Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    スイート・レシピ
    ― Sweet Recipe ―



            「ん……」
             井澄が顔を寄せてきた気配に振り向いたら、ほぼ同時に唇を塞がれた。長い腕が背中に回り、和志はやんわりと引き寄せられる。上唇を食[は]まれ、下唇を食まれ、気持ちを確かめるような淡いキスが何度か続いてから、井澄の熱い舌が深くまで侵入してきた。
            「ふ、ん」
             テレビの音が消える。それを薄れそうになる意識の隅で和志は感じ取った。指先がピクリとして、おのずと井澄に片手ですがった。
             いつもの夜、いつもの夕飯のあとで、いつもとは違う時間が流れ始めている。井澄のこんなキスは、初めて抱かれたあのとき以来だ。あのあとも何度かキスはあったけど、もっと軽い、別れ際の、おやすみのあいさつのようなものだった。それだって数日続いたきりで、あとは、昨日の夜も一昨日の夜も、キスどころか、どこも井澄に触れられていない。
             なんとなく物足りなく感じ始めていた矢先もあって、井澄のくれる深いキスに和志はうっとりとしてしまう。男とのキスに陶酔できる自分とはどんなものかと考えてしまいそうになるが、井澄は嫌になるほどキスがうまいのだから仕方ない。
             井澄のキスは、とても好きだ。井澄にキスされると、とんでもなく気持ちいい。
             体ごと和志に被さるようにして井澄は唇を貪ってくる。それでも片手で肩を引き寄せ、もう片方の手は顎に添えて軽く上向かせるだけで、飢えを満たそうとするようなキスとは裏腹に、強引さは少しもない。
             逃げようと思えば逃げられそうな様子に、和志はかえって逃げられなくなる。そんなに欲しいならちゃんともらってくれと、むしろ唇を押し当ててしまう。
             そんな自分は不思議だった。こんなふうになるまで、そんな自分が自分の中にいることすら知らなかった。年相応に、人並みに、恋愛の経験はあるつもりだ。それなのに、これまで一度も気づかないでいたなんて。
             井澄が初めてだからだ。
             あのとき、咄嗟に最後まで体を許せたのも、そのせいだと思う。同性に抱かれる現実よりも、そこまで井澄に求められていると知った歓びのほうが大きかった。自分がそんなにも貪欲だとは、まったくわかっていなかった。失いたくない一心で、あの場ですべて井澄に明け渡せたなんて。
             ――でも。
            「ちょ……待てって」
            「待てない」
             Tシャツの裾からもぐり込んできた手に胸をまさぐられて一段と体温が上がる。そこがたまらなく感じると井澄に教えられた箇所を指先で執拗になぶられる。腰が浮きそうで、じっとしていられなくなって、そんな自分に色濃く戸惑ってしまう。
             キスは、好きだ。井澄にされるキスは――。
            「は……っ」
             のけぞった顎をべろりと舐められた。押される勢いで和志は背後に倒れる。Tシャツがめくられ、井澄が胸に吸いついてくるのが、揺れる視界に映った。ガタッと音を立てて、左肩がローテーブルの脚にぶつかる。
            「……マジ? こんなとこで?」
             さっきまで寄りかかっていたベッドはすぐ横にある。ラグの長い毛足に頬をくすぐられ、和志はあきらめた気分になった。それでなくても、こんな状況だ。井澄に吸われて、プツッと尖った胸の先を舌でねちっこく転がされている。息が上がるのは、どうしようもない。体が隅々まで火照っていくのは。
            「んっ――い、すみっ」
             信じられないのは、やめてくれと言えない自分だ。きっとまた灼けるような熱と紛らわしい痛みに翻弄されるとわかっているのに、それに抗えない。
             キスは、好きだ。ぎゅっと井澄に抱きしめられるのも。
            「和志……逃げるなよ」
             落ちてきた低いささやきにゾクッとする。心まですくむのに、それが嫌ではない。
             井澄の声も好きだ。胸にしみる。
            「和志――」
             名を呼ばれたくらいで今さらのように浮き立つのは、なぜだろう。ここに井澄がいて、自分を欲しがっていると感じるだけで。
             みんな、明け渡す気になる。ほだされていると思う。でも、それだけじゃないと思う。
             和志の思考はそこで止まる。高揚にさらわれて、理性が立ち消える。あのときも同じだった。井澄に、初めて抱かれたときも。
