Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「プレゼント」


 西の空にあざやかなグラデーションが広がる。残照の赤は家々の屋根を染め、オレンジ色の雲がたなびき、それを押さえるような淡い紫が上空から垂れ込める――たおやかな夜をいざなう色の重なりが連なっている。
 毎日のように目に映す光景に、薫は棚を拭く手を止めて吐息をついた。一日の終わりだ。園舎の窓は大きく、床に射し込む光の加減で、いつもこの時を知る。
 廊下の向こうは既にしんとしていた。延長保育の子どもたちは別室に集められ、定時保育の最後のひとりが母親に手を引かれて帰ってからは、もう三十分近く経っているだろうか。
 良太の父親がなかなか迎えに来ないので、薫は玄関で待つのをあきらめ、良太を連れて保育室に戻っていた。
「りょうくんのパパ、今日は遅いね」
 そんな、子どもを不安にさせるようなことを言ってはいけないだろう。だが、部屋の片隅で椅子にぽつんと座って俯いている良太の気持ちを考えると、自分も同じ気持ちなんだよと言ってあげたくなってしまうのだ。
 良太がこの保育園に幼稚園から転入してきたのは昨年の春だった。それは、母親が他界したからだった。
 いくら良太の父親が公務員で、この保育園に入るのを機に引っ越して、保育園とは道を隔てた目と鼻の先に住まいがあろうとも、男手ひとつで五歳児を育てるのは大変なことだと思う。
 保育時間が過ぎても誰も良太を迎えに来ないのは初めてのことだった。父親はきちんとした人なので、自分が迎えに来られないときは、ちゃんとヘルパーを頼んでいた。
 今日はどうしたんだろう。
 掃除を終えて良太に歩み寄ると、薫は膝を屈めて良太の顔を覗き込んだ。
「ね、りょうくん。一緒に歌でも歌おうか」
 薫が言うと、良太は顔を上げた。
「歌よりギターがいい」
「ギター?」
「うん」
 薫がギターを得意としているのは、既に誰もが知っていた。昨年のクリスマス会で披露したのがきっかけで、折に触れ、弾いてくれとせがまれるようになった。それは、園児たちに限ったことではない。
 ま、いいか。
 少しでも良太の気持ちが和めばいいと思う。良太から離れると、いつのまにかそこが置き場所になってしまったピアノの脇にあるギターに手を伸ばした。
「穂積先生」
 ドアが開いて、声をかけられた。
「あの、良太くんのお父さんから電話なんですけど」
「え? おれに?」
「穂積先生と直接話したいそうです」
 ちょっと待っててねと良太に言い置くと、薫は職員室まで廊下を急いだ。
「穂積です」
 受話器を取った薫の声は少し弾んでいた。
『すみません、井上ですけど、急な仕事が入って、まだ迎えに行けそうにないんです。いつものヘルパーさんに頼もうとしたんですけど、連絡がつかなくて――』
「え? そうなんですか?」
『それに、佐藤さんはゴールデンウィークで実家に帰るとかで、確か昨日から留守なんです。試しに電話してみましたが駄目でした』
 佐藤とは、良太の住むアパートの隣の奥さんで、良太と仲のいい子どもがいることからヘルパーを頼めないときに頼りにされている人だった。
「じゃあ……」
『延長保育をお願いしても、迎えに間に合いそうにないんです』
 受話器越しに聞こえてくる声は、情けない上に懸命だった。自分の子どもを迎えに行きたいのに行けない井上のジレンマが、薫にもひしひしと伝わってきた。
「――わかりました」
 ひとつ、息を呑んだ。近くにいる職員に背を向けて小声で続けた。
「おれが送りますから。今日は延長保育の担当じゃないので、送れますから。井上さん、ご心配なさらずに――」
『いいんですか!』
 薫が言い終えないうちに声が返ってきた。
『本当に、いいんですか?』
「はい――でも、今回だけってことでお願いします。それに……ほかの保護者の方たちには内緒にしておいてください」
『助かります、わかりました、お願いします』
 簡潔に礼の言葉と依頼を受け、薫は受話器を置いた。
 さて――園長にどう説明しよう。
「穂積先生」
「はいっ?」
 心中を見透かされたかのような絶妙のタイミングで園長に呼びかけられ、薫はビクッと肩を揺らすとそろそろと振り返った。
「井上さん、なんですって?」
「あー……延長にしても間に合わないそうで、隣の佐藤さんはいるそうなんですけど、どうしても迎えに来られないそうで、おれが家まで送ることにしましたけど――」
 園長と向かい合っているのに目が泳いでしまう。薫は嘘が苦手だ。
「穂積先生」
「は、はい」
 メガネの奥から、じろっと園長の視線が薫を縛りつけた。
「今回だけです。井上さんだけ特別に扱うわけにはいきませんから」
「はい!」
 明るく答えた薫を園長はコホンと咳払いで制した。
「ほかの保護者の方には絶対に知られないように」
 薫は軽い足取りで良太の元へ戻った。


「あのね、鍵はここにあるんだ」
 担任の薫と帰宅できたうれしさからか、良太ははしゃいでいる。
 空はもう、紺青に塗られていた。瞬く星がいくつか見える。幼い手が鍵を開ける横で、薫は空を見上げて大きく息をついた。
