渡瀬の部屋に入り、いっそう胸がドキドキする。今また、ここに渡瀬とふたりきりだ。 「ごめん、何も出す余裕ない。座って」 ヴァイオリンを机に取り上げられ、なかば強制的にソファに座らされる。渡瀬も座って、間近から真剣に目を覗き込んできた。 「ぜんぜん怒ってない、って――マジ?」 たじろいで郁也は答える。 「うん――」 「なら、なんで黙って帰ったわけ?」 言いづらく、やっとの思いで口を開く。 「は、恥ずかしかったから……寝こけて」 「――え」 「だ、だって! 布団敷いたのも知らなくて、朝までずっと寝てたんだよ?」 真っ赤になって見つめる先で、渡瀬の顔も赤く染まっていく。 「や……桧原――」 ものすごくズレたことを言ってしまったのか。渡瀬が決まり悪そうに視線をそらすのを見て、別の意味でドキドキしてくる。 「あまり、かわいいこと言わないでくれる?」 そんなふうに渡瀬が言う意味がわからない。 「かわいいって……なんで――」 つい、うつむいてしまった。渡瀬の両腕が体に巻きついてきて、大きく目を瞠る。 「かわいいよ――すごく。あのときも思った。桧原だからその気になれたんだ、って。無茶して後悔したけど、マジうれしかったんだ」 温かく、やわらかい声が頭上でひっそりと響き、郁也はなおさらうな垂れた。 「……バカだよね。経験したいなんて言って、渡瀬にさせて――ぼくも、すごく後悔した」 ずっと言えなかった胸のうちを明かし、唇が震えそうになる。渡瀬がどう返してくるか、束の間の沈黙に押し潰されそうになる。 「それ……俺としたこと後悔してる?」 やっと聞こえた声は意外な質問を投げかけ、郁也は驚いて顔を上げた。 「違う、ちっとも後悔してない! ぼくは、初めてが渡瀬でうれしかった! すごく渡瀬が好きになって、けど、あんなことで好きになったなんて言えなくて――」 そこまで言って、ハッと口をふさいだ。目の前で渡瀬は蕩けそうな笑顔になっている。 「今の……もう一度、言って」 「も、もう一度、って。――全部?」 たまらない。もう一度全部なんて言えない。 「俺が、好き?」 顔を背けても、甘い声が追ってきた。胸が破裂しそうになって郁也は答える。 「――好き」 ぎゅっと強く抱きしめられる。頬を重ねてきて、渡瀬はせつないささやきを聞かせる。 「よかった……マジうれしい。なんかもう、いろいろ限界だった」 「ぼくも――」 泣きそうになって郁也もささやいて返した。 「ずっと避けられてたからつらくて、練習室に来てくれたときはすごくうれしかったけど、また避けられたから――」 「それ、さ。むしろ俺が避けられてるんだと思ってた。黙って帰るし、好きな人いるって聞いてたし、桧原から話すなんてなかったし、俺からは話しにくくて――うまくいったとか言うし」 「ごめん……やっぱ、ぼくのせいだね」 暗く沈んで郁也は言うが、渡瀬は淡く笑う。 「違うって。ふたりで勘違いしてたんだろ?」 「でも、経験したいなんて、ぼくが言ったから――」 「なにそれ」 くすっと渡瀬は笑う。 「桧原に言われたら、誰でもしちゃうって? すごい自信。――ま、俺はそうだったか」 「えっ」 言われたことがするりと飲み込め、郁也は青くなる。そんなふうには考えてなかった。 「けど、俺から誘ったんだ。俺だって、誰とでもできるわけじゃない。コクられても水谷にはその気になれなかったし。桧原だって、あの店で会った人とは無理だったんだろ?」 「い、言っとくけど!」 郁也は上ずって声を上げる。 「ぼくはマジ渡瀬が初めてで、先生とも――」 だが、唇にそっと指を当てられた。 「今、あの先生のこと言うなよ、ムカつくから。俺が初めてだったのは、俺が知ってる」 カーッと、どうしようもなく顔が熱くなる。 「ば、バカッ」 顔を背けようとするが、渡瀬の大きな手に止められた。 