            「あんた……ずるいよ」
             何が、と思った。
            「こんなんなっておいて――ずるい」
             するりと下肢にもぐり込んできた手に、硬く起ち上がったものを包まれた。じっくりと扱かれ、息が絶え絶えになる。
            「……好きだけど。けど、今日はもっと」
             のしかかってきながら、ひっそりと呟いた井澄の重みを受け止めた。ベッドとローテーブルに挟まれた隙間にいて、和志は身動きがとれない。それを井澄はうつ伏せに返す。
            「ちょ、井澄……あ!」
             尻をめくられて冷やりとしたのも一瞬で、すぐに熱い舌が狭間を這い回った。羞恥が湧き上がる。入浴は井澄が来る前に済ませていたが、こうなるとわかってしたことではない。
            「や……い、すみっ」
             抗おうとしても、かなわない。狭く閉ざしたそこがびしょ濡れになるほど舐められる感触と、いまだ捕らえて放してもらえない屹立が受ける刺激とで、頭がくらくらしてくる。
             井澄に貫かれる感覚が強烈によみがえった。ひどく倒錯めいていて、何もかも投げ出してしまいたくなる。初めてのときがそうだった。井澄になら、結局は何をされても許せる気がして――。
            「あんたも、飢えろよ」
             酷薄に響いた声を拾い、和志は全身を震わせる。
            「少しは欲しがると思ったのに……これだもんな」
             何が――また、そう思った。
            「簡単に落ちたんじゃ、あんたじゃないと思うけど、これじゃ、焦らしたんだか、焦らされたんだか、わかんなくなる」
             高い体温に押しつぶされる。ぎゅっと強く背後から抱きしめられて、息が止まりそうになった。
            「高慢だよ、あんた――」
             耳元でひっそりと聞こえた声にゾッとした。
            「そこが好きだけど……たまらなくなる」
             熱くて硬いかたまりが、まだ開かれていないそこに触れた。いきなり押し入られる予感に、全身から力が抜ける。
            「ほら……そうやって、あっさり許す。あんたにとって、セックスなんて、そんなもん?」
             それにはギクッとした。硬い熱のかたまりはぬるりと狭間を滑っただけで、その場所に留まっている。
            「初めて男に抱かれても感じて、あんあん啼いてかわいかったけど、それっきりで、あとはぜんぜん欲しがらないし、キスだって俺がするだけだし――」
            「い、すみ!」
             ラグに向かって、和志は吐き捨てるように小さく叫んだ。
            「そんなんじゃ、ない」
             必死になる自分の声を聞いて、また頭がくらっとする。
            「少しも……そんなんじゃない」
             鼓動が激しい。声が詰まる。背に密着した井澄が熱い。
            「オレは、おまえに捨てられたら……きっと、みっともなく追うと思う――」
             井澄と会えなかった一週間ほどのあいだに思い知った。井澄がいなくなったら、自分はどうなってしまうのか。
            「おまえ、だからだ。ほかの男となんて、こんなこと――」
             絶対に耐えられない。キスはおろか、少しでも性的な匂いが感じられる接触など猛烈に拒絶する。
            「……わかれよ」
             同性に抱かれる怯えを。抱かれても井澄となら歓びに換わることを。その事実を認めて溺れそうになる畏れを。
             キスは、好きだ。胸の芯まで痺れる。だけど、自分から求めるのは恐い。本当に溺れて、井澄から抜けられなくなってしまいそうで。
             そうなったあとに、井澄と会えなかったときの、あの淋しさをまた味わうようなことになったら――。
            「井澄……」
             涙声になっていくのが、とてつもなく情けない。
            「おまえこそ欲しがれよ、もっと。あんな半端なキスなら、いらない。するなら、ちゃんとしろ。飽きるほど……すればいいだろっ」
            「ムリ」
             すぐに返ってきた声を聞いて、本当に泣いてしまうかと思った。
            「ぜんぜん飽きそうにない。あんた、やっぱサイコー」
             甘ったるいささやきをこぼし、井澄の唇が耳に触れる。頬を滑り降りてきて、まさぐるように唇を求めてきた。顔を向けて応えれば、一瞬で深いキスにさらわれる。
