Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「花」

 


 理想が服着て歩いてる――。そんなこと、現実にあるわけがないと思っていた。駅へ向かう、いつもの道。やたらと豪華な洋館。俺の理想が広い庭を歩き回って、咲き誇る花々に水をやっている。
 急がないと電車に遅れる。だけど、今はそれどころじゃない。俺は、しばし見とれてしまった。
 俺は面食いだ。とにかく見てくれのいい線の細い男に弱い。深窓の令嬢よろしく、目に映る俺の理想は、めちゃくちゃ綺麗だ。鋏を取り出し、バラの枝を切る指は、まさしく白魚のよう。真っ赤なバラが次々と腕に抱えられ、色白の顔と漆黒の髪をいっそう際立たせる。
「花が好きなんですか?」
 唐突に声をかけられ、はっとした。いつのまにか俺のすぐ目の前に立っている。
「あ、いえ」
 しどろもどろ答える俺に、抱えたバラを柵越しに手渡した。甘く息苦しいほどの芳香が俺を襲う。一瞬触れた手の感触に心臓が跳ねる。
「どうぞ、お持ちください。いくらでも咲いていますから」
 にっこりと笑む顔は、文字通り『花の顔』。思わず、離れていく後ろ姿に呼びかけた。
「名前、なんて言うんですか」
 え? と振り向いた顔に再び叫ぶ。
「あなたの名前。えっと、あの、このお礼したいし」
「お礼なんていいですよ」
 軽く手を振る仕草も優雅で、俺はのぼせてしまった。職場まで持っていくしかないバラですら、煩わしいどころか、この偶然の出会いを讃える花束のように思えた。


 彼の名は橘咲也。「たちばなさくや」なんて、名は体を表すとか言うけど、まんまじゃないか。あの翌日、休日をいいことに菓子折りを携えて訪れた彼の家で、彼のことはいろいろ知ることができた。植物の細密画と言うんだろうか、そんな絵を専門にしているイラストレーターで、かなりのガーデニングおたくだ。彼の口から聞かされることは花の話ばかりで、彼の両親は貿易商を営み今は海外にいるとか、あの広い家にひとりで住んでいるとか、そんなことを聞き出すのは大変だった。
 せっかく知り合いになれたこのチャンスを俺が逃すわけがない。菓子折りなんかよりも、花の種だとか、花鉢だとかを持っていく方が効果的だとわかり、そんな手土産を携えては、休日ごとにせっせと通った。
 そんなものを差し出されたときの彼のうれしそうな顔。その顔が見たくて、通ううちに俺まで花に詳しくなった。次第に親しさを増す俺たちをポーチ脇のエンゼル・トランペットが祝福するかのように花を揺らす。ああ、聞こえるようだぜ、天使の奏でる至福の響きが。
 だけど俺は、美しい姿や顔を眺めているだけじゃ満足できない。百合のように清楚なその顔が笑みでほころぶのも感動ものだけど、俺はもっと違う顔も見たい。そう、俺に征服されてむせぶ顔だ。
 だいたいさ、綺麗なものは眺めているだけじゃなくて、奪って自分だけのものにしてこそ意味があるんじゃないのか? 時には、ひどく痛めつけてみたくもなるし、それでもなお、その美しさを保つようなら、もう、俺は気が狂うほどに満たされてしまう。
 そんな欲望は、俺の全身から漂っていたんだろう。放つ香りに敏感な彼がそれに気づかないはずはなかった。


