Words & Emotion Written by 奥杜レイ
「夜の匂い」
受付に所用があると言って離れた秘書の枕崎を待って、芳賀順二[はエレベーターに向かう足を止めた。
本社ビルは改装工事が終わりに近づき、特にエントランス付近は慌しい雰囲気に包まれている。施工に携わるのは、自社の社員たちだ。
だが、およそ芳賀とは面識のない営業所勤務の者たちばかりである。当然のように、芳賀を目にしたところで、彼がグループ企業全体を統率するトップであるとは気づきそうになかった。
もっとも、芳賀はそのような現実に慣れている。彼らのような組織の末端にすぎない者にとっては、自分が雲の上の存在に思えるのを承知している。だから今も一日の疲れを感じつつ、彼らの働く様子を眺めるに留まっていた。
「そこ、アクリル板運んでこい」
威勢のいい男の声が芳賀の耳に届く。どうやら、もっさりとした印象の彼が現場監督らしい。
「ああダメだな、これは使えねえなあ」
しゃがみこみ、数人と頭を寄せ合った。
「今からエクステリアに連絡入れて、補充、間に合いますかねえ?」
ひとりが言えば、フンと鼻を鳴らして答える。
「間に合うも何も、間に合わせるしかねえだろ?」
立ち上がると作業着の内ポケットから携帯電話を取り出し、声高に話し始めた。
「そう――コケ、コケだよ。アクリル板で閉じ込めんのに、あんな生きの悪いの使えねえんだよ」
その電話の最中にも、しゃがみこんでいる数人は作業を続けている。
『自然との調和と共存――芳賀産業コーポレーション』
社の掲げる理念が芳賀の頭をかすめた。
芳賀産業コーポレーションの本社ビルは都心の一等地にある。その改装工事は数日内に完了する予定だ。立地の便を生かし、二階と三階を自社ショールームに変えると同時に、一部に飲食店のテナントを迎えて副次的な収益を見込むことになった。
『先代では、およそ考えられない着想ですな』
取締役会にこの案をかけたとき、皮肉めいた口調でそう言われた。言ったのは、芳賀の父でもある先の社長の代からの取締役のひとりだった。
しかし、不況の余波はいまだ払拭しきれず、メイン事業であるマンション建設と分譲においては、業績は横ばいどころか悪化を見せていた。グループ関連企業の中で健全な伸びが認められるのは、賃貸業務とリフォーム事業を独立して営む『芳賀ハウジング』だけだ。芳賀の兄が経営している。
経営の立て直しに、なりふりなど構っていられないところまできていた。それゆえ、これまでのショールームを閉鎖して本社に移転して経費を削減するだけでなく、さらには本社ビルの一部をテナントに貸し出すまでの決断を芳賀は下したのだ。
同族経営の限界か――。
それをささやかれるのは芳賀には不本意だった。だが、父が一代で築いた建設会社ゆえに息子である自分が守らねばならないと思っているからではない。二代目、親の七光と、自分自身が切り捨てられるのが不本意なのだ。それだけならまだしも、年齢もキャリアも芳賀をはるかに上回る取締役たちの中にいて、三十二歳で代表取締役を務める自分が心許ない若輩者と評されるのが嫌だった。
たとえ望んで得た地位でなくても、果たさねばならない重責は現実として芳賀にある。
せめて外見から補うべきなのか。
社長就任当時からの秘書である枕崎は、武装させるかのように芳賀の装いを整える。芳賀より七歳年上でキャリアもあり、社の内外によく通じている彼には、何を任せても間違いなかった。
今も芳賀の身を包むダークスーツは英国調の上質のものだ。父の代から出入りしているテーラーで誂えた。がっしりとした長身によく似合い、見る者に相応の貫禄を感じさせる。
「社長、なにも私をお待ちにならなくても――」
戻ってきた枕崎が慌てたように言った。細い銀縁メガネの奥の目に、当惑の色がよぎる。
「いや、工事の様子を見ていただけだ」
「そうですか――」
つぶやくように返した枕崎の声には、感無量とでも言いたそうな響きがにじんでいた。常に芳賀と行動を共にする彼は芳賀の胸中を察している。芳賀がどれほどの気持ちで竣工を待ち望んでいるか、推し量ったに違いなかった。
工事はおおよそ終わっていた。フロアの半分が吹き抜けになり、正面の壁は三階までガラス張りになった。
見上げる芳賀の目に、春の夕暮れに染まる空が映る。玄関前に広がる庭園がよく見渡せ、萌え始めた緑がまぶしく感じられる。晴れた日中なら自然光がふんだんに注ぎ、いっそう開放的に感じられるだろう。
玄関を入って正面にあるエスカレーターは今回の工事で新しく設けられた。ショールームの受付のある二階へ直接行けるようになっている。その向こう側半分はテナントに貸し出す一部で、既にカフェが入ると決まった。
芳賀のいるこちら側半分が、本来の本社になる。受付があって、奥には来客や社員たちが利用するエレベーターが並んでいる。
