Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    初めての、夜。
    −「夏駆ける、きみ」続編−



         ケータイが鳴ったのは、ホームで電車を待っているときだった。
        『俺』
         耳の奥まで、すっと響いてくる声――聞き慣れているはずなのに、ドクンと胸が響いた。
        「あ……これから乗るところ」
         言い終わらないうちに、電車の到着を知らせるアナウンスが流れてきた。
        『うん――待ってる、歩夢』
         それだけを言って唐突に切ったのは、琢己も照れているからだ。吐息が溢れた。目の前で開いたドアに進みながら、歩夢は頬が熱くなるのを感じた。
         ケータイの番号を教え合えたのは、ほんの三日前だ。全校あげて部活が停止になる水曜日、今週のその日は、怒涛のように過ぎた。
         歩夢はドアの横にもたれて、電車の揺れを心地よく感じる。車窓の外に、西の空を鮮やかに染める夕陽を見て、胸がいっぱいになる。あの日も同じような空を見た。初めて訪れた、琢己の部屋から――。
        『……だらけきって、やらしい顔してる?』
         そう言って、自分を見つめた琢己の目――。
         思い出して、何度でもときめく。歩夢は、Tシャツの胸のあたりをぎゅっと掴んだ。コツンと、額を車窓に預ける。吐息でガラスがうっすらと曇る。
         琢己のベッドの上で、向かい合って座っていた。背後から射すオレンジの光が、琢己を照らしていた。
         シャープに整った男らしい顔立ちなのに、自分に注がれる眼差しは、蕩けて甘かった。琢己のそんな表情を目の当たりにしたのは初めてで――それも当然だったのだが――胸を射抜かれて、最後の鍵がはずれるのを感じた。
         情欲というものが高まるのを抑えきれなくなるとは、あんなふうになることを言うのかと――あとになって思った。
         傾き始めた陽の光に染まる琢己のシャツを自分の手で開いた。プールで遠くから眺めるだけだった、たくましい胸が目の前に現れた。
        『やっぱ……すごく、セクシー……』
         照れもなく言ってしまったのは、だから、抑えようがなかったからで――すぐに、くちづけてしまった。体中が燃え立って、胸が苦しかった。
         素肌に頬を重ねて、心から安堵した。その気持ちを声にしたら、俺も、と即座に返された。
        『ぼくは、こんなふうにできるだけでも、よかったんだ――』
         裸の胸で抱き合って、口をついて出てきた言葉に嘘はなかった。琢己に受け入れられたと、身をもって感じられて、それでもう十分なほど、本当にうれしかったのだ。
         でも、あそこまでしちゃったんだよな――。
         本音を言えば、せっかくだから最後まで、と思う気持ちは確かにあった。しかし、無理を押して最悪の初体験になるよりは、ずっとよかったと思う。
         聞くまでもなく、琢己が男相手にその気になったのは、自分が初めてなのは間違いない。自分にしても、想いが通じた相手は琢己が初めてで――大切にしていきたいと思うのだ。たったの一日で、告白からファーストキスを経て、思いがけず、あんな形で快感を共有するに至り、めまぐるしく駆け抜けてしまったのだから。
        『復習って……。したのか? ――復習』
         翌日の昼食後に、一緒に教室に戻る途中で、琢己が遠慮がちに尋ねてきたのには笑えた。
        『うん……したよ?』
         恥ずかしかったけど、自分から言い出したことだし、正直に答えた。照れ隠しに笑いながら見上げたら、琢己は沸騰しそうな顔になっていて、大きな手で口を覆っていた。
         かわいいんだから――。
         あのとき、琢己が最後までしたいと言ったなら、たぶん応じられたと思う。琢己は何も知らないと言っていたけど、自分は既に、そうではなかったから。
         女の子が嫌いなわけじゃないけど、心から惹かれて胸がときめくのは同性を対象としてだけで、それを自覚してからは、興味の赴くまま情報に触れ、自然と知識を得た。
         その点では、同年代の誰とも変わらないと思う。好きな人を心に抱いて、眠れない夜を迎えてしまうのも。ましてやそれが、好きな人と初めて肌を合わせたあとなら――。
         あの晩は、琢己の手が、息づかいが、思い出されてならなかった。やさしく甘い声も、唇のやわらかさも、絡み合わせた舌の感触も。
        『そ、んなふうに、しちゃ……』
         熱いシャワーに流されながら、狭い浴室に響いた自分の声も、耳について離れなかった。
         何も知らなかったときは、自分のベッドにひとりでいて、あんなにも体が火照ることはなかった。琢己のベッドで一度、浴室で一度――放ったあとだったのに。
         疼いたのは胸と股間で、脳裏には、フラッシュバックのように様々な琢己が浮かんだ。指先で唇に触れただけで、キスの感触がよみがえった。素肌に手を這わせれば、琢己の辿った跡をなぞった。
