四 学内のホールにショパンの『ピアノ協奏曲第二番』が響き渡る。始まりの緊迫感に満ちた旋律、めりはりが利いて統率された音の束、そこに軽やかにも情熱的に重なりくるピアノの音色――完成された響きのようでいて、しかし郁也の耳には物足りなく感じられた。 リハーサルということもあって、最後までストップが掛けられなかったのだと思った。指揮者も指揮科の学生で、指導担当の講師がすぐにやってきて、ひそひそと何か話し始める。それが、自分にも聞こえるようだった。 悪くない演奏だったが、いろいろなところが微妙だった。たとえば自分のヴァイオリン。前回の合同練習で悲鳴みたいと藤野に言われたが、今日は特にそうだったと自分で思う。緊迫感を乗せたにしてもぎりぎりで、いっそヒステリックにも感じられる響きだった。 ……心に、余裕がないから。 水谷を連れて自宅マンションに入っていく渡瀬の姿が、頭にこびりついて離れない。 あのときから重く暗い感情が胸の底に沈んでいる。ヴァイオリンを弾いても、好きな曲を聞いても、いっそピアノを弾いても消えてなくならなかった。だから、ヴァイオリンが泣いてならない。 それでも、自分は第一ヴァイオリンで他のメンバーがいるから、まだどうにかできると思う。渡瀬のほうが危うそうだ。 いつもの大らかな伸びが感じられなかった。今までには一度もなかったことだ。ショパンの持ち味のきらびやかさにも欠けて、そつなく弾こうとして委縮したような演奏だった。 突然の変化で、何かあったのではないかと思われる。本番を明日にして、指揮者も指導担当の講師も対処に迷っている様子だ。 ここでは何も言わないのが一番、か――。 自分がそうだ。慰めも叱咤も、今は何にもならない。自力で乗り越えるしかない。 ひとまず指揮者からいくつか駄目出しがされて、やはり渡瀬の演奏には触れなかった。もう一度通して演奏して、その後は何もなく解散になった。 それぞれ楽器を持ってステージを去り始めるが、渡瀬はピアノの前から動かない。その姿は誰の目にも入るはずなのに、容赦のないささやきが郁也の耳にまで届く。 「明日、大丈夫かな」 「これって、単位もらえても成績違ってくるんだっけ?」 「マジ? ……かなりヤバくない?」 「でも本番に強いとか……あるよな?」 「お願いしたい気分」 「バカ、やめろって。つか、誰にするんだよ」 「……だよね」 さっさとステージを去ればよかったのだ。思うが、郁也も椅子から立てずにいた。 みんな、リハーサルに不安あるって……? ささくれ立っていた神経がざわつき、自制できないほどの焦燥に襲われる。自分ひとりの音がどの程度オーケストラに影響するか、今は考える余裕もないし、考えて妥協するのも嫌だし、何より、自分の音をコントロールできていない焦りが強い。 ――こんなはずじゃ、なかったんだ! オーケストラではオーケストラの弾き方がある。それができるように、一ヶ月余り努力してきた。その成果を披露する本番を明日に、なぜ最悪の状態になっているのか。 途方に暮れそうな思いで、ほとんど無人の客席に目を向けた。土曜日の午後でも見学の学生がちらほらいたが、今は指導担当の講師や教授が目につくばかりだ。顔を寄せ合って話している指揮科の講師の横に高槻が見えた。 「郁也――」 駆け出す勢いでステージの端まで行き、そこから客席に降りる。高槻を座っていた席に探すより早く、扉に向かう後ろ姿が目に飛び込み、一目散に追う。 ホールの外に出る直前で追いついた。片手にヴァイオリンを持ったまま、郁也は高槻の腕を捕らえる。ひどく驚いた顔が振り向き、目が合うが、郁也は喉が震えて声が出ない。 言いたいことは確かにあって、口まで出かかっているのに伝える言葉が見つからない。焦りに焦って、ひたすらに高槻を見上げる。 「――どうした、桧原くん」 やわらかな笑みに顔を崩され、泣き出してしまいそうになった。その広い胸に抱きつきたい衝動に駆られ、同時に激しい拒絶が湧く。 「そんな顔をして……声も出せないなんて、明日の本番が不安か? なにも、きみが不安に思うことはないだろう。