「うん――マジにバカだから。桧原の伴奏、先に頼まれてたのに名前覚えてなくて、水谷の伴奏しちゃった」 「――え」 目を合わせてきて渡瀬は気まずそうに笑う。 「俺を紹介したやつには思いきり怒られるし。桧原には、約束破ったわけで俺から話せなくなっちゃうし。間違えなかったら、もっと早くつきあえてたかな、なんて――思うわけだ」 「……マジ?」 郁也は目が丸くなる。 「顔知らないで名前覚えるの、超苦手で」 あまりに照れくさそうに渡瀬が言うから、うれしくて泣きそうになって笑ってしまった。 「すごく好き、渡瀬――」 自分からも両腕を回して渡瀬に抱きついた。 「勘違いって言っていいなら、ぼくは先生のことが勘違いだった」 郁也を包み込み、渡瀬も甘い声を聞かせる。 「だろうな、経験したいなんて、マジに好きな人がいたら言えない。桧原もバカだよ」 「――うん」 言われたことが胸にしみた。今はこうして抱き合えている幸せをしみじみと思う。 「もう誰も好きにさせない――覚えといて」 「うん――」 視線が絡まり、熱く湿った吐息が唇を掠めた。うっとりとした渡瀬の眼差しに溶かされ、郁也はしっとりと唇をふさがれる。 「ふ……ん」 シャツの裾から忍び込んできた手が素肌をまさぐった。あの夜の記憶が鮮やかによみがえり、全身が甘くさざめく。 でも、あのときとは違う――。 今は心も通じ合って、渡瀬の愛撫で昂るのも性感だけではない。ゆっくりと押し倒されることすら歓びにほかならず、恋しさが募る。 「や、ん」 シャツをはだけられ、素肌に舌を這わされ、甘えた声がこぼれた。胸の尖りをやわらかく吸われ、忘れられなかった快感が突き抜ける。 「は……っ」 酔わされて、うっとりと目を閉じる郁也に、渡瀬は熱っぽく問いかけた。 「ここ――そんな、いいの……?」 「うん……いい、すごく――」 「もうっ」 素直な気持ちが口をつき、それを苛立ったように返されて、郁也はハッと目を開いた。 「は……はした、なかった? ―――あんっ」 喘ぎながらも訊けば、そこを軽く噛まれる。 「はっ、ああ、ん――」 強烈な快感に、胸を突き出して悶えた。 「――第二楽章はアダージョ・カンタービレのつもりだったのに」 肌に埋もれて渡瀬に言われ、頭まで痺れる。 「こんなんじゃ、また止まらなくなるって」 身を乗り出して渡瀬は目を合わせてきた。睨んでいるようだが笑っている。 「明日があるから今は軽くって思ったのに。どうすんの?」 「か、軽くって――」 郁也は声が上ずってしまう。『アダージョ・カンタービレ』とは、『ゆっくりと歌うように』という意味だ。 「ん……ぼくが、歌う――?」 「だから、それ!」 ぎゅーっと、抱きしめられた。息が詰まりそうになるほどで、でも、とてもうれしい。 「は、あ」 腕を緩められ、喉を反らして郁也は喘いだ。渡瀬の顔がかぶさってきて、深くキスされる。 「……ふ」 舌を絡め捕られ、たっぷりと貪られ、ようやく解放されたときには肩で息を継ぐほどで、体中からすっかり力が抜けていた。 「ヤバすぎだって……」 上体を起こし、渡瀬はじっと見下ろしてくる。その眼差しのやさしさにも熱さにも郁也は胸がいっぱいになる。渡瀬がどれほど自分を好きでいてくれているか、深く響いた。 「……渡瀬、――好き」 抑えようのない思いが唇から溢れ、渡瀬を見つめて、はだけていただけのシャツの前に手をかけた。はらりと左右に大きく開く。 「ダメ!」 それを勢いよく渡瀬に閉じられ、目が丸くなった。何がいけなかったのかと郁也は焦るが、渡瀬は沸騰したみたいに赤くなっている。 「やっぱ、今日はもうやめよう。今ならまだやめられる」 ひどく真剣になって言うから焦りが募った。 「……なんで。したくなくなった?」 恐々と訊けば、渡瀬は仰け反って身を引く。 