一 あのときの衝撃が 一ヶ月前のことだ。午後の個人レッスンに少し早く着いてしまった。レッスン室の扉は固く閉ざされていて、自分の前の学生がまだレッスンを受けているようだった。 それなのに、かすかにもヴァイオリンの音は聞こえず、もしかして終わったあとなのかと思い、扉の小窓から中を覗いた。 四月下旬の明るい日射しが室内に降り注ぎ、背を見せている男子学生の輪郭を光の粒が縁取っていた。講師の 一瞬では、何が起こっているのかわからなかった。ただ唐突に鼓動が跳ね上がり、見てはいけないものを見てしまった衝動に駆られ、慌てて扉から離れた。 横の壁に背でもたれ、乱れた鼓動を鎮めようとした。そうして、ようやく、高槻が男子学生にキスしていたのだと理解した。 信じがたいと同時に、ひどく高揚した。 高槻には昨年の一年次から個人レッスンを受けている。たぶん三十代で、ヴァイオリンの腕はもとより、教え方も確かで心から信頼していた。 その高槻が男子学生にキスしていたのだ。 ……なんで。 高槻は女子学生に人気がある。どことなく日本人離れした顔立ちで、すらりと背が高く、常にスーツを着ていて、ダンディという形容がぴたりとハマる。しかし、既婚者のはずだ。だから、女子学生にまとわりつかれても笑顔でスマートにかわしているのだと思っていた。 なのに……なんで。 思えば思うほど、鎮めたはずの鼓動は乱れ、顔が熱くなった。横の扉が開き、自分の前の学生が出てきたと気づいても、顔を上げられなかった。 見たくなかったのだ。一ヶ月が過ぎた今になって、よくわかる。高槻がキスした相手を知りたくなかった。高槻が男子学生にもキスするなら、それは自分であってほしかった。 「――ん。ちょっと待ちなさい、 ハッとして、郁也はヴァイオリンから弓を離す。高槻が歩み寄ってきて、眉をひそめて間近から見下ろしてきた。 「どうした、情感が入ってないじゃないか。きみらしくもない」 「あ……すみません」 謝るしかできなくて、郁也は視線を横に流す。窓の外に五月の新緑がまぶしくて、意識してそれを目に映した。高槻は手を伸ばせば触れられる先にいて、自分で驚くほど鼓動が速くなっていた。 「楽譜どおりに弾くので精一杯ということはないだろう? きみが得意とする曲想なのだし……ここ。もっと、たっぷりと歌わせて」 譜面台を指で差し、高槻は自分のヴァイオリンを取り上げる。すっと構えて弾き出した。 郁也は浅く息を飲み、その音色に聞き入る。自然と背筋が伸び、そっと目を閉じた。 バッハの『シャコンヌ』――せつなくも甘い旋律に胸が締めつけられる。高槻の奏でる響きは豊かで、なおさら胸に迫った。 どうしてなのだろう。溢れる音の海に浸りながら思ってしまう。今は大切なレッスンの最中とわかっていながら、考えてしまう。 いつから高槻を特別に感じ始めていたのか。男子学生にキスしているところを盗み見て、彼にするなら自分にしてほしいと、なぜ願うようになってしまったのか。自分は、高槻に恋をしているのだろうか。講師で、同性で、既婚者のはずの高槻に。 「今のところから、もう一度」 言われて、郁也はヴァイオリンを構える。弓を当て、耳をそばだてて奏で始める。 高槻の音色を思い描き、自分なりの情感を込めた。短調のせつない調べが深く胸にしみ入ってくる。淋しくて、とても甘い。さらに情感を込めれば、胸の奥の細い線がぷつりと切れた。 「……どうした」 高槻が前に立って影が差す。長い指が頬をそっと撫でた。 「先生――」 知らずに涙をこぼしていたと気づいたが、郁也はまっすぐに高槻を見上げる。やわらかく笑んで返され、胸がいっぱいになった。 ぼくにも、キスしてください――。 声にはできずに、ひたすらに高槻を見つめた。フッと、高槻は苦笑で口元を歪ませた。 「きみでは駄目だよ」 郁也は驚いて目を瞠る。内心を見透かされたことよりも、駄目と一言で切り捨てられたショックが大きかった。 「きみは、経験がないだろう」 高槻は静かに離れていき、背を見せて机にヴァイオリンを置く。肩越しに振り向いた。 「去年からきみを見ているんだ。訊かなくてもわかる。何よりも、ヴァイオリンの音色は雄弁だからね」 「どういう……」 思わず問い返して、コクリと喉が鳴った。 「素直で、清潔感に溢れ、純粋そのものだ。きみの演奏の美点に違いないが、経験を経て艶や色気が備われば、もっと厚みが出ると常々思っていたよ」 全身から血の気が引いたように感じられた。床に立つ足が急に重くなって、郁也は一歩も動けなくなる。 「もっとも、経験がなくても官能的な演奏をする者はいるけどね。きみも同じである必要はない。経験がないことを恥じれと言っているのではないんだ。