Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

「指先」



 あなたの指は細く長く、黒板に向かってチョークを持つだけでも、ぼくの目はそこに引きつけられてしまう。
 カツカツと響く音が耳に心地いい。あなたの指がつづる文字の美しさ。あなたの指は美しいものを生み出す――。
「教科書にあるとおり、小倉百人一首は、鎌倉時代に歌人の藤原定家が編纂したのだが――」
 教壇に立つあなたは振り向いて教科書を取り上げる。深緑の表紙に伸びるあなたの指。あなた自身がどんなに美しくても、ぼくの目はいつでもあなたの指先を見ている。
 そう、どんなにあなたが美しくても――。
 あなたのやわらかな黒髪は少し癖があってゆるく波打っていて、長めの前髪は教科書に目を落とすあなたの繊細なフォルムのメガネにかかっている。白い頬はなめらかで、うっとりとしてしまうラインを細い顎まで描く。
 すっきりとした鼻梁、いくぶん神経質そうな印象を与える眉、切れ長の双眸、紅いくちびる――控え目に動き、それでも教室に響き渡る涼やかな声を生む。
 スレンダーな肢体は常に姿勢よく、凛とした立ち姿は清々しい。
 ねえ……あなたは気づいているのでしょう? こんなに美しいあなたなのに、ぼくはあなたの顔でもからだでもなく、いつでもあなたの指先ばかりを見ているって――。男のあなたの指先を見て、こんなにもときめいているって――。
 あの、指先に、触れられてみたい――。
「では、次の一句は――」
 あなたは教室内を見渡す。それでぼくを見つけたような素振りをする。見渡しながらも、その目は初めからぼくを捉えていたのに――。
「風早(かざはや)」
「はい」
 ぼくはごく自然に立ち上がる。ほかの誰とも変わらないように。けれど、あなたへの思慕を滲ませ、情感をこめて恋の歌を読み上げる。
「忍ぶれど 色に出にけり 我が恋は 物や思うと ひとの問うまで」
 ――あなたの指先を思う。冷やかに美しいあなたの指だもの、きっと、触れられればひやりとする。
 あなたの指先はぼくの素肌を辿る。頬に触れ、顎から首筋を辿り、胸を伝い、もっともっと下のほうまでなぞり下ろしていく。
 白く、細く、長いあなたの指が――。
 ぼくの、素肌を、なぞっていく――。
 美しいあなたの指先で、ぼくの熱を冷まして欲しい。


「風早、彼女来てるぞ」
 級友の声に日誌を書くぼくは目を上げた。戸口に立つ女子の姿を見て、日誌に目を戻す。
「なんだよ、行かないのか?」
 ぼくの机のかたわらに立ち、彼女が来たと告げた級友は、怪訝な声でそう言った。
「彼女、入ってこられないんじゃないのか?」
 それを言うのが親切だと思っているのか。
「もう、彼女じゃないし」
「え?」
「元から彼女じゃないし」
「けど……」
「悪いね、ありがとう」
 日誌から目を上げずに、それで級友を追い払った。
「おまえ……見た目と違ってタラシだな」
 残してくれた感想は聞き流そう。タラシと言われたのは不本意だけど。どうせなら慈善家とでも言ってもらいたい。
 一度だけでいいの、風早くんにつきあってもらいたいの――。
 どうしてどの女子も同じことを言うのか。そう言えばぼくが応じると、そんなルールがぼくの知らないところでできあがっているのか。
 一度だけのつきあいと言いながら、その一度ですべてをあっけなくぼくに差し出す傲慢さも、その際にはぼくにことごとく奉仕させる厚かましさも、そこには美しさなんて微塵も見出せない。
 粉っぽい匂いに、あるいはむせ返るような匂いに包まれ、豊満な肉のかたまりをもみしだき、強引に引き出されたぼくの劣情で貫く手続きのむなしさ――。
 ぼくの欲しいものは遠く、ぼくに与えられるものはくだらない。
 冷ましようのない熱を持て余し、ぼくは夢想する。あの、細く、長く、美しい指先に素肌をくまなくなぞられる感覚を――きっと、それだけがぼくの熱を冷ましてくれる。
 先生。なのに、あなたの指先は、いつだって、ぼくに触れる寸前で離れてしまう。