「逆! わかれよ、止まらなくなるって!」 「それって……マズイの?」 「明日、本番っ」 「……ぼくは大丈夫だと思うけど」 初めてのとき、ふらついても自力で歩いて帰れたことを思い、そう言ってみた。 「今、まだ夕方! 朝まで時間ありすぎ!」 「え――」 思わず窓のほうに目が行き、外を見るより先にグランドピアノが視界に入った。一瞬で頭が冷え、そろそろと自分の姿に目を戻して口を覆う。渡瀬は、いくらか乱れてはいても服を着たままだ。 「ぼ、ぼくは……っ!」 跳ね起きて、ソファの隅まであとずさる。シャツの前をかき合わせても、恥ずかしくてたまらない。やめようと言われてもねだったなんて、自分がひどくはしたなく感じられる。 「そんな、しなくても――」 呆れたような溜め息と共に渡瀬が言う。 「だから……かわいくて、たまらないんだ」 「え」 顔を上げたらキスにさらわれた。やわらかく唇を吸われるような、淡いキス――それでまた胸が甘く溶ける。 「渡瀬っ」 「明日……終わったら、うちに来て」 「――桧原」 「ぼくの部屋にも、やさしい思い出が欲しい」 「桧原……っ!」 郁也は自分から唇を寄せてキスをねだる。願ったとおりに返され、深く満たされた。 客席の照明が次々と落とされていく。学内ホールはほぼ満席で、薄闇に沈んでいく聴衆を前に、郁也は心地よい緊張に浸る。そっと目を閉じて呼吸を数えた。ほどなくして客席から惜しげない拍手が湧き上がる。目を開けば、まばゆく映るステージに指揮者と渡瀬が歩み出ていた。正装に身を包み、聴衆に礼をする広い背中を郁也は誇らしく見つめる。 渡瀬がピアノの前に着き、指揮台に指揮者が立つと、すっと空気が張り詰めた。絶妙のタイミングで指揮棒が振り下ろされる。 静かに、緊迫感に満ちて始まる第一楽章――郁也は、ゆったりと音楽の海に 音楽を愛する者には、ただ幸せな時間――。 定期公演の聴衆は、学生や大学職員や近隣の住人が大半だ。だがそれは、大した意味を持たない。誰もが音楽を楽しみたくて、ここにいることを郁也は思う。 奏でる者と聴く者とのハーモニー。そして、奏でる者同士のハーモニー。 ソロでは知り得ない歓びだった。何十人もの奏でる音が一体となって、ひとつの音楽を生み出している。その実感が、合同練習のときとは比べようもない強さで胸に迫ってくる。今ここに自分がいることが、渡瀬がいることが誇らしくてならない。 自分たちは、音楽でも調和する。練習室で合わせたときにも強く感じた。渡瀬と思いが通じ合ってからは、恋もハーモニーと知った。好きでならない人と、体でも心でも響き合える歓び――。 郁也のヴァイオリンは澄んで高らかに歌う。オーケストラに溶けて、渡瀬への思いを乗せて。渡瀬のピアノも、情感に満ちて艶やかに歌った。 そうして至福の時間は終わりを遂げ、驚くほどの拍手に包まれる。そうなって、郁也は現実に戻った。まわりの誰もがこっそり視線を交わし、明るくほほ笑んでいた。 「今日ったら、もう最高!」 ステージを引いて楽屋に向かう廊下に出ても、誰も興奮が冷めない。藤野がはしゃいで、相手構わず笑顔を振りまいている。 「ホント、よかったよ。昨日はどうなるかと思った。郁也が高槻先生に走ってくの見て、みんなびっくりしてたんだよ」 「え」 いきなりそんな話を振られ、郁也は焦る。 「リハのことで何か言いに行ったんだ、って。渡瀬くんと水谷くんが追いかけていったから、マジにヤバすぎって、みんな騒いでた」 「……ごめん」 何を言われても仕方ない状況だったわけで、今さらながら恥じ入った。 「でも、今日は郁也も最高だったよ。澄んで気持ちよく響いてたし、今もいい顔してるし、なんかキラキラしてる」 「え――」 そんなつもりは少しもないのに、ふわっと頬が赤く染まったと自分でわかった。 