Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    眠れない夜のあした
    −3−



         秋は空の色でわかる。
         いつだったか、そんなことを怜二に言ったら、理系のくせに文系くさいことを言うと笑われた。だが英明にしてみれば、極めて理系的な発想だ。それで、空の色は日光の照射角度によって変わると説明したら、余計に笑われてしまった。夏は、駆け足で過ぎ去った。
         最近は怜二と一緒にキッチンに立つことが多い。英明は夏休みの始めに一週間ほど親元に帰っただけで、残りの日々は、卒業研究と就職活動の準備に費やした。怜二は一日も親元に帰ることなく、夏休み中はずっとアルバイトに勤しんでいた。
        「夏は書き入れ時なんだよ」
         居酒屋が繁盛するのはもとより、大学が休みで時間を持て余す怜二には、夏の人手不足の穴埋めが回ってきて特にそうなのだそうだ。実際に、平日は毎日ランチタイムからアルバイトに出て、普段と同じ午後十時を過ぎるまで帰ってこなかった。
         そのような状況で、英明は家にひとりのときは進んで雑事をするようになり、ふたりのときは怜二とキッチンに立つようになった。
        『あのカレーは、あんたそのものだった』
         何かにつけ思い出したように言われ、笑われてしまう。怜二によると『角張った味』だったそうだ。英明はルーの箱にあるとおりに作ったのだが、そもそもそれが間違いと説明されても、なかなか飲み込めなかった。
        『鍋の様子を見ながら感覚で判断するんだ』
         揚げ物なら揚げている音の変化で、油から出すタイミングがわかると言う。
        『一八〇度で五分とか、あんたなら温度計とタイマー使って料理しそう』
         からかうように言われて少しムッとしたが、確かにそうだと自分でも思った。それで、もっぱら料理する怜二の補助と食後の片付けをしているのだが、その時間が英明には楽しい。
         たとえばそれは、取り留めのない話をしながら、怜二が洗った皿を受け取り、布巾で拭いて棚にしまう繰り返しだ。だが、片付けも終わり、入浴も済んで何もすることのない夜は、英明の部屋の畳に並んで座り、日に日に涼しくなる窓からの夜風に吹かれて、ふたりでテレビを見たりもした。
         穏やかな日々だった。それぞれの用事で外出しているほうが多かったが、家ではふたりのんびりと過ごす毎日だった。
         いつまでも怜二とこうしていられたらいいのに――。
         ふとした折に、そんなことを思う自分を英明は見つけていた。そのたびに戸惑い、説明のつかない気持ちになった。このマンションに住んでいられるのは卒業までだ。家主とのあいだで、そういう約束になっている。
         あと一年半か。
         怜二との同居が始まって半年になるばかりなのに、もうカウントダウンしているのかと自分に呆れた。それなのに考えてしまう。卒業して、それぞれに就職しても、同じところから通勤できるなら怜二とふたりで暮らしていけないかと――。
         まさか。
         自嘲するのだが、その思いは消えない。むしろ、夏が終わるにつれて強まるようだった。
         自室の畳に座り込んで、それぞれ缶ビールを片手に、テレビの前で寄り添うようにしているときなど、つい怜二の横顔に目が行ってしまう。そんなときの怜二は、本当に楽しそうな笑顔だった。自分といてこんな笑顔を見せてくれるなら、ずっと見ていたいと願った。ずっと、いつまでも。
        『……なに?』
         気づかれて顔を向けられてきても、目をそらせなかった。
        『ヘンだよ、あんた』
         見つめ合ったまま苦笑され、返せる言葉など何もなかった。自分でもおかしいと思う。親や兄弟とも、いつまでも暮らせるわけではないのに。
         だったら……。
         思いかけたが思考はそこで止まった。それ以上は踏み込んでならないように感じられた。
         やがて大学の後期が始まって、秋は次第に深まっていった。互いに忙しない元の生活に戻ったように感じられたのも束の間、いつからか、怜二は暗く沈んでいった。
        「なんか元気ないな。どうかしたか?」
        「べつに。夏の疲れじゃない?」
        「今ごろ?」
         英明は心配して尋ねるのだが、怜二は気のない声を返すだけだった。家にいても部屋にこもっていることが多くなって、アルバイトから帰る時間も遅くなっていた。
        「バイトのやつらと、最近いい感じだから」
         同じ時間に仕事が終わる何人かで、飲んでから帰宅しているのだと言った。英明は腑に落ちない気持ちだった。連日のように怜二がそうする理由に思い当たらない。
