Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




        Blooming Blue
        「薔薇に天使」サイドストーリー



         最低限必要な機材、床の隅に寄せられた配線が目につく、ワンルームのオフィス。ぼくという設計士を何も感じさせないどころか、いっそ殺風景だ。だがそれも、木製のキャビネットの上に並んで置かれた、色鮮やかな花の鉢植えとみずみずしい緑の観葉植物と、精巧な住宅模型が少しばかりやわらげてくれている。
         花の鉢植えは木場の棟梁から受け取った。観葉植物は『オザキ』の社長からだ。精巧な住宅模型は上原からで、ぼくが『オザキ』にいて設計した中で一番の出来といわれる個人住宅を再現して、上原自身が制作してくれた。
         どれも、ぼくの独立を祝って贈られたものだ。そう――三月三十一日の年度末をもって、ぼくは『オザキ・ハウジング』を辞職した。
         昨年の秋に、社長みずからにそれとなく勧められたこともあるけど、独立は漠然とした夢として以前からぼくの中にあって、それを強く後押しされたような感じになった。
         年明け早々に社長に辞意を伝えて、それは直属の上司である課長を無視しての飛び越し決裁みたいだったけど、内々に社長の了承を得てから課長に申し出て公然とした。
         それからの日々は長期の案件からはずされてゆったりと流れたようだけど、本当には気忙しく、自分が新たに構えるオフィスをどうするか、物件を探し回ったり、開業申請の事務手続きをしたり、振り返ってみればあっという間だったように感じる。
         オフィスに関しては、はっきりとした『夢』があった。だけどそれを実現するには時期尚早で、今はまだ、ぼくには『仮のオフィス』だ。幸運にも、自治体が廃校を再利用したベンチャー向け施設の抽選に当たって、そこがぼくのスタートを切る『場所』となった。
         かつては中学校の教室をふたつに区切った一室だ。入り口が引き戸であることにも、入って左手の壁に黒板が残されていることにも、正面には大きな窓が並ぶことにも、その外は隣と続いたベランダであることにも、名残がうかがわれる。
         おりしも、窓の外には八分咲きの桜が揺れている。その下のグラウンドは、今は駐車場になっているのだけど。
         四月一日にここに移り、たまたま今年は水曜日だったから『オザキ』は休日で、秀二と上原が手伝いに来てくれた。ここの賃貸契約は二年間で、それ以上はいられない。それもあって最小限の構えのオフィスになったのだけど、新しく購入したものは購入先から直接の搬入だったし、上原と秀二のふたりには、上原の車でぼくの自宅から荷物を運んでもらい、次々と届く機材やデスクやキャビネットの配置を助けてもらった程度だ。
         ひととおり片づいた夕方になって、驚いたことに『オザキ』の社長が様子を見にきた。多くを語らずに、案の定と言った顔で観葉植物の鉢を置いて帰った。ぼくも多くを語れずに、ただ恐縮して祝いの品を受け取った。
         そのあとになって、上原が住宅模型を差し出してきた。ワンボックス車の後部座席に朝から置かれていた大きな箱は上原の私物と決めてかかっていたから、本当に意外だった。
         感激のあまり、ありがとうとしか言えなかったぼくを残して上原は笑顔で帰っていき、最後に残った秀二も、翌日は仕事で年度始めだからと、ぼくとの夕食も頭になかったように帰っていった。
         あれから三日目の夕方を迎えている。ぼくはデスクにいて、薄く翳り始めた空を背後に振り仰ぎ、そっと息をついた。
         この三日間は挨拶回りで終わった。『オザキ』にいたときに仕事を組んだ施工会社や不動産会社、中でも一目を置く工務店や大工の棟梁、そして、同じ施設内にあるオフィス。
         しばらくは日曜日だけを休業日と決めた。だから明日は、初めての休みだ。明けてからのスケジュールを思うと、どうしても不安が勝[まさ]ってくる。独立したからには、営業も経理も自分でこなさなくてはならない。今のぼくに人を雇う余裕はない。まずは、営業――。
         うっかりすると溜め息が出そうになるのをこらえ、立ち上がった。薄暮に染まる空を目にしてカーテンを引く。電気機器のスイッチをすべてオフにして回り、オフィスを閉める。今はまだ『仮のオフィス』を。
