Words & Emotion   Written by 奥杜レイ
 

「思い出はたどらない」

 


 忘れられない人がいて、その人にはもう二度と手が届かないと知っていて――時の狭間に落ちてしまったとき、僕はここに来る。
 ここにいる僕は、僕であって僕ではない。
 僕の中に棲む者、僕の翳、封印された僕。
 呼び名なんて、どうでもいい。それを解き放ち、それに従うまで。


「ひとり?」
 陳腐なセリフに吹き出しそうになったけど、僕は黙って頷いた。男は、それが当然とでも言うように、断りもせずに隣に座る。
「ここ、よく来るの?」
「ときどき、ね」
 僕が答えると、うれしそうな顔を見せる。――だめだね。笑顔はいまひとつだ。
 くだらない話をだらだらと続けて、僕が聞いちゃいないなんて、ちっともわかってない。
 カウンターの上には、僕の飲みかけのカクテルが置かれている。それを手に取り、僕は一口で飲み干した。
「行く?」
 隣の男は勘違いもはなはだしく、そんなことを言う。
「違うよ。わかるだろ?」
 NG。そういうこと。
 お代わりを注文する僕を一瞥すると、男は黙って席を立った。
 最低限のプライドは持っているんだ。少し見直したけど、引き止めるつもりはまったくない。
 ――かわいい顔して、辛らつだね。
 ――すかしてんじゃねえよ。
 ――お上品ぶりやがって。
 去り際に聞かされた言葉はいくつもある。そんなセリフは、聞かされるたびに僕を笑わせてくれた。
 だってさ、一夜限りの相手に、どうして僕が気を遣う必要なんてある?


 この店は好きだ。この手のバーにしては気がきいていてBGMはクラシックだ。音大に通う僕は自然と耳を傾けてしまう。
「この曲が好き?」
 再び声を掛けられて、目を上げた。一瞬、ひやりとする。
「あ、ごめん、待ち合わせ?」
 首を横に振る僕に男は微笑んだ。綺麗な笑みだ。
「いいかな? 隣」
 少し遠慮がちに僕を見下ろす目線はやわらかい。細くて肩まである髪も、シャープな顔立ちも、すらりとした肢体も――『彼』を思い起こさせる。
 頷いた僕の隣に座ると、男は飲み物を注文した。
「なに? どうかした?」
 知らず知らずのうちに、隣に座った男を僕は眺めていたようだ。
「もしかして……ダンサー?」
「へえ? よくわかるね。まだ練習生だけど、そうだよ」
 よほど言い当てられたのがうれしいのか、隣の男は満面に笑みをたたえた。
 明るくほころぶ太陽のような笑顔――なんで、そんなところまで似ているんだろう。
 僕は無遠慮に隣の男を眺めた。意識して。じっくりと。つぶさに。
 男は照れたように顔をゆがめる。その、うぶな所作が好ましい。
 忘れられない記憶が蘇ってくる。
 よく見れば見るほど、決して顔つきが似ていることはない。雰囲気も『彼』よりおとなしいし、体つきもさほどたくましいわけではない。
 しなやかさ――肢体のしなやかさ、醸し出す雰囲気のしなやかさ、それがとても似ているんだ。ダンサーだから。『彼』と同じ、ダンサーだから。
「ピアノが好き、とか」
 BGMのピアノに聞き惚れているとでも思ったのか、僕に尋ねる。
「ピアノやっているから」
「習ってるんだ?」
「そう。音大生」
 こんな相手には普段言わないことが、不用意に口から飛び出していく。
「へえ」
 声も『彼』に似ている。話し方は違うけど。――無意識のうちに比較している僕。
「指、きれいだね」
 カウンターの上に置かれた僕の手を見る。見て、遠慮がちに自分の手を重ねた。
「いいよ」
「え?」
「だから。いいよ」
 男は驚いた顔を僕に向けた。指を誉められるのは、好きだ。
 バーテンダーを呼び、勘定を済ませる僕の横で、男も慌てて財布を取り出す。先に戸口に向かう僕に続いた。


