Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    Harmonious Yellow
    −「薔薇に天使」サイドストーリー−



           ホームセンターの一角にいて、オレはだんだんイラついてきた。目の前も後ろも木材だらけのDIYコーナーは、妙な圧迫感がある。外はまったりとした春の晴天で、本当なら、日曜日のこんな午後はそのへんをブラブラしてたはずなんだ、彰とふたりで。
          「秀二。それ、合板だけど……いいのか?」
           手に取った棚板のサイズを確かめるオレに、隣から彰が言ってきた。
          「いいんじゃない、強度は十分あるし。ウチの脱衣室なんて、こんなもんでベスト」
          「でも――」
           やけに真面目な顔でオレを見上げてくる。何か言いかけたくせに、すっと目を伏せた。
          「……なんだよ」
          「いや」
          「言えばいいだろ、言いたいことあるなら」
           そんなつもりはなかったのに、投げやりな口調になってしまった。オレのイライラに彰は関係ないんだから、これじゃ八つ当たりだよ、くっそぅ。
          「――うん」
           彰はちょっと考え込むようにしてから目を合わせてきた。
          「でも、お母さんの希望は『見せる収納』なんだろう? だったら、そっちの杉材のほうがいい。同じ杉材の『脚』もあるし」
           合板を選ぶなんておまえらしくもない――そう言われたのも同じで、軽くため息が出た。
          「わかるけど、そこまで凝[こ]る気はない」
          「なんで」
          「ヘタにいいもん作っちゃうと、また頼まれるんだよ。日曜大工は嫌いじゃないけど、せっかくの休みをつぶされるんじゃ――」
          「でも、秀二が請け合ったからだろう?」
          「……そうだけどさー」
           コトの始まりは数時間前にさかのぼる。彰の胸で気持ちよく眠ってたオレは、母親からの電話で起こされた。マジ信じらんねえ、外泊中のいい歳した息子をケータイで叩き起こすなんて、ないだろフツー。
           着音でウチからだってわかったからスルーのつもりでいたのに、彰が出ろって言ってさ。
          「さっきもかかってきて、これ二度目だぞ? 急用なんじゃないのか?」
           ウチの親に限ってそんなことないと思ったんだけど。わざわざオレのケータイを取って顔に押しつけてこられたんじゃ、出ないわけにはいかなかった。
           で、思ったとおりだ。
          『秀二! どうしてすぐに出ないの!』
           大した用じゃなかったのに、いきなり大声で言われた。
          『約束してたでしょ! いつになったら作ってくれるのよ、こっちは年末から言ってるのに、もう三月よ、三月! 毎週毎週外泊で、あなた、ちっともまともに帰ってこないじゃないの! わかってるのっ? こんな調子でよそさまの――』
           お嬢さんとおつきあいしてるんじゃ――と続けられる前にぶった切るには、答えるしかなかった。
          「わかった、すぐ帰る。それでいいだろ?」
          『ちょっと! 待ちなさい、こら、秀二!』
           本当に「よそさまのお嬢さん」とのおつきあいでオレが外泊したと思うなら、日曜日の朝になんか電話してくるなよ、まったく。
           つか、もともとの用件は、三ヶ月も前に頼まれた棚を作ろうとしないオレを呼び戻すことだったのにさ。あっさり、話ズレちゃって。
           そのあたり、母親の苛立ちとか不安とか伝わってきて、嫌でもヘコんだ。オレが本当はカレシの家に入り浸りだなんて、夢にも思っちゃいないんだろうな。
           裸の彰に抱きついて、クリーム色に靄[もや]のかかったような、しっとりと温かい気分でいたのに、すっかり目が覚めた。面倒な話だ。
           あとはもう、仕方ない流れだった。オレがすぐ帰ると言ったのは彰も聞いてたわけで、それならすぐ帰れとオレを急きたてた。
           そう言われたってそのときはシャワーもまだで、せめてそのくらいはと粘って、それなら朝メシも一緒に食おうとなって、そうしているうちに――こういうことになったんだ。
