Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

灰色の部屋


 
 

     最近、よく夢を見る。起きたとき眠った気がしないのはそのせいだと、桝村(ますむら)は思う。
     どこと知れない、暗い部屋にいる。窓がひとつあって外が見えるのだが、そこに広がるのは無人の廃墟と見紛う都会の風景だ。
     空にそびえるビルの群れも、空そのものも、どんよりと灰色に染まっている。音はない。しんとした静寂の中、自分のいる部屋も灰色だと気づく。何ひとつ置かれていない、からっぽの部屋――だだっ広く、がらんと冷たく、それが次第に膨張していくような、窓の外の景色が遠のいていくような――そんな、心もとなさ。
     初めは、それが夢だとは思えなかった。帰社の途中、渋滞に巻き込まれてイライラとしながら赤信号で止まり、ハンドブレーキを引いた瞬間――よみがえったのだ。
     あまりに鮮明な記憶に驚いた。過去のどこかで同じ場所に同じようにいたことが実際にあったのではないかと――信号が変わって車を出したあとも考えた。
     何も思い当たることが見つけられず、それで、あれは夢だったのだと――やっと気づいた。それからだ。
     何度も同じ夢を見る。見るたびに、新たな発見はないかと、夢の中の自分は周囲を検分する。しかし、何も見つけられない。いつも同じだ。灰色の、何もない暗い部屋にひとり立っていて、途方に暮れている――。
    「う、わっ!」
     叫んで、ハッと目を開いた。間近に女の顔を見て、ギョッとする。
    「……なによ」
     女――ゆかりは、不機嫌そうにつぶやいた。長い黒髪をかき上げて、桝村の上から離れていく。
    「うなされてたから、起こしたのに……」
     ベッドを降りた裸の背中が遠ざかっていく。キッチンに消える。
     桝村は、意識して深い呼吸をし、忙しない鼓動を静めようとする。全身に嫌な汗が噴き出している。張りついていた髪を額から払った。手の甲で汗を拭い、天井を見つめる。
     白い……ゆかりの、部屋か――。
     思っても、目覚める間際に脳裏に焼きついた光景が消えない。ひときわ暗い部屋の片隅に、キラリと光った何か――。
     つい今しがたまで、桝村は、また『あの部屋』にいた。しかし、『あの部屋』にいたのは、桝村だけではなかった――。
     ……誰だったんだ?
     思い出そうとすると、ぐっと胸が締め付けられる。そうして、静まりかけていた鼓動は、また駆け出してしまう――苦しい。
     だけど……あれ……。
     顔が思い出せない。いや、見えなかったのかもしれない。しかし、わずかに目が捉えた着衣は――。
    「はい」
    「わ!」
    「……やあねえ、どうしたのよ」
     よく冷えた缶ビールを桝村の頬に当て、ゆかりは高いところから見下ろしている。
    「喉、渇いてるんじゃないの? そんな……うなされたあとじゃ」
     気の利いたことを口にしても、ゆかりの微笑はどこか歪んで見える。ゆるくウェーブのかかった黒髪は豊かな乳房にかかるほど長く、ウェストは、くっきりとくびれている。
    「……サンキュ」
     答えれば、実際、桝村の声はかすれていた。頬に当てられた缶ビールを掴むついでに、ゆかりの手首も掴んで引き寄せる。
    「あん!」
     ベッドに倒れてきた裸体を受け止めた。ふくよかな尻を抱き寄せ、肌を合わせる。唇を重ね、たっぷりとキスを交わした。
    「……ねえ」
     物憂げに起き上がり、ゆかりはささやく。
    「なんで、うなされてたの?」
     同じように起き上がった桝村の胸に、細い指先を這わせた。
    「――べつに」
    「べつにってこと、ないでしょ?」
     甘えた声で言われても、桝村は鼻先で笑って返す。話して他人にわかるようなものではない。あんな、漠然とした夢など――。
     ベッドヘッドにふたりでもたれ、プルトップを引く。ゆかりを肩に抱いて、桝村は一息で半分ほど飲んだ。喉が潤う。水分が、体に染みる。
    「……すてき」
     そうしている間にも、ゆかりのいたずらは続いていた。桝村の胸をなぞる指先は、そこにある粒をつまむ。手のひらで、ゆっくりと円を描く。
