Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「クロードに夢中」
−4−


 急に付き合いが悪くなった僕を倉本はどう思っていたんだろう。まるっきり避けきれるわけもなく、クラスでは半端な態度を取り、放課後は誰よりも早く音楽室に逃げ込み、部活が終われば疾風のように家に帰った。
「どうしたんだよ、水城」
 クラスの奴にまで言われてしまう。
「倉本とケンカでもしてんのか? あんなに仲よかったのに」
 適当にごまかすことすら、苦痛だった。
 とにかく冬休みは目の前だ。クリスマスコンサートも目の前だ。今は合唱部にかまけて、なし崩し的に冬休みに突入してしまおう。二週間も会わなければ、僕の頭も冷えるかもしれない。
 実はあの日以来僕は、いつ倉本に触れてしまうか自分でも分からないほど、彼に惹かれている事実に振り回されていた。自制する僕と突っ走ってしまいそうな僕と、力の駆け引きの上に危うくバランスを保っているだけだったんだ。


 クリスマスコンサートは冬休み最初の日曜日だった。市が主催の無料コンサートで、僕たち合唱部の他に市民交響楽団とか、市内にある短大のマンドリンクラブとか、他校のブラスバンド部とかが参加する。当然のように毎年大盛況で、今年も開場の午後一時を待たずに正午過ぎには人の列が長くでき上がっていた。
 僕たち合唱部の出は最後から二番目で、市民交響楽団の前だ。去年もこの順番だったので、スタンバイがあるまで僕はこっそり客席に混じってそれまでの演奏を楽しんだのだった。当然、今年もそうしている。
 合唱の前のエレクトーン演奏があと一曲になった時、僕は暗い客席の隅に倉本を見つけてしまった。その瞬間、口から心臓が飛び出すかと思ったけど、あれほどまでに避けていた彼の姿は、あまりにもせつなかった。そのままステージとは反対の、あさっての方に顔を向けて倉本を見つめ続けた。
 倉本が僕に気づくわけがないと思うと、何だか妙な安心感が湧いてきて、それこそ飽きるほど見つめた。
 ステージの照り返しが彼の整った顔をかすかに照らしている。さらっとした肩近くまである髪、スレンダーで引き締まった体格。シャープな顎のライン、意志の強そうな眉、すっと通った鼻筋、薄い唇。ステージを見つめている涼やかな目は、いつもの優しさを浮かべている。こんなところでただ座っているだけの倉本も、やっぱりきれいだった。
 エレクトーン演奏の最後の曲、バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』がパイプオルガンの音色で演奏されはじめた。倉本に見とれている僕の耳にも、それは響いてくる。その音色に彩られて、僕の目に映る倉本がより一層の魅力を僕に投げかけていた。ただ見つめることが許されるだけで、これほどの至福が僕を包み込む。
 後ろからいきなり肩を叩かれて、ひっと声が上がった。
「しっ! こんなところで何やってんのよ、もうエレクトーン、終わるって言うのに」
 首根っこを掴まれた猫のように、僕は矢部に舞台脇のドアから引きずりだされた。
「もう、次が出なんだから、しっかりしてよね。水城くんがマイペースなのはいつもの事だけど、すかしてばかりいられちゃかなわないわ。関根ちゃんが袖から見つけてくれなかったら、私たち伴奏なしで歌うところだったじゃない、まったく、いったい誰に見とれていたんだか、舞台見てたわけじゃないってんだから、呆れるわよ」
 僕の前を行く矢部はぶつぶつと怒りをぶつけてくる。――確かに迂闊だった。合唱部のみんなには謝るしかない。しかも、僕が舞台じゃないところに見とれていたことを見られたと知って、消え入りそうな思いだった。
 袖に入ると他の部員たちの険しい目線の嵐に包まれてしまった。声を出せないから、ただひたすら手を合わせて謝るポーズを取って許してもらった。あとはステージできっちり伴奏して誠意を見せるしかない。
 いつもながら合唱部の出来は上々だった。僕の提案したゴスペルも評判良かった。目先が変わって、マンネリ気味のコンサートにはちょうど良かったらしい。進行係の人にそんな声を掛けられて、僕たちは意気揚々と楽屋に引き上げていった。
