Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「白のイマージュ」

 


 雪はしんしんと降り続いている。
 凍りついた湖面も、湖を取り囲む雑木林も、その向こうにそびえ立つ山々も、すべてが白一色の中にひっそりと佇んでいる。
 空は厚い雲に覆われ、世界は薄ぼんやりとしていた。風もなく、降りしきる雪は、ひらひらと舞い降りては降り積もっていった。
 静寂の中、私は天から降りてくる雪のひとひらひとひらを眺めていた。不規則な動きをじっと見つめていると、雪が降りてくるのではなく、私が吸い込まれていくような錯覚に陥ってくる。
 この感覚……これは、どこかで覚えたものと同じだ。そう、車を走らせていたときに感じたものと同じだった。降りすさぶ雪の中、闇を切って進む車のヘッドライトが照らし出した光景と同じものだった。
 疾走する速さで、雪はフロントガラスにぶつかっていた。ワイパーはせわしなく動き、その単調な音に私は現実感を失っていた。雪が向かってくるのではなく、私たちを乗せた車が闇の中に吸い込まれていくように感じたのだった。
 助手席では、目を泣きはらした一哉がいつのまにか眠っていた。どこでもいい、どこでもいいから、どこか遠くへ連れて行ってくれと私にねだった一哉の顔が、私の頭にこびりついていた。
 どこでもいい、どこか遠くへ――。
 一体、私たちにどこへ行けると言うのか。私たちに辿りつける場所など、あるわけがなかった。
 それでも、雪の降りしきる闇夜を抜けて、私はどこかへ行こうとしていた。


 この湖に着いたときには、既に夜は明けていた。車が止まったことに気づいたのか、一哉はゆっくりと物憂げな目を私に向けた。
『着いたの』
 ただ一言、そう呟いた。行き着くべき場所に辿り着いたかのように。
 もっそりと体を起こすと、倒れこむように私の首に腕を回した。私の胸に顔を埋めて、底知れぬため息を吐いた。
 華奢な体躯のぬくもりと、鼻腔をくすぐるやさしい香り――それは、現実を忘れさせる。私に現実を忘れさせるには、それだけで十分だった。
 私は一哉の顔を上げさせると深くくちづけた。火をともされ、狂おしく絡みついてくる体を抱きすくめた。私たちは暖かさの残る車の中で、今までに何度もそうしたように、体を繋いだ。
『離れたくない。ずっと、いつまでも先生と一緒にいたい』
 さざめく吐息の合間に、一哉は何度も呟いた。声を押し殺し、密やかに何度もそう言った。
 私は何も言わなかった。
 何も答えられない私を一哉は恨んだだろうか。返す言葉をひとつも持たない私を憎んだだろうか。言葉をあげられない私は、一哉を抱くことで愛情を迸らせるしかなかった。


 雪は降り続いていた。ふたりで肩を寄せ合って、車窓の外に広がる世界を見つめていた。手を繋ぎ、指のひとつひとつを絡ませていた。
 一哉は私の手をぎゅっと握り締める。私がいることを確かめるように、ぎゅっと握り締める。握り返せない私を見ることはなく、目はフロントガラスの外に釘付けていた。
 こんなにも近くにいる一哉――体を交えるまでもなく、彼は私のもので私は彼のものであるはずだ。しかし、それはもう、叶わないことになった。叶わないことになるのを私は既に受け入れていた。
 ふと、私の手が解かれた。一哉はドアを開ける。流れ込んできた冷気に一瞬びくりと体を強ばらせ、それでも外へと足を踏み出した。バタンとドアが閉じられる。湖へと向かって歩み出す一哉の後ろ姿が、降りしきる雪の中に霞んだ。
『一哉』
 追う私を振り向きもせずに、一哉はまっすぐに湖に向かって行った。凍てついた湖面にも雪は降り積もっている。その上に足を進めていった。
『一哉!』
 駆け寄って、その腕を掴んだ。ためらいがちに一哉は私に顔を向ける。真っ白な世界にあって、一哉の表情はそれ以上に純白だった。
『先生。僕は先生と離れたくなんかない』
 かすかだが、はっきりと耳に届く声だった。
『いつまでも、先生と一緒にいたい』
 既に、私は言葉を失っている。
『先生が好きだ、先生がいなくちゃ生きていけない』
 声を震わせ、全身を震わせて私に抱きつく一哉を見下ろした。ひっそりと泣く一哉を私はじっと見つめるだけだった。
 私だって好きだ。私だって愛している。だが、許されぬことなのだ。
 一哉、きみには未来がある。果たして、この恋が、きみの思い描くような永遠なのか、私には見定められない。きみは、まだ、初めての恋を知ったにすぎないのだから。
 人は一生のあいだに何度本物の恋をすることができるのだろう。これが最後と思った恋でも、儚く消え失せることがある。それを私は知っている。だから、この恋がきみにとっての永遠だと、私には決めることなどできない。
 四月になれば、私は遠くへ転勤する。きみだって転校させられることになっている。きみがどんなに望んでも、それが、現実なんだ――。
 こんなに愛しいのに。こんなにも愛しているのに。きみが言葉にする望みに頷くことはできない。
 きみには未来があるから。きみには輝いていて欲しいから。私から飛び立たせても、きみは輝くことができるはずだから。遠く離れても、きっと、きみは輝けるはずだから。
 一哉は一度も顔を上げずに、私からそっと体を離した。先ほどの情交が最後の契りだと悟ったのだろうか。悟ってくれたのだろうか。
 しかし、一哉はさらに湖面を歩き続けた。もっと中ほどへと。さらに中央へと。
 一哉を追う私の足元で、ピシリとかすかな音がした。私から離れていく一哉は歩を緩めない。
『一哉、戻れ、危ない!』
 叫ぶ私に振り向いた。にっこりと、一哉はやわらかな笑みを浮かべた。今までに見たどの笑顔よりも清らかな笑顔だった。
『先生。愛してる。ずっと。いつまでも。永遠に』
 一哉はしばし私を見つめると、そろそろと手を差し出した。差し出した手を一度引っ込め、ためらいを振り切るように、再び、ぐっと伸ばした。その手を掴もうと私も腕を伸ばした。指先がかすかに触れた。が、一哉はさらにもう一歩進んだ。離れていく手を慌てて掴んだ。一哉の体がぐらりと揺れた。一哉の足元で薄氷は割れ、私は強い力に引かれた。
 真冬の湖は暗く澄み渡っていた。いくつもの気泡が氷の割れ目へと向かって昇っていく。一哉の髪がゆらめいて、その顔が目に入った。穏やかで悲しい笑顔だった。
 極寒の水に逆らい、力いっぱい一哉を引き寄せた。今度こそ、万感の想いをこめてきつく抱きしめた。私に絡みつく体が、ただ限りなく愛しかった。