ヴァイオリンは、第一も第二も、そろってよく響いていた」 「そ、そうじゃなくて――」 そうだったにしても、この心の乱れは収まらない。オーケストラの一員として弾けていても、胸が張り裂けそうなほど苦しい。 高槻の自分を見下ろす眼差しが怪訝そうに揺らめくのを見て、どうにもならなくなった。 「ぼくの、音が――」 ヴァイオリンを持つ手まで高槻の腕に添え、郁也は両手ですがるようになってしまう。唇がわななき、たまらずに顔を伏せる。 「桧原くん……」 呆れたようにも突き放すようにも聞こえる声が頭上に落ちて、強く唇を噛んだ。 助けてほしい――この苦しみから抜け出したい。抗いがたい強さで願いが突き上げるが、それは間違っていると理性が押し戻す。 高槻は個人レッスンの講師で、一時は恋を錯覚もしたが、自分の指導者として深く信頼し、尊敬もしている。今は、それだけだ。 しかし自分は抱かれて相手に惚れるなら、そうすることで渡瀬を忘れられるなら、高槻にすがってしまいたい。身を持て余すことがあるなら高槻に預けろと、高槻本人が言った。 ……身を持て余すのとは違うと思うけど! 矛盾する思いにまみれ、本心が口をつく。 「な、何もかも、忘れたい――忘れさせて!」 絞り出た自分の声を耳にして、涙がこぼれた。顔を上げ、潤んだ視界に高槻を見る。 「きみは――」 目を細め、じっとりと高槻は見下ろしてきた。その眼差しに郁也は凍りつく。 「すべてはヴァイオリンのため、か。きみも、そうなったか。――嫌いではないよ」 「あ……」 やっぱり無理だ、ヴァイオリンのためでも絶対に無理――思うが、高槻に腕を捕られる。 「待てよ、桧原」 低く、きっぱりとした声が背後で聞こえた。振り向いたそこに渡瀬を見て、声を上げそうになる。いつからいたのか、どこから聞いていたのか、高槻は少しも動じずにいて――。 「渡瀬、やめろって」 その後ろに水谷まで見え、なかばパニックを起こす。 「戻ろう、渡瀬。明日本番だし、マズイって」 「んだよ、水谷が俺に言ったんだろ!」 いつになく声を荒げ、渡瀬はきつく水谷を睨みつけた。水谷は大きくたじろぎ、渡瀬は郁也に目を戻してきて苦しそうに吐き出す。 「嘘だと思ったけど――マジ、好きな人って」 「ち、違……っ」 咄嗟に返して、郁也は青ざめてくる。高槻に腕を捕られたままだ。 「じゃなくて! 渡瀬には関係ないだろ!」 どうしようもなく、感情が噴き出した。 「水谷いるんだから、水谷と戻れよ!」 「はあっ? 水谷のほうが関係ないだろ!」 苛立って返され、頬が引きつる。 「よく言う……なら、応援してるって言ったのは、何だったんだよ!」 「何って――言うだろ、普通! 好きな人とうまくいったって、桧原が言ったんだから!」 「ぼくのせいか、そうだね、最初からぼくが全部悪い。だったら、こんなとこまで何しに来てんだよっ!」 「桧原……」 唖然とする渡瀬の後ろで水谷が目をむいていた。思わず顔を背ける。 「――なるほど」 ひっそりと高槻がつぶやき、ビクッと肩が跳ねた。腕が放され、焦って高槻に向き直るが、まったく声が出ない。 高槻は、まるで無表情でいた。いっそ冷ややかに郁也を見下ろし、淡々と言う。 「身を持て余すならと言ったはずだ。面倒は受けつけないとも」 コクッと喉を鳴らす郁也の背後で、渡瀬が低く唸った。 「よくわかりました。桧原は連れていきます」 「なっ!」 たった今まで高槻に捕られていた腕を渡瀬に握られ、郁也は飛び上がりそうになる。 「渡瀬、なに言って――」 「もう限界なんだよっ! 終わったんなら、いいだろっ!」 苛立たしそうに吐き捨て、渡瀬はステージに向かって強引に歩き出した。高槻が、目もくれずにホールを出ていく姿が郁也の視界の端に映る。水谷が呆然と突っ立つ横を過ぎ、しばらくしてから郁也はハッとなった。 「水谷、いいのかよ――」 「関係ない」 渡瀬は振り向きもせずに言う。何人かが、ステージから見ていた。上条の背後に藤野を見つけ、郁也は慌ててもがくが、渡瀬は平然とステージに上がり、袖から楽屋へと大股で歩いていく。 「ちょ、待てよ!」 握られた腕を思いきり振って、郁也は足を止めた。だが渡瀬の手は離れず、大声が出る。 