 着替え終えて男声パートの数人とジュースを飲みながら、楽屋に設置されているモニターに映し出されている市民交響楽団の演奏を眺めていた。ほとんどの観客の目当てがこれなので、会場は依然満席のままだ。きっと立ち見をしている人は、帰るまでまるっきり座れないんだろう。
 その時楽屋のドアがノックされた。近くにいた僕がドアを開けると、倉本が立っていた。予想外のことに唖然として、そのまま固まってしまう。
「今日は大成功だね、おめでとう」
「あ、ありがとう、じゃ」
 僕は失礼にもそれでドアを閉めようとしてしまった。
「倉本なんだろう、入れてやれよ」
 部員のひとりに言われてしまう。だが、倉本は閉じられかけたドアを自分で開けて、僕の手を引っ張って廊下に引きずり出した。僕は握られていた手を振り払う。とてもじゃないけど、今の僕には刺激が強すぎる。
「もう、水城、この間から何だって言うんだよ、まったく」
 さすがの倉本も怒っているようだった。そりゃ怒りたくもなるだろう、身に覚えのないことで僕に避けられているんだから。
「ずっと話したいことがあったのに、言えなかったじゃないか。よっぽど電話しようかと思ったんだけど、会って話したかったんだ」
 僕は思わず倉本を見つめる。
「そんなに重要な話なの」
 倉本は廊下に置いてあるベンチに腰掛けた。僕も隣に座る。
「文化祭の時さ、バレエ教室の先生が見に来てくれていたんだ。あれだけ練習にも付き合ってくれたんだし、本番を見てもらえて嬉しかったよ、ホント。だけどさ、そのあとのレッスンの時に、俺にモダンに移ったらどうかと言ってきたんだ。クラシックは基礎だから、できるところまでやりなさいって、それまではいつも言っていたのにさ。で、先生の教え子が所属しているカンパニーに練習生として紹介されたんだ」
「もう行ったの」
「うん。ところでさ、もうすぐそこで留学生のオーディションがあるんだ。それで、俺も受けてみることにした」
「え?」
「水城も自分の目標に向かい始めたことだし、俺も決心が固まったんだ。バレエをどういうつもりで続けていくのかは、水城のピアノと同じでやっぱり俺の迷いだった。だけど、今回のオーディションに受かったら、いっそのことプロを目指してみようと踏ん切りが付いたんだ。親もそれで納得してくれた」
「……プロになるんだ」
「まだ分からないよ」
「でもバレエに賭けるんだ」
「まあね。どうなるかはオーディション次第だけど。合格したら春にはイギリスに行けるんだ」
「えええ!」
「だからさ、留学のオーディションだって言ってるじゃないか。合格するとカンパニーのお金で留学させてもらえるんだよ」
 僕は目眩がした。またしてもバカなことをやってしまっていたらしい。
「だからさ、水城も応援してくれよ。オーディションは公開じゃないから部外者は見に来られないんだけどさ、必ず受かってみせるから。受かったらまっさきに報告するから」
「……そ、それっていつ?」
「一月の最終日曜日、ええっとね、確か二十九日だったと思う」
 あと一ヶ月もある。僕はその一ヶ月をどうやって過ごせばいいんだろう。もしかしたら海の向うへ行ってしまうかもしれない倉本をこれ以上自分勝手な思いで邪険にすることはできなかった。だからと言って、僕は今日再び確信してしまった僕の気持ちを押さえ切れるんだろうか。絶対倉本にばれてしまってはならない僕の秘密を。――僕が倉本をどんなふうに思っているのかなんて彼が知ってしまったら……どうなってしまうんだろう。
 言うだけ言って倉本は会場に戻っていった。
 すべてのプログラムが終了して、主催者の人達に挨拶を済ませると、合唱部は反省会に向かった。ほとんどが女子ばっかりだから、市民ホールの近所のちょっとした喫茶店を毎年利用させてもらっている。「反省会」と銘打っても、今日の出来をみんなでわいわい話すだけなので、特にどうってことはないんだけど、僕はポカをやってしまったので、とてもじゃないけど逃げられなかった。
 案の定、開口一番に部長の矢部はそのことを持ち上げてきた。
「みんな、本当にごめん。反省してます。今後こんなことがないように気をつけるから」
 僕はそれこそ平謝りだった。みんな口々にぶうぶう言っていたけど、とりあえずその場で納まってくれた。
「ま、ポカしたのは許すとしても、何だか感心しないドジぶりだったわね」
 矢部がちらっと僕を睨んで、じゃ、他には、と話題を変えた。
