Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「クロードに夢中」
−2−


 八月の上旬、倉本から電話があった。先日の水泳の競技会の話とか夏休みの課題の事とか、他愛もない話をしてから、その誘いはさりげなく彼の口から零れてきた。
「十日、あいてる?」
「え? ……何も予定はないけど」
「その日、お盆前の最後のレッスン日なんだ。来ない?」
 一瞬、何の話かと思った。
「あの曲に、俺、自分で振り付けてみたんだ。見てくれない?」
 そこまで言われてやっと何の話か分かった。僕の願いに倉本はいつ気づいたんだろう。僕はもちろん二つ返事で承諾した。稽古場の場所を訊いてメモをとり、ちょうどレッスンが終わる頃に行くと約束した。
 レオタードに身を包んだかわいらしい小学生の女の子や、すらりとした女子中学生に混じっているタイツ姿の倉本を初めて見た。水泳をしている素足の時よりも、かえって彼の脚線の美しさが際立って見える。一種独特の雰囲気のある稽古場で、他のどの女の子たちよりも倉本の姿に釘付けになった。
「今日は教室内でのおさらい会だったんだ」
 小さな子供たちが笑いさざめきながら帰り支度をする様子を横目で見ながら、戸口のところで呆然としたように突っ立ったままだった僕に声をかけてくる。歩み寄ってくる様も普段とは違うように感じて、僕は目を瞬かせていた。タオルで流れ落ちる汗を拭いているところを見ると、倉本は最後に踊ったのだろう。息は整っているようだけど、頬が紅潮している。
「CDを取ってくるから、ちょっと待ってて」
 正午前の真夏の太陽が、高窓から光を降り注いでいた。よく磨かれたフローリングの床。一面鏡張りの壁。レッスン用のバー。がらんとしたその空間にこもっている湿った空気は、つい先ほどまでここで何が繰り広げられていたのかを如実に語っていた。
 倉本は戻ってくるとCDをプレーヤーにセットした。僕はフロアの隅に置かれているピアノの椅子に腰掛けた。
「少し体が冷えちゃったから、動かしてからにする」
 そう断り、バーのところへ行った。
 片手でバーに掴まると、背筋を伸ばし足をなにかのポーズにして、もう片方の腕を肩の高さまでゆっくりと横に広げていった。次に片足を横に軽く上げて、それから膝を曲げる。爪先で床をすりながら前方に出し、そして強く蹴り出す。そのまま静止。似たような動作で、片足を横に蹴りだし、静止、次には後ろに蹴りだし、静止。それから、片足を大きく前に蹴りだすと同時に、肩の高さに広げてあった腕をまっすぐに頭上に上げ、静止した。全ての動作を間を置かず、リズミカルに続けていく。淀みなく動き、すらり、と伸び切る。
 そんな倉本の一連の動作を黙って見つめ続けた。高窓から降り注ぐ太陽の光は、惜しげもなく彼を包んでいる。眩いばかりの幾本もの光の筋の中に、細かい塵が舞っている。彼の動きで空気が動くのがよく分かる。
 白い壁を背景に黒いコスチュームの倉本が映える。足元に広がる磨き込まれた茶色い床。ときどきキュッとバレエシューズの擦れる音がする。静寂の中で繰り広げられる、のびやかな動き。それは、一つの絵画のように思えてきた。
 踊り子を好んで描いたのはドガだ。だけど僕の目に映る倉本は、ドガが描くような妖艶な雰囲気は微塵も感じさせない。しんと静まり返った光景。水を打った石庭にも似ている。あるいは午後のまどろむ光の中、緑を映した池に浮かぶボート。ゆらゆらと心地良く僕を揺さぶる。
 ――ああ、これはモネだ。そう思った。モネの描く絵から受ける印象にとても似ている。いつしか僕は、うっとりと倉本の動きに見入っていた。
 最後に床でストレッチを終えると、CDプレーヤーのリモコンを手にして僕の所に来た。
