Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「Never been Satisfied」

 

 晴れ渡った空、窓に跳ねる光、人の波、話し声、笑い声、クラクション、ノイズ、ノイズ、ノイズ――。
 道ゆく人は、誰もがぼくを通り過ぎていく。ちらちらと視線を感じることはあるけど、それもぼくを目に捕らえたわけではない。
 渋谷の街、ビルに囲まれた谷間。ぼくはどこにいるのかと思う。二年余りの時間は、こんなにもいろいろなものを変えてしまう。
 三年前の冬、父の転勤で連れて行かれたニューヨークで、ぼくはストレンジャーだった。異邦人を意味するその単語は、むしろ、「変なヤツ」といった意味合いでぼくの耳に届いた。日本人学校は定員オーバーで入れず、やむをえず入ったハイ・スクールで、ぼくは好奇の対象だった。
『日本人は数学ができるね』
『日本人は絵がうまいね』
 ぼくにかけられる声は、ぼくをぼくとして見ていなかった。それは、ぼくを呼ぶ声すらも例外ではなかった。
『ヒローキ』
『ヒロキ!』
 母音が続く発音が苦手な彼らは、ぼくの名前「弘晃(ひろあき)」をそんなふうに発音した。
 ニューヨークでぼくは何者だったんだろう。日本人のサンプル? 「ヒロキ」という名の別人?
 ようやく英語が使えるようになって、まともにコミュニケーションが取れるようになって、ぼくが「ヒロ」と呼ばれるようになったのも束の間、この三月、父と離婚した母に連れられてぼくは帰国した。
 母が住まいを決めたのは、かつて暮らした街ではなかった。今のぼくは、この東京の地で、またもや異邦人だ。
 四月に編入した高校では「帰国子女」というレッテルがぼくに貼りついた。「帰国子女」という別枠で特別扱いされたくなかったから、ごく普通の高校を選んだのに、それはまったく裏目に出た。
『じゃあ伊勢谷(いせや)、次、読んでくれ。みんなよく聞いておくように』
 おれよりも伊勢谷の発音のほうが正確だからな――暗にそんな含みを持った英語教師の言葉、やってられない気分で教科書を読むぼくの耳には、あからさまな侮蔑の囁きが届く。
『センセーのお気にだな』
『オヤの仕事でアメリカ行ってただけじゃん』
 「レッテル」は、ぼくの本当の姿を覆い隠してしまう。
『伊勢谷って、いっこ上なんだろう?』
 アメリカと日本の学年のずれで、ぼくがクラスメイトよりもひとつ年上であることも、彼らには特異なことのようだった。
『気にすることないよ。普通にしてたらいいさ』
 クラス委員はそんなふうにぼくを慰めてくれた。だけど、それは気休めとしかぼくには受け止められない。
『伊勢谷くん、ニューヨークにいたんだって? わたし、中学までボストンにいたの』
 クラスが違うのにわざわざぼくに話しかけてきた女の子は、アメリカでの思い出話ばかりした。
『ボストンはよかったなあ。そうそう、英語の授業のときは、わざと日本語ふうに発音するといいよ。英語、ヘタになっちゃうけどね。あ。わたしと話すときは英語にする?』
 そんな彼女をぼくはひそかにパラドクシカル・ホームシックと決めつけた。彼女のホームは日本のはずなのに、意識はそうではないらしい。
 それなら、ぼくのホームは? どこにある?
 息が詰まる。
 うまく呼吸できない。
 ゴールデンウィークの今日、数年ぶりに会った幼なじみの髪は黄色かった。噛み合わない会話は聞いているだけだった。ぼくといるのに彼のケータイは何度も鳴った。また? と、うんざりした顔を隠せないぼくに彼は言った。
『だってさ、いつでも繋がってるってカンジするじゃん、メールとかさ、ぜったいイイよ。伊勢谷も早くケータイ買えよ、トモダチすぐできるし』
 いつでも繋がっているカンジって何なんだろう。よくわからない話をする彼は、ぼくにとってのストレンジャーだった。
 最後に鳴ったケータイに出たあと、彼が突然帰ると言い出してもぼくは驚かなかった。足早に去る彼を見送ってから、ぼくはビルの壁に寄りかかって、こうして、ぼうっと渋谷の街を眺めている。
 また、空を見上げた。五月の光を映すこの空は、世界中に広がっている。きっと、ぼくの「ホーム」にも広がっている。そんなことを考えてみる。
 視界の隅に映るその人には、さっきから気づいていた。カメラを片手に、道の向こう側に立っている。その場所から少しも動かずに、ときどきシャッターを切っていた。
 右に左に流れてゆく人の群れの中、彼はひとり止まっている。Tシャツにワークパンツを合わせ、スタイリッシュな服装の彼は二十代後半くらいに見える。カメラを構えるたびにかなりの長身を屈め、真剣な様子で写真を撮り続けていた。
 そのうち、その様子にぼくの目は釘付けになる。人の流れの中でひとり止まっている姿は、鏡に映る自分のように感じられた。
 だから、彼がぼくの方にカメラを向けたのにもすぐに気づいた。ぼくを写したに違いない。彼が道を渡って、ぼくに歩み寄って、声をかけてきても違和感はなかった。二言三言聞かされたあと、あらためてモデルになってくれと言われても、それはごく自然のことのように感じられた。
 ぼくは承諾した。ぼくは、この人にぼく自身を見てもらうことになるのだと、ぼんやりと思った。


