Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「恋じゃなく」

 


 毅(つよし)が出て行ってから二週間が経とうとしていた。自分ひとり、自宅の古いアパートで日がな一日ごろごろ過ごすのは、弘孝(ひろたか)には何日目になるだろうか。
 公休は週に二日、それ以外にも三日に一度の割合で当直明けの日がある。当直明けの日は、何事もなければ午前中に帰宅できるので、公休の日とさほど変わりない。
 今日も当直明けだった。相変わらず、交通事故は毎日のように起きるのだが、昨夜は刑事課の弘孝まで駆り出されることはなかった。ちょっとした小競り合いやら、酔っ払いの保護やらもあったようだが、それらは地域課や生活安全課の警察官が対処し、弘孝は仮眠を妨げられることもなかった。
 何をするでもなく、ぼんやりとタバコを吸っている。コタツの上に広げた新聞は、さっきから社会面のままだ。
 毅と暮らすようになる前は、こんな時間をどんなふうに過ごしていたのかと弘孝は思った。今と大差なかったはずなのに、ずいぶん違うような気がする。
 窓の外は冬晴れのいい天気だ。大気はキンと澄み切っているが、気温はさほど低くない。午後の陽射しは室内に長く伸び、足を突っ込んでいるコタツのスイッチは入っていない。
 弘孝はタバコを灰皿にもみ消すと、畳の上にごろりと仰向けになった。頭の下に腕を組んで天井を見上げる。煤けた木目を数え、やはり毅は出て行ったのかと、それを思った。


 先々週の木曜日だった。その夜から一週間ロケに行くと、毅は帰宅したばかりの弘孝に言った。芸能人に無関心な弘孝にはその名前すら知らない若いアイドルが写真集を出すとかで、そのアイドルの専属スタイリストのアシスタントをしている毅がロケに同行するのは当然だった。
「またか?」
 しかし、着替えを済ませもしないうちにそれを聞かされ、弘孝はついそう言ってしまった。
「また、ってさ、なんだよそれ。仕事なんだからしょうがないだろう?」
 いつになくきつい声で言い返した毅が、なぜか腹立たしかった。
「またじゃないか。先週だって雑誌の撮影とかで何日も帰らなかったし、おまえがいないのはしょっちゅうだ」
「それがおれの仕事なんだから、あたりまえだっての」
 そんなことはわかっている。師事しているスタイリストに始終同行するのがアシスタントである毅の仕事だ。
 そんなことはわかっている、わかっているのだが――。
「何度も言ってるけど、おれの先生は忙しいんだよ。忙しいのはそれだけ実力が認められてるってこと。こんなこと、口で言っただけじゃわからないだろうけど、あんたはファッションなんてぜんぜん興味ないから」
 憤然と言い放った毅から顔を背けた。視界の外で毅が舌打ちしたのが聞こえた。
「結局、あんたも今までのやつらと変わらないってことか」
 その言い方にカチンときて目を戻した。毅は苦々しげな顔で弘孝を見ていた。
「あんたとならずっと一緒に暮らしていけるって思ってたけど、そうでもなさそうだな」
「どういう意味だ」
「言ったとおりだよ。とにかくおれ、もう行かないと遅れるから。じゃあな」
 玄関に向かう後ろ姿を黙って見送った。どこにそんな力があるのかと思えるほど細く見える体が、中身で膨れた重そうな黒いナイロンバッグを肩に掛けていた。もう片方の手にも大きなボストンバッグを提げていた。
 黒いハーフコートと穿き込んだジーンズ、肩に揺れるさらりとした茶色い髪が玄関ドアの向こうに消えた時、見慣れた光景であったのに、弘孝には、毅は仕事に出かけたのではなく、このアパートを出て行ったように見えた。
 ひとり残されて、ため息が出た。毅が言い捨てた言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
『あんたも今までのやつらと変わらない』
『ずっと一緒に暮らしていけるって思ってたけど、そうでもなさそうだ』
