Words & Emotion Written by 奥杜レイ
「ハネムーン・イリュージョン」
☆「薔薇に天使」番外編☆
上原は浮かれていた。七年に及ぶ交際を経て、やっと愛する彼女と結婚できたのだから。
大家の住居を兼ねた賃貸マンションを設計し、その建設期間中であったにも関わらず、婚姻休暇をとれてハネムーンに行けたことも、また、上原を浮かれさせていた。
世界が輝いて見える。そしてなぜか、一週間ぶりに会社で会った、同僚の小宮までもが輝いて見える。普段はポーカーフェイスの彼が、どういうわけか、充実し、生き生きとしている。
そしてまたなぜか、小宮を敬遠していたはずの浅葉が、すっかり小宮に懐いている――ように見える。やけに親しげだ。
どうしたことだろうか。
どうしたと考えることでもないか――。
上原は思う。
俺のいないあいだに仲良くなってくれたんなら、それはそれでいいことだ――。
どんなふうに、どのくらい彼らが仲良くなったかなど、上原には測り知る由もない。上原は同性愛者ではないのだから。
「小宮サン、和田サンとこの契約、取れました」
ゴールデンウィークが明けての月曜日。出社するなり、浅葉は小宮のデスクに駆け寄るようにして言った。
おや、と上原は思ってしまう。今までなら、このような場合、デスクが隣であることもあって、浅葉は真っ先に上原に報告していたはずだ。
「おまえなら当然だろう?」
小宮はにっこりと浅葉を見上げる。屈託のない、心からの明るい笑顔だ。
小宮が浅葉にあんな顔見せるなんて――。
上原には、かなり意外に思えた。
「小宮サンがアドバイスしてくれたおかげですよ」
浅葉のその返答にも、上原は驚いてしまう。そんな素直なセリフを浅葉が小宮に言うのを聞くのも初めてのように思えた。今までなら、『それもそうですね』と返すのが落ちだ。
そうか……俺、いなかったんだし、浅葉は小宮を頼るしかなかったから――。
上原らしい、素直な発想だ。
今まで以上に職場が和やかならば、それでいいではないか。
課長が仕事のまとめ役なら、上原は職場の人間関係のまとめ役を引き受けているようなものだ。望んでそうしているわけではないのに、気づけばそうなっているのが上原なのである。
俺って……シアワセだよなあ――。
休暇中の仕事にトラブルはなかったし。職場は以前よりも和やかだし。何よりも、上原は新婚で、それだけで毎日が楽しいし――。
人間、知らないほうがいいことは、かなりあるものである。
婚姻休暇にゴールデンウィークが続いて、上原の仕事はたまっていた。和やかな気分を味わえたのは、始業前のひとときだけだった。
日中は、『大家の住居兼賃貸マンション』の工事監理で終わった。休暇中にリフォームの新規案件が入っていて、その担当が自分に回ってきたため、帰社してからは依頼主との打ち合わせの準備を始めた。
自社設計の個人宅のリフォームだが、新築の際に設計を担当した社員は退職している。図面は小宮が資料庫から探し出してくれていたので、それを見ながらリフォームの具体案を練った。
依頼主の要望をどこまで汲み取り、それをどれだけ実現できるかが、設計プランナーの腕の見せどころと言える。コミュニケーション能力はもとより、依頼主を満足させられるプランの発想力が求められ――予算の制限がある中で、さまざまなプランを練るのは、上原には楽しみでもある。
没頭していて、終業時刻が過ぎたのも気がつかなかった。
途中、小宮が帰社した際には、軽く声をかけておいた。しかし今、顔を上げてみれば、向かいのデスクに小宮はいない。ふと見れば、和田宅のリフォーム図面を引いていた浅葉も、いつのまにかいなくなっている。
ふたりとも、上原に挨拶もなしに退社したわけではないのは、それぞれのデスクを見ればわかる。まだ片付いていない。
「――帰るか」
凝り固まった肩をほぐし、上原は軽く伸びをする。新妻が新居で待つことを思えば、さほど急ぎを要する仕事ではないのだから、すぐにでも帰宅したい気持ちになってくる。
それにしても、小宮も浅葉もどこに行ったのか。ふたりが席をはずしている間に退社してしまうのは心苦しく思える。
上原は席を立ち、図面を資料庫に戻しに行く。
資料庫は同じ階の一番奥、隣はロッカールームを兼ねた休憩室だ。どちらも無人の際は照明を落としてある。
図面を戻そうと、資料庫に入りかけたときだ。暗い休憩室からかすかに声が聞こえた。
「……この次は、二丁目に行きましょうよ」
浅葉の声だ。
なんだ、休憩室にいたのか――。
オフィス内は禁煙、喫煙は休憩室に限られているから、浅葉はタバコを吸いに休憩室にいたのかと上原は思った。
「だから、そういうのは――」
浅葉に答えたのは小宮の声だ。小宮まで休憩室にいたとは少し意外に思えた。
しかし、小宮がコーヒー好きなのを思えば、それほど意外なことではないと、上原は思い直す。仕事の区切りに一息つきに来ているだけだろう。
だけど――。
なんで、ふたりもいるのに、電気つけてないんだ?
