一 よく磨かれたガラスのショーケースの扉を閉め、羽柴はさりげなく施錠した。意識は、視界の端に捉えた男に向いている。がっしりとした長身で、顎ヒゲが目を引くワイルドな容貌。黒で統一したカジュアルな服装が映え、野卑と言うよりいっそ粋な印象だが、この玉葉百貨店の宝飾品売り場では明らかに浮いて見える。しかも先ほどから店員である羽柴の顔を窺っているようなのだ。 「高橋さん、すみません。あとお願いします」 高橋も男に気づいていたのか、にっこりと完璧な営業スマイルを浮かべて見せた羽柴に、穏やかな笑顔でうなずいて返した。 腰高のショーケースに囲まれた持ち場を離れ、羽柴はそれとなく階段に向かう。普段は店員のほかに誰も通らないような、化粧室もエレベーターも近くにない、防火扉が常に開かれているだけの『非常階段』だ。 「タカシ」 売り場から完全に死角に入って足を止めた途端、男の声に呼ばれた。羽柴は一転して冷淡な笑みを浮かべ、ゆっくりと振り返る。先ほどの男だ。思ったとおり、ついてきた。 「一応、どういうことか訊こうか」 何週間前になるか、夜の街で引っかけて、一夜限りと合意して抱いた相手だった。イくときに呼びたいからと名を訊かれ、『貴士』と教えたが、それだけだ。 「偶然だ。こっちが驚いたくらいで」 「あたりまえだ。知ってて来られたら、とっくに警備員呼んでる。次はそうなると思え」 「へえ、言ってくれるね――『羽柴』さん?」 ニヤリと男に見下ろされ、チッと小さく舌打ちする。最悪だ。二度と会うはずがなかった男に職場とフルネームを知られてしまった。 「オレは客だぜ? 万年筆を買いに来たんだ、『ジャスティス』の――」 「あいにくながら、先日発売の新製品は当店では完売いたしました。申し訳ございません」 慇懃に言い返した羽柴を男はおもしろがる目になって見つめてくる。羽柴は浅く息をついた。 「万年筆が趣味とはね。人は見かけによらないって言うか――どこも売り切れだったんだろう? 通販部に問い合わせたらいい。在庫があれば、店で取り寄せるより早く手に入る」 「そりゃどうも。けどタダで帰る気しねーな」 羽柴は腕時計にちらりと目を走らせる。もう、アシスタントバイヤーの田口が来ているはずだ。 「……ったく。ほら、くれてやる。しゃがめ」 「――ん」 畳まれた防火扉と壁の隅に男を追いやって、深く唇を合わせた。膝を曲げた男にスーツの肩をつかまれたが仕方ない。羽柴は直立不動で濃厚なキスをしながら耳を澄ませる。階段は音がよく響く。しかし、売り場から近づいてくる足音に気づいた。そちらに視線を流す。 ――やっぱり田口か。 しっかりと目で捉え、男の顎に手をかけて上向かせた。絡めた舌を今一度吸ってから、唇を離す。クチュッと濡れた音がした。 「じゃあ、これで」 膝を伸ばした男の胸を手の甲で軽く叩く。 「やっぱ次はナシか。残念だな、あんた――」 「そういう約束だ。次はどうなるか忘れるな」 キッと睨みつけ、男がおとなしく立ち去るのを見届ける。呆然と突っ立っている田口など目にも入らないようにすれ違い、そのまま売り場に消えた。 「……羽柴さん」 呼ばれるより先に羽柴から歩み寄っていた。田口の目の前まで来て、すっと見上げる。 「驚いたか?」 「えっ? ……驚きますよ、それは」 しかし田口は、うろたえながらもそれほど驚いた様子ではない。 「こんなところで――」 そっちか。 やはりな、と思った。それを確かめたくて、職場で男とキスをするという、無駄なリスクを犯したのだ。田口が来る時間でなかったら、あんな男など売り場で適当にあしらっていた。 「羽柴さんがすることとは思えません」 「わざとだ。最初で最後だから気に病むな」 「気に病むって……なんで俺が――」 言いかけて、田口は手のひらで口を覆う。目をそらすが、頬がほのかに染まったようだ。 「おまえもしてほしいか?」 「――え」 泳いで戻ってきた田口の目を見据え、羽柴はきっぱり口にした。 「あんなキス」 田口は絶句したようになる。今度は、目に見えて顔を赤くした。 「……嫌です。あんな……キスは」 しどろもどろにも言い切られ、羽柴は溜め息が出る。やはり、そうだったか。 「今日はどうするんだ? 販売に立たなくていいなら、打ち合わせはバックでするか?」 なかば呆れて言ってやった。田口はハッとして表情を整え、しかつめらしく返してくる。 「戻りましょう。高橋さんが心配してました。変な男が羽柴さんを追っていった、って」 「そうだったな。だからおまえがここに来たわけだし――おまえに心配されたんじゃな」 「嫌ですか?」 持ち場に向かって歩き出した羽柴に、田口は大きな体で、まといつくように話しかけてくる。 「今の人、恋人ってわけじゃないですよね?」 「……わざわざ訊くんだ?」 