Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「川のほとり」

 

 一


 鳥が鳴いている。あれは――ひばりだ。ほかに聞こえるのは、川風に撫でられるたびにぼくの耳元でさやさやと騒ぐ草の音だけ。
 閉じているまぶたの裏が明るい。全身に陽の光を浴びてぼくは横たわっている。ほんわりと大地の熱を背中に感じ、五月の陽射しに溶けている。
 溶けて――しみこんでいくのかもしれない。いくつもの地層を経て、地下の水脈にたどり着き、冷たい水と共に、今、ぼくの前にある川にいつしか合流し、淀んでいるのか流れているのか定かでない川面に浮き沈み、やがては大きな海に出る――。
 芽吹いたばかりの大地はぼくにそんな夢を見させる。細くまぶたを開ければ、幅広い川面の向こう、対岸の土手いっぱいに咲き乱れる菜の花の群生が目に映った。
 ひばりは天高く鳴いている。川風がぼくの頬を撫でる、髪を乱す。鼻をくすぐるのは萌え出たばかりの草の匂い。それを大きく吸い込んで、ぼくは目を閉じる。ゆっくりと上下するぼくの胸。まぶたの裏に跳ねる光――。
 と、真っ暗になった。怪訝に目を開けたら、かたわらに立つ誰かが体を折り曲げてぼくを覗き込んでいた。逆光を受けて真っ暗な顔はよく見えない。けれど、彼はぼくと同じ制服を着ていた。彼の背景、薄青い空に、ひとすじ立ち昇る煙が見えた。


 この春からぼくが通うことになった高校は川を背にして建っている。最寄りの駅までバスで二十分。あたりは人家がぽつんぽつんとあるだけで、あとは畑と田んぼと雑木林、それに火葬場しかない。きっと、そんな場所だから、グラウンドがやたらと広いのだと思う。
 火葬場は川沿いに少し行ったところにあり、入学前にはそこから教室の中にまで灰が飛んでくると冗談めいた噂を耳にしていた。実際入学してみればそんなことはなく、ぼんやりと教室の窓から外を見ると、時折、空高く昇る煙が見えるだけだった。
 入学式から一ヶ月が経ち、慣れない通学と新しい環境からきた緊張と疲れをゴールデンウィークで癒し、教室から見える田んぼが茶色から緑色に変わっても、ぼくには何かが欠けていた。
 学校推薦で入学したぼくは、入学審査の面接のとき、高校に入ったら何をやりたいかと訊かれ、ためらいなく運動部に入りたいと答えていた。けれど、それはいまだに実現されていない。
 運動部に入りたいと言ったのは、決して口からの出任せではなかった。あの時のぼくは真剣にそう思っていたし、確かにそんな高校生活を夢見ていたのだ。それを裏切ったのは通学の不便でもなく、やたらと広いグラウンドでやたらと熱心に部活動に励む先輩たちでもなく、近くの火葬場のせいでもなかった。
 休み時間、教室のそこここから聞こえてくる笑い声にぼくは憂鬱になる。ごくあたりまえのように互いに馴染むクラスメイトたちを見ていると、げんなりしてしまう。中学校でさんざん目にしたのと同じ光景――。
 高校に進学できた安堵に素直に浸る彼らはまだ気づいていない。あるいは、ずっと気づかないのかもしれない。これから、それまでに過ごした三年とさして変わらない三年を過ごし、また受験し、進学し、就職試験を受け、どこかに入社し、そして、エンドレスに近い同じような日々をずっと送っていくのだということを。
 ぼくが夢見た新しい何かはここにはなかった。授業を受けてバスに揺られて電車に乗って帰宅する日々。デジャヴだった。