「はい、せんせー、どーぞ」
 一歩踏み込むと、雑然とした室内が見渡せた。慌てて片づけたあとがくっきりと残っている台所は玄関から丸見えだ。良太が通園バッグと帽子を壁のフックに掛けるのを待って、奥の居間に入った。
 居間は六畳の和室で、座卓とテレビとキャビネットしかない。座卓の下に敷かれているラグはホットカーペットらしく、部屋にそぐわないピンク色のカバーがやけに目についた。
 壁に掛けられている時計に目が止まる。時刻は既に七時を過ぎていた。
「りょうくん、おなか空いたんじゃない?」
「あ」
 思い出したように良太の腹がくうと鳴った。
「いつも何時に寝るの」
「うーんとね……九時?」
「じゃ、早く何か食べようね」
「うん!」
 ありあわせのもので料理をするのは苦ではない。薫はオムライスを作った。居間の座卓に並んで座って、良太の話に相槌を打ちながら食事を終えた。子どもが見るようなテレビ番組はもう終わっている。良太がひとつあくびしたのを見て、隣の部屋にふとんを敷いて寝かしつけた。
 居間に戻るとひとり座卓に向かって座った。
 2Kの間取りの古いアパート――こんなふうに、こんな部屋にひとりでいると、さまざまな記憶が蘇ってくる。今の良太と変わらない、年端も行かなかった頃、いつ帰ってくるともわからない母親をひとり待った日々――。
「すみません!」
 背後から降ってきた大声に振り向いた。息を荒げた良太の父親がそこに立っていた。
「まさか、こんな、先生がいてくれたなんて」
 はあはあと息を整えながら井上は矢継ぎ早に話す。
「申しわけありません、もう、てっきり泣いて待ってるものだと思って――」
「そんな、あんな小さな子をひとりで残して帰るなんて、おれが嫌だったから」
「すみません!」
 土下座の勢いで、井上は鞄を放り出すと畳に額をこすりつけた。薫は驚いてそれを止める。顔を上げると、よほどほっとしたのか、井上はくたくたと力を抜いた。
「こんなこと初めてなんです、急なトラブルだったし、ヘルパーは頼めないし、佐藤さんはいないし……」
「ついてませんでしたね」
 軽く言えば、井上は情けない笑みを浮かべた。
「言い訳しても始まりませんね。よかった、先生がいてくれて」
「じゃあ、おれ、帰りますから」
「待ってください、お茶でも」
 薫を制して井上は台所に入っていく。
「先生!」
「はい!」
 突然叫ばれて、薫は慌てて台所を覗き見た。
「晩飯まで食べさせてくれたんですか」
「はい」
「そうだ、良太は――」
 今さらのように、そんなことを井上は言う。
「寝てますよ」
 あんぐりと口を開けた顔で薫は見つめられた。
「やだな、僕は、もう、なんて言ったらいいか――」
「あ。お風呂は入れてませんけど」
「風呂なんてどうでもいいです、そうだ、先生、お茶なんかじゃなくて飲みましょう、明日は休みじゃないですか。いいですよね、座ってください」
 戸惑う薫を居間に押し戻すと、井上は缶ビールとグラスを持って戻ってきた。
「今日は飲みたかったんですよ、なんかもう、いろいろあって。つきあって下さい。飲めるんでしょう?」
「ええ、まあ」
「よかった。先生は男だから、こういうとき、こんなふうに気軽に誘えていいですよね。あー、なんか、うれしいなあ。仕事抜きで誰かと飲むなんて、すごく久しぶりですよ」
 何かつまみでも、と再び台所に消える後ろ姿に薫はため息をついた。
 気軽に誘われても困るんだけど……。
 ひとりぽつんと取り残されたような良太がかわいそうに思えて家まで送り届けると請け負ったのは事実だが、その裏で、井上の自宅を見られる、井上の自宅で井上に会える、そんなひっそりとした期待があったのも事実だった。
 それでも、まさか一緒に飲むことになろうとは、薫には思いも寄らない展開だった。
 ――かなりヤバイかも。
 井上は園では評判だった。新米からベテランまで、どの職員も井上に好感を抱いていた。
 明るく、まだ若い父親で、男手ひとつで子どもを育てている。その姿は誠実そのもので、健気さまで見て取れると、一部の若い職員たちは噂していた。
『カッコイイし、なんか、かわいいよねー』
 その通りだと思う。井上の息子である良太を見ていても、彼がどんなにいい父親であるかが窺えた。
 憧れていた。いい父親である井上にも、井上の人柄にも、その容姿にも。
 幼い子どもを育てながら仕事に行き、迎えに来る姿ははつらつとしていた。迎えに来た井上に飛びつく良太を抱きしめる姿は、おおらかさそのものだった。
 良太と二人で帰っていく後ろ姿。夕暮れに彩られ、すらりとした長身が映える。良太にほほ笑みかけるすっきりとした横顔が輝きを増した。
 しかし、薫にとって井上は、預かっている子どもの保護者にすぎない。抱いてはならない想いなど、苦しいだけだ。
 女性職員なら、憧れから恋をしていつしか結ばれようとも、それはありえないことではない。だが、薫は園でひとりの男性職員だ。薫と同じような想いを抱いて井上を見ている同僚もいるのかもしれない。
 なによりも、井上には良太という子どもがいる。そんな相手に薫が想いを抱いても、儚いとしか言いようがなかった。
