Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    恋のエチュードもきみと
    ‐6‐




     渡瀬の部屋に入り、いっそう胸がドキドキする。今また、ここに渡瀬とふたりきりだ。
    「ごめん、何も出す余裕ない。座って」
     ヴァイオリンを机に取り上げられ、なかば強制的にソファに座らされる。渡瀬も座って、間近から真剣に目を覗き込んできた。
    「ぜんぜん怒ってない、って――マジ?」
     たじろいで郁也は答える。
    「うん――」
    「なら、なんで黙って帰ったわけ?」
     言いづらく、やっとの思いで口を開く。
    「は、恥ずかしかったから……寝こけて」
    「――え」
    「だ、だって! 布団敷いたのも知らなくて、朝までずっと寝てたんだよ?」
     真っ赤になって見つめる先で、渡瀬の顔も赤く染まっていく。
    「や……桧原――」
     ものすごくズレたことを言ってしまったのか。渡瀬が決まり悪そうに視線をそらすのを見て、別の意味でドキドキしてくる。
    「あまり、かわいいこと言わないでくれる?」
     そんなふうに渡瀬が言う意味がわからない。
    「かわいいって……なんで――」
     つい、うつむいてしまった。渡瀬の両腕が体に巻きついてきて、大きく目を瞠る。
    「かわいいよ――すごく。あのときも思った。桧原だからその気になれたんだ、って。無茶して後悔したけど、マジうれしかったんだ」
     温かく、やわらかい声が頭上でひっそりと響き、郁也はなおさらうな垂れた。
    「……バカだよね。経験したいなんて言って、渡瀬にさせて――ぼくも、すごく後悔した」
     ずっと言えなかった胸のうちを明かし、唇が震えそうになる。渡瀬がどう返してくるか、束の間の沈黙に押し潰されそうになる。
    「それ……俺としたこと後悔してる?」
     やっと聞こえた声は意外な質問を投げかけ、郁也は驚いて顔を上げた。
    「違う、ちっとも後悔してない! ぼくは、初めてが渡瀬でうれしかった! すごく渡瀬が好きになって、けど、あんなことで好きになったなんて言えなくて――」
     そこまで言って、ハッと口をふさいだ。目の前で渡瀬は蕩けそうな笑顔になっている。
    「今の……もう一度、言って」
    「も、もう一度、って。――全部?」
     たまらない。もう一度全部なんて言えない。
    「俺が、好き?」
     顔を背けても、甘い声が追ってきた。胸が破裂しそうになって郁也は答える。
    「――好き」
     ぎゅっと強く抱きしめられる。頬を重ねてきて、渡瀬はせつないささやきを聞かせる。
    「よかった……マジうれしい。なんかもう、いろいろ限界だった」
    「ぼくも――」
     泣きそうになって郁也もささやいて返した。
    「ずっと避けられてたからつらくて、練習室に来てくれたときはすごくうれしかったけど、また避けられたから――」
    「それ、さ。むしろ俺が避けられてるんだと思ってた。黙って帰るし、好きな人いるって聞いてたし、桧原から話すなんてなかったし、俺からは話しにくくて――うまくいったとか言うし」
    「ごめん……やっぱ、ぼくのせいだね」
     暗く沈んで郁也は言うが、渡瀬は淡く笑う。
    「違うって。ふたりで勘違いしてたんだろ?」
    「でも、経験したいなんて、ぼくが言ったから――」
    「なにそれ」
     くすっと渡瀬は笑う。
    「桧原に言われたら、誰でもしちゃうって? すごい自信。――ま、俺はそうだったか」
    「えっ」
     言われたことがするりと飲み込め、郁也は青くなる。そんなふうには考えてなかった。
    「けど、俺から誘ったんだ。俺だって、誰とでもできるわけじゃない。コクられても水谷にはその気になれなかったし。桧原だって、あの店で会った人とは無理だったんだろ?」
    「い、言っとくけど!」
     郁也は上ずって声を上げる。
    「ぼくはマジ渡瀬が初めてで、先生とも――」
     だが、唇にそっと指を当てられた。
    「今、あの先生のこと言うなよ、ムカつくから。俺が初めてだったのは、俺が知ってる」
     カーッと、どうしようもなく顔が熱くなる。
