Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「石の熱」

 

 

 帰宅する生徒たちが次々と廊下を通り過ぎる。その中にちらりとこちらを窺う目を見つけるたびに、笠間は苛立ちを募らせた。
「おい、聞いてるのか、笠間」
 目の前の担任はいつだって威圧的だ。体格では負けていないのだが、担任を前にすると、笠間はどうしても気持ちのどこかが萎縮する。
「――はい」
「とにかく、お母さんとちゃんと話すんだぞ」
 そう言い残し、担任は教室の戸口を離れた。その後ろ姿に舌打ちして笠間は教室に戻った。
『進路はどうするんだ。このままじゃどこの高校にも入れないぞ。お母さんはなんて言ってる――』
 何度問われても、答えのない質問には答えられない。不毛な繰り返しは苛立ちを募らせるだけだ。そもそも学力の問題以前に、進学そのものが危ぶまれるのが笠間の現状だった。
「笠間くーん」
 ふざけた声で呼んだのは和田だ。鞄を取る笠間のところにやって来た。木村も一緒だ。
「ご機嫌ななめですねえ」
「……うっせえな」
「センセーに何言われた?」
「うっせえんだよ!」
 一瞬、教室内のさざめきがしんとする。まだ残っていた生徒たちの何人かは、そそくさと教室から出て行った。
「まー、そんな、怒るなって」
「な、機嫌直せよ。今日、寄ってくし」
 和田と木村はニヤニヤと笑みを浮かべながら笠間にまとわりつく。笠間はうっとうしそうに顔をしかめた。
「あ」
 木村の声に和田がきょとんと顔を上げた。木村の視線の先を見る。
「――またかよ」
 有田がこちらをじっと見ていた。最近、有田が何かと自分たち三人を見ているのを和田は気にしているのだ。
「あいつ、マジ、ウゼえ」
 吐き捨てるように言った和田に木村も言う。
「なんで、いっつもオレたち見てんのかな」
「シメてやりてえ」
「ボコるのはマズイっしょ。あいつ学級委員だし、あいつのオヤPTA会長だし」
 気づかれたことに臆したのか、有田は視線を机の上に戻した。日誌を書いていたようだ。
 校則通りの身なり、さっぱりと整えられた髪が即ち育ちの良さに見える。いくぶん小柄な体型ながら、いつでも背筋はまっすぐだ。
 有田を見るうちに笠間の苛立ちはますます募った。和田は、有田はいつも自分たち三人を見ていると思っているようだが、実際はそうではないと笠間は気づいていた。
 有田がいつも見ているのは笠間なのだ。
「シメる」
「え?」
 笠間の一言に和田と木村の目が戻る。
「だからシメる」
「どうやって」
「ボコらなくたって、シメられんだろ」
「だからどうやって」
「ウチに連れてく」
「え?」
 怪訝そうな顔を見せるふたりから離れて、笠間は有田に歩み寄っていった。


