Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    恋のエチュードもきみと
    ‐2‐




      金曜日の夜の新宿は、いつもながらに派手に騒がしかった。諦めたような気分で郁也は藤野のあとに続いて、真っ先にカフェに連れられる。藤野が勧めるケーキと紅茶でくつろぐように言われても、すぐに笑顔にはなれなかったが、なんだかんだと藤野が話しかけてくるうちに次第に和んだ。
     そのあとは本屋や楽器店を巡って、目についた本や楽譜を開いては音楽の話題になり、郁也からも話すようになって会話が弾んだ。
     やがて、せっかくだから夕食も済ませて帰ろうとなったとき、藤野のケータイが鳴った。上条からの電話で、郁也も知る藤野の恋人だ。チェロ専攻で、六月の定期公演にも参加する。
    「ごめん……私が誘ったのに、ごめんね――」
     呼ばれて帰るのに、藤野はひたすらに謝る。
    「そんな、ぼくこそ、ごめん。行ってあげて。藤野のおかげで気分が上向いた。ありがとう」
     その言葉に嘘はなく、郁也はニコッと笑う。
    「ホント? なら、よかった。強引だったかなって、途中から思ってたから……けど、郁也は自分で思ってるより、ずっとカッコイイんだからね! もっと合う人が必ずいるよ」
     そんなことを、またいきなり力説されて目が丸くなる。だが藤野は真剣な眼差しだ。
    「うん……ありがとう」
    「本当だよ、忘れないでね? じゃ、ここで」
    「うん――じゃ」
     なかば唖然として、雑踏に紛れて地下鉄の駅に向かう藤野の後ろ姿を見送った。
     もっと合う人が必ずいる、か。
     フッと口元が緩む。大勢の人が忙しく行き交う中にひとり残され、だけど胸は温かい。このあと自分はどうしようかと迷い、とりあえず歩き出す。藤野と夕食を取る気になっていたが、実はそれほど空腹ではなかった。
     ……あ。
     三丁目の交差点に出て足が止まった。通りの向こうに目が行き、すっと頭が冷たくなる。ゆっくりと、だが確実に鼓動が速さを増した。
     そっと視線をそらせば、ショーウィンドウに映り込んだ自分と目が合う。
     瞳が大きく気の強そうな眼差し、細く神経質そうな眉、肩に届きそうなストレートの茶髪、日焼けを知らない肌、引き結んでばかりだからか薄い唇――。
    『いつもは決断も切り替えも早いのに』
     どうしてなのだろう。藤野の声が頭に響く。
    『迷うのが郁也らしくないんだってば!』
     そう……だよな。
     ずっと、ヴァイオリンを中心に生きてきた。学校や友人のことで落ち込むことがあっても、ヴァイオリンを取れば気持ちが切り替わった。練習時間を潰したくないから、決断も行動も速くした。そうできるように心がけてきた。
     だったら!
     思い切って、郁也は一歩を踏み出す。青信号になって横断する雑踏に混ざり、通りの向こうに渡る。今は藤野と過ごして気が晴れていても、自分はきっとまた高槻に言われたことを思い出して心を乱す。
     それなら、大元の問題を排除するまでだ。
     気持ちがそうさせるのか、いつのまにか足早になっていた。あたりの人影は次第に減り、薄暗く感じられる横道に折れる。二丁目だ。
     おぼろげながら、知識はあった。無謀だと、心の声が叫んでいた。でも確かめてみたいんだと、強引な気持ちが叫び返す。高槻にキスされたい思いで、自分はどこまでできるのか。何もできないなら、そのときにこそ、きっぱり諦めがつく。高槻を思って高揚しようとも、この気持ちは本当には恋ではないのだと。
     とにかく適当な店に入ってみようと歩調を緩めてはみるが、人影が目に入るたびにうつむいてしまい、周囲に気が回らない。それらしい看板を見つけても、階上や地下にある店ばかりで決心が鈍る。一階にある店に行き当たらなかったらおとなしく帰ろうと、いよいよ怖気づいてきたとき足元に淡い光が射した。