        「ちょっと無理してないか?」
         そこまで言ってはどうかと思ったが、言わずにはいられなかった。だがそれも受け流されるだけだった。
         十月の終わりの土曜日だった。ゼミのレポート提出が迫っていると言っていたのに、外泊の際には必ず連絡を寄越していたのに、出掛けにも一言もなく、怜二はひどく憔悴した様子で朝帰りした。
        「どうしたんだ」
         また受け流されるかもしれないと思っても、英明は黙っていられなかった。怜二は玄関を上がると崩れるようにしてダイニングテーブルに着き、ぐったりと突っ伏してしまった。
         英明はグラスに水を注いで、酒臭い怜二の前に置いた。そうしても怜二は目も上げそうになかった。英明が無言で見下ろしていると、しばらくして、伏せた顔の下から右腕だけが伸びてきてグラスを握った。
        「……何があった?」
         こんなにも荒れた怜二を見るのは初めてだ。
        「あんた……どのくらい彼女いないの?」
         少しの間のあと、どんよりとした声が返ってきた。何も言わないでいると、怜二はおもむろに顔を上げてグラスの水を一口飲んだ。
        「彼女いないんだろ? 一緒に住んでるんだから、そのくらいわかるんだよ」
         疲れきった顔に睨まれ、英明は眉をしかめる。何を答えればいいのかわからない。怜二が何を聞きたがっているのかわからない。
         怜二はいきなり大きなため息をつき、グラスを両手で包んでそこに視線を落とした。掠れて、いっそうハスキーな声で言う。
        「昨日、どうしようもなくなって行ったんだ。ハメはずして結構おもしろかったんだけど、帰ろうとしたらサイテーなヤツに引っかかって、このザマだ」
         弱々しく肩を落とし、すがるような目になって英明を見上げる。
        「こんなこと……あんたには、わかんないだろうけど」
        「わからないよ」
         英明はすぐにそう答えた。だが、本当はわかるような気持ちだった。どんな場所に行って何をしてきたのか、具体的に聞かされなくても想像はついた。ただ、そんな軽率な行動に駆り立てられた怜二はわかりたくなかった。
         テーブルを離れ、英明は自室に戻る。日当たりのいい和室は、秋の午前の陽射しに溢れている。後ろ手にドアを閉めた。
         いっそのこと、泣き出してしまいたいような気持ちだった。眠れないうちに昨夜をやり過ごした自分は、いったい何だったのだろう。
         ごろりとベッドに横になる。明るすぎる陽射しから腕で目を覆う。ドアの外では、ことりとも音がしない。怜二はまだテーブルにいるのだろうか。せつなく淋しい気持ちで、胸が塞がれるばかりだった。
        「英明……ちょっと、いい?」
         ドアの外から遠慮がちに呼ばれた声で目が覚めた。陽射しの加減で、午後をずいぶん過ぎたと知る。ドアを開けると、明らかにあれから一睡もしていない怜二の顔があった。
        「ごめん、ゼミのレポートなんだけど」
         市場シミュレーションの解析結果が、うまく出ないのだと言う。
        「算出方法は、これで合っているはずなんだ」
         英明は怜二に自室から椅子を持ってこさせ、ひとつの机にふたり並んで頭を突き合わせた。
        「……ここ。ここが違ってるんじゃないか?」
        「え? ――あ、ホントだ」
         英明の指摘した箇所を訂正したら、うまく結果が出た。
        「助かったよ。提出、月曜日なんだ」
         思わずほころんだ屈託のない笑顔を見て、英明はまた胸が締めつけられた。
         どうして、こんな顔ができるんだ――。
         今朝はあんなにも憔悴していたのに。無茶に走ってしまうほど苦しんでいたのに。傾き始めた秋の陽射しに照らされ、英明の目に映る怜二は、いっそ清らかなほどだ。それが、英明にはなおさら辛く感じられる。
        「あの人と別れたのか?」
         不意に口をついた自分の声を聞き、ここしばらく気になっていたことはそれだったと、英明は納得した。目の前で怜二が驚いたように息を飲み、それから小さなため息を落とす。
        「あれから省吾とは何もないよ。前も言っただろ? そういうヤツなんだ。おれからは、もう何もしない。そう決めたんだ」
         言いながら、レポートを片付け始めた。
        「……やっぱり淋しいのか」
         ぽつりともれた英明の声に、レポートを束ねる手が止まった。その手元を怜二はじっと見つめる。
