Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    ハニーデイズ
    ‐レタス畑で愛をささやけ正月話‐




     冷たい風を切って、バイクはゆるい上り坂に入った。しがみつく佐伯の肩越しに見えてきた景色に、純一は目が丸くなる。
     オレ、どこ来ちゃったわけ?
     純一がそう思ったのも仕方なく、あたりは真冬にも青々とした芝生で埋め尽くされている。その中を一本伸びる道の先に、白い壁にオレンジの瓦屋根が美しい低層の建物が横に長く広がっている。そのたたずまいを表せる言葉など純一にはないが、インターネットの旅行会社サイトでは「スペイン・コロニアル様式」と紹介されていることを佐伯は知っていた。
    『温泉に行くんだったな』
     実家に帰ると言って大晦日に出かけてから三日後の今日、佐伯は昼前に戻ってくるなり、いきなりそう言った。
    『すみません、おやっさん。前から約束してたんで、これから純一と温泉に行って、一泊してきてもいいですか』
     父親は寝耳に水と言った顔で聞きながらも、次の瞬間にはうなずいていた。
    『構わんぞ。むしろ悪いな。盆と暮れぐらいしか休みをやれないのに、純一まで連れていってくれるか』
    『いや、俺が誘ったんで。おやっさんを一晩ひとりにすることになって、申し訳ないです。なんだったら、おやっさんも一緒に――』
    『いや、そこまで気を遣わんでくれ。ひとりには慣れてるし、若い者同士で出かけたほうが楽しいだろう。俺も家でのんびりするさ』
    『ありがとうございます』
     にこにことそんな会話をするふたりを純一はぽかんと見ているしかできなかった。
     それでいいのか、お父さん。
     突っ込みたい気持ちは喉までせり上がっていたが、ぐっと飲み込んだ。佐伯とふたりで温泉に行ったらどうなるかなんて想像するのも恥ずかしいし、父親には到底言えないし、それよりも佐伯と温泉に行けると聞いた喜びのほうが大きかった。
     つか、マジだったんだ――。
     以前、温泉に行くかと言われたときは冗談にしか聞こえなかったから、佐伯が覚えていたことにも本気だったことにも、ほとんど感激の思いだった。
    『ほら、お許しが出たんだから、すぐ行くぞ』
     昼食の片づけもそこそこに、佐伯に離れに追い立てられ、ふたり分の着替えをデイパックに詰め込まされ、それを背負わされて純一は佐伯のバイクにまたがった。
     あとは佐伯にしがみついて連れられるままに今に至る。正月三日だからか一般道はどこも空いていて、途中で休憩を取ることもなく、行き先を尋ねる機会もなかったが、ここまで案内標識を追ってきて、ひとまず自宅と同じ県内とわかる状況だ。
    「中に入って待ってろ」
     純一を車寄せで降ろし、佐伯は駐車場へとバイクを走らせていった。
     んなこと言ったって。ここ……温泉、なんだよな?
     純一は気が引けてならない。ホテルの前で降ろされたに違いないだろうが、こんな洒落た外観のホテルになんて入ったことがない。ベルボーイに迎えられなかったのは、純一にはせめてもの救いか。
     おずおずと自動ドアの中に足を踏み入れ、思わず息を飲む。広々としたロビーは二階まで吹き抜けになっていて、回廊と円柱に囲まれ、中央にはなんと噴水がある。まわりにいくつかベンチが置かれているが、そこに腰を落ち着けて佐伯を待つにも勇気がいる。
     ど、どうしよう……。
     戸惑うばかりで、純一は入口の脇で佐伯を待った。ほどなくして佐伯は現れ、純一の顔を見て薄く笑う。
    「ほら、来いって」
     強く肩を抱き寄せ、すたすたとフロントに向かった。
    「佐伯様、お待ちしておりました。毎度ご贔屓[ひいき]をたまわり、ありがとうございます。今回はコースのご予約がまだのようですが、いかがいたしましょう。明日からオフになりますので、ラウンドされますなら本日最後のスタートがお取りできますが」
     完璧な営業スマイルですらすらと話すフロントマンに純一は目が点になる。
     コースの予約? ラウンドって何? つか、毎度ご贔屓って……。
    「いや、コースの予約はいらないよ。夕食の予約だけ頼む」
    「かしこまりました」