         自分のものを自分の手で刺激しても、琢己のやり方になった。すっぽりと手に包んで、いきなり指の腹で先端をいじる。それから、じっくりと扱き下ろして、きつく絞り上げる。次第に、琢己にされているのか、琢己にしているのか、曖昧になっていった。
         ただ――吐息が湿っていくばかりで、鼓動はどこまでも高まっていくようで、その息苦しさは琢己にのしかかられているのと変わりなく、だけど琢己の重みがないのが淋しくて、一緒にいられないもどかしさが余計に興奮を煽り、ひとりで絶頂に達するせつなさを色濃くした。
         琢己も同じ夜を過ごしてたらいいのに――。
         心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。でなければ、翌日になって、『復習した』だなんて言わなかったはずだ。
        「は、ぁ……」
         ため息ともつかない吐息が落ちた。まだ電車に揺られているのに、胸は早くも熱くなっている。『復習』なんて、耳慣れた単語に素直に照れて見せた琢己は、本当に純で――そんな琢己をかわいいと感じる自分は、どうかと思ってしまう。
         電車は緩やかなカーブに差しかかる。色鮮やかな空を背景に、あの川の土手が目に入ってきた。降りるのは、次の駅だ。
         三日前、今と同じような時間に、琢己の家からふたりで歩いた道を、これからひとりで逆に辿るのを思った。
         気だるさを感じるのは、久しぶりにたくさん泳いだあとだからか。それとも、これから琢己に抱かれる予感に胸が張り裂けそうだからか――。
         思いきり泳いだせいだ。
         期待するあまり、いざそうなったら、どこか遠くへ行ってしまいそうな自分が、少し恐かった。


        「……ふとん?」
         ようやく琢己の部屋に入れたものの、ベッドの上に積んである蒲団に目が止まって、歩夢は思わず呟いた。
         スイミング・クラブを出たのは午後六時、琢己からのメールは、そのとき気がついた。
        『終わったら、そのまま来るんだよな?』
         そうだと、その場で簡潔に返信して、そのあとはホームで短い電話を受けただけだった。
         だから、着いたらすぐに食卓に招かれたのには驚いた。まさか、琢己の父親と三人での夕食が用意されているとは、まったく思っていなかった。土曜日に会いたいと言い出したのは自分だったが、それなら泊まりに来いと応じられたから、琢己の家族は不在と思い込んでいたのだ。
        『母さん当直だから、俺が晩メシ当番』
         琢己は照れくさそうにそう説明したけれど、動揺をうまく隠せたかはわからない。
         予想外もはなはだしい琢己の手料理を前にして、琢己の父親の席に例の緑茶があるのに気がつき、それでやっと緊張が解けた。
         テレビが映すのは野球のナイター中継で、ありきたりな会話のあとは、意識してそれに見入った。目の端に映る琢己の父親は、あの緑茶を常飲するのも納得の体型だった。
        『……琢己は、お母さん似?』
         こっそり、そんなことを口にできたときには、少しはくつろげていたと思う。
        『そう思いたいよ』
         ため息混じりに返されて、頬が緩んだ。
        『剣道、やめられないね』
        『やめる気なんて少しもないけど。とりあえず、うちのメシはカロリー計算できてる』
         琢己の母親が看護師というのは、そのときが初耳だった。
        『琢己が料理できるなんて、ビックリした。おいしかったし』
         普段どおりに食べ尽くしたあとになって、今さらのように言ったら笑顔を向けられた。
        『……親の部屋、アニキの部屋の下だから』
         そっと耳打ちされた言葉の意味は、それだけで伝わった。頬に、すっと血が上るのを感じて、慌てて顔を伏せた。
         それなのに、ようやく入れた琢己の部屋のベッドには、蒲団が積んである。
        「うん、先に敷いちゃおう」
         平然と言われて、がっかりしてしまう。これでは、単なる友人の家に泊まりに来たのと変わりないではないか。
        「――歩夢?」
         暗に手伝えと呼ばれて、落胆を隠す気にもなれずに渋々と応じた。期待に張り裂けそうだった胸は急激にしぼんで、琢己に比べたら浅ましいだけだったように思える自分が取り残される。
         部屋は八畳に少し足りない長方形で、窓に面して隅に机がある。隣に、スタンドが置かれた低いラックを挟んでベッドが並んでいて、蒲団は、ベッドの横、机の手前に敷いた。
         取り立てて目を引くもののない、さっぱりとした室内だ。唐突に訪れた水曜日も、特に散らかった印象はなかった。
         あのときは好ましく感じられたのに、今は素っ気ないように感じられる。さっぱりしているのが、かえってよそよそしい。
