Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「それじゃサヨナラなんだよ」


「すごいな、いつもこんなにサービスいいの?」
 汗だくになった体をベッドに投げ打って、おれの下で男は言った。
「いいよ、すっごく。うん、もう、溶けそう」
 おれにとってはどうでもいいことだ。快感に喘ぐ顔を一瞥しただけで、おれは何も答えなかった。

◇◆◇


「なあ、征司」
 昼休みの部室は三年の天下だ。引退しても昼飯は部室でと決めていた。
「本気で好きになると、手を出せなくなるってホントだな」
 何をぬかしてやがんだと顔を上げたら、妙にまじめな顔の英一が目に飛び込んできた。てっきりニヤけて言ってんのかと思ったのに。
「そりゃあ、キスもしたいしセックスもしたいけどさ、なんつーの、そんなことすると絵梨を汚してしまうみたいでさ」
「寝ぼけてんのかよ」
 答えようのないことを言われて、おれはそんなことを言ってやる。手にした紙パックのコーヒーに目を落とし、英一はため息をつく。
「……いや。マジな話」
 部室の窓から降り注ぐ太陽の光には、埃っぽい春の匂いが混ざっていた。ぽかぽかと照らされて、体の奥まであったかい。グラウンドでは一年連中がサッカーでもやってるんだろうか。締め切った窓の向こうから、かすかに歓声が聞こえてくる。
「今日、直人のヤツ、試験なんだろ?」
 急に話題を変えられて、おれは英一に目を戻す。
「アイツ、受かるのかな」
「知るかよ、そんなこと」
 考えたくないことを聞かされて、おれはイライラとコーヒーを口に運んだ。
「いいのか? 征司」
「いいって、何が」
「受かったら、会えなくなるんだろ?」
 言われてドキッとする。確かにそれはその通りだ。都内の大学に進学する直人と、浪人が決まったおれは四月から離れ離れになる。
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
 そんなつもりじゃないのに、おれの声は押し殺したように唸る。
「なんでって――。俺、絵梨に本気になって、わかっちゃったんだ。征司も俺と同じ……」
「うっせえよ!」
 怒鳴りつけられて英一はびくっと体を揺らした。ごめん、と小さく呟く。
「でも、わかっちゃったんだ。それをどうこう言うつもりはないさ、だけど、征司の気持ちを考えると」
 それを言われると、おれだって辛くなる。おれの横で、英一は深いため息を漏らした。
「征司の場合、手を出せないどころじゃないよな……言えないよな」
 床に座り込んでいるおれたちの上に陽射しは惜しげなく降り注いでいた。触れ合う肩先から英一の温もりまでもが伝わってくるかのようだった。
 体の奥はあったかい。
「……どこで、気づいたんだ?」
「ん――県大会の決勝の時かな」