「水城のドジは許せないとしても、ゴスペルは良かったと思います」
 くすくすと笑いが上がる。
「そうね、来年もやってもいいかもね」
 他にもいくつかの受け答えがあって、結果としては上出来だった今日のステージに、みんな満足していた。あとはがやがやとおしゃべりするだけなので、もう、僕は帰ろうかと思っていた。
 だいたい今日は踏んだり蹴ったりだった。出に間に合わなくなりそうになっただけでなく、倉本のあんな話を聞かされて。思い出すと、どっと落ち込んでくる。どうしようもない混乱に再び陥っていきそうだった。
 やっぱり帰ろう、そう思った時、矢部が小声で俺を呼び止めた。
「ポカしたとき、何に見とれていたわけ?」
「え……別に」
 つられて小声で返す。
「会場にいる水城くんを見つけた時、関根ちゃんたら、かなりショック受けていたんだから」
「え? ショック?」
「……水城くんって……鈍いんだ、やっぱり。せっかく『クールで端正なピアニスト』で通っているのに」
 相変わらず小声で話しながら、矢部が呆れ顔で返す。――でも「クールで端正なピアニスト」って何なんだろう。
「今日、倉本くん楽屋に来たんだって?」
「え?」
 別の意味で再び驚いていた。
「まさかとは思ったんだけど――なによ、ポカしたとき、倉本くんでも見ていたの?」
 まさに図星って顔になってしまった。
「……何をどう言っていいのか。関根ちゃんがショック受けるのもしょうがないか。あの子、あんなふうに水城くんに食って掛かってうるさいくらいだけど、本当は水城くんのこと好きなのよ」
「えええー!」
 今度は立ち上がってしまった。周りの部員たちが僕に注目する。
「それが倉本くんに見とれているんじゃあね……」
 矢部の言葉を全部聞き終えないうちに、僕は慌てて財布からお金を取り出すと、挨拶もそこそこに逃げ出していた。
 やりきれなかった。どうして最近は逃げ出すばっかりなんだろう。


 冬休みは短い。クリスマス、正月、ご馳走と街の浮かれ気分がもういいってくらいに延々と続き、スコン、と終わる。
 僕は年明けから、ピアノの個人レッスンをしてくれている牧田先生の恩師に当たる深沢先生のレッスンを受けることになっていた。
 十二月も半ばになってから音大受験を決心したと牧田先生に報告した時、さすがに先生は呆れ果てていた。どうしてもっと早く決めなかったのか、穏やかな口調ながらも責められてしまった。仕方ない、確かに僕の決心は遅すぎたのだから。しかし、僕のやる気と今までの実力から気を取り直して下さって、先生の恩師を紹介して下さったのだ。
 年の瀬も押し迫ってから、牧田先生に連れられて深沢先生のご自宅に伺った。牧田先生の恩師、と聞いていたので余程のご年配かと思ったら、矍鑠とした初老の男性だった。はきはきとした口振りは、ピアニストどころか音楽教師にも珍しいような印象だった。現在も牧田先生の出身音大で教鞭をとってられる。
 一ヶ月に二回、深沢先生のレッスンを受けることになった。本当なら、そんなペースじゃ足りないのだが、経済的理由でそれが精一杯だった。その代わり、深沢先生の大学で開かれている受験生向けのレッスンをいくつか受けることになった。
 年末から、否応もなくピアノに打ち込む毎日が始まった。新学期になっても合唱部の活動は続けたが、今までのように部活が終わってもだらだらと音楽室に残っている時間はなく、まっすぐに帰宅し、ピアノの蓋を開けて夕食までの時間は練習にあてた。それでも、せいぜい二時間弾ければいい方だった。
 当然のように、倉本とはクラスでしか話せないような日が続いた。実際、倉本の方もバレエのレッスンが増えたようで、今は基礎体力作りしかやっていない水泳部には顔を出していないようだった。
 お互いに自分の夢に向かって走り出し、それぞれにせわしない日々を送るようになり、僕の甘くせつない思いにも、こだわっている時間がない状態になってしまっていた。
 それでもベッドに潜って眠りに就くまでの間、僕はぼんやりと考えてしまう。倉本が留学することになるかもしれないことを。数ヶ月後には、眺めるだけでも幸せになれる彼の姿が、目に触れることすらなくなるかもしれないことを。それは、あまり考えたくない事実だった。倉本を心から応援できない自分は、情けなかった。