「なんだか、緊張しちゃうな」
 僕にリモコンを手渡して、照れた笑いを浮かべながらも倉本は中央に歩み出していく。
「ええっと、十四番目だから、スタートしてくれる?」
 すっとポーズをとった。倉本は瞬時に自分の世界に飛び込んだようだ。僕はCDをスタートさせた。
 『ゴリウォーグのケークウォーク』は女の子が人形を振り回して遊ぶ様子をイメージした曲だ。始まりからフォルテで軽快なリズムが弾ける。倉本はその曲想にぴったりと合わせて、いきなり跳び始めた。
 フロアの端から端まで使って、続けざまに飛び跳ねる。腕を大きく前後に伸ばし、空中できれいに開脚する。着地と同時にターンして、さらにジャンプ。コミカルに腕を動かして静止。関節がはずれた人形さながらにくたくたっとすると、次の瞬間には背筋を伸ばしてピシャッとポーズ。途中のメロディアスなところでは、流れるように踊った。再び、軽快になったリズムに合わせて、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ! 踊る事が楽しくてたまらないと言わんばかりに、汗を飛び散らせ、生き生きと輝いている。曲のイメージに合わせて鮮やかにくるくると変わる彼の表情に、僕は目を奪われた。
 倉本、なんてステキなんだ。こんなきみは今までに見た事がない。学校でも笑顔が耐えない朗らかなきみなのに、踊っているときのきみはそれどころではないよ。
 やや長めのまっすぐな明るい色の髪が、その一本一本に受けた光をきらきらと撒き散らす。かすかに紅潮している頬。激しさを感じさせないほどの軽やかな動き。跳び上がって、すらっと伸び切る足の先まで意識されているのがよく分かる。踊ることが、踊れることが楽しい、と全身で表現する。さあ、見て、見てよ、見てくれ、と僕に語り掛けてくる。ターンをするたびに、真夏の光の中に汗が舞い散る。ポーズを決めるたびに、指先まで情感が込められる。
 バレエって、いい。すっごく、いい。倉本、最高だよ。僕にはない、きみの素晴らしさ。きみらしく、明るく解放されている。
 さっきのエクササイズの際に僕に見せた静寂のかけらは、今はどこにもなかった。躍動感、生命力、太陽に向かって猛々しく萌え盛る青葉のざわめきさながらに迸る息吹。今、ここに生きているという証。有無を言わせないほどの存在感。なんて、なんて魅力的なんだ。
 最後は糸がはずれた操り人形のように、ガクッと床に突っ伏して倉本の踊りは終わった。
 見ていただけなのに、僕までが興奮に息が上がっているかのように思えた。僕は余韻に包まれたまま、ふうっと深くため息を漏らした。
 やがて倉本はゆっくりと起き上がり、僕のところまで走ってきた。肩で大きく呼吸している。僕は拍手すらも忘れて、ただ彼に見とれているしかなかった。
「腹減ったぁ」
 ところが、そんな僕のところに戻ってきた倉本の開口一番のセリフはそれだった。今までの夢の空間とあまりに現実味溢れる言葉のギャップに、僕は目眩がするかと思った。
「一緒に昼飯食いに行こうよ」
 僕のとまどいになんて気づかないのか、倉本はCDを手にしてロッカー室に消えて行った。
 結局、バレエの感想も言えないまま二人で稽古場を後にして、駅の近くの牛丼屋に入った。色気もへったくれもない。
「このあとさ、プール行かない? 今日はほんっとうに暑い」
「あれだけ踊って疲れているんじゃないの。それに水泳部でいつも泳いでいるのに」
「それとこれとは違うよ。それに、ここ一週間泳いでない」
 倉本と二人でプール……そう考えたら、何だか胸がどきどきしてきてしまった。見て分かるんじゃないかとバカな思いが浮かんで、僕は思わずうつむいてしまう。
「いいじゃん、市民プールだからさ、家に戻ってタオルと水泳パンツだけ持って来いよ」
「……うん」