    「ば、バカッ」
     顔を背けようとするが、渡瀬の大きな手に止められた。
    「うん――マジにバカだから。桧原の伴奏、先に頼まれてたのに名前覚えてなくて、水谷の伴奏しちゃった」
    「――え」
     目を合わせてきて渡瀬は気まずそうに笑う。
    「俺を紹介したやつには思いきり怒られるし。桧原には、約束破ったわけで俺から話せなくなっちゃうし。間違えなかったら、もっと早くつきあえてたかな、なんて――思うわけだ」
    「……マジ?」
     郁也は目が丸くなる。
    「顔知らないで名前覚えるの、超苦手で」
     あまりに照れくさそうに渡瀬が言うから、うれしくて泣きそうになって笑ってしまった。
    「すごく好き、渡瀬――」
     自分からも両腕を回して渡瀬に抱きついた。
    「勘違いって言っていいなら、ぼくは先生のことが勘違いだった」
     郁也を包み込み、渡瀬も甘い声を聞かせる。
    「だろうな、経験したいなんて、マジに好きな人がいたら言えない。桧原もバカだよ」
    「――うん」
     言われたことが胸にしみた。今はこうして抱き合えている幸せをしみじみと思う。
    「もう誰も好きにさせない――覚えといて」
    「うん――」
     視線が絡まり、熱く湿った吐息が唇を掠めた。うっとりとした渡瀬の眼差しに溶かされ、郁也はしっとりと唇をふさがれる。
    「ふ……ん」
     シャツの裾から忍び込んできた手が素肌をまさぐった。あの夜の記憶が鮮やかによみがえり、全身が甘くさざめく。
     でも、あのときとは違う――。
     今は心も通じ合って、渡瀬の愛撫で昂るのも性感だけではない。ゆっくりと押し倒されることすら歓びにほかならず、恋しさが募る。
    「や、ん」
     シャツをはだけられ、素肌に舌を這わされ、甘えた声がこぼれた。胸の尖りをやわらかく吸われ、忘れられなかった快感が突き抜ける。
    「は……っ」
     酔わされて、うっとりと目を閉じる郁也に、渡瀬は熱っぽく問いかけた。
    「ここ――そんな、いいの……?」
    「うん……いい、すごく――」
    「もうっ」
     素直な気持ちが口をつき、それを苛立ったように返されて、郁也はハッと目を開いた。
    「は……はした、なかった? ―――あんっ」
     喘ぎながらも訊けば、そこを軽く噛まれる。
    「はっ、ああ、ん――」
     強烈な快感に、胸を突き出して悶えた。
    「――第二楽章はアダージョ・カンタービレのつもりだったのに」
     肌に埋もれて渡瀬に言われ、頭まで痺れる。
    「こんなんじゃ、また止まらなくなるって」
     身を乗り出して渡瀬は目を合わせてきた。睨んでいるようだが笑っている。
    「明日があるから今は軽くって思ったのに。どうすんの?」
    「か、軽くって――」
     郁也は声が上ずってしまう。『アダージョ・カンタービレ』とは、『ゆっくりと歌うように』という意味だ。
    「ん……ぼくが、歌う――?」
    「だから、それ!」
     ぎゅーっと、抱きしめられた。息が詰まりそうになるほどで、でも、とてもうれしい。
    「は、あ」
     腕を緩められ、喉を反らして郁也は喘いだ。渡瀬の顔がかぶさってきて、深くキスされる。
    「……ふ」
     舌を絡め捕られ、たっぷりと貪られ、ようやく解放されたときには肩で息を継ぐほどで、体中からすっかり力が抜けていた。
    「ヤバすぎだって……」
     上体を起こし、渡瀬はじっと見下ろしてくる。その眼差しのやさしさにも熱さにも郁也は胸がいっぱいになる。渡瀬がどれほど自分を好きでいてくれているか、深く響いた。
    「……渡瀬、――好き」
     抑えようのない思いが唇から溢れ、渡瀬を見つめて、はだけていただけのシャツの前に手をかけた。はらりと左右に大きく開く。
    「ダメ!」
     それを勢いよく渡瀬に閉じられ、目が丸くなった。何がいけなかったのかと郁也は焦るが、渡瀬は沸騰したみたいに赤くなっている。
    「やっぱ、今日はもうやめよう。今ならまだやめられる」
     ひどく真剣になって言うから焦りが募った。
    「……なんで。したくなくなった?」
     恐々と訊けば、渡瀬は仰け反って身を引く。