 あれから二ヶ月。ぼくはすっかり彼の専属になっている。専属モデルという意味においても、そのほかの意味においても――あるいは、彼がぼくの専属になったとも言えるのかもしれない。


 毎週金曜日の学校帰り、ぼくは帰宅する代わりにここに来る。合鍵を渡されたのは一ヶ月前、それからは彼が不在でも勝手に上がりこんで彼を待つようになった。
「始めるぞ」
 低く、甘い響きを持つその声に横顔で頷いた。
 彼の部屋はマンションの八階にある。窓の外に遠く広がる東京の夜景はきらびやかだ。それを横顔で眺めつつ、ぼくは壁際に立った。
 バシャッ! シャッター音と共に飛んできたフラッシュに目を細めた。バシャッ! それでもぼくは窓の外に目を向けていた。
 いくつもの窓に灯る明かりの数々、真っ黒な世界に散らばった宝石のひとつひとつ――そこには、それぞれの営みがあることを思う。悲しみがあり、諍いがあり、喜びがあり、そして、愛情がある。
 今夜、ぼくの家には明かりが灯っているのだろうか。
 キャリアダウンを嘆いていた母は、ニューヨークにいても現地ルポで仕事を繋いでいた。二年の約束だった父の海外赴任が三年目を迎えたとき、母はなんの迷いもなく、夫を捨てて日本に帰ると決めた。一緒に帰国したぼくは、そんな母のお荷物にすぎない。
 ぼくの家に明かりを灯すのはいつもぼくだ。ぼくの家にぼくを待つ人は、いない。そんな場所は、ぼくのホームじゃない――。
 バシャッ!
 シャッター音に顔を向けると、また、フラッシュを浴びせられた。
 彼――英嗣(えいじ)さんはフリーのカメラマンだ。本当に撮りたい写真は群像写真なのに、生活のために雑誌用のさまざまな写真を撮っていると言っていた。仕事抜きで、モデルを使って写真を撮るのは、ぼくが初めてだと言っている。
 フリーカメラマンとしては駆け出しの彼は、まだ一冊の写真集しか出していない。本屋でその写真集を見て、それに収められているのはどれも街角で撮った群像写真ばかりだと知った。
 英嗣さんが自分の意思で撮る写真にモデルを使ったことはないと言ったのをそれで信じた。モデルにするのはぼくだけなのだと、わかった。
 そのことにどれほどの意味があるのか――今のぼくは、多分、十分わかっていると思う。だけど――。
 ひとつ、吐息をついた。部屋の隅に目をやる。そこにはぼくのバッグと制服がある。ぼくの上半身は裸だ。下は制服のパンツのままだ。それが英嗣さんの唯一の注文だった。注文は、いつのまにかそれだけになった。ポーズをつけられたのも、目線をくれと言われたことさえ、始めの二、三回だけだった。
 英嗣さんはぼくを撮るのにスタジオを使ったりしない。ぼくを撮るときは、いつもこの殺風景なリビングだ。
 今夜の英嗣さんは照明も使わない。天井に埋め込まれたダウンライトが灯っているだけだ。白いスクリーンも使わず、ぼくの背景は打ちっぱなしのコンクリートの壁だ。
 フローリングの床が素足に冷たい。