「俺も一旦帰るから、そうだな、三時からだったっけ、それに間に合うように来いよ」


 市民プールだから、子供用の小さなプールと競泳用の五十メートルプールのふたつしかない。しかも五十メートルプールの方は小学生でも利用できるように、三分の一がロープで区切って底上げしてあり、そっち側はもくろみ通り小学生がうようよと水の中で遊んでいる。ここに来ているのは小学生や親子連ればかりだから、こちら側の水深の深い方はがらがらだった。
 倉本は水に入るなり、いきなり泳ぎだした。きれいなフォームのクロールで、あっと言う間に向うのプールエンドまで行ってしまった。それを見届けて、僕も泳ぎだす。僕がプールエンドに手をかけて水から顔を上げると、笑顔の倉本が視界に飛び込んできた。
「水城ってさ、水泳、ウマイじゃない」
「小学生の間、スイミングスクールに通わされていたんだ。小児喘息だったから」
「へえ、喘息? もう治ったの?」
「喘息は小学校二年生の頃には、もう出なくなっていた。だけどスイミングは五年生まで続けたんだ」
「ふうん、それでフォームがきれいなんだ」
 そのあとも僕と倉本は何回も泳いで、疲れるとプールサイドの椅子で休んで、そんなことを繰り返していた。
 椅子に座ってタオルでざっと水を拭いて、そのまま頭からタオルをすっぽりとかぶると、倉本はゆったりと背もたれに体を預けた。真夏の太陽が照り付ける。よく日焼けしたなめらかな肌が光っている。穏やかに上下する胸。つんと付いている小さな突起に目が止る。引き締まった腹筋。組まれた足はすんなりと伸びて、足の指先まできれいな線を描いている。
 ほんの数時間前には僕を魅了して飽きさせなかった倉本の体。知らず知らずのうちに見とれていた。
 タオルの陰からシャープな顎がわずかに覗いている。と、薄い唇の端がゆっくりと上がって、動いた。
「えっち」
 いきなりそんな事を言われて、心臓が破裂するかと思った。倉本はぱっとタオルを取ると、にやにやと僕を見つめる。
「今、俺の体を見てただろう。分かるんだよ、えっちだなあ」
 そう言うと、ぶはははっと笑い出した。普段から笑顔全開の倉本だけど、こんなふうに大きく笑ったのは初めて見た。つられて僕も訳の分からない笑みを浮かべてしまう。真夏の太陽の下で屈託なく笑う倉本は眩しかった。
 四時を回って、夕方の涼しい風が吹き始めると、親子連れから順ぐりに帰っていく。だんだんとがらんとしてきたプールで、倉本が競争して終わりにしよう、と言った。実力の差があるから、僕が先にスタートして少し行ったところで倉本がスタートする。ゴールはほとんど同時だった。
 こんなに運動したのって、久しぶりだ。プールエンドに手をかけて、はあはあ言いながら倉本を見ると、彼も息が上がっていた。呼吸に合わせて彼の肩が上下する。背中が波打っている。なめらかな彼の肌は水を弾いて、水滴のひとつひとつが形良い球体になっている。その一粒一粒が、傾き始めた太陽に照らされてきらきらと輝いていた。美しかった。あれだけのバレエを踊って見せた倉本の体だ。
 ――触れてみたい。
 突如襲った押さえようもない衝動で、そっと彼の背に手を乗せた。そのまますうっと撫で下ろした。自分がやった事なのに、手のひらが辿った感触に驚いてしまった。さっきのこともあるし、倉本が今のことをどう思ったか一気に不安が押し寄せてくる。
 だが、倉本はぴくりともしなかった。中途半端な間があって、ゆっくりと僕に振り向いた。いつもの彼の笑顔が望めて、僕は心底ほっとした。


 それから一週間もたたないうちに、また倉本から電話があった。僕にはなんとなく後ろめたさがあって、彼の家に誘われても即座に行くとは言えなかった。だけど倉本は、発表会のビデオがあるから見に来てくれと言う。