今まで芳賀が眺めていた作業は、受付の手前に位置する場所での最後の内装工事だった。
――イメージスペース。
今回の改装を統括した自社の設計プランナーは、そのように説明していた。社の掲げる理念を一目瞭然にアピールできるような「何か」をエントランス付近に設けようと提案してきたのだ。
端的に言うなら遊び心のようなものだ。いわば、なくても差し支えのない設備だ。
しかし芳賀はその案を採り上げ、しかも社の内外を問わず、具体的なアイデアを募るコンペを開いた。もちろん、そこにはビジネス上の戦略意図もあった。
芳賀産業コーポレーション本社ビルのシンボルとなる設備だけに、多数の応募があった。選ばれたのは、環境デザイン会社『オフィス・サイレンス』が出したアイデアだった。
正面玄関を入って、すぐに目につく場所に小さな噴水を設ける。そこから湧き出る水は、床にはめこまれた透明アクリル板の下を通って、外の池に流れ出るようにする。つまり、人工のせせらぎを屋内に設けようというものだった。
それだけなら採用にはならなかったかもしれない。決定打となったのは、そのせせらぎの演出にあった。
硬化アクリル板に閉ざされた中、流れの両脇には間断なく天然石を配する。その天然石にはコケを植える。コケは循環する水によって空気も常に供給され、メンテナンスをほとんど必要とせずに生育する。光を補うために水底からライトアップすることも、結果としてビジュアル効果を高める趣向と期待された。
アイデアはそれだけに留まらなかった。さすが環境デザインを事業とする会社というべきか、仕上げとして、香りによる演出も提案してきたのだ。それにはサンプルまで添えられてあった。
『わたくしが調合したものです』
コンペ会場で、自信に満ちながらも低く抑えるように説明した声が思い出される。
『パルファム・ド・ノワール――奥深い森をイメージした香りです。本日ご用意したサンプルは練り香水ですが、実際にご利用いただくにはアロマ・オイルが適当かと思います』
耳に涼やかなテノールで、よく通る声だった――『オフィス・サイレンス』の『速水真佐人』。
ベンチャー企業の社長にすぎず、鰻上りの業績を支えるのは彼ひとりと噂されるにも関わらず、やけに堂々とした男だった。コンペとは言え、明らかに格違いの会社に赴いていながら、萎縮する様子は微塵も見られなかった。むしろ、格上の自社を見下すような態度だったと、芳賀は感じている。
それこそが、創業者の余裕というものか。
同年齢の速水に感じたかすかな焦燥は、今も芳賀の胸に残っている。しょせん自分とは比べようもないほどの、形ばかりの社長と思いつつも。
「そろそろ、お戻りになられないと――」
枕崎の声が遠慮がちに耳に届き、芳賀は巡らせる思いから我に返った。枕崎よりも先にエレベーターに向かって歩み出す。
「オフィス・サイレンスの速水さんが、明日来社したいと伝えてきたのですが」
半歩後ろにつき、歩きながら枕崎は言った。
「用件は?」
「はい、施工状況を確認したいと」
「それなら私に断るまでもないだろう」
「お耳に入れておくべきかと思いまして」
小さく、芳賀はため息をついた。
「こだわりが強いのか狭量なのか。それとも、うちに信頼がないのか?」
「先方には毎度のことのようです」
「現場監督に伝えておけ」
「かしこまりました」
数基あるエレベーターの端のひとつに、枕崎は先に立って乗り込む。ドアを押さえて芳賀を待った。ふたりを乗せたエレベーターは、重役室のある十階までノンストップだ。
「今夜の予定は何もなかったな」
操作パネルの前に立つ枕崎の背に向かって芳賀は尋ねた。
「はい」
「今日は、もう帰っていいぞ」
「……社長?」
肩越しに枕崎はそっと振り向いた。細い面には、連日の激務の疲れなど少しも見られない。
「吉田には、帰る際に私が連絡するからいい」
運転手の吉田に内線を入れるなど、枕崎の手を煩わせるまでもなかった。
「ひとりになりたい」
そのように言えば、実直な枕崎を困惑させずに済む。枕崎は誰よりも信頼のおける秘書だ。大切にしたい思いは常から強かった。
「……ありがとうございます」
かしこまって枕崎は会釈する。そう答えながらも、しばらくは秘書室に残って仕事するのだろうと芳賀は思った。
十一階の社長室に入ると、枕崎は芳賀の鞄を置いてすぐに出ていった。芳賀はデスクに着いて、未決案件の決裁を始める。背後の大きな窓の外には宵闇が広がり始めていた。
仕事に区切りのついた手を休め、ふと芳賀は窓の外に目をやった。林立するビルの上空におぼろ月が見える。たなびく雲の片鱗を黄金に染める眺めは、趣が感じられた。
思い出すともなしに速水が浮かんだ。
