Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    眠れない夜のあした
    −2−



         怜二との生活は、たとえるなら気づかわれない心地よさとでも言うのだろうか。以前の同居人との暮らしを思い出して、英明はそんなふうに考える。
         彼とは互いに、腫れ物に触れるかのように接してきた。もしくは極めて事務的に。あるいは、相手はいないものと思い込んで。
         同じ工学部の二年先輩で、同居を始めたときには既にゼミで忙しくしていた。同じ学部に在籍したのがきっかけで同居が決まったのだが、生活サイクルはかなりずれていた。
         ほとんど話さなかった。もともと向こうも無口だったのもあるが、ふたりのあいだで話題になることがなかった。課題を教えてもらったことすらない。何が趣味だったのかも覚えていないのは、知る気がなかったからだ。
         似た者同士だったのだと思う。互いに忠実に同居の条件を守っていた。プライバシーを侵害しないように細心の注意を払っていたわけだが、裏を返せば、互いを気にかけすぎていたのだと思う。
         時として気づかわれている自分を感じ、そのたびに息が詰まりそうになった。相手も同じと思えば、息苦しいほどだった。ルールに基づいた生活は整然として静かで過ごしやすかったが、本当にくつろげていたかを思うと疑わしくなる。
         おかしなものだな。
         そんなふうに思ってしまう。怜二のペースに乗せられている今の生活のほうが、ずっと楽に感じられるなんて。
         すぐに同居人を見つけられていたなら、間違いなく、怜二と知り合うことはなかっただろう。一度もつきあったことのないタイプであるだけでなく、自分から近づいていこうなどとは決して思わないタイプだからだ。
        『あんたと同居できることになってラッキーだったよ』
         怜二が言ったことが思い出される。
        『こういうのって、やっぱ巡り合わせとか、そんな感じだよな』
         キーボードを叩いていた手を休め、英明はメガネをはずして眉間を軽くもんだ。窓の外には梅雨を前にした晴天が広がっている。自室にいても、からりとした天気が心地よい。
         金曜日の昨夜は遅くまで大学にいた。来週の月曜日に提出するレポートの実験データが、なかなか取れなかったからだ。
         ロボットアームの動作解析をしたいのに、そのアームが動かないのでは何も始まらない。ゼミの仲間の手も借りて不具合を直せたときには午後八時を回っていた。それから実験を開始して、途中また何度かアームを調整して、ようやくデータを取り終えられたときには、終電が過ぎていた。
         三十分歩いて帰宅したのだが、怜二はいなかった。そのときになってケータイのメールに気づいた。外泊するから心配するなという連絡だった。その一文にホッとするような思いを感じて、ベッドに入るとすぐに眠れた。
         正午前に起き出してからずっと、解析用のデータを自分のパソコンに打ち直している。集中していると実験もプログラミングも少しも苦ではないのだが、目の疲れだけはどうしようもない。いっそのこと、もう一度眠って休もうかと思ったときだった。
        「ただいま〜」
         玄関から声が聞こえた。おかえりと返したのだが、まぶたを押さえてうつむいた姿勢では、つぶやきにしかならなかった。
        「あれ? どうしたの? 入ってもいい?」
         開いていたドアから声をかけてきた怜二に、うつむいたまま黙って頷いた。
        「うわ、もしかして徹夜?」
         かすかに首を振って答える。
        「にしても、スゴイね、これ」
         ふたつ並んだ机の双方にも、床にも、実験データをプリントアウトした紙が広がっている。使えるデータと使えないデータの選別で、モニターを見ているのが辛くなっての結果だ。
        「データ取るのに夜まで大学にいた。アームがまともに動かなくて……機械は苦手だ」
        「あんた、器用じゃないもんな」
         英明の隣に立って、くすっと怜二は笑う。
        「どうせ俺は料理もできないよ」
         嫌みったらしく言っても明るく返してくる。
        「いいじゃん、そんなの。出来上がった機械を思いどおりに動かす研究してんだろ? 自分で組み立てられなくたって無問題じゃん」
         ドキッとして英明は怜二に目を向けた。確かに自分の研究テーマはロボット制御だが、そこまで理解されていたとは知らなかった。
        「これってデータ入力? 手伝おうか?」
        「……いや、それは」
        「おれじゃ無理?」
        「そういうわけじゃ――」
        「なら代わるよ、遠慮なんかすんな。おれなんて一晩中遊んで元気ハツラツなんだから」
         怜二は、ごく自然な動作で体をすべらせてきて英明を立たせ、替わって椅子に座った。そうして、晴れやかな顔で英明を見上げる。
        「で、どうすればいい?」