    「何人の男に言ったんだ?」
    「――何が?」
    「今の……」
     つぶらな瞳が黒髪の陰から桝村を見上げる。赤い唇の端が、薄い笑みに歪んだ。
    「――さあ?」
    「聞くだけ、ヤボか」
     まったくだ――。
     院内で見るときの天使の姿とは、ほど遠い。後れ毛ひとつなく、きっちりと髪をまとめて、純白ながら体にフィットした看護師の正装に身を包むゆかりは、文字どおり「白衣の天使」だ。その陰で、入院患者を相手にいかがわしい副業をしているとは、誰も気づいていないだろう。
     桝村は、ゆかり本人の口から聞かされて知ったのだが、そのときにはもう、すんなりと飲み込めた。
    『岡田製薬の新しい営業さん?』
     あの病院に初めて出向いたとき、ゆかりから声をかけてきた。
    『わたし、今日は早番なの』
     その日のうちに、肌を重ねた。
     桝村は長い腕を伸ばし、空になった缶をサイドテーブルに置く。ゆかりを抱いてシーツにもぐれば、あくびが出た。
    「いいわよ、寝ちゃって」
     面倒がなくていい。ゆかりと続いているのは、ひとえにそのせいと、桝村は思っている。
    「ん、もう……おとなしく寝ちゃいなさい」
     張りのある白い乳房を手に包めば、ゆかりは看護師めいた声で言った。まだ金曜日の夜だ。週末は長い――。
     桝村は『あの部屋』にいる。窓の外は、いっそうどんよりとして見え、今にも雨が降り出しそうだ。
     雨の前の、ほこりくさいような、あの独特の匂いが桝村の鼻腔をくすぐった。桝村は、ゆっくりと目を開ける。そうして、おかしいと思う。目を閉じていたのに、外の景色が見えていた。窓も閉じているのに、雨の匂いを嗅いだ。
     ……夢だからか。
     ぼんやりと思ってハッとする。
     誰か、いる――。
     視界の端に、おぼろげに映る姿――やはり、顔は見えない。桝村の後ろ、左斜めの位置、部屋の隅の暗がり――。
     桝村の鼓動は速くなる。全身に、じっとりと汗が滲み出る。それは、夢の中でのことなのか、現実にそうなのか――。
    「……ん」
     ゆかりの声を聞いた。
    「寝たんじゃ……なかったの……?」
     手のひらが捉えるのは、張りのある、やわらかな感触――。
    「……あ」
     ゆかりの声は甘くなる。桝村の耳元で、湿った吐息がもれる。
    「また――?」
     少しも嫌そうではない声だ。意識のはっきりしないまま、桝村はゆかりの豊かな胸に顔をうずめる。生ぬるく立ち上る匂いで胸を満たす。空気が湿った。
     灰色の街に、雨が降り出したようだ。音は何もなくとも、窓ガラスの向こうは煙るように白くなっていく。
     雨に白く煙る風景――それを見たのは……あの病院の、あの医者の部屋でだった。
    『誘ってくれないんですか?』
     遠慮がちな声、だが桝村の耳は、はっきりと捉えた。
     商談は、新薬の売り込みだった。暗に接待を催促されたと受け取った。
    『近いうちに、きちんとした席を設けさせていただきます』
     そう答えた桝村に、あの医者は気のない声で返した。
    『……そう』
     小さくつぶやいたきり、小雨に煙る窓の外に目を移した。白衣の後ろ姿は男にしては細く、体力勝負と言われる外科医には見えなかった。
    『誘ってくれないんですか?』
     桝村は、ほんの十数分前に聞かされた、ゆかりの声を思い出していた。同じことを言われても、まるっきり違う意味を持つものと、胸のうちで暗く笑った。
     この医者……。
     整った横顔は淡々として見え、野心など少しも感じられない。そのくせ接待を催促するとは、一筋縄ではいかない相手らしい。
     長いまつげは薄く影を落とし、頬は透き通るように白い。陽に当たらない生活を何年も続けているからだ。波打つ髪の色は茶色く、それもまた、陽に当たらないからのように思えた。しかし短く整えているあたり、カットに行く時間は確保しているのだろう。
    『教授には、ぼくから話しましょう』
     振り向いて見せた笑顔の華やかさ――。