     そろそろと顔を上げる。一見だと、普通のバーのようだ。入口の扉がガラス製で、そこから光が漏れている。近づけば店内は明るく、おおまかに様子が見て取れた。カウンターのほかにテーブルもあって、半分は埋まっているようなのだが、目に映る客は男ばかり――。
    「ごめんねー、入りたいんだけど、いいかな」
     頭上から声がして、一瞬、心臓が止まった。背後から伸びた手が、目の前の扉を押し開ける。うろたえる間に釣られて入ってしまった。
    「マスター、この子、初めてみたい」
     背後の男が言うが、郁也は足が止まって顔を上げられない。どうぞ、とマスターらしき声に呼ばれ、おずおずとカウンターに進む。
    「うちは男女オーケーだから、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
     あっけらかんと聞こえた声に顔を上げた。カウンターの奥の席を勧められる。
    「今日は、ここで様子見でもすれば? 未成年じゃないよね? なに飲む?」
     素っ気なく言われ、一気に力が抜けた。ハイスツールに座り、郁也はようやく口が開く。
    「大丈夫です、二十歳なんで――強くない、甘めのカクテルください」
     無言でうなずき、マスターは離れていく。ほどなくしてオレンジ色の飲み物が前に置かれた。恐る恐る一口飲んで普通のスクリュードライバーとわかり、どうにか落ち着く。
     しかし、店内の様子を目の端に映し、自分は何をしに来たのかと思った。どんな経験をするにも、もう自分には無理だとわかる。
     やっぱ、無謀だった。これ飲んだら帰ろう。こういう店に来たって、ぼくじゃ――。
     すっと隣の席に男が座って、ギクッとした。「ひとりだよね?」
     驚いて目を向けたら、薄く笑いかけてくる。
    「え、まあ……」
    「オレ、どう?」
     どうと訊かれたところで、郁也は何を答えたらいいかわからない。経験がないからわからないと、そのまま返したら即座に去られた。唖然とするも、大して間を置かずにまた隣の席が埋まった。最初の男と同様になり、もう帰ろうとカクテルを飲み干したら、またもや隣に男が来て勝手におかわりを注文してしまった。しかもまた同じことを訊かれ、いっそ開き直って、別に構わないけど好きな人がいると言ってみたら、いい気になるなと小声でののしられた。
     だから、経験するなんて……やっぱ、無理。
     げっそりと肩が落ちて郁也は溜め息をつく。カクテルを飲みながら横目で店内を見渡す。
     来たときより客が増えている。カウンターは自分の隣しか空いていない。次に誰か来る前に今度こそ帰ると決めた矢先、空席の向こうの数人が一度に立った。その先にいた男と唐突に目が合い、郁也は声を上げそうになる。
     慌てて手のひらで口をふさいだ。顔を背けたくてもまったく動けず、自分でわかるほど目が大きく見開いていく。向こうも驚いた顔になって、ぽかんと口を開けた。しかし次の瞬間には、照れくさそうに笑いかけてくる。
     なんで……なんで、ここに渡瀬がっ?
     郁也は必死に考えようとするが答えが出るはずもない。それでもピアノ科二年の渡瀬陵に違いなく、短い黒髪も、すっきりと整った顔立ちも、爽やかな印象までも記憶どおりだ。
     昨年度の学年末試験のピアノ伴奏に、友人伝いに紹介されて初めて会ったのだが、既に別の学生の伴奏を引き受けていて断られた。
    『悪いな、俺も実技試験の練習あるから』
     そのとき話したきりだが、申し訳なさそうに笑った顔をしっかり覚えている。
     郁也が見つめる先で渡瀬はおもむろに立ち上がり、グラスを手に歩み寄ってきた。
     すらりとした長身も、ラフにこなれた感じの服装も、音楽大学の学生というより普通の大学に通ってスポーツでもしていそうな雰囲気も、間違いなく渡瀬だった。
    「隣、いい?」
     目の前で言われ、郁也はコクッと喉が鳴る。
    「いい、けど……」
     さっきまでのことが脳裏をよぎり、まさかと思い直す。渡瀬は同じ大学の学生だ。
     六月の定期公演でも弾くんだし。