上原は思い、資料庫に入りかけた足を止める。
ちょっとコーヒーを買うだけ――などと言う場合は、面倒で照明をつけないことはよくある。自販機の明かりだけで、小銭を取り出すには十分だからだ。しかし――。
「オレ、あんたを自慢したいよ」
低く、かすかに浅葉の声が続いた。
「美人なのに……こんなにかわいいって――」
……美人でかわいい――?
それが自分の新妻に向けられた言葉なら、上原とて驚きはしない。
浅葉といるの、小宮じゃないのか――?
しかし、さっきの声は小宮だったはずだ。まさか、同期の小宮の声を聞き違えるなんて――たとえ新婚ボケしているとしても、上原には考えられないことだ。
浅葉、誰を口説いている――?
節度ある上原でも興味を覚えてしまったのは仕方ない。『恋人にしたい男性社員ナンバーワン』と社内で密かに噂されている浅葉である。『結婚したい男性社員』ではないところがご愛嬌ではあるが。
さっきの小宮の声は本当に聞き違いだったのか、浅葉といるのは女性社員なのか――。
それなら、誰だ?
覗きをするという、いくぶんの後ろめたさを感じながらも、上原はひょいと顔だけを出してみる。
夜景の広がる窓を背景に、ふたつの人影――それぞれの手に紙カップがあるのが、かろうじてわかる。
「……かわいいって、言うな」
吐息めいた声が聞こえ――背の高いシルエットが、それよりも背の低いシルエットに身を屈めた。
「ん……」
上原の胸をもざわめかせる、あえかな声――。
ふたつの人影は、顔を合わせると、そっと離れていった。
「バカ……こんなところで――」
甘い響きで吐き出された小さな声――。
「……ごめん、小宮サン、でも、オレ――」
すっと伸びた長身のシルエットの手が、相手の頬に触れる。
「――秀二」
もう、上原は顔を引っ込めるしかなかった。意識せずとも忍び足になり、音を立てずに資料庫に入る。
ホッとしたものの、鼓動が激しい。今、目にしたのは何だったのか。
都心の夜景を映す大きな窓を背景に――長身のシルエットの顔が相手の顔にかぶさるように近づき――重ねられた唇――キス。
……きっと、見間違いだ。
休憩室は暗く、遠近感はおぼつかなかった。
しかし――。
あの、甘くあえかな声――上原の胸をもざわめかせるほどの――。
「えーっと……」
上原はメガネを押さえる。目にしたのは確かなのに、その事実を飲み込めない。
ロマンティックで甘美なワンシーンだった。新婚の上原には共感を覚えずにはいられない、恋人同士のほほえましい光景だ。
ただしそれが、小宮と浅葉でなければ――。
「まあ、いいか……」
上原は図面を棚のファイルにしまう。デスクに戻り、在席の社員にだけ挨拶を済ませてオフィスを出る。
新妻が上原を待っているはずだ。上原は浮かれていた。ハネムーンの余韻が見せた幻は、すぐにでも忘れられそうに思えた。了
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