 バシャッ! ぼくに向けてカメラを構える英嗣さんは真剣だ。何ひとつ話さない。英嗣さんは、ただ、ここにいるぼくを写す。フィルムに、彼の網膜に、英嗣さんの部屋にいるぼくを、写し続ける――。
 バシャッ! 英嗣さんを見つめていても、シャッターが切られればフラッシュに目が眩んで、ぼくの視界から英嗣さんは消えてしまう。一瞬の、断絶。それが嫌だから、目を伏せて視線を落とした。また、フラッシュが飛ぶ。
 レンズの向こうにある英嗣さんの目を思った。ぼくを見つめる眼差し、ぼくだけに注がれる視線――じわりと、胸の奥が熱くなる。かすかに鼓動が速くなる。
 目を大きく開いて英嗣さんを睨んだ。バシャッ! 英嗣さんの声は飛んでこない、飛んでくるのはシャッター音とフラッシュだけだ。バシャッ! 無造作に髪をかき上げた。バシャッ! それも写される。
 少しイラついた。立ち足を替え、窓とは反対の壁に顔を向ける。そこに取り付けられている大きな鏡に目が止まる。
 鏡に映るぼくはかなり不機嫌な顔だ。ふん、構うもんか。バシャッ! また、撮られた。
 いつもこの繰り返しだ。英嗣さんはぼくをカメラで追いつめていく。シャッターを切られるたびにぼくの熱は高まり、鼓動のリズムは速くなっていく。見つめられていることを思うと、見つめて欲しかった渇きは癒されるどころかじわじわと増し、いつしか英嗣さんに捕まりそうになる。
 追って、カメラで追って、もう、どうにもできないところまで追って、追いつめて、英嗣さんはぼくを捕まえるんだ。
 ぼくは逃げ出した。バシャッ! 足早に鏡に歩み寄る、英嗣さんが追ってくる。手にしたカメラを至近距離で構える。
 英嗣さんはまだ冷静だ。鏡に反射するフラッシュを計算した位置に立っている。それがわかるから、とてもくやしい。
 余裕の仕草でぼくの顔をアップに撮る。バシャッ! 鏡に映るぼくの姿を撮る。バシャッ! 苦しくなる。
 まだ、撮るの? まだ、撮り足りないの? 暴走しそうなほどに、ぼくの熱は高まっていく。
 ぼくは鏡に片手を伸ばして大きく息をついた。そっと、鏡に頬を寄せる。冷たい。バシャッ! 額を鏡に押しつけた。意識して呼吸を整える。バシャッ! 鏡に両手をついて身を離した。唇を噛む。バシャッ! 肩越しに振り向く、英嗣さんを睨みつける。バシャッ! もう、待てない、カメラを構える手を掴んだ。バシャッ――!
 引き寄せ、引き寄せられ、狂おしく唇を重ねた。ぼくの背を大きく反らせ、英嗣さんは床にそっとカメラを置く。それすらも耐えられない。ぼくよりもカメラが大事なの? 裸の胸を押しつける。きつく目を閉じた。唇を貪る。貪られる。どんどん渇いていく――。
 ここまで辿り着くのに、どうしてこれほどの手順を踏まなくてはならないのだろう。カメラでぼくを追いつめ、どうしようもなくなるほど追いつめないと、英嗣さんはぼくに触れようともしない。
 撮影をしないで英嗣さんがぼくを抱くことはなかった。


