Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    眠れない夜のあした
    −4−



         せつなくても甘い喜びに満ちた恋など、本当にあるのだろうか。英明は、そんなことを思ってしまう。それでは現実逃避だと自嘲しても、やるせない。恋はいつだって、自分には苦しいだけだ。
         あれから怜二とは、まともに顔を合わせていない。事前に聞かされていたとおり、怜二は毎日アルバイトに行っている。出かける前まで自室で眠っていて、帰宅は深夜を過ぎてからだ。外で特に時間を潰してきているわけではなく、それほど仕事が忙しいからなのは、疲れきった顔を垣間見てわかった。
         怜二に打たれた頬は赤くなっただけで、そのうち引いた。そのあいだ、怜二に言われたことを考え続けていた。考えても答えは出なかった。何もできないのは自分も同じだ。
        『あんた、ずるいよ! 自分のことしか考えてない、傷つくのが恐くて、マジ臆病だ!』
         卑怯と言われたことは図星に思えたが、あとは納得がいかなかった。自分が傷つくことよりも、怜二を傷つけてしまうことが恐い。だから臆病になっている。
         怜二には、そうは見えないのか――あたりまえだよな。
         何も伝えていないのだから。それに、この気持ちを伝えるつもりはもともとないのだ。伝えれば怜二をもっと苦しませることになる。それは、嫌だった。
         蟹鍋の約束をした二十四日の前日、夕方になって、英明はクール便で送られてきた蟹を受け取った。怜二が注文したようだ。伝票にハンを押しても、どこか信じられない気持ちだった。怜二とこじれているのに蟹が届いた。本当に、ふたりで蟹鍋をするのだろうか。
         同じ日の深夜遅く、怜二は日付が変わってから帰宅した。翌日になって、二十四日当日の正午を過ぎても起きてこなかった。英明にはすることが何もない。ただ自室にいて、成り行きに任せていた。
        「おはよう」
         だから、午後三時を過ぎてドアの外から聞こえた声の明るさに戸惑いを隠せなかった。
        「開けていい?」
        「ああ」
         答えれば、怜二は晴れやかな笑顔を覗かせた。
        「今日は蟹鍋だ」
         英明はどんな顔をすればいいのかわからなくて、目を瞬かせるだけだった。
        「先に買い出しだな。ほら、行くぞ」
         急き立てられ、言われるままに連れ立って買い物に出かけた。
         道すがら、もう点灯しているイルミネーションが、いくつか目についた。いつものスーパーに入る。英明はカートを押して、怜二に続いた。
         目に映る怜二は、とても楽しそうだ。うきうきする気分は抑えようもないらしく、手に取るのは白菜やネギや舞茸なのに、ずっと明るい笑顔でいる。
        「次は酒屋だ」
         それぞれにスーパーの袋を提げて通りに出てから、怜二が言った。一瞬迷ったが、英明はさりげなく口を開いた。
        「酒なら買ってある。日本酒だけど」
         うまい酒が欲しいと思ったあのとき、ためらいなく、遠方の日本酒専門店まで足を運んでいた。
        「うそ」
         怜二は本当に驚いたような目になって英明を見る。
        「嘘って言われても……実際あるんだけど」
        「ううん」
         はにかんだようになって怜二は首を振った。
        「英明がそんなに楽しみにしてくれてたなんて、思ってなかった」
         それに返せる言葉は英明にはなかった。
         マンションに戻り、ダイニングテーブルに食材を広げ、ふたりで用意にかかった。蟹は冷凍庫で出番を待っている。英明が買い置いていた一升瓶を見せれば、怜二はにっこりと笑った。
        「これだったら、冷がいいね」
         英明の手から受け取り、ベランダに出ていく。一升瓶ごと外気で冷やすつもりだ。
