Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「クロードに夢中」
−1−


「ねえ、今の曲、なんて言うの?」
 放課後の合唱部の練習が終わってしばらくした後だった。ほとんどが女子部員で、きゃあきゃあと騒々しい波がやっと消えてから、僕はひとりで伴奏の練習をしていたんだけど、ちょうど飽きて好きな曲を弾いていた時だった。
 すっかり自分の演奏にひたっていたから、唐突なその声の持ち主が一瞬誰だか分からなかった。
「今、弾いていた曲だよ、なんて曲?」
 グランドピアノの向うに見える彼は、ええと、確か同じクラスの倉本だったっけ。
「聞いたことがある曲なんだけど、俺、題名知らないんだ。教えてよ」
「『ゴリウォーグのケークウォーク』だけど」
「え、なんだって?」
 僕の横に立って譜面台を覗き込んだ。残念ながら、譜面台には合唱曲の伴奏譜しか乗っていない。
「あれ、これは違うのか」
 僕の肩に手をかけたまま、倉本は僕に顔を向けた。
「なんて言った、さっきの」
「『ゴリウォーグのケークウォーク』」
「……一発じゃ覚えられないような題名だね」
「ドビュッシーのピアノ組曲『子供の領分』の中の一曲だよ」
「それでCD探せば、分かる?」
「分かると思うけど」
 ふうん、と感心するように唸ると、口の中でもごもごとドビュッシー、子供の領分、と復唱している。
 随分と真剣な面持ちなので、つい僕は訊いてしまった。
「そんなに気に入っている曲なの」
 僕の問いかけに、あらためて僕に気づいたかのように、えっと言う表情で向けた顔をぱあっと笑みで一杯にした。あまりにも鮮やかに表情が変わるので、僕は面食らってしまう。
「ああ、そうなんだけどさ、水城は知らないかな、俺、こう見えてもバレエやっているんだ」
 倉本とは今年初めて同じクラスになったから、彼の事はほとんど知らない。もっとも僕が懇意にしている友人なんて、あんまりいないんだけど。
「さっき弾いていた『ゴリウォーグ』? 軽快でさ、なんだか踊りだしたくなっちゃうような曲じゃない、だからずっと気になっていたんだけど、何かで聞いただけの曲なんて題名とか分からないだろ、だからさっきの曲が聞こえてきた途端、練習の途中だったけど慌てて走ってきちゃった」
 言われてみれば、倉本はジャージ姿だった。
「練習?」
「うん、水泳部なんだ。夏までは泳げないからさ、基礎体力作り」
「ふうん……」
「と言う事で、俺、戻らなくちゃ。サンキュ」
 ぱっと片手を挙げて、またにこっとすると、多分ここに来た時と同じように軽く駆け足で音楽室から出て行った。
 バレエかあ……。男子高校生の習い事としては、また随分と変わっているなと、その時の僕は思った。そして再び鍵盤に向かい、合唱曲の伴奏練習に戻っていった。


 クラス替えがあってから、まだ一週間もたっていないのに、もう僕のクラスはほとんどが馴染んでいるようで、いつものことながら僕ひとりが浮いているように感じられていた。朝、教室に入っても特に誰かと挨拶を交すわけではない。黙って自分の席に座って、鞄の中身をあけて、ロッカーに荷物をしまって、担任が来るまでの時間、ぼんやりとクラスのみんなを眺めたり、窓から見える中庭を眺めたりして過ごす。
 だけど、その日は違っていた。いつものように自分の席でぼーっとしていると、いきなりぽんと肩を叩かれたので、それこそ飛び上がるほどびっくりしてしまった。
「な、なんだよ、水城、そんなに驚くなよ」
 肩を叩いた当の倉本の方が慌ててしまったようだ。
「ご、ごめん」
 なぜか僕が謝ってしまう。そんな僕を倉本はぷっと笑って、あの豊かな表情を投げかけてきた。
「水城が謝らなくたっていいじゃないか。それよりさ、昨日、CD屋に行ったんだけど見つからなかったんだ、あのCD。『子供の情景』、だよね? ドビュッシーって聞いたと思うんだけど、でも、シューマンだったんだよな……」