三十歳を過ぎても尚、若々しさが印象に残る男だ。わずか数人の社員を抱えるだけとは言え、それでも他人の生活を預かる立場にあるのに、そのような気概は微塵も感じさせない。速水の醸す自信と余裕は、あくまでも彼自身に根ざすようであり、彼の社会的地位によるところは何もないように感じられた。
自由奔放なクリエーターとでも呼ぶべきか。速水は、社長と考えるよりも、そのように捉えたほうがイメージに合う。
実は、芳賀は以前から速水を知っていた。速水が業界に名を成す、ずっと前からだ。
それは、二十年近く過去にさかのぼる。あの晩も今夜と同じような月が出ていた。そのことが強く印象に残っている。
喜寿を迎えたものの、今は病床に伏している父が、まだ働き盛りのころだった。懇意にしている人物の招待を受けたとかで、その席に同行するように言われたのだ。
芳賀は小学校卒業間際の十二歳で、父の仕事がらみの席に、なぜ子どもの自分が同行させられるのか訝しく思った。しかしそれ以上に好奇心がかき立てられていた。
『おまえと同い年の男の子もいるから』
事前に聞かされたのはそれだけだった。その少年の相手として自分は呼ばれるのかと思った。
赴いたのは、都心にあって、広い敷地に建つ古い平屋建ての家だった。門をくぐってから玄関に案内されるまでの間に、その家の屋根の上に芳賀はおぼろ月を見たのだった。
古めかしい造りの和室に通され、その家の主と紹介された老人と、芳賀と同じ歳の少年、それに父と自分との四人で会食した。父と老人が交わす会話は難しく、また興味ももてず、供される料理に箸を進めるだけだったのを芳賀は覚えている。同席の少年も、自分と同じようだった。
その後、茶室に通されたのだが、そこでは父も老人も至ってくつろいでいた。作法に則っていたのは始めだけで、やがてどういうわけか酒が運ばれてきて、それからの大人たちの会話はくだけたものになったようだった。
芳賀は退屈していた。少年は、老人の隣に侍るように添い、芳賀には少しも関心を示さなかった。
大人たちの会話にじっと耳を傾けているようで、ときおり、父を見つめたりしていた。老人に話しかけられれば、にっこりと笑みを返すだけだった。
『さしずめ、稚児の風情ですな』
そんな中、吐息混じりに父がつぶやいた声が、なぜかズキリと芳賀の胸に刺さった。
『真佐人は孫ですから』
答えた老人は笑みを浮かべ、芳賀をじっくりと見た。
『稚児とするなら、順二くんが望ましい』
『ご容赦を。私のかわいい次男坊です』
『おやおや。互いに身内自慢に終わりそうですな』
ハハ、と大人たちは笑い、芳賀の胸のうちには説明のつかないしこりが残った。
『真佐人』
呼ばれて、少年は老人の膝の上に乗った。芳賀はギョッとした。祖父の膝に乗る同級生など、芳賀には考えられなかった。
老人の枯れ木のような手が少年の髪をなでた。すると、少年はうっとりとした表情になって老人の胸に頬を寄せた。
その時の衝撃が、今もはっきりと思い出せる。自分と同じ歳の少年が、人前で祖父に甘える素振りを見せたことに受けた衝撃ではない。老人の胸にもたれた少年の表情が、消し去れないほどの強さで記憶に残ったのだ。
芳賀の周りにはいないタイプだった。あの時には形容できなかった少年の顔が、今なら一言で表せる。
美しいとしか言いようがなかった。芳賀の通っていた有名私立小学校には名だたる令嬢が何人もいたのだが、美少女とささやかれたその誰よりも、真佐人という名のその少年の美は勝っていた。
外で遊んだことなど一度もないような白い肌は見るからになめらかで、卵形の見事な輪郭の顔は顎が細く、まるで人形のように整っていた。筆で描いたような眉と、くっきりと刻まれた切れ長の目――まつげも長かった。それに、なによりも、あの唇。ふっくらとした肉感は少年のものとは思えないほどで、ほんのりと紅を差したような色をしていた。そして、さらりとした髪。濡れ羽色とは程遠い、茶色に近い明るい色だった。
それほどの顔立ちの少年が、恍惚とした表情で老人に甘えて見せたのだ。あの時の少年の表情は、恍惚としか言えない。
コンペで初めて『速水真佐人』を見たとき、あの少年『真佐人』の面影を見つけて、どれほど芳賀は驚いたことだろう。枕崎に、それとなく速水について調べさせた。結果、あの時の少年と同一人物とわかった。同時に、現在の速水にまつわる様々な裏話まで知った。
あの日、十二歳の芳賀は帰宅するなり「稚児」という言葉を辞書で調べた。その時は意味が飲み込めずにすっかり忘れていたのだが、現在の速水を知って腑に落ちるものがある。
芳賀の理解を超える男だ。その才能も業績も社会的に認められ、地位も富も得ているのに、たとえるなら男娼のような一面を持つと聞いた――。
どうでもいいことだ。