         陽射しを受ける怜二の横顔を目に映しながら、英明は改めて口を開いた。
        「俺に彼女がいたのって、一度だけだ」
         ぴくりともしない怜二を見つめて続けた。
        「彼女って言っても高校の先生だった。一部にバレて、騒ぎになった。つきあって半年もしないうちに辞めていなくなった」
         それだけを話すので精一杯だった。胸が重く息苦しくなり、自ずとうつむいてしまう。
        「それから――」
         固まっていた口をこじ開けるようにして、怜二が声を出した。
        「それから、ずっと誰ともつきあってないんだ?」
        「――まあな」
         苦笑して英明は答えた。怜二は真剣な顔を向けてくる。
        「もったいないな。あんた、カッコイイのに」
         驚いて英明は目を瞠った。怜二をじっと見つめ返す。
        「あんた――臆病になってるんだ」
         囁くように言われ、ズキッと胸が痛んだ。
         なんで……。
         英明は自問する。胸が痛んだ理由を探る。
         どうして。
        「おまえは――」
         掠れた声が出た。まっすぐに射抜いてくるような怜二の視線から逃れられない。片手が上がる。秋の陽射しに艶やかに照らされる髪に触れた。さらりと、心地よい感触だった。
        「もっと、自分を大切にしたほうがいい」
         驚いて見つめ返してくる目の奥底まで覗くようにして、そう言った。
         英明の胸は高鳴っている。怜二に触れている手が熱く感じられる。
         どうして。
         髪にだけでなく、その頬に、その唇に、触れてみたいと思ってしまう。その肩に、その背に、いっそ抱き寄せてしまいたいほどに。
        「――やめろよ」
         英明の手を軽く払い、怜二は顔を背けた。
        「勘違いさせんな」
         レポートを手早く取ると立ち上がった。
        「そんな……熱っぽい目で、おれを見るな」
         鋭い眼差しで英明を睨み下ろした。
        「あんた、夏からヘンなんだよ! これ以上おれを苦しめないでくれ!」
         叫ぶように言って部屋を飛び出していった。
         英明は、呆然と取り残されたようだった。怜二に触れていた手をぼんやりと見つめる。陽射しを受けている背が暖かい。ふと、口元が緩んだ。
         なんだ――。
         泣き出してしまいたいほどの気持ちが胸に溢れてくる。
         これが、恋なんじゃないか。
         細く長いため息を落とした。


        「なんか、おれ進学先間違えたような気がしない?」
         それからの日々、怜二は急に元に戻ったようになった。アルバイトからは以前と同じような時刻に帰ってきて、外泊はまったくない。休日も家にいることが多くなり、その分と言っていいほど料理に熱を入れるようになった。時間のあるときは手の込んだものを作って、英明に食べさせてくれる。
        「これなんて、どうよ? スジ肉なのに、一口噛めばホロホロって感じだろ?」
         圧力鍋に挑戦して作ったと言うビーフシチューは、確かに絶品だった。
        「うまいよ、ものすごく」
         自然と笑顔になって英明は答える。怜二を見つめ、やさしい気持ちでいっぱいになる。
        「や、うまいんなら、いいんだけどさ。あんたが喜んでくれるなら、それで……」
         戸惑ったように口ごもり、怜二は照れた顔を伏せてシチューを口に運ぶ。そのくせ、チラッと上目づかいに英明を見たりする。
         こんなふうに、ふたりで過ごす時間が英明には心地よかった。怜二に恋している。自覚してからは、そう思うだけで幸せな気持ちが溢れた。
         本当に、これだけでよかった。今以上のことを求める気持ちはなかった。怜二と出会い、怜二と暮らすようになって、それまで頑なに閉じていた心が開かれたと感じる。それだけでなく、ひとを好きになる喜びまで思い出すことができた。怜二に深く感謝している。
        『これ以上おれを苦しめないでくれ!』
         だから、悲痛に響いた怜二の声が忘れられなかった。そんなふうには、もう言われたくなかった。
         苦しめたりしない。大切に見守るだけ――。
         触れたら壊れてしまうかもしれないなら、ずっとこのままでいいと本気で思っていた。
        「英明!」
         十一月下旬の日曜日だった。
        「悪い、手伝って!」
