しっとりと、温かな感触に包まれ、岩瀬は目覚めた。いつもと変わりない日曜日の朝だ。ただ、少しだけ、これまでより熱を感じる。冬が過ぎて、春になったからか。 嶋田はまだ眠っていた。うつ伏せになって、岩瀬の肩に片方の腕をかけて、すがるように身を寄せて。 どんな朝も仰向けで目覚める岩瀬には、息苦しそうに見えてしまう。でも同時に、情事のあとにも甘えられているようで、ほんのりと胸が熱くなる。自分より、一周りは大きい男に。 恋人と言える関係になって、半年だ。週末に嶋田が泊まるのはもはや日常で、抱かれることにも、躊躇より歓びが大きくなった。 愛しいと、心から思う。特に、こんな朝を迎えると。穏やかで、やさしさに満ちている。 「……ん」 掛け布団に後ろ首までもぐった頭が動いた。寝乱れた髪の陰で、眠そうな目が開く。 「志信さん――」 ふわりと、一瞬で甘い笑顔になった恋人に、岩瀬も顔がほころぶ。寄せられてきた唇に、そっと応えた。 重なる素肌が心地よい。わずかな湿り気にも溶かされるようで、自分からも腕を絡めた。 甘い、甘い、砂糖菓子のような朝だ。春の陽射しにぬるみ、薄明るく照らされ、嶋田とふたりきりでいる寝室――地上に楽園があるならここに違いなく、それは束の間で、永遠に思える。 「外……よく晴れてるみたいですね」 目を上げ、掠れた声で嶋田がささやいた。 「ああ――遮光カーテンに替えたほうがいいか?」 「違いますよ」 くすっと間近で笑い、嶋田は長い腕を伸ばして、シャッとカーテンを開ける。 まぶしさに岩瀬は顔を伏せた。嶋田の胸にうずまるようになってしまう。嶋田の匂いを感じ、やわらかく胸が締めつけられる。 「志信さん」 はにかんだように呼ばれた。大きな手が、ゆったりと髪を撫でる。 「花見に行きませんか」 「――え」 窓の外を見やって、嶋田は言う。 「あそこ、ピンク色の輪になってる」 「ああ……」 目を向けなくても岩瀬にはわかった。 「運動公園だろう? 毎年、大した人出だ。区の施設だから露店は出ないのに」 「だったら、何か買い込んで行きましょう」 遠回しに断ったつもりが、あっさりかわされた。低いささやきが落ちてくる。 「――木を隠すなら森って言うでしょう?」 ギクッとして顔を上げた。にこやかに見つめ返され、視線が泳いでしまう。 「行きましょう。外でブランチも、たまにはいいじゃないですか」 返せる言葉がなかった。無意識にも卑屈になりかけた胸のうちを、またも見透かされたあとだった。 陸上競技場の外側を桜がぐるりと囲んでいる。マンションの上階からは輪に見えるわけだと、嶋田は朗らかに笑った。 満開の下で、観覧席のあちこちに花見のグループができている。芝生席には、レジャーシートを広げた家族連れがほとんどだ。 観覧席の横の扉を入って、ほぼ反対側まで来た。場所が狭くなり、数分は歩くからか、ほかより人が少ない。 「ここでいいでしょう」 嶋田が明るく言い、岩瀬は少し安堵したのを気取られたと思った。コンクリートの縁に腰を下ろすのを見て、うつむいて隣に並ぶ。 足の先より下の、赤茶色のトラックに小鳥がいた。ちょんちょんと跳ね、幅跳びの砂場の端から飛び立つ。 「さすがに腹が減りましたね。食べましょう」 さっそく嶋田は、買ってきたものを開いた。岩瀬とのあいだにレジ袋を敷き、そこに次々と並べる。 フランスパンのサンドウィッチはローストビーフと生ハムの二種類で、嶋田が選んだ。食パンのサンドウィッチも二種類で、こちらは卵とポテトサラダだ。岩瀬が選んだ。 「なんか、いかにもランチって感じですね」 フッと口元をゆるめて嶋田が言う。 「ブランチだろう?」 釣られてうっすらと笑み、岩瀬は返した。 「それも、ワイン付きだ」 ここまで遠回りして、いつものスーパーに寄って来たのだが、サンドウィッチは途中のベーカリーで先に買った。 『パンにしましょう。花見弁当もいいけど、箸を使うより食べやすいでしょ』 嶋田が言うからそうして、しかしスーパーにも寄ると言うからなんだろうと思っていたら、迷わずワインコーナーに入っていったのだから笑ってしまった。 『花見に酒はつきものでしょうよ』 よく冷えている白ワインが欲しいと嶋田が店員に言い、そうしたら、これから花見ですかと察せられて、プラスティックのコップと販促用のオープナーをサービスされた。 『毎度ありがとうございます』 ドキッとした。毎度と言われたからには顔を覚えられたと言うことだ。 木を隠すなら森――嶋田の一言が思い出され、すっと胸が冷えた。 『こっちこそ、ありがとう。サービスしてもらえて助かった』 さらりと店員に笑顔で返した嶋田に、さりげなく先を促された。 