「両親は法事で出かけているんだ」
 僕を迎えて玄関を開けると、いきなりそんな事を言った。僕が変に緊張しているのが見て分かったのかと思うと、ちょっと恥ずかしかった。そのまま二階の倉本の部屋に通された。
 一歩踏み込み、目を見張った。倉本がどれだけバレエに打ち込んでいるかが分かるようだった。八畳ほどの広さの彼の部屋には、机、ベッド、本棚といったお馴染みの家具に混じって、窓際に大きな姿見が置かれている。その横の窓の枠にはバーが取り付けられている。僕は思わずバーに歩み寄った。
「すごいんだ。こんなのが自分の部屋にあるなんて」
 倉本も僕の隣に来ると、バーを掴んで笑って見せた。
「ストレッチは毎日やらないとね。どうせやるなら、これがある方がいいんだ」
「ふうん、ここでやりながら、あの鏡でチェックするわけ?」
 横に置いてある姿見を覗いた。僕の全身が映っている。僕の背後に倉本がいる。ふいに目に飛び込んできた客観的な光景に、僕は思わず赤くなってしまった。鏡の中の僕の顔も紅潮してくる。それが一緒に鏡を見ている倉本にも分かってしまう。ますます僕は真っ赤になっていく。
 今、この時、二人きりで倉本の部屋にいるという事実が突然意識される。それと同時に鏡の中の僕の姿の貧弱さが僕に羞恥をかきたてる。全く異なる二つの恥ずかしさで、僕は顔を背けた。
 倉本が僕の両肩に手を乗せた。耳に近いところで優しい声がする。
「どうしたんだよ、なんで、急に赤くなっているんだ」
 本当の事なんて言えない。僕が顔を赤らめた本当の理由はどちらなのかなんて。
「……恥ずかしいんだ。僕は自分の体型にコンプレックスがあるから」
「コンプレックス?」
「倉本みたいにしなやかに引き締まった体に憧れるよ。だけど僕はあまり運動は好きじゃないし、部活だって中学生の時から文化系ばかりだったから、高校生になっても華奢で貧弱な体のままだ」
「そんなこと言うなよ、捨てたもんじゃないさ。水泳だってやっていたじゃないか」
「小学生のときだよ」
「でも基礎ができているだろう? 確かに華奢だけど、貧弱だとは思わないよ」
 ほら、自分でちゃんと見てみろよ、と僕を鏡に向き直らせた。あきらめて顔を上げる。歪んだ表情の僕が映っている。
「駄目だよ、顔を見るんじゃなくて、体を見てごらんよ」
 倉本は僕の肩に置いた手をするりと滑り降ろして、僕の手を取った。腕を撫で下ろされて、僕の鼓動は急に早くなる。倉本はそのまま僕の手を頭上までまっすぐに持ち上げた。ポロシャツからにょっきり出ている僕の細い腕に影のように倉本の小麦色の腕が添えられている。早まる鼓動をどうにか意識から追い出して、鏡の中の倉本の顔を見た。穏やかな笑顔で僕を見つめている。
「ね、それほど変わらないよ」
 細い筋肉が無駄なくついた日焼けした腕と、僕の生白い腕。確かに太さはさほど違わないけど、質感がぜんぜん違う。異を唱えたげな僕に気づいて、倉本は僕の手のひらを開かせた。
「指がきれいだね。長くて。ほら、広げると俺よりも大きい」
 それから指をぴったりと合わせて、閉じた状態の大きさを比べた。
「広げないと、俺の方が大きいのか。手の大きさは身長と関係あるらしいから。俺の方が背は高いもんな」
 そう言うと、今度は僕の頭に手を置いた。
「水城って一七〇ちょうどくらい?」
「……うん」
 やっと口を開いた鏡の中の僕に満足げな笑みを向けてくる。
「コンプレックスなんて持つなよ、水城。華奢なままでいいじゃないか。おまえ……かわいいよ」
 語尾がよく聞き取れなくて、えっ、と顔を向けた僕から倉本はすっと離れて行った。
「何か飲もうぜ、下に来いよ」
 階段を降りながら声を掛けてくる。僕は慌てて、うん、と返事をすると彼に続いた。