     二年でありながらコンチェルトのピアノに抜擢されていた。今は知り合いにも満たないが、今後は合同練習で顔を合わせるのだし、さっきまで隣に座った男たちのようなことは言わないだろうと思った。
    「こういう店、初めてで」
     席に着くなり、渡瀬はうつむいて言う。
    「知ってる人に会えてよかった、て言うか、かなりホッとした」
     郁也は目を瞠り、思わず口元がほころんだ。
    「ぼくも。同じ。さっきから、いろんな人に話しかけられて緊張してたから、助かった」
     驚いたように渡瀬が顔を向けてきて、一瞬のあと、目を見合わせて笑ってしまった。
    「でも、変な感じ。こんなとこで渡瀬と会うなんて」
    「俺だってそうだよ。桧原[ひばら]がこんな店にいるなんて――」
     互いに同じことを言ったと気づき、急に間が悪くなる。
    「あの――」
    「ってさ――」
     声が重なり、同時に口をつぐんだ。渡瀬は困ったように髪をかき上げ、郁也もグラスに視線を落とす。
    「あー……だからさ。桧原って、よく彼女といるから、つきあってるんだと――」
    「彼女って、……まさか、藤野のこと?」
    「そんな名前、向こうも郁也って呼んでた」
     それには慌てた。とんでもない誤解だ。
    「ちょ、待ってよ。藤野って名字だし、つきあってないし、藤野には彼氏いるから」
    「え。あ、そうなんだ……名前じゃないのか」
     藤野が名前とは、たとえば鈴木藤乃とか、渡瀬はそんなふうに勘違いしたのか。
    「えーと……。なら、俺も桧原も同じ?」
     また口ごもるように渡瀬が言って、それにも焦って郁也は答える。
    「じゃなくて。や、そうかもしれないんだけど、ぼくは確かめに来たって言うか――」
    「マジっ? だったら、マジに同じだから!」
    「え」
     互いに呆然と見つめ合ってしまった。
    「俺は、その――」
     少しして、言いにくそうに渡瀬が口を開く。
    「男にコクられて、びっくりしたけど嫌じゃなくて――むしろ、そうなのかもって思うんだけど、そいつには、そんな気になれなくて……けど、自分がそうか、気になって」
     そこまで話して深い吐息を落とした。うつむいた横顔を見つめ、郁也は自分も話さなければいけないように思えてくる。いっそ聞いてもらいたい衝動に駆られた。
    「ぼくはさ――。経験がないからダメって、相手に言われたんだ」
    「――え」
     軽く目を瞠って渡瀬が見つめてくる。
    「そういうものなの? さっきまで隣に来た人たちも、似たような感じだった」
    「……マジ?」
    「うん――やっぱ、経験ないとダメなのかな」
     途端に渡瀬は視線を泳がせて顔を背ける。
     ――う。いきなりこんな話じゃ、引かれた?
     しかし顔を戻してきて、強張った頬が淡く染まって見えることに郁也は目を丸くした。
    「俺……ごめん、答えられなくて。まだ自分がそうなのかもわかってないし――」
     どうしてかわからない。なんだか泣けそうになって郁也は視線をそらす。渡瀬が真摯に応えてくれたことがうれしくて、急に近く感じられた。じわりと胸が温まり、やわらかい笑みに顔が溶ける。
    「謝らないでよ。聞いてくれてありがとう。ぼくは、もう帰るね。なんか、気が済んだ」
     言いながら視線を戻せば、渡瀬は明らかに顔を赤くする。
    「なら! 俺も帰るから。一緒に帰ろう」
     そうして店を出た。並んで歩き出しても、しばらくは互いにぎこちなかった。それでも三丁目あたりで雑踏に紛れる頃には、六月の定期公演を話題に打ち解け始めていた。
     だからだと思う。同じ電車に揺られ、渡瀬も大学近くの防音のマンションを借りていると知って、郁也は気持ちまで揺れてきた。
     だって……ぼくのマンションの近く――。
     同じ駅で降りて、新宿より格段に暗い道をまた並んで歩き出す。しかし店を出た直後に戻ったように口数は減り、やがて、ふと渡瀬が足を止めた。
