユースケの戸惑うような声を聞いて、うっかり吹き出しそうになった。ジュンの視線は、ユースケより先にキタムラに止まる。
     ――相変わらず、キレイなヤツ。目立つから、すぐに見つかってイイけど。
     ユースケは、キタムラとふたりで奥の四人掛けのテーブルにいた。ジュンには白いワイシャツの広い背中しか見えない。テーブルの上のジョッキを右手でつかみ、どっかりと壁際の席にもたれて、ケータイは左耳に当てている。
     やっぱ、オヤジ。
     ふと口元が緩んで、ジュンの胸は温かくなる。自分に気づいたキタムラに、小さく手を上げて応える。
    「キタムラがいるって、ふたりきりじゃん」
     歩み寄りながら、けろっとした声でケータイのユースケに言ってみた。
    『え! って、おまえ!』
     振り向かれる前に、ぽんと肩を叩いてやった。ビクッとユースケが首をすくめるのを見て、プッと笑ってしまう。
    「……おまえなー」
     恨めしそうな目を向けてこられても、ユースケに見つめられてジュンはときめく。ニヤつく顔でケータイをポケットにしまう。
    「そんなに驚いた?」
    「早すぎなんだよ」
    「早く会いたかったし」
    「だからって、ケータイかけるより先に、こっちまで来ねえだろ、フツー」
     飲まないで帰ってたら行き違いになってたぞ――ブツブツと口では文句を言いながらも、ユースケは照れている。そんなユースケをキタムラもやわらかな笑顔で見ている。
    「座っていい?」
     ジュンは、さりげなくキタムラに視線を流して言った。
    「あ……」
     目を合わせてきて、キタムラはハッとした顔になる。
    「いや、俺は帰るから」
    「なんで」
    「なんでって――」
     困ったように言われて少しムッとした。つい、言い返してしまう。
    「なんか、勘違いしてる? またシュラバるとでも?」
    「バーカ」
     すかさず、ユースケに頭を軽く叩かれた。
    「おまえはとりあえず座っとけ」
     腕を取られ、強引に引かれた。空いていたユースケの隣の席にストンと座らされる。
    「俺たちも帰るから。一緒に出よう」
     そう言って、ユースケはキタムラの前の皿を差す。
    「それ食っちゃえ。夕飯代わりなんだろ?」
    「え? あ、ああ」
     言われてキタムラは箸を上げるのだが、フッと笑みをこぼした。煮物をつまみながらも、くすくすと笑う。
    「……なに?」
    「おまえが緊張なんかしてっからだろ」
     思わず眉をひそめたジュンに、ユースケが答えた。
    「え?」
    「らしくねえっての」
     気のない声で言ってジョッキを取り上げ、ユースケは残っていた生ビールを飲み干す。
    「そうじゃなくて」
     ジュンにキタムラが笑いかけてきた。
    「実里[みさと]くん、変わったね」
    「え……」
    「前よりも、ずっと落ち着いた感じになった。なんて言うか……キラキラしてるのは変わらないけど」
    「キラキラ、って――」
     ユースケがまた吹き出した。ジュンがムッとする横で、臆面もなくゲラゲラと笑う。
    「それ言うならチャラチャラだろ。髪はこんな色だし、服もド派手だし、こんな店じゃ浮きまくり」
    「でも、よく似合っている。雑誌から抜け出たみたいだ」
    「あ、あたりまえでしょ!」
     ムキになってジュンが言い返しても、キタムラは穏やかに笑っていた。ふと視線を下げて、つぶやくように言う。
    「いい感じだよ、ふたりとも。――うらやましいくらい」
     ぽつりと落ちたその声で、ユースケの笑いが止まった。咄嗟に顔を向けたジュンの目に、やけに照れくさそうな横顔が映る。
    「行くか」
     いきなりユースケが立ち上がった。
    「そうだな」
     キタムラもすっと立ち上がる。
    「夕飯、これで足りたか?」
    「家に帰って足りなかったら何か食べるよ」
    「そうか」
     ぽかんとジュンが見ている間に、それぞれにスーツの上着を取って、バッグを手にした。テーブルにふたりの手が伸びてきて、ユースケの左手が伝票を取り上げる。
    「あれ?」
     キタムラは、タッチの差で伝票を取り損ねた姿勢のまま、目だけを上げてユースケを見た。
    「なんだ?」
    「いや……見間違いだったみたいだ」
     ユースケに小突かれ、ハッとしてジュンも立ち上がる。三人でレジに向かう。
    「見間違いって、何が?」
    「なんでもない。気にしないでくれ」