         キッチンに並んで立った。英明が野菜を洗い、怜二が刻む。鍋は先に火にかけられていて、湯気を上げ始めていた。
         ふと鼻歌が耳に入り、英明はそっと怜二の横顔をうかがった。穏やかでやさしい笑顔だ。鼻歌も自然と出てきたのだろう。
         やるせない気持ちで胸がいっぱいになった。せつなくて、泣き出してしまいたくなる。こんな時間がいつまでも続けばいいと、何度も願ったことが思い出された。
         だったら、俺は――。
         本当にそう願うなら、怜二に伝えなければならないだろう。胸が締めつけられる。英明は苦しい息を吐き出した。
        「怜二」
        「なに」
         鼻歌が途絶え、あっさりとした返事が聞こえた。ふたりとも、視線は手元にある。
        「……ありがとう」
         白菜をむきながら英明はぽつりと言った。
        「なんで?」
         人参を輪切りにしながら怜二が答えた。
        「あんなふうになったのに、今はこうしていられるのが、すごくうれしい」
         しばらくの沈黙に包まれた。包丁の立てる音だけが耳につく。
        「……なに? それ」
         怜二の声が冷たく響いた。
        「え……」
        「だから、それってなんだよ? みんな済んだことでした、とでも言いたいわけ?」
         包丁の音が止まった。思わず英明は怜二に顔を向ける。眉を跳ね上げ、きつい眼差しで自分を見ていた怜二と目が合った。
        「おれがニコニコしてれば、それでいいって?」
         意外すぎて、何も言えなかった。
        「あんた、どこまで勝手なんだよ! 自分じゃ何もしないで、全部おれのせいかよ!」
        「そんなこと思ってない」
         慌てて言い放った。
        「じゃあ、どう思ってんだよ、言えよ!」
        「それは――」
        「だからそうやって、あんたがはっきりしないからだろ! おれはあんたが好きだ、惚れてる。省吾と別れる前から、ずっとだ。けど、これでいいのかよ? ホモに引き込まれて、あんたはそれでいいのかよ!」
         息を飲みかけ、英明はじっと怜二を見つめた。真剣な顔だ。
         引き込まれるって――。
         怜二がそんなふうに考えていたとは思いもしなかった。そんな引け目があったなんて。
         ……同じだ。
         どんなに気持ちを募らせても、自分は本当には相手を思いやれない。
        「俺は――」
         言えることはひとつだ。怜二に恋してる。
        「でも……」
         今も怜二を苦しませている。
        「……同じだ、苦しいだけの恋になる」
        「なんだよ、それ!」
         ダンッと大きな音を立てて、まな板の上に包丁が置かれた。
        「鍋はなしだ」
         言い切って、怜二は英明の背後をすり抜ける。その腕を英明は咄嗟につかんだ。
        「どこ行くんだ」
        「放せよ、あんたと楽しく鍋なんかする気になんねえよ! あんたといるのも嫌だ!」
        「待ってくれ」
        「――ふざけんな」
         低く唸り、怜二は冷たい視線を流してきた。
        「あんたやっぱり、自分がなに言ったか、わからねえんだな。ホモが嫌なら、最初からそう言えって」
        「違う、そうじゃない!」
        「じゃあ、どうなんだよっ」
        「俺は情けないんだ、おまえを苦しませるだけだ、おまえを少しもわかってやれない」
        「バカにすんな!」
         床に向かって怜二は叫んだ。
        「そんなこと、いつおれが頼んだよ? 幸せにしてくれとか言ったか? いいことばっかの恋なんて、ないだろ? あるって言うなら、あんたが教えてくれればいいじゃないか!」
        「だから、俺にはできないから!」
        「そんなこと訊いてんじゃねえんだよ!」
