Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    眠れない夜のあした
    −1−



         はらりと、白いひとひらが目の前を過ぎた。それは、英明[ひであき]が息を飲む間にも次々と空から舞い降りてくる。
         ……雪。
         深い吐息をもらせば、白く煙って見えた。英明はうなだれて視線を落とす。歩道には赤や青の光が射し、忙しなく行き交う人々の足が目に入る。街はクリスマスのイルミネーションに彩られ、にぎやかな音楽がどこからともなく聞こえていた。
        「何やってんだよ、風間。早く来いよ、みんな待ってるぞ」
         数歩先から笹塚が呼んだ。英明は立ち止まった足を動かそうともせずにつぶやいた。
        「……雪」
        「あ? 雪?」
         どんよりとした闇に染まった空を振り仰ぎ、笹塚は途端に明るい声を上げる。
        「うわ、クリスマスに雪ってありえなくね?」
         歩道を行く人たちからも同じような声が聞こえた。しかし英明は、うつむいたきりだ。
         怜二[れいじ]……。
         家の鍵もケータイも、何も持たずに玄関を飛び出していった後ろ姿が脳裏を離れない。見慣れた黒のセーター、穿き込んでくたびれたジーンズ、ジャケットを羽織ることもなく、手にしていたわけでもなく、この寒空の下、怜二は今どこでどうしているのか。
         だから……俺は!
        「え? 風間?」
         英明は身を翻す。同時に駆け出していた。
        「どこ行くんだよ、おい!」
         雑踏をすり抜け、笹塚の声は背中で聞いた。
        「待てよ! 風間!」
         俺は――。
         湧き上がる後悔に苛[さいな]まれ、英明は唇を噛む。何ものにも替えがたい怜二を思う。そうだ、怜二は何ものにも替えがたい。自分とすらも。
         怜二!
         すぐに追わなくてはいけなかったのだ。追って追いついて、どんなに抵抗されようとも、あの強がりな細い背中をきつく抱きしめてやればよかった。自分が、そうしたかった。
         なのに、なんで俺は……!
         英明は駅を目指して走る。これまでの自分から逃げるように走る。変わらなくては。思い切らなくては。自分が、そうしたいのだから。このまま雪に閉ざされてしまう前に。
         怜二――どこにいる?


        ◇◆◇


        「あんた、風間さん? おれ、園田怜二だけど。商学部三年の」
         初めて会ったのは学食だった。四月に入って間もない頃で、溢れ返る学生で騒々しい中だった。
         ハスキーな声に呼ばれて顔を上げた英明の目に、すらりとした男の姿が入った。怜二は広いテーブルを挟んで英明を見据えていた。静かでいて、どこか熱い眼差しだった。一瞬、あたりのざわめきが英明の耳から消えた。
         英明が黙って頷いて返すと、すぐに怜二は正面の席に着いて身を乗り出してきた。
        「条件、がっつり合うんだよね。あんたさえよければ、おれに決めてほしいんだけど」
         英明は探るような眼差しで怜二を見る。印象は一転して、やけにずうずうしく感じられた。怜二とは、これまでに一度ケータイで話したきりだ。学生課の窓口の横にある掲示板に同居人募集との張り紙をした英明に怜二からかけてきて、会話も短く、今日の待ち合わせを決めただけだった。
        「おれんとこの契約、今月いっぱいなんだ。だから、早く引っ越したいんだけど」
         英明の目の前で、怜二の明るい茶色の髪がさらりと揺れた。前髪が長めで気になるのか、そうしている間にも何度か指で梳き上げていた。そのたびに跳ね上がった細い眉が見えて、それがきつい印象だった。
        「――どうよ?」
         およそ交渉に臨む態度ではないだろう。二重の大きな目をぐっと見開き、怜二は挑むように英明を見つめてくる。厚みのある唇が、右端だけ少し釣り上がっていた。
        「と言うか、きみ、掲示板に書いてあった条件、ちゃんと読んだ?」
         英明は、あえて醒めた口調で返した。その条件がネックで、これまで同居人が決まらなかったのだ。
        「ああ、あれ?」
         怜二は急に気のなさそうな顔になって、頬杖をついてそっぽを向いた。
        「読んだよ。分譲マンションの二階の2DKだろ? 家賃は半々、室内禁煙、共用部分の掃除は交替制、互いにプライバシーを侵害しないこと、申し込みは男に限る、女人禁制」
