Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「サクラ・メモリアル」

 


 人員削減、不況続き、何年たっても後輩ができない俺は、いまだに課内じゃペーペーだ。こうして花見の場所取りをさせられるのは何度目になるんだろう。入社してからずっとだから……くそ、数えたくもない。
 早朝の肌寒さを早くも自前の酒で紛らわせる。俺と交替してくれるはずの有坂さんが来るまで3時間もある。とは言え、時間通りに来てくれる保証はどこにもない。
 はぁぁ……。おのれの身の悲しさを嘆いて振り仰げば、爽やかな青空を背景に桜の薄紅色が揺れていた。まともに桜を眺められるのなんて、こうしてひとりで場所取りしている今だけなんだろうなあ。花見が始まれば桜どころじゃなくなるのはわかりきっている。俺と同じように青いビニールシートを広げて縄張りを死守しているご同輩諸君よ、お互い辛いわなあ。
「あれ? 須藤?」
 ごろりと寝転び、ちびちびとポン酒を舐めながら雑誌を見ていた俺は、唐突に降ってきた声に顔を上げた。
「あ、やっぱ、須藤じゃん」
「あーっ!」
「わ、すっげ、久しぶり!」
 俺は思わず起き上がったね。互いに互いを指差し、笑みでいっぱいになる。
「なに、ひとりで場所取り? 大変だねー」
「俺のあとに配属されるヤツがいなくてさ、俺、まだ下っ端なんだ」
「どこも同じようなもんだね」
「おまえもか?」
「まあ、そんなもんかな。――な、座ってもいい?」
「いいけど、おまえ、自分とこはいいのか?」
「へーき、へーき!」
 よしよし、ひとりで3時間も時間潰さなくてすむぞ、俺はうれしくなってくる。
「まー、飲めよ。いろいろあるぜ?」
 クーラーバックから缶ビールを取り出し、すかさず手渡した。
「サンキュ」
 サキイカの袋を開け、シートの上に広げる。
「何年ぶりだろう、本当に久しぶりだよね」
「おまえ、よく俺がわかったな」
「あたりまえだよ、僕が須藤を忘れるわけないじゃん」
「そっか」
 笑顔全開の懐かしい顔、だけど俺はギクリとする。……えーっと?
「満開だね、これだけ咲いていると圧巻だな」
 ビールを口に運び、咲き乱れる桜をぐるりと見回すヤツの顔をしげしげと眺めた。
「なに?」
「え! ……いや、べつに」
「なんだよ」
 笑って俺の腕を小突くコイツ……。
 あー、名前なんだっけ! 顔は覚えているんだ、よくつるんでたよな、えーっと、いつだっけ……そうそう、高校のときの――思い出そうとするとズキッと頭が疼き、俺はぎょっとした。
「もしかして、高校卒業して以来かな、僕たち」
「だ、だと思うけど」
「元気してた?」
「ま、まあな……は、ははは」
 やばいやばいやばいぞ! どーしても、名前が出てこない! 思い出そうとすると俺の頭が拒否反応を起こすかのように鈍く痛む。
「そうそう、岡田って覚えてる?」
「あ、ああ」
 覚えてる、覚えてるぞ、岡田なら覚えている。
「あいつ、もう結婚したんだって」
「え? そうなのか?」
「うん。高校の頃はちっともカノジョできなくていつもグチってたのに、案外そんなヤツのほうが結婚するのって早いんだな」
「そんなもんかもな」
「きっと子どもも早いんじゃない? 岡田って、あれでいて家庭的かもしれないし」
「そうだな」
 くいくいとビールを飲みながら、目の前のヤツは次々と懐かしい名前を挙げた。そのたびに俺は記憶を手繰り寄せ、そのひとつひとつの顔を思い出した。すっかり旧友同士の会話は成り立ち、時間はのんびりと過ぎていく――。
 いまさらコイツに名前なんか訊けない。不安が押し寄せてくる。思い出せないコイツの名前、それだけじゃない、これだけ懐かしさを感じる相手なのに、どうして俺はコイツとの思い出を探れないんだろう……また、頭がズキリと疼く。
「だけどさ、こんなところで須藤に会えるなんて思わなかったよ」