    「あの、さ。怒らないで聞いてほしいんだけど……あの店には、経験しに行ったわけ?」
     街灯が、緊張した横顔をほのかに照らしていた。郁也は小さく息を飲む。
    「うん……そう――」
     本当は断言できない気持ちだったが答えた。
    「嫌じゃなかったら……うち、寄ってく?」
     たぶん、そう言われると思った。ドクンと、鼓動が大きく跳ねる。
    「――うん」
     カッと顔が火照った。思わずうつむいて、しかし目に映る足が歩き出して、ついていく。
     渡瀬の部屋は一階で、ワンルームだった。きれいに片づいている中央にグランドピアノが置かれている。ほかに目につくものは壁際のソファと机くらいで、郁也は少し戸惑った。
    「シャワー……使う?」
     ピアノの近くまで来て、渡瀬は顔を伏せた陰から視線を流してきた。頬を真っ赤に染めている。
    「――どっちでも。浴びたほうがいい?」
     郁也も真っ赤になって答えるが、そっと手を引かれた。あ、と声が漏れたときには渡瀬の胸に包まれていた。
    「もう一度訊くけど……俺でもいいのか?」
     慌ててうなずいていた。店で声をかけてきた男たちが一瞬で浮かんで消えて、渡瀬なら怖くないと思った。
     それよりも、重なった胸に渡瀬の鼓動が伝わってきて、息が詰まりそうだった。自分と同じくらいに速い。もしかしたら、もっと。
    「渡瀬のほうこそ……ぼくでいいの?」
     告白してきた相手がいるのに、その気になれなかったと聞いた。でも確かめてみたいと。
    「……マジ、ごめん。もうヤバそうなくらい」
     耳元で低くささやかれ、それが信じられない甘さで腰にまで響いた。郁也は、ぎゅっと渡瀬の腕をつかんでしまう。それが合図のように、たちどころに唇を奪われた。
    「ん……っ」
     どうしていいかわからない。本当に、キスも初めてだ。唇を開かされ、歯列を割られ、ぬるりと熱い舌がもぐり込んでくる。自分の舌を探り当てられ、絡められて背筋がゾクッとした。軽く吸われればくらむほどになって、たまらずにきつく目をつぶる。
     知らずに夢中になって応えていた。シャツの裾から大きな手が忍び込んでくる。ヒヤッと感じたのは一瞬で、すぐに肌が熱くなった。
     震えが駆け下りて、足に力が入らなくなる。崩れそうになって渡瀬に支えられるが、互いにもつれてソファに倒れる。唇が離れ、郁也は渡瀬の下になってシャツの前を開かれた。
    「……どうしよう。俺、止まらないかも」
     困ったように聞かされても、郁也のほうがどうにもならない。渡瀬の部屋に寄ったことからして唐突に違いないのに、組み敷かれて高揚する自分についていけない。
    「さわっても――何しても、いい?」
     頼りないささやきが胸にしみて、うなずく。
    「桧原……すごく、かわいい――」
     うっとりとした響きに酔わされた。とっくに息は上がっていて、喘ぐしかできなくなる。
     渡瀬の手で裸にされ、恥ずかしく感じても部屋の明かりはついていて、どこもつぶさに見られてしまう。だけどその眼差しが蕩けているから郁也も昂った。
     渡瀬も服を脱ぎ捨て素肌をさらす。思っていたとおりにスポーツでもしていそうな肉体を目にして、郁也は恥じらいを強くする。
     ぎゅっと強く抱きしめられ、人肌の温かさを知った。頬も肩も胸も、指先と唇と舌とで熱っぽく辿られ、たまらない愛撫を知った。飾りにしか過ぎないと思っていた胸の尖りを舐められたときには、強烈な快感に襲われた。
     屹立はくっきりと硬く結実し、触れられなくても悦びの涙をしたたらせる。喘ぐばかりの口の端からもしずくが伝って、はしたなく身悶える自分に驚き、羞恥にまみれながらも感動に近い興奮を覚えた。
     本当に、まったく知らなかったのだ。知識と経験とでは、こんなにも違う。体を交えたら、どうなるのか。甘くせつなく、苦しくて、すごく恥ずかしいのにとても気持ちいい――。
    「あんっ、んっ」
     リズミカルに屹立をしごかれ、絶頂に追い上げられ、郁也は漏れる声を抑えられない。
