Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    恋のエチュードもきみと
    ‐5‐




     四


     学内のホールにショパンの『ピアノ協奏曲第二番』が響き渡る。始まりの緊迫感に満ちた旋律、めりはりが利いて統率された音の束、そこに軽やかにも情熱的に重なりくるピアノの音色――完成された響きのようでいて、しかし郁也の耳には物足りなく感じられた。
     リハーサルということもあって、最後までストップが掛けられなかったのだと思った。指揮者も指揮科の学生で、指導担当の講師がすぐにやってきて、ひそひそと何か話し始める。それが、自分にも聞こえるようだった。
     悪くない演奏だったが、いろいろなところが微妙だった。たとえば自分のヴァイオリン。前回の合同練習で悲鳴みたいと藤野に言われたが、今日は特にそうだったと自分で思う。緊迫感を乗せたにしてもぎりぎりで、いっそヒステリックにも感じられる響きだった。
     ……心に、余裕がないから。
     水谷を連れて自宅マンションに入っていく渡瀬の姿が、頭にこびりついて離れない。
     あのときから重く暗い感情が胸の底に沈んでいる。ヴァイオリンを弾いても、好きな曲を聞いても、いっそピアノを弾いても消えてなくならなかった。だから、ヴァイオリンが泣いてならない。
     それでも、自分は第一ヴァイオリンで他のメンバーがいるから、まだどうにかできると思う。渡瀬のほうが危うそうだ。
     いつもの大らかな伸びが感じられなかった。今までには一度もなかったことだ。ショパンの持ち味のきらびやかさにも欠けて、そつなく弾こうとして委縮したような演奏だった。
     突然の変化で、何かあったのではないかと思われる。本番を明日にして、指揮者も指導担当の講師も対処に迷っている様子だ。
     ここでは何も言わないのが一番、か――。
     自分がそうだ。慰めも叱咤も、今は何にもならない。自力で乗り越えるしかない。
     ひとまず指揮者からいくつか駄目出しがされて、やはり渡瀬の演奏には触れなかった。もう一度通して演奏して、その後は何もなく解散になった。
     それぞれ楽器を持ってステージを去り始めるが、渡瀬はピアノの前から動かない。その姿は誰の目にも入るはずなのに、容赦のないささやきが郁也の耳にまで届く。
    「明日、大丈夫かな」
    「これって、単位もらえても成績違ってくるんだっけ?」
    「マジ? ……かなりヤバくない?」
    「でも本番に強いとか……あるよな?」
    「お願いしたい気分」
    「バカ、やめろって。つか、誰にするんだよ」
    「……だよね」
     さっさとステージを去ればよかったのだ。思うが、郁也も椅子から立てずにいた。
     みんな、リハーサルに不安あるって……?
     ささくれ立っていた神経がざわつき、自制できないほどの焦燥に襲われる。自分ひとりの音がどの程度オーケストラに影響するか、今は考える余裕もないし、考えて妥協するのも嫌だし、何より、自分の音をコントロールできていない焦りが強い。
     ――こんなはずじゃ、なかったんだ!
     オーケストラではオーケストラの弾き方がある。それができるように、一ヶ月余り努力してきた。その成果を披露する本番を明日に、なぜ最悪の状態になっているのか。
     途方に暮れそうな思いで、ほとんど無人の客席に目を向けた。土曜日の午後でも見学の学生がちらほらいたが、今は指導担当の講師や教授が目につくばかりだ。顔を寄せ合って話している指揮科の講師の横に高槻が見えた。
    「郁也――」
     腫[は]れものに触れるような藤野の声がして、思わず立ち上がった。水谷が目に入り、渡瀬に近づくと知って激情が突き上げた。
     駆け出す勢いでステージの端まで行き、そこから客席に降りる。高槻を座っていた席に探すより早く、扉に向かう後ろ姿が目に飛び込み、一目散に追う。
     ホールの外に出る直前で追いついた。片手にヴァイオリンを持ったまま、郁也は高槻の腕を捕らえる。ひどく驚いた顔が振り向き、目が合うが、郁也は喉が震えて声が出ない。
     言いたいことは確かにあって、口まで出かかっているのに伝える言葉が見つからない。焦りに焦って、ひたすらに高槻を見上げる。
    「――どうした、桧原くん」
     やわらかな笑みに顔を崩され、泣き出してしまいそうになった。その広い胸に抱きつきたい衝動に駆られ、同時に激しい拒絶が湧く。
    「そんな顔をして……声も出せないなんて、明日の本番が不安か? なにも、きみが不安に思うことはないだろう。ヴァイオリンは、第一も第二も、そろってよく響いていた」
    「そ、そうじゃなくて――」
     そうだったにしても、この心の乱れは収まらない。オーケストラの一員として弾けていても、胸が張り裂けそうなほど苦しい。
     高槻の自分を見下ろす眼差しが怪訝そうに揺らめくのを見て、どうにもならなくなった。
    「ぼくの、音が――」
     ヴァイオリンを持つ手まで高槻の腕に添え、郁也は両手ですがるようになってしまう。唇がわななき、たまらずに顔を伏せる。
    「桧原くん……」
     呆れたようにも突き放すようにも聞こえる声が頭上に落ちて、強く唇を噛んだ。
     助けてほしい――この苦しみから抜け出したい。抗いがたい強さで願いが突き上げるが、それは間違っていると理性が押し戻す。
     高槻は個人レッスンの講師で、一時は恋を錯覚もしたが、自分の指導者として深く信頼し、尊敬もしている。今は、それだけだ。
     しかし自分は抱かれて相手に惚れるなら、そうすることで渡瀬を忘れられるなら、高槻にすがってしまいたい。身を持て余すことがあるなら高槻に預けろと、高槻本人が言った。
     ……身を持て余すのとは違うと思うけど!