思い直し、つまらぬ詮索に耽っていた自身に芳賀は呆れる。速水とはビジネス上の取引をしたにすぎない。芳賀は速水からアイデアを買っただけで、売った速水本人がどんな人物であろうと仕事上なんら関係ない。叩けばホコリの出る私生活を送る者など、ビシネス界にはいくらでもいるだろう。普通なら誰しも弱みとなりうる面は隠したがるのに、ただ速水にはそれが見られないだけだ。
愚かだな――枕崎の簡単な調査でわかるくらいに私生活のボロを出すなんて――。
自身には置き換えられない。社長の座にいながら社内の派閥抗争に巻き込まれている芳賀は、常に用心を強いられている。
自由奔放なクリエーターか……。
そんな選択肢が自分にもあったなら。思いかけ、芳賀は首を振る。今の人生は、生まれ落ちた瞬間から決められていたも同然だ。芳賀に「もしも」はありえない。
一代で会社を築き上げ、いくつもの企業を吸収して経営を拡大した父。その息子に生まれた芳賀と、芳賀の兄――。
十歳年上の兄が社会に出る年齢を迎えたとき、父はまだ現役だった。兄は関連会社となる『芳賀ハウジング』を興し、今もその代表取締役に就いている。父が健康を害し、現役を退くと決まったときも、兄は現在のポジションに留まることを選んだ。
選べる者はいい――。
時を同じくして社会に出る年齢を迎えた芳賀が、父の跡を継ぐことになった。それでも、相談役という立場から会社経営に父が関わっていた時期はまだよかった。いよいよ芳賀ひとりに経営が任される段になって、副社長の娘との縁談を整えた父の思惑は、芳賀にはよくわかる。
若さゆえの信望の薄さ。代表取締役を務める基盤の弱さ。今の芳賀を支えるのは、副社長の派閥と、芳賀に心酔する秘書の枕崎だけだ。
今の地位に固執がない分、芳賀には不利が多かった。せめて迷いを見せずに重責をこなすので精一杯だ。
そんな自分とは何者であるのか。
それを考えてはならない。芳賀産業グループは、既に大海に乗り出している船団だ。母船が沈みかけるも進むしかない。進んでいるうちは沈まないかもしれない――。
今の私に、余裕など、どこにもない。
芳賀は深くため息をついた。帰宅するのが憂鬱に感じられる。政略的な結婚と納得の上で嫁いできた妻は、八歳年下で、いまだ若さを謳歌したいのか外出がちだ。なまじ副社長の娘であるため、芳賀は妻を御しきれない。まだ子もなく、家庭は形ばかりで芳賀は憩うことができない。
速水の余裕は、自身のみをよりどころとする強さに思えた。会社を興して発展させる強さは確かに兄にも見られるが、自社の健全な経営に重きを置く兄と速水は違う。速水は、自力で築いたにも関わらず、自社の経営にさえしばられていないように見受けられる。さもなければ、醜聞をものともせずに奔放に振る舞えるわけがない。
きっと、どこまでも自由なのだ。わずか十二歳で、しかも肉親を相手に色を見せた速水と、社会的立場にも頓着せずに、あふれるままに才能も色気も垂れ流し、それを楽しむかのような今の速水と――。
とても真似できたものではない。窮地に追われるかもしれないリスクを自ら招き寄せるとは――まるで、自暴自棄ではないか。
そう思うのに、なぜにこれほどまで速水に興味を覚えるのか。芳賀は、そんな自身に気づいていなかった。
その翌日、仕事を終えた芳賀が枕崎を伴ってエレベーターを降りると、一階に何人かの人影があった。時刻は既に午後十時に近い。
イメージスペースと称されるそこで立ち話をしている。その中に速水を見つけて、芳賀は足を止めた。気づいて速水が振り返る。
「これは、芳賀社長」
その一言に、速水と共にいた何人かは、こちらにハッと顔を向けた。驚いたように芳賀を見つめる。自社の作業着に身を包む彼らは、工事に携わっている者たちだろう。
「御社の施工技術はさすがですね」
速水は気安く話しかけてきた。
「拝見させていただきました。イメージ通り、いえ、イメージ以上の仕上がりに感心いたしました」
「それはよかった」
唐突に始まった会話に芳賀は一瞬返す言葉につまり、そう答えた。
「光栄です。わたしのイメージしたものが御社のシンボルとして長年に渡って残るのですから」
速水はうっすらと笑んだ。花がほころぶような表情の変化は、芳賀の目に魅惑的に映った。
速水に覚えた興味がよみがえる。理解を超える男を知りたいと感じる。
今、完成を遂げた人工のせせらぎは、水底のライトが点灯されて芳賀と速水の足元に光をふりまきながら流れていた。三階まで吹き抜けになったガラスの壁の外は夜だ。玄関前の庭園は闇に包まれ、その向こうに、光またたく都心の夜景が広がっている。
「ちょうど今、お願いしていたところなのです。せっかくですから、一度すべての照明を消して、この流れを見てみたいのですが――」
チラっと、作業着のひとりを速水は見る。視線を受けた男は困ったように言った。
「ここの照明を消す権限は、私にはありません」
「いいでしょう」
芳賀は答えた。
「私も見てみたい」
「社長」