         梅雨明け間近の夜はさほど蒸してなく、窓は開いていた。かすかに吹き込む夜風は艶めかしくもあるのに、自分たちは少しもそんな雰囲気になれない。
         そんなことを思っていたら、琢己が唐突に窓を閉めた。エアコンを入れる。
        「……先に、風呂入る?」
         振り向きながら自分を捉えた目は恥ずかしそうで、いきなり鼓動が跳ねた。
        「やっぱ今日は一緒ってのは、ちょっと――」
        「そ、そうだよね……」
         お父さんがいるんじゃ――とまでは、言えなかった。
         エアコンの運転音が急に耳につく。住宅街の中にあって、静寂に包まれているのが気になってくる。かすかに聞こえてくるのは、階下のテレビの音か――。
        「なら……なんで、ふとん?」
         最初からその気があったのなら、わざわざ床を別に延べる必要はなかったではないかと――暗に咎めた。
        「なんで、って――」
         エアコンのリモコンを手にしたまま、琢己は目をそらして、ぼそっと答える。
        「俺のベッド……きしむから」
         もう、何も言えなくなった。
         数歩離れた位置に立っているのが、どうしようもなく気恥ずかしくなってくる。手を伸ばせば届きそうで、届きそうにない、微妙な距離――。
        「なんか、緊張する」
         ポツリと言って、琢己はリモコンを机に置いた。
        「初めてじゃん? 私服」
        「え? ……あ、そうか――」
         玄関を開けて迎えられたとき、自分も同じことを思ったのだが忘れていた。
         歩夢は、あらためて琢己を見つめる。互いに、ごく一般的なカジュアルな服装だ。だけど、紺地に英字のロゴがプリントされただけのシンプルなTシャツは、琢己らしい。薄手のコットンのラフなパンツを穿いていて、すらりとした長身が、制服姿のときよりも、ずっとセクシーに見える。
         蒲団を避けて、琢己が歩み寄ってきた。
        「そういうの……似合うよな」
        「そ、そうかな――」
         歩夢は顔を伏せて、自分の服装を確かめるように眺める。夏空のような淡いブルーのTシャツに、ありふれたジーンズ――。
        「あのときも思った。転入前に事務室に来てたとき。あれって、前の高校の制服だよな?」
        「……え?」
         顔を上げたら、大きな手で頬を包まれた。
        「覚えてたんだ――」
         こぼれ出た声ごと、やさしく唇を奪われた。軽くキスされただけなのに、ぼうっとする。
        「……やっぱ、歩夢が先に風呂入れよ」
         そっと離れて、琢己は間近でささやいた。
        「――うん」
         顔が熱い。先を急ぎたい気持ちはあるけど、クラブで入ってきたからいいよとは、言えそうになかった。
         シャワーを浴びたあと、リビングは暗くなっていて、覗くまでもなかった。歩夢は琢己の部屋に戻り、琢己と入れ違いになる。
         こんなとき、何をしていればいいのか、戸惑ってしまう。蒲団の上にぺたんと座って、ひとまずエアコンの風で涼んだ。
         部屋の隅に置かれてある剣道具が目に映る。防具の入った専用のサックと、竹刀を収めた布製の袋――視線をさまよわせれば、ベッドの足元にある棚の上に、小さな盾とフォト・スタンドが飾られているのに気がついた。
         歩夢はベッドに乗って、盾を手に取った。大会名の横に『第三位』と刻まれている。フォト・スタンドの写真は、そのときのものなのだろう。今よりも小さい琢己が、剣道着姿で誇らしげに写っている。
        『剣道部は、今は繁と琢己のふたりが背負っているようなものだから』
         麻生から聞いたことが思い出された。引退した三年生は部員数が多かったから、ふたりのほかは試合経験が少ないのもあって、実力にばらつきがあるようだと言っていた。
        『繁は文句なしに強いから、琢己はいろいろ大変なんだろうな』
         生徒会の仕事を手伝っていると、麻生はそんなことを話して聞かせた。歩夢としては、麻生とは何が話題になっても、かえって気が楽だった。
         麻生には、琢己に一目惚れしていたことは、とっくにバレていたから――。
        『あいつ、鈍いだけで、悪気があったわけじゃないと思うよ』
         何を話したのか知らないけど――そう言い足して、麻生から声をかけてきたのだ。
         転入初日の昼休み、給食ルームで琢己とあんなことになった直後だった。琢己に一目惚れしていたのに、何も言えないうちに拒絶されたような気持ちで、いっぱいになっていた。
        『少なくとも、あいつ、誰ともつきあってないはずだから。俺はカノジョいるけどね』
         にっこりと言われて少し落ち着けたのは、やはり麻生が、転校前の高校で仲のよかった友人に似ていると感じたからだろうか。
