梅雨の中休みの夜、 「――ユースケ?」 恋人の名を口にして、自然と頬が緩んだ。 「今、どこ?」 居酒屋が目に入り、歩道に立ち止まる。過ぎていくスーツ姿の男たちから好奇の視線を感じても、少しも気にならない。いつものことだ、慣れている。 「会社のそばの飲み屋? そんなの、わかってるよ。訊いてんのは店の名前」 ガードレールまで下がって、そこに軽く腰掛けた。クリームベージュに色を変えた髪を指で梳き上げる。うなじに風が通り、うっすらと浮いていた汗がすっと冷える。 「え? 聞こえない、もう一回言って」 ユースケの声を聞きながら、視界に捉えていた居酒屋の看板を確かめた。ジュンは、そっと息をつく。トクンと鼓動が小さく跳ねる。 「ねえ、そっち行ってもいい?」 『おまえなー』 すぐに苦笑した声が返ってきた。 「マズイなら言って。行かないから」 咄嗟にそう口走った自分の声は、ユースケの耳にどんなふうに響いたのか。 『……ったく。しょうがねえな、来な。キタムラがいるけど、キレるなよ』 「なにそれ? なんで今さら、ぼくがキレるわけ?」 怒って言ってみたのだが、声は笑っていた。ジュンはおもむろに立ち上がり、ケータイを耳にしたまま歩き出す。 『よく言うぜ、前は派手にキレまくったくせに』 わざとらしく言われて、くすっとしてしまう。確かにそんなこともあったが、もう半年近く前の話だ。 『それより、そっちはどうしたんだよ? 今日は合コンだったんだろ?』 「んなの、いつまでもいるわけないじゃん。ただのつきあいだし、抜けてきた」 途端にユースケは吹き出す。ゲラゲラと遠慮のない笑い声がケータイから響いてくる。 「ちょっと。酔ってんの?」 『悪い悪い、けど笑える〜』 「なんで」 『つきあいとか、おまえが言うからだろ』 少しムッとしたが、それもそうかと思い直した。以前の自分では考えられなかったことだ。たとえ『つきあい』でも、他人に自分を合わせるなんて。 そんなやり取りをしているうちに、目指す居酒屋の前に来ていた。ジュンは、ためらいなく古びた引き戸を開ける。 うわ、オヤジばっか……。 場所柄そうだろうと予測していたが、目に映る光景は、いっそ見事だ。狭い店内は男の低い声でざわついていて、どのテーブルも、スーツの上着を脱いだ会社員で埋まっている。 迎え入れた店員を片手で適当にあしらい、ジュンはケータイを離さずに目でユースケを探す。 『……あれ? 今どこだ、ジュン?』 ユースケの戸惑うような声を聞いて、うっかり吹き出しそうになった。ジュンの視線は、ユースケより先にキタムラに止まる。 ――相変わらず、キレイなヤツ。目立つから、すぐに見つかってイイけど。 ユースケは、キタムラとふたりで奥の四人掛けのテーブルにいた。ジュンには白いワイシャツの広い背中しか見えない。テーブルの上のジョッキを右手でつかみ、どっかりと壁際の席にもたれて、ケータイは左耳に当てている。 やっぱ、オヤジ。 ふと口元が緩んで、ジュンの胸は温かくなる。自分に気づいたキタムラに、小さく手を上げて応える。 「キタムラがいるって、ふたりきりじゃん」 歩み寄りながら、けろっとした声でケータイのユースケに言ってみた。 『え! って、おまえ!』 振り向かれる前に、ぽんと肩を叩いてやった。ビクッとユースケが首をすくめるのを見て、プッと笑ってしまう。 「……おまえなー」 恨めしそうな目を向けてこられても、ユースケに見つめられてジュンはときめく。ニヤつく顔でケータイをポケットにしまう。 「そんなに驚いた?」 「早すぎなんだよ」 「早く会いたかったし」 「だからって、ケータイかけるより先に、こっちまで来ねえだろ、フツー」 飲まないで帰ってたら行き違いになってたぞ――ブツブツと口では文句を言いながらも、ユースケは照れている。そんなユースケをキタムラもやわらかな笑顔で見ている。 「座っていい?」 