焦って今の美点を壊しては元も子もないから、そこは忘れないように」 高槻は再び近づいてきて前に立つ。長い指を郁也の顎にかけ、軽く仰向かせた。 「だけど、今のきみでは私の相手にはならない。経験がないと、面倒なだけで少しも楽しめないからね。私のことは、ほかで経験してから考えなさい」 まったく声が出なかった。自分を見つめて目を細める高槻の表情に、息が詰まる。 大人の男の色気というものを初めて知ったように感じた。ひたりと揺るがない眼差しも、薄く笑みを刷く唇も、艶をしたたらせているに違いなかった。胸が締めつけられる。 「さあ、時間はまだ半分も残っている。最初から通して聞かせてくれるね?」 にっこりと明るく笑いかけられ、ひどいと思った。だが同時に、やっぱり自分はこの人に恋をしているのだと思った。 郁也は背筋を伸ばし、ヴァイオリンを構える。窓の前まで離れた高槻を外の新緑と共に目に捉え、自分の思いを乗せてヴァイオリンを歌わせる。 いつか、ぼくにもキスしてください。そうしてもらえるように、なりますから。 そう強く思うことに間違いはなかったのか、その思い自体に歪みがないのか、そのときの郁也は疑おうともしなかった。 ゆっくりと傾いていた西日がいよいよ譜面に射して、郁也はそっと息をつく。弓を下ろして、肩からヴァイオリンをはずした。 せっかく学内の練習室が取れて、集中して弾き始めたはずなのに、気持ちが乗らない。弾いていて心が不安に揺れるなど、これまでにないことだった。 ほかで経験しろ、なんて言うから……。 あれから何日か経つが、改めて考えてみるほどに、ひどいと思った。どの程度のことを高槻が『経験』と言ったか知れないが、自分にまるで経験がないのは事実だ。キスしたこともない。それどころか、誰かに特別な感情を抱いたことさえなかった。 三歳のときから音楽を始め、ピアノを習うようになり、小学生のときにヴァイオリンに出合った。すぐに夢中になり、中学生のときには自分の大半を占め、学校のことや友人とのつきあいよりも大切になっていた。 高校は、家庭の事情で普通科に進学したが、ヴァイオリン中心の生活に変わりはなかった。在学中に、同学年の女子からつきあいたいと言われて応じたことはあったが続かず、それで自分が傷つくこともなく、自分から誰かとつきあいたいと思ったことは一度もないまま、地元を離れて東京の音楽大学に進学した。 自分がそんなふうであることに疑問を感じたことすらなかった。友人が誰かとつきあい始めて別の友人がうらやましがっても、自分はなんとも思わなかったくらいだ。 ヴァイオリンを弾いていられれば幸せで、将来も弾き続けていられるように、そのための努力は惜しまずに生きてきて、ずっと変わらないと思っていた。なのに、今はどうだろう。ヴァイオリンを弾いていても高槻のことが頭から離れず、心が揺れて満たされない。 経験、なんて……。 ないと言う理由だけで拒絶を受けるほど、経験のあるなしに大きな意味があるのだろうか。そんなこと、考えもしなかった。恋愛に関心なく生きてきたことを否定されたような、人として自分が欠けていると言われたような、そんな気持ちにもなる。 でも……経験がないから、ぼくの演奏には厚みがないって――色気とか、艶とか。 そう言われたショックも大きかった。高槻に振り向いてもらうにも、自分の演奏のためにも、早急に『経験』を済ませるべきか。 けど、どうやって……って言うか、何を。 ノックの音がして、郁也は驚いて振り向く。小窓に栗色のロングヘアーが揺れ、藤野の顔が覗いた。郁也と同じ弦楽科二年の女子で、専攻もヴァイオリンだ。去年の夏頃からよく話すようになって、今では学内で一番親しい。 「ごめん、休憩中みたいだったからノックしちゃった。練習室、どこも空いてなくて」 決まり悪そうな笑みを浮かべて入ってきて、藤野はさりげなく譜面に目を向ける。 「やん、ラッキーかも! 私もこれ練習したかったの、一緒にやらせて。郁也なら、もう弾けてるでしょ?」 パアッと明るい笑顔になって言われ、郁也は苦笑してしまう。 ショパンの『ピアノ協奏曲第二番』を練習していた。学内オーケストラの六月の定期公演で弾く曲だ。郁也は第一ヴァイオリンで、藤野も同じだった。 「もう来週から合同練習が始まるじゃない? 名指しで駄目出しなんてされたら嫌だから、先に誰かと合わせておきたかったのよね」 ちゃっかりと言われ、郁也は笑ってしまう。 「誰か、ね」 「郁也が一番いいに決まってるじゃない! 変なクセなんてぜんぜんないし、いつも安定してるし!」 意気込んで返され、藤野が褒めたつもりでいるのはわかったが、どうしようもなく胸に刺さった。 クセがなくて安定してる、か――。 