 違う、と弘孝は内心でつぶやく。そんなことはない、と思う。
 クローゼットの前に立って、のろのろと着替え始めた。毅が何を言いたかったのか、弘孝には十分わかるから、それを否定する時間もなく送り出すしかなかったのが悔しかった。
 警察官とスタイリストの卵、業種はまるっきり異なるが、生活が不規則なのは弘孝と毅の共通点だ。
『やっぱ、ひとりで生きてくのって辛いじゃん? でもさ、おれの仕事って何日もどこかに行っちゃうような仕事だから、まともに付き合える相手ができても、すぐにダメになっちゃうんだ』
 毅が弘孝にそう話したのは、いつのことだったろう。一緒に暮らすようになってからだったか、その前だったか。
 それを聞かされた時、弘孝は深く頷いてみせた。警察官である弘孝も、大きな事件を抱えた時など、何日も家に帰れないのはざらである。
『おかしいよなあ、そう思わない? 互いに仕事を持っててさ、なのに、会えなくて淋しいとか、よく言うぜって思わない?』
 苦笑してそう言った毅の顔は、鮮やかに記憶に残っている。
『おれは一人前のスタイリストに早くなりたい。そのためにがんばってるのにさ、会いたい時に会えないのが嫌だなんて、じゃあ、おれに夢を諦めろって言うのかっての』
 そう、あれはバーだった。ふたりが出会ったバーで、弘孝と毅はそんな話をしたのだ。
『甘ったれた関係なんて、おれは嫌だな』
 毅はつぶやいてグラスを呷り、目を戻して弘孝をじっくりと見つめた。
『だけど、ひとりでいるのも嫌だなんて、おれ、贅沢?』
 ――贅沢じゃないさ。
 ネクタイを緩めていた手が止まっていたことに気づいて、弘孝は我に返った。喉の奥で苦く笑い、さっさとスーツを脱ぎ捨てる。
 クローゼットを開けると、ざっくりとした灰色のセーターを手に取り、ふと、それは毅が見立ててくれたものであるのを思った。
『あんたカッコイイのに、なんでそんなに構わないわけ?』
 セーターを被り、ジーンズを穿く。ビジネスソックスを脱いだら、弘孝は冬でも裸足だ。毅と一緒に暮らすようになってからは、スウェットスーツを部屋着にすることはなくなっていた。
 クローゼットを閉じると、横にある姿見に映る自分の姿が目に飛び込んできた。姿見は毅が持ち込んだ物だ。
 ……こんな男がかっこいいかよ。
 鏡に映る自分に向かって胸中で言い捨てた。真っ黒で硬い短い髪。冬でも浅黒く日に焼けた顔。訓練と柔道で鍛えられたがっちりした体。でも、どこかくたびれたような風貌――。
 かっこいいわけがない。仕事に出かける毅を笑顔で見送れなかった男だ。すれ違いの日々が続いて、苛ついていた男だ。苛つきは抑えようがなかったとしても、それを匂わせてしまったのは恥だ。
 三十路を迎えた大の男が、なんというていたらくなんだ。帰ってきた時には、毅が帰ってきた時こそは、笑顔で「おかえり」と言おう、きっと、言おう――。


 閉じていたまぶたを開けると、また、天井の煤けた木目が目に映った。弘孝は、投げやりなため息をついて、仰向けていた体を横にする。
 窓の外に夕暮れが広がり始めていた。冬の日没は早い。そろそろ四時を回る頃なのだろうか。そう思っても時計を見る気にはなれない。帰宅してから簡単な昼食を済ませ、この後、また夕食はひとりであるのを思った。
 毅と一緒に暮らすようになっても、食事はひとりのことが多かった。不規則とは先に聞いていたが、スタイリストのアシスタントの生活がどんなものなのかを知ったのは、実際に一緒に暮らし始めてからだ。
 毅が仕事に行くのは朝九時頃が多い。ただし、日帰りのロケの日は早朝になる。帰宅は深夜がほとんどだ。
 モデルに着せる服はブティックなどからの借り物だそうで、それら数十着を返却するためのアイロンがけやらタグの付け直しやらの後片付けがあって、どうしても帰宅は遅くになるらしい。
 弘孝の帰宅も日によってまちまちで、ふたりが顔を合わせるのは、休日が同じになる場合を除けば朝に限られていた。それも、朝食まで共にできるのは弘孝の公休の日だけで、数日に一度のことだ。
