Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 
 

「夜の鏡」

 
 

 僕は明かりもつけずに煙草をくゆらしていた。
 月の光が射し込んで、室内はほのかに明るい。窓際の白梅が部屋の中にまで香りを漂わせている。こんな穏やかで静かな夜には、きみを思い出す。外気は冬さながらに冷たいのに、心の中はゆるやかな暖かさで満ちてくる。


 あの頃のきみと僕は親しい友人だった。
 生物部に所属していて、指導的立場にいながらも、きみはその性格から部長を勤めることもなく、いつも陰の立役者としておとなしく自分の研究にいそしんでいた。僕はそんなきみをからかうのが好きで、放課後はきみを追って、毎日のように生物室を訪れていた。
 夏の始めの頃は、きみは菌類の観察実験を手がけていたっけ。毎日、シャーレを机に並べて熱心に比較観察をしているきみの横で、僕はとりとめのない話をしては、そのじゃまばかりしていた。
「だからさ、今度、一緒に海にでも行こうよ」
「うん」
「海の生き物にだって、興味があるんだろ」
「うん」
「イソギンチャクとか、ウミウシとかさ」
「獲るならバウンウニがいいんだけど」
「バフンウニ?」
「変態の観察にはもってこいなんだ」
「変態?」
「勘違いするなよ、発育過程で、いろいろ変化するの、授業でも習っただろ?」
 そう言えば、習ったかもしれない。僕はあえて答えない。
「でも、勝手にウニなんか獲って、漁協にバレたらまずいんじゃなかったっけ」
「かもね」
「どうやって獲るんだよ」
 ここまで話して、初めてきみはシャーレから顔を上げる。そばに置いてあったノートを引き寄せて、僕に図を描いて説明を始める。
 『バフンウニの捕獲方法』――用意するものは網、軍手、バケツ。服装はこんな感じ。
 へたくそな絵に、僕は笑いを押さえるのが大変だ。
 そんな僕には気が付かないのか、きみは目を輝かせながら話し続ける。
「海水は腐りやすいからね。持って帰っても、どのくらい観察できるか」
 ため息を漏らす。それこそ、真剣な面持ちで。僕は我慢できなくなって、遠慮なく笑った。そんな僕をきみは不思議そうに見ていたっけ。
「違うんだ、本当は、一緒に泳ぎに行きたいだけなんだ」
 僕が白状すると、きみは暖かな笑みを浮かべた。きみは再びシャーレに向き直る。
「これは、何? なんにも見えないけど」
 きみの気持ちを一人占めしてしまうものが疎ましくなって、僕は手を伸ばし、シャーレの蓋を開けた。
「わ、なにするんだよ。あーあ」
 打って変わって、ひどく悲しそうな顔になる。そんな顔をさせるためにした悪戯ではない。僕は素直に謝った。
「もう。これで比較観察できなくなっちゃったじゃないか」
「なんだったの、これ」
「比較検体だよ。菌を植えつけてない、ただの寒天培養地。蓋を開けたら、空気中の雑菌が入っちゃうじゃない」
 それは申し訳ないことをしてしまった。それでも、きみは僕に諦めた笑顔を見せる。
「仕方ないな。知らなかったんだし」
 感情に伴って、くるくると変わるきみの表情が好きだ。
 僕に背を向けて、ため息をつきながら、おじゃんになった観察実験をどうしようか考え込んでいる。その後ろ姿が愛しくて、僕は背後からきみに寄り添った。耳元でもう一度小さく、ごめん、と呟いたら、顔を伏せたまま、きみは笑ったよ。
 開け放たれた窓の外には、青葉を茂らせた木々が枝を伸ばしていた。きみの周りには、夏の匂いが漂っていた。


「ねえ、知ってる?」
 秋の陽射しが暖かな中庭でも、僕たちは一緒だった。校舎の向うからは、昼の休みを思う存分楽しんでいる生徒達の声が響いていた。
「真夜中にね、真っ暗な部屋で、左手に明かりを持って鏡に向かうと、将来の伴侶が自分の隣に映るんだって」
「へえ?」
「中学校の修学旅行の時に、女の子が教えてくれたんだ」
 陽の光をいっぱいに浴びて、ぽかぽかと気持ちがいい。
「でもさ、真っ暗な部屋で鏡を見るなんて、ちょっと恐いじゃない。だから、僕にやってみろってさ、呼びに来たんだ」
 なるほど。きみだったら、そんなことも馬鹿にしないで付き合ってくれそうだもんな。きみの同級生の女の子たちも見る目があったってことか。
「それで、僕に非常灯を持たせてさ」
 うんうん・・・・。暖かな陽射しときみの声の響きで、僕はなんだか眠くなってくる。
「部屋の電気を消して、僕の周りに女の子たちが立って、さあ、鏡をのぞいてみようって時になったら」
 ――なったら?
「誰かが、きゃあ、なんて叫んで、もう大騒ぎ」
 僕は重くなった瞼を閉じかけていたけど、それでもくすくすと笑ってしまう。
「先生がその声を聞きつけて来て、結局、おじゃん。女の子の部屋にいたもんだから、怒られちゃった」
 それは、それは。
「ねえ・・・・聞いてる?」
 聞いてるよ。でも、陽射しが心地良すぎて、きみの声が心地良すぎて、僕は、もう、眠い。
「・・・・寝ちゃったの?」
 うん。寝てしまおう。きみに寄りかかって。
 きみは僕の頭にそっと手を添えると、きみの肩にもたせかけてくれた。きみの息遣いを頬に感じる。日向の匂いが僕たちを包み込んでいる。
 カサッと乾いた音がかすかにして、きみの独り言が聞こえた。
「葉脈標本、作れそうだな」
 僕はまどろみの中で微笑む。そんなきみが好きだ。