ジュンは、さりげなくキタムラに視線を流して言った。 「あ……」 目を合わせてきて、キタムラはハッとした顔になる。 「いや、俺は帰るから」 「なんで」 「なんでって――」 困ったように言われて少しムッとした。つい、言い返してしまう。 「なんか、勘違いしてる? またシュラバるとでも?」 「バーカ」 すかさず、ユースケに頭を軽く叩かれた。 「おまえはとりあえず座っとけ」 腕を取られ、強引に引かれた。空いていたユースケの隣の席にストンと座らされる。 「俺たちも帰るから。一緒に出よう」 そう言って、ユースケはキタムラの前の皿を差す。 「それ食っちゃえ。夕飯代わりなんだろ?」 「え? あ、ああ」 言われてキタムラは箸を上げるのだが、フッと笑みをこぼした。煮物をつまみながらも、くすくすと笑う。 「……なに?」 「おまえが緊張なんかしてっからだろ」 思わず眉をひそめたジュンに、ユースケが答えた。 「え?」 「らしくねえっての」 気のない声で言ってジョッキを取り上げ、ユースケは残っていた生ビールを飲み干す。 「そうじゃなくて」 ジュンにキタムラが笑いかけてきた。 「 「え……」 「前よりも、ずっと落ち着いた感じになった。なんて言うか……キラキラしてるのは変わらないけど」 「キラキラ、って――」 ユースケがまた吹き出した。ジュンがムッとする横で、臆面もなくゲラゲラと笑う。 「それ言うならチャラチャラだろ。髪はこんな色だし、服もド派手だし、こんな店じゃ浮きまくり」 「でも、よく似合っている。雑誌から抜け出たみたいだ」 「あ、あたりまえでしょ!」 ムキになってジュンが言い返しても、キタムラは穏やかに笑っていた。ふと視線を下げて、つぶやくように言う。 「いい感じだよ、ふたりとも。――うらやましいくらい」 ぽつりと落ちたその声で、ユースケの笑いが止まった。咄嗟に顔を向けたジュンの目に、やけに照れくさそうな横顔が映る。 「行くか」 いきなりユースケが立ち上がった。 「そうだな」 キタムラもすっと立ち上がる。 「夕飯、これで足りたか?」 「家に帰って足りなかったら何か食べるよ」 「そうか」 ぽかんとジュンが見ている間に、それぞれにスーツの上着を取って、バッグを手にした。テーブルにふたりの手が伸びてきて、ユースケの左手が伝票を取り上げる。 「あれ?」 キタムラは、タッチの差で伝票を取り損ねた姿勢のまま、目だけを上げてユースケを見た。 「なんだ?」 「いや……見間違いだったみたいだ」 ユースケに小突かれ、ハッとしてジュンも立ち上がる。三人でレジに向かう。 「見間違いって、何が?」 「なんでもない。気にしないでくれ」 「ヘンなヤツだな」 キタムラから離れ、ユースケは足早にレジの前に立った。 「あ、割り勘でいいぞ」 「今さら遠慮すんな、おまえ、ぜんぜん飲めないんだし」 「――そうなの?」 「え?」 声をもらしたジュンにキタムラが振り返る。だが、ユースケが代わりになって、レジの前から背中で答えた。 「こいつ、 「ふうん」 ジュンはつぶやくしかなく、間がもてずに髪に手をやった。いつもの癖だ。 「――あ」 「え?」 キタムラと目が合って、きょとんとする。キタムラは軽く見開いた目で、髪をかき上げるジュンの左手首をじっと見ている。 「なに……」 「べつに、何も」 口ではそう答えたが、すっと目をそらしたキタムラの横顔は、温かな笑みに染まった。 「キタムラ、おまえ千五百円な」 「えっ? それじゃ少なすぎだろう?」 ユースケに歩み寄るキタムラを目で追って、ジュンは急にドキドキしてくる。 今のって……。 浅い息をつき、キタムラに見つめられた左手首をそっと右手で包んだ。熱くなる眼差しで、ユースケの広い背中をまっすぐに見つめた。 「少し、歩かない?」 地下鉄の神田駅に向かうキタムラとは、居酒屋を出たところで別れた。