         つかまれていた腕を荒っぽく振りほどく。
        「キスしたくせに! おれが好きなんじゃねえのかよ! なんで言えないんだよ! なんで、言ってくれないんだよ!」
         最後は涙声になって、つぶやいた。
        「……おれが男じゃなかったら、言えるのか?」
         英明は殴られたようなショックを受ける。
         やっぱり、同じだ。
        『あなたが先生じゃなかったら、この恋はもっと簡単だった』
         かつて自分が放った言葉と変わりない。
         よろよろとシンクの端をつかむ。あまりの息苦しさに胸を押さえた。
        「――英明」
         それをどう受け止めたのか、あっと思う間もなく、怜二は玄関を飛び出していった。英明は目を向けるので精一杯で、足を動かすことすらできなかった。
         どのくらい経ってからだろう。嫌な匂いに気づき、英明はようやくシンクの端から手を離すと鍋の火を止めた。まな板の上やザルにある色とりどりの野菜が目に入り、がっくりと肩が落ちた。
         これでよかったのかもしれない。
         そんな気持ちにもなってくる。怜二の言ったとおりだ。鍋の用意を始めたときの明るい雰囲気のまま、最後まで楽しく過ごしていたなら、それは、先日の諍いをなかったことにしたのも同然だったろう。
         本心を隠し、表面だけ取り繕って穏やかに暮らしていくなんて、今さら怜二とは考えられなかった。怜二と心から打ち解け合えないなら、何にもならない。
         だけどもう、どっちにしたって同じなんだ。
         本音をぶつけ合っても、心を偽り合っても、傷つき合うだけだ。希望が持てない。それなら、こんな形で終わっても仕方がない。
         しんとした静寂に押し潰されそうな中、ダイニングテーブルに置いてあったケータイが震えた。英明のケータイだ。並んで、怜二のケータイが見える。
         ケータイも持たないで出ていったのか。
         ぼんやりと思ったが、しつこくケータイが鳴るのがうるさくて、仕方なく出た。
        『そっち、どうなったよ? こっち来られそうなら、今からでも来いって』
         笹塚だった。ケータイの向こうは騒がしく、やけに楽しそうな声が聞こえてくる。
         そうだった――。
        「……行く」
         もう、どうなってもいい。怜二にも友人がいるのだから。ひとりになっても、ひとりではない――怜二も、自分も。
         震え出しそうな唇を噛み、無理にでも冷静を繕い、英明はコートを取ると、すぐに玄関を出た。


        ◇◆◇


         なぜ、同じあやまちを繰り返してしまうのだろう――。
         笹塚の呼び止める声も聞かないで、英明は駅へと取って返した。井上のマンションは、もう目の前だった。
         息が上がり、胸が苦しい。それ以上に、何度も湧き上がる後悔に苛まれ、心が痛かった。
         怜二……すぐに追っていれば……。
         駅に駆け込み、ホームにすべり込んできた電車に乗った。ケータイが震える。笹塚からだった。着信表示を見ただけで切って、電源はそのままにしておく。
         どこにいるんだ、怜二。
         気が焦るばかりで、少しも見当がつかない。こんなとき、怜二はどこに行くのか――。
         まさかと思いながらも、怜二のアルバイト先に電話しようとした。今までに怜二が連れてきた知り合いは、コタツをくれた関口だけだ。怜二が頼るなら関口しかいないと思えた。
         しかしケータイを操作している途中で手が止まった。考えられなかった。こんな気持ちのときに、怜二がアルバイト先の居酒屋まで行くとは思えない。
         怜二――。
         深いため息が出る。たったの一駅が長く感じられる。車窓に顔を寄せて外に目を凝らせば、雪は変わらず静かに降り続いている。
         ……こうなるって、最初からわかってたんじゃないのか?