            「ふ、ん――」
             キスは、好きだ。どれほど欲しがられているか、よくわかるから。
             ずるい……そうだな、オレ。
             だけど許してほしいと思う。しばらくは。きっと、もう少ししたら――。
             あれから、まだ一週間しか経っていないのだ。明け渡すのが精一杯で、いまだ受け入れられない。男に惚れたことなんて、なかった。焦がれて、たまらなくなる感情も知らなかった。なのに、井澄といて得るのは和やかに満たされる気持ちで、それが恋心だなんて信じられなくて。
             でも。
             萎えかけていたものが井澄の手に追い上げられる。腰を引き上げられて、閉じていたそこが井澄の指にじっくりと開かれていく。
             ラグに伏せて、四つん這いになった格好で、耐え切れそうにない羞恥に見舞われるのに、井澄にされていると思うとどうでもいいように感じてしまう。
             どうでもいい。井澄にされるなら。
             だって。
            「好き――」
             口をついて出た言葉が胸に深く落ちてくる。
            「……え?」
             井澄には聞こえなかったのか、頭の後ろから声がした。
            「ヤダ、見たい」
             井澄の顔が見たい。どんな表情で自分を抱くのか――とてもきれいなあの顔をまた見せてくれるのか。
             身をよじり、和志は仰向けになろうとする。井澄の指が狭い器官からずるりと抜けた。井澄の手から自分のものも滑り抜け、その刺激で弾けそうになった。
            「はっ、あ」
             どうにもたまらなくて腕で顔を隠した。そのくせ、潤みかけた目で井澄の顔を探した。
            「……和志」
             井澄はすぐにのしかかってくる。うっとりと和志を見つめ、両手首を捕らえた。
             あのときと、同じ――。
            「いやらしいよ。もっと顔、見せな」
             ごく間近でささやく。ねっとりと甘く、凍りつきそうな響きで。
            「和志――もっと、あおって見せろよ」
             ……そうなのか?
             自分は今、井澄をあおるようなことをしているのか。
             視線が絡む。唇を塞がれる。濡れた音を漏らして、深く貪られる。
             そっと、膝を立ててみた。畏れにおののきながら。
            「あっ」
             ぐっと脚をつかまれ、腰を上げられた。井澄に貫かれる。一息に、奥まで。
            「あ、あ、あ――」
             紛らわしい痛みと、とてつもない熱。体の内側から、限界まで圧迫される感覚。
            「ム、ムリ」
            「なんで」
            「い、いっぱいになる、い……井澄で」
             切れ切れに訴えた。本当に、そうなってしまうのだ。
             クスッと井澄のこぼした笑いが聞こえた。
            「バカだな……和志」
             ぎゅっと一度強く握られてから、両手首を解かれた。
            「バカだよ、和志」
             やさしく、かき抱かれる。井澄が落とした吐息が、ほうっと深く耳に響いた。井澄の髪が頬をくすぐる。それが気持ちよくて、両手を絡ませて井澄の頭を肩に抱いた。
            「和志――」
             せつなく井澄が呼ぶ。ゆっくりと腰を使い始めて、頬をすり寄せてくる。
            「わかってる? 俺も限界なんだって――」
             耳に吹き込まれる声がとても甘くて、和志は震えた。心でも体でも井澄を感じている。
            「あんた逃がしたくなくて、必死なんだって」
            「あ」
             じんと体の芯が痺れた。
            「俺がだよ? 捕まえるつもりが捕まっちゃうなんてさ――信じらんねえ」
            「はっ、あ、ああっ」
             快感が駆け抜ける。井澄に揺さぶられて、足の先から頭まで、全身に震えが走った。
            「あ、あ……井澄――」
             くらんで、どうしようもない。脱がされなかったTシャツが肌にまといつく。井澄と素肌で触れ合えないのが、泣きたくなるほど淋しい。
            「ひどい」
             ガタッとローテーブルに肩をぶつけて、和志は井澄の首にかじりついた。