    「マジ、どうしよう……本当に、俺が全部もらっちゃっていいの?」
     どうして渡瀬が困ったようにそんなことを訊くのか、このときになっても郁也はわからなかった。むしろ自分のほうこそ、経験を済ませたいだけで渡瀬にいろんなことをさせて、すまない気持ちになってくる。
    「ね、ぼくも――」
     だから少しでも理性が戻ったときに、そう言った。渡瀬の滾りきった屹立に手を伸ばす。
    「ちょっ……桧原!」
     切羽詰まった響きで呼ばれ、驚くも素早い反応はできない。渡瀬の屹立に触れられたのは一瞬で、両手を捕らえられた。
    「あ、あ、あ!」
     股間に渡瀬が顔をうずめてきて、とんでもない声が口から飛び出ていく。ぬるりと屹立を舐め上げられ、次には股間の奥にまで舌が降りてきて、秘められた箇所をじゅくじゅくと濡らした。
    「はっ!」
     きゅっと腹に力が入り、両脚が浮いて置き場がなくなる。渡瀬は郁也の両手をつかんだまま郁也の腿を押し上げ、まるで郁也が自分でそうしているような体勢を取らせた。
    「あっ、ん!」
     片手を解かれたものの、秘められた箇所に指が入ってくる。強烈な異物感に息を飲むが、ぬるぬると探られて全身が震えた。
     なに……これ――。
     急に頭の芯がクリアになる。自分がされていることが客観的に捉えられ、だけど嫌な気がしない。次第に異物感にも慣れ、別の感覚が芽吹いてくる。内壁の一箇所にぐっと強い刺激が伝わり、声にならない叫びを上げた。
     硬く張り詰めた屹立の先から、とろとろと何かが溢れ出る。射精したのだと知ったときには、視界が真っ白になるほどの鮮烈な快感に飲まれていた。
     どうにも止まらず、涙が溢れて耳まで伝う。嬌声を上げそうなのに、まるで声にならない。
    「……桧原」
     ふうっと、深い吐息が耳元に落ちた。胸の底にまでしみ込んで、郁也を蕩けさせる。
     抱きついてきた渡瀬の体は熱く湿っていて、それでまた胸が震えた。膝を折られてきつい体勢にさせられても、ちっとも苦痛にならなかった。焼けるほど熱く感じるかたまりが体の中に押し入ってきても、わけのわからないうちに受け入れていた。
     ゆっくりと揺さぶられて、気持ちが高まる。次第に、はっきりとした律動に変わり、抗えない興奮を覚えた。もっと奥にまで突き挿され、わずかにも残っていた理性が吹き飛んだ。
     郁也は渡瀬にしがみつき、知らずにキスをねだる。深く熱く返されて、胸を滾らせた。一気に性感が高まり、絶頂に押し上げられる。渡瀬にえぐられ貫かれ、射精の快感に漂った。
     そのときには体の中にも熱いほとばしりを感じ、ねばつくような歓喜の海に沈んでいく。意識が途切れたと知ったのは戻ってからで、渡瀬と再び目が合ったときには、涙で視界が滲んでいた。
    「桧原……俺――」
     郁也の上に身を浮かせ、うな垂れて渡瀬は泣き出しそうな声を聞かせる。
    「ごめん――こんな、しちゃって……」
     声が出そうになかったけど、郁也は答えた。
    「……どうして。なんで、謝るの――?」
     掠れてでも言えたことにホッとする。渡瀬が離れていきそうなことに淋しさを覚える。
    「ソファでなんて……桧原、初めてだったのに……ベッドにする余裕もなかったなんて」
     どうやら、このソファがベッドになるらしかった。察知して郁也は降りようとするが、全身が重くてまったく動かない。
    「いい、そのままで。タオル持ってくる」
     結局、渡瀬は離れてしまう。郁也はそっと目を閉じた。こめかみに涙が伝い、そのことにうろたえる。もう痛くもなんともないのに。異物感もないのに。自分がからっぽになったように感じられ、胸がきつくふさがれた。
     どうしようもない疲れが襲ってくる。抗えない強さで郁也を眠りに引き込む。まだ渡瀬は戻らないのかと思いつつ、意識が遠のいた。


    つづく


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