     しかし佐伯はいつも以上に堂々とした態度でいる。部屋の鍵を受け取り、こちらからの要求を突きつける。
    「先に風呂に入らせてもらうから、悪いが、部屋を暖めておいてくれないか」
    「承知いたしました」
    「純一、こっちだ」
     ぽかんとする純一の手を引いて歩き出した。少しの迷いもなく、大浴場に連れていく。
    「あんた……いったい、なに?」
     脱衣室で促されるままに服を脱ぎだして、ようやく純一は声が出た。
    「なにって、何が?」
     佐伯も服を脱ぎながら笑顔を向けてくる。
    「だって、ご贔屓って――」
    「そんなことはあとだ。日が沈む前に入るぞ」
    「――って!」
     ぐいと、またもや手を引かれ、備え付けのタオルを片手でひったくるのもやっとで、裸になった佐伯の広い背中を目に映して純一は浴室に入っていく。しかし佐伯はそこを通り抜けて、外に続くガラス戸を開けた。
    「露天風呂――?」
    「どうだ? かなりすごいだろ?」
     東屋[あずまや]のような屋根を頂き、円形の風呂から湯気が立ち上っている。それよりも、純一はあたりの景観に目を奪われた。
    「突っ立ってないで、入れって。ちょぼちょぼが丸見えだぞ」
     言われてハッとする。いつのまにか湯の中から佐伯は見上げていて、純一は真っ赤になった。
    「な、なんか……ずるくね?」
     だまし打ちを食らったような気分だ。そろそろと佐伯の隣に身を沈める。
    「どこが。ここから見る夕日が最高なんだ」
    「……んなの」
     言われなくたって、わかる。まさに今、日が沈もうとしていた。
     露天風呂は高台に位置して、目隠しになるものは何もない。遠くまで景色が見晴らせる。
     真冬の澄み切った空はすっかり日暮れの装いで、たなびく雲も重なる山々もおぼろに目に映る。はるか先にはわずかに海が見え、眼下を望めば青々としたゴルフコースだ。
    「コースって――」
     腑に落ちて、かえって純一は戸惑った。
    「予約とか言ってたよな? あんた、もしかしなくてもゴルフなんてするわけ?」
    「趣味じゃないけどな」
     苦笑いして佐伯は顔を向けてきた。
    「オヤジくさいとか言うなよ?」
    「……言わないけど」
     本当は言いたかったけど。やはり日没の風景を楽しむためか、ちょうど人が入ってきたので純一は口をつぐんだ。広いとは言えない湯船の向こう端に中年の男性が四人並んで湯につかり、今日のスコアはどうだったとか、どう聞いてもゴルフのこととしか思えない話を楽しそうに始める。
    「もっと、こっち来いよ」
     それなのに佐伯はまるで気にしない様子で純一の肩を引き寄せた。湯船のへりに両腕でもたれるようにさせて、後ろからかぶさってくる。
    「ちょ、あんた……」
     人目があるのに密着してくる神経に純一は抗議の声を漏らす。だが佐伯は、けろりと耳に吹き込んできた。
    「ダメだ。ここの温泉、単純泉で透明だろ? おっさんたちが出るまでこうしてろ」
    「って、なに――」
    「おまえの裸見せてサービスする気はない」
     それでは体も洗えないではないかと言いたいところだが、純一は頬を染めるばかりだ。むしろ、そんな顔を他人に見られずに済んでよかったと思ってしまう。
     ……だったら、温泉に行こうなんて言うなよな。
     それもまた本心とは裏腹なのだから口にできない。
     腰に硬いものが当たっているように感じた。自分もまた同じようになりかけていて、どうしたって他人に向き直れない。
    「……ったく、もう」
     つぶやいてみたが、甘い吐息にしかならなかった。
    「夜になってから、また来ていいことしよう」
     佐伯がそんなことを言うから、ますます出るに出られなくなってしまった。
     ほとんどのぼせたようになって純一は風呂を上がる。佐伯の裸体を明るいところで目の当たりにしてうろたえる余裕すらなかった。
     なんにせよ、ホテルって便利だな、などとどうでもいいことを脱衣室に備えられていたバスタオルで体を拭きながら思い、廊下に出た。またしても先に立つ佐伯に連れられて三階の部屋に行く。