         つい先ほどのことが思い出された。降りた駅の改札口で、上機嫌の笹塚に迎えられた。飲み始めていたのに抜け出して、わざわざ駅まで来てくれていたとは思っていなかった。
         驚いたし、うれしかった。怜二を失っても自分には友人がいると思えた。そのときは――。
         俺は、本当に勝手だよ。
         どうあっても、笹塚は笹塚だ。怜二が、怜二であるように。誰も、誰かの替わりになんかなりはしない。
         ……笹塚、ごめん。
         わかっていたはずなのに。わかっていたなら、どうして最初からそうできなかったのか。
        『おれが男じゃなかったら、言えるのか?』
         同じだ。怜二に、あんなことまで言わせてしまった。始めから怜二は男と知って、好きになったのに。怜二が男であることなど問題ではないのに。
         だけど……。
        『あなたが先生じゃなかったら、この恋はもっと簡単だった』
         どこかで同じように考えていたのかもしれない……怜二が男じゃなかったら、この恋はもっと簡単だったんじゃないかと……好きと言ってしまったら怜二を苦しませるだけと思ったのは、なぜ――。
         唐突にその理由に思い当たり、英明は胸が張り裂けそうになる。醜い自分を見つけて、消えてしまいたくなる。
        『ホモが嫌なら、最初からそう言えって』
         なんだよ、俺……。
         わかった――この恋は、陰で噂されて後ろ指を差されるような恋だから。そんな恋は、自分が耐えられないから。
         高校三年生になったあの春、あの人は別れも告げずに去っていった。周囲に知れてしまってからは、教師なのに、ひと回り以上も年上なのにと、あの人ばかりが責め立てられていた。自分はどうすることもできなくて、その不甲斐なさを嘆くだけだった。
         あの恋を苦しいままに終わらせたのは自分だ。自分があきらめていたから、あの人もあきらめた。黙って去るしかないところまで、自分が追いつめた――。
         ……怜二。
         詰めていた息を細く吐き出し、英明はそっと胸を押さえる。潰れてしまいそうなほど苦しい。
        『おれはあんたが好きだ、惚れてる。省吾と別れる前から、ずっとだ』
         苦しいだけの恋になる、なんて……。
         そうしているのは自分なのに。それなら、そうならないようにすればいいだけなのに。
        『ホモに引き込まれて、あんたはそれでいいのかよ!』
         俺は、なんてことを――。
         車窓の外に降る雪を見つめ、頬を涙が伝い落ちた。英明はうつむき、震えそうな手で口を覆う。メガネを直す仕草で、ひっそりと涙をぬぐった。
         ……俺は、引き込まれるわけじゃない。
         怜二が好きだ。この気持ちに偽りはない。それならそうと、伝えればいい――手遅れになる前に。
         電車を降りてからは、迷わずマンションに向かって走った。怜二は戻っている。そうとしか考えられなかった。
         商店街の裏手に入ると通りに人影はなく、しんとした静けさに包まれていた。雪はひそやかに降り続き、薄暗い空が白くかすんで見えた。
         真夏のあの日、突然の土砂降りにあって、怜二と雨宿りをしたときのことが思い出される。白く煙る雨のカーテンに閉ざされ、あのとき初めて怜二を胸に抱いた。
         今も鮮やかによみがえる。手首をつかんできた力の、思いがけない強さ――そのときの、すがるような眼差し。
         あのときから、始まっていたんだ。
         マンションに着き、英明はエントランスに駆け込んだ。その途端、エレベーター脇の階段にうずくまる人影が目に飛び込んだ。
         怜二……!