         ためらいはあったが、英明は口を開いた。怜二に手順を説明する。
        「なんだ、楽勝じゃん。わかんないことあったら呼ぶから、あんたは寝てな」
         怜二に押しやられるようにして背後のベッドまで下がった。余計なことは考えずに、そのまま突っ伏した。
         園田……。
         横目で、ほっそりとした後ろ姿を捉える。すぐにキーボードを叩く音がリズミカルに聞こえてきた。パソコンには慣れているようだ。
         外泊――初めてだったな。
         ふとそんなことを思ったが、急に襲ってきた眠気に英明は抗えない。
         ……そうじゃなくて。
        「園田――」
         枕に顔をうずめ、くぐもった声で呼んだ。
        「ん?」
        「……ありがとう」
        「え?」
         キーボードを叩いていた音が止まり、ギシッと椅子のきしむ音が聞こえたが、もう英明は目も上げられなかった。
         温かく穏やかな気持ちで満たされるようなのは、背に感じる初夏の陽射しのせいだけではないだろう。緊張が解けて、英明はゆるやかにまどろんでいく。
         目が覚めたときには、空は赤く染まっていた。寝たときと同じうつ伏せになっていた背に、自分のものではない毛布がかかっていた。
         パソコンに目を向けるとモニターは暗い。あたりに散らばっていた紙は、きちんと束ねられて机の上にある。
         何も物音がしなかった。怜二は出かけたのだろう。土日は怜二の休息日だ。
        『リーマン相手の居酒屋だから、おれが土日休みだと、店も都合いいの』
         以前、そんなことを聞かされた。どこに行ったのかな、と英明はぼやけた頭で考える。夕食の材料を買いに行ったのかもしれない。そう言えば今月は、まだ『共用金』を入れてなかった。それは、怜二とのあいだで新しくできた取り決めだった。
        『え〜、マジ? トレペまで別々だったの?』
         それではバカバカしいから、特にこだわりがないなら石鹸や洗剤やトイレットペーパーなども共同で購入しようと怜二が言い出して、そうなった。毎月、食材費と合わせて、それぞれ二万円ずつ出すことになった。
         それでは少ないのではと英明は言ったのだが、足りなかったら増やせばいいと、あっさり返された。
        『きちきちに考えすぎるところ、よくないよ』
        『……そうだな』
        『――え?』
         言われて図星に思えたからすんなり同意したのに、不思議そうな顔をされてしまった。
        『だって……いや、いいんだけど。でも、プライバシーの侵害とか言うと思ったから』
         英明のほうこそ気が抜けたようになった。性格のことまで言われるなら大きなお世話と突っぱねてもおかしくないのに、少しも気にならなかった。
        『うん……なんか、自分でもそう思ったから』
        『あんた、意外に素直なんだな』
        『え?』
         互いに、妙に照れくさくなったのが思い出される。ただ、プライバシーの侵害とかそういうことは、もう怜二とはどうでもいいように感じられた。
         今日の風呂掃除……俺か。
         ぼんやりと思い当たって、英明はのろのろと起き上がった。怜二の毛布をたたんでいたら、外から声が聞こえた。
        「だから! 帰れよ!」
         ――園田?
         英明は驚いて窓に目を向ける。外から怜二の声が聞こえたなど初めてだし、そもそも怜二が誰かとマンションの前にいること自体が初めてだ。律儀にも、怜二は恋人どころか友人すら連れてきたことがなかった。
        「いいから帰れ!」
         また怜二の声が聞こえたのに、相手の声は聞こえてこない。いったい誰と何を言い争っているのかと英明は思う。後ろめたい気持ちはあったが、ベランダに出てみた。
        「省吾……もう、こういうのは嫌なんだ」
         再開発から取り残されたような住宅地だ。眼下の通りには、ほかに人影はなかった。それでも同じマンションの住人には声が筒抜けではないかと英明は気になってくる。
         怜二は、正面に立つ男の腕をつかんでいた。いくらか年上に感じられる背の高い男だ。英明にはブルーのシャツの広い背中が見える。
        「お願いだから、帰って」
         そう言って男を見上げた怜二と、二階のベランダにいる英明の目が合った。焦ったのは、互いにだ。怜二はいきなり男を突き飛ばした。
        「ふざけんなよ、怜二」
         その途端、男に手首を捕らえられる。勢いで怜二はよろめき、背後に転びかけた。
        「園田!」
         咄嗟に呼びかけてしまい、英明はハッとする。男がこちらを見上げた。怒りに強張っていたような顔が一瞬で冷笑に変わった。
        「怜二。こういうことかよ?」
         英明にもはっきり聞こえたのは、男がわざとそう言ったからに違いない。
         俺が、呼んだから――?