 倉本のオーディションは、彼なりにうまくできたと言っていた。昼休みの短い時間に、僕だけにこっそりと打ち明ける。留学するかもしれないことは僕しか知らなかった。やったね、と答えても、どこか空々しい。まだ合否の通知はきていないから、と倉本は言うけど、かなりの自信があるのは見て取れた。


 二月十四日はバレンタイン・デーだ。全世界的にそうなんだが、チョコで気持ちを打ち明けるのは日本くらいだそうだ。なのに、僕は一度もその恩恵にあずかったことはない。むしろ今年は、僕がチョコをあげたいくらいだった。絶対、そんなことはできないんだけどさ。
 なのに、こんな状況の時に限って、今までに一度も訪れたことがない恩恵がやってくる。しかも恩恵とは言えない形で。
 合唱部の練習が終わった後、僕は引き止められていた。三学期になってから速攻帰りを決めているのに、僕を残してみんなは次々と帰っていってしまう。僕を引き止めているのは部長の矢部だったが、その後ろには関根がいた。
「矢部、僕が急いで帰る理由、知っているだろう? 早く用事を済ませてくれよ、いったい何なんだよ」
 本当に僕は苛ついていた。深沢先生の次のレッスンは来週の土曜日なんだ。明後日には牧田先生のレッスンがあるから、少なくとも牧田先生には花丸を貰えるようにしたいのに、今の曲の仕上がりは自分で納得いくレベルにすらまだ達していなかった。
 音楽室には僕と矢部と関根の三人だけになった。おもむろに鞄を抱えると、矢部は、関根ちゃんが用事あるんだって、と言い残して帰っていってしまった。
 ピアノのことしか頭にない僕はこの状況が飲み込めず、関根に向かうと苛つくままに言葉を投げつけた。
「なんだよ、関根、早くしてくれよ」
 普段とは明らかに違う様子で、もじもじと関根は後ろ手に隠していたものを僕に差し出した。
「そんな恐い声で急き立てないでよ。こんなことしても水城くんが何とも思わないのは分かっているんだけど」
 まだ状況が飲み込めない僕は、はあ? とばかりに関根を見下ろす。うつむいている顔は、ふんわりとした長い髪に隠されている。が、関根はぱっと顔を上げると、今までに一度も見せた事がないような思いつめた表情を向けてきた。
「ごめん、こんなことで引き止めて。お願いだから、何も言わずに受け取って。叶わないのは分かっているのよ。水城くんが私なんて見てないって知ってる。でもね、ピアノを弾いている時の凛とした水城くんが好き。素直になれなかったから、今まであんな態度しか取れなかったけど。ただね、行き場がないと辛いんだ、好きだって気持ちは。だから伝えることくらいは許して、ね」
 堰を切ったように言い放つと、手にした小さな包みを僕の手に押し付けて、鞄を掴んで音楽室から駆け去っていってしまった。
 呆然と立ちつくしながら、やっと事態が飲み込めた。左手に握られている包みを見下ろす。淡いブルーの包装紙に金のリボンが結んであった。その限りなく淡い青が、いかにも関根らしくて何だか申し訳ない気分でいっぱいになる。甘ったるいピンクを選ばなかった関根。この青に輝やかしい金のリボンを添えた関根。彼女なりに密かに僕を思ってくれていたのが、それだけで伝わるように思えた。カードもメモもつけずに、面と向かって手渡してきたのも関根らしかった。
 クリスマスコンサートの時のことが甦ってくる。倉本の姿に釘付けになっている僕を見つけた時、関根は何を考えて、どんな気持ちだったんだろう。関根はショックを受けていたと矢部は言った。あの時点で諦めなかったのか、諦められなかったのか、こうして僕に気持ちをぶつけることを関根は選んだ。叶うわけはない、と確信していたのに。
 僕は手の中の小さな包みを鞄に大切にしまった。いくら普段からムカついてしまう関根とは言え、心底嫌っていたわけではないし、合唱部では気軽に話せる数少ない相手のひとりだ。関根の気持ちを踏みにじるようなことは僕にはできない。僕をちゃんと見ていてくれていた関根の気持ちを。


 それから数日後、学校から帰ってすぐ、倉本から電話があった。最近では珍しいので、すぐにそれと分かった。そう、オーディションの合格通知が貰えたと言うのだ。
 電話口の倉本は舞い上がっていた。はやる気持ちを隠すこともなく、これからの日々は留学に向けてのレッスンとその準備で忙しくなると楽しそうに話した。倉本の明るい声を聞けば聞くほど、僕は陰うつな気持ちに浸っていった。高校は休学して、三学期が終わったらすぐイギリスに行くことになったそうだ。