    「わあ」
     一歩踏み込むと、露天風呂から望んだと同じ景色が窓に広がっていた。今はもう、日没は山肌を赤く染めるだけで、空は紺青に塗られている。露天風呂から望むよりも、はるか遠くの海が大きく目に捉えられた。黒々とした海面の果てに水平線がわずかに見て取れる。
    「オレ、海見るなんて、すっげー久しぶり」
     高校の修学旅行で沖縄に行ったきりだ。それも明るい南の海で、目に映している海とはまったく違う。
    「そっちに喜んでくれるとは思わなかったな」
     苦笑するように佐伯は言う。
    「この部屋、一応デラックスツインなんだけど……おまえにはどうでもいいか。朝になれば、もっとよく見えるぞ、海」
    「だよな? 明日も晴れみたいだし」
     床まで窓の広がる際[きわ]に置かれた椅子に腰を下ろし、純一は楽しんで外を眺める。ゴルフコースの緑も、真冬でありながら美しい。
    「ってさ。あんた、ここでゴルフするんだ? 趣味じゃなくても。毎度ご贔屓って言われてたもんな?」
    「それか――」
     純一の背負ってきたデイパックをクローゼットの前に置き、佐伯は浅く息をつく。ベッドの足元に置かれていた段ボール箱を開いた。
    「それ、なに?」
     純一は少しも気づいてなかった。
    「バイクじゃ持ち切れないから、先に送っておいたんだ」
     純一はきょとんとする。佐伯が中から取り出したものを見て眉をひそめた。
    「……スーツ?」
    「こっち来てみろ」
     言われて佐伯の前まで行った。上着を羽織らされる。
    「――サイズ、合うようだな」
    「って、なに」
    「それほどドレスコードにうるさいわけじゃないが、正装に近いほうが余裕だからな」
    「――へ?」
     おおよそ言われた意味が飲み込めて、純一はいっそ気が引けた。そんな大層なホテルに連れてこられたのか。
    「あんた……温泉って言ったじゃん」
    「温泉だったろ?」
    「けど、メシ食うのにスーツって」
    「だから着てれば余裕って、それだけの話だ」
    「えー……」
    「少しは気づけ。俺が自慢したいんだよ」
     それは自分のことか。照れくさそうに言われて頬が染まる。
    「これ……どうしたの?」
    「俺のお下がりだから気にするな」
    「うえ。アルマーニ……」
    「うるさいな。黙って着替えろ」
    「いつのだよ――」
    「高校生のときのだ」
     ワイシャツに袖を通す手が止まった。つい、佐伯の顔を見てしまう。
    「なんだ?」
    「高校生のときって、オレと同じくらいだったわけ?」
    「まあ、そうかな」
     ついと目をそらし、佐伯も着替えを始める。見惚れそうによく似合うダークスーツだ。
     ……なんだよ。
     高校生体型と言われたことが気に食わないのか、佐伯がカッコよすぎるから気にかかるのか、自分でもわからない。黙って着替えを済ませる。ワイシャツももちろんながら、スラックスの丈まで合っていて、かなり驚いた。
    「タイはなくていいだろ。ほら、こっち向いて」
     襟元を佐伯に直される。やっぱり見惚れそうになって純一は顔を背ける。
    「……ったく」
     不服そうに漏らしても楽しげな響きだったから、純一も口元がゆるんだ。
    「もう時間だから行くぞ」
    「うん」
    「よく似合ってるよ。うっとりしそうだ」
    「え……」
    「黙って立ってるだけなら馬子にも衣装だな」
    「もうっ」
     連れ立って部屋をあとにした。レストランに入り、案内された席に着く。
     ほかの客は思いのほか多くなく、ほとんどが露天風呂で見かけたような中年の男性だ。それぞれに正装と言うほどではないにしても、きちんとした身なりでいる。
     つか、やっぱ温泉って感じじゃないじゃん。
     純一にとって温泉と言えば、宿の浴衣に着替えて夕食も風呂も気ままに楽しめる場所のはずだった。これでは肩肘張ってリラックスできない。
    「あんたさ」
     だから、どうしても訊きたくなってしまう。
    「こういうとこが、温泉なわけ?」