「うわ、マジ?」
 目をむく木村を無視して、笠間は和田と共に有田を強く押さえつけた。
 これ以上ないと思えるほどに散らかった室内には、かび臭いような、ゴミ臭いような、そんな臭いが立ち込めていた。
 笠間がキレてしまったのは、自宅であるアパートにむりやり連れてきた有田が、玄関に入るや否や、そのことを言ったからだった。
 実際、笠間の自室まで、落ちているゴミや衣類をさらに散らかして有田は引きずられた。乱暴に扱われ、有田がもがいたので、空中に塵が舞い上がっていた。
「いいから、ビデオセットしろって」
 怯む木村に和田が命じた。有田は乱れたままのベッドの端に強引に座らされ、両腕と両腿を押さえられている。
「ビデオなんか、いらねーよ」
「いいじゃん、気分くらい出してやったってさ。つーか、こいつ、見るの初めてってか?」
 けらけらと和田は笠間に答えた。木村は渋々と言われた通りにする。やがてテレビ画面には、裸の男女が絡み合う姿が大写しになった。悩ましげな女の声が流れてくる。
「ほら、しっかりシコれよ」
 和田はもがく有田の制服のズボンをむりやり下ろした。
「なんだこいつ、こんなのはいてんのかよ」
 有田の真っ白なブリーフを指差して和田が爆笑する。木村も曖昧な笑みを浮かべる。有田はあたふたと両手でそれを隠した。
「おい、そうじゃねえだろ、手、どかせ」
 笠間の声が低く凄んだ。有田は今にも泣き出しそうな顔で右に立つ笠間を見上げた。ふたりの目が合った。
「……くっそお!」
 いきなり激昂した笠間に有田はビクッと体を竦ませる。笠間は有田の肌着の中に手を突っ込むと、有田のものをぎゅっと握った。
「や、やめて、やめてよ!」
「うっせえ!」
 笠間の手が性急に動き始める。有田はどんなにもがいても大柄な笠間には抗いきれない上、和田にまできつく押さえつけられた。
「うわあ、有田くん、笠間にイかせてもらえるなんて、よかったねえ」
 和田はおどけたようにそう言うと、笑いが止まらなくなったようだ。有田の腿と左腕をしっかりと掴み、いちに、いちに、と楽しげに声をかけるのだが、笑いに遮られて少しもリズミカルではない。
「オレ、ついていけねー」
 木村は三人から離れると床に散らかるものを足でのけてそこに腰を降ろした。ベッドに寄りかかってマンガを読み始める。
「バッカだなあ、木村、有田がイくとこ、見ねーのかよ?」
「……見たくなんかねーよ」
 木村は誌面から目も上げずに、ぼそりと和田に答えた。そのあいだも、有田はやめてと喚き続けている。
「くっそぉ、ざけんじゃねーっ」
 笠間が吐き捨てるようにそう言ったと思ったら、バシッと大きな音が上がった。
「あ、ダメじゃーん、殴っちゃまずいっしょ」
 笠間に振り向いて和田は言った。有田の頬は見事に赤くなっている。
「ぜんぜんダメなん?」
 和田が問えば、笠間は有田を床に突き飛ばした。床にあったものが派手に散る。
「おまえ、脱げよ」
「え? おれ?」
 驚く和田に笠間はさらに言う。
「口でイってみてえって言ってたじゃん」
「え、マジ?」
「有田の口でイかせてやるよ」
「えー……」
「文句ある?」
「だってさー、女じゃないし」
「女みたいな顔してっだろ」
「つっても、女じゃないって」
 ちっと舌打ちすると、笠間は自分のベルトに手をかけた。
「押さえとけ」
 何が始まるのかようやく理解したのか、床に転がる有田は驚いた目を上げた。和田は暴れる有田を再びベッドに座らせる。笠間はその正面に立つと、肌着ごとズボンを下ろした。
「エグぅ……」
 木村の声が小さく聞こえたが、笠間は構わず有田の顎を掴んで口を開かせた。ためらいなく、自分のものを押し込む。
「すっげえ! よくできんな」
 ベッドに上がって有田を背後から両腕ごと押さえる和田が目を丸くした。
「うっせえな、おまえはビデオでも見てろ」
「はいはい」
 その後の時間はどんなものだっただろう。深夜になってから思い返し、笠間は混乱した。
 散らかりきった自分の部屋に、有田の苦しげな声が響いていた。ビデオの女の喘ぎ声よりも、有田の声が耳に残っている。
 いや、声というよりもうめきだった。喉奥まで異物を入れられ、息をするのも苦しくてたまらない、そんな声だったはずだ。
『う、う、う』
 耳の奥に残って離れない。涙を滲ませて自分を見上げた顔も目に焼きついている。
 だけど――。
 嗜虐的な気分に浸り、有田を苛みたかった気持ちが満たされ、やがて、受ける刺激に快感の波が押し寄せてきたあの時――。
 有田は本当に苦しんでいたのだろうか。
 達しそうになった笠間の顔は、有田にも和田にも見えたかもしれないが、有田の顔は笠間にしか見えなかった。その顔が、ある瞬間を境に、うっとりとしたものに変わりはしなかったか。笠間をはっきりと見つめ、笠間の到達を促すようなことを有田はしなかったか。
 ひとりになった部屋で、笠間はそれを思うと吐き気を覚えた。慌ててトイレに駆け込む。汚れきった便器に勢いよく戻した。
「やあねえ、それ以上もう汚さないでよ。ちゃんとお金あげてんのに、何食べたのさ」
 背後から母親の声が届いた。それと同時に酒の臭いが強く鼻をつく。笠間は再び戻した。
 トイレから出ると、母親は笠間の自室の隣でテレビを見ていた。こちらの部屋も当然のように散らかり放題だ。敷きっぱなしの蒲団に座り、壁にもたれて缶ビールを飲んでいる。
 話すことなど何もなかった。顔を合わせるのは数日ぶりだと言うのに。
 いつものことだった。母親とのつながりは、玄関の下駄箱の上に時折置いてある数枚の紙幣だけだった。
 今ではもう、その金を母親がどうやって稼いでいるのかも知らない。笠間にとって唯一問題なのは、中学を無事に卒業できるかだけだった。だからこそ、学校には毎日行っていた。学校に行けば、どうにかなる。行けば、和田も木村もいる。行かなければ何もない。
 二度と「あそこ」には戻りたくない。奇跡は二度と起こらない。一度捨てた子どもを母親が迎えに来るなど、あってないことだったのだ。迎えに来た母親がどんな母親でも、笠間はそれで施設から抜け出せた。
 いずれ酔いつぶれて眠ってしまう母親から目を逸らすと笠間は自室に戻った。また、今日の出来事が思い出されそうで、何も考えずにベッドに転がった。ぎゅっと目を閉じた。