    「ヘンなヤツだな」
     キタムラから離れ、ユースケは足早にレジの前に立った。
    「あ、割り勘でいいぞ」
    「今さら遠慮すんな、おまえ、ぜんぜん飲めないんだし」
    「――そうなの?」
    「え?」
     声をもらしたジュンにキタムラが振り返る。だが、ユースケが代わりになって、レジの前から背中で答えた。
    「こいつ、下戸[げこ]なんだ。今もウーロン茶飲んでただろ?」
    「ふうん」
     ジュンはつぶやくしかなく、間がもてずに髪に手をやった。いつもの癖だ。
    「――あ」
    「え?」
     キタムラと目が合って、きょとんとする。キタムラは軽く見開いた目で、髪をかき上げるジュンの左手首をじっと見ている。
    「なに……」
    「べつに、何も」
     口ではそう答えたが、すっと目をそらしたキタムラの横顔は、温かな笑みに染まった。
    「キタムラ、おまえ千五百円な」
    「えっ? それじゃ少なすぎだろう?」
     ユースケに歩み寄るキタムラを目で追って、ジュンは急にドキドキしてくる。
     今のって……。
     浅い息をつき、キタムラに見つめられた左手首をそっと右手で包んだ。熱くなる眼差しで、ユースケの広い背中をまっすぐに見つめた。


    「少し、歩かない?」
     地下鉄の神田駅に向かうキタムラとは、居酒屋を出たところで別れた。ユースケとふたりになって、駅とは反対の方向にジュンは歩き出す。
    「おい、ちょっと待てよ」
     追いかけるようにして、ユースケが並んできた。ジュンの右隣に来て、スーツの上着とバッグを外側の手に持ち替える。
    「おまえ、ホント歩くの好きだな」
     呆れきったように言われてしまい、ジュンはチラッと視線を投げただけで、前を向いたままとぼけて言ってみる。
    「飲んで歩くんじゃ、オヤジにはツライ?」
    「バカ言うな」
     すぐに笑って返され、頬が緩んだ。
    「酔い覚ましになって、ちょうどいいでしょ」
    「なんだ、泣かされたいだけか」
    「酔ってちゃ、勃たないんじゃないの?」
    「俺は、そこまでオヤジじゃないぞ」
     一転してムッとされ、ジュンは笑ってしまう。夜風が心地いい。ユースケと並んで、にぎやかな場所を遠ざかる。
     角を折れると広い通りに出た。ビルの窓の明かりもまばらで、行き交う車も多くなく、薄暗い無人の谷間のように感じられる。
     ジュンは、さりげなく腰に回ってきたユースケの左手首を自分の左手でそっと包んだ。
    「……気がついたみたいだったね」
     熱くなる顔を伏せてぽつりと言えば、ユースケも照れた声で返してくる。
    「ああ、そうみたいだな」
    「卒業してからキタムラに会ったのは、今日が初めてだったんだ」
    「そうだったな」
     つぶやいてジュンの手をやんわりとほどき、入れ替わって、今度はユースケが手首をつかんできた。ジュンは、胸がいっぱいになる。唇から湿った吐息があふれた。
     ふたりの左手首には同じ腕時計がある。Gショックの『タフソーラー』――モデルも、まったく同じだ。ユースケが先に愛用していたものを、ジュンがあとから自分で買った。
     どうしてそうなったのか、その経緯はジュンには決して忘れられない。自分だけでなく、ユースケもそうに違いないとジュンは思う。でなければ、あの日、ユースケはあんなことを言い出しはしなかったはずだ。
     今年の春、ジュンが高校を卒業した日、特別な思いでユースケの部屋で過ごした日――。
    『ん? さすがにもう帰るか?』
    『うん……ユースケ、明日は会社でしょ』
    『なんだ? 急に殊勝なこと言って。高校を卒業したら、もうガキじゃないって?』
    『あ、ダメだって』
     ジュンはベッドを降りようとしていたのに、ユースケの腕に絡め取られた。再び肌と肌とが合わさり、熱い吐息があふれた。
    『……今日は、昼からずっとだよ?』
    『おまえでもギブアップか』
     ユースケは笑って言ったが、そんなことは少しもなかった。何度抱かれてもユースケはひたすらにやさしかったし、ベッドで裸のまま取り留めもない話をした時間は、とても穏やかに流れていった。
     だから、ユースケの腕の中で首を振り、ジュンはひっそりと言った。
    『これじゃ、帰れなくなる――』
     誰も自分を待つ人のいない自宅は、がらんと淋しいだけだった。卒業式を終えてしまっては高校に行くこともなくなり、翌日から何もすることがなかった。
     ユースケは会社だし……。