         事情はわからないが、まずいことをしてしまったようだ。
        「ほら、行くぞ」
         男はぐいっと怜二の腕を引いてマンションに入ってこようとする。
        「放せ、ちくしょう、ヤだってば!」
         怜二は抗うのだが男に太刀打ちできそうにはない。英明はいっそう焦ってくる。飛び出していいのか、待ち受けたほうがいいのか。
         でも!
         もう何の説明がなくても明らかだ。あの男は怜二が嫌がるのにここまで来たのだ。
         英明は玄関を飛び出す。エレベーター脇の階段を駆け下りた。今はとにかく怜二を男から引き離して連れ戻したほうがいい。事情を聞くのは玄関の鍵をかけてからだ。
        「園田!」
         エントランスでもみ合いになっていた怜二に駆け寄った。背後から怜二の腰に両腕を回し、力ずくで男から引き離した。怜二は怜二で、つかまれていた手首を自力で解く。
        「走れ!」
         もつれそうな足で階段を駆け上った。玄関に飛び込むまで、英明は怜二の手を放さなかった。
         急いで鍵をかけ、ドアに背でもたれる。肩で息を整え、顔を上げたら怜二と目が合った。
        「園田……」
         呼びかけたものの声が続かなかった。英明は大きく目を瞠る。
         怜二は英明をまっすぐに見つめていた。二重の大きな目が濡れている。涙が溢れ、頬を伝い落ちた。
        「園田……俺……」
         とんでもなく間違ったことをしてしまったのだろうか。英明はきつく眉を寄せる。
        「いいんだ、気に……しないで、風間は――」
         言いかけて怜二は声を詰まらせた。片手で口を覆い、ふいと目をそらした。
        「――怜二」
         外から聞こえた硬い声に英明は身構える。
        「いるんだろ? 声、聞こえたぞ」
         ドア一枚隔てたそこに男が留まっていたとは思いもよらなかった。英明はドアに片耳を押しつける。
        「いいのか? これで」
         チラッと視線を流して怜二をうかがった。怜二は横顔を見せて、口を覆って嗚咽をこらえている。
        「淫乱」
         ドア越しに聞こえた声に英明は耳を疑った。
        「そんなヤツで、おまえが満足できるかよ」
         その意味を考え、大きく息を飲んだ。
        「俺じゃないと駄目だろ? ――なあ!」
         ガン、と鉄製のドアが音を上げた。英明は急に鼓動が駆け出して息苦しい。すぐにも外の男を追い返したい。しかし、ここでまた口を出して怜二を余計に困らせる事態になっては、たまらない。
        「……帰れよ」
         ぼそっと怜二の声が聞こえ、英明はハッと顔を向けた。
        「帰れよ、省吾! みっともないよ、ぜんぜんあんたらしくないじゃん!」
         鍵をあけようとしたら、怜二の手に止められた。怜二は濡れた目で英明をしっかりと見つめ、首を横に振る。
        「怜二……それはおまえだろ? どうせまた戻ってくるのに、なんで逃げる?」
         猫なで声になって男が言った。英明の目の前で、怜二の顔が悲痛に歪む。
         間があいた。三人とも声を出さない。そのわずかな時間が英明は無性に長く感じられた。
        「帰って……くれよ」
         やがて怜二が絞り出すような声をもらした。
        「お願いだから帰ってくれよ! 今一緒にいるヤツ、何も関係ないんだ! なに言ったって、あんたわかんないだろ! こんなとこでシュラバる気かよ、そんなの、あんたじゃない!」
         ガタッとドアが音を上げる。英明を押しのけ、怜二がドアにすがった。
        「おれ、あんたを裏切ったことなんて一度もない!」
         一瞬の間のあと、低い声が聞こえてきた。
        「そんなこと、俺が知るか」
         もう英明は黙っていられなかった。ドアに向かって、きっぱりと言い放つ。
        「帰ってください。俺が不審者通報する前に」
         息をひそめ、英明は耳をそばだてる。ようやく遠ざかっていく靴音が聞こえ、ホッと胸を撫で下ろした。
        「ごめん――」
         くぐもった怜二の声を聞き、英明は目を向ける。
        「ごめん、本当に。こんなこと……もしかしたらって思わなかったわけじゃないけど……まさか、あいつ……こんなふうに」