「なあ、なあ、超ビックリってカンジ?」
 翌日、登校した笠間が教室に入るとすぐに、和田が駆け寄ってきた。和田の視線の先、有田はいつものように自分の席に座っている。
「ゼッタイ休むと思ったのにさー。あれじゃ、シメたことになんないって?」
 ふたりのやり取りを遠くから見ていた木村は、笠間と目が合うと、バツが悪そうに目を逸らせた。笠間は舌打ちする。
「オドロキ。有田、どうなってんの」
「知らねーよ」
 言い捨てて、笠間は自分の席に着いた。同時に予鈴が鳴る。
 その後、いつもと変わらない時間が過ぎていった。給食はいつも通り、和田と木村と三人で、つまらないことを話しながら食べた。笠間にとっては一日で唯一のまともな食事だ。
 異変は五時間目の数学の時間に起きた。
「じゃ、次。問四は笠間、問五は有田、問六は須賀。前に出て、黒板に式と答えを書け」
 当てられても、できないものはできない。わかってはいるが、仕方なく笠間は黒板の前に立った。式を書く。ここまでは笠間にだってできる。そこで席に戻ろうとしたら、隣に立つ有田が小突いた。ムッとして見下ろすと、じっと笠間を見上げて開いたノートをそっと見せた。途端に笠間の中で何かが暴発した。
「なにするんだ、笠間!」
 教師の声が耳に届く前に笠間は有田を殴っていた。教壇に転げた有田の胸倉を掴んで、なおも殴ろうとした。
「やめろ、笠間!」
 教室内は騒然となる。その中から、ひときわ大きく和田の声が届いた。
「ダメだ、学校に来られなくなるぞ、笠間!」
 ビクッと大きく笠間の体が揺れた。すかさず、教師に羽交締めにされた。有田は制服の胸のあたりを掴んで、激しく咳き込んだ。有田の前に須賀が屈み込んで有田を起こした。
 はあはあと荒い息を繰り返し、笠間は有田を睨んでいた。須賀の肩越しに有田と目が合った。深い悲しみを映したような目に、笠間は突如吐き気を覚えた。うっと息を詰まらせ口元を押さえたが、教師は気づかない。その場に崩れて笠間は戻した。