         夕方になって、アルバイト先の知り合いからコタツを譲り受けたと言って、怜二が戻ってきた。英明は玄関から呼ばれ、マンション前に停められたワゴン車からコタツ本体とコタツ蒲団を下ろすのを手伝った。怜二の部屋に運び込み、すぐに使えるようにした。
        「すっげえ、シアワセ〜。おれはコタツが好きなんだよ〜」
         さっそくスイッチを入れて潜り込み、怜二はすっかりご満悦だ。ワゴン車を運転してきた関口と英明を手招きで呼び寄せた。
        「だいたい、火を使う暖房は禁止って、信じられなくね? エアコンなんて贅沢すぎだし、あったまった気になんねえじゃん」
         そんなことを言う怜二を関口は笑った。
        「そこまで園田に喜んでもらえるなら、このコタツも捨てられなくてよかったよな」
        「だろ? おれ、いいことしちゃった?」
         怜二の隣に入って、英明も笑ってしまう。怜二が誰かを連れてきたのは、今回が初めてだった。関口は熊のぬいぐるみを思わせる外見で、穏やかそうな人柄を感じさせる。
         そのうち怜二は、関口にはコタツのお礼と言って、三人で夕食にしようと言い出した。
        「コタツで食べるなら鍋でしょ」
         キッチンに行って材料を漁り始めた。
        「鍋なら、やっぱ飲む?」
         車だからと遠慮する関口だったが、少しだけならと言ったのを聞いて、英明が酒屋に出向いた。
         カセットコンロは、いつからかここの備品になっていたものだ。さすがに土鍋はなかったので、怜二が適当な鍋を見繕った。
        「水炊きが一番だね。すぐに用意できるし、あっさりしてるからたくさん食べられるし」
        「たくさん食べたいのは、おまえだけだろ?」
         笑って言う関口に英明も笑った。思いがけず、楽しいひとときになった。鍋が空になる頃にはすっかりくつろいで、怜二はごろりと横になると、飲みすぎたのか眠ってしまった。
        「あんたがいい人でよかった」
         関口は酔いが醒めたと言って、帰り支度をしながら英明にそんなことを言った。
        「夏の終わり頃から、園田、なんだか元気なくてさ。春からあんたと同居してるって聞いてたから、てっきり、あんたとうまくいってないのかと思ってた」
         よくよく聞けば、関口は怜二の働く居酒屋の社員で、厨房のチーフだった。歳もかなり上で、既婚者だそうだ。
        「こいつ、かわいいだろ? 弟みたいでさ」
         眠り込む怜二を見て、関口は目を細めた。
        「よろしく頼むよ」
         上着に腕を通しながら笑顔で英明に言った。
        「ええ、もちろん」
         怜二は起こさないでおこうとなって、英明が関口を玄関まで送った。
         怜二の部屋に戻り、英明は後片付けを始める。洗い物をして、コタツの天板を拭いた。
         眠っている怜二を眺め、どうしようかと迷った。蒲団を敷くにはコタツも片付けるしかない。せめて隅に寄せるにしても、怜二が寝ていては無理だ。
         怜二は、黒いセーターを着た上半身をコタツから出して仰向けに眠っている。右腕は投げ出されているのに、左腕は肘を曲げて胸の上にあった。起きそうには少しも見えない。
         英明はかたわらに膝をつき、怜二の寝顔を覗き込んだ。目が大きいだけに、まつげが長い。額に散る前髪の陰に、跳ね上がった細い眉が見えた。初めて会ったときに、きつい印象を受けたことを思い出す。
         吐息が溢れた。あのときは、こんな気持ちで怜二を見つめる日が来るなんて、まったく思いもしなかった。
         ……あたりまえだよな。
         一緒に暮らして、怜二を知ってのことだ。愛しさに、胸が張り裂けそうになる。端整な顔立ちだと、心から思う。とてもきれいだ。
         どうにも抑え切れなかった。触れてみたいと、一度は強く願ってしまったのだ。片手が上がり、なめらかな頬に指先が伸びていく。だが、触れる寸前で止まった。さまようようにして唇の上に移る。しかし、そこにも触れはしなかった。
         英明は畳に片手をついて体を支える。怜二の顔に、そっと顔を近づけた。自分の影が怜二の顔を覆った。かすかな怜二の寝息を唇が感じ取った。
         そうして、自分の体の中で最もやわらかな箇所で怜二に触れた。うっすらと開いている怜二の唇に、静かに唇を重ねた。伝わる熱に吐息がもれてしまいそうになる。
         ここまでだ――。
         自分に言い聞かせる。触れ合うだけの唇から、甘い痺れが体中に広がっていく。
        『これ以上おれを苦しめないでくれ!』
         わかっている。