         丸暗記していたかのようにすらすらと口にしてみせ、目をそらしたままくすりと笑った。英明の目に、冷笑に歪む怜二の横顔が映った。
        「いいね、女人禁制。古風な言い方だ」
        「意味、わかって言ってる?」
         英明は眉をひそめる。どう見ても、怜二は異性に放っておかれそうにないタイプだ。
        「女を連れ込むなってことだろ?」
         視線だけ寄越して怜二は言う。
        「そうだ」
        「おれ、この条件が一番気に入ったんだけど」
        「……へえ」
         同居の条件は英明が入居したときも同じだった。元同居人は二年先輩にあたり、卒業を機に一ヶ月ほど前に引っ越していったのだが、彼によると、この取り決めは彼が入居する以前からずっと続いているらしい。
         家主は十年以上も前に卒業したOBで、郷里に引き上げる際に後輩に頼み込まれて貸したのが始まりだと英明は聞いている。元は分譲マンションなのもあって室内の管理は入居者に一任され、それだけに信用が第一で、同じ大学の者しか借りることはできない。
         しかも建物は既に古く、セキュリティシステムなど当然ないのだが、唯一、立地がよかった。駅前商店街の裏手の寂[さび]れた住宅地にあって、最寄り駅へは徒歩五分、大学まで一駅だ。その気なりさえすれば徒歩三十分でも大学まで行けて、理系学生には魅力だった。
         折半された家賃は近隣のワンルームマンションより安く、それで、この一ヶ月にも同居希望者は何人かいた。しかし実際に英明と会って細かな取り決めを聞かされると、誰もがうんざりとした顔になった。もっともそれは、融通の利かない自分の性格を感じ取ってのことかもしれないと英明は思っている。
        「引っ越してきたあとでも、条件を守れなければ出ていってもらうけど?」
        「構わない。つか、おれ守るし」
        「守れる?」
        「入学してから二年間、ずっとひとり暮らしだったんだ。掃除はちゃんとやっていた。ちなみに料理もね。それに、おれに女はいない」
        「いないんだ……見えないな」
        「見えなくたって、いないんだよ、女はね」
         怜二は、真顔になって言い切った。
        「俺のことは? 気にならない?」
         硬い声になって英明が言うと、くすっと笑って返してきた。
        「工学部三年の風間英明さん。モロ理系って感じ。印象は悪くないよ。互いにプライバシーを侵害しない――いいんじゃない? あんた硬そうだけど、背も高くてカッコイイし」
         余計なことまで聞かされ、英明はムッとするのだが、怜二に気にかける様子はない。軽口で続ける。
        「そのメガネ、似合ってる。白衣も似合いそう――って、工学部じゃ白衣は着ない? 冷たそうに見えるけど、むしろクールな感じかな。あんた、女いるでしょ?」
        「そういうことは……」
         視線を下げ、英明は中指でメガネを押し上げる。心証を害されたときの、いつもの癖だ。
        「わかってるって。プライバシーの侵害だろ? まだ同居前だし、ちょっと言ってみただけだよ」
         そう言うなり、怜二はいきなり立ち上がった。英明に手を差し出してくる。
         ――握手?
         気が乗らないまま英明も立ち上がってみれば、怜二の目は英明の見下ろす位置にあった。その大きな目がまっすぐに英明を見上げる。
        「よろしく」
         ハスキーな声に促されて握った手は、やわらかく温かかった。握り返してくる力が、思いのほか強かった。
         ……案外、こういうタイプのほうがいいのかも。
         半端に気が合うくらいなら、共通点をまったく見出せない相手のほうが同居には適しているかもしれない。
         じっと怜二を見つめ返しながら英明は思った。本当に自分とは正反対のタイプだ。
         はきはきとした口ぶりも、少し強引なくらいの自己主張も、思ったことは何でも話さずにはいられない性格を感じさせる。何より、容姿が派手だ。さらりとした明るい茶色の髪は肩まであって、前髪は目にかかるほど長い。くっきりとした二重の目は大きく、唇は小ぶりで厚みがある。
         体は痩せて見えるが、骨ばった体格の英明とは違って印象はしなやかだ。黒いTシャツに藍色のストライプのシャツを重ね着していて、穿き込んだジーンズの腰は細く締まっている。ごくシンプルな服装でも怜二はずいぶんと目立つようで、それはやはり、端整な顔立ちのせいに思えた。
         女いないって、嘘じゃないだろうな――?