 それでも、警察の寮を出てから数年に渡ってひとり暮らしをしていた弘孝には、思いのほか温かな日々だった。
 朝、ベッドで目覚めると、隣の床に敷いた蒲団に毅が眠っている。夜の遅い毅を起こさないように、そっと足を忍ばせてベッドから抜け出て、台所で朝食を済ませてから部屋に戻りスーツに着替えるのだが、その際には必ず、寝ぼけた声が「いってらっしゃい」と言ってくれた。
 夜だってそうだ。たとえ、誰もいない真っ暗な部屋に戻っても、その数時間後には毅は帰ってきた。ベッドに忍び込まれてそれに気づいたとしても、弘孝は眠りに落ちたまま笑んで、隣に横たわる温かな体に腕を回した。
 俺たちの暮らしって何だったんだろう……。
 一週間のロケだと言っていたのに、二週間になろうとしても帰ってこない毅に、弘孝はため息をつく。
 初めの一週間は、ただ、待っていた。仕事に行ったのだから、終われば帰ってくると信じていた。
 十日を過ぎた時、思い余って毅の携帯電話に電話した。だが、圏外で通じなかった。そう言えば、どこに行くのかを聞き損ねていたと、その時になって気づいた。
 毅が師事するスタイリストの事務所に電話してみようかとも思った。しかし、電話してどうなるのかを思うと、できなかった。ロケが予定外に長引いているのなら徒労に終わるし、もし、毅の「先生」が戻っていたのなら、それは何を意味することになるのか。
 結局、事務所には電話しないまま二日が経つ。古いアパートの二階、2DKの間取り、居間にしているこの和室のラックから、毅にとっては宝物とも言えるポートフォリオが消えているのに気づいたのは、今日、帰宅してしばらくしてからだった。
 毅のポートフォリオはA4ほどの大きさで、クリアファイルのようなものだ。今までに毅がスタイリングした「作品」の写真が収められている。師事したいスタイリストなどに見せて、自分を売り込むためのものだと弘孝は聞かされていた。
 自腹を切ってモデルを雇い、プロのカメラマンに写真を撮ってもらう。仕事を通じてプロのモデルともカメラマンとも知り合いになれるそうだが、そこに収められている写真はどれも、ファッションに疎い弘孝でも目を見張るものばかりだった。
 その中に一枚だけ、弘孝がモデルをしたものが入っていた。現職の警察官がファッションモデルなんてとんでもないと、その時の弘孝は固辞したのだが、公にはならないからと、毅に熱心に口説かれて渋々応じたものだ。
 あの日のことが思い出される。
 ちっとも乗り気でないのに、半ばむりやりスタジオに連れて行かれた。着せ替え人形にさせられるのだと憂鬱な気分に浸っていたのは、撮影が始まるまでだったのは意外だった。
 普段は横柄な口振りの毅が、職場になるとガラリと変わった。丁寧な言葉遣いでカメラマンに対する敬意に溢れ、きびきびと動いて自身の作品を創り上げる情熱に満ちていた。
 スタイリングされた服装に着替えた弘孝が白いスクリーンの前に立つと、黙々とあちらこちらをチェックした。袖丈やらズボンの裾やらをピンで微妙に調整したり、襟の開き具合を直したり、それは真剣そのものだった。
 弘孝は、場の雰囲気に圧されて緊張してしまい、初めの数着はガチガチのままだった。素人なのだから無理もないと思えたのは帰ってからだったが、最後のスーツを素肌に直に着ろと言われた時は、途端に自分を取り戻してムッとした。
『いいね、それでこそ弘孝だ』
 どういうつもりで毅がそう囁いたのかは定かではないが、それで、なんで自分がモデルなんかやらされているんだとすっかり頭にきてしまって、緊張が解けたのは事実だった。
 その、最後のスーツ姿の写真が毅のポートフォリオに入っていた。苦みばしった三十男が素肌にスーツを着て仁王立ちになって、カメラを睨みつけているような写真だった。まるで、自分ではないと思えるほど、男の色気が滴るような映りだった。
 いずれにしても、あの日の毅を知って、弘孝は毅の仕事の内容と、毅の仕事に賭ける情熱を理解したのだ。