「だけどさ、すごい庭だよな。ひとりで世話してるなんて信じられないよ」
 何度目かの日曜日の午後、庭をゆっくりと案内され、俺はため息をついた。
 イングリッシュ・ガーデンと言うのだろう、青々とした芝を基調にそこここに花壇が設けられ、飛び石はテラコッタ、その先にはパーゴラもある。パーゴラの手前には蔓バラのア−チ、その周りにも様々なバラが植えられ咲き乱れている。白っぽい大理石のオブジェにはアイビーが絡まり、俺もあのアイビーのように彼に絡んでみたいものだなどと、ついつい思ってしまう。
 邪な妄想を抱えて、彼の後に続いた。
「この庭、そんなに気に入ってくれた? それなら、あそこも見せてあげようかな」
 振り返って、意味ありげに呟く。初めて見た妖艶な微笑に背筋がぞくりとした。
 そこは温室だった。庭から館の裏手に回ったところにあった。
 一歩踏み込むなり、温室特有のむっとした湿度と温度が体にまとわりつく。ガラスで張り巡らされた壁に沿って無数の鉢が置かれ、極彩色の花が咲き乱れている。それぞれが放つ芳香が混然となって、むせ返りそうなほどだった。
 ガラスはよく磨かれていて、秋の陽射しが燦々と降り注いでいた。乱反射する光の洪水。眩いばかりの光の中で、彼はゆっくりと俺に向き直った。
「どう? ここは僕のとっておきの場所なんだ。誰も入れたことなんてない。あなたが初めてだよ――綺麗でしょ?」
 咲き誇る花の楽園、そこに住まう彼。目の前に広がる光景に溶け込むような艶めいた笑顔を思わず両手で包んだ。
「綺麗だよ、とてつもなく。花よりも、きみの方が綺麗だ」
 押さえ切れない情動で唇を奪った。
 それはどのくらいの時間だったんだろう。夢中になって彼の唇を貪り、細い体を折れるほど強く抱きしめた。鼻腔をくすぐるのは花の香りじゃない、彼自身が放つ甘美な香り。その香りに酔い、俺はすべてを忘れていた。
「……ねえ、これは、どういうこと?」
 ようやく解放されて、彼が囁いた。
「いきなりこんなふうにされたの、初めてだよ」
 そこまで言われて、やっと我に返った。
 俺は手に入れたい相手ができたら、相手の性嗜好なんかおかまいなく口説き落とすのが常だ。落ちようが落ちまいが、それはやってみなくちゃわからないこと、そう割り切っていた。だけど、こんなふうに一時の情動に流されたのは初めてだ。まずい――。
 くすり、と彼は笑う。
「始めからそのつもりで僕に近づいたんでしょ」
 図星を指されて、俺らしくもなく慌てた。
「あなたはひまわりみたいだね。――いいよ、僕はひまわりだって好きだ」
 花のような顔が妖しくほほ笑む。細い腕がツタのように俺に絡まる。
「さ、咲也」
「ん?」
 言葉は続かなかった。俺を見上げた顔を覆い、湿っぽい芝の床に細い肢体を横たわらせた。黒髪が乱れ、彼の唇からは密やかな笑い声が漏れた。


 こんなに簡単に思いを遂げられるなんて。天にも昇るような気持ちってのは、こういうのを言うんだろう。
「久しぶりじゃない」
 仕事帰りに行きつけのバーに出向いたのは、ほんの気まぐれだった。俺と同じ嗜好を持つ男ばかりが集まるその店は、なんとなく相手が欲しくなったときにだけ訪れる場所だった。
「久しぶりってことは、いい相手でも見つけた?」
 顔なじみのバーテンダーが話し掛けてくる。
「あ、だけど、ここに来たってことは、もうダメになったってことか」
 けらけらと笑うのを俺は上機嫌で遮った。
「冗談、絶好調だよ」
「へえ?」
「もろ理想。上品なんだ、あの時も、さ」
 咲也との情事を思い出して含み笑いを漏らす俺をバーテンダーは呆れ顔で眺める。
「俺のこと、ひまわりみたいだって言うんだ」
「聞いてらんないね、恋愛ボケか? ひまわりって言えば、骨抜きにされた娘の話じゃないか。何かの神話にあったぜ、太陽に焦がれて、あ、太陽だからアポロン? 見上げて追ってるうちに根が生えてひまわりになる話」
 まんま、あんたのことじゃん、とバーテンダーはグラスを磨きながら笑う。気に入らない。冗談じゃない、俺が咲也を落としたんだぜ? 早々に店を出た。
 この界隈を歩く人はそれほど多くない。地下鉄の駅に向かう途中で目についた人影が咲也だとすぐに気づいた。走りよって声をかけようとした。だけど、連れがいる。しかも、咲也のまとう雰囲気は、俺の知るそれとはあまりにもかけ離れていた。
 咲也も俺に気づく。気後れするふうでもなく、にっこりと笑いかけてくる。手を上げて俺に向かって軽く振る。見慣れた優雅な仕草なのに、いつになく淫靡に映る。しなだれるように隣の男と二言三言話す。ああ、とばかりにその男が頷く。遠目にも、俺を見るその男が訳知り顔を浮かべているのがわかった。
 気に入らない。俺は踵を返した。