        「園田」
         英明は深いため息を落とす。目の前で肩を震わせる細い背中をじっと見つめる。
         普段の怜二からは想像もつかない姿だ。いつも明るく率直な怜二からは――。
        「おれ……出ていくよ」
         ドアにすがったまま怜二は言った。
        「あんたに迷惑になる」
         ふうっと、今一度、英明は深く息を吐いた。
        「今の人、恋人?」
         言えば、ヒクッと怜二の背中が揺れた。
        「……どうかな。恋人だなんて……そんなふうに言えるのかな」
        「なら、出ていくな」
         怜二はそろそろと顔を向けてくる。大きく瞠った目で食い入るように英明を見つめる。
        「誰かと同居のほうが都合いいんだろう? それなら俺にしとけ」
        「な、んで」
        「俺はもう、わかったから。また同じことになったら、今度はもっとうまくやるから」
        「風間?」
        「俺じゃ頼りないか?」
        「そうじゃなくて……」
         怜二は体ごと英明に向き直り、ドアに背を預けた。英明を見つめたまま、ずるずるとへたり込んでしまう。
        「……どう、言えば」
        「何が?」
        「だから――」
         うなだれて片手で額を支え、前髪をくしゃっとつかむ。探るように、英明を上目づかいに見上げる。
        「あんた……何も感じないわけ?」
        「感じるって、何を?」
        「おれも、省吾も……男なんだけど」
        「そんなこと、実物見たんだから知ってる」
        「なにそれ? あんたマジわかんねえ。信じらんねえ、本気?」
        「何も嘘なんかついてない」
        「だからそうじゃなくて――ハッ!」
         きつく眉を寄せた顔で、怜二は声を上げて笑った。そのうちしゃくりあげるようになって、立てた膝を抱えて顔をうずめた。
         本当は、英明はわかっていた。怜二が何を言いたかったのか、自分に何を聞かせたのか。
         だからって……。
         思ったことを声にしてみる。怜二に言う。
        「園田は園田だろう? 俺には同じ園田だ」
         同居して一ヵ月半、その間に知った怜二に何も変わりはないと思う。英明にとっては、明るく率直で料理が上手な怜二だ。一緒に暮らしていて、くつろげる――。
        「こういうのって……プライバシーなんじゃねえの?」
        「そういうことなら俺に先に言わせろ」
         プライバシーに立ち入ったのは怜二が先だ。
        「あんた……バカだ」
         英明は、フッと口元を緩める。怜二を見つめる眼差しがやわらぐ。
        「いいよ、バカだって。俺は、園田をもっと知りたい。園田にも俺をもっと知ってほしい」
        「やっぱバカだよ、あんた。自分から言い出した約束、自分で破るのか」
         それには答えなかった。英明は怜二に背を向けて、今になってようやく靴を脱ぐ。
        「さっきの」
         掠れた声を背中で聞いた。
        「じんときた。おれはおれだ、っての――」
         それにも答えずに英明は自室に向かう。開きっぱなしのドアまで来て足が止まった。
         胸が熱い。緊張とは別の理由で鼓動が速い。嘘はひとつも言わなかった。もっと深く怜二と関わり合いたいと本気で願っている。
         じんときたのは俺だよ。
         もう何年も忘れていた気持ちだ。誰かと、心から打ち解け合ってみたいだなんて――。
        「怜二」
         その名を声にしてみる。
        「怜二」
         まだ玄関にいる怜二に背中で呼びかける。
        「俺、これからはそう呼ぶから」
         あんな男ですら、そう呼んでいるなら。
         すぐには何も返ってこなかった。英明は振り向く。驚いた顔の怜二と目が合った。
        「うん……いいのかな、うれしいよ英明」
         掠れて、いっそうハスキーな声が、英明の耳にやわらかく響いた。


        「風間は何日に帰んの?」
         夏休みを目前にした昼下がりの学食は、前期試験が終わったこともあって閑散としていた。大きなテーブルの端に向かい合って座る涌井は、英明には学内でただひとりの高校からの同級生だ。もっとも三年になった今は、つきあいがない。学部が違うから、ばったり学内で会うことも少なくなっていた。