     向かいに座り、運ばれてきた前菜に、さっそくフォークを伸ばした佐伯が顔を上げた。
    「どういう意味だ?」
    「温泉言ったら、浴衣とピンポンだろ」
    「ああ――そうだな。けど、それはこの次な? 今回は急だったからここにした。家から近いし、ちょうど空いてたし」
     さらりと言われて純一は眉が寄る。
    「いつ予約したんだよ」
    「昨日」
    「え」
     前菜を運ぶフォークが口の前で止まった。ぽかんと佐伯を見てしまう。
    「あんたさ……もう、オレにいろいろ隠すの、やめてくんね?」
     昨日と言えば、佐伯はまだ実家にいたはずだ。わざわざ実家に戻ってまで何をしていたんだと言いたくなる。
    「まあ、一度に話すことでもないと思うが」
     渋い顔になって佐伯はこぼす。
    「だったら、少しずつでも話してくれたらいいじゃん」
    「おまえには、あまりカッコ悪いところ見せたくないんだ」
    「あんたがカッコ悪いなんて、あるかよ――」
     そんなことを言い合って、互いに照れた。佐伯が、フッと口元をゆるませる。
    「べつに隠そうとしてるわけじゃない。ただ……話したら引かれそうで怖い」
     怖いと言われて純一は驚いた。すっと佐伯が視線をそらすのも意外に感じられる。
    「親に呼びつけられて大晦日に実家に帰ったが、元日はここにいた。親子でゴルフ大会、そういう家庭だ。嫌になるだろ?」
    「嫌になるなんて……べつに――」
     純一には想像がつかないだけだ。それをどう思うか、なんの感情も湧いてこない。佐伯には両親が健在で、年の離れた姉と兄がいることは既に聞いている。その家族構成すら、兄弟が既婚であることも、ひとりっ子の自分にはピンとこないだけだ。
    「とりあえず、俺がやることはすべて気に食わないから事実上の放任だ。それは助かっている。少しはおまえを見習って、俺もどうにかしたいんだが、溝を埋める気にもなれなくてな――」
    「えっ? オレ?」
    「いろいろあったかもしれないけど、おまえとおやっさん、いい親子だと思うぞ?」
     穏やかに目を細めて佐伯は純一を見つめた。そうしてから前菜の残りを平らげる。
    「俺は、おまえとは比べものにならないバカ息子だったからな。今思えば、末っ子で甘やかされ放題のガキだった。それと同じくらい、親もどうしようもないバカだったけどな」
     純一も前菜を食べながら佐伯の話を聞き、しかしついこぼしてしまう。
    「バカなんて……」
     親を指してバカと言えるほどの度胸は純一にはない。
    「そう言えるのが、おまえのいいところだと思うよ。なんだかんだ言っても育ちがいい。おまえの母さん、お嬢さん育ちだって聞いたけど、本当にそうだったんだろうなと思える」
    「なんでー」
     返しようがなくて、困って顔を上げた。佐伯は、うっすらと笑いかけてくる。
    「一番わかりやすいのが、手だ。おまえが帰ってきて初めての夕飯のとき、枝豆をつまんでも手つきが優雅だと思った。食事のマナーにうるさかったんじゃないのか、おまえの母さん」
    「なんでわかるんだよ……」
    「わかるだろ。おまえがどんなつもりでいても、身についたことは消えないんだろ?」
     そう言って、佐伯はにっこりとする。
    「そうだけど――」
     実際に農作業がそうだったことを思い出して純一はつぶやいた。
    「そういう素直なところが好きだ。素直なだけでなくて、芯が強いところも気に入ってる。嘘を言わずに意思を曲げないでいられる潔さが、俺にはたまらない。顔も好きだけどな」
     まっすぐに見つめてくる眼差しがまぶしく感じられた。頬が染まるようで、そっと顔を横に向ける。暗くなった窓の外に、部分的にライトアップされたゴルフコースが見えた。
    「堂々としていろよ、純一。俺には誇りだ。おまえをものにできたんだから」
     佐伯の声が耳に甘く響き、ためらいながらも顔を戻す。上目づかいにちらりと視線を投げて、もごもごと言い返した。
    「そういう恥ずかしいことを平気で言えるあんたが、オレは恥ずかしいよ……」
    「うれしいって、素直に言え」
     佐伯は明るく笑う。その笑顔が純一は胸に迫る。吐息交じりにも素直に答えた。
