Words &
Emotion Written by 奥杜レイ
雛の家
安曇(あづみ)が矢代(やしろ)の自宅を訪れることは、そうそうない。葛飾にあって古く閑静な街並みの中、悠然とした佇まいの家は、しかし、いつのときも安曇を落ち着かせる。
今日もそうだった。春のうららかな陽が傾き始めた頃、安曇は車を返し、矢代の家の門前に立った。
インターフォンで応対に出たのは家政婦だ。安曇は格子戸をくぐり、手入れの行き届いた純和風の庭を横目に見て玄関に向かう。ドアを開けて自分を迎える矢代の笑顔が、すぐに目に入った。
「今日は、うまい酒を持ってきた」
居間に通され、艶やかな黒檀のテーブルの上で、安曇は包みを解く。
「冷やも熱燗もいけるが、常温が一番うまい」
にこやかに矢代を見つめる。矢代も顔をほころばせ、安曇の差し出す一升瓶に手を伸ばしてくる。
「ほう、これは。――悪いな」
満面の笑みで安曇を見上げた。
安曇はにわかに浮き立つ。いつの頃からか、矢代のこの笑顔に心が満たされるようになっていた。
ふたりが知り合ったのは二十年以上前になる。財界のパーティーで名刺を交換したのが始まりだ。
安曇は家電量販店を営み、その頃には既に成功を収めていた。安価多売により利益を上げ、競合他社を蹴落とす腕にかけては誰にも引けを取らないと自負していた。
矢代もまた、そのときには時計製造会社の社長の座についていたのだが、どことなく技術者を思わせる男だった。矢代に言わせれば、創業者である曽祖父は、元は一介の時計店主に過ぎず、当時に培われた頑固なまでの製品へのこだわりが、世界中に商品を輸出する今となっても生きているだけのこととなる。
初めは、商取引において、ふたりは渡り合う関係だった。矢代の会社の商品は、品質において高い評価を得るに留まらず、洗練された意匠でも広く世間に認められている。安曇は喉から手が出るほど、自社で販売を扱いたくてならなかった。
流通の経路は一筋縄ではいかない。業界では老舗と謳われる矢代の会社が、所詮成り上がりにすぎない安曇の意向にかなって、やすやすと自社製品を低価で卸すはずはなかった。
それゆえ、安曇にとって、矢代と直接に知り合えたのは幸運だった。何年もかけ、押しては引いての交渉を繰り返し、結果、商取引においての勝利を収めたのだが――それ以上に、そうこうしているうちに矢代個人と親しくなれたのが幸運に思えてならない。
堅実な経営手腕と先見の明を兼ね備えた男――矢代は、安曇にとって、尊敬に値する人物だ。
「座ってくれ」
矢代にソファを勧められ、安曇は深く腰を下ろす。一升瓶をはさんで矢代と向かい合う。矢代の静かな笑顔が心地よい。
かつては敵とも呼べた相手が、今となっては旧知の友だ。
黒檀のテーブルに料理の数々が運ばれてくる。安曇の持参した一升瓶があけられる。手にしっくりと馴染む琉球ガラスの器にかぐわしい酒が注がれ、ふたりは互いに捧げた。
「うん。うまい」
矢代が、小さくもはっきりとした声でもらした。安曇は満たされた思いで器から顔を上げる。ふと、矢代の背後にあるキャビネットに目が止まった。
雛人形が飾られている。仰々しいものではない。両手で抱えられるほどのガラスケースの中に、金屏風を背にした内裏雛が一対あるだけだ。品格のある顔立ちが印象的な、木目込みの立ち雛である。
そうか――。
矢代に外孫ができたと聞いたのは去年の秋で、確か女の子だったはずだ。ならば、今日が初節句になる。
「矢代――」
桃の節句に矢代を訪れるのは、いつ交わした約束というでもないが、気づけば、もう何年にも渡って恒例のようになっている。
それで、今日も気軽に安曇は訪れた。理由はただひとつ、矢代の誕生日を祝うためだ。
「本当のところ、今日は都合が悪かったのではないか」
矢代の目を見つめ、安曇は言った。矢代は安曇の心中を察したかのように、穏やかな笑顔で答える。
「安曇が来ると前々から知っていたのだから、不都合など何もないさ」
「しかし――」
「時勢に違わず、今どきの娘だ。雛飾りは場所を取るからいらないと言って返した」
ふっと口元を歪ませた。
「もっとも、我が家で雛飾りを出したのも、娘が小学生のうちまでだ」
矢代は、にっこりと安曇に笑ってみせる。淋しさを振り払うように矢代の表情が動くのを見て、安曇はむしろ淋しさを覚えた。
矢代桃一(とういち)――。
あの日、名刺を交換して、矢代の名を改めて知った。それまでは『矢代時計株式会社の矢代社長』としか覚えがなかった。