 倉本の言葉通りに、それからの彼は毎日慌ただしく帰宅していた。レッスンはほとんど毎日あるそうだし、その他にもパスポートの取得に始まるさまざまな事務手続きがあるようだ。僕は僕で、ピアノ練習は毎日欠かせず、相変わらずの速攻帰りで、僕たち二人は完全にすれ違いの毎日を送っていた。どうしても二人きりで話がしたいのなら、夜遅くに電話すればいいのは分かっていた。だけどレッスンでくたくたになって帰宅した倉本が、遅い夕食を摂り、風呂に入り、疲れ果てて眠りにつくのをジャマする気にはなれなかった。
 今では倉本の留学は誰もが知るところになっている。休み時間や昼食の時は一緒に過ごせても必ず他の誰かがいて、教室内で二人きりになる事はなかった。いまさらながら倉本を一人占めできない状況は辛いだけで、しかも仲間内で話す会話の内容が倉本の留学の話だったりすると、僕はその場から逃げ出してしまいたいほどだった。
 確実に、あと一ヶ月で倉本は僕の目に触れないところに行ってしまう。
 僕の中に確かに存在する憧憬と恋慕をあやふやにしていたツケがこれだ。伝えれば叶うものとは限らないから、むしろ失うことになるかもしれないからと、自分の本心をないがしろにしていた罰に思えた。
 関根の勇気に頭が上がらない。
 自分の部屋でピアノに向かうと、開くことができないままになっているあの淡いブルーの包みがピアノの上から僕を見下ろす。行き場のない思いを解放するだけで満足だと言った関根。それは身勝手なものかもしれないが、彼女なりのけじめだったんだと思う。彼女の予想通り僕は関根の気持ちには応えてあげられなかったが、今までと変わりない関係はちゃんと続いている。果たして僕を見るたびに関根の胸に痛みが走るのかどうかまでは分からないが、それでも今までと同じ態度を彼女は崩さなかった。むしろ彼女を思いやれるようになった僕と関根は、それまで以上に親しくなっているかもしれない――自分に都合のいい解釈ではあるけど。
 僕の行き詰まった思いを倉本にぶつけたら、倉本はどうするのだろう。僕と関根は異性同士だから、結果はこうなってしまっていても、プロセスには何も違和感はない。だけど同性同士の僕と倉本だったら、プロセス自体に無理がある。なんで僕が倉本に惚れてしまっているのか、なんで打ち明けられずにはいられないほどに思いが募るのか。
 結局、僕はバカだったんだ。ピアノを僕のとりあえずの人生の目標だと確信して、両親に打ち明ける決心をしたときに、十分わかっていたはずだったんだ。伝えないことは伝わらないんだと。だけど、自分の本心に目を背けていたから、僕は大切な人をこのまま失うことになってしまった。もちろん、僕の思いを倉本にぶつけていたところで何かが変わっていたとは思えないのだが。なのに、日がたつに連れ、それはもう押さえ切れなくなってしまっている。倉本が僕の前から消えてしまうと分かってから、こんなにも想っていたことに気づくなんて。
 しかし、もういまさら、僕は倉本に自分の気持ちを伝えられない。「好きなんだ」――その言葉を言えない。僕自身が僕の気持ちを否定していたから。そんな気持ちを持ってはいけないと思い込んでいたから、チャンスも何も逃してしまっていた。僕はやっぱりぼうっとした男なんだ。
 情けなかった。当たって砕けることになっても、何もしないよりはマシだと僕に教えてくれた人に、それができなかったんだから。叶わないかもしれないと逃げるよりも試してみろと、倉本は僕に教えてくれたのに。
 ――倉本が好きだ。多分、初めて彼のバレエを見た時から。僕は彼に魅了され、虜になっていたんだ。触れてみたい衝動に駆られた、あのプールでのできごと。あの時の僕を僕自身が認めてさえいたら。あの気持ちが恋だと分かってさえいたら。好きだ、倉本。この気持ちを許してしまえば、やるせないまでのせつなさがこみ上げて、僕を悲しみの底に突き落とす。


 時は確実に過ぎ去っていき、倉本の出発の日は迫っていた。忙しい倉本を捕まえるには、やはり夜遅くの電話しかない。そして僕は、とうとう自分を押さえ切れなくなってしまった。
「会いたいんだ」
 渾身の勇気を振り絞って、やっとその一言が言えた。
「どうしても会いたいんだ」
