Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「シュプールのゆくえ」


 あいつを見つけた。
 すらりとした立ち姿は、リフト待ちの列の中でも目につく。嫌味なくらいサラサラのまっすぐな髪と素っ気ない横顔。クワッドリフトにあいつが乗り込む。その隣に、さっと滑り込んで女の人がふたり座った。もたついている何人かを抜いて、おれは慌ててリフトに乗る。
 コースの上からは、まっしろに広がる斜面にまばらな色を添えて、滑走していく姿がいくつも見える。あいつを目で探すと、やっぱり逆ナンされていた。遠目にもわかる戸惑いぶり、しつこく何やかやと話しかけている女の人ふたり――。
 あいつの後ろにすーっと回りこんだ。ガツッと両手でウエストを掴むとスキーを蹴り、おれは大声で言い捨てた。
「おねーさんたち、ごめんねー! おれたちまだ高校生なのー」
 うっそぉ、マジィ?! という声が後ろに遠ざかる。
「なにすんだよ! ……え? 篤史(あつし)?!」
 背中にひっついてんのがおれだとわかって、あいつはあたふたしている。おれはケラケラと笑い、ゆったりと斜面を下りながらあいつの背中に頬を押し当てた。


「なんなんだよっ、いきなり後ろから押すなんてさっ」
 コースの終わりに着くなり、あいつはおれを怒鳴りつけた。
「え〜? おまえなら平気だろ?」
「じゃなくって、どういうつもりなんだってのっ」
 うーん、背が伸びてる。くそっ、追い越したと思ったのに、また並んじまった。
 返事もせずにニヤニヤ見つめるおれに、あいつはムッとした顔を崩さない。
「逆ナンされたかったっての? 助けてやったのに、文句言われるなんてさー。あ。それともおまえ、高校生じゃなかった?」
「んなわけないだろっ!」
「スキーキャンプって中学生までなのに、なんで今年も来てんの? まだ中学生なんじゃねーの?」
「ふざけんじゃねーよ、今年はひとりで来たんだ!」
「へえ? 受験生なのに去年も来てさ、その上、失恋しちゃったんだもんなー。てっきりみんな落ちたかと思った」
 笑いながら言えば、あいつはぷいっと顔を背けた。
「わざわざひとりで何しに来たのか知らないけどさ……山瀬さんなら、もういないよ」
 背けた横顔の頬がピクッと動く。
「結婚して、インストラクターは去年で辞めたよ」
「……知ってる」
「ふうん? ――ホモ」
 キッと険しい目を向けたあいつを残し、おれはスキーを蹴った。
 ふん。いったい何しに来たんだか。遠いところをわざわざやってきてさ。ひとりで来たって? 高校生が? スキーキャンプでもないのに?
 ……夜行バスで来たのかな。どこに泊まってるんだろ……。


「げっ」
 夕食のトレーを母さんから受け取ってダイニングに目を向けた途端、おれはマジ面食らった。あいつがいる。
「母さん、あいつ」
「驚いちゃうわよねえ。高校生だって。ひとりで来たのよ? 東京の子は大人びてんのかねえ。篤史、あんた、相手してやってよ」
 おれに頷けるわけがなく。って言うか、いくらおれんちがペンションやってるってもさ、なんでおれんとこに泊まってんだ?
 ――さて、どうすっかな。
 目の前に置かれたトレーに気づいて、あいつは目を上げた。目が合うなり、ぎょっとする。
「わりぃな、ここ、おれんち」
「なに言ってんだよ……」
 あきれたように呟くと目を逸らした。なんだよ、なんだよ、なんだってんだよ。まさか、知っててうちに泊まってるって?
 なんだか気まずい。あいつは黙りこくって、パクパクと食べ進める。ふん、残したりすんなよ――。あいつは最後まできっちり食べ尽くした。よしよし。部屋に戻るあいつを見送る。
 ……だけど、いったいなんで、ひとりでスキーになんか来てるんだ?