    「逆! わかれよ、止まらなくなるって!」
    「それって……マズイの?」
    「明日、本番っ」
    「……ぼくは大丈夫だと思うけど」
     初めてのとき、ふらついても自力で歩いて帰れたことを思い、そう言ってみた。
    「今、まだ夕方! 朝まで時間ありすぎ!」
    「え――」
     思わず窓のほうに目が行き、外を見るより先にグランドピアノが視界に入った。一瞬で頭が冷え、そろそろと自分の姿に目を戻して口を覆う。渡瀬は、いくらか乱れてはいても服を着たままだ。
    「ぼ、ぼくは……っ!」
     跳ね起きて、ソファの隅まであとずさる。シャツの前をかき合わせても、恥ずかしくてたまらない。やめようと言われてもねだったなんて、自分がひどくはしたなく感じられる。
    「そんな、しなくても――」
     呆れたような溜め息と共に渡瀬が言う。
    「だから……かわいくて、たまらないんだ」
    「え」
     顔を上げたらキスにさらわれた。やわらかく唇を吸われるような、淡いキス――それでまた胸が甘く溶ける。
    「渡瀬っ」
     縮[ちぢ]こまったまま郁也は抱きついた。そっと抱き返され、泣いてしまいそうだった。
    「明日……終わったら、うちに来て」
    「――桧原」
    「ぼくの部屋にも、やさしい思い出が欲しい」
    「桧原……っ!」
     郁也は自分から唇を寄せてキスをねだる。願ったとおりに返され、深く満たされた。


     客席の照明が次々と落とされていく。学内ホールはほぼ満席で、薄闇に沈んでいく聴衆を前に、郁也は心地よい緊張に浸る。そっと目を閉じて呼吸を数えた。ほどなくして客席から惜しげない拍手が湧き上がる。目を開けば、まばゆく映るステージに指揮者と渡瀬が歩み出ていた。正装に身を包み、聴衆に礼をする広い背中を郁也は誇らしく見つめる。
     渡瀬がピアノの前に着き、指揮台に指揮者が立つと、すっと空気が張り詰めた。絶妙のタイミングで指揮棒が振り下ろされる。
     静かに、緊迫感に満ちて始まる第一楽章――郁也は、ゆったりと音楽の海に漕[こ]ぎ出し、オーケストラの響きに耳を傾け、思うとおりにヴァイオリンを歌わせる。渡瀬のピアノはまだ響いてこない。オーケストラの波は弦を中心にうねり、ひたひたと高まっていく。そこに、満を持[じ]したように情熱的に響いてくるピアノソロ――抑えようもなく、背筋が甘く痺れた。
     音楽を愛する者には、ただ幸せな時間――。
     定期公演の聴衆は、学生や大学職員や近隣の住人が大半だ。だがそれは、大した意味を持たない。誰もが音楽を楽しみたくて、ここにいることを郁也は思う。
     奏でる者と聴く者とのハーモニー。そして、奏でる者同士のハーモニー。
     ソロでは知り得ない歓びだった。何十人もの奏でる音が一体となって、ひとつの音楽を生み出している。その実感が、合同練習のときとは比べようもない強さで胸に迫ってくる。今ここに自分がいることが、渡瀬がいることが誇らしくてならない。
     自分たちは、音楽でも調和する。練習室で合わせたときにも強く感じた。渡瀬と思いが通じ合ってからは、恋もハーモニーと知った。好きでならない人と、体でも心でも響き合える歓び――。
     郁也のヴァイオリンは澄んで高らかに歌う。オーケストラに溶けて、渡瀬への思いを乗せて。渡瀬のピアノも、情感に満ちて艶やかに歌った。
     そうして至福の時間は終わりを遂げ、驚くほどの拍手に包まれる。そうなって、郁也は現実に戻った。まわりの誰もがこっそり視線を交わし、明るくほほ笑んでいた。
    「今日ったら、もう最高!」
     ステージを引いて楽屋に向かう廊下に出ても、誰も興奮が冷めない。藤野がはしゃいで、相手構わず笑顔を振りまいている。
    「ホント、よかったよ。昨日はどうなるかと思った。郁也が高槻先生に走ってくの見て、みんなびっくりしてたんだよ」
    「え」
     いきなりそんな話を振られ、郁也は焦る。
    「リハのことで何か言いに行ったんだ、って。渡瀬くんと水谷くんが追いかけていったから、マジにヤバすぎって、みんな騒いでた」
    「……ごめん」
     何を言われても仕方ない状況だったわけで、今さらながら恥じ入った。