「男の花見で、飲まないなんてないですって。ほら、あそこも向こうも飲んでますよ」 慣れた手つきでワインのコルクを抜いて、嶋田が言う。 「そうだな」 コップに受けながら岩瀬はつぶやいた。自分たちの並びにも、対面の観覧席にも、男のふたり連れはぽつぽつ見える。むしろ、女性ふたり連れのほうが探しても見当たらない。 嶋田の手からワインを取り、注ぎ返した。 「乾杯しましょ。桜と、志信さんとの花見に」 ほほ笑んで岩瀬は応じる。透明のコップの中で、白ワインがほのかに黄色く目に映る。 先に口をつけた嶋田を見つめた。少し目を細めて見つめ返してきて、まぶしそうに笑う。 この顔が好きだ。一番好きな表情かもしれない。やわらかく、温かく、心が溶かされる。 ゆっくりと、ワインを口に運んだ。ふくよかな香り、やや辛口の、すっきりした味わい。 「……うまいな。いつもながら、うまいワインを選ぶ」 「なんですか、今さら」 くしゃっと笑った。一瞬でほころぶ、屈託のない笑顔――胸が満たされる。 好きだよ……愛している。 湧き上がる思いは確かなのに、すんなりと口にできない自身が歯がゆい。きっと、折々に触れて伝えられるなら、もっと嶋田を喜ばせられるはずなのに。 「……どうしたんです、そんな顔」 ワインを離し、嶋田はつぶやく。せつなげに見つめてくる。 「たまらなくなります――ここが外だって、忘れそうになる」 「……え?」 「いいです、べつに。今はふたりきりだし」 戸惑う岩瀬をよそに、サンドウィッチを開いた。パクッと食らいつき、頭上の桜に目をやる。 「いつも思うんですけど、桜の下で花見するんじゃ、よく見えませんよね。その点、ここはいい。三六〇度、どこを向いても桜だ」 「え……」 ふいと顔を背け、サンドウィッチを食べながらあたりを見渡す嶋田を、岩瀬はぽかんと見つめる。フッと笑ってしまった。顔を伏せて、自分もサンドウィッチを取り、今しがた自分はどんな顔を嶋田に見せたのか、なんとなくわかって照れくさかった。 きっと、幸せそうな顔。もしかしたら、蕩けそうに甘い表情。 どうしようもない。そういう気持ちでいるのだから。 胸が、詰まった。 温かい風が渡っていく。頭上で、さやさやと梢が鳴る。花びらが揺れる音かもしれない。 それほど静かだ。人のたくさんいる観覧席は陸上トラックを挟んだ向こうで、芝生席も右手ずっと奥で、にぎわっている様子は目に見えても声まで聞こえてこない。 自分たちの並びにいる人々は穏やかに花見を楽しんでいる。申し合わせたわけでもないのに、ほどほどに距離を置いて陣取っているから、そう感じられるのか。 フフッと、女性のやわらかい笑い声が聞こえた。よく耳を澄ませば、風に乗って子どもの笑い声も聞こえる。 「のどかですね」 それこそのんびりと嶋田が言い、ワインを注ぎ足してきた。おとなしく受けて、岩瀬も嶋田に注いで言う。 「気持ちいいよ。ワインとサンドウィッチで花見なんて、初めてかもしれない。うまいし、気楽でいい」 「ですね」 嶋田がほほ笑む。岩瀬もほほ笑んでいた。 そうして、たっぷり時間をかけて食事を楽しんだ。互いに何も言わずとも、そうなった。明るい春の中で、満開の桜に囲まれてふたりでいる。夢心地のひとときだ。 「……来てよかった」 ぽつんと口からこぼれた。岩瀬は、芝生席にいる家族連れを遠く眺める。 レジャーシートにぺたんと座った赤ん坊の口を母親が拭いている。その横を三歳ぐらいの男の子が笑いながら駆け回り、前かがみになって追う父親も笑っている。温かい。愛し、愛されている光景だと思う。 「また来たいよ、何度でも」 「志信さん……」 なぜか不安そうに、嶋田が覗き込んできた。 「今年に何度もと言うわけじゃない」 はにかんで岩瀬は言葉を補う。 「来年や再来年……何年後でも、今日みたいにきみと花見ができるなら――ちょ、おい」 慌てた。くたっと嶋田が肩にもたれかけてきた。つい両手で押し返したことに意味はない。咄嗟に支えようとしただけだ。 「いいです、それで」 抗うようにして、いっそう嶋田はもたれてくる。甘えるみたいに、額を肩に擦りつけた。 「そうやって困っていてください。他人には、俺が酔っ払ってるようにしか見えないから」 「嶋田……」 ザッと、強い風が吹き抜けた。はらはらと花びらが舞い落ちてくる。 「……違うんだ」 浅く息を飲んで、岩瀬は嶋田を受け止める。 「うれしいから……照れるから」 「俺のほうです」 岩瀬の肩に顔を伏せて、うめくように嶋田が言った。 