「……せい、先生?」
「あ、はい!」
 呼ばれて見れば、座卓の上にはいつのまにかつまみが並び、グラスにはビールが注がれていた。
「ぼんやりして、どうしました? やっぱり、保育士も大変な職業なんでしょうね」
「え?」
「良太がいるからわかります。あんな小さいのを毎日朝から夕方までずっと見ているわけでしょう? しかもひとりで……えっと、何人でしたっけ?」
 受け持っている園児の数のことだろうか。
「二十七人――」
「そうそう、三十人近くをひとりで見ているんですよね、やっぱり、疲れますよねえ」
 飲んでくださいと、にっこりと笑みを向けられ、薫はドキリとしてしまう。
 この笑顔――。
「なんか、僕もさすがに最近疲れてきちゃってるんですよ。仕事に出ているときは離れていられるけど、そのほかの時間はずっと良太とべったりでしょう? 朝も夜も休みの日も。こんな時間だけですよ、良太が寝てくれて、やっとゆっくりできる」
 薫は深く頷いた。それが仕事で、時間が限られているからこそ、五歳児を何人も保育できる。親として、二十四時間ずっと世話をしなくてはならない重さは、子どものいない薫が想像する以上のものなのだろう。
「ときどき思うんですよ、なんでこんなことやってんのかなーって。どうして、こんなにがんばってるんだろうって。大変なのは小学校に入るまでだから、あと一年の辛抱だと自分に言い聞かせてるんですけどね……あ。先生相手に愚痴っちゃいけませんね」
 苦笑されて、薫は首を振った。
「わかりますよ。だけど――井上さん。がんばらなくていいんですよ。ぎりぎりまでやらなくていいんです。休みたいときには休まないと。休む方法はいくらでもあるんですし」
 ありがちな慰めを並べる自分をじっと見つめる眼差しに射すくめられた。薫は、どぎまぎと井上を見つめ返す。
「なんか……そんなふうに言われると……まいっちゃうな」
 ぽつりと呟くように言って、井上は視線を落とした。帰ってきてから着替えていないスーツの膝を見つめる。
 返す言葉に詰まって、薫はビールを口に運んだ。
「やだな、僕――。先生のほうが若いのに。先生、おいくつですか?」
 薫に向けられた顔は明るくなっていた。薫も笑顔で答える。
「二十四です」
「あれ? もう少し若いと思った。僕とたいして変わりませんね」
「そうなんですか?」
「僕は二十九ですよ」
 薫は軽く目を瞠った。
「ちょっと待ってくださいよ、変わらないって、今のおれの年には、もう良太くんは生まれてたってことじゃないですか」
「あれ? あ、そっか」
 二人で笑った。一緒に飲み始めて、ようやく打ち解けた笑いだった。
 打ち解けて、ビールが進む。井上が用意してくれたつまみはどれも簡単なものだが出来合いの味はしなかった。まちがいなく井上が自分で料理し、冷凍庫にストックされていたものに違いない。
 そんなところにも井上の生真面目さが窺えて、良太がどんなに大切にされているのかがわかる。
 こんな細やかな人に愛されたなら……。
 薫が見つめる中、井上はネクタイを緩めた。器用に動く指が結び目をくいくいと解く。するりとネクタイは引き抜かれ、指はワイシャツのボタンをみっつ外した。はだけた襟元にアンダーシャツは見えない。浅黒い肌がちらちらと覗いて、薫は目のやり場に困った。
 スーツの上着はとうに脱ぎ捨てられて井上の傍らにある。それを探ると井上はタバコを取り出した。
「いいですか? 良太がいるから家ではあまり吸わないんですけど」
「どうぞ」
 灰皿を取りに行ったのか、井上は台所に消えた。ごそごそと何かを探る音が聞こえて、戻ってきた。
「もっと何か適当なものがあればよかったんですけど」
 座卓の上にポテトチップスが広げられる。良太のおやつの買い置きなのかと薫は思った。
 井上はさらに新しい缶ビールをふたつ座卓の上に置いた。そのひとつを開けると、薫のグラスと自分のグラスに注ぎ入れた。タバコに火を点けて、ゆったりと吸う。
 和んで、薫に気を許して、くつろぐ井上は男くささを増していた。良太を前にして見せる父親の姿ではなく、きっと、井上本来の姿なのだろう。
 タバコを口に運ぶとき、少し目を眇める。物憂げな雰囲気を醸し出すその表情は、ひどく色っぽい。
 その風情に薫は見入った。抑えていた想いがふつふつと胸の奥で沸き上がるのを感じる。
 井上は座卓を隔てて薫のすぐ目の前にいる。手を伸ばせば、なめらかな頬に触れることもできる。
 こんなの……いけない。
「良太が生まれたとき、僕は二十四だったなんて忘れてましたよ」
 井上は不意にさきほどの話題に戻った。
「先生は、彼女はいないんですか? あ、先生なんて言って訊くんじゃ、なんか変ですね。穂積さん? そう言えば、名前はなんて言うんですか? ほかの先生方は、みなさん名前で呼ばれてますよね、ほら、良太の去年の先生は麻衣子先生で、僕は苗字のほうは覚えてないな」
 一息に話す唇の動きを見ていた。タバコをくわえる唇を見ていた。
「名前は――」
 ふうっとタバコの煙を吐き出しながら、井上は重ねて訊いてくる。
「薫です」
「薫?」
「五月生まれなので」