    「でも、今日は郁也も最高だったよ。澄んで気持ちよく響いてたし、今もいい顔してるし、なんかキラキラしてる」
    「え――」
     そんなつもりは少しもないのに、ふわっと頬が赤く染まったと自分でわかった。
    「やん、もしかしてラブラブになったとか?」
    「ら、ラブラブって――」
     昨日のことが思い出され、頭がいっぱいになる。演奏の高揚も尾を引いていて、胸がドキドキして抑えられなくなった。
    「え……? ちょ、郁也――」
     見る間に藤野の頬までほんのりと染まる。楽屋に向かう正装の集団にいて、ふたりして足が止まった。
    「えーと。藤野さん?」
     先を行ったはずの渡瀬が笑顔で口を出してきた。郁也を引き寄せるように肩に手を回す。
    「彼氏いるんでしょ? 嫉妬されない?」
    「え? なんで渡瀬くん? て言うか、渡瀬くんが言う? 渡瀬くんだから?」
     驚いて郁也は藤野を見る。藤野には、自分が渡瀬とつきあい始めたことさえわかるのか。
    「……え、なに郁也? だって渡瀬くんって言ったら、ピアノ科で超有名なタラ――」
     渡瀬の大きな手が、いきなり藤野の口をふさいだ。藤野も郁也も思いきり目が丸くなる。
    「や、やめてよっ。私には彼氏いるって、今、自分で言ったじゃない!」
     渡瀬の手を払って、藤野は真っ赤になって駆け出す。郁也が唖然と見送る先で、上条の腕に後ろから抱きついた。
     郁也は黙って渡瀬を見上げる。気まずそうに笑う顔が、すべてを物語っている。
    「彼女いるの?」
     ふと口をついた問いに、渡瀬は目をむいた。
    「いないって!」
     ――そうなんだ。
     なんとなく、そう思った。いてもおかしくないと、無意識で思っていたのだろうか。
     ……水谷には、むちゃくちゃ嫉妬したのに。
     自分のことながら、よくわからない。
     けど、なんて言うか、渡瀬はああいうこと慣れてるみたいで――。
     初めて抱かれたときを思って顔が熱くなる。
    「あの……桧原?」
     困り果てたように渡瀬が呼ぶ。
    「彼女はかなりいたけど、自分がわかってなかっただけで、男は桧原が初めてだし、俺は浮気とか二股とかは――」
    「今は、ぼくが好き?」
     目を合わせて問えば、耳に唇を寄せてきた。
    「すごく好き、ずっと好き、今キスしたい」
     郁也は笑ってしまう。こんな渡瀬が好きだ。ぼくもしたいと返したかったが、何も言わずに先に歩き出した。
    「桧原……?」
    「第二楽章がアダージョ・カンタービレなら、第一楽章はアレグロ・コン・ブリオだったね」
    「――え」
     隣に来て、渡瀬はきょとんとした顔になる。
     『アレグロ・コン・ブリオ』とは、『輝きをもって速く』という意味だ。もちろん自分たちのことを言った。そんなたとえをしたのは渡瀬が先だ。
    「第三楽章は、どんな感じにするつもり?」
     渡瀬は歩みを止めずに一度じっと目を覗き込んできた。そうして、フッと口元で笑う。
    「ロンドで、アンダンテ・コン・モート」
     やわらかく耳をくすぐった低い声に痺れた。
    「――いいね。ぼくもロンドがいい」
     うっとりと郁也は返す。『アンダンテ・コン・モート』は『気楽にのんびりと』という意味で、『ロンド』は『輪舞曲』と説明されることもあるように、主題となる旋律が何度も繰り返される楽曲形式を言う。
    「何度も何度も繰り返し重ねて、第三楽章は終わりがなければいい」
     渡瀬とのこれからを思って、そう言った。
    「ちょ、桧原――」
     なのに、渡瀬はうろたえた声を出す。
    「……そういうこと、さらっと言うから」
     今度は郁也がきょとんとした。しばしの間のあと、何を言われたか思い当たって、カッと頬が熱くなる。
    「そ、そ、そういう意味じゃ……!」
     決して、エンドレスで抱かれたいと言ったわけではない。しかし渡瀬が昨日たとえたのはセックスの行為自体だった。
    「ぼ、ぼくは、これからのことを言って――」
    「あー……そう――」
     渡瀬まで頬を染めて、なんとも間の抜けた返事を聞かせる。でも郁也は、気まずいような、照れくさいような、こんな空気も渡瀬となら心地いいと感じる。