ユースケとふたりになって、駅とは反対の方向にジュンは歩き出す。 「おい、ちょっと待てよ」 追いかけるようにして、ユースケが並んできた。ジュンの右隣に来て、スーツの上着とバッグを外側の手に持ち替える。 「おまえ、ホント歩くの好きだな」 呆れきったように言われてしまい、ジュンはチラッと視線を投げただけで、前を向いたままとぼけて言ってみる。 「飲んで歩くんじゃ、オヤジにはツライ?」 「バカ言うな」 すぐに笑って返され、頬が緩んだ。 「酔い覚ましになって、ちょうどいいでしょ」 「なんだ、泣かされたいだけか」 「酔ってちゃ、勃たないんじゃないの?」 「俺は、そこまでオヤジじゃないぞ」 一転してムッとされ、ジュンは笑ってしまう。夜風が心地いい。ユースケと並んで、にぎやかな場所を遠ざかる。 角を折れると広い通りに出た。ビルの窓の明かりもまばらで、行き交う車も多くなく、薄暗い無人の谷間のように感じられる。 ジュンは、さりげなく腰に回ってきたユースケの左手首を自分の左手でそっと包んだ。 「……気がついたみたいだったね」 熱くなる顔を伏せてぽつりと言えば、ユースケも照れた声で返してくる。 「ああ、そうみたいだな」 「卒業してからキタムラに会ったのは、今日が初めてだったんだ」 「そうだったな」 つぶやいてジュンの手をやんわりとほどき、入れ替わって、今度はユースケが手首をつかんできた。ジュンは、胸がいっぱいになる。唇から湿った吐息があふれた。 ふたりの左手首には同じ腕時計がある。Gショックの『タフソーラー』――モデルも、まったく同じだ。ユースケが先に愛用していたものを、ジュンがあとから自分で買った。 どうしてそうなったのか、その経緯はジュンには決して忘れられない。自分だけでなく、ユースケもそうに違いないとジュンは思う。でなければ、あの日、ユースケはあんなことを言い出しはしなかったはずだ。 今年の春、ジュンが高校を卒業した日、特別な思いでユースケの部屋で過ごした日――。 『ん? さすがにもう帰るか?』 『うん……ユースケ、明日は会社でしょ』 『なんだ? 急に殊勝なこと言って。高校を卒業したら、もうガキじゃないって?』 『あ、ダメだって』 ジュンはベッドを降りようとしていたのに、ユースケの腕に絡め取られた。再び肌と肌とが合わさり、熱い吐息があふれた。 『……今日は、昼からずっとだよ?』 『おまえでもギブアップか』 ユースケは笑って言ったが、そんなことは少しもなかった。何度抱かれてもユースケはひたすらにやさしかったし、ベッドで裸のまま取り留めもない話をした時間は、とても穏やかに流れていった。 だから、ユースケの腕の中で首を振り、ジュンはひっそりと言った。 『これじゃ、帰れなくなる――』 誰も自分を待つ人のいない自宅は、がらんと淋しいだけだった。卒業式を終えてしまっては高校に行くこともなくなり、翌日から何もすることがなかった。 ユースケは会社だし……。 『ごめんな』 唇を寄せてささやかれた声が、ひどく胸に染みた。こめかみにキスされたのを最後に、ジュンはベッドを降りた。 ユースケの部屋で制服を脱いだのは、その日が最初で最後だった。制服を手に取って、本当は高校生であることを隠してユースケとつきあってきた自分を思った。着替えながら涙ぐみそうになるのをぐっとこらえた。 『ジュン』 呼ばれたのは、制服姿に戻ったときだった。 『ほら、これ』 振り向けば、ベッドの中から伸びてきた手に腕時計を渡された。いつものように左手首につけようとして、気がついた。 『これ、ユースケの』 そのときは、間違えて渡されたと思ったのだ。ふたりの腕時計は、まったく同じだから。 だがユースケは、ベッドに横たわったまま何食わぬ顔で言った。 『今日から、そっちがおまえのだ。俺は、おまえのを使う』 『え』 『嫌か? そっちのほうが古いし、かなり使い込んでるから傷もあるしな』 ジュンは、すぐには声も出なかった。