         まさか、そんなところにいたとは意外だった。一瞬の驚きと安堵で、ぴたりと足が止まる。肩で息を継ぎ、じっと怜二を見つめる。
         怜二は一番下の段の隅に腰を下ろし、膝を抱えて顔をうずめている。セーターを着るだけでよほど寒いのか、自分自身を抱くように背を丸めている。
         ……怜二。
         こみ上げてくる思いは熱く、英明の胸はいっぱいになった。たまらない吐息を落とし、一歩を踏み出す。そうなって初めて気づいたのか、怜二はチラッと目を上げた。すぐに、大きく瞠った目で英明をまっすぐに見つめてくる。
        「な、んで」
         英明は駆け寄り、怜二の前に跪いてきつく抱きしめた。重なる頬は凍えるように冷たい。急いでコートを脱ぎ、羽織らせると、コートごとしっかりと怜二を胸に包んだ。
        「英明――」
         かすかに怜二が呼ぶ。英明は息を詰め、怜二を抱く力を強くするだけだ。
        「あんた、どっから……髪、濡れて――」
        「怜二」
         心がいっそう苛まれ、英明は苦しい声をもらした。怜二の頭を抱え、頬をすり寄せる。
        「……雪、降ってきちゃって。けど、戻れなくて。おれ、あんたといるのも嫌だなんて、言っちゃったし――」
         掠れた囁きが胸に深く落ちてきた。
        「寒かった……」
         怜二は身をよじり、戸惑うようにして英明の肩に頭をもたせかける。ホッと息をついた。
        「――怜二」
         熱い吐息が英明の唇を震わせた。怜二の冷たい頬を手のひらで包む。そうして、そっと顔を寄せて、英明は唇を重ねた。
        「ん……」
         怜二のもらした声が耳をくすぐる。胸が、いっそう熱くなる。怜二が唇を開き、英明は舌を挿し入れて絡めた。
        「ふ、……ん」
         背に怜二の手が回ってくる。そろそろと這い上がっていき、英明の頭を強く引き寄せる。
         怜二……!
         英明は泣けてしまいそうで、たまらなかった。うれしくて、悲しくて、でも、うれしくて。
        「英明……」
         ハスキーな声が耳元で甘く囁く。
        「怜二」
         うっとりとした眼差しに応え、潤んだ瞳を間近に見つめて英明は言う。
        「好きだ、どうしようもなく――」
        「おれも」
         再び近づいてきた唇に、しかし英明は、やんわりと指先を押し当てた。
        「……欲しいんだ、怜二――」
         すっと息を飲んだ怜二の手を引き、英明は立ち上がった。先になって階段を上り始め、玄関を入っても握った手を放さなかった。
         まっすぐに自室に向かう。すっかり闇の降りた室内に、背後からダイニングキッチンの明かりが射す。
         怜二の手を引いて中に入ると、英明はその場に立ち止まり、怜二と見つめ合った。ほのかな明かりに浮かび、怜二の見せる表情はひどく艶めかしく感じられる。
         無言のうちに怜二の手が伸びてきて、英明のメガネを取った。それが何かの合図だったかのように、英明は怜二にのしかかるようにしてキスをする。怜二は英明に抱きつきながらも、崩れて背中からベッドに倒れた。
        「あっためてよ、英明……ずっと、寒かったんだ――」
         裸になり、怜二が絡みついてくる。英明が脱ぐのを手伝い、冷えた肌をすり寄せてくる。そうしてキスをして、幾度となくキスをして、怜二は英明の下肢をまさぐった。
        「すごい……硬くなってる」
        「――あたりまえだ」
         ためらいも恥じらいも、もう何もなかった。英明は怜二が欲しい。ほかに誰がいたって、怜二がいなければどうしようもなく、たとえ世の中の人すべてに背を向けられても、怜二といられなければ意味がなかった。
        「は……っ、英明、あんた――」
         英明に組み敷かれ、怜二はシーツの上で悶える。体中にキスを散らされ、熱く濡れた舌で執拗に乳首をなぶられる。
        「……やらしいよ……泣けてくる――」
         そんなことは知らない。英明は、こんな自分を知らない。次第にあられもなく声を上げていく怜二も、英明は知らなかった。
        「ダメ、ものすごく感じる。あんた……やさしすぎる――」