『鏡を買った』
 英嗣さんがそう言ったのは、三回目の撮影のときだったと思う。窓の反対側の壁に、床まである大きな姿見が取り付けられていた。
『モデルをやっていれば、たとえ素人でも少しずつ自分を見せるようになるのに、伊勢谷くんはそうじゃないから』
 唐突に言われてぼくは困惑した。
『ぼくはモデル失格ですか』
 カメラマンの要求に応えられないモデル、そんなものはお払い箱に決まっている。
 英嗣さんに写される心地よさをその頃にはもう知っていたから、もしそうなら、それはぼくには辛いことだった。
『そうじゃない』
 苦い笑みを浮かべて、英嗣さんはゆるく頭を振った。
『うまく言えないけど、なんて言うか、きみは自分に自信がないんじゃないかな。何かを待っているような、そんな、飢えた感じがする』
 大きく目を瞠ったぼくの肩にぽんと手を置いて、はにかんだように続けた。
『ま、それが魅力なんだけどさ。だけど、それしか撮れないってのは、おれの力不足みたいで、ちょっと試したくなったんだ。ただ写されるんじゃなくて、写されている姿を見ればきみは変わるかと思って』
 撮りたかったのは飢えた感じだからべつに変わらなくてもいいんだけど、と付け加えて、英嗣さんはにっこりと笑った。
 ぼくは驚いた。英嗣さんは、初めて会ったあの時から、ぼくの渇きに気づいていたんだ。英嗣さんは本当のぼくを見ていた。被写体としてのぼくを通して、ぼくの内面までも。
 ぼくだけに注がれる視線、ありのままのぼくを見つめてくれる視線、意識の下でそれに気づいていたから、ぼくは、英嗣さんに写されるのを心地よく感じていたんだ。
 写され続けて、ぼくが変わるかどうかなんてどうでもよかった。ぼくは、ぼく自身を見つめる視線をよりいっそう求めるようになった。


 ぼくの唇から離れると、英嗣さんの舌はぼくの体を辿っていく。ぼくの顎、ぼくの首筋、ぼくの胸――。
「あっ……」
 感じやすいそこを舌でじっくり刺激しながらも、かすかにこぼれたぼくの声に英嗣さんはぴくりと肩を揺らした。英嗣さんの肩を掴んでいるぼくの手も小さく揺れた。
 ひとしきりぼくの胸を味わって、ぼくの首筋に戻ってきた英嗣さんは、さらに情熱的だった。じっとりと濡れるほどに舌を這わせ、軽く歯を立ててぼくの喉元を噛んだ。
 体を返されて鏡に両手をついた。ぼくの耳を探り、うなじを辿って、英嗣さんの指と舌はゆっくりと降りていく。ぼくの肩、ぼくの背筋、ぼくの腰へと。
 絶妙なタッチと、湿って乾く感覚――ゾクゾクする。体中がさざめき立つ。
 薄くまぶたを開いて、鏡に映る英嗣さんを見た。体を屈め、目を閉じ、ぼくの腰を両手で掴んで、ぼくの背中にくちづけを繰り返している。
 ぼくは、震えが止まらなくなる。
 ぼくの背中が好きなんだと、こんなことを繰り返しているうちにわかった。上半身だけ裸にさせてシャッターを切るのが何よりの証拠。正面を向いているときよりも、横を向いているとき、壁に向いているときにシャッター音は多くなる。
 フィルムに写し取られ、網膜に写し取られ、英嗣さんの心にも写し取られるのなら、どんなにいいかと思う。英嗣さんに写し取られ続けるなら、どんなにいいかと思う。
 指と舌が背筋を昇ってきた。立ち上がった英嗣さんの両手がぼくの前に回り、制服のファスナーに伸びた。
 全裸にされる自分の姿を鏡の中に見る。