目も向けずに小声でこぼせば、すみませんとつぶやいて返され、羽柴はまた溜め息が出そうになって抑えた。もう売り場に出ている。顔には穏やかな笑みを浮かべ、しかし胸ではどうしたものかと思う。 後ろに従いついて来る、この男――田口は、自分に惚れているようなのだ。それが今しがた、確信に変わった。 売り場のセールスマネジャーと商品の仕入れを預かるバイヤーは切っても切れない関係だ。それはアシスタントバイヤーといえども変わらない。 羽柴は一昨年の春にこの店の宝飾品売り場にサブマネジャーとして異動し、昨年の春にセールスマネジャーに昇格した。一方、田口が宝飾品のアシスタントバイヤーに就任して、前任のバイヤーに連れられて挨拶に来たのは今年の四月――あれから半年が過ぎている。 羽柴はショーケースの陰にかがみ、浅く息を落とす。ダイヤモンドのペンダントを補充しようと包みから丁寧に取り出すが、田口に男とキスしているところを見せつけた、先日の一件を思い出して少なからず悔やんでいた。 あそこまでやる必要があったのか今さらながら迷う。決定的な場面を見せれば田口は引くと踏んでいたのに、裏目に出たようなのだ。顔を合わせれば必ずと言っていいほど、飲みに行きましょうと誘ってくるようになった。 今までは、そんなことなかったのに――。 バイヤーはエリア単位でいくつかの支店の同じ売り場を担当していて、各支店の発注を取り次ぐほかに、買いつけの取引先を回ることも、メーカーの展示会に赴くこともあって、どの支店にも毎日顔を出すわけではない。 しかし、客層を知るためにも、商品の売れ行きを探るためにも、バイヤーはどの支店でもたびたび販売に立つ。それもあって羽柴は田口の人となりを知ったし、田口もまた同様だったと思う。いつしか並々ならぬ好意を寄せられるようになったことにも、気づかないでいられるはずがなかった。 『あ――そうか。そういうところが違うのか』 夏のセール期間中のことだったか。今のようにショーケースに商品を補充しているとき、田口が思いついたように口にもらした。何を言ったのか尋ねたら、はにかんで打ち明けた。 『八木さんに言われたんですよ。羽柴さんのところは任せるから、他店とどこが違うのか自分の目でよく見とけって。商品によっては他店の倍近く発注があって、それが売れ筋になってるじゃないですか。昨年度の売り上げリポート見て不思議だなんて言ったから八木さんに言われたんですけど、今、またひとつわかりました』 八木とは田口の上司でベテランのバイヤーだ。羽柴も、今の部署に異動になる前の二年間アシスタントバイヤーをしていて、八木の世話になった。 『そうやって、補充するだけでなく、こまめに陳列を変えているからなんですね。売れ筋を一番目につくところに置くのは基本だけど、ほかの商品にも満遍なく気を配っている』 ショーケースを見下ろし、穏やかに目を細めた田口の顔が思い出された。仕事に真面目で、素直ないいヤツだと感じたことまで。 ――まいったな。 それよりもっと前にも、同じようなことがあった。あのときショーケースの隅にあった折り紙はアヤメをかたどったものだったから、ゴールデンウィーク前後のことか。 『これ、羽柴さんが折ったそうですね。高橋さんから聞きました。すごいな』 唐突に言われ、そのときはいくぶん複雑な気分になった。単価が十万を下らない商品が並ぶ横に折り紙はいかがなものかと、一部でささやかれていると知っていたからだ。 『さりげなく目を引きますよね。それで商品に目が移る。売りに急ぐでもなく、客を待つだけでもない。羽柴さんがそうなのかな』 少年のような男だと思った。なんのてらいもなく、そんなことをすらすらと口にする。 少年のよう……そのとおりだな。 スーツが映える立派な体格でありながら、いつも瞳を輝かせて、いっそ新入社員よりも初々しく感じられるくらいだ。客はもとより誰にでも人あたりがいいのは、仕事柄と言うより人柄と言えるだろう。 だいたい、あんな場面を目撃したあとに、キスしてやろうかと茶化されて顔を赤くするような男なのだ。そのくせ、あんなキスでは嫌だと言い切った。 ――素直にも、ほどがあるだろ。 補充を終え、羽柴はすっと立ち上がってショーケースを見下ろす。照明の効果もあって、黒いベルベットの上にずらりと並んだダイヤモンドのペンダントがきらびやかに目に映る。 澄んで、一点の曇りもない粒。宝石の王者と言われるにふさわしく、輝かしい。 十月も終わりの今、ショーケースの隅ではオレンジ色の小さなカボチャが笑っていた。折り紙を含め、ペーパークラフトは羽柴の趣味だ。 玉葉百貨店の数ある支店の中でも、この店は都心から離れ、JRと私鉄の乗り換えで賑わうターミナル駅に隣接していて、客層は特に地域性が高いと言える。 