 惚れ直した――そう言ってもいい。
 そう、確かに惚れ直したのだ。惚れ直したのがあの日なら、それなら一体、いつ毅に惚れたのだろうと弘孝は思う。
 惚れたのがいつなのかなんて……。
 今さら思い返しても無意味なのかもしれない。ポートフォリオがこの家から消えているのがいい証拠なのではないか。
 もしかしなくても、毅はここに帰ってくる気がないのかもしれない。いくら出掛けに気まずい言い合いをしたとは言え、予定の一週間が過ぎても毅から何の連絡がないのもその証拠に思えた。
 弘孝の目に、赤みを増した冬の西空が映った。上空は研ぎ澄まされたような藍色を深めている。東の空には薄闇が忍び寄っていた。
 ……そうか、俺は毅に惚れていたんだ――。
 今頃になって、そんな自覚が弘孝を襲った。思えば、あまりにも曖昧な暮らしだったのだ。
 当初、一緒に暮らすのは、約束されたものではなかった。住処が決まるまでの間だけでいいと毅が言ったから、それならいいかと、軽い気持ちで弘孝は応じていた。
 そもそも、毅が弘孝の家に転がり込んできたのも唐突だったのだ。その日までにふたりが会ったのは数えるほどだったのに、あの日の弘孝は当直明けだと毅は知っていて、弘孝の勤務する警察署の前で弘孝を待っていた。
「どうも」
 毅はガードレールから腰を上げると、門から出てきた弘孝に照れくさげな声をかけてきた。突然のことに弘孝は唖然としてしまい、すぐには声が出なかった。
 弘孝にとって、毅は夜に棲む人物だったし、職場の誰にも会わせたくない相手だった。それよりも、いつ帰宅の途につくともわからない自分を、こんな場所で待っているとは思いもしなかったのだ。
 署からひとりで出てきたことにほっと胸を撫で下ろし、弘孝は毅に目で答えると、足を止めずに駅への道を急いだ。そんな弘孝を追って、毅は隣に並んだ。
「どうしたんだ、こんな時間にこんな場所で」
 苛立ちよりも驚きが大きかった。毅にそう尋ねた弘孝の声がやわらかかったことに安心したのか、毅は軽く答えた。
「住むところ、なくなっちゃって。しばらく、あんたの家に置いてくれない?」
「住むところがなくなったって――」
「同居してたヤツとちょっとあってさ」
 同居と聞いて、弘孝は眉をひそめた。毅は慌てたように言い足した。
「あ、勘違いしないでよ。アイツはストレートだし、おれ、付き合ってる相手がいるのに、ほかのヤツとどうのこうのってないから」
「――なら、なんで追い出されたんだ?」
「追い出された、って、そんなんじゃない。アイツもスタイリスト目指してたんだけど、諦めて別の仕事探し始めたんだ。……そんなヤツと一緒に暮らすのって、辛いじゃん。昨日の夜、なんかもう、ダメだって感じになってさ――それで、おれ、飛び出しちゃったんだ。そうなると……帰れないじゃん」
「なるほど」
 弘孝は隣を歩く毅を眺めた。大きくて重そうな黒いナイロンバッグをひとつ肩に掛けているだけだ。ちらちらと弘孝を窺うような眼差しを投げて、しゅんと縮こまっている。
「ほかに当てはないのか」
「ないよ。事務所の人には迷惑かけられないし、おれ、頼れる友達なんて、仕事始めてからいなくなったし。て言うか、みんなサラリーマンで、おれが押しかけたら迷惑なだけだ」
「……俺のところに押しかけるのは、迷惑にならないのか」
「だって……おれたち、付き合ってんだろ?」
 心許ない声でそう言って、弘孝を見上げる毅は年相応の二十三歳に見えた。弘孝がそれまでに幾度か会った、いつも高飛車で自信満々な毅とは異なって見えた。
「まあな――確かに、俺たちは付き合っていると言えるな」
 苦笑混じりに弘孝が言えば、毅はむきになって返した。
「なんだよ、その言い方。おれはそのつもりだったけど、あんたは違うのかよ」
「いや? 俺もおまえと付き合っているつもりだったけど?」
「なら、いいじゃん。しばらく置いてよ。そうすれば会うの、面倒じゃないし。だいたい、あんた掴まえるの大変なんだから」