「違うよ、『子供の領分』。シューマンの『子供の情景』っていうのもあるけど」
「ちぇ、タイトルが間違ってたのか。買わなくて良かった。メモらなくちゃ駄目だな」
 一旦自分の席に引き返して、手帳とシャーペンを持って戻ってきた。いちいち僕に確認しながらメモを取る。ゴリウォーグのケークウォーク、と最後に書き足して手帳を閉じた。
「サンキュ」
 またもや、にこっと笑顔を向けて、戻って行った。
 僕も変わり者だけど、倉本も案外変わり者なのかもしれない。でも、僕の視界の中で、倉本は他の奴等と楽しそうに笑いながら何か話している。変わり者かもしれないけど、僕とはタイプが全く違うようだった。


「水城くん、遅れないでよね」
 相変わらず、関根はうるさい。去年も同じクラスで、僕がピアノをかなり弾けると知って、むりやり合唱部の伴奏にさせたのは彼女だった。
 その時は、クリクリした大きな目でじっと僕を見上げて、「お願いだから」と一心不乱に頼んできたものだから、すっかり騙されていやいやながらも引き受けてしまったのだが、一年もたつとこうだ。小柄でかわいいくせに、なぜか僕には姉御肌を気取って、今では「練習してるでしょうね」に始まって「伴奏がつかえてちゃ合唱の練習にならないのよ」とか「私が水城くんを連れて行ったんだから、水城くんがとちると私がみんなに見せる顔がないの」とまで言われた。
 それなら他の奴を探せばいいじゃないか、と反論したんだけど「歌ができなくてピアノがうまいのって水城くんくらいなんだから、しょうがないじゃない」と来たもんだ。確かにそこそこ歌える奴は、合唱の方に誘われている。ほとんどが女子の部だから男子は貴重だし、逆にそんな部に入ろうなんて男は探してもなかなか見つからないようだった。
 どっちにしても、これだけ無茶を言われ続けても、伴奏ですんで良かったと思うしかない。万が一にでも合唱の方に入っていたら、今以上に何を言われるか分かったもんじゃない。
 本当なら美術部に入りたかった。
 ピアノは幼い頃から習っていて、家でもイヤってほど弾いているし、いまさら合唱部の伴奏なんかやったところでとりたててメリットがあるわけではない。高校は普通高校に入ってしまったが、大学は音大に進もうかどうしようか迷っている。だから芸術教科は音楽を選択するしかなかった。せめて放課後くらいは、押し付けの伴奏役よりも自分の好みで絵を描いていたかったんだ。
 僕の絵は実際のところ、趣味の範囲内でしかない。たとえ美術部に在籍できたとしても、それは自己満足でしかなかっただろうと思う。だけど、絵は、特に油絵は、その中でも印象派、モネの絵は格別に好きだ。淡い配色の中で光と影を写し出す彼の絵。睡蓮が有名だけど、睡蓮に限らず、彼の描く水辺にはいつも波のさざめきが聞こえるようで、その水面に落とす緑の影が涼やかで、葉ずれの音までが聞こえてくるようだと思う。ゆったりとした静寂と儚く明るい色調。見つめるたびに心の奥底がかすかにざわめく。
 ゴッホの絵のように揺さぶられるようなことはない。ただ、河岸に寄せる波のように、ひたひたと響いてきて、僕の心の奥深いところを穏やかに満たしていくんだ。
 僕にモネのような絵が描けるとは思ってはいなかったが、せめて放課後くらいは絵筆を握って、心の世界で浮遊していたかった。
 なのに現実はこれだ。関根の後に続いて音楽室に入っていくと、副部長の矢部が待ち構えていて、さっそく僕の伴奏に注文を付けてきた。
「昨日のところなんだけど……そうそう、あの三十二小節目からの間奏、あの後ちょっと入りにくいのよね……」