          「オープン棚を壁に取りつけるなんて一時間もかからないじゃないか」
           朝メシとは言っても、もう十一時だった。コーヒーを飲む彰に、上目づかいに睨まれて言われた。その言い方が、なんでもっと早くやらなかったんだ、みたいに聞こえて。
          「そんなもんでも、材料買いに行かなくちゃ作れないだろ」
           少しムッとしてオレは答えた。材料が揃えられてるなら、会社から帰ってからでもサクッと作ったって。けどそんな買い物は、メモを渡したってウチの母親にはできない。それができるくらいなら自分で作るぜ、あの人は。
          「買いに行く時間がなかったって言うのか? わかった。なら、これから行こう」
          「は?」
           で、今こうなっている。彰に連れられてこのホームセンターまで来たんだけど、歩いて五分もかからなかった。
          「べつに、手抜きとかそんなことを言うつもりはないんだ。自宅の脱衣室に棚を作るにしても会社の仕事並みにやれとか、そういうことを言うつもりもない。だけど――」
          「オレらしくないって言うんだろ? 時間と労力かけてダサダサなモノ作るなんてさ」
          「……わかってるなら、なんで」
          「だからウチの脱衣室なんて――あー、もう面倒だから、あんたウチ来いよ」
          「え?」
          「見れば納得だろ? オレもそのほうがいいし。本当なら今日も夜まで一緒にいられたのに、こんなことになっちゃってさ」
          「秀二……」
           彰は驚いてオレを見た。その気持ちはわかる。ウチに来いなんてオレが言ったのは、これが初めてなんだ。
          「ついでに手伝ってよ。壁に取りつけるあいだ、棚を押さえてくれると助かる」
          「――うん」
           すっと視線を下げる彰の表情は複雑だった。春物の軽いハーフコートを着てるせいか、いつもより華奢な体つきに感じられた。
           そんなことは少しもないはずなのに。
           サラッとした深い栗色の髪、すっきりとした顔立ち、それに今日は、ソフトな色合いのラフな服装。彰はいつだって隙がなく、昨夜のベッドでの疲れも、思いっきり乱れて見せた色気のカケラも、どこにも残していない。
           なのに、どことなく弱々しく見えるのがオレの気のせいでないなら、それは――。
           オレはスーツにコートの朝帰り姿で、自分の体に隠れてそっと彰の手を取った。
          「とりあえず、来てみればいい」
           手に包んだ指先は、ひやりと冷たかった。


          「ただいま」
           玄関を開けて言った途端、奥から母親の声が聞こえた。
          「やだ、秀二、本当に帰ってきた」
           オレの背後で彰がくすっと笑う。あたりまえだ。帰ってこいと言われたから帰ってきたのに、言った本人が帰ってくると思ってなかったんなら、オレって信用されてないことになるじゃん。つい言い返してしまう。
          「あーあ、ひとりごとが声に出るんじゃなー」
           そんだけ歳ってことか?
          「秀二、何よ玄関で……」
           バタバタと廊下に出てきて、母親は目をむいた。靴を脱ぐオレの後ろに彰を見てる。
          「秀二!」
           急にハッとしたようになって、オレのところまで来ると耳に口を寄せた。
          「どなた?」
          「会社のセンパイ。手伝ってくれるって」
          「やだ、あなた……そんなこと一言も――」
          「小宮彰です。突然お伺いして申し訳ありません」
          「いえ、申し訳ないなんて――」
           彰には笑顔で言って、肘でオレを小突いた。
          「こちらこそ申し訳ありません。普段から秀二がお世話になっているのに、こんなことにまでお手間をおかけして――」
          「小宮サン、上がって。あっちだから」
          「あ、ああ」
           誰が見ても動揺してる母親の横を過ぎて、オレは彰を連れて風呂場の脱衣室に向かった。玄関を上がって廊下の突き当たり、トイレの隣だ。
          「悪い、資材広げといてくれる? 工具と脚立[きゃたつ]、取ってくるから」
          「秀二」