         このオフィスで『ぼく』という設計士をうかがうとするなら、ブラインドではなくカーテンを使っていること、金属製ではなく木製のキャビネットを置いていることくらいか。自治体の施設には使用規定があって、だけどそれだけが理由ではない。ぼくが、ぼくという設計士を強くアピールできるまでには時間が必要だ。自負する力があっても認められなくては、オフィスを自分らしく整える費用すら得られない。
         夢や希望をかなえるのはほかの誰でもない、ぼく自身なのだから。


         土曜の夜だけど、と言うより、むしろ土曜の夜だからか、秀二はアポが入ったと昼にメールしてきた。それなら外での待ち合わせはやめて、終わったら直接ぼくの家に来てくれと返信した。秀二が直帰なのは今さら確かめるまでもなかった。
         思えば、自宅で秀二を待つことは初めてだ。これまで幾度となく秀二はぼくの家に来たけれど、どれも仕事が終わってから一緒に帰宅してのことだった。
         どんなふうに迎えるか――そんなことを思い巡らせ、ぼくはときめく。たったの三日間でも秀二の顔を見られなかったことは、ぼくには大きかった。
         会社に行けば必ず秀二の顔を見られた日々が、やけにせつなく思い出される。ずっと見てきたんだ。秀二が入社してからの三年間、一目で惹きつけられて以来、ずっと。
         これからは、そんなささやかな幸福がないことを今さらながら思った。自分で手放したのに、かなり淋しい。秀二には決して言えないけど。
         秀二に会えるのは、週末だけ。自分で決めた休業日だ、くつがえすつもりはない。だから、その分たくさん秀二に浸りたいと思ってしまう。
         とりあえず食事だろう。きっと秀二は腹をすかして来るから、何を用意しておこうかと思う。せっかく秀二を家で迎えるのだから、わざわざ外に出て食事なんてことはしないで、自宅でたっぷりくつろぎたい。
         そんなことばかり思っていたからか、ぼくは自宅の最寄り駅を降りるまでメールの着信に気づかないでいた。
        《ドタキャンされた。もう行けるけど、どこかで待ち合わせに変える?》
         慌てて電話の着信履歴を見れば、こちらにも秀二から三件。時間からして地下鉄に乗っていたあいだだ。圏外だったのは、ぼくにはどうにもできない。
         とにかく自宅へ急ぎながら秀二に電話した。とっくに着いているかもしれない。
        「――秀二? ぼくだ。今、どこ?」
        『……玄関の前』
         疲れた声で返され、つい駆け出してしまう。
        「腹、すかしてるんだろう? 悪い」
        『ちょ、なにそれ』
         くすっと、甘い声が耳元で笑った。
        「どうしよう、買い物して帰るつもりだったんだけど――」
        『どうしようもないじゃん』
         そうなんだけど。
        『つか、そっちは今どこなわけ?』
        「もう、着く――」
         あ、と思わず口をつぐんだ。自分の段取りの悪さに自分で呆れてしまう。足が止まった。
        「ごめん、よく考えてなかった。戻って何か買ってくる。何、食べたい? 言って」
        『……彰』
         フッと苦笑した声――耳にしみた。
        『いいじゃん、デリバリーで。腹減ってても、そのくらい待てるし。食い物より、あんたが先だ』
        「秀二――」
         ふわっと胸が熱く染まった。ぼくも同じだ、秀二――。
        「うん」
        『早く帰ってこいよ』
        「わかった」
         ケータイをスーツのポケットにしまい、先を急ぐ。すっかり日の暮れた中に建つ自宅が視界に入ってくる。上原とぼくとで設計したテラスハウス、その一番奥の玄関にもたれる秀二が目に飛び込み、鼓動が高鳴った。
        「……秀二!」
         小さく叫んでしまったのはもうどうしようもなく、三日間会えなかっただけで懐かしく感じてたまらないぼくの男に、抱きついた。
        「待たせて悪かった」
        「彰――」
         やわらかな眼差しを受けて高鳴りは強くなるけど、キスはまだだ。
        「ん……っ」
         玄関に入って、一瞬でさらわれる。唇を重ねることが挨拶に取り替わろうとも、こうして互いを確かめていることは違わない。
         ――でも。
        「秀二……えっと」
        「うん」