 結局、翌日は自宅謹慎になった。あの騒動の後、職員室でみっちり絞られた上、その日の朝は出勤前の担任が笠間の自宅にやってきた。玄関先から室内の荒れようを見てため息を吐く担任に、笠間はさらにげんなりした。
『近々、お母さんには学校に来てもらうから』
 そう言われても笠間は何も答えなかった。一昨日の夜に見かけたばかりの母親に、この次いつ会うのかは笠間にもわからないことだ。
 ひとり、ベッドに寝転がって何をするでもなく、時間が過ぎていくのを待った。窓の外には秋晴れの空が広がっていた。寝転んでいても、家々の屋根に切り取られた空は見えた。
 早く家を出たい。そのためには、中学を卒業しなくてはならない。なんの根拠もなく、笠間はその想いだけを頼りにしている。その先のことは考えられない。
 一抹の後悔が胸を過ぎる。どうして有田を殴ってしまったのか。よりによって授業中に、教師も生徒も誰もが見ている前で。
 ――あの目だ。あの、縋るような、媚びるような目、何をされても変わらない、目――。
 笠間はベッドの上でのた打ち回った。記憶の底に封じた曖昧な悪夢が蘇りそうで、叫びんでしまいそうだった。
『誘ったのは、きみだよ。そう、その目だ』
『おや、おかしいねえ、嫌がってたのに』
『我慢しなくていいんだよ。声を出したいのなら出してごらん。誰にも聞こえないよ』
 くすくすと忍んだ笑いが耳の奥に木霊する。あの笑い声は誰のものだったのか、それすらも定かではない。ただ、笠間には縋る腕がほかになかっただけだ。誰よりも自分を見て欲しかったから、何をされても我慢した。
 あれが、あんなことが、苦痛以外の何物でもなかったはずの行為が、身を引き裂くほどの行為が、どうして悦びになりえたのか、たとえ一瞬でも本当に悦びだったのか――。
 悪夢から連れ出してくれたのは母親だった。母親が現れた日のことは、今がどんな状況でも、笠間には忘れられない。
 笠間は閉じていた目を開いた。再び、高く澄み切った秋空が目に映った。どうして涙が溢れてくるのか、笠間にはわからなかった。
 眠っていたのだと気づいたのは呼び鈴に起こされた時だった。ぼんやりとした頭で、勝手に入れと大声で言った。
「笠間くん――」
 有田の姿に笠間は跳ね起きた。てっきり、和田か木村だと思っていたのだ。
「何しに来たんだ!」
「だから、その……ぼくが余計なことしたから……笠間くん怒っちゃって……停学……」
「バカじゃん? 何言ってるか、わかってんのか? おまえ、俺に殴られたんだぞ?」
「だけどそれで笠間くん停学になって――だって聞いちゃったんだ、和田くんたちが話してた、笠間くんは停学になっちゃヤバイって」
「うっせえ!」
 手元にあった雑誌を有田に投げつけた。それをよけたものの、有田は出ていかない。
「それに、お母さんのことも――聞いた」
 俯いてぼそりと言った有田を笠間はベッドに引き倒した。間髪を入れず、のしかかる。
「おまえ、勉強できてもバカだな。マジ、バカだよ。口に突っ込まれたくらいじゃ、わかんねえみたいだな」
「か、笠間くん――」
 何がそれほど自分を苛立たせたのか笠間にはわかっていなかった。きちんとプレスされた制服、洗い立てのようなシャツ、有田の髪から香るやわらかな匂い、そのすべてが無性に許せなくて、汚したくて、止まらなかった。
「笠間、くん!」
 制服のボタンが飛んだ。シャツが破けたようだった。ばたつく脚からズボンが落ちた。
「痛い、痛い、痛い!」
 その声がうるさくて、有田の口を口でふさいだ。手も脚も、有田を押さえつけるのに精一杯だった。
 きつく閉じている箇所に自分のものを強引に突き入れて、笠間も痛みに顔を歪めた。どうにか根元まで収まると、包み込むような内壁の熱が意識された。途端に高揚した。
 無我夢中だった。なんのためにこんなことをしているのか、少しもわかっていなかった。我に返った時には、めちゃくちゃな言葉を有田に浴びせていた。
「おまえが誘ったんだ、あんなことされたのに、また俺のとこに来たおまえが悪いんだ、なんだよ、痛いとか言ってたくせに、勃ってんじゃねえか!」
 はっとして有田を見れば、本当に有田は勃起していた。涙を滲ませた目で、うっすらと笠間を見ていた。
 その時にはもう、笠間は有田を押さえつけてはいなかった。有田の両脇に手をつき、上体を少し離して、闇雲に有田を突き動かしているだけだった。
 笠間の背筋を冷たいものが降りていった。萎えそうになる自分を奮い立たせた。いっそう深く、有田を抉った。
「ああ、あ、や……は、あ」
 ビデオの女のような声を出して有田は身を捩る。その声が、過去の記憶に重なる。
『ほら、やっぱり、感じてるんじゃないか』
 正体のわからない男の声が耳の奥に蘇った。また、吐き気が笠間を襲う。
「か、さま、くん」
 有田に呼ばれて、ぞっとした。有田はゆっくりと両腕を上げて笠間の背に回した。しがみついてくる。重なる体がひどく熱い。
「笠間くん、ぼく……あ、ああ!」
 飛び散った迸りの熱に驚いた。もう、どうしようもなかった。恐怖が込み上げてきて、笠間は有田を突き離した。吐き気すら引いた。
 汚れた体を横たえて、息を乱して有田は笠間を見つめていた。目から溢れる涙を拭いもせずに、消え入りそうな声で言った。
「ずっと……笠間くんが好きだった。こんなふうになっちゃったけど……やっぱり好きだ。それに、ぼく、笠間くんとこういうことしたかったし……思ってたのとは違うけど――」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
 飛びかかって、手で口をふさいだ。もう片方の手で、鼻もふさいだ。有田はもがく。笠間の両手首をきつく掴んだ。
「な、何やってんだよ、笠間!」
 その声と同時に両肩を掴まれた。強引に有田から引き剥がされる。振り向けば和田だった。その向こうには木村が唖然とした顔で立っている。
「有田、殺す気か!」
 肩で息を継ぎながら和田が叫んだ。
「有田、おまえにあんなことされて、殴られて、それでもおまえのこと、すっげー、心配してたんだぞ!」
「うっせえ、ひとんちのこと、べらべら有田に話しやがって!」
「おまえのほうが信じらんねーよ、有田はおまえが好きなんだってよ、好きだから気になってしょうがねえんだってよ、だからあんなことされても、殴られても、平気なんだよ!」
「うっせえんだよ!」
 叫んだと同時に和田を蹴っていた。和田はよろけたものの、踏みとどまった。
「おれ、もう、おまえについてけない。今だって、何やってたんだよ、有田を殺そうとする前、何、やってたんだよ!」
「て言うか――笠間、マジホモ?」
 それまで黙っていた木村がぽつりと言った。顔を背けて戸口の向こうに姿を消しながら、有田もホモだし、と言ったのが聞こえた。
「おまえも帰れ、和田!」
「言われなくたって帰る。有田、服着ろ」
 散乱している有田の服を拾って和田は有田に放った。ベッドから下りてごそごそと服を着る有田に背を向けて笠間は上掛けを被った。
 再び襲ってきた吐き気を、ただ、耐えた。