          「なに?」
          「着替えもしてこいよ」
          「そうだな」
           玄関に戻って階段を上がる前に母親に呼び止められた。
          「どういうこと? 昨日は小宮さんのお宅に泊まったの?」
          「そうだけど――」
          「そういうことは先に言いなさい!」
           またバタバタと台所に戻る後ろ姿を見て、なんとなく展開が読めた。ヤバイかもしれないけど……やっぱ、チャンスかもしれない。
          「小宮サン」
           二階の自分の部屋からすぐに脱衣室に戻って、そう呼んだ。ふたりきりでいるときとは違う、今は社内モードと同じだ。
          「そこの、洗濯機の上に棚作るから」
          「窓の上?」
          「そう。枠に乗っけるカンジで」
          「わかった」
           洗濯機の前に脚立を立てた。そうしないと手が届かない。作業中、彰には洗濯機の横に立ってもらって棚板を支えてもらう。
          「すごい家だな。想像もしてなかった」
          「ボロだろ?」
          「そうじゃなくて」
           脱衣室の床にしゃがみこんで棚板に『脚』を取りつける。木ネジを使うんだけど、その前にキリで穴をあける。棚板はジャストサイズのものを買ったから加工する必要はない。
          「立派な日本家屋だ。広縁まであって、うらやましいくらい」
           言いながら、オレの正面に彰もしゃがんだ。
          「そう?」
          「やっぱり杉材にしてよかったじゃないか」
          「まあ、そうだな」
           結局オレが買ったのは、彰が選んだものではなくて、その隣にあった「焼き杉」のものだ。そっちのほうが、長年のあいだに黒ずんだ木の壁に色が合う。
          「なかなかのお屋敷だよ」
           オレからキリを受け取り、彰は位置を確かめてオレと同じように棚板に穴をあける。オレはこちらの端に、木ネジで棚脚[たなあし]を取りつけ始める。
          「ジイサンが建てた家なんだ。けど、敷地は六十坪くらいだし、庭も狭いから屋敷とまでは言えないだろ?」
          「造りがいい」
           チラッと彰を見れば、なんだか楽しそうな顔をしていた。仕事ではなかなかそうはいかないけど、彰は本格日本建築の家を設計したがってる。だからウチに連れてくれば、こんな反応を見せるのは予測できてたんだけど。
           もっと早く連れてきてやりたかったと思う反面、簡単にはいかなかったのも当然だったと思うんだ。
           だから、これはチャンス――。
          「秀二、ドライバー終わった? 貸して」
          「うん」
           もう片方の棚脚は彰に任せ、オレは立ち上がった。脚立に上がって、今度は壁の取りつけ位置にキリで穴をあける。
          「家では、いつもそのカッコ?」
          「え?」
           振り向けば、彰はオレを見上げて笑ってた。
          「やけにハマってる」
          「まさか」
           上はトレーナーで、下はカーペンターパンツだ。こういった作業には、名前どおりカーペンターパンツが便利なだけだ。
          「何を着ても似合うよ」
          「バカ」
           ヘンなところでそんな甘いこと言うから、オレも笑ってしまった。
          「棚脚、ついた? こっち、貸して。悪いけど、そっち持って、そこの隅に入って――」
          「こうか?」
           彰の手を借りて棚を壁に固定する。ドライバーも受け取って、手前から木ネジで止める。
          「秀二か?」
           いきなり背後から聞こえた声にギクッとした。アニキだ。
          「あれ? お客さん?」
          「小宮です、同じ会社の――」
           苦しい体勢で首を後ろに捻じ曲げて、彰は律儀に挨拶しようとする。
          「センパイだよ。何か用?」
          「いや、トイレに来たら声が聞こえたから」
          「そんなことで、いちいち顔出してくんなよ」
           オレはムッとするのに、アニキはまるでのん気だ。
