Words & Emotion   Written by 奥杜レイ

 
 

「クロードに夢中」
−3−


 二学期が始まって、合唱部の練習にも本腰をいれなくてはならなくなった。十月の第一日曜日に開催される文化祭までは一ヶ月もないんだ。僕と倉本の発表の準備もしなくてはならない。クラスの方の準備もあったが、出し物は喫茶店だったし、僕と倉本はそれぞれ買い出し係と会場設置係だったので、当日はまるっきりフリーで助かった。僕たちの発表のことをクラスのみんなにわざわざ言う必要はなかったし、合唱部には、からかわれるのが目に見えているから、文化祭のパンフができ上がるまで秘密にしていた。
 忙しくなったとは言え、うまいことに合唱部の練習は朝練が加えられただけで、昼休み練習も延長練習もなく、思わず胸を撫で下ろした。僕は昼休みと部活の後には、学校のピアノで練習をすることができて、ほぼ予定通りに仕上げられていった。
 振り付けができ上がった倉本も、バレエ教室の先生に発表の事を打ち明けて、快く稽古場を貸してもらえるようになっていた。土曜日と日曜日の全てのレッスンが終わった後、僕のピアノと倉本のバレエを合わせる練習が繰り返された。そんな時には、バレエの先生も立ちあっていた。じっと倉本の踊りを見つめては、時にはアドバイスをくれる。バレエに合わせてピアノを弾くのが初めての僕にも、なかなか貴重なアドバイスをくれた。
 初老の彼女が見守る中で、僕たちの踊りと演奏は確かに磨かれていった。そのプロセスは素晴らしい満足感を僕にもたらした。倉本も同じらしい。僕たちは呼吸もぴったりと合い、二人で僕たちなりの芸術を披露する予感に震えた。


 倉本の踊りに僕がピアノ伴奏をするのは、まるで裸の魂と魂を重ね合うようだ。彼の動きひとつひとつに僕の音が添えられる。あるいは、彼の指先から僕の音が零れ落ちたり、彼の腕から旋律が流れ出るようだった。その共鳴に酔って、僕は一種のトランス状態に陥る事が何度もあった。そんな一瞬は、恍惚にも似た、例えようもない素晴らしい快感に襲われる。
 指は無意識の内に鍵盤をあやつり、実際には僕の目に映っていないのに、倉本がどんな動きをしているのかが分かってしまう。どんな表情をしているのかさえ。すると、僕の背筋をざわざわと快感のさざめきが駆け上ってくるのだ。じいんと頭の芯までしびれるようで、ピアノを弾きながらうっとりとしてしまう。
 ひとりで弾くのとは全く違う。それは倉本が僕のピアノで初めて踊ってみせたときから分かりきってはいた事だったが、これほどまでに僕を満たし豊かにするとは思ってはいなかった。
 僕はソロ曲を見直したくなった。得意だから、曲想がいいから、そんな理由で『月の光』にしたのだが、僕はもっと倉本にふさわしい曲を弾きたくなっていた。誰かのために弾きたいなんて、今までには一度も思ったことがない。今までの僕のピアノはすべて自分のためでしかなかったのに。しかし、今回の彼の思い付きがどれだけ僕を豊かにしてくれたのか、それを彼に伝えたくなったんだ。いつも前向きで自分のやりたい事に素直に立ち向かっていく、美しいパートナーを称えたかった。それを披露したくなったのだ。そして僕は曲目を変更した。


 文化祭の前日に生徒全員にパンフが配られる。それを目にしたクラスのみんなは騒然となった。
「えー、倉本、バレエなんてやれんの」
「水城と一緒に発表? 信じらんねー」
「やだぁ、倉本くんがバレエだって」
「見に行くから〜」
「タイツ履くんだろ、目が腐るんじゃねえの」
「やあねえ、腐るわけないじゃない、倉本くんよお」
「頑張ってねー」
 男女取り混ぜて好き勝手な事を言ってくれた。でも、そのほとんどが倉本に対するものだった。ほっとする反面、やっぱりこんなものかと思う、少しがっかりする自分を見つけてびっくりした。倉本と一緒に練習を重ねてきた間に、自分自身が随分と積極的になっていることに、やっと気づいたのだった。


 文化祭の当日になった。発表会の経験は多いから、普段はあがったりしない僕なのに、その日だけは今までと違っていた。思いも寄らず早い時間に登校してしまった間の悪さから、前日に調律しておいたピアノを朝からもう一度確かめていた。ステージの係が何人も来ていて、準備をしながら僕を珍しげに見ていた。
 案の定、合唱部の出の前に舞台の袖で関根にイヤミを言われる。