         このままベッドになだれ込むのも悪くはないんだけど、もうひとつの生理的欲求に中断されるんじゃ、もったいないって言うか――。
        「ゆっくり楽しみたいし」
         さらりと秀二に口にされ、くすっと笑ってしまう。まったく、はっきり言ってくれる。火照りかけていた体が静かに落ち着いた。
        「どうする? デリバリーでいいって言ったけど」
         スーツの上着をソファに置いて家の電話に手を伸ばした。
        「寿司か中華かピザだったな――ピザ」
         隣に来て、ポスティングされたチラシの束を探りながら秀二が答える。
        「これがいい。『四種類が一枚で楽しめるLサイズ』、これと、これと、これと――」
         秀二が指で示すとおりに電話で注文しながら冷蔵庫の中を思い浮かべた。ひとり暮らしが長いからそこそこ自炊しているし、残業のない今は野菜も充実している。
        「先に何かつまむだろう? ピザならワインでいいな?」
         ワイシャツの袖をめくりながらキッチンに立つ。秀二がついてきたから、つい言ってしまった。
        「いいのに。サラダ作るだけだから」
        「あのさ。あんたがここにいるのに、ひとりで向こうにいたって、ちっともおもしろくないんだけど」
         少しムッとして返され、くすっと笑いがこぼれる。秀二も、照れくさそうに苦笑した。
         家では何もしないくせに。
         愛しさがこみ上げてそんなふうに思うけど、わざわざ口にはしない。
         冷蔵庫から取り出した野菜をむいて、秀二と並んで洗った。適当にちぎったり切ったりして、ひとつのボウルに盛る。赤ワインなら冷やしてなくても十分で、ついでにナッツもチーズも取り出し、グラスと共に書斎兼リビングのテーブルに運ぶ。
         隣り合わせにラグに座り込み、ソファを背もたれにした。秀二が初めてここに来た日の翌日に、連れ立って買いに行ったソファだ。その日まで、ぼくの家にはひとり掛けの椅子しかなかったから。もとからあった椅子と似た感じの、真紅の布張りの三人掛け――。
         あの日から、少しずつ物が増えた。大物はこのソファだけだけど、歯ブラシとか着替えとか、そういった、ちょっとした秀二の私物。
         宅配のピザを待って、秀二とグラスを傾けながら、そんなことをぼくは思い返す。自分以外の誰かのものが家にあるなんて、秀二とつきあうまでにはなかった。それだって、さりげなくぼくの生活の中に存在するだけで、慎ましく、ごく自然に溶け込んだようだ。
         胸が、いっぱいになる。無意識に目が惹きつけられる。気づいて秀二がやわらかく笑う。唇が降りてきて、ワインで濡れた舌が絡んだ。
        「……ん」
         ずっと、ときめいている。たまらない吐息があふれて、秀二の肩にもたれる。グラスを手にしたまま。
        「――忙しい?」
         仰ぎ見た横顔が疲れて映り、言ってみた。
        「まあな。つか、あたりまえじゃん? 自分が抜けた穴がどれだけ大きいか、わかってるだろ?」
         まあ、確かに。ぼくが辞職を申し出たのは一月だから、今年の新入社員では補えなかったわけだし。
        「けど、仕事が増えておもしろいよ。それは感謝してる」
        「まだ店舗ばかり?」
        「ま、しょうがねえじゃん?」
         そんなふうにあっさり退けて、ほほ笑んでみせる秀二が頼もしい。そんな、一言で済むような状況ではないはずだ。
         昨年末の、柳瀬さんの経営する店舗の設計を請け負ったことは、ぼくの推察どおりに秀二にとって大きなスキルアップにつながった。何より、飲食店経営の業界誌に写真入で紹介されたことが反響を呼んだ。
         さりげない自己主張と、ほどほどのクセが秀二の個性をあらわにし、その上で多くの人に好感をもたれる雰囲気を作り上げられることが認められたんだ。つまり、店舗にはうってつけの設計士として、一部に名を知られた。
         ぼくの知る限り、あれから秀二は店舗設計しかしていない。だいたいが貸しビルの内装工事だから、柳瀬さんの仕事のときと同様に、秀二は技術的にも十分に対応していた。
        「アイデアをひねり出すのに毎回頭使うけど、プランが決まればあとは似たような繰り返しで、どこかで気が抜けそうで、かえって緊張して疲れる」
        「がんばってるんだな」