「ああ、なるほど……そうか、薫先生じゃ、穂積先生のほうが呼びやすいかな」
 自分の名前が女性名にも使われることを言われたのはわかったが、それはよくあることで、薫は少しも気にならなかった。
 井上は薫を見て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「穂積さん、お母さんたちに人気ありますよ。イケメンなのに子どもにやさしいのがいいって、このあいだ噂してたの聞いちゃいました」
 薫は苦笑した。
「イケメンって――。やだなあ、いまどきのお母さんはすぐにそんなふうに人を見るから」
「本当のことじゃないですか。女性の多い職場でモテて大変なんじゃないかしらとか、彼女いないのかしらとか言われてましたよ」
「そんなこと言われたって――」
「おかしいですよね、噂してるお母さんたちは結婚して子どももいるのに、カッコイイ若い男を見ると目の色が変わっちゃうんだもんなあ」
 なんだかなあ……。
 薫は、所在なくビールを口に運んだ。お母さん連中の関心を引いていると聞かされてもうれしくもなんともない。
 おれが惹かれているのはあなたなのに――ついつい恨めしげな目を井上に向けてしまう。
「あ、そうか。ひとり身のお母さんもいるから、案外、そんな人は本気で穂積さんを狙ってたりして」
 からかうように言われて、薫は少しムッとした。
「井上さんこそ、再婚されないんですか?」
 途端に、井上の表情は困ったような笑みになる。
「まだ一周忌を済ませたばかりですからね」
「あ」
「ああ、そういう意味じゃないんです。世間には子どものためだと言って、すぐに再婚するような人はいますから」
 はっとした薫をなだめるように言うと、穏やかな声で続けた。
「でも、僕は、そんなのは自分の都合だと思うんですよ。幼い子どもを残された自分が大変だからと言って、再婚するようなまねはしたくないんです。そんな、打算的な結婚はしたくない――僕、まだまだ青臭いでしょ」
 くすりと笑った目がすごくよかった。
「結婚も子どもも急ぐ必要なんてないけど、したい相手がいるのなら、欲しくなったのなら、そのときには考えたほうがいいと思いますよ」
 余裕を感じさせる話し振りで、タバコをゆったりとくゆらす。
「穂積さんも、いい相手を見つけるといい」
 じっくりと見つめられた。
 他意のないことだと、わかっていた。ただ、いい相手を見つけるといいと聞かされながら、じっくりと見つめられると――薫は、たまらなかった。
 おれが好きなのは、あなたなのに。
 うっかり飛び出してしまいそうになる言葉をビールで飲み込む。
 会話が途切れて沈黙が漂っても、それは井上には重苦しいものではないらしい。タバコをくゆらしながらビールを飲む所作はくつろいだもので、酔いが回ってきているのか、うっすらと頬を染めていた。
 ふと、ふすまで隔てられた隣室から、かすかに声が届いた。井上はゆらりと立ち上がるとふすまの向こうに消えた。
 薫はひそかにほっと胸を撫で下ろした。何気ない井上の言葉や所作に、これほどまでに気持ちが乱れていた。
 しっかりしろ。
 酒は強い方だ。座卓に並ぶビールの空き缶の半分を薫が飲んでいたとしても、まだまだ酔うには早かった。
 酔わせるのは、井上だ。薫の危うい部分に触れるようなことばかり話して、薫を惑わせるような表情を見せている。
 ほどなく、ふすまが開いて井上が戻ってきた。良太は泣いていたわけではないのだと、薫の胸に安堵が広がる。仕事柄、子どもの声には敏感だった。
 井上を見上げて表情を緩めた薫に笑みを返すと、井上は薫の隣に腰を降ろした。不意打ちを食らって、薫の心臓は一拍止まってしまった。
「母親を思い出したらしくて――寝言でしたけど、ママって呼んでました。背中をさすってやったら、すぐにまた熟睡しましたから」
 薫の動揺など微塵も気づかないのか、肩が触れるほどの位置で井上はほほ笑んでいる。
「さっきの話ですけど――こんなときは再婚も考えたほうがいいのかと迷ってしまいますよ。良太には母親が必要なのかと」
 薫は曖昧に頷いた。
「良太の母親がどうして他界したのか、ご存知でしたっけ?」
 井上は覗き込むように薫を見る。至近距離で見つめられ、薫はうろたえた。
「二度目の妊娠が原因だったんです。これだけ医療が進んでいても、流産だけはどうにもできないらしくて――運も悪かったんですね、そう思うしかありません」
 暗く目を落とす井上を見つめた。
 きっと、まだ、亡くなった奥さんを愛しているのだろう。
 薫の胸のうちに冷たいものが入り込んでくる。予期せずに置かれた今の状況が、しらじらとしたものに変わってしまう。
 こうして井上の自宅で酒を酌み交わし、井上と打ち解けあって、抑えていた想いを刺激され、ときめきまで感じていた自分が惨めになる。
「だから、もう、結婚はこりごりだと思ってるんですよ。良太には淋しい思いをさせてしまうけど、今の僕は、誰かと結婚して、新しい家族をつくる気にはなれない」
「でも、子どもはいらないって女の人もいるじゃないですか」
 顔を伏せ、どこか他人事のように薫は呟いた。