「いつもあんなにしつこくピアノチェックしていたっけ? 自分のソロがあるともなると違うのね」
 これを耳にした部長は、さすがに関根を小声でたしなめてきた。
「もうすぐ出なんだから、伴奏者にプレッシャーかけてどうするのよ。緊張の八つ当たりなんかしないでよ」
 ザマアミロ、だ。
 午前の部最後の合唱部の出が迫っていた。ブラスバンド部の演奏が終わって、がたがたと各部員が席を立つ。それぞれがパイプ椅子を畳んで、袖に引き上げてくる。合唱部員達の間には、ほどよい緊張が広がっていった。部長のお小言を食らった関根だって大丈夫だろう。ほら、もう出の顔になっている。
 合唱部の発表は上出来で終わった。


 僕と倉本の出は、午後一番の演劇部の後だった。食べたんだかどうだったんだか、味も分からないまま昼食を済ますと、僕は更衣室に行って着替え、そのまま舞台の裏へ回って控えた。もう演劇部の舞台が始まっている。どこかでウォームアップを終えてから来ることになっている倉本をそこで待っていた。
 やってきた倉本の今日のコスチュームは、裾に控えめなフレアの入った黒いスパッツに、上は鮮やかなオレンジのタンクトップ、それに透ける素材の水色のボレロを羽織っている。ボレロは一曲めが終わったら脱ぐと言う。なるほど、『雨の庭』に合わせた水色のボレロを脱げば、コミカルな『ゴリウォーグのケークウォーク』にぴったりの元気なオレンジのタンクトップになると言うわけだ。だけどそんなうんちくは僕にはどうでもよく、とにかく倉本のすらりとした美しいいでたちに目が眩んだ。素直な言葉が口から漏れてくる。
「きれいだよ、倉本」
 ため息まで混じってしまって、自分が漏らした声に自分で慌ててしまい、あたふたと手を口に当てた。そんな僕に目を細めて、倉本は、ありがとう、と言う。
「水城だって、きまってるぜ」
 ピアノの発表会の時はそれなりに正装に近い服を着るのだけど、今日は真っ白なカッターシャツに明るい青のリボンタイをルーズに結んで、ぴしっとプレスした黒いスラックスをはいているだけだ。学校の文化祭だからおしゃれするのは恥ずかしかったんだけど、一緒に舞台に上がる倉本の事を考えると生半可な服装じゃ失礼だと思って、一週間も前からあれこれ迷った結果だった。
「水城らしくて、いいよ、とっても」
 重ねて誉めてくれた倉本に、はにかんだ笑顔を向けた。
「よっし、頑張ろうぜ」
「うん!」
 舞台の袖で気持ちを合わせる。頑張ろう、心からそう思えた。文化祭に出る事をためらった僕は、もうどこにもいなかった。みんな見てくれ、これが僕たちが築き上げたものなんだ、どうだ、すごいだろう? ――気分はそこまで高揚していた。
 演劇部の発表が終わり、ばたばたと大道具が片づけられていく。二人で片隅に寄って、道を空けた。会場は観客の出入りで騒がしい。僕たちの発表をどのくらいの人達が観てくれるのだろう。そっと倉本の手を握ってみた。既にしんとした静寂さえまとっているように見えていた倉本なのに、意外にもその手は少し汗ばんでいる。思わず見上げた僕に、いつもの笑顔を向けて、僕の手をぎゅっと握りかえしてくれた。迷いはもうない。よし、次は僕たちの番だ。
 進行係の指示にしたがって、客席が見える位置まで進む。司会を務める制服姿の女生徒が僕たちの紹介を始めた。
「次は有志による発表、U―Bの倉本くんと水城くんによるバレエとピアノ演奏です。タイトルは……『俺達の領分』です」
 どっと会場が沸いた。ああ、やっぱり、あのタイトルは笑いを誘うじゃないか。一瞬怯んでしまった僕の手をとって、軽やかに倉本が舞台中央に進み出た。引きずられないように、慌てて歩調を合わせて彼の隣に立つ。
「いいぞー、倉本ぉ」
「すけすけでやらし〜」
「すてき〜」
 指笛まで鳴り響いて、僕たちをちゃかすのは同じクラスの奴等だろう。知った顔が最前列を陣取っている。倉本はにこやかに彼らに手を振ってから、僕に目で合図して、二人揃って深々と礼をした。
 僕がピアノに向かって着席したのを確認すると、舞台中央に残っていた倉本はすっとポーズをとる。相変わらず会場は僕たちへの冷やかしで充満している。だが倉本の、踊りに入る時に見せる心地良い緊張感を漂わせたいつもの表情がかすかに望めると、僕はすうっと僕の世界に引き込まれて行った。
 呼吸を整えて倉本の様子を伺う。既に雑音は僕を乱しはしない。倉本のOKのサインを背中の様子から受け取って、僕は鍵盤に指を乗せた。