    『ごめんな』
     唇を寄せてささやかれた声が、ひどく胸に染みた。こめかみにキスされたのを最後に、ジュンはベッドを降りた。
     ユースケの部屋で制服を脱いだのは、その日が最初で最後だった。制服を手に取って、本当は高校生であることを隠してユースケとつきあってきた自分を思った。着替えながら涙ぐみそうになるのをぐっとこらえた。
    『ジュン』
     呼ばれたのは、制服姿に戻ったときだった。
    『ほら、これ』
     振り向けば、ベッドの中から伸びてきた手に腕時計を渡された。いつものように左手首につけようとして、気がついた。
    『これ、ユースケの』
     そのときは、間違えて渡されたと思ったのだ。ふたりの腕時計は、まったく同じだから。
     だがユースケは、ベッドに横たわったまま何食わぬ顔で言った。
    『今日から、そっちがおまえのだ。俺は、おまえのを使う』
    『え』
    『嫌か? そっちのほうが古いし、かなり使い込んでるから傷もあるしな』
     ジュンは、すぐには声も出なかった。呆然と目を見開き、じっとユースケを見つめるだけだった。
    『嫌ならいいんだ、そう言ってくれ。俺の自己満足って言うか、不甲斐なさの穴埋めって言うか――そんなもんだから』
     そこまで言われて、やっと言葉が口をついた。震える声で、ジュンはつぶやいた。
    『穴埋めって……なんで?』
     ユースケの顔は苦い笑みに染まり、どこか投げやりな口調で返してきた。
    『おまえに自分で買わせたからだ。そうなるとわかってたら、俺が買って渡したかった』
     わかってなかったんだから、どうしようもなかったんだけど――気まずそうに目を伏せるユースケに、ジュンは思わず飛びついた。
    『ユースケ!』
     しっかりと首にかじりついたものの、涙があふれ、崩れて床に膝をついた。
    『ぼくが勝手にしたことなのに。そんなふうに思ってくれてたなんて』
    『ジュン』
     肩にやさしく回されてきた手がたまらなかった。嗚咽が引くまで静かに背を撫でられた。
    『それなら――』
     ジュンは泣き濡れた顔を上げ、ユースケの目を覗き込んだ。深い色を映す瞳は、どこまでもやさしかった。
    『お願い、ユースケがつけて。ぼくの、手に』
     あのときのことを思い出すと、どこか神聖な気持ちで胸が張り裂けそうになる。あれはまるで、何かの儀式のようだった。
     ユースケに腕時計をつけてもらい、その上から左手首を握られ、力強く引かれてキスを受けた。唇を重ねるだけの、淡いキスだった。気持ちを確かめるだけの――。
    「もう、一駅分は歩いたな」
     ユースケの声を聞いて、ジュンは顔を上げる。夜の道をぶらぶらと行くうちに、ふたりは皇居の外堀まで来ていた。
    「ねえ、ユースケ」
    「ん?」
    「ぼく、そんなに変わった?」
     フッとユースケは表情を緩める。
    「そうだな。かなり変わった、いいほうへ」
    「そうかな」
    「前のおまえだったら、今日だって、店に来る前に行ったらマズイかなんて訊かなかったし、座る前に座ってもいいかなんて訊かなかっただろ? キタムラでも気づいたくらいだ」
    「そうだったね――」
     ガードレールの向こうを次々と車が過ぎていく。ふたりは時折ヘッドライトに照らされ、あとは静かな闇に包まれる。柳の揺れる夜の歩道には、ほかに人影はない。
    「大学生になったことは、おまえには特別によかったんだな。おまえでも合わせてやろうと思えるヤツに出会えたんだ。今日の合コン、そいつとのつきあいだったんだろ?」
     しんみりと言われ、ジュンは深く頷いた。そのとおりだと、改めて思う。
     大学へは付属の高校からエスカレーター式に進学した。同学年の半数以上が自分と同じように進学したのだが、入学後は、それまでのつきあいが一切絶たれた。自分から望んで、そうなるようにした。
     代わりのように、学外から受験して入学してきた友人ができた。五月の終わりには、何人かと親しくつきあうようになっていた。新しく、世界が開けたように感じた。
     ――でも。
     ジュンは思う。ユースケと出会っていなかったら、大学生になった今も自分はきっと変わっていなかった。ひとの気持ちを信じられない苦しみも、ひとの気持ちを信じる喜びも、自分に教えてくれたのはユースケだ。
     今、そのことをユースケに伝えたい。
    「ユースケ」
    「なんだ?」
     呼びかけはしたが、どこから話そうかとジュンは迷う。