     医局の女に引く手あまた、てとこか。
     ゆかりが早々にモーションをかけてきたのが納得できるようだった。院外の男に定めたほうが、効率がいいのだろう。
    『席が整い次第、すぐにご連絡申し上げます』
     深々と下げた頭を戻しながら、もう一度、あの医者のネームプレートを見た。
     阿坂(あさか)――。
     そこには、確かにそうあった。ドアを開けて廊下に出れば、病院特有の匂いが鼻をついた――はずだった。はずだったのに……。
    「――雨の匂いがする」
    「やだ。なによ、それ」
    「――ゆかり?」
    「んもう! こんなことしながら、なに考えてるの?」
     頭を強く押しのけられる。反動で戻って、かすれた声を桝村は出す。
    「違う……頭が、ぼうっとするんだ……」
    「ビールなんか、出すんじゃなかったわ……ん! や……はっ」
     おざなりに豊かな胸をもみしだく。気のない舌を這わせる。ふくよかな尻に、のろのろと片手を伸ばしていく。
    「あ……ん、ん」
     生ぬるく湿った吐息――湿った……湿った、空気――。
     ……誰だ?
     目を向けなくても、もう、わかる気がした。いっそう暗い部屋の隅、桝村が視界の端に捉えている着衣は白――白衣だ。薄闇に浮かぶように見える――目を向けなくても。そして、キラリと光って見えたのは何かも――すぐにわかった。
     どうして誘ってくれないんですか?
     それは、声だったのか。桝村にはわからない。歩み寄ってくる足音も聞こえずに、気配だけで、そうと知る。
    「ねえ……ねえ、二回目、なのよ――?」
     ゆかりが甘えた声を出した。桝村は、ベッドに仰向けにされるのを感じる。阿坂の気配に圧されて、そろそろと振り返る自分を感じる。
     これでもう、何回目……?
     問われても、桝村に答える術はなかった。ここには音がない。口を開いても声が出ない。
     あなた、なかなか気づいてくれないから――。
     何に――尋ねられない。桝村は、きゅっと眉をひそめる。
    「――く、う」
    「……いい?」
     うめいた自分の声を聞いて、かすかに意識が戻る。ゆかりの口の中で、硬く結実していくのを感じる。
    「もっと……続けて」
    「んふ」
     ゆかりが満足げに鼻を鳴らしても抗えない。夢に引き戻されてしまう。
    「……すてき」
     細い指が、腹から這い上がってきた。桝村の肉づきのいい胸をさまよう。かすめるようなタッチ――性感を鮮やかにする。
     すてきだ――。
     灰色の部屋にいて、桝村は仰向けに横たわっていた。自分に馬乗りになっているのは、やはり阿坂だった。
     舌先を尖らせて、右手に持つメスを舐める。暗い部屋にあって、メスはキラキラと光って見える。そこをゆっくりと這っていく、濡れて肉色の際立つ阿坂の舌――人体とは別の生き物のように、桝村は眺める。
     目が、合った。阿坂はメスに向けた横顔で、妖しく細めた目で桝村を流し見ていた。
     ゾクリとする。股間が熱くなる。違う、それは、ゆかりに口でされているからで――。
     ……あんな女。
     冷たく響いた言葉に、目を見張る。白く端麗な顔が、正面から桝村を見据えている。光るメスが、桝村に迫ってくる。
     タッチの差? ……ぼくが先だったのに。
    「――え?」
    「ん、いいでしょ……?」
     薄く開いた桝村の目に、白い部屋が映る。輪郭を滲ませ、ゆかりは桝村の上にゆらゆらと跨ってきた。
     ぼくが、先だったんだ。
    「くっ」
     メスがひらめき、思わず目を瞑った。唐突に、胸が空気にさらされる。そうなって初めて、スーツを着ている自分に桝村は気づく。
     阿坂の白い手が伸びてくる。刻まれたワイシャツをはだける。桝村の胸を、うっとりと撫でた。そこに頬をすり寄せてきて、熱い吐息を落とす。
     ぼくの――ものだ。
     桝村は動けない。性感は高まり、腰は痺れるようなのに、頭は急速に冷えていく。
    『誘ってくれないんですか?』
     ……そういう意味、だった――のか?