         歩夢は、盾を棚に戻した。パタッとベッドに倒れる。
         ――琢己の、匂い。
         どうして今、ここにいられるのか……なんだか不思議に思えてくる。何もかも終わったと、放課後の非常階段で涙ぐんだのは、ほんの三日前だ。
         あの場所からは、幾度となく、剣道着姿の琢己を見てきた。剣道場の高窓はいつも全部開いていて、横一列に並ぶ中に動き回る琢己を見るのは、まるで映画フィルムを眺めるようだった。コマの中に現れては消える琢己の動きは俊敏で、麻生から部を背負って立つと聞いたのも納得だった。
         竹刀を打ち合う稽古になると、少しの迷いもなく攻めていく。その姿に、いっそう魅了された。叶わない想いは早くあきらめたほうがいいと、わかっていたのに。
         気持ちいい……。
         ベッドに突っ伏し、歩夢は、琢己の勇姿を脳裏に描いて吐息をつく。今となっては、気持ちを打ち明けることすらできないと思っていたのが嘘のようだ。
         だけど、急ぎすぎたとは思わない。気持ちを受け止めてもらえたなら、求められるのは喜びでしかなく、いっそ何もかも奪われて、確かな結びつきにしたいと心から思う。自分から奪うのが許されるなら、そうしてしまいたいほどだ。
         今日は、バッグに、スイミング・ウェアと一緒にベビー・オイルを忍ばせてきた。思い出して、顔が熱くなる。
         ……しょうがないじゃん、琢己が言ったんだから。泊まりに来い――って。
         それなのに父親は在宅で、だけどベッドがきしむからと蒲団が用意してあって――どんなつもりでいればいいのか、わからなくなる。
         もういいよ、なんだって――。
         拗ねて、歩夢はタオルケットを抱き込んだ。そうして琢己の匂いに浸っていると、不意にドアが開いた。
        「歩夢?」
         何をしてるんだと言いたそうに呼ばれて、ハッと跳ね起きる。
        「た、琢己――」
         一息で、火照った。風呂上がりの琢己は、イージーパンツを穿いているだけで、上半身が裸だ。
        「えーっと……」
         琢己も照れたようになって、ドアを閉じる。
        「一応、急いで出たつもりなんだけど――」
         所在なさそうに、まだ湿っている髪をかき上げた。
         歩夢は上気した顔で、琢己の上半身を眩しく見つめる。竹刀を振る体は腕も肩もたくましく、胸も腹も締まっていて、一分の無駄もない。
         琢己は、本当にわかっているのだろうか。歩夢は思ってしまう。抱かれたい、ひとつになりたいと……自分は、こんなにも渇望しているのに。
        「琢己――」
         だけどそれは声になって出てこない。目を戻してきた琢己と、じっと見つめ合うだけだ。
         琢己の唇が、かすかに動く。
        「こっち……来て」
         蒲団の向こう側から呼ばれて、歩夢はふらりとベッドを降りた。差し出された手を掴んだら、そっと引き寄せられた。
         琢己は片手を伸ばして壁のスイッチを押す。フッと闇に包まれた。
         熱い素肌に包まれ、歩夢は琢己の胸で吐息を落とす。暗がりの中、頬を包んだ手に導かれて、唇を重ねた。
        「ん……」
         やわらかく、湿った感触に息が上がる。熱っぽく舌を絡め取られて、体中が震えた。
         こんなキスをするのは、まだ数えるほどで、それだけでもう酔ってしまう。歩夢は琢己の上腕を掴むのだが、手に力が入らない。
         キスを受けきれなくなって、膝が折れた。琢己に支えられて、蒲団の上に崩れた。
        「あ……」
         のしかかられ、全身で琢己の重みを受け止める。唇が離れて、湿った吐息が湧き上がる。
         頬に、耳に、キスされた。閉じたまぶたにも、左目の目尻にも、やさしく唇を押し当てられた。琢己の息づかいを耳元で感じる。Tシャツをたくし上げ、大きな手がゆったりと素肌を這い上がってくる。首筋を舐められた。
        「な、なんか……このあいだと、違う……」
         素直な感想が、つい、口に出てしまった。乳首に触れかけていた手が止まる。
        「琢己……?」
         気を害してしまったかと、不安になって呼んだ。
        「――イヤ?」
         暗闇の中、間をおいて返ってきた声は気弱に聞こえて、歩夢は慌てて打ち消した。
        「ううん、そうじゃなくて……」
         琢己はじっと続きを待っている。
        「えっと……大丈夫なのかな――って。お父さん、いるのに……」
        「それは、平気――」
        「だ、だけど」
        「なに?」
         闇に慣れた目が、両手をついて上体を浮かせる琢己を黒いシルエットで捉えた。歩夢は小声で言う。
        「だって、声とか――」