 僕が鍵盤に向かって座り、楽譜を開いたとたんに矢継ぎ早に話し始める。まっすぐな長い髪をかき上げながら、目は譜面しか見ていない。いささかうんざりしてしまうけど、はいはい、と譜面にメモを取っていくうちに、いつしか僕の頭の中は演奏のことで一杯になってくる。「演奏」とは言っても所詮「伴奏」なんだけど、もう性根に染み付いているんだろう、ピアノを弾くのなら徹底的にやりたい。生半可な演奏だけは、自分でも願い下げだ。だから本当は、関根なんかが文句を付けられるような伴奏はしていないはずなんだけど、あのギャンギャンうるさい声を聞きたくないばかりに、いつも喉元まで出かかっている反論をぐっと飲み込んでいるのだった。
 だいたい歌っている時はあれだけの声を出せるのに、なんで普段はあんなにうるさいのか僕には本当に不思議でならない。合唱部内では関根が一番かわいいと言われているのにだ。僕には平気で言いたいことを言うくせに、他の部員にはそうでもないんだよな。僕は軽視されているってことなんだろうか。
 結局、今日も合唱の練習が終わってから、合わせている間にいろいろと付けられた注文を反芻して伴奏の練習をしばらくしていた。
 一通りさらってから、昨日と同じように自分の好きな曲を弾く。家のピアノはアップライトなので、こうやって好きなだけグランドピアノが弾ける事は、合唱部の伴奏をしている僕の唯一のメリットだ。ぜんぜん響きが違う。学校のピアノとは言え、自分で調律もしているんだ。素人技だけど、一年に何度もプロが調律をしてくれるわけではないから、プロがやるまで放っておかれる他校のピアノと同じだとは思わない。それに響きだけじゃない、グランドピアノはタッチが違う。グランドピアノのタッチに慣れてしまうと、僕の家のアップライトなんて物足りなく思えてくる。だからこうして弾いている間は、自分の演奏ながらもうっとりと聞き惚れて、時には背筋がぞくぞくすることもあるんだ。
 ドビュッシーは音楽の印象派だ。曲想は、絵画の印象派に通じるものがある。音が跳ねて、旋律がさざめく。アルペジオの音の階段を上ったり降りたりして、響きが響きと重なりあい豊かにうねる。僕の実力でどうにか弾きこなせる『子供の領分』は、特に僕のお気に入りだ。
 うっとりと弾き終えて目を上げると、誰もいなかったはずの音楽室の隅の席に倉本がいた。いつ来たのか全く気づかなかった。僕が彼に気づいたと分かると、立ち上がってこちらにやってきた。
「水城ってさ、ピアノ、うまいんだ?」
 にこにこと話し掛けてくる。ストレートに誉められて、いくぶん僕は照れた。
「部活はいいの」
「ああ、雨だからね」
 言われて窓の方を見ると、窓ガラスを雨粒が濡らしている。いつの間に降り始めたんだろう。
「今日は体育館は使えないし、さっきまで少しは走り込めたから、今日の練習はもう終わったんだ」
 ピアノにもたれかかって、僕に向けた笑顔を崩さない。
「水城ってピアノが好きなんだね。クラスじゃあんまり話さないし、何考えているのか分からない感じなのに、ピアノを弾いているときって、なんだかイイ顔してる」
 唐突にそんなことを言うものだから、僕はびっくりしてしまった。そんな僕をくすりと笑って、倉本は言った。
「まだ時間があるのなら、何か弾いてよ」
 僕は肯くと、昨日倉本が好きだと言った『ゴリウォーグのケークウォーク』を弾いた。
 曲が始まるとすぐに、倉本は指でトントンとピアノを叩いてリズムを取った。そのうち足で取り出した。そしていつしか小さくステップを踏み出したようだった。
「いいね、やっぱり踊りたくなる。でも、この曲に合わせるんじゃ、ここじゃ狭すぎるし」
 教室の床から一段高くなっている広めの教壇にピアノは置いてある。ちょっとしたステージにも見て取れなくはないが、確かに跳ね回るには狭すぎるだろう。
 僕は倉本には答えずに、ドビュッシーの『塔』を弾き始めた。
