Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「その言葉はいらない」

 


 耳障りな電子音が客の来店を告げる。
「いらっしゃいませ」
 声に張りがあるのはマスターとマネージャーくらいなものだ。
 軽快なビートが鳴り響く店内は、決して暗くはない。それどころか、カウンターのあたりは天井に埋め込まれたダウンライトで明るく照らし出されている。そうじゃなきゃ、おれたちの顔が見えない。
 客がカウンターの前まで進んでくると、おれたちはだらだらと立ち上がる。立ち上がるなり、それぞれ客に向き直る。
 ひとりひとりを値踏みする、舐めるような視線――来店と同時にさっさと選ぶ客もいれば、さんざん吟味した挙句に背を向ける客もいる。感情を隠し、素っ気ないほどに、おれたちはただ立っているだけだ。
 入店して数ヶ月がたつのに、この「儀式」にだけは、いまだなじめない。まるで授業が始まるかのように、いっせいに立ち上がるのがイヤなんだ。ガッコウが思い起こされ、かすかな苛立ちを感じる。
 ごく当然のように、カウンターの向こうから身を乗り出して、客はボーイを選び始めた。口ひげが、眼鏡をかけた顔によく似合う、「建築家」とでも言うような肩書きがぴったりな中年だ。がっしりとした体格で、腹も出ていない。やることだけやれば、うるさく話しかけてくることもなさそうだ。相手としては「上客」の部類に見える。
 おれにしてくれないかな――苛立ちを忘れ、あさましい願いが湧き上がる。今夜はまだひとつも指名を取れていない。金のために始めた仕事だ。存分に稼ぐには、それだけの指名を取れなくては意味がない。
 客の視線がおれに止まる。それでも、物欲しげな顔だけはしたくないと不要な自尊心がちくちくした。客は嘲笑するかのように一瞬顔をゆがめる。と、視線をはずし、顎をしゃくって即座にユウタを指名した。
 あー、……。
「セイジ、またユウタに持ってかれたな」
「るせえ」
 おれと同じ「ジャニ系」のユウタには、わずかのところでよく客をさらわれる。カウンターのおれの隣に座ったシンゴはガタイのいい「体育会系」だ。客を奪い合うようなことにならないからか、こいつとだけは時々話す。
 実際、店内でボーイたちが話すことなどない。ここはバーなんだから、従業員たちが無駄口たたいていいわけないし、それ以前に、おれたちは互いに無関心だった。
 「選別」が終われば、それぞれカウンターの空いてる席に勝手に座り、マンガを読んだりして時間をつぶすのが常だ。
 おれは自前のペットボトルの茶を一口飲んだ。ボックス席にいる客からは、チェンジの気配すら感じられない。アスカとリュウイチを相手に盛り上がっている。この時間、店内の客はその一組だけだった。


 こんな仕事を始めるヤツは、みなそれぞれに理由がある。だけど、目的はひとつだ。ここまでたどり着く過程は違っていても、結局は金のためだ。
 高校を卒業して、東京にやってきた。誰も知らないような大学に入って、二年が過ぎた。おやじがリストラされた。
 おれの場合は、それだけだ。家に戻る気はなかった。ごりっぱな夢なんてものは、あるわけなかった。
 東京で過ごした二年間で、自分には何もないことだけを知った。幸福と不幸はその境界をなくし、生と死すらもその境界をなくした。生きているんじゃない。生き長らえているだけだ。それに気づいていても、なんの疑問も湧かない。
 人間なんて、生きていくこと自体がその目的だろう?


 再び、来店を告げる電子音が耳に届く。おれはマンガから目を上げた。ふたり連れだ。マネージャーが応対する。飲みの客かと思ったのに、年上の方が立ち止まり、おれたちに顔を向けた。ボーイたちは慌てて立ち上がる。客は連れの若い方と一言二言交わすと、おれたちにぐるっと視線を巡らし、ヒロユキを指名した。
 若い方の客は、マネージャーの案内でボックス席に向かった。ヒロユキが客と出て行くのを背後に感じながら、おれたちはボックス席の方に向き直る。若い客は、なれない様子でマネージャーと言葉を交し、促されて、なんだかはにかんだような顔を上げた。
 その顔に、はっとした。おれと目が合う。と、ボーイから手渡されたおしぼりを使う手が止まる。……まじかよ。
 マネージャーに言われるまま、おれはボトルを探し出し、アイスを用意し、テーブルについた。――待っていた指名のチャンスがコレとは。
 おれは無言のまま、グラスに焼酎を注ぐとソーダで割った。レモンを絞って客の前に置く。
「――いただきます」
 目も上げずに断って、自分の分も作る。あとはおざなりの乾杯だ。グラスを合わせると同時に、客が口を開いた。
「いつもそんなに無愛想なわけ?」
 答えないおれに薄く笑みを浮かべた。
「まさかこんなところで、また会うことになるなんて思わなかったよ」
 おれはグラスに浮かぶ氷に目を落とす。
「あの征司がね。こんな店で働いているなんて――信じられないな」
 聞きたくない話だ。
「僕に呼ばれて不服? でも、僕は客だからね」
 あたりまえのことを言われて腹が立つ。
「おまえこそ、こんな店に来るなんて、よっぽど飢えてるか、相当羽振りがいいか――気が知れない」
 やっと答えたおれに客は苦笑した。
「来たのは初めてだよ。別に飢えてるわけじゃない。萩原さんが――あ、さっき一緒に来た人だけどさ、僕が一度もこの手の店に来たことがないって言ったら、連れてきてくれるって言って。このボトルだって萩原さんのだ。来たのはただの興味だよ」
「いいのかよ、付き合ってるヤツがほかの男と――」
「萩原さんとは付き合っているわけじゃない。僕はフリーだ」
 ため息が出る。こんな会話はしたくない。客のプライベートなことなんか、どうでもいい。
 客は何口か飲むとタバコを取り出した。絶妙のタイミングで、おれは火をつける。
「似合わないね」
 ゆっくりと煙を吐き出しながら、言った。
「おまえがタバコ吸う方が、よっぽど似合わねえよ」
 あの頃から童顔だった。今だってそうだ。ここにいる二十歳前後のどのボーイよりも若く見える。
 客は微笑んだ。その余裕がカンにさわる。
「征司。相変わらずステキだね。指名、多いんだろ?」
「なんだよ」
「僕が指名したら?」
 おれは顔を上げて、まじまじと客を見つめた。できることなら、それは避けたい。テーブルについて、こうして相手をすることすら苦痛だ。はやくほかの客が来て、おれを呼んでくれないかと思う。それとも、せいぜい無愛想にしてチェンジを待つか。
「この店のシステムは萩原さんに教えてもらったけど――二時間であれだけの料金で、それは全部含まれているわけ?」
 答えたくない質問だ。
「僕の口説き次第なのかな?」
 薄明かりの中で、客はゆったりとタバコを吸う。いつまで待っても答えないおれを一瞥すると、マネージャーを呼んだ。飲みの勘定を済ませ、コース料金を支払う。
「行くよ、征司」
 仕方ない。おれは立ち上がった。仕事だ。