 流れ出る曲は『雨の庭』。激しい雨だれをイメージした旋律に合わせて、倉本は優雅に踊り始めた。
 『雨の庭』は無我夢中だった。練習の時の余裕は、いつのまにか消えてしまっていた。とにかく倉本に合わせる事に必死になった。アップテンポのこの曲は、ひとりで弾く時もかなりの緊張がある。時間をかけて自分のものにしていたはずなのに、あ、とか、う、とか、弾きながら怯んでしまう瞬間が何度かあった。そのたびに、心の中で倉本に謝ってしまいながら、それでもどうにか弾きこなしていた。
 途中、少しスローダウンする部分で、どうにか倉本を目に捕らえた。僕のとまどいにはまるっきり感知しないで、練習のときそのままに伸びやかに踊っていた。それが僕をどんなに助けたことか。彼の美しい限りの動きに心が奪われる。
 再び情熱的なメロディに戻って、倉本の昂ぶる気持ちそのままに、ラストは雲に隠れた太陽を焦がれるように頭上にまっすぐに伸ばされた腕とそれを見上げるポーズで、ぴたりと決まって終えられた。
 一瞬の間を置いて、会場は割れんばかりの拍手の渦に飲み込まれた。ひとまず、一曲目は成功だ。僕は鍵盤から手を下ろすと、ふうっと肩でため息を漏らしていた。
 一曲踊り終えた倉本は、舞台の袖に消え、置いてあるタオルを取って汗を拭った。僕は一旦立ち上がって礼をした後、あらためて椅子に座り直し鍵盤に向かっていた。ピアノ越しに倉本と目が合う。互いに笑みを交した。僕の演奏の間、倉本は舞台袖に控えている事になっている。
 さあ、今度は僕の番だ。呼吸を整えて、すっと鍵盤に指を乗せた。あとは体から流れ出てくる旋律を指先から迸らせるだけだ。
 演奏する曲は一週間前に変更した。倉本のバレエと僕のピアノと全曲ドビュッシーづくしなのには変わりなかったけど、『月の光』から『亜麻色の髪の乙女』にしたのだった。曲の長さが極端に短くなってしまう事になるから、倉本の休憩がそれで十分足りるかが心配だった。だけど僕は『亜麻色の髪の乙女』を倉本のために舞台で弾きたくなってしまったんだ。甘くせつない初恋を思い起こさせるようなメロディは、明るい色の髪、整った顔立ち、しなやかな体の倉本をあがめる曲のように僕には思えたのだった。
 やがて静かにピアノは歌い始める。僕はすっかり自分の演奏にトリップしていた。バレエに合わせて弾くときとは全く違う。僕のすべてをこめて『亜麻色の髪の乙女』を奏でる。
 ――抜けるように青い空。その空に向かってまっすぐに立つ木々。ひらひらと舞い散る落ち葉を眺めている明るい髪の人。僕はその後ろ姿をこっそりと見守る。ときおり吹き抜ける風に髪が揺れ、わずかに垣間見える美しい横顔。――できることなら触れてみたい。柔らかそうな頬、優しげな口元、秋の空にも似た澄みきった瞳――だけど、けっして僕を映すことはない。潜めているには辛すぎる気持ちを押え込み、僕はただ見つめることしかできない、そんな淡くせつない気持ち。見つめるだけで小さな幸福を得られる、情けないほどの気持ち。――そんな思いを込めて、僕は鍵盤を操る。
 今の時間は僕だけのものであり、この時間を支配しているのは紛れもなく僕なんだ。
 僕が奏でる旋律は、体育館に集まった冷やかし半分の連中にどんなふうに届くのだろう。彼らを揺さぶりたいとまでは思わなかった。だけど分かるだろうか、この甘い恋の曲は、今さっきみんなの前で踊った倉本に捧げられているんだ。ありったけの思いを倉本に届けたかった。
 立ち消えるように静かに曲が終わり、僕の時間は幕を閉じる。予想以上の拍手が返ってきて、とても満たされた。立ち上がって礼をする。と、振り向くと、倉本がピアノにもたれかかっていた。うっとりとした表情は、踊っているときにしか見せたことがないものだ。袖に控えていたはずなのに、なんでここにいるんだろう。
「くらもと」
 小声で呼びかけると、びくっと体を起こした。僕の顔を見るなり、いつもの笑顔を浮かべてタイミングのずれた拍手をパンパンと送ってくる。体育館内がどっと笑いの渦に包まれた。倉本はもう一曲踊るんだ、あまりの間の悪さに僕の方がドギマギしてしまった。だが倉本は全く臆することなく、そのまま舞台中央に歩み出た。僕も慌ててピアノに向かった。元気なオレンジのタンクトップから引き締まった肩がのぞいている。倉本がすっとポーズを取った。呼吸が合っていることを確認して弾き始めた曲は、あの『ゴリウォーグのケークウォーク』だ。