 教室はグラウンドに面した南側にずらりと並んでいる。廊下は川に面した北側にまっすぐ伸びている。
 廊下の窓側にはロッカーも何もなく、五月の陽気で窓はいつも開けられていた。窓は腰高で意外と大きく、一―Eの教室前の窓はいつからかぼくの定位置になった。
 授業の合間の休み時間も昼休みも、ぼくはいつもそこにいた。組んだ腕を窓枠に乗せて身を乗り出し、川風に吹かれていた。取り立てて用事がない限り、そんなぼくに近づく者は誰もいなかった。
 三階の窓からは外がよく見渡せた。すぐ目の前にある土手も、草原(くさはら)の先の川岸も、流れているのか淀んでいるのか遠目にはわからない幅広い川面も、対岸の土手に広がる菜の花の群生も、その向こうの潅木の茂みも。
 対岸には建物はひとつも見えなかった。横一線にどこまでも続いている土手の向こうにところどころ潅木の茂みが覗いているだけで、そこに畑があるのか田んぼがあるのかもわからない。茂みと土手が成す稜線の上には薄青い空が広がっているだけだった。
 だだっ広いだけの風景。からっぽの風景。草の緑と菜の花の黄色を除いてしまえば、限りなく白に近い水色一色の風景。
 窓から吹き込む川風がぼくを呼んだ。それだけのことだった。ぼくがその場所に行ってみようと思ったのは――。


 風に消されそうな五時間目の終了のチャイムが聞こえた。気のせいか、教室のざわめきも聞こえたように思う。
 ぼくのかたわらに立つ彼は首だけ捻って校舎に振り返った。五月の太陽が彼の頭の端から顔を出す。まぶしさに細めたぼくの目は、きらきらと光る彼のうなじの産毛を捉えた。目を閉じる。
 さくさくと草を踏みしめる足音が遠ざかっていった。陽射しはぼくの全身を照らしていた。閉じたまぶたの裏に跳ねる光。ひばりのさえずりが耳に戻ってくる。草原を越えて川風が渡ってくる。背中に伝わる大地の熱――。
 そっと目を開けると、薄青い空にはもう、煙は見えなかった。


 二

「水口くん」
 呼び止められて、下駄箱にしまいかけていた上履きが宙で止まった。呼ばれた声の方に顔を向ければ女子がふたり立っていた。
 五時間目の予鈴が鳴っている。教室に戻る生徒たちの後ろ姿がちらほらと目に入る。
「さっき陸上部の人が探してたけど」
 答えずに上履きを下駄箱に入れた。
「……またサボリ?」
 それにも答えずにスニーカーを手に取った。
「水口くん――」
 しゃがみこんでスニーカーを履く。
「古典の山田、怒ってたよ……?」
 話し続ける女子にぼくは顔を上げた。
「あんた、誰だっけ?」
 途端にカッと顔を赤くした。隣にいたもうひとりの女子が彼女の袖を引く。
「行こう」
 その声が聞こえる前に彼女はくるりと背を向けた。歩き去りながらひそひそと話す彼女たちの声がぼくの耳に届く。
「ムカつく――」
「やっぱ顔だけだね」
「サイテー」
「ちょっといいかなって思ってたんでしょ」
「ありえない」
 外に出ると白茶けたグラウンドがぼくの前に広がった。すっかり新緑を茂らせた桜の下まで、ところどころ消えそうな白線がまっすぐ伸びていた。