         英明はアイスコーヒーを口に運びながら、タバコに火をつける涌井を眺める。そう言えば自分にも怜二にも喫煙の習慣がないなと、そんなことをぼんやりと思った。
        「お盆に同窓会あるだろ? 卒業三周年だからとかでさ。――出る?」
        「……俺が?」
         ぽつりと言えば、涌井は苦笑して天井に向かってタバコの煙を吐いた。
        「なに、それ? もう時効なんじゃねえの? 先生は呼んでないって話だし」
         こいつ本当に変わったな、と英明は思う。
         郷里の新潟を離れ、都内でひとり暮らしをしながら大学に通っているのは英明も同じだが、高校時代の涌井はクラス委員をするような、もっと地味で真面目な印象の男だった。
         大学に入ってから相当遊んでいるのは、たまに見かけるだけでもわかった。見かけるたびに服装や髪が派手になっていて、大概、男女取り混ぜた数人で騒がしくしている。
         今こうして向かい合って話しているのも、ついさっき呼び止められたからにすぎない。女連れのことが多いのに、珍しく涌井もひとりだった。
        「まだ引きずってるわけ?」
         言われて英明も苦笑する。涌井は、こんな軽口で他人の傷をえぐる男ではなかった。
        「おまえ、今、女いないの?」
         ため息を押し殺して英明は口を開く。
        「誰もが自分と同じとでも思ってるわけ?」
         涌井は声を上げて笑った。
        「なわけ、ねえって。風間みたいな大胆なこと、俺にできるわけないだろ?」
         時は多くのものを風化させる。あの当時の涌井は英明を支えてくれたのに、今の涌井には、あのことさえ単なる語り草になったようだ。
        「同窓会には出ないよ」
         メガネを押し上げ、英明は冷たく言った。
        「なんでだよ。諸橋、気にしてたぞ。風間から返事がないってさ。あいつ幹事だろ? 俺にまで言ってきた」
        「なら、出ないって、おまえから言ってくれ」
        「出ればいいのに。みんな、忘れてるって。水沢とは、あれっきりなんだろ?」
        「涌井!」
         つい、声が荒いでしまった。
        「なんだよ?」
         平然と返され、英明は喉までせり上がっていた言葉をぐっと飲み込む。
         おまえが覚えてるじゃないか。忘れてないじゃないか。俺に、そう言ってるじゃないか。
         唇を噛んで立ち上がった。
        「英明!」
         耳に馴染んだ声に明るく呼ばれた。
        「なにこの偶然。今、ケータイかけようとしてたんだ」
         怜二だ。ケータイをポケットに押し込みながら笑顔で歩み寄ってくる。
        「これから買い出し行くけど、メシの材料のほかに何か買うものある――って、何……」
         近くまで来て急に足を止めた。怜二の視線は英明を飛び越えて涌井に注がれている。
        「ちょ、嘘だろ? え、何?」
         涌井が上ずった声を上げた。
        「風間、おまえまさか、そいつと同居してんの? なんか、そんなマンションに住んでたよな?」
        「悪いか?」
         考えるより先に声が出た。英明は冷ややかに涌井を見下ろす。
        「俺が誰と住んでたって関係ないだろう?」
        「マジ? だって、そいつ――」
        「英明。おれ、行くから。あとで足りないものあったら、買っておいて」
         くるりと背を向けると、怜二は足早に学食を出ていく。英明は呼び止めなかった。むしろ呼び止めるべきではないだろう。怜二とは、あとでいくらでも話せる。今は――。
        「何が言いたい」
         再び席に着くことなく、立ったまま涌井に吐き捨てた。涌井は薄笑いを浮かべてタバコをもみ消す。
        「べつに。言わなくてもわかったみたいだし」
         ムッとして英明は眉をひそめた。嫌な言い方をされた。商学部の怜二と経済学部の涌井が顔見知りとは考えにくいが、今さら疑う余地はない。
        「けど、驚きだよ。ホント、風間のまねなんて俺にはできない」
        「涌井――」
        「高校のときは教師で、今はホモ? マジすげえよ、おまえ」