 フォルテから始まる元気いっぱいなこの曲。しょっぱなから倉本は跳ねる、跳ねる、跳ねる。あっと言う間に観客は、彼に釘付けになった。コミカルな振り付けとそれに合わせた彼の表情、思いを潜める時の静かな表情、惜しげもなく自分をさらけ出して倉本は踊る。しなやかに、ダイナミックに、自分が持つすべてを振り撒いて踊る。中盤のメロディアスな部分では、繊細さが際立った。巧みなステップと優美な手の動きは、多分一級品なんだろう。倉本を見つめる観客たちが彼に飲まれていくのが、目に映ってなくても十分に分かった。
 やがてアップテンポの主題に戻ると、再び倉本は跳ね回った。ターン、ジャンプ、ターン、ジャンプ、着地の音すら聞こえない倉本の動きは遠目には優雅に見えるだけだろうけど、もうかなり呼吸も乱れているはずだ。だけど、ジャンプの高さは少しも衰えず、後ろに蹴り上げた足を軸に舞い上がったまま難なくターンする。すごい、すごいよ、倉本。
 いつしか僕はあの共鳴のトランス状態に陥っていた。快感が背筋を駆け上ってくる、自分が奏でるピアノの音色にうっとりと酔いしれ、僕が倉本を動かしているかのような錯覚が襲ってくる。僕と倉本は音と動きでぴったりと寄り添い、ひとつになっている。僕の音で倉本が跳ねる、僕の指を倉本が操る、その一体感にぐいぐいと引き込まれていく。高く、高く、僕たちの頂点を極めていく。
 そして、高みに上りきった気持ちが一気に急降下するように、倉本が床に崩れ落ちてラストを決めた。
 拍手まで随分時間があったように感じた。が、次の瞬間、客席の緊張の糸は一気に解れ、一曲めの時よりもさらに熱心な拍手が沸き起こった。最前列の見知った奴等は、再び下品な掛け声を掛けてくる。
「く・ら・も・と、さいっこー!」
「かっこいい〜」
「セクシー!」
「ぶらぼー!」
 再び指笛が鳴り響き、会場は騒然とした。だけど僕にはよく分かった。始まる前の冷やかしとは明らかに違って、誰もが僕らの成果に満足してくれたんだ。興奮に頬が染まっているのが自分でも分かる。
 観客に手を振って応えている倉本の隣に歩み寄った。僕の手を取り、繋いだまま、倉本はみんなに振って見せる。僕たちは始まりの時と同じように深々と礼をして、手を取り合ったまま袖に引っ込んだ。
「やったぜ、水城!」
「うん!」
 汗だらけの体を僕に押し付けて、倉本が僕を抱きしめた。火照った胸に包み込まれて、こんな時なのに、僕は不用意にときめいてしまう。だけどハイテンションになっている会場では、こんなことは大したことじゃなかった。回りにいる進行係も次の出を待っている軽音楽部の連中も、口々に良かったよ、と言ってくれて、僕たちへの拍手を惜しまない。嬉しかった。最高だった。倉本とこれだけの事ができたんだ。
 司会者に呼ばれて、再び舞台中央に戻った。まだ繋いだままの手を一緒に高々と挙げた。倉本はバレエの優雅なお辞儀で締めくくった。


 文化祭がきっかけで、僕たちがすっかり有名になってしまったことは言うまでもない。
 嬉しいことに、倉本にばかり向けられていたと思っていた賛辞は、こっそり僕にも向けられていた。最初にそれを教えてくれたのは、合唱部の連中だった。
 部長も、副部長の矢部も「水城くんの実力を初めて知ったわ。今までいい加減な目でしか見ていなくて悪かったわ」と、はっきり言ってくれたんだ。それだけで僕は十分満足だった。しかも関根までが「水城くんってあんなにうまかったんだ。びっくりしちゃった。本気でピアノ弾いているときって、すごいのね」と言うんだから、僕はほくそえむしかないだろう。
 いい気分だった。やればやれるじゃないか。達成感ほど甘美なものはない。僕は今まで以上に明るく積極的になっていった。


 ざわついていた校内も中間テストを区切りに、すっかり落ち着きを取り戻した。深まりゆく秋の気配が、にぎやかな高校にもひたひたと満ちてくる。
 合唱部の活動は、三年生が引退して役員改選が行われ、クリスマスに開かれる市民コンサートへの参加準備に移っていた。毎年のことながら、何曲か歌う曲目選びから始まる部員たちのお楽しみのひとつだ。コンクールじゃないから、歌うことと発表することを純粋に楽しめる数少ない機会になっている。
「水城くんは何がいいと思う?」
 去年は僕の意見なんて訊いてくれなかったのに、今年は訊いてくるあたり、やっぱり部内での僕の存在が認められたってことだろう。なかなか卑屈な思いではあるけど、今となっては素直に喜べる。