「そうは言っても良太がいるんですよ? もとから子ども嫌いの人はお断りです。そうでなくても、結婚してから気が変わって、やっぱり産みたいと言われても僕が嫌なんです。滅多にないことでも、あんな危険を冒してまで良太のほかに子どもが欲しいなんて思えない。僕のそんな気持ちを理解してもらえなかったら、良太と新しい母親の関係がどうなるのか……そんなふうに考えてしまうから、僕は、もう、結婚はこりごりだと思ってしまう」
 井上のため息が聞こえた。
 おれの母親もそんなふうに考えていたのかもしれない。
 薫は自分の生い立ちを思い返した。
 物心ついたときには父親はいなかった。自分が私生児だと知ったのは、高校受験の際に初めて戸籍謄本を見たときだった。
 母親は薫が幼いうちに一度だけ結婚したのだが、薫と義父の関係がうまくいかずに壊れた。その後、母親が結婚することは二度となく、その代わりに恋多き女になった。
 女手ひとつで薫を育てる苦労と淋しさからなのか、母親に男の影は絶えなかった。一緒にいるときはやさしい母親だったが、薫はひとり取り残される淋しさを幼い頃から長く味わった。
 それでも、母親と自分は互いに愛情を注いでいたと思う。だからこそ、自分はゲイなのだと打ち明けてしまったとき、母親はあれほどまでに傷ついたのだろう。
 自分自身の人生と、薫の人生との板ばさみになって、十分とは言えなくともどうにか育て上げたひとり息子がゲイになってしまったのだから。そう――母親に言わせれば、薫はゲイに「なってしまった」のだった。
 ときどき交わっていた平行線は、それ以来交わらなくなってしまった。それでも薫が職に就くまで面倒を見てくれたのは、母親としての愛情の証だったのだろう。
 就職して以来、母親には会っていない。恋人と同居しているのは知っている。今の恋人が、母親にとって最後の恋人になってくれればいいと願っている。
「なんか、暗い話になってしまって……すみません」
 井上の声に顔を上げた。
「だめですね、やっぱり、無理がたたってるのかなあ。こんな泣き言、話せる相手なんて僕にはいませんから」
 淋しそうに笑う井上はどことなく虚ろで、いつもの姿からはかけ離れていた。
「おれ、母親しかいないんですよ」
 そんなつもりではなかったのに、思い出してしまったからなのか、薫は話し出した。
「だから、井上さんの気持ちも良太くんの気持ちもわかるように思えるんです。やっぱり、女手ひとつで子どもを育てるとなると、水商売とか、そんな仕事するしかないじゃないですか。おれ、夜はいつもひとりでした。悪い母親じゃなかったんですけど、いつも男がいました」
 どう答えたらいいのかわからないというように、井上は薫に眉を寄せた顔を見せる。薫は、そんな井上に薄い笑みを向けた。
「たいしたことじゃないですよ。そんなふうに育っても、おれはこうしてひとりで生きていけるようになったし。それより、おれみたいな子どもの力になりたいと思ったから、今の仕事を選んだんです。片親だって、悪いことじゃない」
 井上は吐息をついて頷いた。
「そうだったんですか……。そんな理由で保育士になられたんですね。しっかりしている」
 言われても、薫は苦い気分のままだった。
 なんでこんな話をしてるんだ。
 互いの身の上を聞かせあって、理解を深め、親密さを増しても、薫が望むような関係になれるはずはない。
 結婚の経験があり、子どももいる井上に期待してはいけない。思いやりのある言葉をかけられ、やさしい眼差しで見つめられても、苦しいだけだ。
 いつまでここにいるんだ、さっさと帰ればいいじゃないか。
 顔を伏せたまま、薫は唇を噛んだ。
「だけど……穂積さんのお母さんの気持ちは、僕のほうがよくわかると思う」
 井上が何本目かのタバコを手に取るのが視界の隅に映った。
「わかりますよ、自分ひとりでも苦しいときがあるのに、護らなくてはならない者を抱えているのは、本当に辛い」
 深く吸ったタバコをふうっと長く吐き出して、続けた。
「淋しかったんですよ、お母さん。誰にも頼れないのは、本当に淋しい。誰かに甘えたかったんでしょう。だから、恋人がいなくちゃやってられなかったんだ」
 それは、井上の本音に聞こえた。
「井上さんも淋しいんですか」
 薫は、井上にゆっくりと暗い目を巡らせた。
「誰かに甘えたくなりますか」
 じっくりと井上を見つめた。
 井上は静かな眼差しで薫を見ている。
「そうですね、でも――」
「恋人をつくったらいい。結婚なんかしなくても、恋人がいればいいじゃないですか」
 半ば、やけになって言ってのけた。
 井上の眼差しは薫を探るようなものに変わる。
「そうじゃないんです」
 低く呟いて視線を落とすと、井上はタバコをもみ消した。
「結婚もセックスもなしで、ずっと女性を繋ぎとめるなんて、失礼な話でしょう? その人の未来を奪うだけで、何もあげないなんて」
 意外な言葉に薫は大きく目を見開いた。
「僕は結婚が嫌なんじゃなくて、女性とセックスするのが怖いんです。あんなふうに妻を失って……愛し合った結果が愛する人を失うことになるんじゃ――たまったもんじゃない」
 薫は慌てて視界から井上を追いやった。
 いけない!