         すっと英明は息を飲む。声が出なかった。
        「は? 違うとか言わねえよな? あいつ、ホモなんだし」
         涌井にそこまで言われるとは思いもしなかった。怜二とは何もない。だが、ここで涌井に言ったところで、きっと何も伝わらない。
        『風間って、物理の水沢とデキてんだぜ?』
         かつて偶然耳にした声が思い出された。
        「――だから?」
         じわじわと怒りが満ちてくる。抑えるのに苦労する。虚しさで胸がいっぱいになる。
        「だからって。だから、そうなんだろ?」
        「なんで俺がそんなこと言われなくちゃならないんだよ!」
         思わず、叫んでいた。
        「涌井。おまえ変わりすぎだ。もう、二度と会わない」
         そう言うなり、テーブルを離れた。涌井が何か言ったようだったが気にも留めなかった。
         学食を出て、大学を後にする。嫌な気持ちで胸がいっぱいだ。不意に先日のことに思い当たって、なおさらやるせなくなった。
         ゼミが終わって笹塚と校舎を出たときだった。偶然、怜二を見かけた。藤棚の下のベンチで何人かと話していた。
         学内で怜二に会うことは滅多にない。もっとも商学部の三年ともなれば必修課目が少ないらしく、夜のアルバイトのためもあるのか、怜二は講義を毎日均等に取っていて、学内にいる時間が短いせいでもあった。
         それでも顔を合わせれば、軽く手を上げてみたり、アイコンタクトを取ったりしている。たまには話すこともあるが、大抵それぞれの友人と一緒なので、互いになんとなく遠慮している。
         あのときも怜二は英明に気づいて軽く手を上げて見せた。怜二といたひとりが振り向いたが、英明も手を上げて返した。
        『あいつと知り合いなのか?』
         横から笹塚が怪訝そうに尋ねてきた。
        『言ってなかったか? 今の同居人』
        『え? けどあいつ、商学部かどこかだろ?』
        『そうだけど。なんで知ってるんだ?』
         学部の違う怜二を笹塚が知っていたとは意外だった。笹塚は急に顔を曇らせた。
        『知ってるってほどじゃない。て言うか風間、おまえ……あいつって、同居してどうよ?』
        『どう、って。普通だけど――』
        『そうか。なら、いいんだ。気にすんな』
         歯切れも悪く、笹塚は話を濁して終わらせた。少しも笹塚らしくなかった。気にするなと言われても気になったが、追求するほどのことでもないように思え、英明もそれ以上何も言わなかった。
         だけど……笹塚も知ってたってことか――。
         学内のどのあたりで噂になっているかは想像もつかないが、少なくとも怜二が同性を恋人にすることは、学部を越えて一部に知れ渡っているようだ。
         噂なんて。噂してるやつらには、どうでもいいことなのに。
         英明はうなだれてしまう。前へ、前へと進む自分の足を見つめ、駅への道を急ぐ。
         忘れようとしても、なかなか忘れられない記憶が脳裏を占めていた。忘れたいわけでなくても忘れてなくてはいられない、苦く甘い記憶だ。高校二年のときだった。物理教諭の水沢に恋をした。
         英明は理科部の部長で、水沢は顧問だった。その関係から、ふたりで放課後の理科準備室にいることが多かった。部活の内容や英明の個人研究について水沢がアドバイスをしたり、英明が水沢の手伝いをしたりしていたのだが、いつしかプライベートな話もするようになっていた。
         やがて英明は、水沢にすっかり魅了されていた。理知的で聡明な、三十二歳の独身女性としか目に映らなくなった。
         そうなっても迷いがなかったわけではない。相手は教師だ。しかし、どれほど自身に言い聞かせても気持ちは抑え切れなかった。
         どこにいても水沢を見つければ熱い眼差しで追ってしまった。それまでと同じように接していたつもりでも、何かが違ってしまった。
         そのうち本人に伝わってしまい、距離をおかれそうになったとき、あきらめるどころか最後の一歩を踏み出してしまったのは、真剣だったからにほかならない。
         どうして受け入れられたのか、考える余裕などまったくなかった。受け入れられた喜びに舞い上がり、求めてひとつ許されるなら、さらに求めて溺れていった。
        『風間くんとこうなって、私は自分が女なのを思い出したわ。風間くんとこうしていると、私は輝いていられる――』