呆然と目を見開き、じっとユースケを見つめるだけだった。 『嫌ならいいんだ、そう言ってくれ。俺の自己満足って言うか、不甲斐なさの穴埋めって言うか――そんなもんだから』 そこまで言われて、やっと言葉が口をついた。震える声で、ジュンはつぶやいた。 『穴埋めって……なんで?』 ユースケの顔は苦い笑みに染まり、どこか投げやりな口調で返してきた。 『おまえに自分で買わせたからだ。そうなるとわかってたら、俺が買って渡したかった』 わかってなかったんだから、どうしようもなかったんだけど――気まずそうに目を伏せるユースケに、ジュンは思わず飛びついた。 『ユースケ!』 しっかりと首にかじりついたものの、涙があふれ、崩れて床に膝をついた。 『ぼくが勝手にしたことなのに。そんなふうに思ってくれてたなんて』 『ジュン』 肩にやさしく回されてきた手がたまらなかった。嗚咽が引くまで静かに背を撫でられた。 『それなら――』 ジュンは泣き濡れた顔を上げ、ユースケの目を覗き込んだ。深い色を映す瞳は、どこまでもやさしかった。 『お願い、ユースケがつけて。ぼくの、手に』 あのときのことを思い出すと、どこか神聖な気持ちで胸が張り裂けそうになる。あれはまるで、何かの儀式のようだった。 ユースケに腕時計をつけてもらい、その上から左手首を握られ、力強く引かれてキスを受けた。唇を重ねるだけの、淡いキスだった。気持ちを確かめるだけの――。 「もう、一駅分は歩いたな」 ユースケの声を聞いて、ジュンは顔を上げる。夜の道をぶらぶらと行くうちに、ふたりは皇居の外堀まで来ていた。 「ねえ、ユースケ」 「ん?」 「ぼく、そんなに変わった?」 フッとユースケは表情を緩める。 「そうだな。かなり変わった、いいほうへ」 「そうかな」 「前のおまえだったら、今日だって、店に来る前に行ったらマズイかなんて訊かなかったし、座る前に座ってもいいかなんて訊かなかっただろ? キタムラでも気づいたくらいだ」 「そうだったね――」 ガードレールの向こうを次々と車が過ぎていく。ふたりは時折ヘッドライトに照らされ、あとは静かな闇に包まれる。柳の揺れる夜の歩道には、ほかに人影はない。 「大学生になったことは、おまえには特別によかったんだな。おまえでも合わせてやろうと思えるヤツに出会えたんだ。今日の合コン、そいつとのつきあいだったんだろ?」 しんみりと言われ、ジュンは深く頷いた。そのとおりだと、改めて思う。 大学へは付属の高校からエスカレーター式に進学した。同学年の半数以上が自分と同じように進学したのだが、入学後は、それまでのつきあいが一切絶たれた。自分から望んで、そうなるようにした。 代わりのように、学外から受験して入学してきた友人ができた。五月の終わりには、何人かと親しくつきあうようになっていた。新しく、世界が開けたように感じた。 ――でも。 ジュンは思う。ユースケと出会っていなかったら、大学生になった今も自分はきっと変わっていなかった。ひとの気持ちを信じられない苦しみも、ひとの気持ちを信じる喜びも、自分に教えてくれたのはユースケだ。 今、そのことをユースケに伝えたい。 「ユースケ」 「なんだ?」 呼びかけはしたが、どこから話そうかとジュンは迷う。 「ぼく……ユースケがキタムラとふたりでいても、キレなかったでしょ」 とりあえず言ってみたのだが、すぐには何も返ってこなかった。間があいて、ジュンはユースケの横顔を見上げる。ユースケは、かすかに苦笑した顔を向けてきた。 「さあな」 「さあなって……なにそれ」 「シュラバるとか言ってなかったか?」 「あれは! ……わざとじゃん、予防線って言うか」 「わかってる」 ジュンを見つめ、ユースケはフッと口元を緩める。 「キタムラとは、別れて一年以上経つんだ。