今度は、枕崎が戸惑った声を出した。
「構わないだろう。この時間だ。社内に残っている者は、もうほとんどいないはずだ」
「ですが、社長」
「きみたちも退社したまえ。速水さんに、これを見せていただけだろう?」
作業着の何人かに芳賀は言う。芳賀を社長と認識できなかった気後れもあるのか、彼らは狼狽したような様子を見せた。それをとりなすように、枕崎が改めて彼らに帰るよう指図する。
芳賀は速水を促し、噴水のかたわらに歩み寄った。床より一段高くなった場所にある。
ライトグレーの天然石で作られた膝高の立方体をしている。表面は平たく磨かれていて、床や壁の内装に用いられたパネルと同じ素材だ。
見下ろすと、丸くボウル状にくりぬかれた中心から水が湧き出していて、あふれて正面のくぼみに沿って流れ落ちている。すぐに透明な硬化アクリル板の床下に入り、流れは真っ暗な外に向かってまっすぐに続く。
「水音は、ここでしか聞こえないな」
ちろちろと耳をくすぐる音を意識して、芳賀はつぶやくように言った。
「そうですね。流れはアクリル板に閉ざされていますから」
こともなげな口振りで速水は答えた。
「アロマ・オイルは、この噴水の周りで用いることになっています。石材の無機質な印象をやわらげる効果が期待できます」
今さらのように芳賀に説明した。
「プラグを差し込むだけなのですが、それはまだのようですね」
コンセントのありかを確かめるように視線を巡らせた。
「社長」
戻ってきた枕崎が芳賀を呼ぶ。
「正面玄関を閉める定刻は既に過ぎているので、ここの照明はすぐにも落とせるそうですが――」
どうされるおつもりですか、と続けたいのか、語尾が立ち消えた。
「都合いいじゃないか」
もとから帰宅する予定だったのだ。
「少し速水さんと話したい」
速水の顔も見ずに言った。
「吉田に、車は戻しておくよう言ってくれ。どのみち、この時間ではもう地下駐車場から出るしかないのだろう? 速水さんは私が案内しよう」
「恐れ入ります」
ずっと黙っていた速水がうやうやしく頭を下げる。それを見て、枕崎は眉をひそめた。
「……わかりました。すぐに戻ります」
去っていく枕崎の背を見つめて速水はひとりごとのようにつぶやいた。
「社長の気まぐれには慣れておいでではないようだ」
芳賀に向き直り、口元を微笑にゆがめた。
「あなたは部下の立場も思いやる方のようですね――芳賀社長」
つと視線をそらし、吐息と共に言った。
「つくづく、できた方のようだ」
その言い方が芳賀の癇に障った。思わず言い返す。
「経営者たる者の当然の心得でしょう。従業員と、その家族の生活を預かっているのですから」
ほう、と言わんばかりに速水は目を細めて芳賀を見つめた。
「お父上から学ばれた帝王学ではないようですね」
先代社長とはずいぶん異なる――そう言われたように芳賀は感じた。しかし速水は続ける。
「今の世の中、守りを固めるのは大事でしょう。本社をこのようにされて、あなたは篭城を決めた城主のようにも見えます」
ちらりと上目づかいに芳賀を見た。
「『次』を行かれる方は、どなたも大変だ」
「――失敬な」
咄嗟に返した芳賀の声はかすかに震えていた。
「……これは失礼」
軽く頭を下げ、速水は顔を背ける。
警備会社の制服に身を包んだ男がやってきた。芳賀と速水を一瞥しただけで、正面玄関の施錠を確認して戻っていった。
入れ違いに枕崎が現れる。それぞれの手にスツールを提げていた。
「社長、お使いください」
噴水の手前に並べて置いた。速水はそれとわかるように芳賀に苦笑を見せた。芳賀は苛立ちを隠し、速水にスツールを勧める。
「きみも帰っていい」
腰を下ろしながら枕崎に言った。自分を見る速水の目に冷笑が感じられ、芳賀の苛立ちは募る。
速水に指摘されるまでもなく、芳賀が気まぐれを起こすようなことは確かにまれだった。いつにない自分の行動に枕崎が躊躇しているのがわかる。
「時には、こういうこともある」
枕崎に聞こえる程度の声で言った。枕崎の目が、メガネの奥で警戒に光った。しかし芳賀が共にいるのは身元も明らかな速水だ。それを思ったのか、枕崎はフッと口元をゆるめた。
「もうすぐ、ここの照明は消えます。非常灯はついたままですが、どうぞ、お帰りの際には足元にご注意ください」
それだけを言って離れていった。芳賀が目で追う先で、枕崎は受付にある内線電話を取って何か話したのち、エレベーターに乗り込んで消えた。
この期に及んで、芳賀はふと思った。ここまでして、自分は速水と何を話そうとしているのか。
間をおかず、壁面にあるいくつもの照明と、三階天井の照明が次々と消えていった。芳賀と速水は、ふたりきりで薄闇の中に取り残される。
足元を流れるせせらぎが、くっきりと浮かび上がった。ライトアップする光が強まったように感じられ、流れの作る水の筋までが見て取れた。水分をたっぷりと含んで、自然石は黒々と、コケは青々と、目に瑞々しく映る。