 倉本が運んできてくれたアイスコーヒーを飲みながら、リビングで発表会のビデオを見た。三月に市民ホールで行われたものだ。ちゃんとした衣装に身を包み舞台用のメイクをした倉本は、まるで本物の王子様のようだった。プロの照明に照らし出されて優雅に踊る。
「本当に王子様だよね」
 ため息交じりに口を衝いた僕の言葉に倉本は苦笑した。
「そりゃ、舞台では王子様なんだから。だけどさ、俺のバレエを観たやつって、男も女も関係なくやたらと王子様扱いするんだよな」
「だってさ、倉本ってかっこいいじゃない、当然だと思うけど」
「現実と舞台をごっちゃにされちゃかなわないよ。普段の俺が王子様なわけないじゃないか。水城だってピアノを弾いている時は素のままじゃないだろう」
「まあ、そう、かな」
「そうだと思うよ。ピアノ弾いている時の水城って、なんて言うか、近寄りがたい感じがする。普段とはぜんぜん違うよ。初めて音楽室で水城がピアノ弾いているのを見た時、声をかけにくくてしばらく様子をみてたんだから」
「初めてって、『ゴリウォーグ』の曲名を訊いてきたとき?」
「そう。俺が王子様ならさ、水城は貴公子だな」
 僕はさすがに吹き出してしまった。
「よりによって貴公子って、何だよ。この僕が? 冗談にもほどがある」
 ところが倉本はそんな僕に不満顔だ。
「クサイ言い方だったかもしれないけどさ、ピアノを弾く水城って、普段よりも迫力があって表情もいいし、それに品があるのは確かだぜ」
「品?」
 またもや吹き出しそうだったけど、生真面目な顔をしている倉本を見ると、どうにかこらえきれた。
「惹きこまれそうになる雰囲気があるってこと、それよりさ、」
 口早に言い捨てると、倉本は俺の目をじっと見るなりこう言った。
「相談なんだけど、文化祭でやらないか?」
 突然の申し出に驚いた。
「水城の伴奏で、俺、踊ってみたいんだ」
「それなら今までにも音楽室でやったじゃないか」
「そうじゃなくて、ちゃんと人に見てもらいたいんだ。今見てもらったビデオはクラシックなんだけどさ、この間、稽古場で踊って見せたようなのはモダンて言うんだ。モダンは今通っている教室ではやらなくて、でも俺はモダンの方が合っているかと思い始めている。一度、試してみたいんだ。俺の振り付けた踊りがどんなものなのか」
 僕はためらった。自分が築き上げたものを人に披露したいと思うのは、ピアノもバレエも同じだろう。僕だって、発表会は嫌いではない。それまでの時間、自分との戦いの中で切磋琢磨した結果を人に披露するのは、ある種の快感だ。だが、学校の文化祭となると、観客は必ずしも好意的ではないし、きっと倉本のバレエともなれば、見に来るほとんどの人は冷やかしだろう。だいたい、倉本がバレエをやっている事を知っている奴なんて、ごく一握りにすぎない。
「冷やかされるのが落ちだと思うけど」
 僕は消極的にならざるを得なかった。
「何言ってるんだよ、水城。伝わるやつには伝わるし、その気のないやつをもその気にできるかも知れないんだよ? 誰の目にも触れないで自分だけで満足しているようじゃ、駄目だよ。水城だって、ピアノをずっとやっていこうか迷っているって言ってたじゃないか。文化祭で披露するくらいでびびってちゃ、どうしようもないよ」
「倉本はいいさ、だってあんなに魅力があふれているんだもの」
「バカだなあ、ピアノを弾いている水城だって魅力あるって言ってるじゃないか。水城は自分のピアノに自信がないわけ?」
 普段から合唱部の部員たち、特に関根にバカにされている身としては、即答できなかった。だけど、自分としてはそんなことはないと思っている。心のどこかで、僕を小馬鹿にする奴等を見返したいと思っている。僕には彼らを唸らせる何かがあると思いたい。
 隠し難い自己顕示欲と万一失敗したときを思う恥ずかしさで、僕の心は揺れた。
