Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



「メルティー・キッス」

 

 朝からざわついていたオフィスも午後9時を回る頃には、さすがに静かになった。暗黙の了解のうちに、ヴァレンタインの今日は誰もが早帰りだ。最終退出になってしまった俺は、ひとつだけついていた自分のブースの照明を消す。真っ暗になった中、廊下の明かりを頼りにオフィスを出た。


 急いで退社しなくちゃならない予定なんて、何もなかった。去年の今ごろは総務の女の子とつきあっていたけど、別れてからは誰ともご縁がない。オフィスラブの功名と言うか……功名とは言わないか。別れた彼女の手前、もう、社内の誰かとつきあうなんて思えなくなったし、それどころか、女性社員のみなさまにはすっかり敬遠されまくりみたいだ。べつに、ぜんぜん構わないんだけど。


 なんつーか、疲れ切っちゃっているとでも言うか。恋をするのも面倒、とでも言うか。……そんな気分。
 仕事は年々忙しくなるし。それでなくても人員削減の分だけ残業が増えているんじゃ、もう、しょうがないかと……つまり、あれだ。何につけても、あきらめモードなんだな、俺――。


 けど、いつまでもひとりなのは、やっぱ、淋しいわけで……。
 そのくせ恋をするのも面倒って……俺――誰かに甘えたいのか?


 うだうだ考えながらロッカールームに向かう。片手の中に収まるチョコが、なんとなく、うっとうしい。同じ部署の男性社員みんなに配られた「おそろい」のが、ひとつ。夕方になってやってきた保険のオバチャンにもらったのが、ひとつ。全部でふたつだ。
 ふたつも食えるかな――。
 おや、と思った。ロッカールームの手前、休憩室の照明がついている。なんだよ、俺が最終退出なんだよ、俺に消せって?
「……松下」
 ひょい、と顔を出してビックリした。とっくに帰ったはずの松下がいるのだから。
「清水、やっと終わったか」
 なのに、松下は俺を待っていたようなことを言う。
 吸っていたタバコを灰皿にもみ消す。長椅子から立ち上がろうとして、気づいたように、横に置いてあったチョコを抱え始めた。両手で、だ。
 それを見て、なんだか、ため息が出そうになった。


 松下は秋に本社から異動してきたヤツだ。本社からの異動、てだけでも、かなりの鳴り物入りだったわけで、さらにそれが、いざ本人ご登場となったときには、ほとんどの女性社員の心拍数を一気に上げたって言われてんだから、スゴイ。
 とは言ってもさ。ルックスよくても仕事ができなければオフィス内での認知度が低くなるだけでなく、「なんだアイツ」に続けてさんざん言われるものだけど……ところが、むちゃくちゃ仕事もできます、となれば……なんかもう、勝手にして。とでも言いたくなるじゃん、やっぱ。つか、5ヶ月近く経った今では、すっかり「みんなの頼り」になってんだよ、松下。
 モテて、当然。
 そのあたり、本人も自覚しているようなのが小憎らしくも思えるんだけど、デキるイケメン松下に、つけいる隙なんて、ハッキリ言わなくても、ない。


 ……だからなんで、そんなヤツが、まだ社内に残ってんだよ。とっくに帰ったんじゃなかったのか? つか、カノジョいないって噂は、マジ?
 どう見ても本命チョコばかりなのを集め、両腕で抱えて持つと、松下は立ち上がった。休憩室の入り口にぼんやり立ったままでいた俺の前までやってくる。
 なんだ? なんで、そんな目で俺をじっと見る?
 妙にまじめな顔をして俺を見つめたあと、いきなり、両腕に抱えてあったものをゴミ箱にぶちこんだ。
「ま、松下……」
 ビックリしすぎて俺は声が続かないのに、松下は俺の肩をさりげなく押す。
「何も予定ないんだろ? これから一緒にどうだ?」
「はあっ?」
 な、何を言い出すんだ、この男は!
 誘う相手が違うだろ! じゃなくて、こ、これ、これはマズイだろ!
「待てよ、なんてことすんだよ!」
 それを言うのが精一杯で、俺はゴミ箱を指差す。
「いらないから捨てた」
「す、捨てていいもんじゃないだろ!」
 そうだそうだ! たとえ義理まみれのチョコだろうと、俺は食うんだからな! それが、義理じゃないとなれば、なおさらだろ!
「いらないなら、最初からもらわなければいいじゃないか!」
 思わず言ってやった。なのに、松下は余裕の顔で俺を見下ろす。そう――こいつは、俺を「見下ろす」ことができるのだ、ちくしょう。
「正論だな。けど、そんなこと、できると思うか?」
「……う」
 言い返せないのが悔しい。
「だ、だけど、ここのゴミ箱になんか捨てちゃったら――」
 ゼッタイ、騒ぎになる。明日の朝が恐い。
「しょうがないだろ」
「……は? しょうがない?」
 松下は、ぐっと目の前まで迫ってくる。背中が壁に当たって、知らないうちに俺は体が引けていたと気づいた。
 な、なんだよ……この気迫。
「これから好きなヤツを口説こうってときに、チョコなんか持っていけないだろ?」
 低くささやいて、松下は俺の顎を指先で引き上げた。どうしてか、ゾクッとする。
『低音の魅力よね〜』
 給湯室で話していた女性社員の声が思い浮かんだ。
 ああ、この声か……マジでそうだな……なんて、考えてんじゃないぞ俺!
 現実を見ろ!
 ヤバイ、ヤバイって!
 俺、松下と壁にはさまれている。しかも松下は、いつのまにか壁に手をついていて、これはつまり、逃がさないぞ、という体勢であり……。
「冗談はやめろ、松下! 俺、男だぞ!」
 何を当然のこと口走ってんだよ俺!
 だけど、そうとでも言わないと、これはもう、マジにキ――。
「んん!」
 ……されていた。松下に――キス。それも、ベロチュー。
 もがいても、もがききれない。胸を押し返そうとすれば、余計に迫ってくる。両手首を片手で握られる。蹴っ飛ばしてやろうとしても同じだ。いっそう壁に押さえつけられて、松下は全身を押しつけてきて――。
 ……くっそぅ……コイツ、むちゃくちゃ慣れてんじゃん……すっげ、ウマ……。
 そんなこと思うんじゃないと自分に言い聞かせようとしても、その通りなんだからしょうがない。キスなんてマジ久しぶりで、しかも誰かにされるキスなんて初めてかもしれなくて、それがこんなウマくて、何も感じるなってのは、ちょっと、ムリ……。
 なんか――熱くなる。
 きつく握られている手首がじんじんしてくる、自分の鼓動が胸に響く、顔が火照ってくる。ヤバ……勃ちかけてんじゃん、俺――。
「ふ、ん……ん?」
 ――ってさ。いや、俺は情けなくも男にキスされて勃ちかけてますヨ? けど、松下は――。
 うっかり閉じていた目をパッチリ開けた。松下の顔をまじまじと見る。
 ぼやけて見えてもイケメンだよ松下。そのおまえが俺にキスして、なんで、こんなに――硬くしてんの?
 身長の差で、松下のモノは俺の下腹に当たってんだから、隠しようなんてないわけでさ……もう、ガチガチじゃん。