     矛盾する思いにまみれ、本心が口をつく。
    「な、何もかも、忘れたい――忘れさせて!」
     絞り出た自分の声を耳にして、涙がこぼれた。顔を上げ、潤んだ視界に高槻を見る。
    「きみは――」
     目を細め、じっとりと高槻は見下ろしてきた。その眼差しに郁也は凍りつく。
    「すべてはヴァイオリンのため、か。きみも、そうなったか。――嫌いではないよ」
    「あ……」
     やっぱり無理だ、ヴァイオリンのためでも絶対に無理――思うが、高槻に腕を捕られる。
    「待てよ、桧原」
     低く、きっぱりとした声が背後で聞こえた。振り向いたそこに渡瀬を見て、声を上げそうになる。いつからいたのか、どこから聞いていたのか、高槻は少しも動じずにいて――。
    「渡瀬、やめろって」
     その後ろに水谷まで見え、なかばパニックを起こす。
    「戻ろう、渡瀬。明日本番だし、マズイって」
    「んだよ、水谷が俺に言ったんだろ!」
     いつになく声を荒げ、渡瀬はきつく水谷を睨みつけた。水谷は大きくたじろぎ、渡瀬は郁也に目を戻してきて苦しそうに吐き出す。
    「嘘だと思ったけど――マジ、好きな人って」
    「ち、違……っ」
     咄嗟に返して、郁也は青ざめてくる。高槻に腕を捕られたままだ。
    「じゃなくて! 渡瀬には関係ないだろ!」
     どうしようもなく、感情が噴き出した。
    「水谷いるんだから、水谷と戻れよ!」
    「はあっ? 水谷のほうが関係ないだろ!」
     苛立って返され、頬が引きつる。
    「よく言う……なら、応援してるって言ったのは、何だったんだよ!」
    「何って――言うだろ、普通! 好きな人とうまくいったって、桧原が言ったんだから!」
    「ぼくのせいか、そうだね、最初からぼくが全部悪い。だったら、こんなとこまで何しに来てんだよっ!」
    「桧原……」
     唖然とする渡瀬の後ろで水谷が目をむいていた。思わず顔を背ける。
    「――なるほど」
     ひっそりと高槻がつぶやき、ビクッと肩が跳ねた。腕が放され、焦って高槻に向き直るが、まったく声が出ない。
     高槻は、まるで無表情でいた。いっそ冷ややかに郁也を見下ろし、淡々と言う。
    「身を持て余すならと言ったはずだ。面倒は受けつけないとも」
     コクッと喉を鳴らす郁也の背後で、渡瀬が低く唸った。
    「よくわかりました。桧原は連れていきます」
    「なっ!」
     たった今まで高槻に捕られていた腕を渡瀬に握られ、郁也は飛び上がりそうになる。
    「渡瀬、なに言って――」
    「もう限界なんだよっ! 終わったんなら、いいだろっ!」
     苛立たしそうに吐き捨て、渡瀬はステージに向かって強引に歩き出した。高槻が、目もくれずにホールを出ていく姿が郁也の視界の端に映る。水谷が呆然と突っ立つ横を過ぎ、しばらくしてから郁也はハッとなった。
    「水谷、いいのかよ――」
    「関係ない」
     渡瀬は振り向きもせずに言う。何人かが、ステージから見ていた。上条の背後に藤野を見つけ、郁也は慌ててもがくが、渡瀬は平然とステージに上がり、袖から楽屋へと大股で歩いていく。
    「ちょ、待てよ!」
     握られた腕を思いきり振って、郁也は足を止めた。だが渡瀬の手は離れず、大声が出る。
    「どういうことだよ! ぼくは連れてくとか、水谷は関係ないとか、ないだろ! 終わったとか、先生の前で!」
     やっと渡瀬は振り向くが、怒りとも苦痛ともつかない表情に顔を歪めていた。
    「あの先生がまだ好きだって言うなら、放す」
    「なに……それ」
     どうして渡瀬がそこまで言うのか、郁也は混乱してならない。高槻が好きだと、渡瀬に言った覚えはない。高槻とは何もない。心がくじけて傾きかけたが、絶対に無理だった。
     ぼくが好きなのは、渡瀬なのに……っ!