「明日の日曜日に?」
「できれば」
「明日はムリなんだけど」
 眠そうな声で、電話の向うの倉本は困っている。それは分かるけど、僕は追いつめられていた。
「お願いだから、会ってほしい」
「……分かったよ。じゃあ、今からでもいい?」
「え? ――うん」
「分かった。今からそっちに行くよ」
 受話器を置いた手が震えていた。こんな遅い時間に無理を言って来てもらって、会ってどうするというんだ。
 夜遅くの呼び鈴の音に、母が驚いた。僕は慌てて、倉本だからと言って、母よりも先に玄関に駆けて行った。出てこなくていいからと、パジャマ姿の母に重ねて言うと、ドアを開けて倉本を招き入れ、僕の部屋に連れて行った。
 床に座って向かい合っても、すぐには何も言えなかった。用事はなんだとも言わずに、倉本は僕に付き合って黙っている。僕の胸の中は、もやもやとしたもので一杯になっていった。自分が不甲斐なくて、情けなくて、みっともなくて。
 押さえ切れない気持ちは弾けとび、いきなり倉本に抱き付いてしまった。
「み、水城……」
 倉本は面食らっている。それでも身動きひとつせずに、僕から逃げようとはしない。
「行かないで」
「なに言ってるんだよ」
「分かっている、倉本にとっては大切なことで、ものすごいチャンスなんだって、でも」
 知らないうちに涙声になっていて、言葉が詰る。
「でも、僕は倉本が好きなんだ。とっても好きなんだ。離れてしまうなんて、耐えられないんだ」
 僕の声が途切れると、部屋中が静まり返った。恐くて倉本の顔なんて見られない。今、どんな表情で僕を見ているのかなんて。
「水城。俺だっておまえが好きだよ」
 やがて諭すような優しい声で、倉本が口を開いた。
「向うへ行っても手紙を書くよ。それに、もう帰ってこないってわけでもないし」
「会えなくなるのが耐えられないんだ。それに――僕が言ってるのは、そんな『好き』じゃないんだ」
 再び、僕の部屋は静まり返る。倉本は返す言葉にすら詰っているのだろう。抱き付いている倉本の胸から、彼の鼓動が耳に響いてくる。こんな状況なのに、それが何だか嬉しくて、悲しくて、僕は離れることができない。
「水城――バカだな。俺がどんなふうにおまえを見ていたか、ぜんぜん気づかなかったのか?」
 予想すらしなかった言葉に、僕は思わず顔を上げた。いつもの優しい笑顔が僕を見つめ返す。
「俺は、水城は今の関係のままで満足しているのかと思っていた。水城が俺のこと好きだと思っているのは気づいてたよ。でも、ピアノとバレエでジャンルは違っても、それぞれのやりたいことに向かってお互いに高め合っていけるような関係だけで、満足しているんだと思っていた」
 静かに語られる倉本の言葉は、あまりにも意外で、僕はひとつひとつ聞き落とさないようにするので精一杯だった。
「俺はもっと何か、水城と深く付き合いたい気もしていたんだけど、自分でも自分の気持ちがはっきりしないうちに留学のチャンスがやってきて、迷わずそれを選んでしまったんだ。――でもさ、どうかな、もしも今と違う形で付き合えていたとしてもさ、俺は結局、留学することになっていたと思うんだ。それなら、いっそこのままの状態で水城と別れられる方がいいと思った」
 倉本の顔から笑みは消えていた。初めて見るような、深い悲しみが漂っていた。僕は、僕が犯した過ちに消え入りたいような思いだった。いくら伝えなくては伝わらないとは言っても、こんなふうに一方的に迫って、実は倉本の気持ちを踏みにじってしまうなんて。
 ――何も伝えないまま再会を信じて待つなんて事は、今まで一度も考えられなかった。それほどまでにワガママで身勝手な思いを、ただ、ぶつけただけなんて。
「ごめん……」
 恥ずかしくて、情けなくて、他には何も言えずうつむいた。
「謝るなよ。――実は、今、俺、自分で自分に驚いているんだ。曖昧なままで別れる方がいいって思っていたのに、水城が『好きだ』って言ってくれたのが、こんなに嬉しいなんて」
「え?」
「だからさ、嬉しいんだよ、好きだって言ってくれて」
 まじまじと倉本を見つめた。寂しげな笑顔を返してくる。耳を疑った。倉本が、僕が好きだと言ったことを嬉しいと言ってくれている。こんな僕が言った言葉を。
 でも、いまさら互いの気持ちを打ち明けあっても、離れてしまうことには変わりはない。僕の舞い上がりそうな気持ちを倉本の寂しげな目が留まらせる。