 倉本は曲に聞き入ると、ゆっくりと目を閉じた。ゆるやかで静かな旋律。まるで大海原の波が寄せては返すようなメロディに、いつしか彼の体はうねり始めた。ピアノから離れると、ゆったりと幾つかのポーズを取る。僕は横目で眺めながら、それはきっとバレエのポーズなんだろうと思った。
 やがてただのポーズの連続だったのが、動きの流れになっていった。いつの間にか倉本は裸足になっている。彼の優美な動きが僕の視界の端に映る。
 僕が奏でるピアノに合わせて、倉本はゆったりと踊る。ピアノの響きとバレエの美しい動きの流れ、そして外は静かな雨が降っている。
 閉ざされた夢の空間のように思えた。ひとりで弾いている時とは明らかに異なっていた。共鳴。合唱に合わせる伴奏とも違う。ピアノが震わせる空気と倉本が波立たせる空気がひとつになるような感じ。背筋がぞくぞくする。まるで、僕が倉本をあやつっているような錯覚に囚われる。
 初めてのその感動を僕は弾きながら噛み締めていた。
 曲が終わると、ふと我に返ったように倉本が僕に笑顔を向けた。踊っている時はあれほど真剣で、どこか恍惚としてさえ見えたのに、こうやって簡単に見せてくれる笑顔はその辺の誰もが浮かべるものだ。昨日、鮮やかに感じたその表情は、踊っている時の倉本の表情に比べればすっかり色褪せて感じられてしまったから不思議だ。
「――いいね、今のも。やっぱりドビュッシーなの?」
「そう。『塔』」
「バレエでいろんなクラシックを聞くけど、今まで俺がやってきたのって、ちゃんと振り付けがついたクラシックバレエばかりだから、こういった曲はあまり知らないんだ。普段はポップスとかしか聞かないしね」
「他にも弾いてみようか」
 僕は踊れそうだと思える曲を何曲か弾いた。そうこうしているうちに、外はすっかり暗くなってしまい、当直の先生が鍵をかけに来てしまった。僕と倉本は慌てて音楽室を後にして、結局、駅まで一緒に帰った。駅ビルのCD屋に寄るのに付き合って、倉本はやっとお目当てのCDを買った。
 その日から僕と倉本は次第に仲よくなっていった。


 六月下旬の合唱コンクールはあっと言う間にやってきた。コンクール前の二週間は、朝練、昼休み練習、放課後も延長練習と、練習ばかりで過ごす。その間、僕に向けられる八つ当たりも毎度のことながら、それ以上に誰もが苛立っていて、とてもじゃないけどピアノを弾いていても楽しくなんてなかった。放課後の延長練習のせいで、家に帰ってから僕個人の練習をする気にさえなれなくて、はやくコンクールが終わればいいと、それだけを考えていた。
 さんざん練習した成果で、コンクールではまずまずの成績の第三位を勝ち取る事ができた。地区大会なので参加校は二十校程度だったが、それでも入賞できるのとできないのとでは雲泥の差だ。第二位までに入れなかったので県大会への出場権は得られなかったが、とにかく合唱部との付き合いは、もう二学期までない。期末試験までの間は自由練習だし、夏休みは活動がない。夏休みが明けてからは、再び文化祭に向けての練習が始まるが、今回のコンクールで第三位になれたお披露目を兼ねて、曲目のひとつはコンクールの課題曲になるだろうし、とにかく肩の荷が下りてほっとした。
 ここしばらく放課後に倉本と会う事がなかったので、なんとなく僕はプールに行ってみた。
 水泳部はやっと活動期に入って、毎日熱心に泳いでいるようだ。部員数はそれほど多くはなく、次々と泳いでいく様子はなかなかハードに見える。
 フェンス越しに眺めていたら、女子部員達の訝しげな視線に捕まってしまった。「のぞき」じゃないと証明するためにも、慌てて倉本を探した。誰もがゴーグルにスイミングキャップといういでたちなので、遠目には誰が倉本なのか分からなかった。女子部員の視線に耐えかねて、仕方なく、用もないのに倉本を呼んでもらった。