    「ぼく……ユースケがキタムラとふたりでいても、キレなかったでしょ」
     とりあえず言ってみたのだが、すぐには何も返ってこなかった。間があいて、ジュンはユースケの横顔を見上げる。ユースケは、かすかに苦笑した顔を向けてきた。
    「さあな」
    「さあなって……なにそれ」
    「シュラバるとか言ってなかったか?」
    「あれは! ……わざとじゃん、予防線って言うか」
    「わかってる」
     ジュンを見つめ、ユースケはフッと口元を緩める。
    「キタムラとは、別れて一年以上経つんだ。部署が替わっても普通につきあえてて、今だから言えるんだろうけど、本当にきれいに別れられたもんだと思う」
    「けど」
     つぶやいてジュンは視線を泳がせる。ユースケの声が追ってくる。
    「どうした、今日はやけにおとなしいな。いつもは、いくらでも好きなこと言うくせに」
    「しょうがないじゃん! 本当は、少し気持ちよかったんだから。元カレから……キタムラからユースケを取り戻せたみたいで」
     ハハッと、声を上げてユースケは明るく笑った。やわらかな眼差しでジュンを包む。
    「おまえ、マジ素直になったな」
    「こういうことで言う?」
    「喜んでるんだ、おまえの気持ちがうれしい」
    「……そういうこと言う? て言うか、それ言うなら、ぼくのほうがもっとうれしい。ユースケの――」
     言いかけて急に恥ずかしくなって、後が続かなくなった。ジュンは言葉を探して、遠く夜空を見つめる。
    「だから……今もユースケと一緒に歩いていられるのが、すごくいい。ひとりで歩くのと、ぜんぜん違って――ほかの誰とも違って」
     すっと息を飲み、ジュンはユースケに顔を向けた。しっかりと目を合わせ、思い切って言葉をつなぐ。
    「ぼくは、ユースケといるとホッとするんだ。ユースケといられるから世界が変わったように感じる。前よりもっと自由になれて、何でもできるような気がする」
     ピタッとユースケの足が止まった。ジュンは一歩過ぎて振り返る。
    「ユースケ?」
     次の瞬間、ふわっと大きな体に包まれた。きゅっと強く抱きしめられ、ジュンの鼓動は跳ね上がる。
    「ユ、ユースケ……」
    「ジュン」
     ジュンの上ずった声に、ユースケの声がしっとりと低く響いて応えた。
    「ジュン――」
     ジュンの頭を肩に抱え、耳元に唇を寄せてユースケはささやく。
    「どこでも好きなところへ行けばいい。やりたいこと、何でもやってこい。俺は、きっと変わらないから」
     胸が詰まり、ジュンは声を出せない。聞かされたことに驚き、目を見開いて夜空を仰ぐ。
     自分を抱きしめるユースケの腕の強さを思った。体温の熱さを、気持ちの深さを――。
    「けど……やっぱ違うな。おまえはいつか飛び出していくようなヤツだから、そうなったときは、おまえともきれいに別れてやろうと思ってたけど」
    「えっ?」
    「無理だ。もう、絶対に無理」
    「ユースケ……」
     ジュンをそっと離し、ユースケは間近から目を合わせてくる。
    「ジュン……変わったよ、本当に。急に変わって焦るくらいだけど――たまらない」
     ジュンの頬を大きな手が包んだ。ユースケの眼差しが熱い。これまでにもなく、とても。
    「無理だから。どこへ行っても、帰る先は俺だから。俺に必ず戻される」
    「……ユースケ」
     掠れた声がジュンの唇からこぼれ、ユースケの手からバッグが落ちた。ジュンの左手首がきつく握られる。
    「あ」
     鼓動が、激しく高鳴った。近づいてくる唇をジュンは震える思いで迎える。頬を包む手に自分の手を重ねる。その手首を握った。
     その瞬間、湧き上がった歓喜に、ジュンは体中を痺れさせる。すべての音が遠のき、早鐘のように鳴る自分の鼓動だけを聞いた。
     唇に触れた熱くやわらかな感触――頬を掠めるユースケの吐息――気持ちを確かめ合うキスは急に変わり、握った手首を互いに強く引き寄せ、濡れた音を立てて深く貪り合う。
     時が止まったような感覚に陥った。
    「は、あ……」
     永遠に続くとも思えたキスから解かれ、ジュンは喘いで息を継ぐ。くたっと膝が折れて、ユースケの胸に崩れた。
     体中が熱くて、息をするのも苦しい。顔がひどく火照って、胸は焦げそうなほどだ。
    「ジュン」
     ユースケのささやきが、それだけで溶かされるほど甘く耳に響いてくる。
    「あきらめろ。これは、もう返さない」
     今一度、左手首をぎゅっと握られた。熱くてたまらない体が、いっそう熱く滾った。