「やん、もしかしてラブラブになったとか?」 「ら、ラブラブって――」 昨日のことが思い出され、頭がいっぱいになる。演奏の高揚も尾を引いていて、胸がドキドキして抑えられなくなった。 「え……? ちょ、郁也――」 見る間に藤野の頬までほんのりと染まる。楽屋に向かう正装の集団にいて、ふたりして足が止まった。 「えーと。藤野さん?」 先を行ったはずの渡瀬が笑顔で口を出してきた。郁也を引き寄せるように肩に手を回す。 「彼氏いるんでしょ? 嫉妬されない?」 「え? なんで渡瀬くん? て言うか、渡瀬くんが言う? 渡瀬くんだから?」 驚いて郁也は藤野を見る。藤野には、自分が渡瀬とつきあい始めたことさえわかるのか。 「……え、なに郁也? だって渡瀬くんって言ったら、ピアノ科で超有名なタラ――」 渡瀬の大きな手が、いきなり藤野の口をふさいだ。藤野も郁也も思いきり目が丸くなる。 「や、やめてよっ。私には彼氏いるって、今、自分で言ったじゃない!」 渡瀬の手を払って、藤野は真っ赤になって駆け出す。郁也が唖然と見送る先で、上条の腕に後ろから抱きついた。 郁也は黙って渡瀬を見上げる。気まずそうに笑う顔が、すべてを物語っている。 「彼女いるの?」 ふと口をついた問いに、渡瀬は目をむいた。 「いないって!」 ――そうなんだ。 なんとなく、そう思った。いてもおかしくないと、無意識で思っていたのだろうか。 ……水谷には、むちゃくちゃ嫉妬したのに。 自分のことながら、よくわからない。 けど、なんて言うか、渡瀬はああいうこと慣れてるみたいで――。 初めて抱かれたときを思って顔が熱くなる。 「あの……桧原?」 困り果てたように渡瀬が呼ぶ。 「彼女はかなりいたけど、自分がわかってなかっただけで、男は桧原が初めてだし、俺は浮気とか二股とかは――」 「今は、ぼくが好き?」 目を合わせて問えば、耳に唇を寄せてきた。 「すごく好き、ずっと好き、今キスしたい」 郁也は笑ってしまう。こんな渡瀬が好きだ。ぼくもしたいと返したかったが、何も言わずに先に歩き出した。 「桧原……?」 「第二楽章がアダージョ・カンタービレなら、第一楽章はアレグロ・コン・ブリオだったね」 「――え」 隣に来て、渡瀬はきょとんとした顔になる。 『アレグロ・コン・ブリオ』とは、『輝きをもって速く』という意味だ。もちろん自分たちのことを言った。そんなたとえをしたのは渡瀬が先だ。 「第三楽章は、どんな感じにするつもり?」 渡瀬は歩みを止めずに一度じっと目を覗き込んできた。そうして、フッと口元で笑う。 「ロンドで、アンダンテ・コン・モート」 やわらかく耳をくすぐった低い声に痺れた。 「――いいね。ぼくもロンドがいい」 うっとりと郁也は返す。『アンダンテ・コン・モート』は『気楽にのんびりと』という意味で、『ロンド』は『輪舞曲』と説明されることもあるように、主題となる旋律が何度も繰り返される楽曲形式を言う。 「何度も何度も繰り返し重ねて、第三楽章は終わりがなければいい」 渡瀬とのこれからを思って、そう言った。 「ちょ、桧原――」 なのに、渡瀬はうろたえた声を出す。 「……そういうこと、さらっと言うから」 今度は郁也がきょとんとした。しばしの間のあと、何を言われたか思い当たって、カッと頬が熱くなる。 「そ、そ、そういう意味じゃ……!」 決して、エンドレスで抱かれたいと言ったわけではない。しかし渡瀬が昨日たとえたのはセックスの行為自体だった。 「ぼ、ぼくは、これからのことを言って――」 「あー……そう――」 渡瀬まで頬を染めて、なんとも間の抜けた返事を聞かせる。でも郁也は、気まずいような、照れくさいような、こんな空気も渡瀬となら心地いいと感じる。 好きな人ができて、好きになってもらえると、こんなふうになるんだ――。 