         フッと口元を緩めた横顔に向かって言った。秀二が「疲れる」とはっきり言葉にしたことに少し驚いた。
        「そっちだって」
         すっと流れてきた視線は淋しげに甘く、ぼくはまたときめいて、唇を寄せる。愛しさといたわりをこめて、ワインの味のするキスを深めた。
         それから間もなくピザが届き、それはもう、ふたりで明るく食べ尽くした。ワイン一本も飲み干して、秀二にシャワーを勧める。
         ふたりそろってまだスーツ姿で、ハンガーを渡してバスルームに秀二を追いやった。簡単な食事は片づけも簡単で、窓のシャッターを順に閉めて回るころになって、秀二がバスルームから出てきた。
        「――え」
         裸にバスタオルを巻いただけの姿にドキッとする。だけど、いっそう疲れを増したような顔に目が止まって、先にベッドに入っているようにと声をかけた。
        「ん――」
         短く答え、ロフトにも見える二階のベッドルームへ階段を上っていく裸の背中を見上げ、おかしなほどドキドキした。
         先週も秀二は泊まったのだし、そうでなくても秀二の裸は見慣れたはずで、なのに。
         ひとりでシャワーを浴びて、秀二が裸のまま出てくるなんて、これまでなかったからだ。
         そんなに、疲れている――?
         このあいだの水曜日は、ぼくの事務所開設の手伝いに来てくれて、休日が丸々つぶれたわけで――でも。
         今日のアポはドタキャンになったとメールに書いてあったことを思い出す。もしかしたら、ぼくには言いづらい苦労をかかえているのかもしれない。
         ぼくはもう、『オザキ』の社員ではないのだから。
         そこに淋しさを感じても、どうしようもない。六年間世話になった職場を離れ、秀二にも、秀二の仕事にも触れられない場所に移ると決めたのは、ほかでもないぼく自身だ。
         ふとすると感傷に引きずり込まれそうになるのをシャワーで流した。今は秀二を感じたい。ぼくのもとに来てくれた秀二を――強く。
         だけど、秀二をまねて、恥ずかしさでいっぱいになって裸のままベッドに行けば、秀二は穏やかな寝息を立てていた。
         肩透かしを食らったような歯がゆい気分になっても、そこまで疲れていたのかと、むしろしんみりしてしまう。
         リモコンを取り、吹き抜けの天井の照明を消した。秀二がつけた、枕元のスタンドだけが明るい。
         ベッドにダイブしたみたいに、うつ伏せにシーツに眠る秀二は、どこかいたいけに目に映る。実際にはぼくより背が高く、引き締まった、男らしい体格なのだけど。
         隣にもぐりこみ、腰までしか掛かってなかった上掛けを引き寄せた。ふたりでくるまる。間近に秀二の顔を見つめた。ぐっすりと眠り、淡い光を受けて、まつげが影を落としている。
         すんなりと通った鼻筋を指先でたどった。薄い唇をそっとなぞる。せつなく胸が震えた。あたりまえのように、この顔を毎日見てこられたことを思う。ぼくの大好きな顔だ。
         そんなに、疲れていたのか。
         ワインを飲んだせいもあるのかもしれない。でも秀二があれだけの量で酔うなんてないはずで、だから、やっぱり。
         起きてくれないかなと、少しは思った。でも愛しさが勝[まさ]った。疲れてぼくのもとで休めるなら、それでいい。食事をしながら、たくさん甘えさせてもらった。それよりも、秀二に会えた。秀二が来てくれたことが、何よりうれしい。
         明日は休みだから。ぼくも、秀二も。何も急がなくていい。ゆっくりしよう、ふたりで。
         枕元のスタンドを消した。


         明け方の空の色はいつも薄墨に近く、日が昇るにつれて青さを取り戻していくように思っている。
         時間も知れず、広い胸に抱き込まれる感覚で目が覚めた。背中が温かい。それよりも、体の芯が熱くなっているように感じる。
         うっすらと目を開けば、天窓の空が映った。まだ灰色がかった水色だ。窓のシャッターをすべて閉めると真っ暗になるから――そんな理由でぼくが設計に加えたんだけど、住人には好評と言いがたく――じゃなくて。
        「……起きちゃった?」
         耳元で小さく流れた声が、全身に甘くしみ渡る。床にぼんやり射し込む光の筋から目を離し、声のしたほうにのろのろと顔を向けた。