「それを言うなら、そっちだって同じだろ? 休みが合わないのは俺だけのせいじゃない」
「それなら、なおさらじゃん。いいだろ? しばらくあんたの家にいさせてくれよ」
「――しょうがないな」
「サンキュ」
 満面に笑みを湛えてそう言った毅は、急に足取りも軽くなったようだった。照れくさそうに顔を伏せ、そっと弘孝の手を握った。弘孝は、その手を振り解きはしなかった。
 そんなふうに始まったふたりの暮らしだが、休日が合えば、連れ立って買い物にも出かけた。着る物に頓着しない弘孝に、あれこれと見立てる毅は楽しそうだった。
 一日中、のんびりと家で過ごす日もあった。
 秋の陽射しが溢れる居間で、座り込んで畳に広げた新聞を弘孝が読んでいると、その背に自分の背をもたせかけて毅はファッション誌を見たりした。どうやら毅は、そんな何気ない触れ合いが好きなようだった。
「あのさ」
 毅がそれを言い出したのも、互いの背と背を合わせて畳に座っていた時だ。
「なに?」
「おれ、部屋探すのやめてもいい?」
 毅の声が背を通して弘孝の胸に響いた。弘孝は新聞から目も上げずに答えた。
「なんで」
「なんでって……。だってさ――おれ、あんたといると、なんか、すっごく楽。つまんないこと言わないし、あんたが待っててくれると思うと帰るのも楽しくなるし、寝てるとこベッドに入っても文句言わないし」
「なんだ? それ」
「だからさ――おれ、仕事してる時って、すっげえ緊張するわけ。楽しいけど、スタイリストって気配りの仕事だから。あんたのとこに帰ると、なんかほっとすんだよね。あったかいし、大きいし」
 弘孝はくすくすと笑い出してしまった。その振動が伝わったのだろう、毅はくすぐったそうに身をよじって弘孝を覗き込んだ。
「笑わなくたっていいじゃん」
「ま、俺はでかいからな」
「そうじゃなくて――」
「甘ったれ」
「ちが……」
 その先は言わせずに、弘孝は毅の唇を塞いだ。もつれて、ふたりして畳に倒れた。
 秋の陽射しが降り注いでいた。眩しいほどの光の中で、弘孝は毅を抱いた。
 明るい茶に染めた毅の細い髪が光り輝いていた。瑞々しい素肌が弘孝の体に絡みついていた。次第に熱を帯び、狂おしく吐息をもらす毅が愛しかった。溢れる陽射しの中で目にする毅が眩しかった。
 このままずっとコイツを失いたくないと、弘孝は確かに心の底で思っていたのだ。
 俺たちの暮らしは何だったのだろう。
 今一度、弘孝は自問する。何の約束もなく始まった暮らし、それがいつのまにか、弘孝には、こんなにも大きなものになっている。
 毅にしてみても、それは同じだったのではないのか。それなら、なぜ、帰ってこない。仕事は一週間だったはずだ、それなのに――。
 それとも、毅にとってはその程度のものだったのだろうか。唐突に始まり、唐突に終わるような、そんなものだったのだろうか。
 ふたりの出会いだって唐突だったのだ。何もかもが偶然の重なりでしかなかったのなら、毅にとってのふたりの暮らしは、さほど大切なものではなかったのかもしれない。
 そんなことを思い悩む自分が不甲斐なかった。自分のこととなると、こんなにも何も見えなくなるのだろうか。刑事課の警察官なのに。人を見る目にあった自負は、どうしてしまったのか――。
 出会いの日に思いが馳せる。何が一番唐突と言って、出会いこそがそうだったのだ。


 初秋のよく晴れた土曜日だった。弘孝は、同僚の結婚披露宴に招かれていた。
『人生の伴侶を得て、新しい門出に立つ新郎新婦には、末永く幸せであられるよう――』
 主賓のありきたりな祝辞が、なぜか弘孝の涙を誘った。こっそり涙ぐむ弘孝に気づいて、隣の席にいた上司は、おまえも早く嫁さんをもらえと弘孝に耳打ちした。
 嫁さんなど、弘孝には生涯関わりない。職場の誰にも自分の性的な指向を隠している以上、弘孝は、その上司に頷いて答えるしかなかった。
 その帰り、馴染みの二丁目のバーに立ち寄ったのは、やりきれない思いからだった。