         熱い吐息を落としながらも、泣き笑いのような顔でそう言われたことが、いつになっても胸の奥底に残っている。
         互いに真剣だったことは今も疑っていない。しかし時が過ぎて、気持ちの形が違っていたと気づいた。
         英明が三年に進級する春、別れも告げずに水沢は辞職した。転勤ではなかった。英明は、水沢を辞職にまで追いやった自分の幼さを悔いた。
         直情的に求めるばかりだった。相手の立場や不安など少しも思いやれなかった。周囲に知られてしまったのは自分のせいだ。追って、やり直しを請うなら、いっそう傷つき合うだけだとあきらめた。
         だから、怜二――。
         怜二の気持ちがわかると言っては、うぬぼれがすぎるだろうか。どんな理由からでも、後ろ指を差される恋は辛い。そうと知っても、真剣であるほど気持ちは止められない。
         電車に揺られながら英明はため息をもらす。ひとに言えない恋はそれだけでも苦しいのに、怜二は恋人とうまくいってないようなのだ。あの男が来た日、いつも明るい怜二があんな顔を見せたなんて、思い出しても胸が痛む。
         でも……大丈夫か。
         学内で見かける怜二は、大概、友人と一緒だ。何を噂されていても離れない友人がいるなら大丈夫だ。支えてくれる人がいるなら――自分も怜二の支えになりたいと心から思う。
         電車を降りると、その足でスーパーに向かった。怜二は食料品を買いに行くと言っていたから、きっとまだそこにいるはずだ。
        「怜二」
         鮮魚コーナーの前で追いついた。カートの中には既にかなりの品が入っている。
        「英明。来たんだ」
         驚いた目を向けてきた。笑顔を返す。
        「あんた、来週帰るんだよな? 野菜買いすぎないようにしたんだけど、こんなもん?」
         訊かれてもよくわからないのだが頷いて、英明はカートを押す手を替わった。
        「トイレットペーパーが少なかった」
        「あー、そうだったな」
         言えば、怜二は慣れた様子で棚の角を曲がった。すらりとした後ろ姿についていく。細く見えても背筋の伸びた、凛々しい後ろ姿だ。
        「今夜、カレーでいい? 暑いと、辛いもの食べたくなるじゃん」
         それにも英明は頷くだけで答えた。なんだか怜二が頼もしく目に映る。先ほどの涌井とのことになど、触れてこようともしない。そう思ってハッとした。
         気丈に振る舞っているだけかもしれない。自分を煩わすことのないように、泣き言などもらさないように。
         あの男のことにしても、そうだ。あれから一度も会話に出ない。怜二が自ら話そうとしないなら尋ねてはいけないように思えていたが、それではまるで、何もなかったことにしているみたいだ。
         英明は、怜二の後ろ姿をじっと見つめる。
         もっと知りたい……なんて思ったら、駄目かな。でも、怜二をもっと知りたい。
        「英明。アイスクリーム買おうか。カレーのときって食べたくなんない?」
         パッと明るい笑顔を向けられた。ズキッと胸が痛み、このままではいられないと思った。
         スーパーを出て、少しもしないうちに突然の土砂降りに見舞われた。たちまちのうちに、アスファルトの路面に水煙が上がる。
        「ウソ、なにこの夕立!」
        「走って帰る?」
        「無理、トレペなんてびしょ濡れ!」
         目についた商店の軒下に駆け込んだ。ちょうど店休日でシャッターが下りている。
        「コンビニで傘買ってくる?」
        「えー? すぐやむよ、空明るいし」
         道行く人が隣に駆け込んできた。強い雨足の跳ね返りをよけて隅に寄る。
        「バイト遅刻しない?」
        「平気。今日は一時間遅れだから買い物できたんだし」
        「アイスクリーム溶けない?」
        「ドライアイス入れてもらったから大丈夫だよ――って、なんか文句多いよ、あんた」
        「そういうわけじゃないけど……」
         口ごもり、英明は通りに目を向けた。白く煙る雨のカーテンに閉ざされ、視界はおぼつかない。軒先からも忙しなく雨が滴っている。痺れを切らしたのか、同じ軒下にいた男が駆け足で飛び出ていった。
        「すぐには、やまないんじゃないかな」
         英明が不安そうに言っても、怜二は素っ気ないほどの声で返してくる。