    「……うれしい。オレも、あんたをひとりじめできて――うれしい」
    「……ありがとう」
     だが、目を伏せて返された低く艶のある声に少し驚いた。ありがとうと言われるとは意外だ。そんな目で佐伯を見つめ返した。佐伯は苦笑する。
    「俺の取り柄なんてエロいことぐらいだろ? 今でもおまえをたらしこんだような気がしてならない」
     言われて、いっそう驚いた。驚きが焦りに変わってくる。
    「な、んで……あんた、やさしいじゃん――」
    「だまされている気にはならないか?」
    「だましてるつもりなのかよ?」
     純一は急に落ち着けない。前菜に替わってスープが運ばれてきたが、スプーンを取れない。だが佐伯はスプーンを取り上げてスープをすくいながら静かに話す。
    「だましてはいない……でも、俺の言うことが信じてもらえるか、自信がない。おまえやおやっさんに会うまで、俺のまわりは嘘ばかりだった」
     静かに顔を伏せる様子に胸が締めつけられた。喘ぎそうになって純一は言う。
    「だったら……だったら、もういいじゃん。オレもお父さんも、嘘なんて言わない」
     本心からの言葉だった。まっすぐに佐伯を見つめる。
     佐伯はゆっくりと顔を上げた。フッと笑う。ひたりと純一の目を見つめ返し、甘い吐息を溢れさせた。
    「たまらないな……たまらなく好きだ、純一。早く部屋に戻りたい」
     うっとりとした声音に純一は胸が熱くなる。あとはもう言葉もなく、メインディッシュの味もよくわからないまま食事を終えた。


    「ん――」
     部屋に戻ると、ドアが閉じるのももどかしそうに佐伯に唇を奪われた。熱い舌に口内を探られ、それだけで感じて純一は膝が危うくなる。初めてキスされたときと同じくらいに、鮮烈な快感が指の先まで痺れさせた。
    「ふ、……俊哉」
     自分で恥ずかしくなるほど甘く呼びかけるのを抑えられない。早く抱いてくれと、ねだるのを止められない。
    「今日は、好きなだけ声出しな。いつも我慢してるだろ?」
     くすっと間近で笑うから、胸がじんとした。
    「……んなこと」
     言われなくたって、そうする。トロトロに溶かされてみたいと、ずっと思っていた。
     冬になって、こたつは佐伯の部屋に出してから、純一の部屋で一緒に寝るようになった。ふすまから行き来できるように物を片づけて、佐伯の布団は畳に敷いて、だけど、ベッドできちきちになってふたりで眠ることもある。
     夜ごと体を交えるわけではないけど、いつも裸というわけでもないけど、ぎゅっと抱き合って眠る幸福は、もう純一のものだ。
     それで十分に満たされているけれど、早寝して何度も体を交えてきたけれど、溺れるほど浸るのは父親のいる家では無理だった。
     後ろめたいと言うより、父親に知られたらと思うと、単に恥ずかしい。男に抱かれるなんて佐伯が初めてだったけど、あたりまえのことのように思えたのは、自分でも不思議なくらいだ。
     カノジョがいたこともあったし、少しばかりでも女性との経験もあるのに、佐伯が好きになって初めて恋を知ったように思う。佐伯に惚れることは、生まれる前から決められていたようにさえ感じられる。
     なんか……オレ、ダメかも――。
     佐伯に抱かれたらメロメロになると、当の佐伯に言われたけれど、まったくそのとおりだった。もう、とっくにメロメロだ。気持ちは、抱かれる前から溺れていた。
    「……あ」
     上質のスーツが肩から滑り落とされる感覚にも純一は感じた。ひとつひとつワイシャツのボタンをはずされて、肌をあらわにされる感覚にさえ。
     息がつけなくなって佐伯にすがる。額に、そっとキスされる。胸が震える。
     すっかり裸にされてシーツに倒された。自らも脱いでいく佐伯を目に映す。たくましく引き締まったボディラインと、雄々しくそそり立つ猛りを見せつけられて、溢れる吐息が熱く湿った。
    「……純一」
     蕩けそうな声で呼んで、佐伯は純一にかぶさってくる。ベッドが浅く沈む。
     部屋は暖かい。フロアスタンドの淡い光が、佐伯のがっしりとした体と男くさい顔立ちの陰影を濃くする。滴るほどの色気に圧倒され、合わせた肌のぬくもりにもすくんで、純一はしっかりと抱きついた。