         きっとまだ、怜二の心はあの男にある。本人がどう言おうと、言葉の端々から感じ取れてしまう。この気持ちを伝えて怜二をなおさら苦しませることになるなら、やはり伝えられない。
         ……だけど。
         いっそ、有無を言わせず奪えるなら。このまま奪っても許されるなら。
        「ん……」
         怜二が身じろぎ、英明は凍りついた。背中を伝い上がってくる手を感じ、心臓が止まりそうになった。
        「英明」
         重なる唇の合間から聞こえた声は、確かに自分の名を呼んだ。それなのに、英明は慌てて立ち上がった。
         英明の背からすべり落ちた怜二の手は、ごしごしと目をこする。眠たそうにまぶたを開き、横に立つ英明を見上げた。
        「英明? ……関口さんは?」
         英明は目を合わせられずにぼそっと答える。
        「――帰った」
        「え? そうなの?」
         怜二はもぞもぞとコタツから這い出した。
        「なんで起こしてくれなかったんだよ。おれ、何も言えなかったじゃん」
        「気にしなくても大丈夫だよ。起こすなって、関口さんが言ったんだ」
         何事もなかったように答える自分に、まるで何も気づいていないような怜二に、英明は、安堵とも苛立ちともつかない気持ちになった。


         十二月はすぐにやってきて、街はクリスマス一色に染まった。夜ともなれば、そこここにイルミネーションが瞬き、ライトアップされたツリーがいくつも目につく。
         夏と同じく、この時期も書き入れ時だと言って、怜二はアルバイトに勤しんでいる。
        「こういうとき、マジ大学生でよかったと思うよ。高校生だったら、期末試験とかでバイトできないじゃん?」
         高校生なら居酒屋のバイトはできないし、バイトで生活費を稼ぐ必要もないから、そんなことは言外だと英明は笑った。
        「おれが言いたいのはねー」
         口を尖らせて怜二は抗議する。
        「何も心配しないで、クリスマスは英明と遊べるってことなんだよ」
         年末年始にアルバイトを詰めて、クリスマスは休むつもりだと怜二は言った。
        「鍋やろうよ」
         コタツが来てから、何かにつけて怜二はそう言う。
        「鍋なら昨日もやっただろう?」
         呆れたように返せば、さらに口を尖らせた。
        「鍋、嫌いなのかよ?」
        「好きだけど」
        「クリスマスの鍋はね、特別なわけ。正月のシフトに入ると、大入袋がもらえるんだ。だから、おれのおごり。蟹、食べよう」
         蟹なら正月なんじゃないかと思わなくもなかったが、英明はにっこりと頷いて返した。
         そんなわけで、クリスマスは怜二とふたりで蟹鍋になった。それなら、うまい日本酒が欲しいと英明は思う。新潟の親に頼んで送ってもらおうか。今ならまだ間に合う。
         そんなことを考えるのは楽しかった。だが実際にそうしたら、親はどんなに驚くだろう。東京に出てきてからは、夏に一週間ほど帰って顔を見せるだけなのに。頼みごとなど一度もしたことがないのに。
         東京の大学に進学したいと言ったとき、両親が揃って見せた安堵の表情を英明は忘れられない。第一志望の大学に合格を果たしたとき、あれほど喜んでくれたのは、純粋にそれだけの理由からだったのだろうか。
         ひとり暮らしを始めてからは、アルバイトをしなくても十分な仕送りをしてくれている。実家に帰っても外出しようとしない自分に、親が何か言うようなことはない。
         自分とどう接していいのか、いまだ両親に戸惑いがあるのが感じられる。実家にいる弟に、兄の醜聞が影響しないか気にしている。
         あんなことが、あったから。
         時がすべて風化するのを待つのが狭い町の慣わしとしても、両親の自分への愛情は疑いようがないとしても、誰にも理解されない自分を感じたから、英明は東京の大学に進学を決めた。
         あれ以来、ずっと固く閉ざしていた英明の殻の中に入り込んできたのは、怜二が初めてだ。その怜二と、英明はクリスマスを楽しく過ごす約束をした。
         一緒に暮らしているのに、約束もないけどな――。
         きらびやかに彩られた街の人込みを歩いていても、自然と頬が緩んでしまう。冷たい外気にさらされても、英明の胸は温かかった。
        「クリスマスに忘年会?」
         ゼミが終わって、誰もが席を立ち始めたときだった。隣から笹塚に声をかけられた。
        「そう。井上のとこで」