 薫の中で自制心が叫ぶ。
 でも――。
 浅はかな期待が胸に渦巻く。それは、あっという間に膨らんでしまう。逸る鼓動が耳の奥にうるさい。これから自分が何を言おうとしているのかを感じ、息苦しくなってくる。
「それなら……」
 抑えきれず、喘ぐように飛び出していった自分の声に体がわなないた。井上が自分に目を戻したのが気配でわかる。
「それなら、おれに甘えたらいい」
 言ってしまった。
「女じゃなければいいんでしょう?」
 顔を背けたまま言い捨てた。
 井上は戸惑っていることだろう。突然、こんなことを言われたら誰だって――。
「……あなたって人は」
 呟きと共にすっと伸びてきた腕が薫の肩に回った。ぐいっと抱き寄せられ、井上の胸に顔を押し付けられた。
 驚き以上に薫の胸は激しく高鳴る。
 ああ、これが、井上の体温、井上の匂い、井上の鼓動――。
 力強い腕に抱かれ、せつなく目を閉じた。胸の奥から熱い吐息が湧き起こった。
 こんな、もう、だめだ――。
 制御しきれない情動が暴走を始めようとしている。しがみついて、何もかも井上に捧げてしまいたい。
「……ありがとう」
 頭上から落ちてきた声に、薫ははっと顔を上げた。
「ありがとう、そんなふうに言ってくれるなんて、僕は……」
 井上は、もう片方の手で顔を覆っていた。うっと声を詰まらせると、わずかに俯いた。
 そのとき、部屋の明かりが井上の濡れた頬を薫に垣間見せた。井上の手のひらの陰を伝って、雫がひとつ、薫の頬にぽたりと落ちた。
 そういう、こと、なんだ……。
 薫の気持ちはすうっと冷えていく。あらぬ期待を抱いた自分が惨めだった。
 それでも、激しい情動に代わり、愛しさが込み上げた。疲れ切っている井上を癒してやりたいと思った。
 それは、薫なりのやり方だった。
 体を起こし、壁にもたれて座り直すと井上を抱き寄せた。戸惑う井上に有無を言わせず、ゆったりと胸に包み込んだ。井上は、ためらいを振り払うように深く息を吐くと、薫に体を預けた。
 薫の腕の中で、大の男が震えている。憧れて、惹かれて、まちがいなく惚れている相手が涙を堪えていた。
 こんなのは、違う。 
 心のどこかで薫のもうひとつの気持ちが呟いた。
 ――それでもいい。
 薫はやさしく井上の髪を撫でた。日頃、子どもたちにするように、そっと撫でた。
 それを情けなく思う自分がいる。これだけ無防備に甘えてくる好きな男を相手に、こんなことをしている自分は信じられなかった。
 それも、手のひらに感じる井上の髪のやわらかさに揺らぎそうになる。どうしてこれほどまでに自制しているのか、苛立ってくる。
 本当は欲しいのに。それが叶えられるのなら、井上とのすべてが壊れてしまってもいいとさえ思えるのに。
 いっそ、誘惑してやればいいのだ。渇いて崩れかけている男を落とすなんて、おれには簡単なことだろう?
 薫の中で、欲望と愛情がせめぎ合う。井上の気持ちなど無視して奪ってしまいたい、いや、体よりも気持ちが欲しい――。
 苦しい。
 苦しい、苦しい、苦しい!
 腕の中の男がふうっと吐息をついた。そっと体を離そうとする。
 もう、限界だった。
 髪を撫でていた手で井上の頭を引き戻した。驚いて薫を見上げる顔を覆った。
 唇を、重ねた。
「な……」
 井上の声が小さく上がる。その声すらも飲み込む勢いで、激しく求めた。
 好きだ、おれはあなたが好きなんだ!
 頬を撫でさする、唇を割る、舌を滑り込ませる、怯む舌を捕らえて熱情で絡めた。
 きつく、深く、貪った。
 できることなら、見つめ合ってくちづけたかった。こんな、強引に奪いたくはなかった。
 呆然と許されても、それでは心は満たされない。熱いくちづけは、一瞬にして冷えたものに変わる。
 薫は井上を放した。
「な、なんで……」
 井上は唖然と薫を見ている。薫は苦く吐き出すしかなかった。
「おれ、ゲイなんですよ」
 居たたまれなかった。すばやく立ち上がると玄関めがけて駆け出した。
「あ――あ、ちょっ、穂積さん!」
 追ってきた声には振り向かなかった。


 いつもの夕暮れだ。休日明けの園児たちはみんな元気だった。迎えに来た母親たちに手を引かれ、軽い足取りで帰っていく。
「りょうくん、ほら、パパが来たよ」
 井上の姿を門のところに見つけると、薫はすぐさま良太を送り出した。
 いつもは玄関口での引渡しだった。井上と顔を合わせたくないのは、薫の都合だ。
 一昨日のあの夜、激しい情動は井上との断絶すら薫に覚悟させたはずなのに、こうして、いざ面と向かうとなると、薫は井上から逃げ出さずにはいられなかった。
 あからさまな嫌悪を見せられても、何事もなかったかのような振る舞いをされても、いずれにしても薫は傷ついてしまう。
 おれは馬鹿だ。
 ゲイを自覚してから何人かの男とつきあった。軽いつきあいもあったし、恋人としての濃密なつきあいもあった。だが、どれもこんな後味の悪い結果を引き起こすことはなかった。
 あんな、キスひとつで――。
 薫は、これほどまでに井上に惹かれていたとは自覚していなかったのだ。
 一昨日の夜の出来事は衝動的なもので、井上があれをなかったことにしてくれるのなら、それで万事解決だったはずだ。嫌悪されたなら、今後は事務的な態度に徹すればいいだけのことだった。
 なのに、今の薫は、そのどちらになっても辛く思えてならない。