「変わったところを狙うのなら、一曲くらいゴスペルを入れてみたら」
「……ゴスペル?」
 僕の一言に全員が振り向く。一度に多くの人間に見つめられる経験なんてほとんどないから、それだけで怯んでしまった。
「いや、ただの思い付きなんだけどさ……」
 愛想笑いを浮かべて頭を掻いた。
「へええ、水城くん、ゴスペルなんて聞くんだ」
「クラシック一辺倒かと思ってた」
「でも、いいかもね」
「うん、なにか良さそうな曲、探してみようか」
「水城くんのお薦めってあるの?」
 思いもよらず、僕の提案が受け入れられてしまった。知っている曲をいくつか挙げて、触りだけを歌ってみせた。みんな真剣に僕を見つめている。恥ずかしさが襲ってきたけど、同時にとても嬉しかった。クリスマスコンサートの練習は楽しいものになるかもしれない。
 新部長の矢部と新副部長の一年の木村が楽譜を探してくることになって、他の部員もやりたいものがあるなら提案するようまとめられて、その日は打ち合わせだけで終わった。
 音楽室を後にする部員たちを尻目に、僕は窓から校庭を眺めていた。
 野球部とサッカー部が入り混じりそうになって練習をしている。片隅に追いやられて、陸上部が短距離走の練習をしている。校庭の外周をジャージ姿の一群が走っている。その中に倉本を見つけて、水泳部だと分かった。
 水泳部の一群がばらばらと立ち止まり、一斉に体操を始めた。今日はもう終わりなのかもしれない。みんな揃って礼をすると、それぞれ散って行った。
 暇だった。文化祭も終わって、中間テストも終わって、夏から続いていた緊張は一気に失せた。次のイベント、合唱部のクリスマスコンサート参加は「お楽しみ」であって、特に緊張するような代物ではない。倉本と一緒にやり遂げたことは確実に僕を変えていて、それまでのぼんやりと時間をやり過ごすのが得意な僕は、影を潜めてしまっていた。かと言って、学校帰りにふらふらと遊びたいとはぜんぜん思えなくて、あの充実していた時間にも匹敵するような何かをやりたがっているんだと気づいた。
 もっと真剣にピアノに取り組んでみようか。
 ピアノの個人レッスンをみてもらっている牧田先生には、実はまだ音大に行きたいとは言っていないのだった。幾度となく先生の方から僕の意向を訊いてはくれたのだが、そのたびに適当にはぐらかしてしまっていた。夏休み中に先生の出身音大の講習があったのだが、それの受講も勧められていたのに結局断っていた。僕自身は音大受験の決心がつかなくて、結果、あやふやにしているのだが、むしろ先生は、もう僕は音大を受験しないものだと思っているだろう。
 音大受験を目指すのなら、名のある先生に付かないといけない。でもそんな時期は、とっくに過ぎてしまっているのかもしれない。両親はなんと言うだろうか。名のある先生のレッスンともなれば、牧田先生への月謝とほとんど同じ金額が一回のレッスンで消えることになるはずだ。当然、牧田先生にもみてもらい続けることにもなるから、僕のピアノに掛かる費用は、かなりの高額になることだろう。お金のことだけじゃない。僕が音大を受験すること自体を両親が許してくれるかどうか。
 今の家に引っ越した時、無理を言って僕の部屋を防音の作りにして、そこにピアノをいれてもらった。防音の作りにするだけで余計な出費をさせたことになるが、夜間のピアノで近所とのトラブルを起こしたくないならと、僕が母を半ば脅したから叶えられたのだった。そのおかげで、僕は時間を気にせずに好きなだけピアノを弾くことができる。今まで、本当に好きなだけ弾いてきた。だが、音大を目標にするなら、今までと同じ心構えでは駄目だろう。
 ――両親の反対が目に見えるようだから、今まで口にしなかったんだ。
 そう自覚すると、それじゃ今までの僕となんら変わりがないことに気づいた。倉本と一緒にやり遂げたこと、それは僕に「やってみたいことはやってみろ」「好きなことは好きだと言ってみろ」そんなことを教えてくれたのではなかったか。なりたい自分になる努力を怠ったら、僕という人間はいったい何になるというのか。僕がどんな僕になりたいのかなんて、周りの人間に分かるわけがない。何も言わなくても分かってもらいたいなんて、甘え以外の何物でもないのだ。自分の気持ちを口にしなければ、誰も分かってはくれない。伝えないことは伝わらない。扉は自ら開かなければ、永久に閉じられたままかもしれないんだ。誰かが開いてくれるのを待っていたら、時はあっという間に過ぎ去ってしまう。