          「て言うか、秀二おまえ、会社の先輩を手伝いに来させたのか?」
          「いえ、そういうわけでは――」
           すっと彰が緊張するのが見て取れた。
          「いいから向こう行けよ。こっちは作業中なんだ、見てわかるだろ?」
          「ああ――じゃ、どうも」
          「……どうも」
           のそっと出ていくアニキに彰は軽く会釈して、小さく息をついた。マズイ。せっかくいつもの調子になりかけてたのに、これじゃ逆戻りだ。
           ホームセンターを出てからウチに着くまでのあいだ、彰はそれなりに動揺してた。家族に紹介するとか、そういうことじゃなくても緊張してあたりまえだと思う。
           オレたち……つきあってんだし。しかも、彰の家に泊まった帰りだったし。
           今また緊張をぶり返す彰を見つめて、オレまで少し動揺した。
          「気にすんな」
           ほかにどう言っていいのかわからなくて、そう言ってみた。
          「平気――て言うか、少し焦っただけ」
          「オレも。アニキまで家にいるなんて思わなかった」
           もしかしたら出てきてないだけでオヤジもいるかもしれないけど、そんなこと言えない。
          「それもあるけど、なんて言うか、イメージ違ってたから」
          「アニキのこと?」
          「そう」
           脚立を降りて彰のいた場所に移動した。手を替えられるまで彰に棚を押さえててもらい、今度はそっちの棚脚を壁に取りつける。
          「見た目、A系じゃないもんな」
           アニキのことだ。彰は笑っていいのかどうか困ったような顔になった。床にしゃがんで、散らかってた包材なんかを片づけ始める。
          「思ってたより、ガタイよかった?」
          「そんな感じ」
          「格ゲー好きで、中学からいろいろやってたし。今もジム通ってる」
          「そうなんだ」
          「意外だよな? ゲーマーで筋肉オタク」
           アニキのことは前にも話してあった。オレが今でもゲームすると知ったとき彰が意外そうな顔をしたから、アニキの影響だと説明したんだ。ついでに、アニキは二歳年上で今はIT企業の会社員をしてることも話した。
          「背もオレと変わらないし。幅は、向こうのほうがあるけど」
           くすっと笑う声がした。手を動かしながら背中で聞いて、少しホッとする。
          「秀二のほうがお母さん似?」
          「そうだな」
           脚立を降りたオレに彰は向き直った。ビニール袋ひとつにまとめられたゴミを受け取る。
          「お母さんは……想像していたとおりだった。きれいな人だ」
          「それ、本人に言うなよ? いい気になるから。つか、見た目アレでも、がさつだし」
           フッと口元を緩めて、彰はためらうように目を伏せる。
          「きっと、お父さんが大きな人なんだ」
           それは、兄弟そろって背が高いことを言ったんだとわかったけど、彰の緊張がまた伝わってきて、またオレまで硬くなってしまう。
          「今はただのメタボちゃんだよ。腹も出て」
          「うん――」
           ふざけて言ったのにリアクションが暗い。とりあえず、脚立をたたんで廊下に出した。
          「秀二? 終わったの?」
           返事をする前に、またバタバタと母親が来た。足音がうるさいのはスリッパのせいだ。
          「棚、できた? ……まあ」
           脱衣室に入りかけて立ち止まった。
          「あなた、やっぱり、やればできるじゃない。もう、なんですぐに作ってくれなかったのよ」
           誉めてくれてるのか、けなしてくれてるのか、よくわからない言い方をする。だけど満足したようで、よそゆきの笑顔で彰に言った。
          「すみません、小宮さん、ご挨拶もできないうちにお手伝いいただいて。どうぞ、あちらでゆっくりしてください」
           やっぱ、そう来たか。
          「居間でいいんだろ? オレ、脚立片づけてくるから。ほら、これ」