         身をよじり、怜二は顔を背ける。悩ましく片手で顔を隠すようにして、その陰から英明に視線を流してくる。
         明るい茶色の髪が、なめらかな頬に散っていた。薄く開いた唇から、濡れた舌先が覗いていた。
        「……欲しいよ」
         湿った吐息を落とし、怜二は囁く。
        「おれの中に欲しい、英明――」
         ハスキーな声が英明をいっそう燃え立たせた。怜二の片手が上がり、ふたつの指が英明の唇を割った。
         何もわからずとも、英明は怜二の指を舐める。怜二の顔がほころんで艶めくのを見つめ、たっぷりと濡れた舌を絡ませる。
        「いいよ、英明……いい――」
         怜二は蕩けそうな眼差しで、まっすぐに英明を見上げた。
        「ごめん……許して」
         言うなり、すっと身を起こす。英明が戸惑う間もなく英明と入れ替わり、英明を仰向けにして跨ってくる。
        「好きだ、英明――ここまで追いつめて、ごめん」
        「な、んで――うっ」
         怜二は英明の硬い屹立をつかみ、シーツに両膝をついて腰を浮かせた。もう片方の手を自分の背後に回し、そうしてから、英明をじっくりと追い上げ始めた。
         怜二……。
         くちゅくちゅと、濡れて淫らな音がかすかに聞こえてくる。それは、重なるふたつの音だった。
         英明は、たまらない快感にくらみそうになりながら怜二を見つめる。怜二は背後からの明かりに淡く照らされ、吐息ともつかない声をもらして身をくねらせている。
        「は、あ、あ」
         ……ごめん、なんて。
         言われた意味が飲み込めて、英明は胸がいっぱいになる。謝られることなど、まったくない。怜二が欲しくてならないのは、自分がそう望んだからだ。
        「怜二、怜二」
         上ずった声で呼び、怜二の腰に手をかけた。
        「怜二……待てない」
        「あ」
         ぐいと引き寄せ、倒れてきた怜二を胸に受け止めた。
        「……いいのかよ、あんた」
        「おまえこそ。俺なんかで、いいのか?」
        「英明――」
         怜二は英明に頬を重ね、泣きじゃくる子どものように肌をこすり合わせてくる。髪を撫でる英明の手を離れ、ゆらりと身を起こすと、ゆっくりと腰を落としてきた。
        「は……あ」
         英明には眩しい眺めだった。しなやかに背をそらした怜二が喘ぎをもらしながら自分とつながっていく。熱くやわらかな中にじわじわとうずめられていく感覚は、感動を呼んだ。
        「あ、ん!」
         やはり怜二を待てない。突き上げて落ちてきた怜二の声を耳が拾い、英明は止まらなくなる。怜二の腰をつかんで自ら動き、跳ねるように揺れる怜二を見つめた。
        「や、英明、あ、ああ、ああ!」
         髪を振り乱し、怜二も慌しく英明の腰をつかんでくる。中で英明をきつく締めつけ、悶えて腰をくねらせた。
         湧き上がる吐息が絶え間なく唇からこぼれ、泣き出しそうな思いが胸に溢れる。ふたりは深くつながっていた。英明は歓喜にむせび、頬がぬるく濡れるのを感じる。
        「ひ、であき……英明――」
         崩れて怜二がしがみついてきた。互いに唇でまさぐりあうようにしてキスをした。貪るほどに舌を絡ませ合い、そうして英明は怜二も涙に濡れていると知った。
         めくるめく思いで張り裂けそうになる。瞬く間に絶頂まで駆け上り、英明は放った。下肢にも熱い迸りが散り、たまらない愛しさから怜二をきつく抱きしめた。
        「怜二――」
         自分に重なる熱く湿った体が、ひどく心を満たす。思いを遂げられた喜びで、体中がさざめいているように感じる。
        「英明……」
         囁いて怜二が身じろいだ。英明が腕を緩ませると、英明の上から降りて身をすり寄せてきた。
         火照った体が冬の夜に冷やされていく。ひんやりとした心地よさを感じながらも、英明は毛布を引き寄せた。怜二を抱いて、ふたりでくるまる。その暖かさが胸に染みた。
        「――雪」
         つぶやいて、怜二は窓に目を向ける。
        「まだ、降ってんのかな」