ごく一般的な家庭の主婦がメインだが、仕事帰りに立ち寄る若い女性も目立つし、大地主の奥さま方にも贔屓にされている。ひとくくりに『デパ地下』と称される地下の食料品売り場でも、日常的な買い物ニーズに応える品々から都心に出なければ手に入らないような高級品まで、実に幅広い品揃えだ。 そんな店の最上階にある宝飾品売り場では、客になかなか足を向けてもらえないのが実情だった。同じ階にサービスカウンターがあるものの、ほかはインテリアや呉服や季節商品を扱う売り場で、状況は似たり寄ったりだ。しかも連絡通路で駅に直結した階には宝飾品の有名ブランドが単独で出店していて、そちらと一線を画す必要もあった。 売り上げを伸ばすには、たとえ偶然でも、この階に足を踏み入れた客の関心をいかに引くかが重要に思えた。この店の客層から考えて、敷居を高く感じさせてはいけないだろう。手の届かない高額商品ばかりを扱っているわけではないと、客に知ってもらいたかった。それで思いついたのが、季節感があって、いくぶん庶民的な印象のディスプレイだった。 ペーパークラフトとは言え、百貨店に高級感を求める客を裏切らないためにも、使用する紙には気を遣っている。折り紙にしても、しかりだ。目立ちすぎず、雰囲気を損なわず、それでいて通り過ぎようとする客の足を止めさせられるもの。 きっと田口は、そういったことをトータルに感じ取っている。細かいところまで、よく見ていると思う。そうでなければ口にできないことを聞かせてくれる。 好感を抱かないはずがなかった。ある意味、羽柴には理解者のひとりだ。 入社して何年だ? 俺より四年下と聞いたはずだから……まだ四年目か。 入社してすぐに外商部に配属され、三百人ほどの個人客を担当したと言っていた。その後、初めての異動でアシスタントバイヤーになったから、今は売り場に出て接客することが楽しくてならないとも言っていた。 羽柴は、そっと苦笑する。自分の部下でもないのに、そんなことまでよく覚えているなと、自分に呆れる。 平日の正午前で、どの売り場にも客はまばらだった。ざっと見渡し、羽柴は背筋を正す。午後は会議が入っている。各支店の宝飾品売り場のセールスマネジャーとバイヤーとで、クリスマス商戦について話し合い、当然ながら田口も出席する。時間が押せば、直帰することにもなりかねない。 仕事に私情を挟む気は毛頭ないが、先日のことがあって、田口と顔を合わせると思うと、いくぶん気が重かった。 やはり早まったか。田口から向けられる視線が尊敬とも敬愛ともつかないものに感じられるようになって、もしかしたらと思ったが、まさかおまえもゲイかとは訊けずに、あんな暴挙とも言える行動で確かめようとしたわけだが――そもそも、自分らしくなかった。 あの現場に遭遇して、田口が驚いた理由も同じだ。男とキスしていたこと自体に動じた様子はなかった。そのことに気がふさがれる。 なまじ、田口に好感を抱いていたから――違うだろう。ルックスなんて、ストライクで自分のタイプだ。それが問題だった。 本当……まいったな。 あんなことがあって軽蔑されるならともかく、自分がゲイであると知られてストレートにアプローチされるようになっているのだ。 『今の人、恋人ってわけじゃないですよね?』 直後にそう確認された理由が、嫌でも胸に迫る。だが仕事のつながりのある相手と、まっとうにつきあうつもりは微塵もなかった。仕事のつながりがない相手とも、まともな恋をするつもりはない。だからこそ、ろくでもない火遊びと自覚してそんなことを繰り返しているわけで、あのときの男もそういった相手のひとりだ。ましてや、仕事のつながりのある相手と火遊びをする気は、まったくない。 だから――田口から向けられる好意が重い。自分より四歳下の男、今年で二十六歳になるのか。そんな歳でも田口は少年のように感じられるのだ。どう対処したらいいのか迷う。 のらりくらりとかわして、どちらかが異動になるまでやりすごすしかないか。 それだったら、あんなことで田口の真意を確かめる必要などまるでなかったのだ。 売り場にいて溜め息が出そうになり、羽柴はこらえる。万年筆のショーケース前にいる高橋に声をかけた。 「三番、行ってください。戻ってきたら、あと頼みます。午後は会議で外出しますから」 三番は隠語で、昼休みを意味する。高橋は契約社員の女性で再就職組のベテランゆえ、キャリアは羽柴より長い。午後のことは遅番で出社したサブマネジャーに引き継いであるが、接客を任せるなら高橋だった。 その後、高橋が昼休みから戻るのを待って羽柴は売り場を離れ、会議に出向く時間まで、オフィスで事務仕事に勤しんだ。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る |