「この間のアイツ、咲也の何なんだ?」
 俺は今、咲也の家のリビングにいる。ソファに隣り合って座っていた。いつもなら、とっくにベッドに入っている頃だ。だけど、俺の自尊心がそれを許さなかった。
 リビングには、庭に咲いている花々を生けたのだろう、花瓶がいくつも置かれ、その香りが満ちていた。
「ああ、新宿でばったり会ったときのこと? 彼はね――『月下美人』だよ」
 答えになっていない。俺が顔をしかめていると、咲也はハーブティーのカップをテーブルに置き、俺の首に腕を回してくる。
「あなたは『ひまわり』」
 それで、わかった。
「咲也には、ほかにも花がいるのか?」
「そうだね、僕は花が好きだから」
「ひとつにする気はないのか?」
「魅力的な花はたくさんあるからね」
 さらりと答える。俺は咲也をしげしげと見た。こんな関係を持たれたのは初めてだ。いつもの俺と逆じゃないか。同時期に特定の二、三人と付き合ったことはある。だけど、相手がそんなことをすれば俺は許さなかった。
「嫌なの」
「嫌だね」
「じゃあ、おしまいだね」
 簡単に答える咲也に苛立つ。綺麗な顔をめちゃくちゃにしてやろうか。
「せっかくひまわりを手に入れられたのに残念だよ」
 俺に絡みつく体は甘い芳香を放つ。リビングに満ちる花の香りと咲也の放つ香りにあてられて、俺は眩暈すら覚えた。
「太陽の下で輝くのは、あなただけだ」
 どこで間違えたのだろう。
 清楚な百合、それもカサブランカと見紛うばかりの容姿に反して、本性は毒を振り撒く妖しい花だというのか?
「約束するよ、昼間はあなたにしか会わない。それで、どう?」
 蜜のような囁きが染みこんで来る。体中に染み渡って、俺を痺れさせる。
「忘れずに水をあげて、世話をするよ――」
 したたかな口を塞いだ。荒々しく床に引きずり下ろした。
 陽射しを浴びて、咲也の黒髪が輝く。ラグに広がり、うねる。色白の頬に一房かかった髪が、鮮やかな唇で止まる。その唇が笑みで歪む。引き剥がされてシャツのボタンが飛んだ。
 咲也は艶やかな声を上げた。こみ上げる笑いを押さえもせずに、裸にむかれながら俺にしがみついてくる。自ら足を開き、俺を受け入れても、含んだ笑い声は止まらなかった。
 俺に蹂躙される咲也はそれでも綺麗だった。折れそうで、決して折れない体を貪った。そうさ、咲也は折れるわけなんかなかったんだ。
『綺麗な花をたくさん咲かせたかったら、咲き終わった花はさっさと摘んでしまうんだ。種をつけさせちゃだめなんだよ。実らせる必要なんて、ないんだ』
 いつか咲也が言った言葉が脳裏をかすめた。
「あなたは欲望に忠実なひまわり――楽しいよ」
 酔いしれる夢の間に間に、不埒なセリフを聞いたように思う。
 リビングの大きな窓いっぱいに、秋の陽射しがやわらかく降り注いでいた。




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