「征司……この仕事始めて、どのくらいになる?」
 おれの奉仕に声を震わせ、そんな質問をした。口はほかのことで使っているから、答えられるわけないのに。
「うまいね――おどろいたよ。イキそうだ」
 おれの髪をぎゅっとつかむ。
「偶然でも、征司にこんなことしてもらえるなんて……夢みたいだ」
 うっとりとした声は、無遠慮におれの中にまで踏み込んでくる。
 普段相手にしているオヤジ連中に比べれば、店のどのボーイもこんな若い客の方がいいに決まってる。イかせるのは容易だし、なんと言っても、体がキレイだ。店に戻ったら、シンゴにからかわれそうだと思った。
 どうだった? 楽だった? おまえもイっちゃった?――。
「う」
 軽い喘ぎで客は達した。おれを導いて、ベッドに仰向けに倒れ込む。
「タチもできるって聞いたけど――してよ」
 予想通りの言葉にうろたえた。
「まじかよ」
「なら、僕がヤっちゃってもいいわけ? あの時は、あんなに怒ったじゃない」
「それ、やめろよな」
「やめないよ。僕は本気だったんだから」
 まっすぐにおれを見る目に苛立つ。
「なんだよ、やっぱり、あの時のハライセか? それで、おれを指名したのかよ?」
 忘れてしまいたい一瞬がよみがえる。
 誰もいない教室で、おれを真剣に見つめた眼差し。幼さを感じさせる顔が、一途な気持ちをおれに語り聞かせた。
 ずっと好きだった、思い出がほしいんだ、一度でいいから抱いて――。
「ハライセじゃないよ……未練だ」
「やめてくれ」
 おれを見上げる目が揺らぐ。汗で額に張りついた前髪の合間から、じっとおれを見つめている。それは、どんな客にも見たことがない表情だった。迷いのない瞳は美しく――それだけに恐ろしかった。
 おれの心は死んだはずだ。生き長らえているのはこの体だけで、心はとっくに殺した。殺したんだ。
 おれを見つめる顔が、ふっと緩んだ。あきらめたような笑みが浮かぶ。
「いいよ、別料金でも。……抱いてよ」
 苦々しい思いでいっぱいになる。顔を背ける。唇を噛む。
「本当なら、あの時、こうしてほしかった。でも、こんな形でも願いがかなうのなら、僕はうれしい」
 やめてくれ! やめてくれよ!
 黙らせるためにくちづけた。声も、息さえも出せないように、深くくちづけた。腕が、熱く狂おしくおれに絡みつく。
 よく知っているはずのその感触は、いつもと違う意味を持っていた。客とキスなんか、したことなかった。


「征司、もう店には行かないから」
 汗にまみれた体をベッドに横たえ、乱れた呼吸がどうにか静まった頃、おれの隣の男はつぶやいた。
「ありがとう――征司」
 おれに向き直った男の頬を、一筋だけ涙が伝う。
 おれはそっと手を伸ばすと、その涙を指の背で拭った。
「――いくら払えばいい?」
 眉を寄せて、困ったような笑みがおれを見つめる。
「……いらないよ」
「でも」
「いらないんだ、直人」
 驚いて直人は目をみはる。
「もう、店に来ないんだろ? いらないよ」
「征司……」
 直人が呆然と見守る中、おれはベッドを抜け出し、シャワーを使った。
『ずっと好きだった、思い出がほしいんだ、一度でいいから抱いて――』
 あの時の直人の声は、今でもはっきりと思い出すことができる。
『ありがとう――征司』
 それなら、それで――いいじゃないか。


 2002年5月24日




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