「来年も、その次の年も何年後も、志信さんと花見ができるなんて、志信さんから言ってくれるなんて、……胸がいっぱいで」 「私だって――言うときは言うよ」 「……はい」 「それに、ふたりでワイン一本では、酔ったとは言い訳できないだろう」 「いいんです、今日の俺は酒に弱いから」 笑ってしまった。嶋田も顔を伏せたまま、肩を震わせて笑う。 「幸せだ」 気負わずに言えた。気持ちがそっくり言葉になった。 「俺もです、とても」 すぐに応えるが、嶋田はまだ顔を上げない。そっと、岩瀬は下から覗き込んだ。 「――志信さんっ」 サッと染まる頬が目に映った。離れかけた嶋田の肩を軽く押さえた。 唇を触れ合わせる。抑えきれずに、舌先を挿し入れた。だがすぐに離れる。 頬が紅潮していくのが感じられた。嶋田も赤くしている。うつむく嶋田と、見上げる自分とで目が合って、いっそ視線が絡み合う。 どくどくと、胸が高鳴っていた。風が運ぶ人の声に、背筋がビクッとする。 「……志信さん、なんで」 声を掠れさせて、嶋田がこぼした。 「なんでも何も」 答えて、岩瀬はコクっと喉が鳴る。 「はた目には、酔っ払いを気づかってるようにしか見えないだろう?」 見る間に嶋田は目を丸くした。たちまち、肩を揺らして笑い出す。 「……今日は、私も酒に弱いんだ」 気まずく姿勢を戻してつぶやいた。嶋田は仰け反るようになって、まだ笑う。 「あー……いいなあ」 そう漏らすと、ぱたんと後ろに倒れた。芝生とも草地ともつかない地面に仰向けになり、頭の下に腕を回す。 「もう、どうしたらいいかわかんないくらい、気持ちいい。桜が、すごくきれいです」 「……嶋田」 胸が熱かった。嶋田の顔が蕩けそうに見える。たまらなかった。 「いつか、遠くまで桜を見に行かないか。来年でなくてもいい。本当に、いつか」 嶋田は黙って目を向けてくる。じっと見つめられた。 温かな風が頬を撫でる。唇に桜の花びらがつく。胸がときめいてならなくて、嶋田の眼差しを受けていたくて、ほんのわずかでも動けない。 「志信さん」 低く、甘い声が呼んだ。すっと上がった大きな手が、唇を掠めた。その手が下がって、自分の手を強く握った。 鼓動が跳ね上がるのを抑えられない。嶋田の思いが胸に迫って、自分と同じとわかる。 だから、言った。 「今夜も、泊まっていかないか」 「いいんですか?」 嶋田の表情は変わらなかった。 「私がそうしてほしいんだ」 吐息を震わせて岩瀬は続ける。 「私が……そう願っているんだ」 なんて傲慢な言葉だろうと思う。自分が願うのだから従えと言っているのも同じだ。 ぎゅっと、さらに強く手を握られた。 「歯止めが効かなくなる……いいんですか?」 いっそ、淡々と嶋田は言った。 カッと頬が火照るのを感じた。うつむきそうになるのをこらえ、嶋田の眼差しから逃れたくなくて、岩瀬は浅くうなずいた。 「たまらない」 苦しそうにこぼし、嶋田は握った手を頬に持っていく。その肌触りに胸が締めつけられ、岩瀬は手を開いて嶋田の頬を包んだ。 「あなたが、さっき向こうの家族連れを見てたから……」 どんな気持ちで嶋田が言うのか、痛いほどわかった。 「そうじゃないんだ」 思いを込めて、嶋田を見つめる。 「自分の幸せを感じていたんだ」 ハッと、驚いた目を嶋田は向けてきた。 「本当に、しみじみと」 岩瀬は笑んで見せる。嶋田の頬を、指先でなぞった。 「この先、ずっときみといたい」 「志信さん……」 再び呼ばれたが、その声は詰まっていた。 嶋田は気づいているだろうか。岩瀬は思う。愛される喜びを気づかせてくれたのは、嶋田だ。どれほど自分が愛され、恵まれて生きてきたかを気づかせてくれて、嶋田からも愛される喜びを身にしみて感じさせてくれた。 「だから……歯止めなんて、考えなくていい」 本心から、そう言った。 「あなたって人は、もう!」 いきなり身を起こして、嶋田が抱きついてくる。慌ててしまったのはしょうがない。 「いいです、そうやって困っていて」 「篤史」 「こんなときに、名前で呼ばないでください」 「でも――」 くすっと、互いに笑ってしまった。先ほどの繰り返しだ。 「酔っ払いですね」 「酔っ払いだ」 並んで座り直し、もう残り少ないワインを酌み交わす。 春だ。桜が満開に咲き誇る春だ。 「行きましょう。来年は、遠出して桜を見に」 「どこがいいかな」 「そうですね――」 折り重なる桜の陰で、ふたりで翌年の花見を相談する。翌年にもまた、きっと同じことになる。 そんな自分たちが思い浮かび、岩瀬はこの上ない幸福に酔いしれた。 嶋田との春は、終わらない。 おわり ◆作品一覧に戻る |
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