         一抹の不安がよぎる。自他共に堅物[かたぶつ]と認める英明でもテレビくらいは見る。怜二を見つめているうちに、女性に人気の若手男性タレントが思い浮かんだ。
        「部屋、いつ見に行っていい?」
         握手を解いて怜二が朗らかに言った。英明は咄嗟に答える。
        「いつでも」
        「じゃ、今から行こう、風間さん」
        「おい――」
         くるりと向けられた背を見て、つい呼び止めてしまった。
        「なに?」
         怜二は振り向く。きょとんとした目で英明を見る。
        「その……」
        「なんだよ」
        「俺は、風間でいいから」
         一度は声の詰まった口から、自分でも思いがけない言葉が飛び出て英明は焦った。
        「は? ああ、そういうこと? なら、おれも園田で呼び捨てにしてよ」
         鮮やかな笑顔になる怜二を見て戸惑う。
        「わかった」
         すんなりと返しながらも、どうしてそんなことを口走ったのか自分が納得できなかった。
        「悪い、おれ、このあとバイトなんだ。急ぎたいんだけど、いい?」
        「ああ」
         怜二は先に立って学食を出ていく。凛として見える細い後ろ姿に英明は続いた。


        「ただいまー」
        「おかえり……」
         玄関から聞こえた声につい応えて、英明はキーボードを叩いていた手を止めた。パソコンのモニターに目を向けたまま、小さく息を落とす。
         なんで――。
         どうにも居心地が悪い。怜二との同居が始まって一ヶ月近く経つが、まさかこんなふうになるとは少しも予測できていなかった。
         怜二に問題があるわけではない。同居に先立って取り交わした約束は、どれもきちんと守ってくれている。その点では期待以上で、見かけによらずマメで、きれい好きで、何をするにしても丁寧だ。たとえば風呂場の掃除ひとつとっても完璧で、もしかしたら文句を言わなければならない羽目になるかと構えていたのだが、まったくの杞憂に終わった。
         それだけでなく、怜二は徹底した自炊派で、家での食事はすべて自分で作る。同居前に聞かされたことではあるが、実際に目にして英明はかなり驚いた。なかなか本格的なのだ。
        『だっておれ、これで稼いでんだもん』
         包丁さばきも見事に、生の食材を使って料理する。惣菜や弁当に頼り切っていた英明にしてみれば、それだけでも考えられないことだった。魚を三枚におろす様子を垣間見たときは、思わず目を瞠ったほどだ。
        『客相手はいろいろ面倒だからさー。厨房なら、いつも同じヤツ相手で気が楽だし、料理も覚えられるし、時給変わんないなら厨房のほうが得じゃん?』
         そうかもしれないが、それは怜二だから言えるのではないか。自分だったら、そもそも怜二のようにアルバイトすることすら無理だと英明は思う。
         怜二は、平日は毎日、居酒屋の厨房で働いている。それも夕方の開店の五時から午後十時までの五時間で、大学に入ってからずっとそうなのだと言う。
        『そんなに金に困っているのか?』
         うっかり尋ねてしまっただけで、嫌味を言ったわけでも、特に知りたかったわけでもなかった。立ち入ったことを訊いてしまったと英明は内心焦ったのだが、いつもの調子で返された。
        『そう。仕送りほとんどないから。学費は親が出してくれてるけど、テキスト代とかも自分持ちだし』
         なんで、と口まで出かかった声は無理にでも飲み込んだ。
        『おれ、自宅通学できるのに家出ちゃったから親にあまり言えなくてさ。家賃とかバイト代とか、かなり死活問題なわけ』
         こともなげに聞かされ、英明は黙って頷くしかなかった。ひとには、推し量れない事情があったりするものだ。一見した限りでは苦労など知りそうにもない怜二だが、裏に何かしらあったとしてもおかしくはない。
         俺だって、似たようなものだし――。
         そんなことを思って吐息をついた英明を怜二がどう感じ取ったかはわからない。一方的にプライベートなことを話させられたのに何も文句を言わず、英明に問い返すようなまねもしなかった。