『抱きたい』
 初めての誘いはストレートだった。英嗣さんのモデルになって一ヶ月が過ぎる頃だった。
 ニューヨークを離れる前の数ヶ月間、ぼくにとって無二の存在だったヘザーは、ぼくと知り合ったとき、ちょっと珍しいその名前を笑いながらこんなふうに教えてくれた。
『ヒースの女性名なの』
 「ヒース」は男性名だ。その後間もなく、彼女の恋人は女の子であるとぼくは知った。そんなことは彼女とぼくの関係に何ら支障をもたらすものではなかった。
 だから、英嗣さんもぼくも男だけど、英嗣さんに抱きたいと言われたとき、それが何を意味するのかすぐにわかったし、それはぼくを驚かせるほどのものではなかった。
 驚くわけがなかった。英嗣さんに撮られ続けるうちに、ぼくはそんなことにもなりうると感じ始めていたのだと思う。
 英嗣さんのぼくを見る眼差し。撮影を重ねるごとに、次第に熱を帯びてくるそれは饒舌だった。しかもそれは、少しも嫌なものではなかった。
 ぼくだけを見ている。
 ぼくを強く求めている。
 熱い眼差しはぼくを震わせ、じわじわとぼくを満たし、それどころか、ぼくからそれを求めるようになっていたんだ。
『きれいだ』
 ぼくの衣服をすべて剥ぎ取り、鏡に向かわせて英嗣さんは言った。
『ほら、自分でよく見てごらん』
 誘われて安易に応じるはしたなさを思うと、ぼくは顔を上げられなかった。それでも、鏡に映るぼくの何もかもを見られていると思うと、ぼくは昂ぶらずにはいられなかった。
『かわいいよ』
 背後から抱きしめられて、耳元で囁かれて、ぼくのものをやわらかく手で包まれて、ぼくは身を捩った。
『いつもとは違う顔をしている。あれだけ撮っても変わらなかったのに』
 ぼくの首筋に唇を押し当て、英嗣さんは言った。
『きみは自信がないのだと思っていたけど、まるっきりその逆だったってわけだ』
 熱い吐息を吹きかけながら、言った。
『きみは自己愛が強いね。相手に合わせようとはしない。相手を引き寄せることばかり考えている。それも、きみが望む通りじゃないと気がすまない』
 そんなことを言われても、もう、ぼくの頭はまともに働いてなかった。
『満足だろう? きみがおれをこんな気持ちにさせたんだ、わかっているのか――?』
 きつく両腕で抱きすくめられた。息を継ぐのも苦しいほどに、ぼくは熱くなっていた。
『きみを満たしてみたい――おれが、きみに、捕まったんだ。こんな、まだ子どものきみに……』
 鏡を見ても、ぼくの肩に顔を埋めている英嗣さんの表情は窺えない。
『弘晃』
 耳元で、初めてぼくの名前を呼んだ声の甘さに痺れた。
『弘晃』
 顔を上げて、鏡の中のぼくをうっとりと見つめる眼差しに射すくめられた。
 ぼくは知った。見つめられる以上に深い歓びがあることを。それを求めていたのだと、気づいてすらいなかったことを。
 肌のぬくもりに包まれ、熱く、苦しく求められ、極みまで追いつめられて解放される歓び、英嗣さんに欲しがられる歓び――。
 英嗣さんに抱かれて、ぼくは、それを、知った。
 ぼくのホームはここにある。


 英嗣さんはぼくの頬に頬を寄せた。うっとりとしたその表情と甘い吐息に、ぼくの体は力を失っていく。
 英嗣さんの手に包み込まれたぼくのものは硬く張り詰めている。ここまでの触れ合いで、期待する歓びに涙すら滲んでくる。ぼくのそれ自身も、もう、歓びの涙を溢れさせていた。
 ぼくの背に執拗に浴びせられるくちづけのシャワー。熱く濡れた感触は、すぐさまひやりとしたものに変わる。ひやりとさせられても、ぼくの体の奥から熱が湧き出るから、ぼくの体は火照っている。英嗣さんの手の中に、その熱は集まっていった。
「あ……ん、ん……」
 堪えきれない刺激を受け続け、抑えようもない声が漏れ、鏡に響く。エコーのように耳に届く自分の声に、ぼくは身悶えた。
 縋るのなら、鏡しかなかった。力が入らなくて、顔から胸までぴったりと鏡にへばりついた。英嗣さんの重みがぼくを押さえ込む。
 鏡が白く曇るのが目に映った。鏡を曇らせるのは、英嗣さんに抱かれるぼくの吐息とぼくの熱だ。
 ――熱い。苦しい。
 どうすれば解かれるのかわかっているけど、この熱が、この苦しさが続いて欲しいから、ぼくは我慢する。
「イっちゃえよ」
 余裕のある声が降ってきた。余裕のないぼくは答えられない。
「いい顔してる」
 囁かれて一気に昂ぶる。受ける刺激がたまらないから、ぼくを見ていると告げる声が甘くてたまらないから、ぼくはあえなく降参してしまう。
 英嗣さんの手を熱く濡らしたもので、英嗣さんを受け入れるそこを解される。
 はやく、はやく、はやく。
 じっくりと丁寧な指の動きに、ぼくは焦れて、せかすように尻を突き出した。
 はやく、ひとつになりたい。あなたが欲しい。もう、待てない。
 引き抜かれた指の代わりにぼくを満たすもの。ぐっと押し入ってくる圧迫感、強烈な痺れに眩む。渇く。英嗣さんの手が、ぼくの顔の横に伸びてくる。ぼくを背後から覆い、片手を鏡について、もうひとつの手でぼくの腰を支える。
 突き動かされる。英嗣さんの息がぼくの頬に熱い。シンクロして、溶け合って、このままひとつになれそうだと思う。
 いっそ、本当にひとつになってしまえればいいのに――。
 離れていたくない、いつでも一緒にいたい、ぼくの知らない英嗣さんなんていらない、いつだって英嗣さんがいなくちゃ嫌だ、ぼくには英嗣さんがいればそれでいい、ほかに何も欲しくなんかない!
 だけど、ぼくは知っているんだ。この瞬間でさえ、その思いはぼくの頭から離れてはくれない。ぼくと英嗣さんがひとつになれるのは、ほんの束の間の、この時だけだってこと。