 校舎裏のフェンスを乗り越え土手に出る。今まで呼吸を忘れていたかのように、ぼくは大きく息を吸った。川風が強い。それも、土手の斜面に寝転んでしまえば気にならなくなるのだから不思議だ。
 いつのまにか生い茂った青草はかなりの丈がある。いつもの場所、寝転んでも背中が痛くない程度に平坦なそこに、ぼくは今日も体を伸ばす。
 対岸の土手の黄色はほとんど見られなくなった。そのかわり、川岸を覆う葦のような細い葉先の草は、さらに丈を伸ばしていた。
 静かだ。べつだん何も聞こえない。風にそよぐ草の音、羽虫の唸る音――。
 目を閉じて太陽に抱かれる。陽射しに包まれる。大地の熱を背中に感じ取る。溶けていく体が気持ちいい。
 しばらくすると、草を踏んで近づいてくる足音が耳に届いた。彼だ。また今日もぼくの隣に来るのかと思ったけど、だからどうってことは何もない。
 ここで彼に覗き込まれてから一週間くらい経っているのだろうか。あれから彼は時たまここにいるぼくの隣に来るようになった。
 ただやってきて、何も言わずにぼくの隣に寝そべる。ぼくも彼に何も言わない。言うべきことなんて何もない。
 彼が初めてぼくの隣に体を横たえたときにだけ、ぼくは彼に目をやった。仰向いた横顔は明るく照らされていて、はっきり見えた。
 額に揺れる前髪、きりっとした眉。薄く閉じたまぶたは、まぶしいのか、かすかに震えていた。頬に落ちるまつげの影、すっきりとした鼻梁、ふっくらとした大きめの唇――。
 頭の下に両腕を組んでいて、襟章に一―Aの刻印が認められた。横たわる体はぼくより少し大きいだけだった。
 青草がぼくと彼を囲んでいた。伸び揃った草の上には土手の稜線と青い空が見えるだけだった。
 ぼくは彼の顔と名前をその時には知っていた。彼――谷川は、顔だけなら一年の誰もが知っているようなやつだった。
 入学式で答辞をしたのは谷川だった。間違いなく主席で入学した男。学校推薦と自己推薦のふたつの入学審査制度がある中で、何をもって主席と判断するのか知らないけど――。
 そう言えば、谷川は自己推薦だったとクラスの誰かが話していたのを耳にしたように思う。そういった噂が好きなやつはどこにでもいる。ペーパーテストで、この高校としてはまれに見る成績を残したと、そんなことも話していたはずだ。
 だからと言って、それがぼくに何か意味をもたらしたようなことはない。土手に寝転ぶぼくの隣に時たま谷川が来ることにしたって、ぼくには何も意味はない。
 こんなふうに、よく晴れた五月の昼下がりを計らずしも何度も一緒に土手で過ごす結果になっても、校内でのぼくと彼は何も変わりなかった。
 休み時間、廊下の窓から外を眺めているぼくの後ろを谷川が通り過ぎても、教室移動でA組の前を行くぼくと教室から出てきた谷川が鉢合わせても、目を合わすことすらなかった。
 ただなんとなく、ああ、いるな、と互いに感じているだけだ。
 廊下の窓から外を見ていると、ふと背中に感じる視線――ぼくはそれが誰のものなのか振り返って確かめるなんてしないのだけど――やがて背後を誰かと話しながら通り過ぎる谷川の声でそれを知らされる。
 あるいは授業中、ぼんやりと教師の声を聞きながら窓の外に目を移すと、グラウンドで体育の授業をしている集団の中に見覚えのあるすらりとした長身を見つけて、谷川と気づいたりする。
 だからと言って、何か意味があるわけではない。グラウンドに谷川を見つけても、ぼくの視線は空に向かう。そんな時、ひとすじ立ち昇る煙でも見ようものなら、意識はすっかりそちらに移ってしまうのだ。
 それでも、土手に寝転んでいると、時たま谷川はやってきた。やってくると何も言わずにぼくの隣にぼくと同じように寝転ぶのだった。それだけのことだった。