           ゴミの袋を母親に押しつけた。すんなり受け取って台所に戻っていく。
          「彰」
           わざと、そう呼んだ。廊下から見えないように背を向けて、顔を近づけて彰を覆い隠す。
          「愛してる」
           彰がうろたえて何か言い出す前に唇を重ねた。そっと応じられて心からホッとする。
           どんなときでも何があっても、オレはあんたが一番大切だから――そんなことまで言ってしまったらダメだ、思うだけにした。
          「……ずっと秀二って呼んでるぞ?」
          「あ――」
          「行こう、小宮サン」
           先に彰を居間に通して、オレは片づけを終えてから戻った。


          「まあ、それじゃ大学に入られてから、ずっとひとり暮らしをされて?」
           大したことでもないのに大げさに騒ぐのは、ウチの母親にはいつものことだ。さっきから、ひとりでしゃべってる。
          「うちのバカ息子たちに見習わせたいわぁ。こんな大きな図体して、もういい歳なのに、まだ親元から離れようとしないんですよ」
           そんなことを言って彰のグラスにビールを注いだ。彰が何も言えないうちに、また話す。
          「でも何もできないんじゃ、ひとりで暮らせませんけどね。食事も掃除も洗濯も親任せで、自分ではしようともしないんだから。せいぜい、よくできたお嫁さんをもらって、さっさと出ていってほしいわ」
          「母さん」
           オレより先にアニキが痺れを切らした。初対面の相手を前に、バカ息子呼ばわりされて内幕を暴露されるんじゃ、たまらないよな。
          「あら、ごめんなさい。変な話だったかしら。小宮さんは、ご結婚はまだ? あらやだ、これも失礼な話よね。うちの正一[まさかず]よりひとつ上だなんて、見えませんわ。女性に放っておかれないでしょう? 正一が老け顔なのよね」
           母さん――言ってやりたいことは山盛りになってたけど、口なんて挟めなかった。ヘタに何か言えば墓穴を掘るのは目に見えてる。
           一応こんな母親でも空気は読めるようで、本気でマズイと感じると用事を見つけて台所に消えてしまう。だけど、居間に残される男四人の気まずさなんて考えてない。
           そうなんだ。男四人――やっぱりと言うか、オヤジまで家にいたんだ。それで今、座卓を囲んでスキヤキの晩メシになってる。
          『いえ、ぼくはこれでおいとましますから』
           晩メシの買い出しに行くから帰るまで待っていてくれと言う母親に、彰はそう言ったんだけど。
          『とんでもありません。せっかくのお休みにあんな手伝いをお願いして、このままお帰りいただくわけにはまいりませんわ』
           コーヒーを出したんだからそれでいいじゃんとオレも言ったんだけど、母親は聞かなかった。ほとんど命令で、居間から動けなかった。
          『ごめんな。けど、たまには成り行き任せでいいんじゃね?』
           オレのほうが降参で、彰にそう言った。
          『そうだな……成り行きに任せるのもいいかも――』
           居間は広縁に面していて、畳に座ってでも庭が見える。晩メシの支度ができるまでオレの部屋にどうかと思ったけど間が読めなくて、結局は母親に言われたままに、居間で家の造りのこととか庭のこととか、とめどなく彰と話した。
           会社ではポーカーフェイスを決めてる彰だけど。ウチに来たら、そこまで余裕はないみたいで。けど……純日本家屋のウチにいて、少しでも楽しそうな顔をしてくれたから、オレは救われたような思いだった。
          『ここまでパーフェクトだよ』
           夕暮れに染まる春の空を広縁に並んで見つめながら、そう言ってみた。
          『やっぱ……わかっちゃったか』
           それは、彰がどれほど緊張してるか、ってことを言ったんだと思ったけど。
          『オレも同じ。なんか、居心地悪い。こうなるって最初からわかってたようにも思うんだけど、でも……チャンスにも思えたんだ』
          『……チャンス?』
           のどかな春の夕陽が彰を照らしていた。深い栗色の髪は明るくきらめいて、すっきりと端整でいて、オレにはたまらなく色っぽい顔が――じっとオレを見つめていた。