 ため息が漏れた。僕がやってしまったことには、やはり何も意味がない。
「ねえ、水城。こっち見てよ」
 僕の頬にそっと手を掛けた。穏やかな優しい笑みを向けてくる。
「そんなに落ち込むなよ。水城から好きだって言われて嬉しいんだよ、ものすごく。俺、水城が好きだって言うの、もう聞いちゃったんだから。本気なんだろう? ……それなら、さ、余計なことを考えるのはやめようよ……ねえ……キスしてもいい?」
 僕の返事も待たずに、倉本はそっと唇を重ねてきた。
 体中が震えた。こんな事ってあってもいいんだろうか。僕の身勝手な思いが叶えられてしまうなんて。早まる鼓動に胸が押しつぶされそうだった。抱き寄せられて、倉本の手が僕の背中に回る。体温の暖かさに包まれて、くらくらした。
「本当は、こんなふうに触れてみたかったんだ」
 僕は白状した。
「倉本から目が離せなくて、思わず触れたくなるのをずっと我慢していた」
「我慢なんかしなければ良かったのに」
「だって、倉本が嫌がると思ってたから」
「プールで触られた時だって、俺、嫌がらなかっただろう」
 あんなに些細なことで、とっくに気づいていたんだ。僕が僕の気持ちに気づく前から。今頃になって、鈍い自分が呪われる。
「だけど……僕は自分に自信が持てなかったから」
「なに言ってるんだよ。俺だってずっと水城に惹かれていて、見るたびにかわいいって思ってたんだ。男の水城にだぜ?」
 そう言って、照れくさげに目を伏せる。
「だってさ、水城って普段はクールなくらいに物静かなのに、そのくせピアノのこととなると情熱的で、ひたむきで……たまらないよ。華奢で頼りなげなくせに芯は強くて……やっぱりかわいい」
 そんなことを言って、僕をぎゅっと抱きしめる。僕は恥ずかしさから、ついつい恨めしげなことを言ってしまった。
「僕の気持ちに気づいていたんなら、倉本から言ってくれればよかったのに」
 倉本は僕を見つめて、ふっと悲しそうな笑顔を浮かべた。
「だからさ、俺も自分の気持ちがよく分からなかったんだよ、ずっと。だってさ、俺も水城も男だろう? そういうのって、やっぱり簡単には信じられないじゃないか。……それに、言おうとは思ったよ、何度も。だけどさ、その決心がつく前に留学のチャンスが来たからさ」
「ごめん」
「ねえ、そんなことより今は、ね」
 倉本は積極的に僕を抱きしめてきた。再び唇が重ねられる。
 これからどうなってしまうんだろう。ぼうっとした頭でそんなことを考えてしまう。このままこんなふうに抱き合っていたら、僕たちはどうなってしまうんだろう。
 抱きしめ合っていた手が、互いに体を探り始めていた。倉本の手がたどると、そこが熱を持ってくる。背中も脇腹も胸も、熱くて苦しくて、僕は喘いだ。既に乱れてしまった呼吸が互いの耳に届いて、なおさら僕たちを刺激する。倉本が僕の頭を引き寄せて、更に激しく口付けた。息苦しいほどの快感が体中を駆け抜けていく。
 嬉しかった。こんなふうに抱きしめてもらえるなんて、考えもしなかった。自分の思いが届くのって、なんて素晴らしいんだろう。鬱積していた思いを解放できただけでなく、それを聞き届けてもらえるなんて。もう、どうなってもいいと思った。倉本の好きにしてもらいたいと思った。
 倉本は僕を引き上げて立たせると、そのままベッドにゆっくりと押し倒した。僕の上に乗って、さらに激しいキスをする。体中をまさぐって、僕の屹立に気づいた。
「脱いじゃおうか」
 倉本が甘く誘う。僕は驚いて目を見開いた。
「水城のお母さん、様子を見に来るかな」
 そんな事を言っても、キスをやめたりはしない。
「ん……来ないと思う。もう、パジャマ着てたし」
「泊まってもいい?」
 びくっと体を起こした。思わず、口に手を当ててしまう。今までしていたことを忘れてしまったかのように、かあっと頭に血が上ってきた。
「駄目?」
 ベッドに腰掛けたまま、倉本は照れくさそうに言う。
「こんな時間に来ることになったから、もしかしたら泊まることになるかと覚悟してきた」
「か、覚悟?」
 僕は覚悟なんてぜんぜんできていない。いや、一瞬前まではできていたけど、できていた覚悟はあまりにも漠然としていて、倉本の「泊まる」の一言で、急にリアルになってしまった。
「ちょ、ちょっと待って」