    「俊哉……」
     自分の声も蕩けて耳に響く。唇が重なり、たっぷりとキスをもらう。欲望はくっきりと形を成し、互いにこすれて蜜をこぼし始める。
     もう慣れた愛撫、だけどいつも新鮮だ、今も――いくらでも感じて、息が上がって、体中が甘く痺れてたまらなくなる。佐伯にしがみつく指の先まで、絡め合う脚の爪先まで。
    「オレ、も……ダメかも――」
     さっきも思った。それを掠れたささやきにして佐伯に伝える。今日はダメかも、ぜんぜんもたないかも、すぐにイってしまうかも。
    「いいよ……イきな」
     佐伯が艶っぽくそそのかすから、いつでも甘やかしてくるから、純一は簡単に弾ける。佐伯の大きな温かい手に欲望を包まれ、よく心得た動きで強く刺激され、恥ずかしい熱を放った。
    「んっ」
     佐伯の厚い胸を引き寄せて、額をこすりつける。佐伯の匂いを胸いっぱいに吸い込む。それの正体はコロンと知ったあとも、好きなままだ。清涼な香りだけでなく、やはり佐伯自身の匂いが混ざっていると思う。
    「はっ、なんか、も、オレ……」
     浅い息を継いで、純一は切れ切れに声を漏らす。胸が上ずって苦しい。体中が熱くて苦しい。体の奥が淫らに疼いて――。
    「……どうしてほしい?」
     間近から純一を見下ろし、佐伯がやさしく尋ねる。額に乱れて、汗で湿った純一の髪をかき上げた。眼差しが蕩けている。
    「え……」
     とろんと佐伯を見上げ、純一は返す言葉に詰まる。どうしてほしいかなんて、決まっている。恥ずかしくて顔が赤くなる。
    「ほ……ほぐ、して」
     やっぱり顔が赤くなった。自分でわかって、いっそう照れる。プイと横に背けた。
    「――ったく」
     悔しそうに佐伯が漏らすのも照れたからだ。もう、よくわかった。それを証拠に、股間に手がもぐり込んでくる。
    「んっ」
     とろりとした感触は自分が放ったもののせいで、純一は肩をすくませ、身を縮ませる。佐伯の胸に収まり、その肩を震える吐息で湿らせる。だがすぐに、ねっとりとしたキスにさらわれた。
    「は、んっ」
     今日は声を殺さなくてもいいと言われた。自分もそのつもりだった。
    「あ、ああん」
     嬌声が飛び出すに任せる。佐伯にしがみついて、気持ちのままに悶える。じっくりと体の中を行き来する指に感じる。強烈な快感を生み出す箇所を執拗に刺激される。声が止まらなくなる。
    「あ、あん、あ、あっ」
     びくんと、また欲望が起ち上がった。佐伯の腹にこすれても硬くなる。
    「純一……かわいい」
     純一をぎゅっと胸に抱き、佐伯は身を返した。純一を上にして、いっそう丹念に純一の体の中を探る。
    「……もう、欲しいか?」
     しっとりとした響きが純一の耳を浸した。
    「ん」
     佐伯の胸に頬を重ね、喘いで純一は答える。
    「――乗ってみるか?」
     言われても、すぐには飲み込めなかった。ほやんとする頭がやっと理解したとき、純一は驚いて目を瞠る。カッと頬が火照った。
    「の、乗るって……あんっ」
     佐伯の指はいたずらで、持ち主がくすっと笑うと同時に、純一の一番いいところを強くこすった。
    「……もうっ」
     そんな佐伯の気持ちもわかるようになった。自分と同じに、もしかしたらそれ以上に照れているからだ。
    「い、言って照れんなら、言わなきゃ、いいのに――」
     ムスッと見下ろし、途切れ途切れにも言い返してやる。
    「そんな、真っ赤な顔で言われてもな……かわいく睨まれたんじゃ、ぜんぜん怖くない」
    「もうっ!」
    「俺が見たいんだよ――見せてくれよ。俺に乗って?」
     かわいくおねだりするのはどっちだと純一は言いたい。恨めしく上目づかいに睨みつつも、佐伯に逆らえなくなる。
    「手伝ってやるから」
     腰を両手でがっちりつかまれた。佐伯の猛り立つものの上に、ゆっくりと下ろされる。
    「ちょ、……あ、あっ、んんっ」
     顎が仰け反り、眉が寄る。唇が開いて、舌が覗く。ビクッと背がしなった。
    「や……っ、い、いっぱい!」