「……期待以上です」
せせらぎに見入り、速水はひっそりと言った。水底から放たれるほのかな光を受けて、速水の横顔も薄闇に浮かんで見えた。
芳賀は速水から目をそらし、流れの先を見つめる。まっすぐに続く光の筋は、最後は外の濃い闇に消えている。
我知れず、ほう、と深いため息が出る。闇と光の織り成す光景は、文句なしに美しかった。
その美には、ビジネス上の画策など何も関与していない。このような設備をなぜ作ったのか、どのような経緯で作ったのか――まったく無関係だ。
芳賀は、ただ心が惹かれた。足元を流れる水は外の池と中の噴水を循環するだけで、天然石とコケとライトで演出されているにすぎない。その仕組みを頭で理解していても、実際に目にする光景は美しいだけだった。
ひどく、悲しい気分になった。
これは、芳賀のものかもしれない。芳賀の経営する会社の本社ビルにある設備だ。しかし、これを生み出したのは隣にいる速水だ。これは、速水の自由な発想の産物なのだ。
そこにある違いとは、何なのか。
速水と自分とは役割が違う――芳賀は、そう考えてみる。そう考えて揺らいだ。速水には、もとから役割などという概念すらないのかもしれない――。
「どうされました?」
尋ねられ、顔を上げる。薄闇に慣れた目で速水を見つめる。改めて思う。美しい男だ。
背筋を凛と伸ばし、姿勢正しい速水は痩身だ。装いは彼に似つかわしく、おそらくディオールかプラダあたりのヨーロピアンブランドのスーツに身を包んでいる。タイトなシルエットの濃紺の三つ釦で、ピンストライプの白地のシャツに太めの芥子色のタイがしゃれている。
今でも二十年ほど前の面影を残す顔。あの日の記憶にあるよりもずっとシャープな印象でも、見た目の肌のなめらかさは変わっていないように思える。
芳賀と同じ三十二歳であるのに。
弓なりに弧を描く眉と、すっと通った鼻筋。涼やかな切れ長の目と、肉感のある唇――。
その唇が、薄い笑みにゆがんだ。
「お父上は、その後いかがされていますか。ぜひともお見舞いに伺いたいところですが、わたしのような者がお訪ねしては、かえってご迷惑になるかと思いまして」
父の話題を振られたのは唐突に感じられた。芳賀は眉をひそめる。
「わたしの祖父とのご縁で、わたし自身も、お父上にはずいぶんお世話になりました。――ご存じありませんでしたか?」
知らなかった。
その気持ちが顔に出てしまったのか。速水は補うように続ける。
「わたしに家族と言えるのは祖父だけでした。その祖父もわたしの大学卒業間際に他界しまして、お父上には、その節に大変ご助力いただいたのです」
「助力……?」
「ええ。まあ、いろいろと。特に、わたしの身の振り方など」
芳賀は、速水を怪訝に見てしまう。
「隠すほどのことでもないでしょう。お話しします、創業の際にお力添えいただきました」
あの父が――。
芳賀は驚かずにいられなかった。己の野心でしか動かない父が他人の世話をするなど、意外もいいところだ。
「お父上は、すぐれた方ですね。今のわたしがあるのも、お父上のおかげと言えます」
嫉妬にも似た気持ちが湧く。父は自分を跡取りと決めたころ、陰では速水の創業を手伝っていたのか。
いや――。
速水の方便かもしれない。様々な手を使って自分に取り入ろうとする者は多くいる。速水は今回の取引を足がかりとして、芳賀産業コーポレーションとのコネクションを築こうと画策しているのかもしれない。父を引き合いに出してまで――。
「お父上とのことがなければ、今回のコンペには応募しなかったと思います」
しかし速水の口から続いて出てきたのは、芳賀の推察を否定する言葉だった。
「当社は今後とも独立路線を維持するつもりでいます。今回の仕事には、少なからず、お父上へのご恩返しの気持ちもありました」
「なんて、失礼な……」
芳賀は唸った。高慢だ。速水は採択を確信してコンペに臨んだと言うのか。しかも、それは恩返しだと言う。格上の自社を見下すような態度が速水に見られたことを思い出す。
「失礼と思われたなら、一応お詫びしましょう。ですが、当社と契約をされたあなただ、当社のことをよくご存知なのでは?」
「……知っている」
「ならば、ご理解いただけますね? 当社が手がけたものに箔がつくのは事実です。当社にはそれだけのネームバリューがある。有名企業のコンペとはいえ、引く手あまたの中、わざわざ応募するほどの利は当社にはなかった」
「何が言いたい」
「認められませんか? 当社との取引で利を得たのは、あなたの会社だ」
抑えきれなかった。咄嗟に速水の胸倉を掴んだ。勢いで、ふたりしてスツールから転げ落ちる。
速水は芳賀に組み敷かれた格好になった。床に強く押さえつけられる速水の下を、光ふりまくせせらぎが流れていた。