 昼間、手のあいた時間に、なんとはなしに良太の家庭調査票を見てしまった。薫が知る以上のことは何も書かれていないそれだったはずなのに、井上の名前は正治だと気づき、その地味で平凡な名前が井上にはひどく似合っているように思えて、なぜか悲しくなった。
 何をやっているんだと自責した。初恋を再び味わっているような自分を意識して、さらに悲しくなった。
 今日だけでなく、明日、明後日と、井上をやりすごしてしまおう。そのあとの三連休が過ぎれば、自然と、うやむやになるに違いない――。
 その翌日も、薫はどうにかうまくやりすごした。それでも、帰っていく井上と良太の姿をせつない目で追った。
 門のところで井上が振り返ったときはさすがにドキリとしたが、そのまま道路を渡っていったので、安堵と淋しさで胸が塞がれた。
 そして、さらにその翌日になった。
 今日でどうにか最後だと、薫は迎えに来た井上の姿を門に見つけるなり、昨日、一昨日と同じように良太に声をかけ、玄関から送り出した。
 薫の受け持つ園児はあとひとりだった。その母親をその子と一緒に玄関で待った。
「おかあさん!」
 明るく上がった声に顔を向けると、笑顔の母親が玄関に入ってきた。薫の傍らから走り出す子どもを見送った直後、玄関の外に井上と良太の姿を認めた。咄嗟に背を向けた。今日の仕事はすべて終わったと、職員室に向かって歩き出した。
「穂積先生!」
 井上の声が聞こえる。それでも足を止めなかった。
「穂積先生!」
 再び呼ばれたが、それでも聞こえないふりをした。
「穂積先生――薫さん!」
 足が止まってしまった。
 廊下をバタバタと井上が駆け寄ってきた。ぐいと肩を掴まれ、むりやり向き直された。
「もう、どうして聞こえないふりなんかするんですか」
 聞こえないふりをしていたのだと決めつけられ、薫は眉を寄せた。それはその通りなのだが、井上には言われたくなかった。
「昨日も、一昨日も、少しも顔を見せてくれなくて、いったいどういうつもりなんですか」
 あの夜のことなど少しも気にしていない様子に、薫はやはり傷ついた。
「先生……」
 顔を背け、感情を押し殺そうとする薫に井上はため息をついた。
「もう、そんな顔されちゃ……まいっちゃうな」
 まいっているのは薫だ。わざわざ戻ってきてまで話しかけられるとは思いもしなかった。
 井上は大きく息をつくと、気を取り直したかのように明るい声で言った。
「あさっての子どもの日、何か予定ありますか?」
「え?」
 唐突な問いに薫はうっかり井上を見てしまった。
「何か予定があるならしょうがないんですけど、何もないなら、ぜひ、うちにいらしてください」
 何も答えられない薫に井上はにっこりと言った。
「七日が良太の誕生日なんですけど、あさって家で祝ってやろうと思って」
「せんせー、来て、ゼッタイ来てよ」
 井上に遅れてやってきた良太が薫の手を引いた。
「どうしても先生に来てもらいたいって良太が聞かないんです。それに、あらためて先日のお礼もしたいし」
 薫は目を瞠った。
「お願いします、昼食を用意しますので、その頃にいらしてください」
「ねえ、せんせー、来るよね?」
 ねえねえとせがまれて良太を見れば、澄んだ瞳がふたつ薫を見上げていた。
「じゃ、そういうことですので、待ってますから」
 井上は良太を促すと踵を返した。玄関を出ていく二人を薫は呆然と見送った。
 何も言えなかった。断るのは簡単だったはずなのに。先約があるとでも、園児の家に個人的に訪れるのは禁止されているとでも、どうとでも理由はあったはずだ。
 薫から声を奪ってしまったのは、あらためてあの日の礼をしたいと言った井上の言葉だった。
 どうして……。
 嫌悪され、避けられることはないとわかった。だが、あらためて礼をしたいと井上が言うのであれば、あの日を忘れるつもりでもないらしい。
 薫は迷った。行きたくはない。だが、井上はいったいどんなつもりなのか気になる。それよりも、良太がどれほど楽しみにしているかを思うと、今から断って、あの澄んだ瞳を曇らせるのはかわいそうに思えた。
 子どもの日、薫が井上のアパートに着いたのは正午近くだった。
「あ、せんせー!」
 薫の姿を見つけるなり駆け寄ってきた良太は、十一時前からアパートの前で待っていたと言う。
 そんな良太を目の当たりにしては、約束を取り消さずによかったと薫は思わずにはいられない。
 晴れ渡った真昼の居間は、明るい陽射しに満ちていた。井上と良太と薫の三人で、食卓を囲んだ。
 出された料理はどれも簡単にできるものだが、ちらし寿司、唐揚げなどが並び、良太の名前が書かれたチョコレートの板が乗ったケーキも用意されていて、良太を思う井上の気持ちが窺い知れた。
 誕生日の祝いとのことだったが、薫は卓上に置ける小さなこいのぼりを良太に贈った。園から見える井上のアパートに、こいのぼりを見つけられなかったからだ。
 喜びはしゃぐ良太を見て、井上は目を細めた。
「ありがとうございます。こいのぼりはあるんですけど、ここに越してからは出せなくて。このアパートのベランダには大きすぎるんですよ。先生は、やっぱり、思いやりのある人なんですね」
 すっきりと素直な笑みを見せられて、薫は心苦しかった。
「おれは、そんなたいした人間じゃないです」