     しかし、ここは夢の中だ。なぜ、どうしてと、自問しても何も答えは得られない。
     わからない。これは夢だと思う自分がいるのに、これは夢だと思えないほどリアルだ。
     阿坂は胸にキスを繰り返す。濡れた舌先で舐められる感触は確かだ。乳首を軽く噛まれ、ピリッとした感覚が走る。熱く湿った吐息に包まれる。
     ……違う、これは、ゆかりが――。
     胸を這う手が、ピタッと止まった。鋭く光るメスの先が、鳩尾にヒヤリと触れる。
     ――まだ、言うの?
     ゆらりと、阿坂は身を起こした。目にかかる茶色い髪の合間から、冷ややかに桝村を見下ろす。にっこりと笑んだ。華やいだ笑顔になる。
     あんな女……体だけでしょう?
    「うう」
    「あ、あん、ん、ん、いい!」
     ベッドがきしむ音は幻聴なのか。全身が揺れているようなのは気のせいなのか。
     サクッ、とした感覚が鳩尾に走った。スーッと冷たい刃先が肌をなぞる。そこが、じわっと熱くなる――焼けるように、熱くなる。桝村は、カッと目を見開いた。
     あなた……すてき……。
     阿坂は、ほうっと、深い息を吐く。白く細い指先で、桝村の胸に触れる。
     ほら……こんなに出てきた……。
     そろそろと桝村の鳩尾をなぞる。その指先がぬるぬると滑るのが桝村にもわかる。
     赤く染まった指先が、桝村の目の前から離れていく。阿坂の唇の中に――消える。
     ねえ……知ってる?
     桝村の胸に頬を重ね、阿坂はささやいた。
     脂肪の多い人を切ると、しばらくスクランブル・エッグが食べられなくなるんだ……。
     何をいきなり――思っても、依然として声が出ない。それどころか、動けないままだ。
     あなたは、そんなこと少しもない……こんなに、すてきなんだもの。
     メスの走った跡から、とめどなく流れ出てくるものを阿坂は舌先で掬い続ける。生ぬるく、ぬるぬるする感触――吐息を湿らせ、桝村の脳に響く声を昂ぶらせていく。
     あなたは、ぼくのもの。見せて、みんな――。
     上体を起こし、白衣を脱ぎ捨てた。細く白い裸体が、薄闇に匂い立つように現れる。
     透き通るほどの肌、平らな胸、股間にそそり立つもの――鮮血で頬を汚し、阿坂は桝村をひたと見据え、うっすらと笑う。
    「は、あ」
     桝村は喘いだ。鼓動が忙しない。
    「ん、まだ……」
     ――まだ、だよ。
     サクッ、とした感覚が、また走った。熱い。焼けるように熱い。
     みんな……見せてくれないと。
     固く目を閉じ、桝村は身をよじろうとする。どうにか、声を出そうとする。
     無理だ、できない、やめてくれ――。
    「あ……阿坂――」
     自分の声を聞き、桝村はまぶたをこじ開けた。
    「やだ、誰よ――それ」
     自分に跨るゆかりの動きが止まる。
    「も、信じらんない!」
     ぶすっとした顔で見下ろされ、安堵に口元がほころんだ。
    「ゆかり……」
     誰だよ、それ。
    「……え」
     視界がぶれる。ゆかりの輪郭が滲んでいく。
     冗談じゃないわよ、バカにしないで。
     ズルリと抜けた。ゆかりはプイと横を向き、ベッドを降りていこうとする。