         井上も同じゼミの仲間だ。大学から徒歩五分の広いワンルームマンションを借りている裕福な家のひとり息子だ。お人好しの性格もあって、何かにつけ溜まり場にされていた。
        「いつ?」
        「もちろん二十四日。風間はいるだろ?」
         帰郷する学生の中には、年末のUターンラッシュを避けて、その頃からいなくなる者がかなりいた。
        「俺は帰らないからいるけど。でも、その日はちょっと――」
        「なんだよ、彼女できたのか?」
         にやりと笹塚が笑う。
        「そんなんじゃないけど、先約があるんだ」
        「彼女じゃないなら、断ってこっち来いよ」
        「おいでよ、風間くん」
         井上までやってきて英明を誘う。
        「外で飲んだってカップルばっかでしらけるだけだって言ったら、井上がうちでやろうって言い出したんだよな?」
        「うん」
         井上を気づかって英明が遠慮しているとでも思ったのか、ふたりは揃ってそう言った。
        「ごめん。悪いけど、その日は駄目だ」
        「なんで」
         食い下がる笹塚に仕方なく答える。
        「怜二と……同居のヤツと約束あるから」
        「それって――」
         井上が眉をひそめた。
        「園田と? どういうことだ?」
         笹塚も怪訝そうな顔になる。ハッとした。『園田』と言うべきところを『怜二』と言ってしまった。
        『高校のときは教師で、今はホモ? マジすげえよ、おまえ』
         すっかり忘れていた涌井の声がよみがえった。今再び、ぐさりと胸に突き刺さる。
         そうだ……笹塚は怜二を知っていて――。
        「そんなに仲いいんだ? 園田と」
        「笹塚くん、今の言い方はちょっと――」
         呆れたように言った笹塚を人のいい井上が戸惑ったように制した。だが笹塚は、ムッとした様子で重ねて言う。
        「けど、そういうことだろ? ぜんぜん知らなかった、おまえ何も言わなかったし」
        「……そういうわけじゃ」
         口ごもる英明を冷ややかに一瞥して、笹塚はそれ以上何も言わずにゼミ室を出ていった。
        「笹塚くん――」
         困りきったような声を上げ、井上は英明に目を移してくる。
        「都合がついたらでいいから。来る気になったら、来てよ。ぼくと笹塚くんのほかにも、二、三人来ることになっているから」
         そう言って、井上がやわらかな笑みを見せても、英明は気持ちがほぐれなかった。
         これが現実というものだと思い知る。
        「じゃあ、そういうことでよろしくね」
         気まずそうに井上が立ち去ったら、英明はゼミ室にひとり取り残されたようになった。
         あのときの孤独が急に襲ってくる。後ろ指を差され、ひそひそと陰で何を囁かれているのかわからない日々が思い出された。
        『あなたが先生じゃなかったら、この恋はもっと簡単だった』
         息苦しさに耐え切れなくなって、そんなことを言ってしまった自分まで思い出された。
        『私があなたの先生じゃなかったら、あなたと出会ってはいなかったわよ?』
         今になったからこそ、わかる。あの人は、不甲斐ない自分をそんな言葉で受け止めてくれていた。
         やっぱり、苦しませただけだったんだ――。
         自分が弱かったから。誰に何を言われても、どんなに孤独になっても、悔いることのない自分でいられたなら。
         俺は、駄目だ。
         そう思えてならない。気持ちを伝えて、たとえ怜二と心を通わせられても、きっとまた苦しい恋になる。弱い自分が、そうしてしまう。怜二を苦しませるだけになってしまう。
         ……怜二。
         英明は、そっと自分の唇に触れた。そうすれば、たった一度のあの感触が鮮やかによみがえった。
         やっぱり好きだ。どうしても好きだ。だけど、自分からは何もできない。苦しませるとわかっていて、この気持ちを伝えるわけにはいかない。
         どうにもならなかった。ただ力なく、ため息をつくしか今の英明にはできなかった。


         クリスマスを直前に控え、街はいよいよざわめき立った。そんなこととは無縁に、年内最後のゼミは実験だった。冬休み中にレポートをまとめろとの指示が出て、誰もが深いため息をもらした。
         思いもよらず遅くなった帰り道を英明は急ぐ。二十四日が休みになった代わりに、今日を残してその前日まで連日アルバイトだと、出掛けに怜二から聞かされていた。