 絞り出すように言えば、井上はゆるく頭を振る。
「そんなことはない。あなたは思いやりのある人だ」
 井上はきっぱりと言って、ベランダに出てこいのぼりを振る良太の後ろ姿を眺めた。
「子どもだろうと、大人だろうと、人の気持ちを思いやれる人だ。僕の気持ちも思いやってくれた」
 薫に振り向く笑顔が逆光に縁取られる。五月の陽射しを浴びて、薫の目に眩しく映った。
「感謝してるんです。先日のことだって、僕はあなたに感謝してる。あの日は、本当にやりきれなかった。仕事に振り回され、自分の子どもひとりすらまともに面倒見られなくて、本当に落ち込んでいた。だから僕は、あなたに感謝してるんです」
 そんなふうに思っていたのか。
 井上の真意を知り、薫はため息を抑えられなかった。薫の想いがどうであろうと、薫のした行為は井上にとってはそういうものだったのだ。
 淋しさが胸を過ぎった。せつなさが溢れてくる。目の前の笑顔が急に遠く感じられる。
「あーっ、そうだ!」
 ベランダで大声を上げると、良太が駆け戻ってきた。
「たいへん、パパ、どうしよう」
 じたばたとせわしなく足踏みし、井上の肩を大きく揺さぶる。
「どうしよう、なんにもない!」
「何もないって」
 良太のあまりの慌てように井上まであたふたしている。
「だって、今日だったんだ、どうしよう、ぼく、忘れてた!」
「だから、何を」
「今日、せんせーのたんじょうび!」
 井上は驚いた顔で薫に振り向く。
「だって、みんなが言ってたんだ、せんせーはおとななのに、たんじょうびは子どもの日だって」
 プレゼントがない、プレゼントがないと繰り返す良太に揺さぶられながら、井上は薫に問い掛けた。
「そうなんですか?」
「はあ、まあ」
「そうだったんですか――あ、そうか、五月生まれだと言ってましたね」
 どうしようと言い続ける良太の手を取って向かい合うと、薫はにっこりと笑みを浮かべた。
「りょうくん、だいじょうぶだよ、先生もりょうくんと一緒に誕生日のお祝いをしてもらったから」
「でも」
「一緒にケーキ食べたじゃない」
「でも、ろうそくふーってしなかった」
「いいんだよ、大人はろうそくふー、はしないんだ」
「ほんと?」
「本当」
 井上はそんな二人の様子にやわらかな笑みを浮かべていた。
 良太を中心に時間は過ぎ、やがて、薫は暇を告げた。来るまでは迷っていたのに、過ぎてしまえば穏やかなひとときだった。
 玄関まで井上と良太が送ってくれた。靴を履こうとする薫を見て、井上は良太を居間へ戻した。
「先生と二人で話があるから」
 きょとんとした良太だったが、コクリと頷くと素直に従った。
 井上は、靴を履き終えた薫と向かい合った。
「今日は、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
 ありきたりなやり取りに、薫の胸はかすかに疼く。過ごしていたあいだは忘れていられた想いが、胸の奥に淀む。
「お礼をしたくてお呼びしたのに、なんだか、またお礼をしたくなってしまいます」
 井上の言葉は他意のないものばかりなのに、そのひとつひとつに隠された意味がないのか探ってしまう自分がわかるから、薫は井上をまともに見ることができない。
「それに、先生の誕生日だったなんて知らなくて、そんな日にお呼び立てしてすみませんでした」
「いえ」
 曖昧に受け流した。
「先生」
「はあ」
 ちらっと窺えば、井上は真摯な眼差しで薫を見ている。
「誕生日って、どうして祝うのかご存知ですか」
 何の話になったのかと、薫は井上に顔を向けた。
「よく、成長を祝うとか言うじゃないですか。本当は違うんです。その人がいることを祝うんですよ」
 井上は、そっと薫の肩に手を載せた。
「生まれてきてくれてありがとう、共にいてくれてありがとう、そういう意味なんですよ?」
 井上の手が気になるから、井上の手が触れている肩が熱を帯びるから、薫は目を逸らしてしまう。
「僕は、本当にあなたに感謝してる。あなたに感謝してるから、それを伝えたい」
 井上の顔が近づいたのを感じた。耳のすぐそばで囁かれた。
「だから、感謝を伝えたいから、あなたにくちづけたい。そんなことをしたら、あなたを余計に傷つけてしまいますか」
 深く染み渡るような声だった。戸惑いながらも、そんなことはないと首を振ってしまいそうだった。
「……おれのことなんかより、井上さんはそれでいいんですか」
 声が震えていた。
「だって、おれは――」
「あなたの気持ちを知ってて、こんなことを言う僕はずるいです。甘えているだけだと思います。それでも」
 薫は顔を上げた。じっと井上を見つめた。井上の目には迷いも何もなく、まっすぐに薫を見つめていた。
「ありがとう……誕生日、おめでとう」
 やわらかな声と共に唇が降りてきた。見つめ合う目をゆっくりと閉じ、温かな感触を薫は受け取った。
 そっと、重ねるだけのくちづけだった。
 薫はそれでよかった。
 認めてもらえた、そう思えた。
 静かに目を開けば、井上の笑顔がそこにあった。その奥の居間には、こいのぼりで遊ぶ良太の姿があり、開け放たれた窓の外には、爽やかに晴れ渡る五月の青空が広がっていた。


 
 
 
 

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