「こんなところにいたんだ」
 昼休みの屋上からは秋空がよく見渡せた。頬を撫でる微風を快く感じられたのは、その声が耳に届くまでだった。
「和田くんと木村くんと、もう、簡単には元に戻れそうにないね」
 笠間の隣に立って、有田も空を眺めた。
「なんか……ごめんね。木村くん、笠間くんのこともホモだって思ったみたいだし」
 笠間は有田の言葉など聞き流していた。
「だけど……ぼくは、ずっとそばにいるから。笠間くんをひとりぼっちになんか、しないよ」
 何も答えない笠間に気が引けたのか、有田は一旦言葉を切った。
「それに――笠間くんの、お母さん」
 ビクッと笠間の体が揺れた。
「虐待って言えると思うんだ。先生に話して、ちゃんとした施設に――わあっ!」
 笠間には何が起こったのかわからなかった。ただ、手が痺れていた。眼下の校庭の一箇所にわっと人が集まり、それから遠巻きに散っていくのが笠間の視界の隅に映った。


『屋上の管理とフェンスに問題があったのは否めません。学校として、被害者とご両親に深くお詫びいたします』
『いじめの内容ですか? 具体的にはお話しできません』
『おれは知らねーよ、みんな、笠間のせいだ。有田をシメるって最初に言ったのは笠間だ』
『わからないな。きみの話を聞くと、有田くんはきみに好意を抱いていたわけだよね。だけど、きみが彼にしたことは強姦まがいのことだし、しかも彼を屋上から突き落としたんだよ。目撃者もいる。どうして自分は悪くないと言えるのかな』
『有田くんに事実を確かめたくても昏睡状態だ。もしかしたら、もう二度と目を覚まさないかもしれない』
 白い病室のベッドに有田は横たわっていた。体に繋がるチューブの数々が笠間の目に映る。
「ほら、自分の目で、自分がしたことを確かめなさい」
 背を押されて歩み寄った。人払いされた病室には、笠間と、笠間の背後に立つ男しかいなかった。
 有田は眠っているように見えた。口を覆う吸入器から細い音が聞こえる。
 笠間は、恐る恐る腕を上げた。そっと、有田の頬に触れた。温かかった。
 どうして涙がこぼれてくるのか、わからなかった。
 後ろに立つ男に背を見せたまま、ぼそりと呟くしかできなかった。
「俺は悪くない――俺は、恐かったんだ」



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素材:StudioBlueMoon