状況に気づいて芳賀の血は下がった。速水からおずおずと手を離し、膝をついて立ち上がろうとする。
このように激昂したことなど今までなかった。芳賀は悔しさで一杯になる。速水の態度に、なぜこれほどまで激したのか。だが、芳賀の耳に速水の忍び笑いが低く響いてきた。
仰向けに体を投げ出し、速水は胸に片手を置いてくつくつと笑っている。その様子に芳賀はぞっとした。
「美しいと思いませんか?」
芳賀を見上げ、速水は言った。
「創造物は、完成してしまえば、その裏にあるものなど何も見せない」
芳賀は膝立ちのまま、呆然と速水を見つめる。
「こうして床に寝転ぶと、アクリル板の下を流れる水の音が聞こえます――なかなか気持ちいいですよ?」
そう言って、速水は目を閉じた。
「森の奥にいるような気持ちになる――しんと静かで何もない――ひんやりとしていて、聞こえるのはせせらぎだけ――」
うっとりとした声音は芳賀を惑わすかのようだった。
「ときおり、思うのですよ。好戦的にビジネスを展開していると、ふと、消えてなくなってしまいたくなる」
うっすらと目を開いた。
「ああ……あなたには理解できないでしょうね。守るばかりだ。さながら、この下を流れる水のようです――閉ざされている」
「ふ……ざける、な!」
口をついた言葉に、芳賀自身が驚いた。
「違いますか?」
「きみに何がわかる!」
両手で速水の肩を押さえつけた。痛みでも走ったのか、速水は一瞬顔をゆがめた。しかし、次の瞬間には再び笑みを浮かべた。
「そう思われているなら、どうしてわたしと話したいなどとおっしゃった?」
うっと、芳賀は返す言葉につまった。
「話して何がわかると思われたのです」
答えようがなかった。
「気に入らなければ排除するのも、ひとつの手ですよ……?」
速水が何を言っているのかわからない。それなのに、速水から目をそらせない。
くすり、と速水は笑った。端正なつくりの顔が華やかにほころぶ。
「楽しい方だ。あなたにこんな面があるとは想像もしなかった」
吐息混じりにささやき、芳賀の頭に手を添えた。ぐいと引いて、唇を合わせる。
やわらかな肉の感触に芳賀は驚いた。しっとりと、速水は芳賀の口腔を探る。からみついてくる舌に芳賀はあっさりさらわれ、唐突にきざした情欲に慌てた。
速水を振りほどき、弾かれたように立ち上がる。速水は声を上げて笑った。
これなのか――。
芳賀の脳裏に浮かんだのは速水にまつわる裏話だ。たとえるなら男娼のような一面があるという――地位も富も名誉も備え、円熟を遂げたと言える男たちばかりを相手に、体の関係を結ぶ――。
男色の欲望を満たすにも立場があるだけに相手を選ぶような男たちには、速水は都合のいい存在なのかもしれない。しかし速水がそのような男たちと関係を結ぶ理由は量れない。
男娼にたとえられるのなら、取引なのか?
ならば、速水は芳賀から何を得ようとしているのか。会社間のコネクションなど不要と言った。それなら――。
違う!
芳賀は混乱する。
私は、こんな男など欲しくはない!
胸中で激しく否定しても、きざした情欲は形となって股間にあった。目は、床に体を投げ出している速水に釘付けのままだ。
今は笑いを収め、速水はじっと芳賀を見上げている。薄く開いた唇が濡れている。
床に倒れた勢いで釦がはずれたのか、速水のスーツの上着は乱れてめくれていた。下を流れるせせらぎの光が、シャツを透かして速水の体のラインを浮かび上がらせている。
その艶かしさに芳賀は息を呑んだ。耐え切れず、目をそらす。
せせらぎに動くものを見てギョッとした。驚いた。鯉の稚魚だ。外の池から流れをさかのぼってきたのか。黒々とした石とコケの緑に縁取られた浅瀬を悠々と上っていく。
ゆったりとくねる魚影――光を受け、鈍い銀色に輝く。それが、投げ出された速水の両脚のあいだに消えていった。
ぞくりとした。背筋がざわめき立つ。情欲が固く結実する。鼓動が速まる。
速水にそそられる。床に乱れる髪に、濡れた唇に、自分を見つめる切れ長の目に――。
速水と目が合った。涼やかな眼差しが、なぜかひどく隠微に感じられる。
「――誘わないでくれ」
芳賀は、あえぐようにつぶやいた。
「……誘ってなんか、いませんよ」
ぽつりと速水は答えた。答えて、軽く顎を上げる。目を閉じた。深く、長く、細い息が、肉惑的な唇から吐き出される。胸が大きく上下した。唇の狭間に舌先が覗く。
芳賀は速水にのしかかった。むしゃぶりつくように唇を奪う。速水は拒まなかった。
「……何が欲しい」
唇を離し、芳賀は絞り出すような声で言った。
「何も――」
速水は答える。つまらなそうな顔になって背けた。
芳賀は速水の喉元に顔をうずめた。タイをゆるめ、鎖骨のくぼみに舌をはわせる。