        「……ん」
         やさしく包んできた唇に合わせ、無意識に口が開く。まだ霞んでいる頭が、別の甘い霧にぼうっと満たされた。
        「秀二……」
         恋人の名を呼んだら、蕩けた声になって唇からあふれた。眠りを残して力の入らない腕で抱きつく。秀二の匂いを感じた。じわりと胸が熱くなる。
        「裸で寝たの?」
         少し意地悪な響きで訊かれ、もつれそうな舌で答える。
        「……秀二だって――」
        「ん。だから、いたずらしてた」
        「あ」
         ふわりと髪が胸をかすめ、舌がそこをつついた。
        「……いたずらしてたのか」
        「うん。こっちもさわった」
        「はっ」
        「カチカチになってるでしょ?」
         そんなことを低い声で耳に吹き込むから、余計に感じた。
        「朝だからってわけじゃないよ」
         言われなくたって、もうわかる。
        「秀二――」
         鮮烈な刺激でクリアになった頭で、呼んだ。これは、ぼくがしたかったことで――。
        「……彰」
         少しくらい呆れられても、ぜんぜんこたえない。上掛けの中にずるずるともぐり、秀二をいきなり口で捕らえる。それはもう、十分に張り詰めていた。
        「ちょ……くっ」
         でも体からはいまだ眠りが抜け切らなくて、やけにつたない動きになる。緩慢に舌を絡めて秀二を舐め上げる。意図したわけではないのに、じゅぶっと濡れた音がこもって聞こえ、秀二よりぼくに火がついた。
        「あ、きら――」
        「出しちゃって。すごく疲れてたんだろう? 一度イったほうが、余裕でできるんじゃない?」
        「んな、寝たから、もう元気だって――」
        「だからだよ」
         もっとリラックスしてほしい。仕事も何も一度すべて忘れて、そうしてぼくだけを見て、飽きるほど抱いてほしい。
        「――ん」
         たわむれのささやきはそれで途絶え、ぼくは秀二をイかせることに夢中になる。上掛けにもぐったまま、秀二の顔を見ることもなく、ただ口で愛した。
        「も……彰っ」
         せつなく咎める声を上げても、おとなしく仰向けになってぼくを許す秀二はやさしい。昂ぶるに任せてぼくの髪を乱すだけで、ぼくを止めようとはしない。
         握る片手に、締めつける唇に、絡める舌に、秀二の滾りを感じて胸が震えた。そうしているあいだも、もう片方の手で秀二を撫でさすり、みずみずしく張りのある肌を存分に感じた。
         週末にしか会えなくなっても、ぼくの男だ。ぼくも、おまえだけのものだから。
        「うっ。マジ、イくって――」
        「出して」
        「……ったく!」
         投げやりな一言は照れにしか聞こえず、ぼくは秀二で口をいっぱいにする。喉の奥に誘い込むようにきつく吸い、同時に裏筋を舌でこすった。
         ビクッと秀二の体が大きく揺れ、放たれたほとばしりがぼくの中を流れ落ちていく。
        「……けほっ」
         むせてしまったのは息を詰めていたからだ。
        「彰――」
         呆れたように呼ばれて顔が熱くなる。強い力で引き上げられた。
        「むちゃすんなよ」
        「無茶なんかじゃ――」
         言い返したいけど、乱れた息じゃ続かない。
        「むちゃだって。蒲団の中で、息詰めて」
         秀二は眉を寄せた笑顔でぼくの背をさすり、そうしてから、ぼくを抱いて、くるりと身を返した。
        「あんたって人は、もう――」
         どうにか息の整ったぼくを細めた目で見つめ、やわらかく笑う。
        「ん……」
         ぼくを覆い、深く口づけてくる。どこにも隙がないほど唇を合わせ、たっぷりとぼくの口腔を舌でなぶった。
        「……は」
         それだけで溶ける。深く長いキスからようやく解放され、ゆっくりと呼吸を繰り返すのだけど、すぐにまた息が上がってきた。
        「ああ――」
         秀二を感じて声が口を突く。抑えるつもりもないけど、意思とは関係なしに、いくらでもこぼれた。
        「しゅう、じ……」