 どうなんだろう。僕は本当にピアノに賭けてみたいのだろうか。どうなんだろう。そうならば、一刻も早く、少なくとも両親にその気持ちを伝えなくてはならない。迷っていられる時間はもうなかった。


 悶々としたまま、時間だけは確実に過ぎ去っていく。
 音大を受験したい気持ちがあることを両親に言えないまま、気がつけば十一月も終わろうとしていた。合唱部のクリスマスコンサートの練習は滞りなく続けられ、僕が提案したゴスペルも一曲だけ歌うことになっている。
 毎日が今までと同じように過ぎ去っていく中で、僕はいよいよ覚悟を決めなくてはならなくなった。期末テストが終われば、初めての進路相談があるのだ。進路調査票に親のサインを貰わなくてはならない。過保護で甘ったれたしくみだとは思うが、現実に親のサインの入った紙を提出しなければならないのだから、どうしようもない。
 期末テストの最終日、僕は逃げられないところまで追いつめられて、やっと両親に本心を告げることができた。
 夕食が終わって、キッチンで洗い物をしている母の背中に向かって、音大を受験したい、と初めて口にした。洗い物をする手がぴたっと止り、一瞬の間があく。振り返って僕を見る母は、明らかに驚いていた。
「護、今、音大に行きたいって言ったの?」
 それは問い詰めるような口調ではなく、普段と変わらない穏やかな口調だった。
「うん、言った」
 逸らしてしまいたくなる視線をどうにか母の顔に留める。そんな僕の顔をじっと母は見つめた。
「分かったわ。もうすぐお父さんが帰ってくると思うから、帰ってきてから三人でちゃんと話しましょう」
 そのまま僕は自分の部屋に戻った。あの母の様子では、やはり簡単には許してもらえないと思えた。ドアも閉めずに、ため息をついて、ごろんとベッドに横になると、姉の進学の時のことが思い出された。
 姉は僕よりもずっと成績が良く、大学進学の際には、都内の有名大学に行くものだと両親も僕も思っていた。しかし、姉が第一志望に選んだのは地方の大学だった。当然、一人暮らしをしながら通学することになる。両親は猛反対した。家から通える所に実力に見合った大学があるのに、どうしてわざわざ遠い大学を受けるのか、と。
 姉は両親の説得に随分手間取った。姉が挙げた理由は、専門にやってみたいことはそこでないとできないこと、早く家を出て自立してみたいこと、だった。当然のように両親は、やりたいことと同じようなことができる大学を通える範囲の中から探しなさい、とか、どうせ結婚すれば家を出る事になるのだから急いで自立する必要はない、とか、自分たちの論理で姉を説き伏せようとした。
 あの時ほど姉が両親に反抗した事はなかったと思う。それまでは本当に「いい子」だったんだ。決着が付くまで、毎日、家中が険悪な雰囲気に包まれて、僕は障らぬ神に祟りなしとばかりに、自分の部屋に閉じこもっていた。
 姉の最後の切り札は、「どんなに誉めそやしても、とどのつまりは私のことをちっとも信じていないし、理解していないのね、そんな親を哀れに思う」だった。今までに聞いた姉の言葉の中では一番強烈だった。結局、父が折れて、母も折れた。自分の娘に哀れまれてしまっては、ぐうの音も出なかったんだろう。
 姉は希望通り第一志望の大学に合格し、一人暮らしを送り、今も大学院に通っている。両親との確執は一旦は解消されたものの、最近は、いつまで大学院にいるんだと、その事で揉めていて、今年の夏も帰ってこなかったし、このままでは正月も帰ってこないかもしれない。
 姉が家にいたら、僕の進学のことも相談できたかとは思うのだが、自分自身のことで揉めている両親に姉が僕のことまで口出しできるわけはないだろうし、はっきり言って、姉が大学院に行っていることで、更に僕の音大受験は危ぶまれるのだ。うちは子供の教育費がかさむ一方になってしまう。それだけは、本当に申し訳ないと思ってしまうのだが。
 階下で父が帰ってきた気配がした。フロとメシが先だろうから、そのまま寝転がっていた。