         きっと、夕食を用意して待っている。今日を逃したら、次は二十四日の蟹鍋まで一緒に食事もできない。そう思えば気持ちも急く。
         これじゃ、子どもみたいだな――。
         自分に呆れて苦笑した。どんなに思い悩んでも、やっぱり怜二といられることが最大の幸福と感じる自分に気づいてしまう。せつなさも、苦しさも、怜二とふたりきりのときは忘れていられた。
        「ただいま」
         マンションに着くと階段を駆け上り、軽く息を弾ませて玄関に入った。だが奥から聞こえてきた声は、おかえりではなかった。
        「帰れよ!」
         ギクッとして一瞬身がすくんだ。その拍子に、足元にある誰のものとも知れない革靴が目に入った。
        「やだ、帰れ!」
         また怜二の声が聞こえ、嫌な予感に胸が騒いだ。英明は急いでダイニングキッチンに入り、怜二の部屋に目を向ける。中途半端に開いたドアから、また怜二の声がした。
        「や、だ……ん!」
         不安に駆り立てられ、そっと覗いてみたら、不自然に崩れたコタツが目に飛び込んできた。その横に、もつれ合うふたつの人影が見える。
         畳に組み敷かれているのは怜二だ。怜二に馬乗りになっているスーツ姿の男は――。
         すうっと血が下がり、英明はくらみそうになる。怜二を押さえつける男は、怜二の唇を貪り、怜二の下肢に片手を伸ばしていた。
         その手が忙しなく動いている。怜二はもがき、男から逃れようとしているのだが、体が何度も不規則に跳ねる。
         英明は足がすくみ、一歩も動けない。髪を乱して悶える怜二の顔に目が釘づけになっている。そのうちに怜二は、逃れても逃れても追ってくる唇に、観念したように固く目を閉じて動かなくなってしまった。
        「そうやって最初からおとなしくしてれば、よかったんだ」
         低く、男がつぶやいた。
        「どんなに強がったって、俺が忘れられないんだから」
         その声が耳に入った途端、英明はカッとなった。
        「怜二!」
         呼ぶと同時に中に踏み込んだ。ハッと目を見開き、怜二が呼び返してくる。
        「英明!」
         そのときには男の肩をつかんでいた。抵抗する男を怜二から引き離そうとする。怜二が男を蹴り上げ、それでどうにか男を離すことができた。
         その勢いで、英明は男を壁に押しつける。すっかり息が上がり、肩が忙しなく上下するのは男も同じだ。あのときの男だった。怜二が省吾と呼んでいる――。
        「帰れ!」
         男を突き放し、英明は言い捨てた。
        「帰れよ! 二度と怜二の前に来るな!」
        「……へえ」
         男はだらしなく壁にもたれ、眇めた目で英明を眺めた。
        「やっぱり、そうだったんじゃないか」
         畳にへたり込んでいる怜二に冷たい視線を移し、いきなり怒声を上げた。
        「なあ! 怜二!」
         怜二に向かっていこうとする男を英明は全力で止める。だが突き飛ばされてしまった。
        「帰れよ省吾! 帰ってくれよ!」
        怜二は逃げながらそれだけを繰り返す。
        「お願いだから!」
         ピタッと男は足を止めた。ため息をつくようにして、怜二を冷ややかに見つめて言う。
        「いいのかよ、それで」
         英明まで凍りつくような低い声だった。
        「ここで俺が帰ったら、本当に終わりだぞ」
         むしろ、悲しげな響きにも聞こえた。
        「この俺が、二度も来たんだ。どういうことかわかるな? 三度目はない――怜二」
         英明は男の横顔をじっくりと見つめる。ひどく疲れて目に映る。着ているスーツは安物には見えない。それなのにどこかくたびれたようであるのは、やはり表情のせいに思えた。
         英明の胸は、怒りに替わって悲しみでいっぱいになる。怜二が何も答えないでいることが辛く感じられてくる。
         追って、いっそう傷つき合うなんて……。
         こんなときに、どうしてそんなことを思ったのかわからない。男が哀れに見えた。自分たちよりも年上なのに、ちゃんとした社会人のようなのに、それとも本当にとんでもなく非常識なのかもしれないけど、こんなバカげたまねをしてまで怜二を欲しがって――。
        「あなた……」
         口をついて低く声が出た。
        「愚かだ。こんなことしたって、怜二はあなたの元に戻らないのに」