    「渡瀬には水谷がいるだろっ。今も追ってきてたし、このあいだは家に連れてったじゃないか! ぼくのことはずっと避けてたくせに、どうしてこんなときだけ構うんだよっ」
    「あたりまえだろっ」
     ぴしゃりと言い放ち、渡瀬は郁也を廊下の壁際に追い詰める。
    「桧原があんなこと言われるなんて、我慢できない。あんな先生に、桧原を渡せるかよ!」
     バンッと、壁に片手を叩きつけ、目の前に迫る渡瀬を郁也は泣きそうになって見つめた。
    「なに、言って……水谷がいるのに」
    「だから水谷は関係ないって! 水谷は――水谷に悪いから言いたくなかったけど、俺にコクっただけだって! はっきり断ったけど、話もしなくなるほうが変だろ。うちに来たのも、いきなり楽譜返せって――ああ、もうっ」
     渡瀬は忌々しそうに髪をかき上げる。
    「わかってるよ、俺が嫌なんだろ? 俺から話せば無視しないで話すけど、桧原から話すなんてないし。あのときも朝になったらいなくなってるし。そんなに嫌だったなら嫌って言えばいいのに、言わないから――桧原?」
     渡瀬の言うことがわからない。聞いているうちに足から力が抜けていった。壁に背を預けて、郁也はずるずると下がっていく。
    「ちょ、おい!」
     渡瀬に引き上げられるが、その手を払う。足を踏みしめ、ヴァイオリンを胸に抱き寄せ、壁際から抜け出した。楽屋へ走る。
    「桧原! 待てって!」
    「うるさいっ」
     中に飛び込み、まだ残っていた数人が驚いた目を向けてきたが、構わずにヴァイオリンをケースにしまった。足早に楽屋を出る。
    「桧原」
     そこに渡瀬を見ても、固く口を閉ざして先を急いだ。渡瀬には持ち運ぶ楽器がないのだから、楽屋の前で待ち構えられていても驚くことはなかった。
     どんなつもりか、渡瀬は黙って後ろについてきた。大学を出て家への道を辿り始めても背後にいた。
     郁也は深い溜め息をつく。自宅が近いのだから仕方ないと諦め、渡瀬の住むマンションがある横道に早く着かないかと思う。
     それでも走るのは悔しくて、黙々と歩いた。
    「え、なにっ?」
     まさにその横道に来たとき、ヴァイオリンを提げた腕を強く握られた。
    「渡瀬!」
     叫ぶが、横道に引きずり込まれる。
    「放せよ!」
    「嫌だ」
    「な……っ、明日のこと、考えろよっ!」
     限界だった。こんなことがまだ続くのでは、明日の本番までに気持ちを切り替えられない。
    「だからだろ。このままじゃ、俺が弾けない」
     耳を疑った。渡瀬を見るが、真顔だ。
    「そんな……ぼくは? ぼくは――帰る!」
    「駄目」
     たまらず郁也は身をひるがえすが、握られた腕を引き戻され、まばたきのあとには渡瀬に抱きすくめられていた。
    「帰さない。桧原に帰られたら、俺――」
     絞り出したような声が耳を掠め、ドクンと鼓動が跳ねる。
    「頼むから、嫌でも何でも、もう俺にしてっ」
    「な、に、言って……」
     つぶやいてみても、驚いて瞠った目は肩に顔をうずめる渡瀬の髪を映している。
    「桧原が忘れられない」
     低いささやきが、首筋を熱くくすぐった。
     これって――。
     鼓動が急激に高まるのを感じる。渡瀬の鼓動も速いと気づき、息が詰まりそうになる。
     ……でも。
     ためらいを捨てきれない。信じたいのに、幸せが大きすぎて素直に信じられない。
    「あのこと……後悔してたんじゃないの?」
     自分で言って、胸がすっと冷えた。
    「あたりまえだろっ」
     渡瀬は小さく吐き出す。だがいっそう強く抱きしめてきた。
    「起きたらいなくて、ものすごく後悔した!」
     ……え?
    「好きな人いるって聞いてたのに、あんだけがっついたんだから怒るのもあたりまえで、けど、マジに止まらなかったんだ」
     郁也は眉をひそめる。何を言われたのか。
    「俺が誘わなかったら誰かとしちゃいそうで、だったら俺がって、そんな気持ちだったのに、何してもいいなんて、かわいくて……やりすぎた。――ごめん」
    「ちょ、待って! ぜんぜん怒ってないんだけど! て言うか、ぼくのほうが悪いだろっ」
     ようやく飲み込めて焦りまくって言えば、渡瀬は怪訝そうに顔を上げてくる。
    「ぼくがあんなこと言ったから、ああなったわけで、渡瀬は少しも悪く――渡瀬っ?」
     言い終わらないうちに、また腕を捕られた。渡瀬はずかずかと歩き出して、背中で言う。
    「その話、ちゃんと聞きたい」
     郁也は顔が熱くなる。返す言葉が見つからずに、ひたすらに広い背中を見つめて従った。


    つづく


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    素材:あんずいろ