 ヤツは3本目のビールを片手ににっこりと言った。
「だな。こんな偶然があるなんて、ホント、不思議だよ」
 不安を振り払うかのようにうんうんと頷き、サキイカをつまんだ。ワンカップをあおり、ふうっと息を吐いた。だけど、コイツの名前を思い出せないのがどうしても気になる。とてもとても大切なことに思えるのに……。
 ――え? 顔を上げると、ヤツは俺をじっと見つめていた。やけに真剣なその眼差しに射すくめられる。
 これ……満開の桜の下で、この眼差し……俺とコイツとふたりきりで、こんな瞳で見つめられたことが以前にもあったような……。
 ふと視線を逸らすと、ヤツは桜を仰ぎ見た。
「きれいだよな。これだけ桜が咲いていると、夢のような気分になる」
 他愛のないセリフを振られて、俺はほっと安堵した。
「確かに。毎年花見の場所取りさせられるのはウンザリなんだけどさ、桜が咲くと花見をしたくなる気持ちってのはわかるよ」
「やっぱ、日本人だから?」
「だな」
 顔を見合わせて、ふふっと笑ってしまった。
「こう、一斉にさ、わーっと咲いて、一週間くらいで散っちゃうじゃん、潔いとか言われるけど、おまえが言うように、どっちかっつーと夢みたいだよな」
 薄紅色に染め上げられた公園、ところどころに垣間見える幹の色が鮮やかだ。芽吹いたばかりの雑草に覆われた地面、瑞々しい春の息吹に満ちている空間――。
「桜が咲くとさ、なんだか、こう、明るい気分になるっつーか、リフレッシュっつーか、またがんばるぞー、みたいに思わねえ?」
 桜を眺めているヤツの横顔に言った。
「そうだな……」
 呟くようにヤツは答える。
「桜は始まりだよね」
「だろ?」
 頷いて、俺は次のワンカップに手を伸ばした。
「だけどさ……」
 酔いが回ってきているのか、ほんのりと染まった顔でヤツは続ける。
「桜の木の下には死体が埋まってるとか、言うじゃない」
「おいおい、なんだよ、坂口安吾か?」
「だったっけ?」
「あー……自信ねえ」
 ヤツはくすりと笑って俺を見た。
「須藤は変わらないね。現国、苦手だったもんな」
「んだよ、そんなことまで覚えてんのかよ」
 きまり悪そうに答える俺をひとしきりくすくすと笑ったのに、ふと表情を変えると、淋しげに顔を伏せた。
「『4月は残酷だ』っていうのもあるんだよ」
「なんだ?」
「T.S.エリオットの詩だ」
 ――4月ほど残酷な月はない
 死の大地よりライラックを萌え出だし
 記憶と欲望をない交ぜにし
 春の雨で瀕死の根をかき立てる――
「うろ覚えだけど、そんな冒頭だ」
「えれー、暗い詩だな」
「そうだね……冬の間、雪に閉ざされて何もかも忘れて暖かく眠っていたのに、それを4月は無理やり起こそうとするって言うんだ――蘇生なんだよ、4月は望みもしない再生を無理強いするんだ」
「へえ……」
 急にそんな話になって俺は返す言葉を見つけられない。大きな不安が襲ってくる。思い出せないコイツの名前、忘れているとても大切な何か――。
 気のない声で答えた俺を、ヤツはじっくりと見つめた。
「思い出すだろう? 春になると、忘れていたことを」
「なに……?」
「桜が咲くと、思い出すことがあるだろう?」
 ズキンと頭が激しく痛んだ。
「冬の懐でなまぬるく固まっていた記憶が蘇ってこない?」
「って、なに、な、なんだよ、急にそんな芝居じみたことを言って……」
 息苦しくなる。急にドキドキしてくる。痛みが走ったのは頭じゃない。忘却のかなたに押しやっていた記憶、封印していた記憶、ずっと目を逸らし続けた記憶――痛いのは、胸だ。
「忘れたなんて言わせないよ。春になれば蘇るんだ、桜が思い出させるんだ」
 明るかったヤツの声は暗く責めるかのように耳に響いてくる。記憶を呼び覚ます、責め立てるヤツの声――。
『どうして? なんで? 須藤、今のは本当の気持ちなんだろう? それなのに、どうして――』
 苦しくなる、鼓動が激しくなる、胸をかきむしりたくなる!