『いつか、女同士でも結婚できるところへ行くんだ』
 ヘザーはぼくにそう言った。その時のぼくは、そうなるといいねと答えた。
 でも、今のぼくはそんなことに何も意味がないのを知っている。紙切れ一枚の誓約、そんなものはいつでも破棄できるんだ。そう、ぼくの父と母のように。
 たとえ、ぼくが女の子だったとしても、それで、いつか英嗣さんと結婚できたとしても、そんなことには何も意味はない。
 どんなに好きだと言われても、どんなに誓いを立ててもらっても、それは永遠を保証するものにはならない。
 ぼくは思う。どうすれば、人の気持ちを繋ぎ止められるのか、どうすれば、大切な人を失わずにすむのか。
『一緒に暮らしたい』
 ぼくは英嗣さんに言った。その時の英嗣さんは、一瞬驚いてから、顔をしかめて答えた。
『無理だ。おれには仕事があるし、弘晃には、家も親も学校もあるだろう?』
 ありきたりな答えにぼくは傷ついた。嘘でもいいから、英嗣さんも同じように思っていると言って欲しかった。
『おれにはおまえだけだ。それじゃ満足できないのか?』
 その言葉に嘘がないのはわかっていた。合鍵を渡されているぼくは、英嗣さんにほかの誰かの影を見ることはなかった。
『いつでも一緒にいたいんだ、離れているのが嫌なんだ』
 駄々をこねる子どものように繰り返すぼくに、英嗣さんはため息をついた。
『抱くんじゃなかったかな』
 ぽつりと呟かれた声に、ぼくは息を呑んだ。
『満足するどころか、ますます飢えているじゃないか』
 辛そうに言って、ぼくから目を逸らす英嗣さんにぼくは凍りついた。
『どういうこと……』
『そうじゃないか、違うのか?』
 顔を背けたまま、英嗣さんは吐き捨てるように言った。
 ぼくを、見ていない――。
 あまりの恐怖にぼくはおののいた。嫌だ、いつだって一緒にいたいのに、こんな、ぼくを見てもくれないなんて、嫌だ!
 次に言われるかもしれない言葉を思って、ぼくは泣き出した。泣いて、縋って、英嗣さんを揺さぶった。
『お願い、お願いだから、ぼくを見て! もう、言わないから、一緒に暮らしたいなんて言わないから、今のままでいいから!』
 英嗣さんの視線が戻る。深く悲しい色に沈んだその目に、ぼくは声を失った。
『おれは、もう、ぎりぎりなんだよ』
 吐息と共に、苦しげに吐き出した。
『おまえが相手だと、おれは、カメラマンとして失格だ。モデルから何も引き出せないどころか、モデルに引き込まれてしまったんだから』
 せつなそうに眉を寄せてぼくをじっと見つめたかと思うと、おもむろにぼくを引き寄せ、ぎゅっと強く抱きしめた。
『――くそっ。もう、戻れやしない。好きだ。嘘じゃない。もう、これ以上、おまえに譲れるものなんてない』
 ぼくは泣いた。英嗣さんの胸で泣き続けた。
 そのあと、初めて見せてもらったぼくの写真の数々――。
 ぼんやりと窓の外を見ているぼく、床にうずくまっているぼく、鏡に頬を寄せているぼく、まっすぐに立って英嗣さんを見つめているぼく――モノクロの淡い陰影に彩られた、たくさんのぼく。どれもこれも、せつなくて、請うような眼差し。
 あなたが欲しい、もっと欲しい、足りないよ、もっと、もっと!
 飢えて、渇いて、満たされていない姿ばかり――。
 それは、まちがいなく英嗣さんの心にも焼きついているぼくだった。
 そんなぼくを撮り続ける英嗣さんの気持ちを思うと、ぼくはさらに泣けた。
 これが、恋というものなの?
 さまざまな愛情は、そこここに溢れている。みんな、どうやって満たされているのかと思う。
 好きです、好きです、好きです――。
 想いを告げる言葉、繰り返される言葉、言葉が心を満たしてくれるの? 体を繋げられれば、みんな、それで満足なの? ぼくは、どうやって満たされればいいの――?
 恋を満たす器があるのなら、ぼくの気持ちと英嗣さんの気持ちは、どちらがたくさん注がれているのかと思う。でも、きっと、ぼくの気持ちと英嗣さんの気持ちは、溢れるほどに器を満たしているのだと思う。