     長い黒髪が、ゆらゆらと揺れながら短く茶色い髪に変わっていく。豊かな乳房は霞み、白く平らな胸が現れてくる。
    「まだ、わからない?」
     振り向いて、ベッドに戻ってきた顔が、淡く笑んだ。
     嘘だ――。
     桝村の目に映る部屋は白い。明かりはこうこうと灯り、まばゆいくらいだ。
    「あなたって人は……あなたは、こうしないと、わからないんだ」
    「う」
     萎えかけていたものを強く握られた。鮮血に赤く染まった手で――。
    「これじゃ足りないな。先にもう少しもらわないと」
     メスが翻る。刃先が肌に触れる。プシュッと、赤い飛沫が散った。
    「あっ、あっ」
     阿坂の手が押さえる。自分の胸と阿坂の手の合間に、じわじわと熱が広がっていく。
     桝村は、呆然と見ていた。血に染まった手が、阿坂の尻に回るのを。細い眉をひそめ、阿坂がその手を動かすのを。
     胸が熱い。焼けるように熱い。鼓動が激しい。息が上がる。苦しい――声が、出ない。
    「――もらうよ。今は、こっちだけどね」
     茶色い髪に隠れて、阿坂はくすっと笑った。
    「く、は!」
     生ぬるく、ぬるりと呑まれていく。阿坂は顎をそらし、大きく喘ぐ。
    「あ……は、あっ」
     平らな胸が上下する。赤く染まった唇が、明かりを受けてぬらりと光った。
     ……ゆかり。
     胸のうちで呼びかける。
     ゆかり、ゆかり。
    「んっ」
     ガシッと肩を掴まれた。前のめりになり、阿坂は腰を深く使う。
    「は、あ、あ」
    「くぅ」
     とろりと溶けるような甘い痺れ――どうして。男の体に呑まれ、桝村は急激に昂ぶっていく――胸からは、鮮血を噴き出しながら。
     ――ゆ、か、り。
     なぜ。わからない。阿坂は間近で唇を噛む。血に汚れた顔を歪め、快感に耐えている。
     浅く短い呼吸音、苦しそうにひそめられた細い眉、透き通るように白い肌、そこに散る赤い斑点、鮮血に濡れて染まった薄い唇――。
     ……色っぽい。
    「はぁ……」
     湿った吐息を熱く震わせ、阿坂はゆらゆらと揺れる。指先を鮮血に濡らし、桝村の胸をなぞっていく。
     やめてよ!
     阿坂は、そっと視線を流してきた。恍惚とした眼差しで、じっと桝村を見た。
     阿坂……。
     長いまつげの影を認め、桝村は吐息をつく。
     だから、阿坂って、誰!
     あの病院の外科医だ。新薬の売り込みで、雨の匂う部屋で、会った――。
     いないわよ、阿坂なんて!
     しかし、ゆかりの働く病院で会ったのだ。ナースセンターでの受付をしてくれたのがゆかりで、ゆかりにはそのとき誘われて、それから言われた部屋に行き、あの部屋のドアを開けたら――。
     でも、阿坂なんて医者、いないんだから! 外科にも内科にも、どこにも!
    「は、ん、はぁ、あ、あぁ」
     桝村の肩に顔をうずめ、阿坂は喘ぎ続ける。腰の動きを少しも緩めず、桝村の耳に熱い吐息を注いでいく。
    「く、はっ」
     絶頂感が湧き上がった。びりびりと背筋を駆け上っていく。頭が朦朧とする。快感に――痺れる。
     ……それなら……あれは、誰だったんだ?