 三

 駅と高校を往復する路線バスは登校時間と下校時間は同じ制服でいっぱいになる。
 混み合うバスを嫌って自転車で通学する生徒はかなりいる。自宅から駅ではなくて、駅から高校だ。自転車をどうやって調達したのかを思えば、バス通りにある高校近くの自転車屋で買ったのが大半だろう。
 ぼくもバスは嫌だった。どこを見ても同じ制服なのが嫌だった。外に目を移そうにも必ず制服が目に入るのが嫌だった。とは言っても、雨の日も自転車に乗る気力はなかった。
 窓は開いていてもバスの中空気は淀む。聞きたくもない話し声で充満している。ぼくの耳にランダムに届く切れ切れの会話――。
「明日の小テストって――」
「このあと……に寄ってさあ――」
「うっそぉ! ありえないって!」
 意識を遮断したくても、うまくいかない。信号が赤なのか、バスは次第に減速していく。
「おい、見ろよ!」
「バイク? マジ、うちの高校じゃん!」
「ひゃー、だいたーん!」
「つーか、バカじゃん?」
 一声高い会話が周囲を引く。車内の興味がひとつになる。一斉に窓の外に向かう。
「誰だよ、あれ?」
「知らねーよ、おまえ知ってる?」
 ぼくの視界が開けた。ぼくの前の何人かが窓に向かって身を屈めたのだ。
「てめー、誰だよ!」
 外に向かってぼくの前のひとりが叫ぶ。バスはゆるやかに止まった。ぼくの視界にもバイクが入ってくる。ゆっくりと進み、バスに並んで止まった。
「おいこら、こっち向けって!」
 フルヘルメットが振り向く。地面に伸びた長い脚。見覚えのあるハイカットスニーカー。
「……誰だ? あいつ」
 谷川だ。ぼくの前でこそこそと話すいくつかの頭を越えて、ぼくはじっと谷川を見た。
 ヘルメットの隙間から覗く目もぼくを見つけた。視線が絡む。
 バスのエンジン音が響いた。フルヘルメットも視線を前に戻し、手際よく片足でバイクをスタートさせる。
 ゆっくりと走り出したバスを追い越し、谷川のバイクはバスの大きなフロントガラスの隅から五月の光の中に消えていった。


 煙がひとすじ立ち昇っている。グラウンドのフェンスに沿って植えられた桜の向こう、土手がゆるやかなカーブを描く先、雑木林の上から細い煙が真っ青な空に吸い込まれるように立ち昇っていた。
「水口くん」
 呼ばれた声に振り向く。
「食べ終わったら、すぐに来るようにって、担任が言ってた」
 言い終わるか終わらないうちに、ぼくにそう言った女子はくるりと背を向けた。その後ろ姿で、いつか下駄箱の前でぼくに話しかけた彼女だと、ふと気づく。
 机の上に広げてあった食べかけの弁当をしまった。紙パックのお茶は残りを飲んだ。席を立ちかけて、職員室に行けばいいのか化学準備室に行けばいいのかちょっと考えたけど、どうでもいいように思えて廊下に出た。
 担任は化学準備室にいた。予想通り、どの授業にもまじめに出るように言われた。それだけだった。
 特別教室ばかりの校舎を出て渡り廊下を行く。グラウンドで昼休みを過ごすやつらのふざけた声が耳に届く。笑いながら歩いてくる数人の女子とすれ違う。
 下駄箱に向かった。上履きをしまってスニーカーを出した。しゃがみこんで履いていると、視界の隅に誰かの足が映った。