 こんなことは、よくあることだ。だけど、相手がこんなタイプなのは珍しかった。どんなに待っても、どんなに探しても、なかなかお目にかかれないような男――ダンサーの男。
「おれ、どうかな?」
 気弱なセリフが僕を苛立たせる。
 せわしなく僕をまさぐる手とは裏腹に、男の表情は頼りなげだった。
「ここ、どう?」
 馬鹿げた質問に呆れ返る。
 僕に重なる重み。心地よく僕を押さえつける。呼び起こされた幻を、忘れてしまいたい影を、僕とともに押さえつける。
「ね、え……訊かなくても、わかる、でしょ?」
 せっかくの行為が台無しだ。くだらない会話で白けさせないでほしい。
「きれいな体だね……しなやかで、なめらかで――」
 黙らせた体を僕はうっとりと指でたどる。未完成の造形美。その手触りを存分に楽しむ。腕、肩、背中、腰――再び、肩。
 両腕を脇から肩に回して、すがるように抱きついた。首筋をきつく吸われ、深く貫かれ続ける。
「きみ、かわいいよ、すごく感じやすいんだ」
 言わなくてもいいことは言わないでほしい。おしゃべりな口は、唇で塞いだ。
 キスなんて、滅多にしない。絡みつく舌に、ことごとく翻弄される。熱い滴りと共に、吐息も濡れた。
「名前、教えてよ。呼びたい」
 性懲りもなく、余計なことを言う口だ。だけど、今夜の僕は、いつもと違った。
「――マモル」
「マモル、ね」
 囁かれて、さらに昂ぶった。
「マモル」
 忘れられない夜が蘇る。
 あの一度だけの夜。心から求めた人に応えてもらえた夜。それが最初で最後になった夜。
 『彼』とは、互いを認め合い、高め合える関係だった。どんなに好きでも、離れがたくても、バレエ留学が決まった『彼』を僕が引き止められるわけはなかった。
 一度だけの夜。僕たちを繋ぎ止めることができなかった夜――。
「あ……」
 感傷は快感を彩る。偽りの相手は、今夜も僕を満たしてくれた。


「きみ、すごくよかった。また会えるかな?」
 不埒なセリフは失笑ものだ。
 僕は寝返って、窓の外に浮かぶ夜景に見入った。
 ビルはそれぞれに明かりを灯し、どこまでも広がっている。線路の湾曲に沿って、光を振りまきながら遠く列車が走り去っていく。輝くものは、留めることなんかできない――そう、いつだって。
「きれいだ」
 僕の目線を追って、男はつぶやいた。
「どうしてもこのホテルがいいってきみが言うからそうしたけど、こんなにきれいな夜景が見られるなんて思わなかったよ」
「うそばっかり」
 僕のつぶやきに男が身を固くしたのが気配でわかった。
「景色なんてどうでもいいんじゃないの。僕が見てなきゃ、気づきもしなかったくせに」
「そんな――」
 捨て鉢に言えば、気弱な声が耳に届いた。
「やることだけ考えてたんだろ」
「なんだよ」
「そんな顔、してたしね」
 言えば、男は感情をむき出しにする。
「なんだよ! そっちが誘ったんだろ!」
 そうこなくっちゃ。
 乱暴に仰向かされ、きつく押さえ込まれて、僕はうれしくなってしまう。再び跨られて、胸が高鳴った。
 『彼』と同じダンサーの男、僕を壊してよ。めちゃくちゃに壊してよ。
「あ、あ、あ、あ」
 切れ切れに飛び出していく僕の声。煽られて、我を忘れた僕の上の男。
 思い出なんかいらない。二度と手に入らないものなんていらない。時は、戻ることなんてない――。


「ごめん」
 気弱な声は僕を苛立たせる。汗にまみれた僕の体を男の手がいたわるようにたどっていく。
 髪を撫でられた。指で梳かれて、額に唇が寄せられた。
「そ、んなこと、するなよ」
「マモル――」
 ダンサーの淋しげな目が僕を見下ろしていた。
 名前なんて教えなきゃよかった。僕は恋をするつもりはない。
 やりきれない思いを遮ってくれる相手がほしいだけ。そのときに僕を満たしてくれる相手がほしいだけ。
 温かい眼差しが翳る。満ち足りたあとなのに、淋しく翳る。
 僕は、そんな目は、二度と見たくない。




ショートストーリーに戻る