部署が替わっても普通につきあえてて、今だから言えるんだろうけど、本当にきれいに別れられたもんだと思う」 「けど」 つぶやいてジュンは視線を泳がせる。ユースケの声が追ってくる。 「どうした、今日はやけにおとなしいな。いつもは、いくらでも好きなこと言うくせに」 「しょうがないじゃん! 本当は、少し気持ちよかったんだから。元カレから……キタムラからユースケを取り戻せたみたいで」 ハハッと、声を上げてユースケは明るく笑った。やわらかな眼差しでジュンを包む。 「おまえ、マジ素直になったな」 「こういうことで言う?」 「喜んでるんだ、おまえの気持ちがうれしい」 「……そういうこと言う? て言うか、それ言うなら、ぼくのほうがもっとうれしい。ユースケの――」 言いかけて急に恥ずかしくなって、後が続かなくなった。ジュンは言葉を探して、遠く夜空を見つめる。 「だから……今もユースケと一緒に歩いていられるのが、すごくいい。ひとりで歩くのと、ぜんぜん違って――ほかの誰とも違って」 すっと息を飲み、ジュンはユースケに顔を向けた。しっかりと目を合わせ、思い切って言葉をつなぐ。 「ぼくは、ユースケといるとホッとするんだ。ユースケといられるから世界が変わったように感じる。前よりもっと自由になれて、何でもできるような気がする」 ピタッとユースケの足が止まった。ジュンは一歩過ぎて振り返る。 「ユースケ?」 次の瞬間、ふわっと大きな体に包まれた。きゅっと強く抱きしめられ、ジュンの鼓動は跳ね上がる。 「ユ、ユースケ……」 「ジュン」 ジュンの上ずった声に、ユースケの声がしっとりと低く響いて応えた。 「ジュン――」 ジュンの頭を肩に抱え、耳元に唇を寄せてユースケはささやく。 「どこでも好きなところへ行けばいい。やりたいこと、何でもやってこい。俺は、きっと変わらないから」 胸が詰まり、ジュンは声を出せない。聞かされたことに驚き、目を見開いて夜空を仰ぐ。 自分を抱きしめるユースケの腕の強さを思った。体温の熱さを、気持ちの深さを――。 「けど……やっぱ違うな。おまえはいつか飛び出していくようなヤツだから、そうなったときは、おまえともきれいに別れてやろうと思ってたけど」 「えっ?」 「無理だ。もう、絶対に無理」 「ユースケ……」 ジュンをそっと離し、ユースケは間近から目を合わせてくる。 「ジュン……変わったよ、本当に。急に変わって焦るくらいだけど――たまらない」 ジュンの頬を大きな手が包んだ。ユースケの眼差しが熱い。これまでにもなく、とても。 「無理だから。どこへ行っても、帰る先は俺だから。俺に必ず戻される」 「……ユースケ」 掠れた声がジュンの唇からこぼれ、ユースケの手からバッグが落ちた。ジュンの左手首がきつく握られる。 「あ」 鼓動が、激しく高鳴った。近づいてくる唇をジュンは震える思いで迎える。頬を包む手に自分の手を重ねる。その手首を握った。 その瞬間、湧き上がった歓喜に、ジュンは体中を痺れさせる。すべての音が遠のき、早鐘のように鳴る自分の鼓動だけを聞いた。 唇に触れた熱くやわらかな感触――頬を掠めるユースケの吐息――気持ちを確かめ合うキスは急に変わり、握った手首を互いに強く引き寄せ、濡れた音を立てて深く貪り合う。 時が止まったような感覚に陥った。 「は、あ……」 永遠に続くとも思えたキスから解かれ、ジュンは喘いで息を継ぐ。くたっと膝が折れて、ユースケの胸に崩れた。 体中が熱くて、息をするのも苦しい。顔がひどく火照って、胸は焦げそうなほどだ。 「ジュン」 ユースケのささやきが、それだけで溶かされるほど甘く耳に響いてくる。 「あきらめろ。これは、もう返さない」 今一度、左手首をぎゅっと握られた。熱くてたまらない体が、いっそう熱く滾った。 ジュンは、声を絞り出す。喘ぎながらも、きっぱりと言い渡す。 「ぼくだって。