「水城、ピアノが好きなんだろう? 俺にとってのバレエくらい、打ち込んでいるんだろう?」
 その言葉は僕のなけなしの自尊心をくすぐった。
「もちろん。当たり前じゃないか、倉本のバレエにだって負けないくらい、僕はピアノが好きだ」
 倉本に顔を向けて、ぐっと睨み付けるほどに見つめてしまった。
「そうだろう? だからさ、好きなものは好きなんだから、いいじゃないか、誰がどう思ったってさ、関係ないじゃない。水城だって、ひとりでこっそり弾いて、自分のピアノに満足しているだけじゃ物足りないと思っているんじゃないの?」
 ――核心を突かれてしまった。
「やってみようぜ。俺はやりたい。その為には水城の協力が必要なんだ。お願いだよ、一緒にやってくれよ」
 倉本は真剣だった。その真剣さの前では、僕はもう逃げられなかった。これだけ僕を魅了して止まない彼の申し出を拒めるわけがない。
「わかった」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、俺、どんなふうにやるのか考えておくから、今度会ったときには打ち合わせできるように水城も考えておいてくれよな」
 暗い面持ちで肯く僕の背中をばんっと叩いて、倉本は笑った。だけど僕は急には笑みを返せない気持ちでいっぱいだった。


 去年までは全く目立たない存在だったんだ。友達だって少なかった。別に好んでそうしていたわけじゃないけど、普通に過ごしているだけで、いつのまにかそうなっていた。
 もともとが地味な性格なのもあるだろう。際立って勉強ができるとか、運動が得意とか、ルックスがいいとか、そんなものが僕にはひとつもなかったから、僕は全く目立たなかった。僕の唯一の取り柄であるピアノすら、合唱部の伴奏という陰の立役者にすぎず、しかも部員たちからは正当な評価を受けていない。唯一の取り柄を認めてもらえないから、僕には他には何もなかった。
 今年になって倉本と親しくなれて、自然と友達が増え、クラスにも馴染めた。話してみればいい奴じゃないか、それが今年の僕の評価だ。倉本と同じクラスになっていなかったら、倉本と親しくなれていなかったら、今の僕はどうなっていたんだろう。すべては倉本のおかげと言う事なのだろうか。
 ……いや、別に倉本が僕を他の奴等に執り成してくれたわけではない。僕が倉本と親しくしている様子を見て、自然とこうなってきたんだ。つまり、倉本が僕を引きずり出してくれたわけではなくて、去年までの僕は自ら扉を固く閉ざしていたことになる。自分から他者に打ち解ける気持ちがなかった――そうなる。
 幼い頃から何かにつけて、僕はよく姉と比較された。姉は明るく積極的な性格で、何をやってもうまくできる子供だった。そもそもピアノだって、姉が先に習いはじめていたから僕にもやらせてみようと、そんな気持ちで親が僕に始めさせたのだ。
 八歳年上の姉は、高校生になるとピアノに対する興味を失ってやめてしまった。姉にとっては数学や化学の方が面白くてたまらなくなったのだ。女なのに理系の学問にいれこむ姉に比べて、男なのにピアノや絵画に心奪われる僕は、両親にとっては不甲斐なく思えるようだった。
 それは仕方がないことだったと思う。物心ついた時からピアノの音が響く家で育った僕は、その点では姉よりも深くピアノに関わってきていたわけで、両親が予想できなかったほどにピアノにいれこんでしまったのは、ある意味で当然のなりゆきなんだ。
 確かに僕がピアノを始めたきっかけは、親の意向にすぎなかった。だけど、途中でぶち当たった様々な困難や、いっそやめてしまおうと思うようなことをひとつずつ乗り越えていくに連れて、ピアノは僕にとってかけがえのないものになり、僕の生活のほとんどを占めるものになっていった。