 あいつに初めて会ったのは小学生のときだ。東京の旅行会社が主催するスキーキャンプ――親元を離れて、子どもたちだけで参加するスキーツアー――に参加していた。滑っては転び、それでも歯を食いしばって練習するあいつは、やけに目についた。
 気づいてみれば、あいつは毎年やってきていて、そのうちめきめき上達した。中学生になると上級クラスに振り分けられた。おれは、ハイシーズンを迎えてペンションが忙しいものだから、子守り代わりにその上級クラスにぶち込まれていたんだ。
 いくら同い年と言っても、年に一度しか来ないくせに、おれとタイムを競っちゃ、悔しそうにおれを睨むんだぜ? だいたい、このおれがスキー教室だって? 冗談でもあいつになんか負けるわけないっつーの。それに、あいつはおれには強がってばかりのくせに、インストラクターの山瀬さんだけには、やけに甘えた目を向けるんだな。くそっ。
 そんなあいつとおれは、憎まれ口を叩きあいながらも仲良くなった。話すのはスキーのことばかりで、どんなところに住んでいて、どんな学校に通っていて、普段はどんなことをしているのかもわからないあいつ――年にたった数日でも、一緒に過ごすのが楽しかった。


 翌日、やっと手伝いから解放されてゲレンデに出たのは昼過ぎだ。あいつを探すが見つからない。土曜日のだだっ広いスキー場で人ひとり見つけるのは至難のわざってもんだ。
 それに――昨日、あんなことを言ったもんだから、あいつ、おれを避けて遠くのゲレンデに行ってんのかもしれない。
 『ホモ』――はずみとは言え、そんなことを言うつもりはなかった。おれには、そんなことは言えないんだ。
 去年のスキーキャンプ最終日、おれはあいつが帰ってしまう前にふたりで滑りたかった。スキーキャンプは中学生まで、あいつに会えるのはこれで最後だ。
 ゲレンデに出ると、早朝スキーのリフトが一基、もう動いていた。見上げる上級斜面に遠くふたつの人影が見えた。あいつのスキーウェアは頭に焼きついている。ひとりがあいつだと、すぐにわかった。このまま降りてくるのを待つか、急いで追うか――。
 おれはリフトに飛び乗った。滑降のスピードには自信がある。
 ならされた雪面に細かいターンを刻む。ストックが雪を突く音と、耳元で唸る風の音が頭を一杯にする。キンと頬に刺さる冷たい大気、背後に飛んでいく景色――。
 と、斜面の中腹、コース脇に立ち止まっている人影が目に飛び込んだ。あいつだ。おれは慌てて手前でストップをかける。粉雪が舞い上がった。
 雪に凍ってそびえ立つ針葉樹の陰、あいつと一緒にいたのは山瀬さんだった。おれを見るなり、外していたゴーグルをかけ、先に行ってしまった。
「……ごめんな」
 山瀬さんが残したその一言だけが耳に届いた。おれはすぐに滑り降りてあいつの横で止まった。あいつはストックを握り締め、俯いていた。
「ひろあき……」
 状況が飲み込めないおれは小さく呼びかけた。覗き込んだ弘晃の目は濡れていた。いつもの強気も素っ気なさもなく、涙をためていた。
 悔しかった。最後に弘晃と滑るのはおれだったんだ。なのに、弘晃は山瀬さんを選んだ。その上、きっと、弘晃は山瀬さんに――。
 ガシッと肩を掴まれ、弘晃はビクッと顔を上げた。あまりに悲しそうなその顔が憎らしくて、おれはぶつけるようなキスをした。目なんか閉じたりしない。大きく見開かれた弘晃の目が、驚きの色を濃くしていく。
 胸が苦しい。弘晃の唇が冷たい――。
 途端、突き飛ばされた。カッコ悪く、雪にしりもちをついたおれには目もくれずに、弘晃はスキーを蹴った。あっという間に後ろ姿が小さくなる。弘晃が去った後には、弱々しく粉雪が舞い上がっているだけだった。
 『ホモ』――そんな言葉じゃ、おれの気持ちはくくれない。あの時わかったのは、おれは弘晃が好きなんだという、ただそれだけのこと――。