 晩秋の林を一緒に歩いたこともある。夕靄が立ち込める中、落ち葉を踏みしめて、僕たちはナナカマドの木の前にいた。赤い小さな実の房を手にとり、きみはにっこりと僕に微笑みかけてくれたっけ。
 初めてきみから誘ってくれた遠出だった。それだけで僕はうれしくて、どこへ行くとも聞かずに付いて来ていた。紅葉が過ぎて、人影はまばらだった。峠の茶店で赤いもうせんに座って団子を食べたり、山頂の日だまりで弁当を広げたり、それはそれだけの遠出だった。
「卒業したらどうするの」
 きみは傾く太陽に目を細めながら、僕に訊いた。
「美大にいくよ」
「難しいんだろ?」
「ダメだったら、浪人する」
「向うで?」
「うん」
 きみは淋しそうなため息をひとつついた。
「きみは?」
「僕はもちろん理学部にいくよ。地元のね」
「そう」
 林の中を北風が吹き抜けていった。きみは遊歩道へと戻りはじめる。僕もきみの後に続いた。僕の目の前で、きみの頭が揺らいだ。
「おっと」
 転びかけたきみの腕を後ろから捕まえた。そのまま引き寄せて、支えた。
「大丈夫だよ」
 僕の胸の中で、きみの頬が赤らんでいた。すっかり葉を落とした落葉樹の林の中でも、僕たちはふたりきりだった。


 真冬の夜は厳かな闇に包まれていた。春には花見で賑わう公園でも、僕たちのほかには誰もいなかった。降り積もった雪の上をそぞろ歩く。僕たちの後ろには、二人分の足跡が続いていた。
 きみの吐く息が白い。僕の吐く息も白い。空には数え切れないほどの星が輝き、満月には早い月が掛っていた。
 おぼろげな街灯の明かりを頼りに、ただ、歩いていた。桜の芽はまだ固く、その樹皮の黒さと枝に積もっている雪の白さのコントラストが鮮やかだった。
「もうすぐ、お別れだね」
 きみは呟く。
「そうだね」
 僕も呟いた。
 桜が芽吹いて、やがてあたり一面が薄紅色に染まる頃には、もう、僕たちはふたりでいることはない。それぞれが選んだ、それぞれの道に進んでいるはずだ。
 僕がきみを留まらせることができなかったように、きみも僕を留まらせることはできなかった。
 僕は歩を止めて、きみの肩を抱き寄せた。きみの体が強張る。僕を見上げる目が、不安に揺れる。
 大丈夫だよ。僕は、これ以上、踏み込んだりはしないから。
 言葉にしなくてもわかることでも、言葉にされない限り認めてはいけないことがある。
「寒くない?」
 僕は、僕の行為に説明を与える。きみは、ふっと緊張を解く。
「寒いのは承知で、ここに来たんだから」
 そうだったね。
「桜がきれいだね」
 僕の言葉にきみは不思議そうな顔を見せる。
「雪が積もった桜の木は好きだよ」
 僕の言葉を解して、きみは肯く。
「春までじっと我慢している姿が好きだ。春が来れば次々と花をほころばせるのに、その日までその力を秘めている姿が好きなんだ」
 春爛漫、桜が見事に咲き誇る姿は雄々しい。花のトンネルの下をきみと一緒に歩くことはなかった。
「そうだね。今は凍えるように佇んでいるのに、樹皮の下には暖かい脈動がある」
 きみの中にも暖かな脈動はある。その熱を隠し持って、僕から去っていくきみの姿も美しいよ。
 抱きしめてしまいたい衝動は押さえていた。僕の熱が冬の寒さを溶かしていく。氷のような大気を溶かしながら、僕たちは歩いていった。
「ほら」
 小山になった公園の頂からは、街中がよく見渡せた。遠くまできらめく街灯も、それぞれに灯っている家々の明かりも、すべてが清浄な大気の中で揺らめいていた。
「きれいだね」
 きみは呟く。それ以上にきれいなきみの横顔を僕はこっそりと盗み見ていた。
 忘れないよ。どんなに遠く離れてしまっても、きみと過ごせた日々は、いつまでも僕の胸のうちに息づくのだから。言葉にしてもらえなかった想いは、わかっていても汲み取るわけにはいかなかったのだから。


 今、早春の月は、やわらかな光を投げかけていた。光の反射に気づいて、僕は壁を見た。そこには鏡が掛けられていて、月が映っていた。鏡に映る月も美しい。もっとじっくりと見たくて向き直った僕の目に、鏡の中の僕の姿が飛び込んできた。左手に持つ煙草の火が明るい。
 ふと、きみの面影が映ったように思えた。
 僕は苦笑する。あれから、何年も経った。僕はまだ、きみとの再会を果たしていない。




ショートストーリーに戻る