――男名に「桃」とは。
その場でそう思った。昔話の『桃太郎』を連想させられるよりも、女性を思わされた。
命名の由来を聞いたのは、その後、何年も経ってからだ。もしかしたら、十年以上経っていたかもしれない。肩書きを意に介することなく、個人として親しくなってからだった。
『由来? 単純だ。桃の節句に生まれたからだ』
苦笑する顔は、どことなく、はにかんでいるように見えた。矢代のその表情に、安曇は、互いに心を開きあえた仲だと確信した。
矢代とは歳が近く、互いに会社経営者ではあっても、その地位に至る経緯は元より、育ちも性格も違う。それなのに、なぜにここまで親しくなれたかを思うと、今さらながら不思議だ。
「気に病むなど安曇らしくもない。今日は、女房が娘のところへ行っている」
笑って、矢代は安曇の器を酒で満たす。
「よかったのか?」
それならば尚のこと、矢代は同行したかったのではないかと安曇は思う。
「少しも構わん。雛飾りを突っ返すような娘だ」
「いや、そうではなくて――」
孫は目に入れても痛くないと誰もが言う。安曇がそれを実感できるのは遠い先になりそうだが、いや、一生ないように思えるのだが、矢代が自分と同じとは考えにくい。
矢代は琉球ガラスの器を握り、そこに視線を落とした。小さく息をつく。
「――蚊帳の外、だ」
どうにか聞き取れるほどの声だった。安曇が返す言葉を思案していると、明るい顔を上げてくる。
「食べよう。この酒に見合うもてなしでなくて、すまんが」
「何を」
ふっと口元を緩めて安曇は箸を取った。
江戸川の堤まで歩こうと言い出したのは、どちらだったのか。春の夜は更けてもやさしく、ふたりともコートの襟を立てるまでもなかった。
「退任を考えている」
壮年を過ぎようとなっても尚、矢代は凛としている。並ぶ安曇のほうが大柄でも、円熟のかもす貫禄に相違はなかった。
「私の代で矢代時計は大きく変わった。その責を問われている」
安曇はぎくりとして足が止まりそうになった。そもそも矢代の退任は早すぎる。平静を装い、矢代の声を聞く。
「後任は決めてある」
進む先をにらむようにして矢代は言った。だが、無言のうちに歩くだけになる。
「――婿殿か?」
安曇は先を促すように言った。矢代の業績が問われ、進退問題に至っていると聞いては、黙っていられなかった。
「いや」
矢代は短く返しただけだ。安曇は思いを巡らせる。
早々に矢代が退任する上に、矢代の娘婿が次期社長につかないとなれば、相当の物議をかもすのが容易に想像できる。『矢代時計株式会社』は、代々、矢代家の者が代表取締役を受け継いできたのだ。
春の夜道をふたり並んで歩いていく。古くからの住宅街を行き交う車はなく、あたりは静かだ。頬を撫でる風が生ぬるい。
「矢代――」
言葉を探し、安曇は口を開いた。
「きみの英断には感謝しきれない」
それだけを言って、胸がいっぱいになる。野心に満ち、己の成功を追い求めるだけだった当時が思い起こされる。
安曇が矢代との商取引に勝利し、さらなる成功を収めたのは自らの成せる業とは思いながらも、それは矢代の思い切った判断あってのことだ。
時はバブル経済の真っ只中だった。矢代の会社は海外ブランドに押され、主力の高級腕時計の売上を落としていた。
安曇はそこにつけこんだようなものだった。今後の経済の縮小を見越したのは安曇ひとりに限らずとも、まさか、矢代が販売子会社を設立して、自社製品の流通経路を変えるとまでは予測できなかった。それがなかったら、矢代の会社の製品が低価で卸されるようにはならなかったはずだ。
「安曇の進言あってのことだ」
矢代は、また、静かな笑みを安曇に向けてくる。咄嗟に安曇は答えた。
「それは違うな。俺が何も言わなくても、決めていたはずだ」
「いや、私の背を押したのは、紛れもなく、きみだ」
そうとなれば、矢代を今の苦境に追い込んだのも安曇となるのではないか。
苦い面持ちで安曇は目を伏せた。自社を思えば、何も間違ったことはしていない。しかし、矢代個人を思えば、胸に迫るものがある。
「老舗の驕り、だ。きみの言ったとおりだったと今も思っている。革新なくして進歩はない。だから私は退任し、有能な者を次に据える」
さらりと矢代は言ってのけた。安曇は先ほどの矢代の声を思い出す。
『――蚊帳の外、だ』
娘婿を次期社長に推さないことで、家庭内でも不和が生じているのかと――そう思った。
「婿殿では駄目なのか」