 ぱたぱたとプールの向うのサイドに足早に行った女子部員が、男子部員のひとりに声をかける。今さっき水から上がったばかりの彼は、プールをぐるっと回って、手や体からぽたぽたと滴る雫を振り切りながらこちらに歩いてくる。よく日焼けしたスレンダーな体。伸びやかな背筋。ひきしまった腕や足がしなやかに動く。競泳パンツに包まれた形の良い尻が妙に目につく。その姿が眩しすぎて、僕は思わず目を背けてしまった。
「あれ、水城?」
 声をかけられても顔を向けられなかった。
「なんだ? なんか用?」
 なかなか答えない僕に、明らかに倉本はとまどっている。ゴーグルがいけないと思ったらしく、慌ててそれをはずして、もう一度呼びかけてくれた。
「水城?」
「……何時ごろ終わる?」
「え?」
「部活」
 用もないのに来たのだから、気のきいた事は言えなかった。
「ああ、もうすぐ終わるよ。水城は今日は部活ないのか?」
「うん、一学期はもうない」
「なんだあ、合唱部ってそんなもんなのか? 俺達はこれからだっていうのに」
 ははっと笑って、そこで待っててくれよ、一緒に帰ろう、とフェンス近くの木陰を指差した。他の部員達のところに戻っていく倉本を目で追った。
 今までも体育の授業の水泳で、幾度となく倉本を見ていたはずだ。なのに、倉本の体がこれほどとは全く気づかなかった。後ろ姿もとてもきれいだった。特に背中がきれいなので驚いた。
 水泳選手がバランスのいい体型をしているのは、テレビで水泳の大きな大会のニュースを見る程度でも十分わかる事だ。僕は自分の貧弱な体型にコンプレックスがあるから、水泳選手のような体型には憧れていたんだ。
 だけど、その時の僕の目を捕らえて離さなかった倉本の後ろ姿は、今まで見たことのある、どの水泳選手よりも魅力的だった。無駄のない筋肉の付きかた。まっすぐに伸びた背筋。とりわけ逞しいわけではない。とにかく、しなやかなんだ。動きには優美ささえ感じる。
 そこまで考えて、やっと気づいた。倉本の体は水泳選手のものと言うよりも、バレエダンサーのものなんだろう。
 僕は今まで一度たりともバレエを見たことがない。しかし、その時ふと浮かんだ答えはそれだった。そしてその時から、僕は倉本が本気で踊る姿を見てみたいと思うようになったんだ。
 結局、待っている間も水着姿の女子部員には全く目が行かず、倉本ばかりを追っていた。そんな僕を女子部員たちは、かえって変に思ったかも知れない。


 夏休みが迫っていた。
 倉本とは毎日昼飯を一緒に食べるくらいの仲になっていたし、彼と仲よくなったためか、自然とクラスの他の奴等とも親しくなっていた。一年の時のクラスでの存在感の無さとは大違いだ。去年の僕なんて、毎日関根にぐちられるのが落ちで、とりたてて親しい奴なんていなかった。
 だけど今年は去年よりも楽しく過ごせていて嬉しい。倉本とひょんなことから仲よくなれて、いまさらながら、きっかけなんてどこに転がっているのか分からないもんだと思う。
 クラスではありきたりな話しかしないけど、倉本と二人きりのときは、バレエの話を聞いたり、僕がピアノの話をしたりして、お互いに刺激になる。ただ、倉本は夏が近づくにつれて水泳部が忙しくなり、それでなくても、バレエのレッスンが週二回あってなかなか時間がなく、僕たちは学校帰りに一緒に遊んだりすることはなかった。せいぜい雨で水泳部の活動がない日に、音楽室で僕が弾くピアノを倉本が聞いたり、少し踊って見せてくれたりするくらいだった。
 だから夏休みは少し期待している。このあいだ倉本の水着姿に魅せられて以来、僕のささやかな願望になっている倉本の本気の踊りを夏休み中にぜひ見せて欲しいんだ。そんなことは、ちょっと恥ずかしくて実はまだ彼には言ってない。でも、きっとチャンスは巡ってくると思っている。

つづく




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