         触れられるどこもが歓びに沸き立つ。秀二のいたずらで猛っていたものは、秀二をイかせたことで、秀二に抱かれ始めたことで、いっそう硬くなっていた。
        「……すごいな。とろとろ」
         秀二に捕らえられ、先端を指先でくじられ、言われたとおりになる。体の奥が疼く。足の先まで痺れて、全身から力が抜けていく。
        「ああ」
         濁った声で喘ぎ、身をよじらせても秀二は容赦してくれない。またたく間に絶頂の波が押し寄せてきて、飲まれそうになる。
        「ダメだよ、イっちゃ」
        「や、だ」
        「オレを先にイかせたりするからでしょ」
         ぎゅっと根元を締めつけられ、わだかまる熱が暴れる。
        「……一緒にイって」
         でも、恋人の甘えには到底抗えない。
        「いっぱい、感じてていいから」
         いっぱい感じてイくな、って――。
         目眩がする。とてつもなく甘い誘惑だ。次第に明るくなっていく部屋を目に映し、気をそらそうとしてしまう。
        「だったら……早く、ほぐして」
         苦しい声が出た。
        「うん」
         よく言えました、とばかりに、すぐに長い指が探ってきた。ぬめる感触はジェルで、いつのまに塗ったのかと、もう塗っていたならもっと早く入れてくれたっていいのに、なんて思ってしまうのだけど。
        「……気持ちいい?」
        「――ん」
         気持ちいいよ、とても。秀二に抱かれているのが――。
        「はっ、あん」
        「いい声」
         上掛けはとっくにずり落ちて、裸の秀二がぼくに被さっていた。
         薄明るくなった中、潤んだ瞳で秀二を見つめる。ぼくの中を探りながら、キスを散らしている。ぼくの弱いところはみんな知っていて、だから余さずそこに触れてくる。
         体を中から沸き立たせる刺激は強くて跳ねそうになるけど、耳や首筋や胸に散らされる感触はやわらかで、ぼくを蕩かせて、とめどなく力を奪っていく。
         視界を覆う、たくましい肩がセクシーだ。時折ぼくを見上げる眼差しがひどく色っぽくて、秀二も官能に染まっている。
         再び勢いづいた秀二のものが、内腿にこすれてぬめった。早く突き刺してほしい。秀二に貫かれて、ひとつになって秀二を感じたい。会えない日々を埋めて有り余るほどに。
        「……もう、許して」
         わだかまる熱は限界で、放つことなく、何度も絶頂に達したように感じる。ヒクヒクと体のどこかが痙攣しているみたいなんだけど、自分ではどうにもできない。
        「……イきたい」
         つぶやいたら、涙がこぼれた。でも、そうじゃなくて。
        「……ほしい、秀二」
        「ん――」
         温かな笑顔が間近に迫り、胸がいっぱいになる。腰をかかえられ、長い指に替わって張り詰めた先端が押し入ってきて、ぼくは膝を立てて秀二にしがみついた。
        「……あ」
         貫かれていく歓びがあまりに大きくて、声も出ない。ぐっと奥まで挿されて、うれしくて涙が伝った。
        「――いい?」
         ぼくに尋ねる声もひそやかで、しっとりと耳に響く。
        「いい……」
         熱くて、たまらないほど熱くて、とても情熱的で、だからこそ、ゆったりと静かに抱かれた。
        「あ、ああ――」
         感じて、秀二を深く感じて、細く掠れた声が長く続く。
        「……はっ」
         秀二のもらす声も切羽詰まったみたいに途切れ、ふたりでいっそう昂ぶった。
         高みにくらんで、もっと、とねだる。いくらでも揺さぶられて、それ以上は迎えられないほど奥まで秀二を飲み込み、ぼくは放つ。
         白く、光が弾けて――頭の芯まで痺れた。耐え切れず、仰け反って大きく目を開けば、天窓に切り取られた明るい青空が映った。
         あ――。
         秀二にしがみつく。まだ出ていかないでと腰を押しつける。頭を抱き寄せて、深いキスをする。
        「……とても、よかったから」
         尋ねられもしないのに、そう口にしていた。
        「うん」