 ――万一にも音大受験が許されたところで、果たして僕は合格できるのだろうか。それを考えてしまうと、今、こうやって両親と交渉しようとしていることすら、無駄なことに思えてきてしまう。ピアノを弾くのは好きだし、何時間でも弾いていられるし、他のどんな教科よりも音楽を学んでみたいと思うのは確かだ。ピアノ専科に進み、将来はピアノに携わる職業に就きたい。プロのピアニスト、音楽教師――音楽教師と一言で言ってもたくさんある。小学校、中学校、高校、ピアノ教室、楽器店の専任音楽教師――。やたらと音楽教師のことばかりが頭に浮かんだ。だけど、考えまいと思うのに一番焦がれるもの、それはやっぱりピアニストだ。だが「ピアニスト」と自称できるようになるには、いったいどれだけの努力と資質とチャンスが必要なことか。それらの条件が揃ったとしても、果たして僕に人を感動させるような演奏ができるのだろうか。だいたい、感動させようと思って、感動させられるようなものなんだろうか――。
「護」
 堂々巡りで結論の出ない考えから、階下から呼ばれて我に返った。とうとうこの時がきてしまった。僕は半ばやけっぱちな気持ちでリビングに降りていった。
 やってみるだけでも、やってみるもんだ。
 今夜、再びその教訓が僕の頭でこだまする。かなり厳しい条件を付けられてしまったが、音大を受験するのは承諾された。もっと押し問答が繰り返されるのかと思っていたのに、「受けたいのか」「受けたいです」「じゃあ、条件だ」で、父が一方的に条件を並べ立てて終わったのだった。
 父の出した条件とは、なるべく経済負担の掛からない音大であること、浪人は一年まで、現役受験のときにも普通の大学を受けて、音大がダメでそっちに合格した場合は潔くそっちに入ること、だった。最後の条件がなんだか曲者なんだけど、要は現役で音大に合格すればいいわけだから、この条件を飲まないといかにも現役では無理だと自分から言うようで、これ以上の交渉を避けるためにも僕は甘んじて受け入れた。
 そう言えば、最後に駄目押しで付け加えられた要求が姑息だった。名のある先生の個人レッスンも受けさせてやるから、その代わりに僕の預金を全額よこせ、と言うのだ。僕が小学生の時からこつこつとお年玉を貯めていた事は、当然、両親も知ってはいるが、ここでそれを要求してくるとは思わなかった。腹立たしいと言うよりもむしろ呆れ返ってしまったが、自分に投資するのだと思えば、ごく当たり前のことに思えた。下手をすると卒業までに千万単位の金が掛かる音大に、普通の家庭の親が行かせてくれると言うのだから。
 翌日、僕は親のサインが入った「第一志望、音大進学」と明記した進路調査票を提出することができた。


「良かったじゃないか」
 倉本は僕の話を聞くと、自分のことのように一緒に喜んでくれた。音大受験の希望をなかなか両親に打ち明けられなかったことを彼は知っていたし、僕を急き立ててもくれていた。今日、こうして倉本に両親が承諾してくれたことを話せるのは、とても嬉しい。
 テスト明けの今日まで、合唱部の練習は休みだ。コンクールとは違ってクリスマスコンサートはお楽しみだから、そんなにせっぱ詰まった練習はしていなかったし、実際、合唱はほとんど仕上がっていた。
 倉本も今日は部活がなく、バレエのレッスン日でもなかったので、こうして一緒にいられる。僕はハードルをひとつ越えられた嬉しさで、昨夜からピアノが弾きたくて弾きたくて、しかも家のアップライトじゃなくてグランドピアノが弾きたくなって、放課後を待って誰もいない音楽室に倉本を引っ張ってきてしまっていた。
 嬉しい気持ちそのままにピアノを奏でた。僕の傍らでは、倉本がいつもと同じくピアノにもたれかかって、僕の演奏に耳を傾けている。このひと時が、なんだかとっても幸せに思えて、僕は穏やかな気持ちで満たされていた。そんなつもりではなかったのに、素直な本音がすらすらと口から滑り出す。
「倉本には感謝したい気持ちでいっぱいなんだ」
「なんで?」
「想像も付かないかもしれないけど、一緒に文化祭に出られたことで、僕は変わったと思うんだ」
「ふうん?」
「いや、それよりももっと前からかな、倉本と仲よくなれたからかもしれない――」
 手を止めて、倉本を見上げた。今、言葉にした通りだと、あらためて思う。一方的に感謝されて、倉本は笑みにならない笑みを見せているが、僕は言葉に尽くし難いものを感じていた。
「倉本、なんて言ったらいいのか分からない。僕はきみに巡り会えて良かった」
「なんだよ、そりゃ、また大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃないよ、僕はきみに憧れているんだから」