泣いて頼まれたって、嫌だ」 「ジュン――」 握っていた手首を解き、ユースケは、小さな子どもをあやすようにジュンを抱き直した。白いワイシャツの胸にすっぽりと受け止め、両腕でゆったりと絡め取る。 そうして無言のうちに、ふたりはしばらく夜風に吹かれた。外堀の水面を渡ってくる風は、火照った体にひんやりと心地よかった。 「ユースケ――」 「ん?」 深い吐息を落とし、ユースケの胸に顔をうずめたまま、ジュンはつぶやく。 「これって、すごく気持ちいいんだけど、やっぱユースケの部屋に行きたいって言うか――」 途端に吹き出し、ユースケはゲラゲラと笑う。その振動をまともに受けて、ジュンは気まずく顔を上げた。 「わかった。行こう」 すぐにそう返してきたが、ユースケの笑いは収まらない。駅に向かって歩き始めても、ジュンはどことなく府に落ちない気分だ。 「そんな、おかしなこと言ったかな――」 ムスッとした目をユースケに向けた。 「いや?」 「じゃあ、なんでいつまでも笑ってるわけ?」 「んー、ちょっとな」 「それ。やめてよね」 足を止めたジュンに、ユースケが苦笑して振り向く。 「しょうがないな」 わざとらしく、ため息をついた。くるりと背を見せながら言う。 「俺も早く帰りたいんだよ」 「なっ……」 サッと頬を染め、ジュンは広い背中に向かって言い放つ。 「なら、最初からそう言えばいいじゃん!」 ムッとしたまま、信号で止まったユースケに並んだら、いきなり手首を取られた。手のひらを開かされる。 「ほら、いいもんやるから機嫌直せ」 「……え」 そこに置かれたものを見つめ、ジュンは動けない。息を飲み、ただ呆然とする。 「あ。青になった、渡るぞ」 ユースケが大通りの長い横断歩道を渡り始めても、ジュンはまだ動けなかった。 「早くしろ! 信号変わるぞ!」 「ちょ、待ってよ!」 ハッとして、弾かれたようにユースケを追う。手の中にあるものをしっかりと握る。 これって――。 きっと、確かめるまでもない。ユースケの部屋の鍵に決まっている。 「急げ!」 ユースケに追いつき、歩行者信号の点滅する中、ふたりで残りを走りきった。すぐに車の走り出す音が聞こえてくる。 ジュンはドキドキしてたまらない。急に走ったせいだけではない。鍵を渡された意味を考え、うれしくて、照れくさくて、ついユースケに当たってしまう。 「これって反則!」 「……なんだよ、反則って」 「なんで今! こんなとこで!」 「いいから、行くぞ」 ユースケは、また先に立って歩き始める。すぐにオフィス街の明るい通りに出る。 「返品は受け付けないからな」 照れ隠しに不機嫌を装って並んできたジュンに、ユースケがチラッと視線を寄越した。 「返せって言われたって、もう返さないし」 ジュンが強気で言い返せば、横顔でユースケは笑った。ジュンの左手首に指先で触れてくる。 「やっと渡せてよかった。今日みたいなときは、先に行っていればいい」 ……それって。 照れくささを隠しきれなくなって、ジュンはうつむく。ユースケは、いつから鍵を用意してくれていたのか。本当は、どんなタイミングで渡すつもりだったのか。そんなことを思い、胸がいっぱいになった。 顔を上げれば、通りの先に東京駅が見える。歩道の人影も、ちらほらと目につく。 ジュンは、ホッと息をついた。手首にかすかに触れるユースケの指先を感じる。 これからも、いろいろ変わっていくかもしれないけど――。 自分の隣を歩くユースケを見つめた。見慣れた横顔は、いつもと少しも変わりなく温かかった。 「ん?」 視線に気づいてユースケが目を向けてくる。 「いつ来てもいいぞ。来たくなったら、いつでも」 そういうことが聞きたかったわけじゃないけど――。 ジュンは、ニッコリと笑う。自分的に極上と思う笑顔を見せつける。ユースケの頬がほのかに染まるのを見て、自分までドキドキするのを感じた。 おわり ◆作品一覧に戻る |
素材:若奥様工房