 どうして最期のときを一哉が選んでしまうまで、私は疑っていたのだろう。一哉の気持ちが本物とわかっていても、それは永遠になりえないと決めつけてしまったのだろう。
 愛していた。今でも愛している。失っても尚、この気持ちは変わらない。
 一哉の初めての恋、まっすぐに私に突き進んできた想い。それを受け止めたときに、わかっていたのではなかったのか。これは、一哉の本物の恋なのだと。誰にも止められないものなのだと。だからこそ、私は受け止めたのではなかったのか。
 そんな恋ですら、迷いは留まらせてしまう。一哉には未来があるから。私よりもふさわしい相手など、いくらでもいるのだから。こんなにも若い時期に生涯の恋を決めさせていいのか。
 ――『先生がいなくちゃ生きていけない』
 今になって、わかった。一途な想いが言わせたのではなく、それは、一哉の決心だった。
 私はまちがっていた。奪えばよかったのだ。さらってしまえばよかったのだ。心も、体も受け止めていながら、私は一哉のすべてを引き受けてはいなかった。
 どんなに悔やんでも、もう、一哉はいない。そばに置いておけなくとも、どこかで輝いていてくれることを望んだのに。一哉が輝いていてくれるのなら、私のそばでなくともよかったのに。
 それなのに、こんな形で、私は一哉の存在を奪ってしまった。最期のときですら、本心を伝えなかった。何もかも、一哉の存在のすべてが私は欲しかった。
 一哉!
 愛している。ずっと、愛している。今こそ、心から言える。私たちの想いは確かに永遠だった――。
「先生」
 かすかに耳に届いた声に振り向いた。白く煙る視界に一哉を認めて、私は硬直した。
「先生、まだ、ここにいたんだね」
 ゆっくりと私に歩み寄る姿を凝視する。
「……どうして」
「先生が呼んでくれたから、戻って来られたんだ」
 一哉はにっこりと笑みを浮かべた。
 雪はしんしんと降り続いている。一哉と私を隔てて降り続いている。湖岸にうずくまる私の上にも、数歩離れた場所に佇む一哉の上にも降り続いていた。
「行こうよ、先生」
 固唾を飲んで見つめる私に一哉は歩み寄った。
「一緒に行こう。今度こそ、一緒に行こう」
「……一緒に」
「そうだよ、今度こそ、一緒に行こう」
 一哉は私を穏やかな笑みで見下ろし、手を差し伸べた。その手を私はしっかりと握った。
「ずっと、いつまでも一緒にいよう」
 はっきりそう告げると、立ち上がった私に一哉は体を寄せる。
 今、再び、こうして抱きしめることができるとは。やわらかな髪も、細い肩も、そんなものよりも何よりも、愛しいその人自身が、今、再び、私の腕の中にいる。
「先生、愛してる。ずっと愛してる」
「私もだ」
「これからも、ずっと一緒だよ」
「ああ」
 きっぱりと答えた私を一哉は震える眼差しで見つめた。
「うれしい」
 私たちはくちづけた。吐息も凍える大気の中で、私たちは誓いのくちづけを交わした。
 ふわりと私の体が浮く。見上げる私の少し先に一哉の体が浮いていた。しっかりと手を繋ぎ、一哉は私をいざなっていく。
 白い世界が眼下に広がる。凍てついた湖が遠く小さく霞んでいく。雪に覆われたすべてのものはその境界を失った。山々の白い頂きすら、おぼろに消えていった。
 あたり一面は、降りしきる雪だけだ。私たちの周りも、上も、下も、雪しか目に映らない。純白の大気の中に私たちは浮かんでいた。
 ふわりと一哉が私に寄り添う。中空で一哉は私の体に腕を回した。そっと頬を寄せ、私の耳元で囁いた。
「先生、ごめんね。僕はひとりで行くつもりだったのに。最後までそのつもりだったのに、あのとき、手を伸ばしたりして、ごめんね」
 ああ、そうだった――。私は確かに、凍える湖水に身を沈めたのだ。
「先生の気持ちはわかってたから、どうして何も言わないのかわかってたから、行きたいなんて言えば止められるのはわかってた、一緒に行けるわけがないってわかってた、だけど……」
 そんなことは言わなくていい。私は今、幸せだよ。
 私は一哉の唇を塞いだ。抱き合って、くちづけ合いながら、私たちは昇っていく。降り続く雪に閉ざされ、まるで繭の中のようなこの世界は、もう、消えることはない。再び繋いだ手は、もう、二度と離れない。
 一哉。ただ、ふたりでいよう。いつまでも、白い世界に閉ざされていよう。
 私たちの永遠は、ここにある。




ショートストーリーに戻る