「駄目だな」
あっさりとしたものだ。いっそ清々しくさえ感じられる。
「野心ある者は、それを裏付ける実力がないといけない」
それには安曇は苦笑してしまった。そのままの顔で矢代を見る。
「今からでも私の娘婿になるか?」
ひょいと片眉を上げ、おどけた顔で矢代は言った。
「それでは娘さんがかわいそうだ。父親と歳の変わらない夫では――」
「そうとも限らんだろう」
安曇が思わず返せば、矢代は笑えないことを言う。
「愚かな娘だ。野心の道具にされたとも気づかずに、世間を知らない歳で身ごもって、慌てて嫁いで――それでも幸せなら口を出すことは何もないが、娘は任せても、社運を任せる相手となれば、話は別だ」
「しかし、それでは――」
「娘の行く末を気遣って、社を傾けさせられるか? 私の女房のようなことを言うのでは、きみも落ちたものだぞ」
安曇はぐっと言葉を飲む。もっともだ。矢代の言うとおりなら、自分が同じ立場にいても同じ判断をする。
「――落ちたもの、か」
独り言のようにつぶやいた。
ふたりは江戸川の堤を登る。上に立てば、黒々とした川面が見渡せた。明かりは、点々と続く街灯と、近くの人家にあるだけだ。
川風を受け、白いものの混じる矢代の髪が揺れる。端整な横顔は、暗い影にひそめられている。
「……ひとりは、どうだ」
不意に矢代が声を発した。
「どうというものでもないさ。気楽で孤独だ」
安曇は答える。答えて、そのとおりだと思う。
「隠居を決めるのもいいな」
矢代はのんびりと言う。安曇は笑った。
「その歳で山にでも篭るのか? 時の流れに取り残されそうだ」
「それもまた、いいだろう。時計をいじって過ごすのもいい」
「それでは時の流れに取り残されることにはなりそうにないな」
言えば、矢代も笑った。
「砂時計の砂を見つめて余生を送るのもいい」
「ずいぶん淋しいじゃないか。長いぞ?」
「潮時だ。時は移る」
暗い川面を眺める矢代の横顔は静かだ。
安曇は思う。強い意思をもっての退任の決意なのだろう。『矢代時計株式会社』の筆頭株主でもある矢代だ。きっと、引き際も鮮やかに、すべてにおいて思いどおりの采配を振るうに決まっている。
「俺もそろそろ辞めるかな」
安曇が言えば、矢代はくすりと笑った。
「まだまだだろう? 妻をめとるのも忘れて、一代で築いた地位だ。名残惜しいと聞こえてくるぞ」
「決めてかかるなよ」
安曇も笑った。
「矢代が山に篭ってしまっては、俺が困る」
そう言って、左手首を見せた。
「この腕時計を扱えるのは、矢代だけだ」
年代ものの腕時計――『矢代時計株式会社』の製品――それを見て、矢代は満面の笑みになる。
「それがなかったら、私と安曇の今はなかったな」
「そのとおりだ」
矢代の会社の製品に惚れこんでいた。矢代との商取引に躍起になったのは、そのせいもあった。
実際には、今でも安曇の腕時計を扱える職人は、いくらでもいる。矢代の会社経営にぬかりはない。
「――山に篭るのか?」
「どうだかな」
矢代は笑う。安曇の腕時計を見て笑う。
「……いつか、追っていってもいいか?」
その目を見つめて安曇は言った。
「どうしたんだ」
微笑をたたえたまま矢代は返す。
「ひとりで篭るのだろう?」
「――そうなるかな」
ふっと目を伏せた。淋しげな笑みを浮かべる横顔を安曇は美しいと思う。
いっそ、手を取りたかった。目に見えないところで、ずっと携えてきた。決断を迫り、協力を仰いできた。
「……助けられた」
「お互いさまだ」
安曇のつぶやきに矢代は返す。
「安曇と出会ってからは、社長業もおもしろかった」
「言ってくれるな」
安曇は苦笑を刷く。
「老舗の看板に安泰していたら、とっくにつぶれていた」
「有能な社員がいくらでもいただろう?」
「内部と外部とでは見解が異なることもある」
「裁量だろう」
矢代は空を見上げる。つられて安曇も目を移す。朧月が浮かんでいた。雲の切れ間に、温かな黄色い影がにじんで見える。
「……疲れたら、来ればいい」
それをどれほどの気持ちで矢代が言ったのか、安曇は推し量れない。ただ、胸が熱くなった。
やがて来る本当の孤独を安曇は思う。そのときも隣に矢代がいるのなら、それは限りなく心地よいもののように思える。
「あの雛飾り――」
安曇はつぶやくように言う。
「隠居先に持っていくといい」
「ああ」
月を見上げる横顔で、矢代は答えた。
了
◆別館に戻る
他のページへはブラウザを閉じてお戻りください
壁紙提供:700km