        「どうだろう」
         カーテンを閉め忘れた窓の外は、真っ暗な夜の闇だ。見上げる視線では、墨一色の空しか目に入らない。
        「おれ、さ。カッとなって飛び出しちゃっただろ? あのあと、そのへんガシガシ歩いてたんだけどさ」
         ひっそりと話し出して、怜二は英明の胸にもたれた。
        「だんだん頭が冷えてきて、わかったんだ。おれ……ずるかったよな。傷つきたくなかったのは、おれなんだ。おれ男だし、おれからコクるんじゃ、きっとフラれると思って――」
        「怜二」
         英明は怜二の肩に腕を回し、ぎゅっと抱き寄せる。
        「俺は今、すごくうれしいよ。幸せな気持ち」
        「……英明」
        「悪かった。苦しいだけの恋なんて、ないよ」
         腕の中から怜二が見上げてくる。戸惑うような眼差しに英明はやわらかな笑顔で応える。
        「俺は、強くなるから。手遅れになる前に、こうなれて本当によかった」
        「英明、おれ――」
        「なんて言うか、自分で自分を誉めてやりたい気分?」
        「バカ。なに言ってんの、そんなふうに言うの、あんたらしくない。あんた、いつだってマジメじゃん――」
         そう言ってしがみついてきた怜二をいっそう確かに英明は抱きしめた。心が穏やかに満たされていくのを感じる。喜びと安堵で、ため息が唇から溢れる。
        「あ――」
         しっとりとした静寂をかすかに破り、ケータイの振動音が響いた。
        「英明、出なよ」
        「ほっとけばいい」
        「けど」
         するりと英明の腕から抜け出して、畳に落ちていたケータイを怜二が拾う。
        「さっきも光ってたんだ」
         英明の手に押しつけながら言った。
        「え」
        「だってほら……おれ、上だったし」
         英明はくすっと笑ってしまう。やけに照れくさそうにする怜二が、とてもかわいらしく目に映る。仕方なく、受信ボタンを押した。
        『風間! ふざけてんじゃねえぞ!』
         いきなり怒声が聞こえ、英明は目の前にケータイを見つめてしまった。
        『俺を捨てて一言もナシなんて、許さねえ!』
        「……だれ?」
         怜二にも聞こえるほどの声だ。眉を寄せた顔を向けてくる。
        「笹塚。同じゼミの」
        「捨てた、って何……?」
        『おまえ、なんでホントのこと言わねえんだよ! カッコつけてんじゃねえよ、そんなに園田がいいなら、最初に言っとけ!』
        「え?」
         怜二の目が丸くなる。
        『俺は情けねえよ! おまえ、ぜんっぜんっ俺を信用してねえだろ! また嘘言ってごまかしたらマジ怒るぞ! 聞いてんのかっ?』
         唖然とする怜二に英明は笑って見せ、ようやくケータイを耳に当てた。
        「聞いてるよ」
        『かざま〜』
         切羽詰まったような笹塚の声は、むしろ泣き出しそうに聞こえる。
        「ごめん、謝る。そっち、終わったのか?」
        『まだ終わるわけねえだろ! だからずっとメールしてんのに、やっぱ見てねえのかよ!』
        「本当にごめん。ちょっと――」
         急に緊張してきて、英明は怜二と目を合わせた。驚いている様子は変わらないものの、怜二はニコッとはにかんだように笑う。
        『ちょっと何だってんだよっ』
         言ってしまえ――英明は思い切った。
        「今もまだベッドなんだ――」
        「ええっ」
         耳元で怜二が裏返った声を上げた。笹塚もケータイの向こうで沈黙する。笹塚の背後のにぎわしさが耳に伝わってきた。
         英明はドキドキしてたまらない。しかし、ここまで言ってしまったほうが誠意になると思えたのだ。
         笹塚あきらめろよ〜、もう風間来ねえよ〜、という声が聞き取れた。そして、ゴクッと鳴った音がやけにはっきり聞こえた。
        『お、おう』
        「笹塚――本当に悪かった」
        『あ、あとで詳しく訊くからな!』