            「こんなに……」
            「――和志?」
            「こんなに、ちゃんと好きなのに」
            「和志」
             自分から井澄にキスをした。欲しくて、どうしても欲しくて、井澄の唇を深く貪り、舌を絡め合わせた。
            「ふ、んぁ」
            「和志――」
             体の奥深くを井澄にえぐられている。何もかも暴かれて、ひとつも隠せなくなる。きっと、どんなふうに抱かれても井澄にされるなら気持ちいいと――そこまで思った。
            「……泣くなよ、和志」
            「泣いてなんか、ない」
             嘘だ。頬をぬるく濡らして、しずくが伝い落ちていくのを感じる。
            「ちゃんと、しろよ。こんなとこじゃなくて」
             今もちゃんと肌を合わせて、もっともっと井澄を感じさせてくれてたならいいのに。
            「だから……限界だったんだって」
            「ああっ!」
             屹立を握られ、和志はのけぞる。
            「次も約束して。そうしたら、今度は――」
             甘ったれたささやきを浴びせられ、意識が飛びそうになる。
            「もっと、たっぷり、かわいがるから」
            「はっ、あーっ」
             自分の信じられない声を聞いた。これ以上ないという快感に襲われ、和志は呆気なく達していた。
            「ぐちょぐちょ」
             粘液にまみれさせて、井澄はまだ和志のものをもてあそぶ。
            「俺も」
             和志の腕を解き、ゆらりと上体を起こした。和志は薄く開いた目で追って、またゾクッとする。
             井澄――。
             見たかった顔だ。自分を射抜くような眼差し、熱くて鋭くて――湿った吐息が溢れ出る。
            「は」
             井澄に揺さぶられて、何度でもさらわれる。もう達することはないと思うのに、快感が満ちてくる。
            「和志」
             うっとりと呼ばれた。その響きに指先まで蕩けさせられる。
            「和志」
             視線を合わせてきて、クスッと井澄が笑った。本当にいい顔をすると、和志はぼんやり思う。どこまでも甘く、井澄に漂わされながら。
            「和志……かわいいよ――くっ」
            「あ」
             一瞬のひらめきのような感覚が走り、和志は大きく目を瞠った。ふるっと身を震わせた井澄の顔をしっかりと捉えた。
             乱れて散った黒髪と、かすかに寄った細い眉と、せつなく眇められた眼差しと、濡れて開いた薄い唇と――どれも、とてもきれいだ。ため息が出る。
            「あんた――」
             長い腕を伸ばしてきて、井澄は和志の前髪をかき上げる。
            「もしかして、今もイった?」
             そんなことを尋ねる顔はなぜか気弱そうに見え、和志は口元をほころばせてしまう。
             だが、答えない。そんなことは、わからない。あの一瞬の感覚が、絶頂感だったかどうかなんて。
            「和志」
             体を倒してくる井澄から目をそらした。重みを受け止めても、視線は戻さなかった。
            「答えろよ」
             その訊き方が、どうにもかわいくて、笑ってしまった。
            「知らない」
            「俺、あんたをもっとイかせたいのに」
             やっぱり駄目だと思う。コイツには絶対に勝てそうにない。押されて突き放されて、ねだられて甘えられて、きっとずっとほだされ続ける。
             だから、言いたくもないことが口をついて出る。
            「イった、何度も」
            「え」
             心で達した。本当に、何度も。
            「井澄」
             視線を流し、井澄を捉える。いつになく照れたような顔が目に映って、じわっと胸が熱くなった。
            「キス……しろよ」
             そんなことが言える自分が信じられない。すぐに重ねられてきた唇は、やっぱりとても甘かった。


            おわり


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    素材:あんずいろ