 憧れている、そんな言葉を口にしてしまうと、僕の心がうずく。
 そう、「憧れている」なんて言葉じゃ、ぜんぜん足りないように思えた。
 ――本当に、憧れているどころじゃない。もっと違う言葉の方が当てはまるはずだ。憧れどころではないこの気持ちは、焦がれて止まないほどのこの気持ちは――。
 僕は、僕は……。僕は――――どうしてしまったんだろう。
 突如混乱した。それは倉本にも分かるほど。ついさっきまで、それこそ夢見るような顔をしていたのだろうに、目の前でみるみる表情が歪んでしまう僕の肩に手を掛ける。
「水城?」
 肩に置かれた倉本の手が息苦しくて、僕は身を捩ってその手から逃げた。行き場を失った倉本の手は、うなだれる。
「ご、ごめん、なんでもないよ」
 そう答えても僕の混乱は収まらない。妙にぎくしゃくしてしまった空気がまとわり付く。
 大きく深呼吸をして、僕は鍵盤に指を乗せた。目を閉じて心を静める。無意識のうちに弾き出していたのは『亜麻色の髪の乙女』だった。
 ただひたすらに甘くせつないメロディが耳に響く。倉本に対する訳の分からない混乱を忘れるように、僕は演奏に集中した。しかし、弾きながら、ふと思い出す。そうだ、この曲は倉本に捧げた曲だった。
 全部弾き終わらないうちに手を止めて、倉本を見上げていた。倉本は驚いた顔を向けてくる。僕が演奏を中断することなんて、今までに一度もなかったんだ。
「倉本、僕――」
 分かってしまった。自分の本心に気づいてしまった。決して直視できない僕の本心。僕は倉本が――。
 思わず手で口を覆った。言ってはいけない言葉が零れてきそうで、慌ててふさいだ。
「なんか変だぞ、水城」
 訝しげな表情を見せる倉本から顔を背けた。
 まさかこんなことになっていたなんて。僕が。倉本を――。
 その時、音楽室に入ってくる人影が視界の隅に入った。部長の矢部だ。
「あれ? 水城くん? それと――ああ、バレエの倉本くん」
 何やってんの、と言いながら、僕と大して変わらない女の子としてはかなりの長身に物を言わせて、ピアノの向うから覗き込んできた。たちまち尋常でない雰囲気を察知して、居心地悪そうに離れていく。
「あ、ピアノ弾いてもらっていたんだ」
 倉本が、いかにも取り繕うようなことを言った。
「ふうん」
 矢部は楽譜がぎっしり並んでいる書棚から何冊か引き抜いて胸に抱えると、そのまま戸口に向かった。と、足を止めて振り向きざまに言った。
「あなたたちって、本当に仲がいいのね、これほどとは知らなかった――ごゆっくり」
 矢部の姿が消えたあとの僕たちは、それまで以上に妙な雰囲気に包まれていた。
「水城。どうしてそんな顔するんだよ。いいじゃないか、みんなうまくいって。まだ一年以上あるんだから、音大の受験だってどうにかなるさ。自分の気持ちを信じろよ。俺なんかがどうこうしたからじゃないさ、自分で勝ち取ったんだよ。感謝されるのは嬉しいけど、買いかぶりすぎだ。むしろ俺の方が感謝したい。俺も水城と親しくなれて嬉しいさ」
「違う、違うんだ、僕は――」
 いたたまれなかった。僕は自分の気持ちなんて信じられない。全く違う意味で倉本が言い放った言葉が胸に突き刺さっていた。
「ごめん」
 そう言い残すと、鞄を引ったくって、その場から逃げ去っていた。


 あまりにも衝撃的な事実に気づき、僕は途方に暮れていた。音楽室で開放感に満たされて、倉本と一緒にいられるのが楽しくて、ピアノは心地良く耳に響いて。無意識の淵に隠れていた「それ」は、突然姿を現してしまった。そう、分かってしまったんだ。僕は、僕は倉本が本気で好きだ。
 いつも朗らかで、優しくて、笑顔が絶えなくて、ポジティブで、努力家で、才能もあって、バレエがうまくて、整った顔立ちで、しなやかな体をしていて――思わず触れたくなるほどの体をしていて、その胸に飛び込みたくなるほどで、片時も離れていたくないほどに僕を焦がし、いつでも僕を見ていて欲しくて。
 どうしようもないじゃない。僕は男で、倉本も男なんだから。
 事実は変えられようもなく、自覚してしまった僕の気持ちも変えられようもなかった。
 どうにも身動きできない状態だった。

つづく





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