          『オレ、そのうち家を出るだろ? できることなら、絶縁にしたくない。あんたと同居するって……できれば、家族に話したい』
           ハッとして、彰は目を瞠った。オレの胸の底を探るように見つめてきた。
          『何もかも話してしまうつもりはない。ただ、オレはあんたと同居するって……ああそうなの、って……そんなふうに思ってもらえれば』
          『――うん』
           すっと目をそらして彰は頷いた。
          『そうだな……そうなるなら、ベストだ』
           あんたのほうはどうなの――訊きたかったけど、訊かなかった。彰は自分の家族の話をほとんどしない。それなりの理由がありそうなのは……聞かなくても、なんとなくわかった。オレが知る限り、親元に帰ってもいない。
          『春の空ってさ。なんか、あったかいよな』
           黄金色に染まる西の彼方を見つめてオレは言った。
          『うん――昼間も、薄ぼんやりと黄色い感じ。ぽかぽかして気持ちいい』
          『今度、どこか行く? ドライブとか』
          『いいな。春の海も、春の山も、好きだ』
           そのあとアニキとオヤジが居間に出てきたのは晩メシの用意ができたからで、ほかに理由なんてない。息子関係の客が来れば母親は肉を出すと決めていて、それで今夜はスキヤキになったようだった。
          「父さん。甘やかしすぎじゃない?」
           母親が台所に消えるのを見てから、いきなりアニキが言った。
          「うむ――」
           オヤジは彰を気にすることもなく、あっさり認めた。やたら無口なのは、いつものことだ。オレは慣れてる。
          「浅葉――」
           彰ひとりが思いきり居心地悪そうだ。母親のいない席で、母親を甘やかしすぎるとアニキが言って父親が認めるのを聞いたんじゃ、仕方ないよな。アニキが彰をかばったことになるわけだし。
          「秀二。小宮さんとは普段から親しいんだ?」
           何が言いたいのか、アニキが訊いてきた。
          「オレのすぐ上だもん。いろいろ教えてもらってるし。設計課は人少ないから、だいたいみんな親しいよ」
          「上下関係とか、うるさくない会社か。おまえ、小宮さんにタメ口で――いいんですか?」
           唐突に振られて彰は焦ったようだ。グラスを取り上げた手が宙に浮いた。
          「べつに――そんな、タメ口というわけでもないです。技術畑でもありますし」
          「俺も技術畑なんですけどね。社風ですか」
          「そうですね。社長が気さくな人ですから」
          「それ、秀二から聞きました。独立を勧めてくれるそうで、驚きましたよ。個人的に独立にはあこがれがあって。IT関連だと起業になってしまいますけど」
          「設計士も同じようなものです。フリーランスだと仕事は水物になりますから」
          「もしかして、独立をお考えで?」
          「アニキ」
           これじゃ、母親と変わらない。彰に根掘り葉掘り訊いて、どういうつもりなんだと言いたくなる。
          「いいじゃないか。おまえも、もしかしたら独立するつもりなんだろ?」
           なのに、しれっとしてオレに訊いてきた。
          「さあね。今はその気ないけど」
           いつかは、彰とふたりで仕事できたらいいとは思ってるけど。
          「独立されるなら、ご立派だ。生半可な気持ちではできませんからな。まあ、どうぞ」
           驚いた。ずっと黙ってたオヤジが彰に笑顔でビールを勧める。
          「まだ肉もあります。よかったら、どうぞ。それとも、そろそろご飯にしますか?」
           どういう風の吹き回しなんだ。オヤジの気のつかいように、彰よりオレのほうが目をむいた。なのに、彰は。
          「ありがとうございます。もう、たくさんいただきました。今日はこんな和やかな席に迎えてくださり、本当に感謝に耐えません」
           落ち着いて言って、改まって頭を下げた。
          「そうですか」
           ニッコリと笑うオヤジなんて、初めて見たような気がする。もしかして、会社ではいつもこうなのか?
