Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「Cut」

 

 シャキン――。
 耳元で、鋏が軽やかな音を立てる。はらりと髪が落ちるのを、鏡の中にぼんやりと見た。
 またずいぶんと、ばっさりやってくれたものだ。貴之の好きにしていいと言ったのは私だけど、まさかここまで切られるとは思わなかった。
 貴之は一言も喋らずに、黙々と私の髪を切る。眼鏡を取ってしまうと視力のおぼつかない私には、鏡に映る貴之の表情は窺えない。
 だけど、わかる。一心に鋏をさばく手の動きが、貴之の気持ちを語っていた。

 きょうだいは一番身近な他人だと言ったのは誰だろう。その言葉を聞いたのはいつだったのか思い出せないが、その言葉を実感したのは貴之が高校生のときだった。
 小学生になるまで、三歳年下の貴之は私にまとわりつき、どこに行くにも一緒に来たがった。
『お姉ちゃんなんだから、たかちゃんには優しくしてあげてね』
 幼い私に母は言う。
 貴之を連れて遊びにいけば、友人はあからさまに嫌な顔をした。思い通りにいかないとすぐに泣く貴之は、私のお荷物だった。
 一緒にお風呂に入ればすみずみまできれいに洗ってやったりもしたのに、自分の友人と遊ぶ楽しさを知るようになると、それまでのことが嘘のように貴之は私から離れていった。
 きょうだいなんて、そんなものなのかもしれない。貴之から開放され、自分のことに没頭できる自由を満喫しながらも、私はどこか捨てられたような気分を味わった。
『百合奈ちゃんは頭が良くていいわねえ。ケーオーでもワセダでも、コクリツだって行けるんじゃない? でも、女の子なのよねえ』
 その頃、正月ごとに親族が集まる祖父の家で、必ず耳にする会話だった。そんなときの母の返事は決まってこうだ。
『そうなのよ、貴之と百合奈が逆だったらいいのにって思っちゃうわ』
 「KO」と聞こえたのは、実は「慶応」のことなのだと知るようになって、あの会話が何を意味していたのかをやっと理解した。
 百合奈は女の子で貴之は男の子だから――。
 それは、こんなことだ。
 税に関する作文で賞を取った年、貴之の描いた絵が県展で入賞した。どっちがエライのか、そんなことにこだわったつもりはない、だけど、どうして貴之ばかりがあんなにも誉められるのかが、よくわかった。
『しっかり者のお姉ちゃんで、頼りになるでしょう』
 近所のおばさんたちは言う。
『貴之にも百合奈みたいなところがもう少しあるといいんだけど』
 母はそう答える。
 貴之はわかっていたのだろうか。中学生になると、もともとがおとなしい性格なのに、さらに無口になった。何も言わない。母と私を見ているだけだ。ただ、ひっそりと。
『百合奈、女の子なんだから、せめて髪くらいは長くしておきなさい』
 ひょろりと痩せて、度の強い眼鏡をかけた高校生の私に母は言った。
 お決まりの親子ゲンカ、貴之は傍観者だ。帰宅が遅くて父のいない母子三人の食卓は、その頃はいつだってそんなものだった。
 貴之はずるい。自分からは何も話さない。その上、何をしても何も言われない。せいぜい小言を挟まれないように、学校での成績を気にしていればいいだけだった。
 大学受験が囁かれるようになって、私は法学部に行きたいと言った。弁護士になりたかったのだ。
『女が理屈を覚えてどうする』
 あの母の夫だ、父の反応は予想通りだった。
 法学部をあきらめろと言われ、悔し涙をこらえる私を貴之は見ていた。険しい顔の両親を見ていた。
『それでなくても貴之がいるのよ。ふたりも大学に行かせるなんて』
 家計を引き合いに出されては、子どもは逃げ道を失う。唇を噛む私の横で、貴之はぼそりと言った。
『おれ、大学には行かない。ヘアアーティストになる』
 傍観者を降りた貴之は頑なだった。貴之の初めての反旗は、私を助けた。両親の矛先は貴之に向き、私の希望は叶えられたのだ。
 高校生になって、貴之はおしゃれになった。母がどんなに嘆こうとも、流行に惑わされることなく、センスのいい装いで自分を引き立てる。強くなった。伸び伸びとしている。
 そう、貴之は自分を知り、恋を知ったのだ。
 忘れもしない、あれは貴之が高校二年の秋だった。家への帰り道、私は貴之を見つけて足を止めた。確か深町とかいう名の友人と、公園のベンチに並んで座っていた。
 夕暮れの公園では、幼い子どもたちが遊んでいた。犬の散歩をする人の姿も見られた。
 そんな中、ふたりは黙って座っていた。くつろいだ様子で、目の前の光景を眺めていた。
 おしゃれな貴之と精悍な風貌の彼、そんなふたりが、ただ静かに座っている――。
 ふたりの仲がいいのは知っていた。だけど、こんなふうに沈黙を共有できるほど仲がいいとは知らなかった。
 私は貴之を見る。なんのフィルターも通さずに、貴之を見る。胸の底に穏やかな暖かさが広がっていった。
 貴之は吐息をひとつ落とすと、彼の肩にそっと頭を寄せた。そんな貴之を彼はやわらかな眼差しで包んだ。ただ、それだけだった。
 きょうだいは一番身近な他人なのだ。私は貴之に何かを期待したりはしない。ありのままの貴之を見ることができる。
 そのとき感じたのは、きっと、貴之はずっと前から私をそんなふうに見ていたのだろうということ。そんなふうに、見てくれていたのだろうということだった。


「終わったよ」
 貴之の声にはっとして、私は眼鏡を掛けた。鏡の中の自分に驚いた。
「カットモデルになってくれたのはうれしいけどさ、母さん、怒るんじゃない?」
「怒るって、あんたがこんなに短くしたんじゃない」
 鏡の中の貴之は少し困ったような顔になる。
「やあね、私は怒ってないわよ」
 鏡に映る私は別人のようだ。背中まであったロングヘアはすっぱり切られ、ベリーショートのシャギーヘアがふんわりと顔を包んでいた。
 とても似合っている。私らしい。
「チーフに手を入れてもらおうか?」
「そんな必要ないわよ」
 鏡の中の私を真剣な顔で見つめながら、貴之は私の髪を手櫛で整える。
「……断っちゃえばいいのに」
 貴之が見合いのことを言ったのはわかった。司法試験を受けるのを両親が許諾する交換条件として、私は見合いをすることになっていた。
「そうね、こんなヘアスタイルになって、かえって相手に気に入られちゃうかもしれないものね」
「姉さん……」
「インターンとは思えない仕上がりよ」
 にっこりと鏡の中の貴之にほほ笑んだ。
「ありがとう、貴之。私らしいヘアスタイルにしてくれて。見合いはね、娘の務めだと思っているからいいの。結婚するのも断るのも、私の気持ち次第なんだから。それよりあんたこそ、無理な結婚なんてするんじゃないわよ」
 大きく目を見開いた貴之が鏡に映っている。
「ゲイを偽って結婚した夫の弁護なんて難しいんだから。それに、離婚される女性がかわいそうでしょ?」
「……いつから知ってたの」
 貴之は小さく呟く。
「あー、さっぱりした。身も心も軽くなったってもんだわ」
 答えずに立ち上がる私を貴之は呆然と見ていた。
 きょうだいは一番身近な他人だ。だけど、他人だからこそ認め合えることもある。
 私たちは大人になった。私は貴之をこれからも見続ける。きっと、貴之も私を見続けるのだろう。
 ありのままに、そして、一緒に育った同士として。




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