        「声?」
         途端に、パッと明るくなった。歩夢は、くらんだ目で、どうにか琢己を見つめる。
        「うゎ……」
         小さく叫んで琢己は目を見張った。ラックにあるスタンドをつけた手を戻してきて、口を覆って真っ赤な顔になる。
        「……どうしたの」
         問えば、しどろもどろに答えた。
        「どうした、って……すっげ、エロい――そのカッコ……」
        「え――」
         言われて顔が熱くなる。だが、歩夢にわかるのは、Tシャツが半端にたくし上げられ、胸が半分はだけていることくらいで――。
        「声……出ちゃう?」
        「だ、だって……」
        「いいよ、出たって。出ちゃうなら……聞かせて。て言うか、聞きたい――」
         ささやいて、琢己は歩夢の素肌に、そっと手を乗せる。
        「けど――」
         歩夢は本当に喘いでしまいそうになって、困った目を向けた。
        「ごめん、気になるよな……でも平気だから。もう寝ちゃってたし――うちの父親、寝たら朝まで起きないから」
         しっかりと目を合わせて言われては、歩夢は頷くしかない。
        「マジ、ごめん。けど俺、もう無理」
         琢己は言いながら歩夢にかぶさってきて、ぎゅっと抱きついた。
        「やっぱ全部、欲しい。けど、ラブホ行くのとかは、なんかイヤで……歩夢の家行くのも違うみたいに思えて……」
         歩夢の耳に唇を寄せて、苦しそうに息を吐き出す。
        「だから……したいだけとか、そんなのとは違うんだけど、今日来るって聞いちゃったら、やっぱ泊まってほしくなって、俺……」
        「琢己――」
        「無理する気なかったんだけど、もうダメ」
        「琢己……!」
         琢己の首にかじりつき、歩夢は言い放った。
        「ぼくも、したい」
         頬をすり寄せ、吐息を溢れさせる。
        「欲しいよ、ぼくも……全部」
         言い終わらないうちに、唇を重ねられた。
        「ふ、ん――」
         声が鼻に抜けて、甘ったるく響いた。琢己はせわしないキスをする。深く挿し入れた舌で荒らされると、かえって歩夢は感じてしまう。
        「ハ、ァ……ッ」
         唇を解放されても、息は上がったままだ。顎から喉を舐め下ろされて、背筋がぞくぞくする。乱暴にTシャツを抜かれた。
        「……あ」
         乳首に吸いつかれて声が出た。濡れた舌先でこねられ、ビクッと肩が揺れる。もう片方も指先でいじくられ、腰まで甘く痺れる。
        「ふ、くぅ……」
         思わず琢己の肩を掴んだのだが、琢己は止まらない。歩夢の体に顔をうずめ、ぬるぬると舌を使いながら、下がっていく。
         へその窪みに舌を入れられたら、堪えきれなくなった。脇腹をすっと撫で下ろされ、強烈な快感が背筋を駆け抜ける。
        「あ、あーっ……!」
         声を殺して叫んでも、ぐんと起ち上がった自分のものは、もう溢れ出している。それが、すっと冷えた空気にさらされるのを感じて、歩夢は跳ね起きた。
        「た、琢己……きゃっ」
         変な声が飛び出て焦る間もなく、熱い粘膜に飲まれた。ズクンと腰に響く。頭の先まで痺れが駆け上って、一息に達してしまいたくなる。
        「や……たく、み……やめて――」
         今にも琢己の口の中に放ってしまいそうで、懇願の声を出すのだけど、琢己は応じない。
         しっかりと根元を掴んで、厚みのある舌が舐め上げているのが歩夢の目に映る。堪えがたい刺激と共に、信じられない状況を目の当たりにして、いっそう昂ぶってしまう。
         やめてほしいけど、やめてほしくない、だけど、こういうのは――。
        「琢己、お願い……」
         琢己は、目を上げた。前髪の陰から歩夢に注がれる眼差しは溶けていて、歩夢は思わず息を飲む。
         ひどく淫らで……とてもセクシーだ。
        「……よく、ない?」
         先端に唇を触れさせたまま、琢己が呟いた。歩夢はハッとして、火照りきった顔を慌てて横に振る。
        「歩夢……きれい。色っぽい……すっげー、そそる――」
         夢見るように言われて恥ずかしくなった。顔を背け、歩夢は小声で漏らす。
        「……明かり……消して」
        「やだ」
         だが、すぐに拒否された。
        「歩夢が感じるの、もっと、見たい」
        「あっ」
         言ったと同時に、ぐりっと扱かれた。腰が跳ねて、歩夢は身をよじる。上体をひねって、枕に突っ伏した。
        「歩夢の背中、好きだ……」
         うっとりとした声が降ってきて、じっくりと背筋を撫で下ろされた。尻を手のひらで包まれる。そうなっても、握っている手は離れていかない。