「おーい! 早く着替えろ、打ち上げ行くぞ」 楽屋の前から呼ばれた。その先の更衣室に次々と人影が消えていくのが目に映り、郁也は足を速める。 「な、打ち上げ、スルーしない?」 歩調を合わせてきて、ぼそっと渡瀬が言うから、また笑ってしまった。 「無理でしょ。渡瀬は今日の主役だし」 「けど――」 不服そうな顔をまぶしく振り仰いだ。 「これからは、アンダンテじゃなかったの?」 「そのつもりだったけど……」 諦めたように渡瀬は小さく吐息を落とす。 「最初から段階踏もうと思ってたんだ。桧原のことマジ好きだから、食事したり、デートしたり、そういうことからやり直そうと――」 パタッと郁也は足を止める。数歩行きすぎて、渡瀬も立ち止まった。 「桧原?」 目に映る廊下に、今は自分たちのほかに誰もいない。郁也は渡瀬の前まで進むと、伸び上がってキスをした。 「ひ、ばら……」 頬が熱い。胸が高鳴って甘く満ちる。 「郁也でいいよ。弦楽科は、みんな郁也って呼んでる。ぼくのほかに日原がいるから」 「じゃなくて――」 目をしばたたかせる渡瀬が郁也はかわいい。 「打ち上げが終わったら、一緒にうちに来て。ブーイングされても、二次会には出ないで。ぼくが待てない」 言い切った途端に強く抱きしめられた。熱に浮かされて郁也はささやく。 「これからはアンダンテで、って言ってくれて、すごくうれしい。でも、食事やデートは明日からにしよう――?」 「ったく……エロかわいいっての」 吐息交じりに低く耳に吹き込まれ、たまらない気持ちでいっぱいになった。 「渡瀬……好き。すごく好き。ぼくは、まだ何もわかってないから、ひとつひとつ教えて」 「だからっ!」 抱きしめる力をぎゅっと強め、渡瀬は間近から目を覗き込んでくる。 「――わかってるから言うなよ。俺が止まらなくなっちゃうだろ。マジ、一からやり直し」 「――うん」 「ちゃんと行くから。今夜は……アンダンテ・コン・モートで」 熱くときめいた。気楽にのんびりと、じっくり、たっぷり、渡瀬に抱かれるのだろう。 「うれしい……」 そっと声に漏らし、今一度キスの雰囲気を感じて郁也は目を閉じかける。だが渡瀬は、肩を落として抱きしめていた腕を解いた。 「なんかもう……俺、ぜんぜん自信ない」 「なに言って――」 「も、いいや。こんな溺れるなんて、桧原が初めてだし。桧原、すごくいいよ――郁也か」 あ――。 ひたりと自分に据えられた眼差しに、背筋がゾクッとした。郁也は胸の高鳴りを聞く。 「渡瀬――」 そうだった――あの夜にも見た眼差しだ。男くさくて、ひどく色っぽい。 「ほら、行こう。とりあえず打ち上げだ」 すっと差し出された手に、胸がいっぱいになった。その手を取り、もう片方の手には弓とヴァイオリンがあることを郁也は思う。 きっと、これからも、こうして――。 「あー、まだヴァイオリン持ってる!」 藤野の声がして、ギクッとして顔を向けた。更衣室からバラバラと数人が出てきたところで、あたりまえに誰も着替え終えている。 「もう! おっそーい!」 「ごめん――」 自分が今どんな顔をしているかを思って、郁也はとんでもなく恥ずかしい。いろいろと藤野に知れるのも、時間の問題に思えてくる。 それなのに渡瀬は手を離さなかった。楽屋に急ぎ、藤野たちに続いて中に入ろうとして止まった。 「また、あとで」 振り向いて甘くささやき、手を離した。 「――うん」 また、あとで。これからは、アンダンテで。 歩む速さで、じっくりとつきあっていければいいと思う。渡瀬と同じテンポで。 思いを込めて渡瀬を見つめ返せば、渡瀬は蕩けそうな笑顔に変わる。郁也も蕩けそうな笑顔を渡瀬に返した。 おわり ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