     ずくっと自分を貫いたものに純一はおののく。ひくひくと肩が震えて、腰も揺らめいた。
    「おまえのペースで動いてみろよ」
     佐伯の低いささやきが、意地悪く耳を浸す。
    「すごい……色っぽいよ、純一――」
     だけど、吐息交じりの声がとんでもなく艶に満ちていて、純一の胸も満ちた。
    「……はっ、あ」
     佐伯の腰を両手でつかみ、しなやかに背を反らせる。ぴったりと隙間なく密着した感覚にもひどく感じた。じわじわと快感が背筋を昇ってくる。
    「はあっ、あ」
    「きれいだ、純一……」
     うっとりと佐伯は言う。熱い吐息を唇から溢れさせて。
     ……俊哉だって――いい顔。
     乱れ髪が額に散って、薄く笑む顔はゾクッとするほど男くさい。いっそう、あおられる。体感と相まって、体中が歓喜に沸く。
    「――ん」
     恐る恐る純一は腰を動かしてみた。
    「はっ」
     ずるっと体の中で佐伯の猛りがいいところを突く。
    「あ、あっ」
     それを知って、止まらなくなった。恥ずかしいのに、やめられない。鮮やかに強烈な快感が、全身に巡って頭の芯まで侵[おか]す。
    「あん、い、いいっ」
    「純一……!」
     佐伯が切羽詰まった声を出すから、なおさら感じた。ずんと突き上げられて、腰が跳ね上がった。抜けそうになって慌てて落としたら、また強烈な快感に襲われた。
    「はーっ、あ、ああっ」
     くっきりと目が開き、佐伯の表情に釘づけになる。苦しそうに眉をひそめた顔は、壮絶に色っぽかった。たまらず、純一は二度目を放つ。佐伯の腹を白く汚したことにも感じた。
    「も、俺がダメだ!」
    「ああっ」
     すばやく身を入れ替えられ、力強く佐伯に組み敷かれた。それも快感でしかなく、純一は喘ぐほかできなくなって、佐伯の律動を受け止める。激しく揺さぶられ、重くのしかかられ、佐伯が放つまで絶頂に漂い続けた。
     初めて抱かれたときと同じだった。あとはどうなったか、ほとんど記憶にない。ただ気持ちよくて、果てしないほど気持ちよくて、佐伯に抱かれた幸福だけが指の先まで甘く満たしていた。胸がいっぱいで言葉もなかった。


    「……ありえなくね?」
     早朝の露天風呂にだらりとつかり、純一は佐伯にぼやく。朝食の時間にも早く、ふたりのほかに誰もいない。
    「なにが」
     耳元でささやかれ、いっそ溜め息が出た。
    「今のあんた」
    「そうか?」
     自分たちふたりしかいないのに、背にかぶさっている。しっかり硬いものが尾[び]てい骨のあたりに当たっている。
    「夜になったら、ここでいいことしようって言ったのに、できなかったからな。――誰かさんのせいで」
    「オレのせいかよっ」
    「軽く気を失ってたぞ?」
     振り向いて睨みつけたのは失敗だった。目と鼻の先でニヤリと笑われた。
    「そ、それだって――」
    「俺のせいだよな?」
     くすっと笑って返してくるから何も言えなくなる。ムスッと黙り込んだら、チュッと額にキスされた。
    「入れていいか?」
    「ダメ」
    「けど、まだトロトロだろ?」
    「うるさいなー……」
     本当のことだから強く拒めない。くりっと先を押し込まれ、あん、と声が出る。背後から、すっぽりと抱きしめられた。
    「――愛してる、純一」
     こんなことをして、そんなふうに言うのは反則だと思う。恥ずかしくて嫌なのに、誰もいなくてもたまらないのに、許してもいいと思えてくる。
    「や、ん……」
     ずくっと、根元まで挿[さ]されて、甘えた声が出るのを止められない。首をひねって、キスをねだるのをやめられない。
    「……俊哉」
     唇が重なる前にささやいた。たっぷりと濃厚なキスを受けて、胸が熱く染まった。
     佐伯とひとつになって、ここにいる。真冬の澄み切った朝日を浴びて、佐伯といる。
     忘れられない朝がまたひとつ増えたことがうれしくて、純一は佐伯の胸で溶けた。


    おわり


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    素材:あんずいろ