 僕は混乱する頭でどうにか考えて、部屋のドアを開けると階下でまだ起きているだろう母に向かって、倉本は泊まるから、と声をかけ、はーい、と言う母の返事を聞いてからドアを閉めた。閉めたのはいいが、そのままの姿勢で固まっている。振り向く勇気がない。
「水城」
 背後から呼ばれて、抱きしめられた。
「水城、かわいい……好きだよ」
 耳に寄せられた唇が甘く囁き、そのまま耳たぶに触れた。ぞくぞくっとした感覚が再び訪れ、僕は導かれるままにベッドに座った。
 うつむいている僕の服に手を掛けて倉本が脱がそうとするのを止め、恥ずかしさをこらえて自分で脱いで先に布団に潜り込んだ。倉本も裸になって、僕の隣にするりと潜り込んできた。
 倉本の吐息が顔に掛かる。ふと顔を上げると目と目が合って、二人ともくすっと笑ってしまった。こんな僕たちがいるなんて。不思議だった。でも、そっと重ね合せた素肌の感触は紛れもない事実で、その心地良さに目を閉じた。互いの体温と呼吸の熱で、布団の中は次第に暖かく湿っていった。満たされていた。幸せだった。
 僕の部屋は防音が完備で、僕たちは何の気兼ねもなく、互いを確かめ合った。


 春休みに入って最初の日。明日には倉本がイギリスに行ってしまう。そのことが重くのしかかって、あんな一夜を過ごした甘い思い出すら影をひそめて、僕は自分の部屋から一歩も出られないでいた。僕の思いが受け入れられて満たされたのは幻のようだった。どんなにあがいても倉本がいなくなる事実は変えられないんだ。最後にもう一度会いたい思いは募るけど、出国前の貴重な一日を僕が奪う権利はないはずだった。
 悶々としていた僕に、その電話は唐突だった。目覚めてはいたが、まだパジャマ姿だった僕は慌てて着替えて、あのバレエの稽古場に向かった。
 春の午前の光がほのかに照らし出す中に倉本はいた。見慣れた黒のコスチュームに身を包んでいる。倉本がたたずんでいる情景は、優しい静寂に包まれている。既にウォームアップを終えたのだろう、うっすらと汗を浮かべた額が目に入る。
 ――離れ離れになってしまう前に、もう一度だけ俺のバレエを見てもらいたい。
 倉本は電話でそう言っていた。
 戸口から数歩進んで、そのまま彼の姿に釘付けになって、立ち止まってしまっている僕に穏やかな笑みを送ってくると、倉本は無言のままCDをセットし、スタートさせた。足早にフロアの中央に進み、ポーズを取る。僕はその場に腰を下ろした。
 やがて静かに流れ出したメロディは倉本を優雅にあやつる。ただひたすらにせつない旋律。恋する者の吐息そのままの曲想。あたかも初恋の甘く苦しい喜びを醸し出すその曲は、僕が倉本に捧げた、あの『亜麻色の髪の乙女』だった。
 ダイナミックな動きは全くない。文化祭で観客を沸かせた派手さは微塵もなかった。倉本は静かに踊る。繊細に足が運ばれ、流れるように手が動く――春の暖かな光の中に溶け出すように体を反らせ、自らを抱き込み、倉本は全身で表現する。僕を見つめながら。暖かい、と。満ち足りている、と。その幸福が体中から溢れてしまう、と。
 倉本は一枚の絵画になっていた。僕が彼に抱いてるイメージそのままに、モネの絵さながらに、淡く優しく光と影を振り撒いて、暖かく僕を満たしていく。
 朝日の中で密やかに花開く睡蓮。水温む木陰の池のボート。頬に感じるかすかな風。花の香りをのせて、遥か彼方に消えていく。澄み切った水のように、どこまでも透明で涼やかな倉本。儚いほどに美しく、萌え出でる新芽のように確かな存在。生命の息吹。生きている喜び。
 あの時、僕が弾くこの曲を聞いて、倉本がすべて受け止めていてくれたことが今になって分かった。伝わっていた。言葉がなくても伝わっていたんだ。僕にとっては言葉以上に饒舌なピアノ。倉本のバレエと同じように、僕を表現する。


 ――終わりではない。始まりなんだ。


 僕の目から涙が滴った。静寂に包まれた暖かさがあまりにも心地良くて。僕があまりにも幸せで。倉本の体中から伝わってくる思いが嬉しくて。
 ポーズを決めて踊り終えた倉本を認めると、僕はそのまま膝を抱えてうつむいてしまった。限りない思いに包まれている自分が愛しくて、溢れ出る涙は止ることを知らなかった。


 そして、明るい春の日、倉本は旅立って行った。





BACK   作品一覧に戻る