 汗で湿った英嗣さんのシャツがぼくの背中に張りつく。英嗣さんの匂いがぼくを包み込む。英嗣さんの熱い息遣いが耳の奥まで響いてくる。
 ぼくは喘ぐ。声を上げる。しがみつきたい体はぼくの背にある。包まれて、貫かれて、突き動かされて、どうしようもなくて、熱くて、苦しくて、でもうれしくて、だけどこの時だけで、それでもやっぱりうれしくて、頭がごちゃごちゃになって、すごく気持ちよくて、だけど、どんなに満たされてもやっぱり足りなくて――。
「もっと、もっと、もっと、もっと!」
 ぼくは叫ぶ。足りないよ、こんなんじゃ足りない!
 もっとあなたが欲しい、次の瞬間も、その次の瞬間も、またその次の瞬間も、ずっと、ずっと、ずっと、あなたとひとつになっていたい! 一瞬でも、離れたくなんかない!
「うっ……」
 英嗣さんがうめく。
「やだっ……」
 そう言ったって、ぼくは達してしまう。鏡に飛び散る白い飛沫、ぼくに重なる体がびくびくっと震えた。思いっきり鏡に腕を突っぱね、その反動で振り向き、かけがいのないその人にぐったりと縋った。
 英嗣さんの体から熱い鼓動が耳に響いてくる。しっかりと抱きしめてくれる力強い腕がうれしい。受け止めてもらえるから、こんなぼくでも英嗣さんは受け止めてくれるから、ぼくは、この束の間の歓びを、愛しく思う――。


 いつもの週末のように、ぼくは英嗣さんのベッドで眠った。深夜、ふと目覚めたぼくは、隣で穏やかな寝息をたてている英嗣さんにくちづけた。薄暗がりに浮かぶ顔を見つめた。やわらかな髪が額にかかり、はっきりとした顔立ちは男っぽい。眠っていても眉はきりっとしているんだと思ったら、くすっと笑ってしまった。笑って、少し、淋しくなった。
 壁のポスターからピンを抜いた。自分の小指に突き立てた。プチッと、血が小さな球を作る。英嗣さんの左手を取って、その小指にもピンを突き立てた。かすかに身じろいだけど、英嗣さんは眠っている。ぼくの小指と英嗣さんの小指を重ねた。血が、混じり合う。
 好き――。
 胸のうちで唱える。何度も唱える。すっと浮かんだその言葉を繰り返した。
 手を離すと、血は止まっていた。こんなことをしたって、溶け合うなんてできるわけがない。わかっているんだ。仕方ないよね、ぼくとあなたは別々の人間なんだから。
 週明けには、また、英嗣さんは撮影に行く。ぼくの知らない姿を少しでも見せようとしたのか、カレンダーにスケジュールを書き込んでくれた。今夜、それに気づいた。英嗣さんは何も言わなかったけど、気づいてそうとわかった。無言のやさしさに胸が締めつけられた。
 また一週間会えないけど、淋しいけど、でも、今は一緒にいるんだよね。
 再び、英嗣さんの素肌に寄り添った。重なるぬくもりに吐息を漏らしたら、寝返りを打った英嗣さんの腕がぼくの肩を抱き寄せた。
 ちょっと驚いて顔を見たけれど、英嗣さんの目は閉じられたままだった。
「好き」
 小さく呟いてみた。ぼくを抱く腕が、かすかにぎゅっとした。



(補足) タイトルの日本語訳:「ちっとも満たされてやしない」 
 

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