 夕方になって、山頂から粉雪が舞い降りてくる。弘晃を探し回って、おれは一番遠いゲレンデまで来ていた。
 あんなふうに終わった去年のスキーキャンプ、山瀬さんのいないスキー場――弘晃が今年も来るはずはなかったんだ。なのに、今年もおれはあいつを待っていた。
 この一年、弘晃は何を考えていたんだろう。何を考えて、今年も来たんだろう――。
 最終のリフトに揺られている間に霧が出てきた。日没までまだ時間があるのに、早くも闇が忍び寄ってくる。コースに降り立っても、人影はなかった。おれにとっては自分の庭のようなもの、迷わず連絡コースを継いで、帰り道を急いだ。
 ふと、霧の中で誰かを追い越したようだった。立ち止まって振り返る。何も見えない。耳をそばだてる。かすかに雪面を滑るスキーの音が聞こえた。霧の中から案内板の前に現れたその人は、見慣れたスキーウェアを着ていた。
「弘晃!」
 向こうのコースへとスキーの先を向けている。照明がないのに、迷ったりしたら笑いごとじゃ済まされない。
「弘晃、そっちじゃない、こっちだ!」
 聞こえたか? 急いでコースの分岐点まで斜面を登ると、弘晃も戻ってきたところだった。上気した頬がほんのり染まっている。形よい唇からは、まっしろな息が立ち昇っていた。
「……こっちだ、ついて来いよ」
 さっとスキーを返し、おれは先にスタートする。後ろに続くシャーッという音を耳で確かめながら滑っていく。立ち並ぶ針葉樹が霧に煙っている。白い闇がおれたちを包み込んでいる――。
 静寂に沈む中にいた。音もなく舞う粉雪の中、耳に届くのはスキーが雪面を滑る音だけだ。おれの背中を弘晃が見つめている。それがうれしい。白く閉ざされた、おれたちふたりきりの世界――。
 やがて、粉雪も霧も薄れ、木々の間からナイター照明がこぼれる場所に出ると、おれは止まった。
「先に行けよ」
 振り向きもせずにおれは言った。シャッと音がしたかと思うと、弘晃がおれの隣に立った。
「先に行けって」
「なんで」
「なんでって……」
 明るい場所に戻って弘晃の顔を見るのがなんだか嫌だった。昼間、あんなに弘晃を探してたのに、見つけてどうするつもりでもなかったんだ。
 ただ、ふたりで滑りたかっただけ。ほんの少しだったけど、ふたりきりでいられたから……。
 それは、一瞬だった。
 いきなり手が伸びてきたかと思うと、ゴーグルを外された。びっくりして顔を向けたおれの唇に弘晃の唇が重なる。すっと離れていく。
「お返し」
 ぽかんと固まったままのおれをチラッと見てくすっと笑うと、弘晃はさっと体を返し、スキーを蹴った。きれいなシュプールを描いて、滑り降りていく。
 『お返し』ってさ――なんだよ?
 案内してくれてありがとうって? それとも、去年の仕返しってことか?
 ほんの一瞬の感触が唇に残っている。今ごろになって、ドキドキしてくる。
 慌ててスキーを蹴った。トップスピードに乗って弘晃を追う。人をポールに見立てて抜き去り、思いっきり滑降した。のんびり滑っている弘晃の前に、すばやく回りこんだ。
「わ、危ねーじゃん、篤史!」
 しっかりと向かい合って、弾む息でおれは言う。
「なんで――なんで、今年も来たんだ?」
 ぷいっと横を向くなり、弘晃はふくれた。
「なんでだよ」
「わかりきったことなんか訊くなっ」
「わかりきったことって……」
 戸惑うおれをチラッと見ると、また、くすっと笑った。
「篤史。今日、俺のこと、ずっと探してたんだろ?」
「――え?」
「おまえ、ケータイ持ってる?」
 話が見えない。わけもわからず首を振るおれに弘晃は重ねて訊く。
「じゃ、パソコンは?」
「――おれのじゃないけど、ある」
「あとでメアド教えるからさ」
「は?」
「だから……そういうこと!」
 そういうことってなんだよ?! 叫ぶおれを置いて、弘晃は笑いながら先を行く。振り向いて立ち止まるとおれを待ち、斜面を指差した。
「ほら……俺たちみたいだよな。くっついて、離れて、くっついて」
 なんのことかと思った。弘晃が指し示す先には、おれたちのシュプールがところどころで交差しながらくっきりと残っていた。
「篤史、俺が好きか?」
「なっ……!」
「春休みも来るよ」
 まっかになったおれに、弘晃はにっこりとほほ笑みかけてくれた。それは、おれが一番見たかった笑顔だった。




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