 いくら客を選ばないバーとは言え、ブラックフォーマル姿で行くのはどうかと、弘孝でもためらいがあった。それで、ネクタイだけは外していたのだが、案の定、あとから隣の席に着いた男に咎められた。
「そんな服装でこんな店に来るのはどうかと思うけど。結婚式の帰りなのか葬式の帰りなのか知らないけどさ。あなた、無神経だよ」
 その声に気づいたのか、マスターがちらりとこちらを見た。目の合った弘孝に苦笑して首を振って見せ、気にするなと示してくれた。
「すまん。どうにもやりきれなくて来てしまったんだ。長居はしないから見逃してくれ」
 居たたまれない思いで弘孝が答えると、男は、弘孝の足元にある引き出物の紙袋に視線を落とした。
「……まあ、わからないでもないけど」
 生涯の伴侶など、無縁に思えてならなかった。それは、弘孝に限ったことではないのだろう。男のつぶやきが弘孝の胸に沁みた。
「あなた、おれ、どう?」
 しんみりとしていた弘孝には唐突だった。
 驚いて隣の男を見れば、にっこりと笑んでいた。改めて眺めてみると、男はまだ若く、表情は生き生きとしていて、自信に満ちて見えた。
「そんなこと、この店で言うなんて、それこそ場違いだと思うが?」
 男女を問わず客に迎え、くつろいだ雰囲気が売り物の、こぢんまりとしたカウンターバーである。実際には客の大半がゲイとは言え、出会いを求めるような店ではなかった。
 低く凄んで返した弘孝に、男はけろりと答えた。
「場所なんてどうでもいいんじゃないの? あなた、とても淋しそうだし」
「慰めてくれるってのか? ウリならやめておくんだな、俺は警察官だぞ」
「へえ、警察官なんだ。カッコイイね。だけど、ウリだなんて、失礼なんじゃないの」
 軽蔑を含んだ眼差しで言われ、弘孝は口中を苦くする。
 何が癇に障ったのか、牽制するにしても、ほかに言い様があったはずだ。うっかり職業まで明かしてしまい、軽々しいことを口走ったと、弘孝は恥じた。
「悪かった――だけど、きみ、綺麗だから」
 またしても不用意に飛び出た言葉に、弘孝はうろたえた。
 だが、弘孝の声を聞くなり、男は満面に艶やかな笑みを浮かべてみせた。
「あなたもおれのタイプだよ。決まりだね」
 弘孝の返事も待たずに、男はマスターを呼んだ。勘定を済ませながら弘孝を促した。
 スツールから降りてみれば、男は、百八十五センチある弘孝の、目の高さほどの背丈だった。座っている時には気づかなかった長身は、脚の長さの差なのかと、そんな余計な思いが湧いて弘孝は頭を振った。
「近くでもいい?」
 エレベーターを待つ、すらりとした後ろ姿が、弘孝に振り向いて言った。頷き返す自分の軽率さを信じられなく思いながら、弘孝は尋ねた。
「きみは学生か?」
 どうも調子が狂う。口を開くと、ろくでもないことばかり言ってしまう。
「違うけど? なに、警察官って、そんなこと気にするわけ?」
「いや、警察官だからってわけじゃ――」
「スタイリストのアシスタントだよ」
「……それ、なんだ?」
 エレベーターに乗り込むと、男は壁にもたれて腕を組み、明るい照明の下でじっくりと弘孝を見つめた。
「わからなくていいよ。とりあえず、おれ、社会人だから」
「ああ……」
「あなた――いいね。嫌なことなんか忘れて、楽しもうぜ」
 大胆で率直、男は、若さと自信に溢れて煽情的だった。もはや、弘孝がためらいを捨てるには十分だった。
 弘孝には久しぶりだった。警察官という職業柄、出会いも関係も常に用心していたのだ。そもそも、職業を明かしてしまえば、敬遠されることのほうが多かった。
「そんなに、おれって綺麗?」
 場末のラブホテルも久しぶりだった。部屋に入って、なんとなく雰囲気が整うと、男はそう言うなり脱ぎ始めた。
 向かい合って立っている弘孝の目の前で、男のカジュアルな装いが解かれていく。黒いジャケットが投げ捨てられ、芥子色のシャツのボタンは細い指でひとつひとつ外され、白いTシャツは頭から抜かれ、靴下とジーンズは忙しなく脱ぎ捨てられた。