 きらめく太陽。容赦ない陽射し。真夏のコートは灼熱で満ちている。
 渾身の力を込めてボールを叩く。ネットを越え、相手コートの深いところにボールは返っていく。オンライン。
「いいぞ、征司!」
 振り返って満面の笑みを浮かべる直人。エンドラインに立ち、おれは深く頷く。サービスポジションを取り、呼吸を整える。高くトス。太陽がぎらつく。ボールは直人を越え、サービスエリアのコーナーをえぐる。
「やった! サービスエース!」
 ぴょんと飛び跳ね体を返すと、直人はおれに走り寄って抱きついた。汗に濡れた体。湿った髪が鼻先で揺れる。直人の匂い。
 熱い。陽射しのせいじゃない。――苦しい。
 慌てて直人を引きはがし、おれは言う。
「あと1ゲームだ」
「うん!」
 子どもみたいな笑みで力強く直人は答えた。走って左サイドのポジションに向かう姿を目で追った。しなやかな肢体。バネのような肢体。
 直人とダブルスを組むようになったのは一年の終わりからだ。長身を生かしたパワーテニスのおれと、細身ながらもテクニックに長けた直人。異なる個性を持ったふたりは、認め合い、高め合うには絶好のペアだった。
 いつからだろう、直人の笑顔が眩しくなったのは。
 素直な直人。率直な直人。感情むき出しの直人。ポイントが決まるたびに派手にはしゃぐ。負ければ悔しさに涙する。
 それは、おれにはない魅力のすべてだった。
「征司!」
 はっとして飛んできたボールを叩く。クロスに飛んで、ストレートに返る。直人がドライブボレーを繰り出す。必死の形相で相手がかろうじて拾った。浮く――ダッシュして、スマッシュ!
「征司、最高!」
 最高の笑顔だ。だけど、おれは歪んだ笑みしか返せない。眩しいのは太陽じゃない。眩しいのは――直人だ。
「あと、1ポイント!」
 直人の声がコートに明るく響き渡る。おれは頷く。
 センターラインぎりぎりに飛んできたボールを叩く。ストレート。ボレーで返ってきたボールを直人もボレーで返す。拾われた。おれは猛然と逆サイドに走る。トップスピンをかけたクロスへのバックハンドロブ。追いつかれた。直人が下がって、拾う。浅く返され、前にダッシュした直人が拾う。まずい。すかさず、おれは下がった。が、読まれた! おれの目の前にドロップボレー、直人が飛びつく、ボールが浮く、あいた右サイドにスマッシュが飛んでくる! ダッシュ、アンド、ストップ! 苦しいフォームからサイドラインぎりぎりへ、ストレートのパッシングショット――決まった!
「征司!」
 体を翻すなり、直人が飛んできた。
「やった、優勝だ、征司!」
 汗だくの体で直人はおれに抱きつく。日焼けした腕がべったりと首に絡まる。乱れた呼吸が耳に熱い。激しい鼓動がじかに伝わってくる。
 直人――。
 火照った体を力いっぱい抱きしめた。肩に頭を抱え込んで、思う存分抱きしめた――これが、きっと、最後だから。


「あれでわかったってのかよ」
 白状したのも同然のおれは、なんだかスカされた気分だった。英一は眉を寄せて困ったような笑みをおれに向ける。
「あの時にわかったんじゃないぜ。なんとなく気にはなったけどさ、ああ、そういうことだったのかって思ったのは、絵梨と付き合うようになってから」
「どうして」
「直人がああなのはいつものことだけど、おまえって、いつだってクールじゃん。いくら優勝したって言ってもさ――それに、あの時のおまえ、なんだか苦しそうな顔してた」
「そりゃ、暑かったしバテてたからな」
「……違うだろ?」
 ちらっとおれを見るなり、英一は床に目を落とした。
 沈黙に包まれて、おれは胸のうちですっかり白状する。
 眩しい直人。こんな想いをぶつけて、あいつをおれのものにするなんて、おれにはできなかった。
 そうだな、本気になると手を出せないって言うのは本当のことらしい。相手がおれと同じ男だからじゃない、直人だからだ。