         秀二は間近でほほ笑み、つながったまま隣に横たわる。向かい合わせになって脚が絡み、秀二の胸に肌をすり寄せた。
         今になって、たまらない快感が襲ってくる。背筋がゾクゾクする感覚は、小刻みな震えになって秀二に伝わる。
        「彰」
         そっと額にキスされた。そのまま鼻筋を伝い降りてきて、唇に重なる。
        「ふ……ん」
         やわらかく舌を捕らえ、言い聞かせるように絡めて、秀二はぼくの中から出ていった。
         熱く湿った吐息が湧き上がる。身も心も、余すところなく秀二に満たされた。
        「――気持ちいい」
         声になってこぼれる。
        「オレも」
         しっかりと秀二に抱きしめられ、広い背とたくましい肩に両腕を回した。
         部屋はずいぶん明るくなっている。もう、すっかり朝だ。
        「いい天気みたいだな」
         秀二のつぶやきを耳元で聞いて、目を向けた。秀二は天窓から視線を戻してきて、ぼくを覗き込んで笑う。
        「せっかく早起きしたんだし、少し休んだら出かける?」
        「早起き、って――」
         返す言葉に一瞬詰まり、プッと吹き出してしまった。くすくすと笑うぼくを秀二は恨めしそうに見ている。
        「いいよ、出かけよう。今日なんて、桜が見ごろで、ちょうどいいんじゃない?」
        「花見か」
        「それより、今何時?」
         秀二が後ろに手を伸ばして、ぼくの目覚まし時計を取り上げる。
        「まだ六時十分」
         今度はぼくが恨めしそうに秀二を見てしまう。だけど秀二がとぼけて目をそらすから、やっぱり笑ってしまった。


        「マジ、いい天気じゃん」
         一階の大きな窓のシャッターを開けると、真っ青な空が広がっていた。秀二が気持ちよさそうに伸びをする。隣にいて、ぼくも爽やかな気分だ。
         あれから、少し休むも何もなく、すっかり目が覚めてしまって、すぐにシャワーを浴びた。ぼくが先に入ったのだけど秀二が乱入してきて、頼みもしないのに、体の中に残っていた秀二のものを丁寧に洗い流してくれたりしたから、また昂ぶって、あっさり抜かれてしまった。
         そのあいだも秀二はずっと笑顔で、むしろ意地悪な笑顔で、どうやらぼくが秀二を先にイかせたことの仕返しだったらしい。
         あのときは、そんなに嫌がらなかったのに。ぼくの好きにさせて、それが秀二のやさしさなんだけど。
         だから、つべこべ言わずに体も秀二に洗われて、ぼくも秀二の体を洗った。他愛なく、幸せなひとときだ。
         互いにさっぱりして、ラフな服装に着替えた。秀二は置いてある中から、長袖と半袖のTシャツを選んで重ねて着た。今、こうして見ると、すっきりと晴れた青空を背にして、洗いざらしの髪とあいまって、清潔な色気を強く感じさせる。香り立つ華やかさも普段と違うみたいで、胸が甘酸っぱくなる。
        「――なに、その顔」
         口元で笑い、低くつぶやいて秀二がぼくを見る。
        「また襲いたくなるじゃん。出かけるの、やめる?」
        「え」
         どんな顔をしていたか、意識してなかった。不意打ちを食らわされたみたいで、うろたえてしまう。
        「やっぱ、あんた、ハッキリした色が似合うよな。ボートネックで鎖骨まで丸見えなのも、ちょっと反則」
        「あ」
         身をかがめてきて、自分で言った箇所に、チュッとキスした。
        「とりあえず、朝飯にしよ? 腹減った」
         ぼくをドキッとさせておいて、知らん顔で離れていくのだから、秀二のほうこそ反則だ。
         でも、またふたりでキッチンに立ち、あり合わせの朝食を用意した。いつもの朝と同じく、スツールに並んで座って、カウンターで済ませる。
         何気ない時間。どうってことのない食事。だけど隣には秀二がいて、コーヒーを飲みながら笑顔で話しかけてくる。書斎兼リビングの向こう、窓の外には青空が見える。
        「けどさ。ここ、引き払わないなんて思わなかった」
        「――え?」
         唐突に言われたように聞こえ、軽く目を瞠って秀二に顔を向けた。
        「だろ? 事務所兼自宅になる物件探して、そこに移ると思ってた。――いつかはオレと住むって、言ってくれたんだし」