         全身が小刻みに震える。ぞくぞくするのは確かに快感で、唇からは、熱く湿った息しか出てこない。
         ……どうしよう。
         この次に起こることを思って、胸は期待に高鳴り、不安でいっぱいになる。バッグに忍ばせてきたベビー・オイルを思い出し、しかし歩夢はためらった。
         こ、こんなふうに……なっちゃうなんて。
        「ごめん……ちょっと待って」
         歩夢を握っていた手が離れ、琢己は歩夢を越えて腕を伸ばした。うつ伏せになって、ホッと息をつけたのも束の間、歩夢は琢己の取り出したものを見て、大きく目を開く。
        「それって……」
         机の一番下の引き出しに隠されていたものは、たぶん、専用のローション――気がついても、歩夢は声に出して言えない。
        「だから……予習?」
         照れた声で言いながら、琢己は下肢をあらわにする。歩夢を挟んで両肘で体を支え、まるで歩夢を逃がさないかのようにして、歩夢の目の先で、手のひらにボトルを傾ける。
         そんなものをどうやって手に入れたのかと、琢己に尋ねたい。この三日間で、いったい、どんな『予習』をしたのかと問いただしたい。
         しかし歩夢は顔を火照らせるだけで、声を出せなかった。
        「……新宿まで行ったって言ったら、驚く?」
         ぬるりと谷間に指を滑らせてきて、琢己は歩夢の耳元でささやく。
        「あっ……」
         固く閉じているそこに触れられて、声が飛び出た。
        「なんかさ……買うとき、いろいろ励まされちゃった」
         子どもみたいに言われても、歩夢の鼓動は駆け出し、激しく高鳴る。
         いろいろ励まされたって、どういう……。
        「……息、吐いて――そうするんだって……」
        「――はっ」
         琢己は背にのしかかってきて、胸に片手を回した。指先でやわらかく乳首をもてあそび、そうしながら、歩夢の中に指を進めてくる。
        「あ、あ、あー……っ」
         髪を振り乱し、歩夢は胸を浮かせた。手をついて身をよじったら、琢己の指がぐっと奥まで刺さってしまった。
        「はっ……あ、んん――」
         背を反らせても逃れられない。逃れたいわけでもない、別々の感覚がごちゃ混ぜになって、頭が沸騰しそうで、おかしくなる。
         琢己の唇が肩に吸いつく。厚みのある舌が、ヒクヒクと震える体をあやすように、背筋に沿って生ぬるく降りていく。
         くちゅくちゅと濡れた音を耳が拾い、それがどこから聞こえるのか知ったら、たまらなくなった。歩夢は、浮いた腰の陰で、きっちり起ち上がっている先端から、たらたらと溢れるのを感じる。恥ずかしくて、なのに、何も隠せない状況で、琢己はさらに追い立ててくる。
        「……こっちのほうが、いい?」
         胸をまさぐっていた手が、股間に潜った。
        「やっ、あぁっ」
         絡みついてきた指がぬめりに滑った瞬間、歩夢は放っていた。絶頂の快感が、シーツを掴む指先まで痺れさせる。
        「……はっ、あっ、あっ」
         しゃくりあげるような息を継ぎ、歩夢は崩れかけた。琢己のたくましい腕が腰に回され、歩夢を支える。
        「……つらい?」
         そんなはずはない、達したのを知って訊いてくるなんて――歩夢は、かすかに首を振る。
        「ごめん……ごめんな……」
         謝らなくたっていいのに――ぼうっとする頭で思うだけで、声にはならない。
        「好きだ、歩夢――」
         指を潜らせている脇に、唇を触れさせてささやいて、琢己は熱い吐息を落とした。くちづけて、濡れた舌先を這わせる。
        「ん……」
         歩夢はぞくりと背を震わせた。また、快感が訪れる。すっかり琢己の意のままになって、何度でも、爪の先まで愉悦にさざめく。
         知らなかった……こんなふうになるなんて。
        「歩夢……もう、いい?」
         聞こえた声に、そろそろと振り向いた。歩夢は、ぼんやりと琢己を目に捉える。スタンドの淡い光を受けて、濃い陰を刻む、たまらなくセクシーな顔――唇から吐息がこぼれた。
        「あ……ゆむ!」
         慌しく指が抜かれ、琢己は飛びついてくる。たちまちに歩夢を仰向けに返し、抱きついて、猛々しく張り詰めた先をねじ込んだ。
        「あっ、ん――」
         叫びかけた歩夢の声は、琢己の口の中に消える。きつく抱きしめられ、片脚を抱えられ、ずぶりと奥まで貫かれた感覚に、歩夢は目を見張った。
         圧迫され、琢己の存在を刻まれる。中も外も琢己でいっぱいになって、くらんで、頭の中が真っ白になる。
        「歩夢、歩夢……!」