 最後の一枚をあっさり取り去ると、男はすっと背筋を伸ばし、弘孝を見据えてふわりと笑んだ。
「どう?」
 くるりと回って見せる。着やせするタイプなのだろう、裸体は想像以上にしっかりしていた。
 腕も腹も背も腿も、細い筋肉に包まれている。きゅっとした尻と、淡い繁みにそそり立つものに弘孝は目を奪われた。
「……綺麗だ」
 情欲を煽られるままに、弘孝も衣服を脱ぎ捨てた。その様子をつぶさに見つめる男の目が、揺らめき立つのを弘孝は見逃さなかった。
「すごいね。あなたの体……すごい」
 男は飛びつくようにして、弘孝のたくましい体に抱きついてきた。共にダイブするかのように、ふたりはベッドに倒れた。
 互いの名を知ったのは、すべてが終わってからだった。
「あなた、サイコー。また会おうよ」
 そう言うと、男は弘孝の携帯電話をスーツの上着から勝手に探し出し、自分の名前と携帯電話番号を登録した。
「……きみの名前、早川毅って言うのか。なんか、ツヨシって感じじゃないな」
 その頃にはリラックスしていた弘孝は、そんなふうに軽い口を叩いた。あっさりと本名を明かしてきたことにも、気を許していた。
「毅然のキ、おれにはぴったりだと自分では思ってるけど?」
 裸のままベッドに並んで寝転び、他愛のない会話をしている。弘孝は、そんな自分が信じられない思いだった。
 請われるままに、毅の携帯電話に自分の名前と番号を登録した。それを確かめるためか、毅は即座に弘孝の携帯電話を鳴らした。
「これで、また会えるね。今夜きりじゃ嫌だよ、久保弘孝さん」
 久保弘孝さん――。
 自分の名を呼んだ声が、あまりにも甘く耳に響いたのだ。携帯電話の番号を教えたところで、不規則な生活を送っている弘孝を掴まえるのは容易ではないと、そんなことまで毅に話していた。
「おれも同じだから。いいんだ、会える時に会おうよ。それで――また、しよう」
 その後に交わしたキスほど、弘孝を満たしたものはない。弾みで初めて寝た相手と、行為の後にキスしたのは、その時までなかった。
 細いけれど引き締まっている体を抱きしめた。重なる素肌の熱が心地よかった。しっとりと絡み合う腕も脚も、なによりも、重なる唇のやわらかさがたまらなかった。
 行為の後でのキス――それは、互いの情欲を煽るのではなく、互いの情欲を静めるのだと弘孝は知った。
 薄れていく情欲の代わりに、知らなかった感情に弘孝は満たされた。


 部屋は既に薄闇に閉ざされている。冬の冷気は閉めきった室内にも忍び込んでいた。
 窓の外に瞬く街の明かりが弘孝の目に冴え冴えと映る。それは澄み切った夜空の下、どこまでも広がっているように見えた。
 我知らず眼が潤んでいたことに、弘孝はさらに泣けてしまいそうだった。そっと指先で目尻を拭う。その時、玄関の方で物音がした。直後、部屋の明かりがついた。
「なんだ、いたんだ。真っ暗だからいないのかと思った。どうしたの、電気もつけないで」
 慌てて寝返りを打った弘孝の背後で、毅の声が響く。ドサッと畳の上に荷物が置かれる音、続いて、台所に向かう足音が弘孝の耳に届いた。
「ああ、疲れた。十五時間も飛行機に乗ってさ、それに空港からも渋滞で、座りっぱなしで疲れた。バスより電車にすればよかった」
 プシュッと缶の開く音がする。弘孝の傍らに座り込み、足を伸ばしてビールを呷る毅が目に見えるようだった。
「どうしたの? なんで何も言わないんだ? 具合悪いのか? あんた、公僕を地で行くような人だからな、夜通し走り回ってたとか? あ、それともずっと張り込みだったとか?」
 ぽん、と毅の手が弘孝の腕に置かれた。それが、労わるように弘孝の腕を撫で擦る。
「あんたも大変だよな。巡査部長だもんな。がんばってるあんたは、おれの誇りだよ」
 なんで今、そんなこと言うんだ――。
 せっかく引いた涙が再びこぼれ、それを拭うこともできずに弘孝は身を固くした。
「だけどさ、おかえりくらい、言ってくれてもいいんじゃない?」