ピクリ、と速水の体に緊張が走った。速水の指先が芳賀の髪に潜る。
芳賀は自嘲した。苦い笑いを噛み殺し、歯列からもれる声で言う。
「稚児だったのか?」
「何の話です?」
背けた顔で速水は答えた。
「覚えてないのか? まだ小学生だったころ、一度、私はきみと会った」
少しの間があいた。
「……覚えていませんね」
「きみのおじいさまと、きみと、私の父と私の四人とで会食した――きみの家に招待されたんだ」
「そんなこと、あったかもしれませんが、覚えていません」
今度は即答だった。
「そのとき父が言ったんだ……きみは、稚児だと」
ゆっくりと速水の顔が戻った。じっと芳賀を見つめる。濡れて光る唇が動いた。
「初めてのとき、お父上は今のあなたのような目で、わたしを見つめられました」
カッと、一息で芳賀は滾った。乱暴に速水の上着をはぐ。もどかしげにシャツの釦をひとつひとつはずした。
その間、速水は喉の奥で笑っていた。釦をはずす芳賀の手に、その振動が伝わっていた。
あらわになった速水の素肌に、芳賀は噛みつくように唇を重ねる。装飾のような胸の粒を口に含んだ。
「信じられないな」
弾んだ声で速水は言う。
「後悔しますよ、芳賀社長」
社長と呼ばれ、ギクリとしなかったわけではない。それでも芳賀はやめなかった。
芳賀の胸を占めるのは、速水を粉々にしてしまいたい欲求だ。だが、その欲求に気づくこともなく、ましてやその欲求の理由を探ることもなく、芳賀はすっかり溺れていた。
「……今、わかりました」
あえぐ声で速水は言う。
「あなたもわたしと同じだ」
違う――。
否定しながらも、芳賀は速水を貪る。強い力で頭を引き寄せられ、速水に唇を重ねられた。
ねっとりとからみつく感触に芳賀は酔う。腿の内側に当たる速水の屹立に興奮した。
呼吸まで貪り尽くすようなくちづけのあと、芳賀は大きく息をついた。速水に頭を抱かれ、その首筋に顔をうずめる。
ほのかな香りが鼻をかすめた。記憶にある香りだ。
「……ノワール?」
ふと、口をついた。
「この香りですか? ――違います。ノワールはグリーンノートにモスを加えた香り。これには、さらにムスクを加えてあります」
さらりと速水は答えた。
「そそられますか?」
笑いを含んだ声が尋ねる。
「ああ」
芳賀は吐息混じりに答えた。
「……あなたもわたしと同じだ。落ちてみたい――そう思われている」
――そうなのだろうか?
ぼんやりと芳賀は思う。速水にしがみついたまま。
「消えて……なくなりたくなる。夜の闇の果てに――」
速水の声は、暗示のように芳賀の耳に響いた。
消えて、なくなってしまいたい――すべてのしがらみから解かれて。
地位も会社も父も兄も妻も、何もかも捨てて、本当の自分に戻れるなら――。
だが、戻るべき自分とは……?
「この香りは、パルファム・ド・ニュイ。わたしの香りです」
低くささやき、速水は芳賀の股間を探る。芳賀の思考はそれで止まってしまった。
きゅっと、スラックスの上から握られただけで強烈な快感が走った。
芳賀は暴走する。速水の下肢もあらわにし、自分のベルトに手をかけた。
滾る欲望を速水に突き立てる。速水が苦痛に悶えてもやめなかった。
やめる必要などなかったのだ。速水は身を裂かれることにすら酔っていたとしか見えなかったのだから。
狭い器官に無理に押し入り、芳賀自身も苦痛にあえいだが、やがてはすべて収まった。
収まった中、芳賀は速水を蹂躙した。自由奔放な美しい男を組み敷く快感は壮絶だった。女を抱く比ではない。
そもそも、芳賀は速水を抱いてなどいなかった。欲望を突き立て、それで速水を貫き、あえがせているだけだった。
実際、速水はあえいでいた。芳賀の男を自身に受け入れ、それを歓んでいた。自ら大きく脚を開き、揺さぶられるままに髪を乱し、濡れた唇は閉じられることもなく、かすれた声を上げ続けていた。
落ちてみたいだって?
芳賀は胸のうちで暗く笑う。
消えて、なくなりたくなるだって――?
いっそ、速水が愛しく思えた。蹂躙する体を芳賀はきつく抱きしめる。
「何を、得た?」
耳元に唇を寄せて、乱れた息でささやいた。
「あ、なたを」
速水の答えに声を上げて笑った。すぐに絶頂を迎え、速水の奥で達した。
「はっ、あ、ああっ」
背を大きくしならせ、速水も達した。その腹に散った情欲に芳賀は手を伸ばす。冷ややかに見つめ、指先をすべらせた。
速水は顎をのけぞらせ、浅い呼吸を繰り返している。白い肌は上気して、汗をにじませている。
「きれいだ」
芳賀はつぶやく。そして、自身のうちに潜む『オス』を改めて知ったと気づいた。
「あ……はぁっ」
ずるりと引き抜けば、速水はいっそう大きくあえいだ。芳賀は言い知れない満足に浸っていた。
了
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