         顎とも頬ともつかない場所にキスを散らし、琢己が夢中になって呼ぶのを聞く。体に深く刺さったものが引いて、すぐに戻ったとき、未知の感覚が歩夢の中でスパークした。
        「た、琢己……」
         体中が震える。目尻から涙が伝う。歩夢は濡れた目で琢己を見つめる。
        「歩夢……」
         気がついて、見つめ返してきた琢己の目は蕩けきっていて――歩夢は、胸が締めつけられた。
        「やさしく、して――」
         そんなふうに言うつもりはなかったのに、薄く開いた唇から声がこぼれ出ていく。
        「ゆっくり、きて……琢己」
         力の入らない腕で琢己にすがる。首に絡めて、唇を近づける。
        「もっと……奥まで」
         ささやいて、脚も絡めた。両方とも琢己の腰に回して、自ら結合を深くする。
        「……歩夢」
         昂ぶる感覚は果てが知れないのに、気持ちが満たされる。体の奥深くをえぐられながら、温かくやさしいキスを受ける。
         ねっとりと絡み合う舌――しずくが溢れて口の端から伝う。耳に粘りつくような音は、ひとつにつながっている証――。
        「琢己――琢己……!」
         唇が離れるのすら淋しくて、呼んだ。涙は、とめどなく溢れてくる。琢己の舌が涙をすくい、その次のキスは少ししょっぱくなった。
        「歩夢……」
         せつない声で呼んで、琢己は頬をこすりつけてくる。歩夢はこしの強い髪に指を潜らせ、琢己を肩に抱いた。
        「もう……ヤバイ、イきそう……」
         琢己が苦しそうにささやく。
        「もっと、ずっと……こうしていたいのに」
        「……気持ちいい」
         歩夢は掠れた声で答えた。
        「琢己が好きだ……すごく、たくさん」
        「ん!」
         歩夢の左目尻にせわしなくキスして、琢己は上体を起こした。ぐっと強く歩夢を貫く。
        「あ」
         声が続かない。叫んでしまいたいのに、それができない。抑えたわけじゃない、声すら失うほどの大きな波に飲まれて、歩夢の全身から力が抜けていく。
         潤んでぼやけた視界に、歩夢は琢己を見た。少し伏せた顔は、眉を寄せて唇を引き結んでいるのがわかる。歩夢の腰をしっかり掴み、抑制されたリズムで奥深いところをうがつ。
        「もう……ダメ――」
         呟いたのは歩夢だ。再び起ち上がっていたそこに急激に熱が集まり、ぐんと硬くなるのを感じる。
        「ダメ、もう――琢己……っ」
         小さく吐き捨て、悶えて喘ぐ。
        「イく……やだ、琢己、きて!」
         叫んで、琢己の腕を引き寄せた。
        「くっ」
        「は! あ、あぁ……っ」
         重なった素肌の狭間に熱い飛沫が散る。歩夢の体の奥で、ドクンと大きく波打つ。
        「はー……」
         深い吐息と共に、琢己が崩れてきた。脱力した体を歩夢に預け、せわしなく息を継ぐ。
        「歩夢……」
         蕩けそうな声で呼ばれて、歩夢はうつろな目を向けた。頬を滑ってきた唇を受け止め、深く合わせた。
         鼓動が激しい。琢己も同じなのを知る。琢己の重みを全身に感じて、心が満たされた。確かにひとつになれたのだと、そう思った。


         エアコンの風が肌を撫でる。ひやりとするのは、季節がまだ早いからか――。
         ぬくもりを感じる方へ、歩夢は身を寄せた。温かな吐息が頬を掠め、ぼんやりとまぶたを開いた。ハッとする。
        「……琢己」
         唇から漏れた声はかすかで、目を上げれば、やわらかな眼差しに包まれた。
        「ぼく……眠ってた?」
        「……のかな? けど、五分くらい?」
         部屋の様子は先ほどと変わりなく、ベッド脇のラックにあるスタンドが、今も頭上から淡い光を投げかけている。歩夢は琢己の腕の中にいて、裸の胸に抱かれている。腰まで、タオルケットが掛けてあった。
        「……ごめんな」
         呟いて、琢己は歩夢の髪に触れる。顔に散っていたのを指で梳いて整える。
        「なんで謝るの」
         さっきもそうだった。謝る必要など少しもないタイミングで、ごめんと言われた。
        「なんで、って……俺、最初にあんなふうに言ったくせに、ぜんぜん余裕なくて――」
        「あんなふうって……」
         まだぼうっとする頭で歩夢は思い出す。
        「無理しない――とか?」
         気まずそうに琢己は頷いた。
        「なんで――」
         そんなことはまったくなかった。初めてのことばかりで、追いつくのが大変だっただけで――歩夢はそれを短く言う。
        「……あんなに……感じてたのに」