          「あら。もう、お帰りなの?」
           にしても、ウチの母親。この人だけは家族の誰も手に負えない。ある意味、最強だ。
          「ご飯とお味噌汁とお漬物をお持ちしましたのよ。よかったら、召し上がってくださいな」
           そうこうして、晩メシは無事に終わった。今さらオレの部屋に彰を連れていくなんてできなくて、居間から玄関に出る。
          「ホント、手伝いが必要なら正一にさせたのに、秀二ったら何も言ってくれなくて、小宮さんには申し訳ないことをしたわ」
          「いえ」
           苦笑ではなく、さわやかな笑顔で彰は頭を下げた。
          「では、失礼します。今日はありがとうございました」
          「また、いらっしゃい」
           オヤジまで玄関に出てきて、そんなことを言った。オレはもう、ついていけない。
          「駅まで送ってくるから」
           そう言って、まるで逃げるみたいに彰を連れて玄関を出た。けど、門まで行かないうちにアニキに呼び止められる。
          「なんだよー」
           ハッキリ言って、今日はこいつが一番意味不明だ。普段は、家にいても自分の部屋から出てこないくせにさ。
          「秀二、俺、このあいだの見合いの話、受けることにした」
          「はあっ?」
           なんで今。呼び止めてまで突然。何がどうして、そうなのか。
          「アニキ、頭おかしくなった?」
          「そんなことはない」
           相変わらず、しれっと答える。彰なんて、もう門の外に出てるのに、こっちを向いて驚いた目でオレとアニキを見てる。
          「今日、小宮さんに会って、そんな気になった。俺みたいなやつは、見合いの話があるうちに決めないと一生独身だ」
          「なんで。つか、そうだと思うけど、なんで」
          「直感で」
           マジな顔で言い切った。オレの目をじっと見る。
          「……あんた、やっぱどこかおかしいよ」
          「かもな。急に俺がこの家を継ぐ気になった」
          「って。長男なんだから、前からそうだろ?」
          「まあ、そうだ。だから、見合いする」
           もう何も言えなくなった。玄関は閉まってて、今の会話は母親の耳にもオヤジの耳にも入っていない。いっそ聞かせてやりたかった。
          「秀二」
           名前で呼ばれてドキッとした。彰は開いた格子戸から顔を覗かせている。
          「――行こうか」
           街灯にほのかに照らされて笑った。ドキッとするような、きれいな笑顔だ。
          「小宮さん」
           オレの背後からアニキが言う。
          「いつでも、また来てくださいよ。こいつが家に誰か連れてきたなんて、高校に入ってからなかったんですから」
          「え?」
           ビックリしてオレは振り返る。そんなこと、自分じゃわかってなかった。なのに、アニキは彰を見てる。
          「そうですね、そのうち、また――」
           彰が答える。アニキが笑う。
          「まるで学生みたいだ。こういうのもいいですね、社会人になって何年経っても」
          「アニキ――」
          「では、ぼくはこれで。秀二、行こう」
          「駅まで送るんだろ? 行ってきな」
           アニキに軽く背を押された。何もわからないまま、オレは通りに出て彰に並ぶ。
          「……どういうことだ?」
           つい、声に出して言ってしまった。
          「お兄さん……気がついたんだと思うよ」
          「ええ! どこで? なんで?」
          「さあ? きっと、前からなんじゃない?」
          「ウソ――」
           オレは全身から血が引くような気持ちになってるのに、隣を行く彰は鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
          「秀二――いい家族だな」
          「彰……」
          「うらやましいくらいだ――うらやましいよ、とても」
          「彰」
          「あ。ほら、月が出てる」
           オレたちが駅に向かう先、ほのかに明るく見える夜空に、おぼろな満月がかかってた。
          「彰――」
           たとえば、こんなふうに何度一緒に、やさしい春の夜道を歩けるのかと思った。さっき彰は、自宅に帰るのに『行こう』とオレを呼んだ。オレはその気持ちを考え、それを聞いて『行ってきな』とオレに言ったアニキの気持ちを考えた。
           誰の気持ちも踏みにじらないで、誰の気持ちも裏切らないで、オレが彰を大切に思う気持ちを貫けるなら。
          「彰……好きだ」
          「ぼくも」
           ぽつりとこぼれたオレの声に、すぐに彰のやわらかな声が返ってきた。
           彰は、そっとオレに寄り添う。とても自然に、だけど、そうとわかるように。
          「秀二。チャンスをくれて、ありがとう」
           胸がいっぱいになった。オレは彰の体温を感じて、彰の匂いをかぐ。たったそれだけのことが、こんなにもオレを満たす。
          「また明日、会社で」
          「また来週、ぼくの家で」
           もう、どうにも我慢できなかった。人通りの多い場所に出る前に、街灯の光から逃げてオレは彰を抱きしめた。たまらないキスを貪り合っても、オレたちを見てるのは空に低くかかるおぼろ月だけだった。


          おわり


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