    『誘ってくれないんですか?』
     雨の匂う部屋で、桝村に振り向いて見せた華やかな笑顔――その前に見た、白衣の細い背中――違う……あのときが初めてではない……それよりも前、灰色の、四角い、小さな部屋で――。
    「はん、い、い――」
     目の前で振り乱れる茶色い髪――慌ててしゃがみ込んだ、細い背中。
    『大丈夫ですか?』
    『平気です、ぼくがしたことですから』
     そうだ……外科のある七階に向かうエレベーターの中で……ストレッチャー優先と掲示されていたエレベーターの中で、会っていた。
     扉の開いている時間は長く、だが廊下には誰も見えなくて、うっかり扉を閉じるボタンを押してしまった。そこに医者が駆け込んできて、扉にはさまれかけ、抱えていたファイルをバラバラと落とした。
     目を、合わせられなかった。初めて訪れた先でのことだ。茶色い髪の揺れるのを視界の端に見ながら、一緒になって黙々と拾った。
    『……すみません』
     言われても、会釈して黙って手渡しただけで、気まずく顔を背けた。そっと横目でうかがえば、医者は操作パネルの前に立ち、細い背中を見せていた。ファイルを抱えて持つ指も細く、白くて、まるで……そうだ、まるで女のようだと思ったのだ。
     白衣の背中から、湿っぽく匂い立つ色香を――感じた。
    「……今ごろ思い出した?」
    「う」
     阿坂は桝村をぐっと締め付ける。桝村の肩にうずめていた顔を上げ、微笑で見下ろす。
    「あんな目で、ぼくを見つめたくせに」
     メスの走った跡に、細い指先をめり込ませてくる。どくどくと血の溢れるそこを深くえぐってくる。
    「う、あ!」
    「だから、ぼくが先だったんだ!」
    「あ、あ、ああーっ……」
     鮮血は高く噴き出し、阿坂の満面に飛び散る。赤く濡れた顔を微笑に歪ませ、ぞっとする声で阿坂は言う。
    「誘ってくれないんですかって……ぼくから言ってあげたのに」
     尖った顎の先から、真っ赤なしずくが、ポタリと落ちた。
    「言って……あげたのに」
     もう、桝村は頭が働かない。重なってきた唇が嫌なぬめりに滑っても、口いっぱいに鉄の味が広がっても、胸が焼けるように熱くても――。
     ただ、ひとつだけ思った。
     こんなに血が出ているのに、なんで痛くないんだろう……やっぱり、夢だからか――。
    「ねえ、イって……」
     耳元で甘い声がささやく。
     そうだな……夢なんだから、どうでもいい――。
     どうして、それができたのか。桝村は、ぐっと腰を突き上げた。
    「はん!」
     阿坂の鼻に抜けた声が聞こえ、再び全身は揺れ始め、また絶頂感が湧き上がり、今度はもう、なにも耐えることなく――。
    「きゃあああああっ」
     耳をつんざく声を聞いたような気がした。そのときにはもう、射精していたように思う。
    「な、んで……ど、どうしちゃったの――」
     誰だ……女の声――ゆかり?
    「なんで、こんな、血……どうして……」
     呆然とした声が続いて聞こえたように思う。
    「こんな、たくさん……止血……早く、しなくちゃ……だめ、ここじゃ無理、救急車!」
     バタバタと走り去っていったのは、誰だったのか――。


     桝村は、ゆっくりと目を開ける。灰色の天井が、高く目に映る。
     灰色の壁、灰色の床――背中が痛い。背中が冷たい。胸が――焼けるように、熱い。
     充満する、雨の匂い。
    「やっと、ふたりきりだ。みんな――見せてくれるね?」
     自分を見下ろし、阿坂が笑う。右手に持つメスは、赤く汚れている。
    「最初から、ぼくが、よかったんでしょう?」
     窓の外の景色が遠のいていく、からっぽの部屋が、膨張していく――。
     違う……縮小しているのだ。



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素材:neckdoll