         それで通話を切られ、英明は一瞬ぽかんとしたあと、小さく吹き出してしまった。
         詳しく訊くって……聞いてくれるのか。
         覚悟しておけよ、と言われたようで、笹塚のやさしさがじわりと胸に染みた。
        「びっくりした〜」
         怜二が呆れた声を上げる。
        「って、笑ってる場合かよ? 大胆すぎるよ、あんた。つか、こんな大胆だったなんて知らなかった、マジさっきもそうだったし」
         言ってから、ハッとしたように慌てて口を閉じた。ほんのりと頬を染めて、探るように英明を見る。
        「今の、本当?」
         英明が問えば、コクッと頷いた。
        「ごめん、俺、夢中で少しも待てなくて――」
        「い、いいんだ、すっげーよかったし」
         またハッとして、気まずそうに目をそらす。
        「うん――俺もよかった、すごく……」
        「じゃあ……やっぱ、よかったじゃん――」
         照れくさそうに顔を伏せる怜二を見つめ、英明はまた胸がじんとする。キスしたい衝動に駆られ、そっと唇を近づけた。
        「で。今の、何だったわけ?」
        「え」
        「おれのほうがいいとか、何だとか――」
         問いただすようなことを言いながらも、怜二はまだ恥ずかしそうにしている。
        「今日……飲みに誘われてたんだ」
        「なーんだ」
         英明は戸惑ってそうとしか答えられなかったのに、怜二は急に気の抜けたような声を出した。
        「なら、おれたちも、このあと鍋な」
        「え……」
         笑顔で見つめてこられ、英明は複雑な気持ちになる。
        「なんだよ、嫌なのかよ?」
        「そうじゃないけど――鍋、本当に好きなんだな」
        「あったりまえだっつーの。鍋サイコー、ひとりじゃできないじゃん」
         ドキッとして、英明は改めて怜二と目を合わせる。パッと明るい笑顔を見せられ、胸がいっぱいになった。
        「な、なんだよ……」
         うろたえた声は、怜二を抱きしめる胸で聞いた。
         ひとりじゃできないって……だから、あんなに――。
         思いかけ、これでは駄目だ、伝えなくてはと、声にして言う。
        「そうだよな、ひとりじゃできないもんな」
        「あんた、なに言って――」
        「怜二とこうしていられるなんて、やっぱり俺は幸せだよ」
        「なんだよ、急に」
         照れくさそうに背ける顔を追って、英明は唇を重ねた。甘い痺れは、すぐにまた英明の全身に広がっていく。
        「あんた……大胆って言うか、むっつり」
        「エロくて、ごめん」
        「いいよもう」
         怜二の腕が首に絡みついてきた。引き寄せられて、いっそう深いキスになる。
        「おれも……やらしいし――」
         怜二の肌は、もうどこも冷たくなかった。ふたりは再び湿っぽい熱気に包まれていく。
        「けど、鍋――」
         くすっと笑って英明は答える。
        「このあとだ」
        「……雪」
        「どうだろう――」
         怜二のやわらかな髪に顔をうずめ、英明は思う。怜二の匂いに胸を震わせながら。
         閉ざされてしまう前にたどり着けて、よかった――。
         一度は過去の自分に囚われ、そうして醜い自分を見つけ、だけど、きっと、これからは大丈夫だと思える。
         ひとりじゃできなくても、ひとりじゃないんだから。
         夜が明けたら、あたりは一面の銀世界になっているのだろうか。都心に降るクリスマスの雪は頼りないけど、少しは積もるかもしれない。
        「怜二――」
         満たされて、満たす。素直に打ち解けて、わかり合える。
        「あったかいよ……英明」
         迸る滾りよりも、寄り添う心にため息が出る。唇を重ねれば、熱い吐息もまた、ふたりのものになった。


        了


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