 放課後の国語科研究室に日誌を届けに行く。週番を務めるあいだにだけ許される、あなたとぼくとのふたりきりの時間――。
 ぼくはいつもわざと時間をかけて日誌を書く。ほかの国語科の教師が帰宅するか、あるいは教務室に戻る頃合を計って。
「どうぞ」
 ノックに答えた声はあなたのもの。ぼくの胸は高鳴り、期待に張り裂けそうになる。
 ――今日こそ。
「失礼します」
 開いた引き戸にぼくを認めると、あなたは書き物をしていた手を止めた。
 西日の長く射し込む小部屋。いるのはあなただけだ。
 あなたのいる窓際の机に歩み寄るまでのあいだ、ぼくはあなたの指先をじっと見つめる。
 ねえ? ほら、ぼくはいつだって、あなたの指先を見ているんですよ?
 その指先でぼくに触れて欲しくて。これほどまでに胸を高鳴らせて。もっと見ていたいから、もっとゆっくり歩きたく思う。でも、もっと間近で見たいから、すぐにでも近くまで行きたいと思う。
 矛盾して、その矛盾のもたらす快感に、ぼくは痺れる。
「ご苦労さま」
 ぼくの手から日誌を受け取るあなたの手。絶妙の間をおいて、ぼくはすぐには渡さない。日誌を渡す手の指をこっそり伸ばし、受け取るあなたの指先に触れようとする。
 あなたの指先は逃げる。もう、幾度となく繰り返されている、こんな駆け引き。
 受け取った日誌を机の上に置き、あなたは何食わぬ顔でページを繰る。今日の日付のページを探すあなたの指先。
 優雅な動き。あなたの指先を見つめるぼくの目が、うっとりとしているのにあなたは気づいている。
 ぼくの記述を読み、内容を確認し、俯いていてもあなたの肩は緊張を見せている。ぼくの手が、机の上にあるから。それが、あなたの指先へと徐々に近づいていくから。
 触れて。お願い。
 初めは指先でいいから。あなたの指先とぼくの指先を、そっと触れ合わせて。
 日誌なんか、とっくに読み終えているのはわかっているんだ。日誌の端に置かれたあなたの手は、軽く卵を握っていたような形から、いつのまにか開いている。小指と薬指が一緒になって、ぼくの手へと伸びてきている。
 先生。ぼくひとりの思い込みだなんて言わせない。だって、ぼくを見るあなたの目は、一度でいいからぼくとつきあいたいって言う女子といつだって同じなんだから。
 ぼくを視線でなぞるのはやめて。なぞるなら、その指先にして――。
 ぼくは、机の上に置いた手の人差し指で、そっと、あなたの小指に触れようとする。けれど、そこまで近づいていたあなたの指は、驚いたように引っ込んでしまう。
 ……ね? ぼくだけの思い込みじゃない。
「気をつけて帰りなさい」
 顔を上げて、あなたは笑みを見せてくれるけど、ぼくが欲しいのはそれじゃない。そんな諦めたような笑みで、ぼくを見ないで。
 わかって。
 あなたの目をじっと見つめ返すぼくの視線にあなたは少したじろぐ。泳いだ目をぼくの喉元で止める。
 ほら……触れてみたいでしょう?
 制服のシャツはボタンをふたつはずしてある。取り立てておかしなことじゃない。誰もがしていることだ。そうすると首が楽だから。
 あなたの手はゆっくりと上がる。ぼくの襟元に伸びてくる。
 いいよ、襟を直してくれるふりでも。一度でもぼくに触れてくれたら、それが始まりになるから。
 こんな駆け引きは終わりにしたいんだ。お願い。今日は寸前で離れるなんてしないで――。
 その時、唐突に鳴ったあなたのケータイ。ぼくに伸ばされたあなたの手はぴくっと止まり、さりげなさを装って離れていった。
 ――どうして。
 事務椅子をくるりと回し、ぼくに半分背を見せて電話に出たあなたに――失望した。
 長めの前髪に隠れたメガネの奥から、あなたはちらりとぼくを流し見た。少しすまなそうに、少しほっとしたように。
 けれど、その次の瞬間にあなたの顔に浮かんだ表情にぼくは凍りついた。ぼくのことなんて忘れた表情、恥じらいを含んだ笑顔――。
 そんな顔、初めて見た。ぼくを見るあなたの笑顔はいつも諦めを刷いていたのに――。
 ぼくは一礼して小部屋を出る。言い知れない不安を感じながら。


 あなたが出てくるのを正門で待つのは初めてのことだ。とっくに下校時刻を過ぎて、ぼくを見咎める者なんて誰もいない。
 ぼくを留めさせたのは、あなたが見せたさっきの顔。ぼくを忘れさせ、ぼくには初めての笑顔をあなたにさせた電話の相手――。
 住宅街にある高校。正門前の通りを行き交う車は少ない。向こうの角を回ってやってきた一台は、ぼくの立つ場所とは反対側の、門の脇に停まる。
 運転席に男がひとり――タバコを取り出し、のんびりと火をつける。フロントガラスの向こうに見える、ワイルドで男らしい顔立ち。
 ――嫌な予感が走る。
 正門の中から軽い足音が聞こえた。それは、近づくにつれ、駆け足になる。
 門から飛び出たスーツ姿は、停まっている車に迷わず向かった。ぼくには目もくれず、車へ走っていく。
「先生!」
 ぴたりと止まった後ろ姿に駆け寄った。驚いた顔が振り向く
「先生――」
「風早……」
 驚いたあなたの顔は、怯えのようにも、ぼくを哀れむようにも見て取れる表情に変わった。ぼくから目をそらす。
 あなたがぼくから目をそらすなんて。
「先生」
 嫌な予感に胸がさわぐ。車から男が降りてくる。あなたの背後に立って、ぼくを舐めるように見下ろした。そして――笑った。小さく、口元を歪めて。
 この男が――この男がさっきの電話の相手だと言うのなら。
「先生、ぼくは――」
 ずっと、待っていたんです、もう、待てなくなったんです。
 ぼくに触れようとするあなたの指先を止めるものが、ぼくがあなたの生徒ということ以外にあるのなら――。
 ぼくはあなたの背後にいる男を睨む。眉を片方だけ跳ね上げ、男はにやりと笑った。
 駆け引きは終わりだ。ぼくは飛び込んでいく、ぼくのありったけの想いをあなたに。
「――先生、ぼくは」
 けれど、ぼくの想いは声になって飛び出てはいかなかった。
 触れて欲しかったんです、ずっと――。
 たったそれだけを言うことすら許されずに、あなたの指先に――封じられた。
 首を横に振ったあなたの悲しそうな顔が目に焼きついている。ぼくから離れ、あなたの指先は後ろに立つ男の腕にそっと触れた。
 やっと――やっと、ぼくに触れたあなたの指先は、とても冷たかった。思っていた通り。
 くちびるに残る冷たさは――いつまでも消えない。



2004年10月16日 13枚




ショートストーリーに戻る