Words & Emotion Written by 奥杜レイ
「冷たい頬」
初めて触れたあの時も、あいつの頬はとても冷たかった。
あいつは俺の部屋の隣に住む男と付き合っていた。通路の赤茶けた錆びの浮く手すりに組んだ腕を乗せて、夜風に吹かれながらドアの前で男の帰りを待つあいつを俺はそれまでにも何度も見かけていた。
隣の男が男好きなのは、あいつに気づくずっと前から知っていた。俺の住むアパートはおんぼろで、壁が薄くて隣のテレビの音だって聞こえてくる。
野太い喘ぎ声やら妙に甲高い喘ぎ声やら、ひどいときは週に何度も聞かされた。しかもそれは、深夜に始まって明け方まで続くんだ。隣の下の部屋は、前の住人が引っ越してからかなり長いこと空き室になっている。
隣の男は見るからにヤバめで大家も住人も何も言えない。俺だって、6畳一間とは言え、今どき月3万の家賃に負けて残ってるだけだ。
だから、極力、隣の男には関わらないようにしてきた。隣の男とかその相手とかに運悪く通路で出くわしても、知らんぷりを決めてきた。
けれど、初めてあいつを見たとき、俺は知らんぷりできなかった。耳栓必須の生活にも、いいかげん慣れてきた頃だった。
外階段を駆け上がった俺の目に飛び込んできたあいつ。隣の男に肩を抱かれ、押されるようにドアの中に入っていった。
男の肩越しにチラリとあいつの顔が見えた。男が今までに付き合った中にはいなかったタイプだった。
どう見ても二十三の俺よりも年下で、下手すると高校生なんじゃないかと思える顔だった。男の背に隠されてはっきりとは見えなかったけど、着ていたのはフードつきの――ダッフルだったと思う。紺の。
ヤバいんじゃないか? 騙されて連れ込まれたとか? 脅されたとか?
そんなの俺には関係ない、って思っても、どうしても気になって仕方なくて――。
ただでさえ隣の男はロクなもんじゃないんだ。いざとなったら警察に即通報、なんて思って――その晩、俺は耳栓を外した。
まるっきりの無駄だった。聞こえてくるのはエロい声だけだった。
少し掠れた、恥じらいを含んだ控え目な喘ぎ声。それが断続的に、時には大きくなったりしながら、いつまでも続いて――聞いた俺はげっそりした。
バカだよ俺。お人よし……。明日も朝からバイトだってのに――。
なんてことがあってから、俺はあいつを何度も見かけるようになったんだ。
信じられないことに、あいつと隣の男はマジでデキているらしく、毎週金曜日、必ずあいつはやってきた。ほかの曜日には別の男が来ることもあるなんて、きっと、あいつは知っちゃいなかったんだろうけど。
あいつに部屋の鍵が渡されていないのはすぐにわかった。外階段を上がった最初のドアの前、いつだってあいつは男の帰りを待っていたんだから。隣の男が何で稼いでいるかなんて知らないけど、帰りがまちまちなのは隣に住む俺にはわかっていた。
あいつは、いつも通路の手すりに組んだ腕を乗せて、夜風に吹かれながら遠くを見ていた。フードつきの紺のダッフルを着て、寒そうに背を丸めて。
その姿は確かに俺の目に焼きついてしまったんだけど、初めの頃はたいして気にもしないであいつの後ろを通り過ぎた。半ば呆れながら。
よく続いてんな、あんな男と――。
そんなふうに思うようになった頃だった。耳栓をしていても聞こえるほどの大きな音が隣から聞こえた。
物が壊れたような音だった。驚いて、思わず耳栓を外した俺は、怒鳴り声を聞いた。
激しい口ゲンカ。何を言っているかまでは聞き取れない。けれど、隣の男の怒声と、もっと高い、若い男の声が交互に続いた。
いきなり、バシッと叩く音が派手に聞こえた。と思ったら、次にはバンッと荒々しくドアの開く音が響き、それに鉄骨の外階段を駆け下りていく足音が続いた。
唖然と、隣との壁を見ていた俺の目に時計が映った。午前一時半――その日は金曜日だった。
あいつなのか――?