 目を上げてしまったのは偶然だ。ぼくを見下ろす谷川と目が合ったのも偶然だ。
 はっきりとした男らしい顔立ちは何の感情も示していなかった。真っ黒な髪はいつも通りさっぱりと整えられていて、前髪の合間から覗く切れ長の目がじっとぼくを見下ろしているだけだった。
 校舎の角を曲がったところで谷川がついてきているのに気づいた。裏のフェンスを乗り越える。土手を登りかけたところで背後からガシャンと大きな音が聞こえた。振り向いた。
 フェンスの上を片手で掴む谷川の体が宙に浮いていた。次の瞬間にはひらりとこちら側に着地した。
 ――跳び越えられるんだ。
 駆け寄ってくる足音は背で聞いて、ぼくはいつもの場所に向かう。目の前に広がるからっぽの風景に気持ちを奪われる。腰を下ろし、土手の斜面に体を伸ばした。
 ザッと草を滑る音がした。ちらっと目を上げると、谷川はスライディングするようにぼくの隣に来た。いつものように、ぼくに並んで横たわる。
 けれど、その日の谷川はいつもと違っていた。
 大地に体を投げ出し、ゆったりと呼吸を繰り返し、浴びる陽射しを閉じたまぶたの裏に感じていても、ぼくの横顔に注がれる視線は無視しようがなかった。
 仕方なく、目を開けた。隣を見る。
 谷川は片腕を枕にぼくをじっと見つめていた。こんなの、ルール違反だ。場所を替えようにも、ここはぼくの場所だ。
 ぼくは睨んだはずだ。なのに、谷川は目元に笑みを浮かべた。枕にしていない手を伸ばしてきて、ぼくの鼻筋をたどった。骨太の指に撫でられた感触が残る。
 顔を元に戻した。真っ青な空が視界いっぱいに広がる。薄く漂う白い雲。全身に降り注ぐ陽の光。溶けてしまいたい。
 ぼくの顔に影が落ちる。身を起こした谷川に視界が遮られる。大きな手がぼくの頬を包んだ。
 意味なんて、何もなかった。言葉さえもなかった。
 ぼくに屈みこむ谷川がぼくの頬を撫で、その手をぼくの首からぼくの胸に滑り下ろしても、そこを何度か往復して、やがてはさらに下がっていっても――。
 ぼくは動かなかった。空を見つめて、最初に大地に投げ出した体勢のままで、両腕はだらりと体の横にあるだけで、両脚はそれが自然な形の少し開いて伸びている状態で――。
 変わったのは、谷川の大きな手に包まれた、ぼくのそこだけだった。次第に上ずる胸だけだった。ぼくを溶かす熱は陽射しだけではなくなったことだった。
 熱い。熱くなる。血が巡る。溶ける――。
 びくりと体が跳ねそうになって、ようやくぼくは谷川を見た。谷川はぼくの顔を見ていた。うっとりと、微笑みながら。
 それから、何事もなかったかのようにぼくから離れた。ぼくの横に静かに体を横たえる。
 川風がぼくの上を渡っていった。ひんやりとした感触に体の火照りを意識させられた。ぼくのそこに微妙な熱が残っているのを知る。
 さわさわと草が鳴る。青草は横たわるぼくたちを隠すほどに伸びていた。浅く短く繰り返されていたぼくの呼吸音が耳につかなくなったとき、隣に横たわる谷川の吐息がぼくの耳を掠めた。
 目を閉じる――大地にしみこんでいく。