 違う、違うんだ、俺はそんな自分を許せない! 悪かった、悪かったよ、だけど、今のは間違いなんだ、間違いなんだよ!
 耳をつんざく急ブレーキの音、ドンッと鈍く響いた衝撃音、今際の悲鳴――。
「吉村……!」
 まざまざと記憶が蘇ってくる、決して忘れてはならなかったあの日の記憶が俺を呑み込んだ。
「吉村」
 おそるおそる伏せていた顔を上げた。思い出した名前を声にしていた。
「……吉村?」
 そこには誰もいなかった。ただ、空いた缶ビールが3本、俺の目の前にあった。
 午前の陽射しが穏やかに降り注ぐ公園。そこここで花見の場所取りをする人の姿が目に映る。満開の桜が何事もなかったかのように薄紅色の花を揺らしていた。
 どうして忘れていたのか。俺は本当に忘れていたのだろうか――忘れずにはいられなかった、忘れなくてはいられなかった。
 あの日――あの、高校を卒業した春休みの一日。桜を見に行こうと俺を呼び出したのは吉村だった。大学に進学するために家を離れる俺と、しばらく会えなくなるのを淋しがっての逢瀬だった。そう……あれは、吉村にとっては、文字通りの逢瀬だったのだ。
 日がな一日、何をするでもなくのんびりと過ごし、眩く夕陽が沈む頃になって、吉村は俺に言った。満開の桜が揺れる下で、真剣な眼差しを俺に向け、曇りのない気持ちを、言った。
『好きだよ。ずっと好きだったんだ。友達としてじゃない、本当の意味で僕は須藤が好きだ!』
 切羽詰まったように抱きついてきた熱い体、胸に伝わった激しい鼓動、耳元で聞こえた消え入りそうな吐息、吉村の匂い……。
 一気に火照った。俺を見上げる瞳が揺れていて、たまらなかった。薄く開いて濡れている唇、それに誘われ、俺は、俺は――!
 抱きすくめて奪った唇の甘さ、腕の中で震えていた熱い体、一瞬の幸福感は底なしの罪悪感に変わった。突き飛ばされて俺を見つめた戸惑った瞳、なぜと俺を責め立てた必死の叫び、くるりと背を向け走り去る姿は道路へと消え、そして、あの、事故――。
 俺は胸のうちで過ぎた年月を数える。吉村から逃げていた日々を数える。そして、どうして今日、俺の前に姿を現したのかを知る……否定し続けた自分の本当の気持ちを思い出す。
 呆然と桜を見上げた。いつか、はらはらと頬に伝わるものを感じた。それは、落ちてくる桜の花びらではなかった。
 吉村……今こそ、認めよう。あまりにも遅すぎた答えだ。だけど、俺に会いに来たおまえに届くのなら――。
「好きだった。俺は、あのとき、確かにおまえが好きだった」
 そよと風が頬を撫でる。頬に伝わるものが拭われたようで、俺はそれを感じた。
 ――いいんだ、思い出してくれただけで、十分だよ。
 涙が溢れ出る。両手で顔を覆った。堪えても、嗚咽は止まることを知らない。自分可愛さに、まだそんなふうに感じる俺がいる。自分を赦そうとする、惨めな俺がいる。
 かすかに甘い声が耳に届いた。やさしく俺をいたわる吉村の声が――。
「いいんだよ、本当に。だけど覚えていて、あの日、あのとき、僕はありったけの想いを伝えたんだから」
 指の合間からおぼろに見えた姿、慌てて手を離す、一陣の風に吹き消されるかのように、それは舞い散る桜のベールの向こうに失われた。
 濡れた頬に花びらが張り付いていた。やわらかな感触はせつなく突き刺さる。あの日、あのとき、俺にもおまえほどの勇気があれば――。




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