 小学生の頃には既に、僕からピアノを取り上げたら他に何が残るのかと言えるほどになっていた。親が理想とする息子からどれほどかけ離れてしまおうと、ピアノを取り上げられるわけにはいかない。やめさせられるのだけは嫌だったから、その他の事では親に背かないように細心の注意を払って過ごしてきた。おとなしく、なるべく逆らわない子供でいようと思うようになってしまっていた。そのせいかもしれない、僕が地味な性格になってしまったのは。
 でも僕は、本当にピアノが好きなんだ。嫌な事があっても、くさくさした気分で鍵盤に向かった時さえも、あの音色に包まれて音楽の世界に浸ってしまえば、弾き終えた時にはすっきりとした気分が味わえるほどに。
 今となっては、ピアノは僕という存在を支えるほどのものになっている。
 できることならずっとピアノを弾いていきたいし、ピアノで生きていけたらどんなに幸せかと思う。ただ、それは現実味が薄く、ピアノに賭ける人生がどれほど困難なものかを考えると、僕が二の足を踏んでいるのも事実だし、それどころか、そんな願いを抱くこと自体が無謀のように思えてならない。
 それでも、僕の演奏を人に聴いてもらいたい欲求があるのは事実だった。ピアノに賭ける人生は夢だと自分に言い聞かせる一方で、僕の殻に閉じ込められている世界を開放したいとも思っているのだ。
 ならば、今回の倉本の申し出は快く、積極的に受けなくてはいけないだろう。僕にとってのピアノがどんなものなのか、学校のみんなに見せ付けてやりたい。ピアノ教室の発表会とは全く異なる、それだけが目的で集まってきたわけではない聴衆を前に、僕がどれだけ弾けるのか試してみたくなった。
 感動させてやろうとか、そんな野心は全くない。これは僕自身を試すことになるはずだ。いったいどれだけできるのか。好意的に聴いてくれるわけではない聴衆に、逆に打ちのめされることになるかもしれない。しかし、リスクを伴うチャンスを回避してばかりいては何も始まらない。他人の評価を恐れずに、自分をさらけ出してみるんだ。
 そこまで考えて、合唱部の僕のピアノへの評価が低いのも当たり前なのかもしれないことに気づいた。僕は一度たりとも、部員たちの前で演奏した事がなかったのだから。僕のピアノを聞かせた事がなかったのだから。合唱につけている伴奏は、僕の本来の演奏ではないのだから。
 決心は固まった。そして倉本との発表には、僕のソロを入れてもらおうと思いついたのだった。


 倉本の家に遊びに行った数日後、今度は僕から電話をした。決心がついたから、僕の家で詳しく打ち合わせようと伝えたら、電話の向うで彼が舞い上がって喜んでくれたのが目に見えるようによく分かった。
 僕の部屋に上がり込んだ倉本は、既に少し興奮気味だった。やる気満々なのが見ているだけで分かる。
「俺、今年の文化祭実行委員長に電話しちゃったよ」
 あまりの行動力に半ば呆れ顔で倉本を見つめた。そんな僕にはお構いなく、満面に笑みをたたえて話し続ける。
「ステージの利用申込はもう締め切られていたんだけど、無理を言って割り込ませてもらった。午後の部に若干余裕があるからってことで、一応OKを貰えたんだけどさ、多分、持ち時間は二十分くらいだろうって。準備と片づけをいれてこの時間だから、せいぜい三曲くらいしかできないと思う。ま、それで十分なんだけどさ」
 堰を切ったように話し続ける倉本を遮って、僕は慌てて希望を伝えた。
「その三曲のうち、一曲だけ僕にソロをやらせてくれないか?」
「ああ、いいよ、そのつもりだ」
 僕のせっぱ詰まった口調に、すんなりとそんな言葉を返されてたじろいだ。僕の顔を見てくすりと笑うと倉本は言う。