隣の男と、あんな、激しい口ゲンカできんのかよ。見た目、高校生なのに。
その度胸にも驚いたけど、不意に、もう終電ないぞ、なんて思った自分に俺は驚いた。
けれど、もっと驚いたのは、それから何日も経たないうちにあいつが来たことだ。とうぜん金曜日じゃなかった。
手すりにもたれるあいつの頬は、左側が赤かった。それに気づいて振り向いた俺は、しっかりあいつを見てしまった。
俺の視線に気づいたのか、あいつは初めて俺を見た。腕を手すりに組んだまま、紺のダッフルの肩に顔を半分隠して。眉を寄せ、キツイ眼差しで俺を睨みつけた。
けれど、そんな不機嫌な顔でも、あいつはかわいかった。場違いな感想だ。でも、俺にはそう見えたんだ。
まともにあいつの顔を見たのはそれが初めてで、間違いなく俺よりも年下に思えた。拗ねたように俺を見る目は大きくて、それが一番幼さを感じさせた。それだけに、赤みを残す頬が痛々しかった。
俺が目をそらさないでいたら、あいつが先にプイとそらした。そして、組んだ腕の上に顎を乗せて、夜風に吹かれながら遠くに目を向けた。
その横顔は、俺に向けられた不機嫌さは消えていて、ひどく淋しそうだった。こめかみのあたりで夜風に揺れる茶髪が頼りなかった。
こんなのは、ただの気まぐれだ。帰るとすぐにコーヒーを淹れるのは俺の習慣で、いつもより多めに淹れたのだって、特別な意味があってじゃない。
大きさも柄も違うマグをふたつ持って、あいつのところに行ったのだって――。
何も言わずに差し出した。寒いだろ、とか言ったほうが本当はよかったのかもしれない。
けど、あいつは黙ってマグを受け取った。両手で包んで暖をとるみたいにして。
あいつの吐く息が白かった。赤みを残す頬が俺の目を引いた。
触れてしまったのはどうしてなんだろう?
驚いたのか、単に痛かったのか、その両方なのか、大きな目をさらに大きく見開いて、あいつは俺を見た。
あいつの頬は赤かったのに、とても冷たかった。慌てて引っ込めた指先まで冷えたみたいで、俺も両手でマグを包んだ。
俺から目をそらし、何も言わずにコーヒーを飲むあいつの横で、俺も何も言わずに手すりにもたれてコーヒーを飲んだ。
手すりに肘を乗せたあいつは遠くを見ていた。まるで、灯りのまたたく街並みに何かを探しているようだった。
何かじゃなくて――隣の男の姿を探していたのかもしれない。
その日、結局、あいつは男には会えなかったようだ。隣の男が帰ってきたのは日付が変わってからだったし、そのあと、テレビの音以外は何も聞こえてはこなかったんだから。
――もう、来ることはないだろう。
そう思った。そのほうがいい。あんな男とどうして知り合ってつきあうことになったのかなんてわからないけど、あいつにあの男は似合わない。
そんなことを思う自分が不思議だった。あいつには、もう二度と会うことがないと思えば、淋しいように思える自分が不思議だった。
けれど、あいつはまた来たんだ。なのに、男に玄関払いを食らった。その口論を俺はイライラしながら自分の部屋で聞いていた。
バカだ、どうしてまだ来るんだ。
それは何度か続いた。運良くなのか運悪くなのか、男に会えてもあいつは玄関払いを食らい続けた。
なのに、何度目のときだったか、隣の男はあいつを部屋に入れたんだ。そして、おっぱじめやがった。
俺はそれを聞いた。耳栓もしないで。すすり泣きに聞こえる声に喘ぎ声が混ざっていて――聞いていて辛かった。
喘ぎ声は苦痛からではなく、どう聞いても快感からだったんだ。
なんで……なんで、また。
ヤバめの隣の男に組み伏されるあいつが頭に浮かんで、女みたいに抱かれるあいつが頭に浮かんで――せつなくて苦しくて興奮した。
もっと自分を大切にしろよ。もっと大切にしてくれる男と付き合えよ。なんで、あんな男がいいんだよ。あんな男なんかより――。
そうさ……俺は興奮したんだ。
そして、決定的だった今日。
あいつが来ていたのは知っていた。隣のドアの前にいたのを俺は見ていた。いつもと同じように、錆びの浮いた手すりにもたれる紺のダッフルの後ろ姿を。
見事にバッティングしたのは、隣の男の思惑だったんだろうか。そんなのはわからない。でも、隣の男を待っていたあいつと、別の男を連れ帰った隣の男が、ドアの前で鉢合わせたのは……イヤでもわかった。
通路から聞こえた怒声交じりのやりとり。隣の部屋のドアが開いて閉じて、すぐに始まったいつものアレ。ドアを叩く音は延々と続いた――。
耐えられなかったのは、ドアを叩く音だ。その音が途切れたとき、俺は通路に飛び出していた。
泣きはらした目で俺を見たあいつがたまらなかった。俺はあいつを抱きしめた。紺のダッフルごと、きつく、思いにまかせて。
あいつはなんの抵抗もなく――俺の部屋に入った。
紺のダッフルを着たまま畳に座り、俺の差し出したコーヒーのマグを受け取り――両手で包んだ。
一口飲んで、あいつは深いため息をもらした。マグに落とした目に、濡れたまつげが長かった。
俺は、あいつの頬に手を伸ばした。壊れ物にするように、そっと触れてみた。
あいつの頬は、やっぱりひどく冷たくて――俺は、マグを畳に置くと、両方の手のひらでやわらかく包んだ。
あいつは俺を見上げた。俺を見るあいつの目は潤んでいるだけで、なんの感情も見て取れはしなかった。
ただ、俺を大きな目でじっと見つめた。俺にされるままに頬を両手で包まれ――あいつは一言だけ呟いた。
「あなたのことを深く愛せるかな――?」
それがすべてで、ほかには何もなかった。
了
2004年10月19日 12枚
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