        「なんだと!」
         男の怒声に重なり、派手な音が響いた。
        「な、んで……」
         ただ驚くだけで、英明はそうつぶやいたきり、大きく目を瞠るしかできなかった。
         目の前に怜二が立っていた。英明をきつく睨みつけているのだが、大きな目からは涙が溢れて滴っていた。英明の頬を打った手をもうひとつの手で包むようにしている。そうして、肩を小刻みに震わせていた。
         遅れてじわりと広がる痛みを頬に感じ、英明は見開いた目で怜二を見つめたまま、手のひらで頬を押さえた。何も声が出なかった。どうして怜二に平手を食らわされたのか、少しもわからなかった。
         怜二は、ぴくりとも動かない。英明を睨みつけて立ち尽くすだけだ。
        「……わかった」
         男のあきらめたような声が聞こえた。
        「怜二。これで終わりだ」
         英明を睨んだまま怜二は答える。
        「うん――」
        「おまえ……バカだ」
        「そんなこと、わかってる。あんたと三年もずるずるつきあったんだ」
        「……言ってくれるな」
         淋しそうに苦笑して、男は力ない足取りで部屋を出ていった。少しして、玄関のドアが開いて閉じる音が聞こえた。
         そうなっても、英明は何がどうなっているのか少しもわからなかった。怜二は正面から自分を睨みつけて涙を流し続けている。
         悲しくて、たまらなかった。やがて、頬を押さえている手がぬるく濡れた。そうなってから、自分も泣いていると気づいた。
        「怜二……」
         すがるように呼んだ。いつまでもこのままでは耐えられない。
        「怜二、どうして」
         そう言った途端、怜二はへたりと畳に崩れた。うなだれて、片手で顔を覆って嗚咽をこらえる。
        「怜二」
         英明も畳に座り込んだ。
        「怜二――」
         怜二の肩に手を置き、顔を覗き込む。いきなり、怜二に抱きつかれた。
        「……怜二」
         胸で受け止め、英明は怜二の体に両腕を絡ませる。頭を抱き寄せ、肩にもたれさせた。
        「あんた……」
         耳元でハスキーな声が囁く。
        「残酷だよ」
         すっと英明は息を飲んだ。ゴクッと喉が鳴る。背筋が冷たくなる。
        「あんなこと……よく言えるな。なんで、おれが省吾に戻らないなんて言えるんだ」
        「……違ったのか?」
         恐る恐る問えば、くすっと冷たく笑われた。
        「だから、そういうこと言うのが残酷だって……わからないんだよな、あんた」
         つぶやいて、怜二は気が遠くなりそうな深いため息をついた。
        「おれに、どうしろって言うんだよ」
         上目づかいに英明を見上げてくる。
        「おれは、今、省吾と別れたよ。未練なんて、これっぽっちもないよ、悲しくもない」
         しっかりと顔も上げて、間近からまっすぐに英明の目を見つめてくる。
        「けど、あんた知らないだろ? 省吾にあんなふうにされて、今もあんたに抱かれて、おれは疼いてしょうもないんだよ!」
         泣き叫ぶように言った。
        「あんた、ずるいよ! 自分のことしか考えてない、傷つくのが恐くて、マジ臆病だ! なんで、寝てるときにキスなんかすんだよ!」
         バレていた――英明は全身が凍りついた。
        「したっていいよ、したかったんならさ! けど、バレそうになって逃げるなんて、どうしてなんだよ!」
         これ以上、怜二と目を合わせてはいられなかった。あまりにも自分が情けない。英明は、すっと視線をそらした。
        「ふざけんな!」
         途端に、怜二に力いっぱい突き飛ばされた。勢いで背後に手をつく。怜二は立ち上がり、きつく英明を見下ろした。
        「だから、おれに、どうしろって言うんだ! あんたがそんなだから、おれはどうにもできないじゃないか! そんなに傷つくのが恐いなら、もうおれに触るな!」
         英明には、返せる言葉がなかった。激しく自分を罵倒しながらも、涙を流し続ける怜二を呆然と見つめるだけだった。
        「帰れ! 自分の部屋に帰れよ!」
         従う以外ない。のろのろと英明は立ち上がる。そうして、ふらつきそうになる足で怜二の部屋から出ていった。


        つづく


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