        『マジ、あんたと同居できることになってラッキーだったよ。前のアパート、ボロで部屋ひとつしかなかったくせに今より家賃高かったしさ。こういうのって、やっぱ巡り合わせとか、そんな感じだよな』
         そうかもしれない。
         以前の同居人とは考えられない関係だった。時間が合えば怜二は英明の分まで食事を用意するようになり、英明は、怜二の生活事情を知ったからというわけでもなく、それなら食材費も折半しようと言い出して、ありがたく一緒に食事するようになった。
         だから、そういうことなのだ。怜二の厚意を無碍[むげ]にしては悪いと遠慮から始まったことでも、いつのまにか怜二のペースに乗せられている。
         以前の同居人とは、一緒に食事することはもとより、ただいまとか、おかえりとか、そんな挨拶を交わすことすらなかった。自室にいるならダイニングキッチンに続くドアは常に閉め切って、何かあって呼ばれない限り、ドアの外など気にも留めなかった。それが今では、ドアは開いていて当然になっている。それも怜二が言い出したことだ。
        『だって暑いじゃん。せっかく風通しがいいのに、なんでわざわざ閉めておくわけ?』
         そのとおりだと英明も思った。以前は同居人の留守に合わせて自室の掃除をしていて、そのときにドアも窓も全開にして、とっくに気づいていたことだった。
         暖房が必要な時期ならともかく、むしろ冷房がほしいくらいの今の時期は、こうしてドアも窓も開けておくと快適だ。今も、五月の風がさわやかに部屋を吹き抜けている。外は夜の闇に包まれていて、遠くから電車の走る音が聞こえるだけだった。
        「風間」
         ひょいと、怜二がダイニングキッチンから顔を出した。
        「悪い、勉強してた? メシまだなら食う?」
        「……ああ」
         時刻は午後十時半を過ぎたところだった。アルバイトが終わると怜二はまっすぐに帰宅する。どこにも寄らないで、毎日だ。
         英明は提出間近のレポートに集中していて夕食など忘れていた。怜二の声を聞いたせいか、急に空腹を覚える。
        「ちょっと待ってて。二十分でできる」
         さっそくエプロンを取る怜二の後ろ姿が、ダイニングテーブルの向こうに見えた。炊飯器を開け、よし、とつぶやく声が聞こえた。
         英明は、そっと息をつく。やはり居心地が悪い。のろのろとファイルを閉じてパソコンをシャットダウンする。居心地が悪いのは、まだ馴染めていないからだと思う。互いにプライバシーを侵害しないことが前提だったのに、気づけば怜二のペースに巻き込まれていて、だがそれが少しも嫌ではない。今も食事を用意してもらえると聞いて、何が出てくるのか期待した。そんな自分に、馴染めない。
         机を離れて、部屋を出た。キッチンに立つ怜二の横を過ぎて、英明は風呂場に入る。掃除は済ませてあった。給湯のボタンを押す。
         ふたりが暮らすここには、代々の入居者が置いていった物が数多くあった。四人掛けのダイニングテーブルもそのひとつだ。怜二は部屋を見に来たときに驚いていた。
        『ちょっと、いろいろスゴくね? なにこの冷蔵庫、デカ!』
         急に浮かれたようになって食器棚や吊り棚の中まで物色した。所詮は処分するにも面倒でたまっていった物なのだが、カセットコンロやホットプレートまであって、そのひとつひとつを見つけては楽しそうな声を上げた。
        『うわ、信じらんね! これなんて圧力鍋、なんでこんなもんまであるんだよ?』
         そんなことを言われても、英明にはそれが圧力鍋であることさえわかっていなかった。シンク下の棚の奥に押し込まれていた代物だ。
         なんて言うか……。
         思い出して英明は苦笑してしまう。どれも古くてガラクタのたぐいなのに、あんなにも喜んだなんて。だが、怜二の引っ越し荷物が極端に少なかったことを思えば、口元から笑みは消える。本当に少なかった。冷蔵庫などの家電品は処分してきたのだとしても、目についた物は、机と蒲団と小型のテレビとプラスチック製の衣装ケース数個だけだった。
         怜二の部屋は今もがらんとしている。玄関を入ってすぐの十畳ほどのダイニングキッチンから続いて、ふたつ並んである部屋の左側だ。右側の英明の部屋と同じつくりの六畳の和室で、取り柄と言えるのは大きな押入れと南に面した掃き出し窓くらいで、外のベランダは続きになっている。