 だからそれは、つまり、そういうことで……。


 ふっ、と思い出してしまった。さっき、松下の言ったこと――。
『これから好きなヤツを口説こうってときに――』
 ……て。……お、俺?
 それはもしかして「28歳、独身、カノジョなし」の理由は、こういうことって――わけ……?
 カッと熱くなる。頭が沸騰する。それならそうで、俺、こんなことしちゃって、つか、なんでさせてんだよー!
「……清水」
 たっぷり数分かけた長いキスを終えて、やっと松下は俺を放した。甘ったるい声で呼ばれてビクッとした俺をじっと見つめてくる。
 ……さっきとは、ぜんぜん違う顔だ。
 少し乱れた前髪の合間から覗く目が、なんか、たまらない。
 なんで、そんな、蕩けたような目、してんだよ。そのくせ、なんとなくギラついているみたいで……余計にゾクゾクしてくるじゃん――。
 松下は、ほう、っと深い息を落とす。きつく握っていた俺の両手首を放す。
 俺は……今ごろになってガクッと膝にきて、ずるずると背中が壁を滑って……松下に抱きしめられた。
「清水――」
 そんな声で呼ぶなよ、どうしてか胸が詰まるみたいになる――。
「……ありがとう」
 耳元で小さく聞こえた声に驚いた。なんで、このタイミングで「ありがとう」――?
 俺は戸惑う、マジに戸惑う。戸惑って、松下を見つめる。
「もっと、嫌がられると思ってた――」
 てことは、それを覚悟で俺にキスした、て、そう言いたいのか?
「最初から気になっていて、一緒に働いているうちに抑えられなくなって――」
 う、わー! 本当に松下かよコイツ、ちっとも、らしくない……。
「おまえのオープンで明るいとことか、そういうのが本当に好きで――」
 ……オープンすぎて、俺はオフィスラブで失敗したけどな。
「――どういうことか、わかるよな?」
 ……え?
 一転して、超低音で響いてきた声に背筋がゾクッとした。俺を見つめる松下の目は、細く、鋭くなっていって……。
「男同士なんだから」
 グリッと、ソレを俺に押しつけてくる。
 ――声が、出ない。息が……上がる。
 男から見てもカッコいいと認めるしかない松下に、悔しいけど、対抗するのも無駄に思える松下に、こんなふうに迫られたら、きっと、誰だって……。
「好きだ――おまえが欲しい」
 極めつけの一言を、甘いささやきで耳に吹き込まれ、もう、どうしようもなくなる、力が抜ける、膝が――折れる。
「ん……」
 再び重なってきた唇に熱く溶かされてしまうのは……どうしてなんだろう。たくましい腕に抱かれているのが心地よく感じられるのは――。



 ……もう、甘えちゃおうかな、俺。
 ほかの誰でもない、松下に、こんなに求められるなら。



 ピクッと俺の指先が動く。俺の意思とは無関係に、腕が上がっていく。



 ウマイんだよ、松下のキス。なんでわかるんだ、俺のツボ――。



 ……ものすごく……気持ちいい。



 「好き」とささやかれたあとだと、ここまで感じちゃうものなのかな……。




 もう、何も考えない。
 俺の手が、松下の胸を這い上がっていっても。




ショートストーリーに戻る