         苦笑を見せられ、咄嗟に慌てた。
        「違う、一緒に暮らしたいからだ。退職して事務所を構えた挨拶状は『オザキ』の人たちにも出したから、住所が知られただろう? 秀二が引っ越して住所変更するときに、同じだとまずいと思って――」
        「バレないようにワンクッション置いたってこと?」
        「そう。それに、どのくらいの期間になるかわからないのに、そんな賃貸料、ひとりじゃ払っていけそうにないし」
        「――だな」
        「だろう? 今は仮の事務所だ。地盤が固まったら、自宅を兼ねられる物件に移る。移転の挨拶状なら、取引先に送るだけになると思うし。『オザキ』の総務には知られないと思う」
         独立の準備に追われて、秀二にきちんと話してなかったことを思った。それでも秀二は口を出すなんてしないで、ぼくを信じてくれていたわけで――。
        「昨日も待たせて悪かった」
         ただ申し訳なくて、そんな言葉が口に出た。
        「え? ――ああ、しょうがないじゃん?」
        「でも、もう待たせないから。一年で地盤を固めるから」
         思わず言っていた。でも――そうだ。そのとおりにしようと心に誓う。独立して、悠長にやっていけるなんて思っていない。自分の仕事のためにも、一年で地盤を固める。そうして秀二を迎えて、一緒に暮らす。それ以上は待たせない。
        「――え?」
         ハッとして秀二が目を合わせてきた。大きく見開き、それから、一転して華やかな笑顔になる。
        「やっぱ、『小宮サン』だ。そんなふうに言えるんだから。一年なんてすぐに思える。なら、一週間はあっという間だな」
        「秀二――」
         ぼくは息を飲み、危うく涙がこぼれそうになった。秀二に抱かれるときとは違う涙だ。
         秀二の目がやわらかく細くなる。ぼくの耳に唇を寄せてきた。
        「オレも会いたかった。いつも、同じ気持ちだから」
        「――うん」
         これだから、たまらない。秀二と出逢えて、恋人になれて、本当に幸せだと心から思う。
         そう――。一週間なんて、あっという間だ。会えない日々を重ねても、いつも同じ気持ちだから――。
        「やっぱ、出かけよう」
         明るく秀二が言う。
        「すっげー、いい天気だし。いつもみたいに、あんたと歩きたい」
        「ぼくもだ」
        「どこ行く?」
        「砧[きぬた]公園を抜けて、多摩川まで出てみようか」
        「やっぱ花見だよな」
         それからは急ぐみたいに朝食を終え、連れ立って玄関を出た。
         振り仰いだ空の青さが目にしみる。
        「行っちゃうぞ」
         悠々と先に立ち、肩越しに笑顔を振り向かせた秀二に言ってやる。
        「そんなこと言ったって、道わからないだろ」
        「――そうでした」
         隣に並ぶぼくを待って、笑いながら肩にもたれてきた秀二に胸がときめく。でもそれは、穏やかなときめきだ。
        「重いって。ほら、行こう?」
         ぼくに押し返されても秀二は笑っていて、その大好きな笑顔が、青空を背景に、目にまぶしい。
        「一年、待ってほしい」
         毎日、見たいから。それ以上は待たせないから。
        「まだ何も始まってないけど、一年で決めるから」
         ぼくのプライドに賭けて。
        「わかってるって」
         そう言って秀二はぼくの肩を抱き寄せ、今一度、華やかな笑顔を見せてくれる。
        「だって、『小宮サン』だもの」
         胸がいっぱいになった。
         信じてもらえるから、がんばれる。ぼくには、秀二がいるから。
        「必ず、一緒に暮らそう」
        「だから同じ気持ちだって」
         来年の今ごろは、きっと秀二と暮らしている。そうなるように、そうできるように。
         秀二と並んで進む先に空を見た。花盛りの季節を映した、鮮やかな青だった。


        おわり


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