 卒業式はよく晴れていた。最後の未練で直人とふたりで教室に戻った。
「もう、征司とはここでこうして一緒にいられないんだね」
 ポツリと呟く直人には、いつもの明るさはなかった。
 おれの方がおまえよりも辛いんだとは言えない。このまま離れ離れになっても、いつか再び親友として会えれば、おれはそれで満足だった。
「ねえ、覚えている? 県大会の決勝戦」
「もちろん」
「うれしかったよね、最後の県大会で優勝できて」
「インターハイは初戦負けだったけどな」
 くすっと小さく笑い、直人はおれを見上げた。
「征司、かっこよかった。あの時、本気でそう思った」
 真っ黒な瞳がおれを見つめる。窓からの陽射しを受けて、直人の髪が光っている。
「あの時だけじゃない、僕はずっと征司をかっこいいと思っていた」
 まっすぐな眼差しに、ふっと笑ってしまった。
「なに言ってんだよ、本当にテニスがうまいのは直人の方だろ」
「違うんだ!」
 激しくかぶりを振って、直人は机にぶつかり、ガタッと大きな音がした。思わず、驚いて直人を見つめる。
「……違うんだ」
 消え入りそうな声とは裏腹に、おれを見る目は真剣そのものだった。色を失うほど唇を噛んで、直人はおれを見つめている。細い肩がかすかに震えていた。
「違うんだ、そうじゃないんだ、僕は、僕は、征司が――」
 唐突な言葉に硬直した。耳を疑った。期待しちゃいけないと思うのに、おれは続く言葉を期待してしまう。
 一度伏せた目を上げて、おれをしっかり見据えると、直人は言った。
「ずっと好きだった、ずっと。僕は征司が好きだった」
「直人……」
 あきらめたはずの想いが、せつなく胸に蘇る。
「征司のことを考えると、何も手につかなかった。毎晩、ベッドに入って思い出すのは、決勝戦の時、抱きしめられたことだけなんだ、あんなふうにもう一度抱きしめられたいって、ずっと思っていた」
「直人」
「征司!」
 飛びついておれの胸に縋りつき、直人は震える声で言った。
「お願いだ、一度だけでいいんだ……僕を抱いて」
 体中を衝撃が走った。まさか、まさか――そんなことを言われるなんて。
「お願いだ、気持ち悪いなんて思わないで、抱いて――っ!」
 かっと頭に血が上ってくる。喉がからからになって、声すらも出せない。
 答えるどころか、身じろぎひとつできずにいるおれを、直人はおそるおそる見上げた。その目が濡れていることに驚いて、なおもおれは動けない。
「ごめん……ごめん、征司、こんなこと言って、でも、でも、思い出が欲しいんだ」
 その途端、おれの全身を別の衝撃が走る。
「一度でいいんだ、思い出が欲しいんだ、僕を……抱いてっ!」
 叫んでおれの制服の胸を握り締める直人。
 だけど、だけどさ――。
 なぜだかわからなかった。その声を聞いた途端、おれは直人を突き飛ばした。背後で派手な音が鳴り響く。机にぶつかり転んだであろう直人を残して、おれは教室から駆け出していた。

◇◆◇


 本気の恋ってなんだろう?
 今のおれにもわからない。だけど、あの時の直人は、今でもはっきりと思い出すことができる。
 眩しかった直人。眩しすぎて、触れることすらためらわれた直人。素直で、率直で、明るくて、感情むき出しで――。
 一度だけでいいと言った直人。思い出が欲しいと言った直人。
 じゃあ、おれの気持ちも、そんな形の思い出にするしかなかったのか?
 おれたちは最初から終わるしかなかったって言うのかよ?
 そんなのが本気の恋だって、言うのかよ――!
「気に入ったよ。あんた、うまいね。また指名するからさ」
 おれの下で喘ぎまくった男はにっこりと言った。その笑みが憎らしい。
「悪いけど、次はないよ」
 冷ややかに答えるおれに男は不思議そうな目を向ける。
「なんで?」
 おまえ相手に、もう、タチはできないんだよ。
 喉元まで出かかったセリフをおれは飲み下す。
「シャワー、先にどうぞ」
 見当はずれな返事に男は肩を竦めて見せる。のろのろとベッドから立ち上がると、髪をかき上げながらバスルームへ向かう。
「なんだよ、あんなにすごかったのにさ」
 捨てゼリフにおれは苦笑する。苦笑して、自分をあざける。
 いつまでこんなことを繰り返すのだろう。直人に似た客。直人の身代わり。薄れようとする記憶を鮮やかに蘇らせる。熱くなるのは、どうしようもないじゃないか。悲しくなるのは――どうしようもないじゃないか。
 金で男に身を任せ、あるいは男を慰める。おれは、名前も知らない相手と体を重ね続けている。
 仕方ないだろ。おれは今でも直人を忘れられない。本気の恋がわからない。
 なあ、直人。教えてくれよ。本当に、おまえは一度だけでよかったのか? 思い出が欲しかっただけなのか?
 おれたちに、未来は、なかったのか――?



※この作品は「その言葉はいらない」に出てきた征司と直人の過去として書いたものです。




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