 だからそれには何も意味はない。ぼくは行きたいときには土手に行くし、谷川が来ても来なくても行きたければ行くわけだし、校舎の中で会うたびに谷川と目が合うようになっても、たとえその時の谷川がにっこり微笑もうとも、意味なんて、何もないんだ。
 最初の時こそ制服の上からなぞるだけだった谷川の手が、そのうちその中に忍び込んでくるようになっても、挙句にはぼくの制服を開くようになっても――意味はない。
 ぼくは土手に行く。晴れた空とゆったりと横たわる川面に誘われて、川風に呼ばれて。ぼくは行く、茫漠とした風景に溶けに。


「ん、ん……」
 熱い、息苦しい。固く食いしばった歯の隙間から漏れる声を抑えきれない。
 肉厚の舌がぼくの胸で濡れた音を立てる。見なくてもわかる。べろりと口から出ているそれが、ざらついた感触でぼくを熱くしている。尖らせたそれの先が、ぼくをさらに熱くしようとそこを突付く。硬い歯が、軽く噛みついてくる。
「は……っ」
 ぼくの目は、ぼんやりとしか青い空を映さない。滲んで見えるのは気のせいじゃない。
 青草はますます丈を高くしていた。ぽっかりと開いた穴のように見える空は、輪郭を草の先で縁取られている。
 手が伸びてくる。ぼくの耳の下をそろそろとくすぐる。ぼくの頬を歩くように指が動いてきて唇を何度もなぞる。そのぬめり具合を確かめる。
 それでもぼくは、その指を噛んだりはしない。すっかり力の抜けたぼくの体は溶けきってしまう寸前だ。
 ぼくの胸に顔をうずめる谷川の体は重くて、それだけでも苦しいのに、谷川のもうひとつの手はぼくのそれを扱いているから、何が一番ぼくを苦しめているのかわからない。
 痺れるような苦しさ。駆り立てられる苦しさ。体中に熱が生まれ、噴き出しそうになる。かつてぼくを包んだ陽射しの熱も大地の熱も――今はもう、感じられない。
「くっ……」
 体が跳ねる。背が反り返る。思わず、谷川の頭を両手で押さえつける。震えがくる。
 今は、濡れた音は別のところから聞こえていた。絞り上げられ、きつく扱き下ろされ、どくどくと溢れるそこを爪先でいじくられる。
 谷川の頭を掴む手に力が入る。さらさらと指の合間を逃げる黒髪を闇雲に掻き乱した。
「ひっ……あ、あ、あっ……!」
 大きく見開いた目にスパークする光。太陽の光よりも強烈なそれに、一瞬、世界は真っ白になった。
 ……苦しい、息ができない。
 ぼくの両手はパサッと草の上に落ちる。谷川はぼくの肩に片手をかけ、体をずり上げてきた。ぼくの顔に影を落とす谷川は、うっとりと微笑んでいた。大きめの厚い唇が薄く開き、落ちてくる。ぼくは目を閉じた。
 きっと、ぼくは、谷川に吸い取られていたのだと思う。溶けきったぼくの体は大地にしみこむかわりに、谷川の中に流れていったのだと思う。その時には――わかっていなかったとしても。
 蠢く舌に口の中を荒らされ、やわらかく舌を吸われ、ぼくの胸はさらに上ずり、苦しくて喘いだ。
 谷川はぼくを横向きにする。青草の匂いが鼻につく。谷川のぬめった手が後ろから両腿の間に忍び込んでくる。
 片膝を折られた。足首にかかった制服のズボンが突っ張る。肌着ごと片方だけ抜かれた。
 閉じているぼくのそこに骨太の指が触れる。ぬるぬると探られ、くっと突き立てられた。中に入ってくる。
 谷川はぼくの背中側に移る。ぴったりと体を添える。ぼくの首に顔をうずめ、熱い舌先で舐める。
 もう、ぜんぜん力なんて入らなかった。ぼくは溶けきっていたのだから。谷川が何をしているのかぼんやりとわかってはいたけれど、それはぼくに何も意味を成さなかった。始めから意味なんてないのだから。
 だけど、それで知ったことがひとつだけある。溶けきっていると、他人を呑み込むことすらできるということだ。
 熱く硬く太いかたまりがぼくの体の中にも入るということ、それで突き動かされるとさらに溶けてしまうということ、ぼくの首に耳に谷川の吐く荒い息がかかる、首筋を這い回る灼熱の舌がぼくにも荒い息を強いる、火照った頬と頬が重なり、無理に振り向かされて唇も重なる、きつく抱きしめられて、激しく揺さぶられて、めちゃくちゃに髪を掻き乱されて、ぼくの手は草を引きちぎった。
 再び弾ける光、極限の緊張のあとにやってきた弛緩――声なんて出なかった。
 ……ごそごそと背後で音がする。後ろから両脇に差し入れられた腕に、ぼくは仰向けに引き上げられた。
 のろのろと首を反らして谷川を見上げる。肩から上を丈の高い草の上に出して、谷川は座っていた。投げ出した脚の間にぼくをはさみ、見下ろす目は――やっぱり、うっとりとした笑みを浮かべていた。
 呼吸が静まらない。背を預けて谷川にもたれた。谷川が腕を伸ばしたから体が折れて苦しかったけど、谷川はぼくの肌着とズボンを引き上げてくれた。
 元の体勢に戻る。ぼくの体に回された谷川の手がぼくの制服のボタンをかける。背に伝わる谷川の呼吸もまだ少し乱れていた。
「名前、なんていうの」
 唐突な問いに目だけ上げた。
「水口の下」
 答えなければならないなんてことはなかった。けれど、ぼくは答えた。
「たかし」
「どんな字?」
「山冠に伊達政宗の宗」
「……なに、それ?」
 ぼくは重い腕を上げ、空中に字を書いた。
 崇。
「ああ……そっか」
 谷川が話すとぼくの背はかすかに揺れた。
 草原を越えて川風が渡ってくる。ぼくの火照った頬をひんやりと撫でた。ぼくたちの前には、幅広い川が横たわっていた。
「もう十六歳なんだ」
 目前に広がる風景を見ながらぼくは言った。
「なに?」
 ぼくの背が揺れる。
「バイク乗ってるから」
「ああ、そういうことか」
 谷川の声をまともに聞いたのはあの時だけだった。外見を裏切らない、低くて深い声だなと、そんなことを思ったように思う。
 あの時、ぼくの背中は谷川の熱を感じていた。大地の熱ではなくて、谷川の熱を。それもそうだと思った。あの日のぼくを溶かしたのは谷川だったのだから。
 だからと言って――何も意味はなかった。あの時は。