        「んなこと、ないって。――あ!」
        「なに?」
        「そうだよ、今日一時間遅れだから、おれ帰るの十一時半。バイト行く前にカレー作ろうと思ってたのに」
         英明は笑ってしまった。
        「カレーなら俺でも作れる」
        「マジ? あんたが作ってくれんの?」
         怜二はうれしそうな顔を向けてくる。明るい笑顔に見つめられ、英明はまた胸が痛んだ。
         息が詰まる。雨に閉ざされ、狭い空間にふたりきりでいる――黙っていられなくなる。
        「あのさ。訊いてもいい? あの人のこと」
         唐突にもれた自分の声に焦った。
        「英明……」
         見る間に怜二の細い眉が寄る。笑顔が翳る。
        「嫌ならいいんだ、話さなくて」
         慌てて取り繕っても、言ってしまったことは戻せない。怜二はうつむいてしまった。その横顔を見つめ、英明はそっと息をついた。
        「ごめん。立ち入ったことだった。でも、辛いんじゃないかと思って。話して少しでも楽になるようなら、俺が聞きたいと思って」
         雨の音が耳につく。激しい雨は視界だけでなく、音まですべて奪うようだった。
        「省吾は――」
         その声は、どうにか聞き取れるほどだった。
        「高三のときに知り合って……卒業生なんだ。初めてで、夢中になりすぎて親にバレた」
         ズキッとして、英明の鼓動は跳ね上がった。そんなことが聞きたかったわけではないと言い訳しそうになり、だが怜二を止められない。
        「いづらくなって家を出て、だけど、あいつリーマンだし、一緒になんて住めないとか言って……そのくせ、おれのとこ来たりして」
         たどたどしくも話し続ける怜二をただじっと大きく瞠った目で見つめる。
        「たまらないんだよ。おれが会いたくたってダメなときはダメで、けど、おれの都合なんて無視して勝手に来たりしてさ。平気な顔で放っておくくせに、おれだけだとか言って、そんなの信じらんねえじゃん」
         怜二の声は次第に大きくなる。激しい雨音をしのいで英明の耳に響いてくる。
        「これじゃヤるだけの泥沼だ、ちっとも恋人なんかじゃない。もう、ヤなんだよ、だから省吾に言わないで引っ越した。悪かったよ、おれ、あんたを利用した! 男と同居なら、省吾がおれを捨てると思ったんだ!」
         咄嗟に強い力で手首を握られた。ドサッと足元に買い物の袋が落ちた。
         自分でもわからない。気づいたときには、英明は怜二を胸に抱き寄せていた。
        「バカだ……」
         熱く湿った体温を感じながら英明は囁いた。
        「無理して。まだ好きなのに――」
         ヒクッと、腕の中で怜二の体が揺れた。怜二は、背けた顔を英明の肩に押しつけてくる。
        「やめろよ……バカなのは、あんただ。おれに利用されて、とばっちり受けて。なのに……なんで、やさしくする――」
         胸が締めつけられ、英明は苦しかった。怜二の支えになりたいと、いっそう強く思った。
        「たまらなくなる。こんなふうになるなんて思わなかった。ひとりになっても平気でいられそうな気がするなんて……あんたと暮らすうちに、そんなふうになってたなんて――」
         ……え?
         ハッとして英明は怜二の顔を覗き見ようとした。しかし怜二は顔を伏せたまま、静かに英明から離れた。
        「ごめんな。マジ、謝る。あのとき、出ていかなくていいって言ってもらえて、本当に助かったんだ。もう、迷惑かけないようにする」
         そう言って英明を見上げた顔は、眉を寄せながらも明るく笑おうとしていた。
        「よかったよ、話せて。なんかスッキリした」
         そうじゃないだろう……?
         思うのだが、その理由が英明はわからない。
        「あ、雨上がってきてる。な? おれが言ったとおりだろ?」
         照れくさそうに笑う怜二を半ば呆然と英明は見つめた。胸が苦しかった。締めつけられるような感覚は、消えるどころかより強くなっていた。
         せつない――怜二の笑顔を英明は泣き出したくなるような思いで見つめるだけだった。


        つづく


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