        「ねえ! 何してんの? もうできるけど」
        「え? あ、ああ」
         怜二に呼ばれて英明はダイニングキッチンに戻った。おいしそうな匂いが漂っている。香ばしく、甘辛い匂いだ。
        「皿、出して。棚の二段目の左、角皿二枚」
         言われた場所を探せば、目的の物はすぐに見つかる。今では、英明よりも怜二のほうが物のありかを把握している。
        「嫌いなものがないってのは、スバラシイね」
         怜二は笑顔でご飯を盛り、お椀に味噌汁を注ぐ。それぞれをテーブルに並べて、英明の出した皿に魚の切り身を載せた。そうして、テーブルに着く。
        「ブリの照り焼き。べつに旬でもないけど、うまそうでしょ? 食べてみて」
        「ああ」
         向かい合って席に着き、英明は箸を取る。いただきます、とつぶやいて言った。さっそく照り焼きを食べてみる。
        「どう?」
        「――うまい」
        「マジ?」
        「うん」
        「だろ? ロスにして捨てたんじゃ、もったいなかったよな」
        「え」
         つい箸を止め、怜二をじっと見てしまった。
        「……マジ?」
        「ちょっと。なにその顔。なんか勘違いしてる? ロスって、消費期限切れなんだけど」
         目を尖らせて見つめ返してくる怜二の顔は、困っているようにも見える。
        「あのね。消費期限と賞味期限は別物なの。飲食店つーのは、そういうのにウルサイんだよ。うちの店チェーンだから余計に厳しくてさ、設定日過ぎたら無条件にロスなわけ」
        「それじゃ――」
         このブリはアルバイト先の居酒屋から買い取ってきたということか。
        「……安かった?」
        「タダだよ、チーフやさしいから」
         仏頂面で返され、つい吹き出してしまった。
        「なんだよー」
         自分でもわからない。なぜか笑いがこみ上げてきて、英明は苦しそうな声を出す。
        「じゃあ、焼いただけ?」
        「まさか! これ刺身用だったんだぞ? おれが味つけしたの! 鍋照りだから超簡単だったけどな!」
         ムキになって言われ、なおさら笑ってしまった。ムスッと黙り込んで、ぱくぱくと食事を進める怜二に改めて言ってみる。
        「おいしいよ」
         チラッと、上目づかいに視線を寄越した。
        「マジ、料理うまいな」
         さらに言ったら、顔を上げてきた。
        「そうか?」
         気のなさそうな声で返してきても、怜二はまんざらでもない様子だ。
        「ああ。味噌汁なんて最高。ダシがいい」
         本当のことだから、すんなりと口をついて出た。具のほうれん草も火が通り過ぎてなくて、鮮やかな緑でおいしい。和食は好物で、味の違いがよくわかる。
        「なら、もっと食えよ。あんた痩せすぎ」
         パッと明るい笑顔で言われ、英明も笑顔になる。不思議だった。怜二とこんなふうに食卓を囲んでいるのが。以前ならプライバシーの侵害だと心証を悪くしていたことも、今は少しも気にならない。
        「あー、けど、こんな時間にがっつり食ってんじゃ、すぐブタになるかな」
         おかわりのご飯を盛って言われたのでは、また笑うしかなかった。
        「大丈夫、そんな急には太らないよ」
         気軽に即答できる自分も不思議に思えた。これでは、自分ではないみたいだ。
         馴染めない――。
         だけど、心地いい。妙にくすぐったくて、ムズムズして居心地が悪く感じられるのに、やけに落ち着くようなのだ。
         少しも悪い気がしなかった。怜二との同居が始まって、まだたったの一ヶ月しか経っていないのに、このまま卒業まで一緒に暮らしていけると思えた。


        つづく


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