反面、おもしろみや個性に欠けると言われたようなものだ。高槻に指摘されたこととも相まって、胸の底がささくれ立つようになる。 だが、この場ですぐに何かできることではない。個性にしても演奏スタイルにしても、自分に培われた経験や感性が生み出すものだ。 「――いいよ」 息をつき、郁也はやわらかく笑って返した。 「ありがと!」 藤野はさっそくヴァイオリンを取り出し、郁也に合わせて調弦する。アイコンタクトで息を合わせ、ふたりで弾き始めた。 学内オーケストラへの参加は弦楽科の学生には必修の科目でもあり、週に二回、最低でも合計八回の合同練習にも参加して一単位の取得となる。二年次以降の履修で卒業までに二単位が必要で、郁也が今年度に選択すると知って藤野も選択した。 ……藤野らしい。 重なる音に耳を傾け、郁也は淡くほほ笑む。藤野の演奏は自由闊達だ。今は個性を抑えて、楽譜に忠実に弾こうとしているのがわかる。 「ねえ」 しばらくして、まだ途中なのに藤野が話しかけてきた。眉間にしわを寄せている。 「どうしたの? 何かあった?」 ギクッとして郁也は弓が止まる。藤野も弓を下ろした。 「なんか、伸びがない。いつもはもっと透明な感じなのに、ぶっちゃけ、重い」 「重いって……曲想がそうだからだろう?」 「適当なこと言わないで。郁也らしくないよ。この曲、緊迫感はあるけど重くないもん」 ムスッと言い返され、郁也は言葉もない。まったくそのとおりで、言い逃れをするにも曲を冒涜するような発言をしたと恥じた。 「なに? 悩みでもあるの?」 図星なのだから、今度は素直に答える。 「――うん」 「ウソ! 郁也がヴァイオリンに集中できない悩みなんて……恋っ? 誰よ、誰を好きになっちゃったのよ!」 「ちょ、藤野――」 「おめでとう、郁也! よかったね、好きな人ができて! ヴァイオリンは永遠の恋人でも、やっぱ、それだけじゃねー」 「……なに言ってんの」 弓とヴァイオリンを持ったまま満面の笑みで手を握ってこられ、気圧されながらも郁也は複雑な気分で笑う。藤野が純粋な気持ちで言ってくれていることは伝わっていた。 「で、誰なの? マジ、郁也は初めてだよね? それで思いきり悩んじゃってるわけ?」 しかし、さらに詰め寄ってこられ、郁也は顔をしかめてうつむいてしまう。 「……言えない」 「えー、なんでー。悩みなんて話しちゃえばスッキリするのに。私でもダメなの?」 「そういうわけじゃないけど……」 こんなときにもテンションの高い藤野だが、決して軽率でないことはよくわかっている。何を話しても親身になって聞いてくれるだろうけど、講師の高槻が好きになったみたいだとは、やっぱり言えない。 不意に握られていた手が放された。パッと部屋の明かりがつく。郁也の隣に戻ってきて、藤野は譜面に目を向け、改めてヴァイオリンを構えながら言う。 「無理言ってごめん。誰にも話せない悩みもあるよね。そんな悩みだから、郁也なのに、ヴァイオリンを弾いていても沈んじゃうんだろうし……さっきの続きからでいい?」 「藤野――」 じわっと、藤野のやさしさが胸に広がった。郁也は、そっと息をつく。 「ちょっとショックなこと言われて……経験がないから、ぼくじゃ相手にならないって」 「ええっ!」 裏返った声を上げ、ものすごい顔で藤野が振り向いた。 「なにそれ、誰よ、そんなこと言うの!」 食いつきそうな勢いで、目の前で言い放つ。 「郁也、自分のこと、ぜんぜんわかってない! 郁也にあこがれてる女の子なんて、いっぱいいるんだよ? そんな子、郁也に合わないよ! 経験がないから、なんて……信じられない。郁也の純情、踏みにじる気?」 「……藤野」 かろうじて声が出たが、びっくりしすぎて言葉が続かない。言うことがいちいち大げさなのは藤野にはいつもだが、そう返されるとは思いもしなかった。 「そんなこと言われたら、郁也でも気持ちが乱れてあたりまえだよ。聞いた私だってイライラする!」 言った途端に藤野は離れて、ヴァイオリンをケースにしまい出した。 「こんな気持ちで弾いたって、なんにもならないから! 新宿行こう!」 「え……今から?」 「決まってんでしょ! つきあうから、一緒に遊んで、パーッと忘れちゃおう!」 「けど――」 「ごちゃごちゃ言わない! もうっ、いつもは決断も切り替えも早いのに、こんなことで迷うのが郁也らしくないんだってば!」 言いながら藤野は郁也からヴァイオリンを取り上げ、てきぱきと片づけてしまう。そうして郁也の手を引くと、あとは何も言わせずに練習室から連れ出した。 つづく ◆NEXT ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