     好きな人ができて、好きになってもらえると、こんなふうになるんだ――。
    「おーい! 早く着替えろ、打ち上げ行くぞ」
     楽屋の前から呼ばれた。その先の更衣室に次々と人影が消えていくのが目に映り、郁也は足を速める。
    「な、打ち上げ、スルーしない?」
     歩調を合わせてきて、ぼそっと渡瀬が言うから、また笑ってしまった。
    「無理でしょ。渡瀬は今日の主役だし」
    「けど――」
     不服そうな顔をまぶしく振り仰いだ。
    「これからは、アンダンテじゃなかったの?」
    「そのつもりだったけど……」
     諦めたように渡瀬は小さく吐息を落とす。
    「最初から段階踏もうと思ってたんだ。桧原のことマジ好きだから、食事したり、デートしたり、そういうことからやり直そうと――」
     パタッと郁也は足を止める。数歩行きすぎて、渡瀬も立ち止まった。
    「桧原?」
     目に映る廊下に、今は自分たちのほかに誰もいない。郁也は渡瀬の前まで進むと、伸び上がってキスをした。
    「ひ、ばら……」
     頬が熱い。胸が高鳴って甘く満ちる。
    「郁也でいいよ。弦楽科は、みんな郁也って呼んでる。ぼくのほかに日原がいるから」
    「じゃなくて――」
     目をしばたたかせる渡瀬が郁也はかわいい。
    「打ち上げが終わったら、一緒にうちに来て。ブーイングされても、二次会には出ないで。ぼくが待てない」
     言い切った途端に強く抱きしめられた。熱に浮かされて郁也はささやく。
    「これからはアンダンテで、って言ってくれて、すごくうれしい。でも、食事やデートは明日からにしよう――?」
    「ったく……エロかわいいっての」
     吐息交じりに低く耳に吹き込まれ、たまらない気持ちでいっぱいになった。
    「渡瀬……好き。すごく好き。ぼくは、まだ何もわかってないから、ひとつひとつ教えて」
    「だからっ!」
     抱きしめる力をぎゅっと強め、渡瀬は間近から目を覗き込んでくる。
    「――わかってるから言うなよ。俺が止まらなくなっちゃうだろ。マジ、一からやり直し」
    「――うん」
    「ちゃんと行くから。今夜は……アンダンテ・コン・モートで」
     熱くときめいた。気楽にのんびりと、じっくり、たっぷり、渡瀬に抱かれるのだろう。
    「うれしい……」
     そっと声に漏らし、今一度キスの雰囲気を感じて郁也は目を閉じかける。だが渡瀬は、肩を落として抱きしめていた腕を解いた。
    「なんかもう……俺、ぜんぜん自信ない」
    「なに言って――」
    「も、いいや。こんな溺れるなんて、桧原が初めてだし。桧原、すごくいいよ――郁也か」
     あ――。
     ひたりと自分に据えられた眼差しに、背筋がゾクッとした。郁也は胸の高鳴りを聞く。
    「渡瀬――」
     そうだった――あの夜にも見た眼差しだ。男くさくて、ひどく色っぽい。
    「ほら、行こう。とりあえず打ち上げだ」
     すっと差し出された手に、胸がいっぱいになった。その手を取り、もう片方の手には弓とヴァイオリンがあることを郁也は思う。
     きっと、これからも、こうして――。
    「あー、まだヴァイオリン持ってる!」
     藤野の声がして、ギクッとして顔を向けた。更衣室からバラバラと数人が出てきたところで、あたりまえに誰も着替え終えている。
    「もう! おっそーい!」
    「ごめん――」
     自分が今どんな顔をしているかを思って、郁也はとんでもなく恥ずかしい。いろいろと藤野に知れるのも、時間の問題に思えてくる。
     それなのに渡瀬は手を離さなかった。楽屋に急ぎ、藤野たちに続いて中に入ろうとして止まった。
    「また、あとで」
     振り向いて甘くささやき、手を離した。
    「――うん」
     また、あとで。これからは、アンダンテで。
     歩む速さで、じっくりとつきあっていければいいと思う。渡瀬と同じテンポで。
     思いを込めて渡瀬を見つめ返せば、渡瀬は蕩けそうな笑顔に変わる。郁也も蕩けそうな笑顔を渡瀬に返した。


    おわり


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