     ジュンは、声を絞り出す。喘ぎながらも、きっぱりと言い渡す。
    「ぼくだって。泣いて頼まれたって、嫌だ」
    「ジュン――」
     握っていた手首を解き、ユースケは、小さな子どもをあやすようにジュンを抱き直した。白いワイシャツの胸にすっぽりと受け止め、両腕でゆったりと絡め取る。
     そうして無言のうちに、ふたりはしばらく夜風に吹かれた。外堀の水面を渡ってくる風は、火照った体にひんやりと心地よかった。
    「ユースケ――」
    「ん?」
     深い吐息を落とし、ユースケの胸に顔をうずめたまま、ジュンはつぶやく。
    「これって、すごく気持ちいいんだけど、やっぱユースケの部屋に行きたいって言うか――」
     途端に吹き出し、ユースケはゲラゲラと笑う。その振動をまともに受けて、ジュンは気まずく顔を上げた。
    「わかった。行こう」
     すぐにそう返してきたが、ユースケの笑いは収まらない。駅に向かって歩き始めても、ジュンはどことなく府に落ちない気分だ。
    「そんな、おかしなこと言ったかな――」
     ムスッとした目をユースケに向けた。
    「いや?」
    「じゃあ、なんでいつまでも笑ってるわけ?」
    「んー、ちょっとな」
    「それ。やめてよね」
     足を止めたジュンに、ユースケが苦笑して振り向く。
    「しょうがないな」
     わざとらしく、ため息をついた。くるりと背を見せながら言う。
    「俺も早く帰りたいんだよ」
    「なっ……」
     サッと頬を染め、ジュンは広い背中に向かって言い放つ。
    「なら、最初からそう言えばいいじゃん!」
     ムッとしたまま、信号で止まったユースケに並んだら、いきなり手首を取られた。手のひらを開かされる。
    「ほら、いいもんやるから機嫌直せ」
    「……え」
     そこに置かれたものを見つめ、ジュンは動けない。息を飲み、ただ呆然とする。
    「あ。青になった、渡るぞ」
     ユースケが大通りの長い横断歩道を渡り始めても、ジュンはまだ動けなかった。
    「早くしろ! 信号変わるぞ!」
    「ちょ、待ってよ!」
     ハッとして、弾かれたようにユースケを追う。手の中にあるものをしっかりと握る。
     これって――。
     きっと、確かめるまでもない。ユースケの部屋の鍵に決まっている。
    「急げ!」
     ユースケに追いつき、歩行者信号の点滅する中、ふたりで残りを走りきった。すぐに車の走り出す音が聞こえてくる。
     ジュンはドキドキしてたまらない。急に走ったせいだけではない。鍵を渡された意味を考え、うれしくて、照れくさくて、ついユースケに当たってしまう。
    「これって反則!」
    「……なんだよ、反則って」
    「なんで今! こんなとこで!」
    「いいから、行くぞ」
     ユースケは、また先に立って歩き始める。すぐにオフィス街の明るい通りに出る。
    「返品は受け付けないからな」
     照れ隠しに不機嫌を装って並んできたジュンに、ユースケがチラッと視線を寄越した。
    「返せって言われたって、もう返さないし」
     ジュンが強気で言い返せば、横顔でユースケは笑った。ジュンの左手首に指先で触れてくる。
    「やっと渡せてよかった。今日みたいなときは、先に行っていればいい」
     ……それって。
     照れくささを隠しきれなくなって、ジュンはうつむく。ユースケは、いつから鍵を用意してくれていたのか。本当は、どんなタイミングで渡すつもりだったのか。そんなことを思い、胸がいっぱいになった。
     顔を上げれば、通りの先に東京駅が見える。歩道の人影も、ちらほらと目につく。
     ジュンは、ホッと息をついた。手首にかすかに触れるユースケの指先を感じる。
     これからも、いろいろ変わっていくかもしれないけど――。
     自分の隣を歩くユースケを見つめた。見慣れた横顔は、いつもと少しも変わりなく温かかった。
    「ん?」
     視線に気づいてユースケが目を向けてくる。
    「いつ来てもいいぞ。来たくなったら、いつでも」
     そういうことが聞きたかったわけじゃないけど――。
     ジュンは、ニッコリと笑う。自分的に極上と思う笑顔を見せつける。ユースケの頬がほのかに染まるのを見て、自分までドキドキするのを感じた。

    おわり


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    素材:若奥様工房