「当たり前じゃないか。水城を誘った時点で、そのつもりだった。断られたら説得するつもりで、いろいろ口説き文句を考えたくらいなんだから。水城の方から言いだしてくれて嬉しいよ。それに、たとえ三曲でもぶっつづけに踊ってはいられないよ。二曲目を水城のソロにしてもらって、そこで休憩を取りたいんだ」
 なるほど、そう言われればそうだろう。先日、僕の目の前で踊った倉本は、わずか三分弱の曲だったけど踊り終えたときには息が上がっていた。
「それでさ、曲目なんだけど、一曲はあの『ケークウォーク』をやるとして、もう一曲を何にしようかと考え中なんだ」
「何かやりたいのってないの?」
「うーん、せっかくだから俺のオリジナルだけで構成したい」
「すごいな」
 ふっと顔を見合わせて微笑み合った。
 倉本のオリジナル――そう考えると、あの『ケークウォーク』の前のエクササイズの時に、モネのイメージが湧いたことが思い出された。飛び跳ねて活動的な『ケークウォーク』に対して、あの、水のイメージの倉本を最初に持ってきたらどうだろうか。それとなく倉本に訊いてみた。
「モネ?」
 モネと言われてもピンと来ないらしい倉本に、画集を引っ張り出して見せた。淡い色彩の瑞々しい絵が、ページを繰るたびに目の前に広がる。
「うん、確かに躍動感あふれる『ケークウォーク』とは反対の、静かなものもいいかもしれない」
「やっぱりドビュッシーがいいわけ?」
 何気なく訊いた僕を倉本がくすりと笑う。
「水城はクロードに夢中なんだね」
「え?」
「気がついてないの? ドビュッシーもモネも名前は"クロード"じゃないか」
 言われて初めて気づいた。なんとなく見ていたモネの絵のサインは、ちゃんとクロード・モネと書かれている。ドビュッシーのCDにもクロード・ドビュッシーと記してある。
 そして、僕の目の前の彼の名は――。
 くくくっと含み笑いをしてしまった。
「何だよ」
 そんな僕を訝しげに倉本は見つめる。
「何がそんなにおかしいんだよ」
 なんでもないよ、と答えたものの、僕は思いついてしまった、あまりにもひどいこじつけがおかしくてたまらなかった。
「倉本」。くらもと。――――むりやり「クロード」と取れなくもない。
 なんだ、こんな仕掛けだったのか、倉本にも惹かれるわけだ。そうだよ、きみの言う通りだ。僕はクロードに夢中なんだ。
 僕は机の横のピアノの蓋を開けると、『雨の庭』を弾いてみせた。絶え間なく滴り落ちる雨粒をイメージさせる曲だ。唸りにも似た低音部で熱を隠し、静かに始まるその曲は、次第に高音の連打に移行し、澄みきった情熱を展開する。倉本のイメージにはぴったりくると思った。
「どう? 踊れそう?」
「うん、いいね。気に入ったよ。これでいこう」
 すんなりと合意した。それから僕のソロの選曲に移って、僕らの発表のタイトルを考えた。母が持ってきてくれた飲み物には口も付けずに、しばらく熱心に話し合った。
 僕らの発表のタイトルは『俺達の領分』になった。僕は恥ずかしいから他のを考えようって言ったんだけど、倉本はどうしてもそれがいいと言い張るので、仕方なく妥協した。僕のソロはバレエの間の曲と言う事もあって、静かなものでバレエに向かないと思われるもの、得意の『月の光』で落ち着いた。


 それからの残りの夏休みは、それぞれの練習に費やした。僕は熱心に三曲を練習したし、倉本も振り付けに頭を悩ませた。時々会っても、倉本の相談に乗るくらいだった。相談といっても僕にバレエの技術的な事は分からない。一緒に築き上げようとするものが二人のイメージに合っているかの確認だけだった。
 とにかく自分自身のすべき事を極めるのに没頭した。こんなに充実した夏休みの終わりなんて、初めてだった。

つづく




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