 弘孝の耳元で、甘えた声が囁いた。顔を覗かれそうで、弘孝は慌てて口を開いた。
「帰ってきたんだ」
「あたりまえじゃん、おれの家ここだもん」
「――そうか……そうだな」
「どうしたんだよ、変なこと言うなあ」
 今度こそ顔を覗かれそうになって、弘孝は腕を上げ、涙を隠そうとした。しかし、頬に伸びてきた毅の手に阻まれてしまった。
「なに……本当にどうしたんだよ」
 濡れた指先に驚いたのか、毅はびくりと手を引っ込めた。涙を悟られ、弘孝は観念する。
「仕事は一週間だったんだろ? 何してた」
「ああ――ごめん。ロケの後いろいろあって」
「携帯、繋がらなかったぞ」
「ニューヨークじゃ繋がらなくてあたりまえだろ――あ。言ってなかったっけ? おれ」
 弘孝が何も答えないでいると、毅はしまったとでも言うように大袈裟なため息をついた。
「ごめん、おれ、ニューヨークに行ってたんだ。公衆電話からの国際電話のかけ方知らなくてさ、それに金なくて、電話できなかった。――だけどさ。あんた、いつもと違いすぎる。本当にどうしたんだよ」
 毅の影が顔に落ちた。じっくりと覗き込まれているのがわかる。
 弘孝は、喘ぐように言った。
「……ポートフォリオが消えていた」
「え?」
 驚いたように小さく叫んだ毅に、弘孝はさらに背を向ける。恨みがましいことを言ってしまう自分が、ただ、恥ずかしかった。
 コタツの上に、ことり、とビールの缶が置かれたのがわかった。包み込むように、毅の腕が背後から弘孝の体に巻きついてきた。
「……それで、なに考えたわけ?」
 背にぴたりと添うぬくもりに、ほっとする自分がいる。いつからこんなに弱くなってしまったのかと、弘孝はきつく目を閉じた。
「おれのポートフォリオがないと、どうなるわけ?」
「……出て行ったのかと思った」
「ばか――」
 束の間、ふたりとも何も言わなかった。横たわり、寄り添うふたつの体の間に流れるものを弘孝は感じていた。
「……ロケが終わってから、おれ、ひとりで残って売り込みしてたんだ。どうしてもアシスタントにつきたいスタイリストが向こうにいて、それで、ポートフォリオを持っていった」
 弘孝の背に顔を埋め、毅はひっそりと言った。
「……どうだった?」
「OKもらえた――ごめん。弘孝、ごめん」
「なんで謝る」
「だって……おれ、どうしても二十五までに独立したいんだ。向こうに行ったら、半年、もしかしたら一年帰ってこられない」
 ふっと弘孝は口元を緩める。ごそごそと身をよじり、毅に向き直った。じっと目を見る。
「よかったな。がんばれよ」
「って……それって……」
 うろたえたような声を出した毅に、弘孝はやわらかく笑んで見せた。
「帰ってくるんだろ? ここに」
「弘孝……」
「愛してる」
 ぎゅっと強く、弘孝は毅を抱きしめた。胸に包み込んだ毅の存在は、確かなものだった。
「なんだよ、いきなり……それって反則だ。そんなこと、今まで一回も言ったことなかったじゃん」
「だから、今言うんだ」
「ずるいよ、なんで今なんだよ……くそっ」
 背けた毅の目が、部屋の明かりにきらりと光った。その頬を両手で包んで向き直らせると、弘孝は思いの丈を込めて毅に唇を重ねた。
「毅――おまえだって、俺の誇りなんだ」
 そっと唇を離し、毅の目を見つめて弘孝は言った。毅も潤んだ目で弘孝を見つめ返した。
「――仕事がんばるのもいいけど、ケガしたり……死んだりしないでよ。おれがいない間に、いなくなったりしないでよ」
「ああ、待ってる。ここで、待ってる」
「弘孝……おれの帰るとこはあんたなんだ」
 再び、弘孝は毅を強く抱きしめた。絡みついてくる毅は、確かに弘孝の腕の中にいた。
 ニューヨークに発つのはいつなのか、そんなことはどうでもいい。帰ってくるのがいつであろうと、それもどうでもいい。
 毅はここにいる。毅はここに帰ってくる。
 弘孝は、それで十分だった。


 
 
 
 

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