 四

 頓狂な声が上がり、教室中が騒然とする。ぼくの目は教壇に立つ担任の化学教諭に釘付けだ。
「静かに、静かにしなさい」
 パンパンと担任の叩く手の音が響いた。ざわざわとしたまま、それでも教室内は担任の声が聞こえる程度には静まった。
「それで、このクラスからも行く者がいるだろうから――」
 背を見せると、担任は黒板に白い文字を書き始めた。カツカツとチョークの音が響く。
「……通夜は今日の六時からだ。明日の葬儀にはA組の担任と代表が出る。きみたちは授業があるわけだが……」
「先生!」
 廊下側の席から上がった声に担任は目を向ける。
「どうして――どうして、こんな……」
 ぼくは黒板に書きとめられた白い文字の並びを見ていた。葬儀場の名称と行き方――。
 ぼくの視界の隅で担任はため息と共に肩を落とした。かすかに俯く。
「バイクは禁止なんだ。通学はもちろん、免許を取ってはならないと校則にある。なのに……昨日の夕方、谷川は家の近くのT字路で事故にあった。谷川に過失はない。脇道から出てきた車が一時停止を怠ったんだ。かなりのスピードで横からぶつけられて――即死だったそうだ」
 再び教室内は騒然となった。たしなめる担任の声が響く。
 ぼくは――そろそろと窓の外に目を移した。よく晴れた青い空には雲ひとつ見えなかった。いつもの朝の風景だった。


 五時間目の始まるチャイムが聞こえる。ぼくは川のほとりに立っていた。
 こうして近くで見れば、川は確かに流れていた。川の中ほどは岸辺近くよりも流れが速いらしく、さざなみが立っている。
 岸を舐める水の音がちゃぷちゃぷと聞こえた。聞こえるのはそれだけだった。
 川風がぼくの髪を乱す。土手で感じたよりも強いように思えるのは気のせいだろうか。対岸の土手はもう、緑一色だ。岸辺の葦のような草もすっかり生い茂っている。
 今ごろ教室では、谷川に黙祷を捧げているのだろう。谷川は、この先の火葬場で荼毘に付されると噂されていた。
 ぼくは川面を眺める。この五月、ぼくがひとりでいるときも、谷川といるときも、変わらず目の前にあった。きらきらと光が跳ねる。
 ぼくは谷川のフルネームを昨日初めて知った。谷川の死を伝える担任の口から聞いたのだ。
 腕を上げて、空中にその名を書いた。ぼくの名を訊かれたとき、どうしてぼくは訊き返さなかったのか。
 足元の草を引きちぎった。それを川に向かって投げた。けれど、草は川風に流され、ぼくの頬を掠めてぼくの後ろへと散っていった。
 頬を熱いものが伝う。胸がつまり、唇が震え出す。左手で胸を押さえ、右手の指先でそっと唇をなぞった。
 ――谷川……。
 崩れ折れて、その場にしゃがみこんだ。ぺたんと尻がついた。背を丸め、膝を抱え、震えの止まらない体を自分で抱きしめた。
 もう、ここにはいたくない。けれど、振り向けない。真っ青な空に立ち昇る煙なんて、もう、二度と見たくない!
 いつまでもそうしているぼくの体は次第に冷えていった。川風に吹かれ、地面から伝わるものも冷たく湿った感触だけだった。
 あの時――谷川に背を預けるぼくの、溶けきった体から腿を伝って流れていった熱――今こそ、その意味をぼくは探る。
 ぼくは帰る。教室へ、やたらと広いグラウンドへ――きっと帰る。
 この五月、谷川だけが、リアルだった。



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素材:StudioBlueMoon