         自分の声で聞いて恥ずかしくなった。記憶はまだ鮮やかで、最後は触れられもしないのに絶頂を迎えたことや、その前は触れられただけで達したことや、琢己に口で愛撫されたことまで思い出してしまい――顔が熱くなる。
        「……本当?」
         信じられないとでも言いたそうに尋ねられ、余計に恥ずかしくなった。
        「それ、マジで言ってるの?」
         拗ねて意地悪く言ってしまったのはどうしようもなく、照れて、歩夢は琢己の胸に指先で触れる。
        「なら……よかった?」
         性懲りもなく尋ねられて、短く言い捨てた。
        「バカ」
         琢己の胸に抱きつく。
        「感じたって、言ってるのに――鈍すぎ」
        「……ごめん」
         また謝ってきたのがかわいくて、くすっと笑ってしまった。
        「ぼくだけ……二回イっちゃったし――」
        「うん」
         わざわざ言わなくてもいいことまで口走った恥ずかしさは、ぎゅっと抱き返されて帳消しになった。
        「けどやっぱ、ごめん」
         それなのに、まだ琢己は謝ってくる。すまなそうに、歩夢の耳元で言う。
        「マジ余裕なくて、ゴムつけるの忘れた」
        「いいよ、そんなの――」
        「ダメだって」
         真剣に言われて、間近で目を合わせる。
        「腹、壊したりするんだぞ? 知ってたのに、俺……」
         歩夢は困ってしまう。琢己が心配してくれているのはわかるが、余裕なく熱く求められたのは、うれしい。
         それに、そういうこともあるかもしれないけど、誰もがそうと限るわけでもないはずで、自分はまだわからないけど、そこまで律儀にしてくれなくてもいいように思う。
        「あのさ」
         気になっていたことを口にした。
        「そういうの、どうやって知ったの? 新宿行ったって言ったけど……なんで?」
         それでなくても部活や道場の稽古で時間がないはずなのに、この三日のいつに、そこまでできたのか不思議なくらいだ。
        「だから、予習?」
         明らかに照れ隠しの笑みを浮かべて、琢己は答えた。
        「予習で、新宿まで行っちゃうわけ?」
         歩夢は、なんとなく気に入らない。新宿に行ったことよりも、琢己が店員と親密な話をしたらしいことが――。
        「だって、しょうがねえじゃん」
         いつもの口調になって、琢己は言う。
        「サイト検索したら、わけわかんねえのばっか出てきてウザくてさ。けど、それっぽいの売ってる店わかったから、行ったんだよ」
        「へー……」
         だいたい想像がついた。琢己のことだから、ろくでもない単語で検索をかけたのだろう。
         だけど、それでいいように思う。琢己は、今のままがいい。少しくらい鈍くても、真摯で純な、今のままでいてほしい。
        「なんだよ、へー、って。俺は、やるときは、やるぞ?」
         真顔で言われて頬が緩んだ。歩夢は、にっこりと琢己を見つめる。
        「知ってる」
         言えば、途端に照れた顔になった。すっと目をそらす。
        「琢己、大好きだ」
         首にかじりついたら、もっと照れた顔になった。それがうれしくて、歩夢はわざと言う。
        「この次は、ぼくがフェラしてあげるね?」
        「ば、ばか」
         そう返してくると思った。予想どおりの声を聞いて、歩夢はくすくすと笑う。
        「歩夢は、そんなことしなくていい」
        「なんで?」
        「なんでって……」
        「――あ」
         琢己を受け入れたそこから、とろっと流れ出てきた。生ぬるく腿を伝い落ちていくのを感じて、歩夢はぞくっと震える。
        「……どうした?」
        「なんでもない――」
         琢己にはそう答えて、ほうっと深い息をつく。胸が熱くなる。確かに結ばれた証と感じ、あらためて心が満たされる。
        「琢己……」
         キスして――胸のうちでささやいた。
        「歩夢」
         大きな手が頬を包む。絡みつく眼差しが、愛しいと言っている。薄く開いた唇が近づいてきて、深く重ねられた。
        「ん――」
         大切にしたい。琢己も、そう思ってくれている。まだ、これからだから。先を急ぐことなく、自分たちらしく続いていきたい。
         窓の外は夏の夜の闇だった。静寂に包まれた室内は、淡く照らされているだけだった。ふたりは、互いの熱だけを感じていた。


        了


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    素材:KOBEYA