「どういうことだよ! ぼくは連れてくとか、水谷は関係ないとか、ないだろ! 終わったとか、先生の前で!」 やっと渡瀬は振り向くが、怒りとも苦痛ともつかない表情に顔を歪めていた。 「あの先生がまだ好きだって言うなら、放す」 「なに……それ」 どうして渡瀬がそこまで言うのか、郁也は混乱してならない。高槻が好きだと、渡瀬に言った覚えはない。高槻とは何もない。心がくじけて傾きかけたが、絶対に無理だった。 ぼくが好きなのは、渡瀬なのに……っ! 「渡瀬には水谷がいるだろっ。今も追ってきてたし、このあいだは家に連れてったじゃないか! ぼくのことはずっと避けてたくせに、どうしてこんなときだけ構うんだよっ」 「あたりまえだろっ」 ぴしゃりと言い放ち、渡瀬は郁也を廊下の壁際に追い詰める。 「桧原があんなこと言われるなんて、我慢できない。あんな先生に、桧原を渡せるかよ!」 バンッと、壁に片手を叩きつけ、目の前に迫る渡瀬を郁也は泣きそうになって見つめた。 「なに、言って……水谷がいるのに」 「だから水谷は関係ないって! 水谷は――水谷に悪いから言いたくなかったけど、俺にコクっただけだって! はっきり断ったけど、話もしなくなるほうが変だろ。うちに来たのも、いきなり楽譜返せって――ああ、もうっ」 渡瀬は忌々しそうに髪をかき上げる。 「わかってるよ、俺が嫌なんだろ? 俺から話せば無視しないで話すけど、桧原から話すなんてないし。あのときも朝になったらいなくなってるし。そんなに嫌だったなら嫌って言えばいいのに、言わないから――桧原?」 渡瀬の言うことがわからない。聞いているうちに足から力が抜けていった。壁に背を預けて、郁也はずるずると下がっていく。 「ちょ、おい!」 渡瀬に引き上げられるが、その手を払う。足を踏みしめ、ヴァイオリンを胸に抱き寄せ、壁際から抜け出した。楽屋へ走る。 「桧原! 待てって!」 「うるさいっ」 中に飛び込み、まだ残っていた数人が驚いた目を向けてきたが、構わずにヴァイオリンをケースにしまった。足早に楽屋を出る。 「桧原」 そこに渡瀬を見ても、固く口を閉ざして先を急いだ。渡瀬には持ち運ぶ楽器がないのだから、楽屋の前で待ち構えられていても驚くことはなかった。 どんなつもりか、渡瀬は黙って後ろについてきた。大学を出て家への道を辿り始めても背後にいた。 郁也は深い溜め息をつく。自宅が近いのだから仕方ないと諦め、渡瀬の住むマンションがある横道に早く着かないかと思う。 それでも走るのは悔しくて、黙々と歩いた。 「え、なにっ?」 まさにその横道に来たとき、ヴァイオリンを提げた腕を強く握られた。 「渡瀬!」 叫ぶが、横道に引きずり込まれる。 「放せよ!」 「嫌だ」 「な……っ、明日のこと、考えろよっ!」 限界だった。こんなことがまだ続くのでは、明日の本番までに気持ちを切り替えられない。 「だからだろ。このままじゃ、俺が弾けない」 耳を疑った。渡瀬を見るが、真顔だ。 「そんな……ぼくは? ぼくは――帰る!」 「駄目」 たまらず郁也は身をひるがえすが、握られた腕を引き戻され、まばたきのあとには渡瀬に抱きすくめられていた。 「帰さない。桧原に帰られたら、俺――」 絞り出したような声が耳を掠め、ドクンと鼓動が跳ねる。 「頼むから、嫌でも何でも、もう俺にしてっ」 「な、に、言って……」 つぶやいてみても、驚いて瞠った目は肩に顔をうずめる渡瀬の髪を映している。 「桧原が忘れられない」 低いささやきが、首筋を熱くくすぐった。 これって――。 鼓動が急激に高まるのを感じる。渡瀬の鼓動も速いと気づき、息が詰まりそうになる。 ……でも。 ためらいを捨てきれない。信じたいのに、幸せが大きすぎて素直に信じられない。 「あのこと……後悔してたんじゃないの?」 自分で言って、胸がすっと冷えた。 「あたりまえだろっ」 渡瀬は小さく吐き出す。だがいっそう強く抱きしめてきた。 「起きたらいなくて、ものすごく後悔した!」 ……え? 「好きな人いるって聞いてたのに、あんだけがっついたんだから怒るのもあたりまえで、けど、マジに止まらなかったんだ」 郁也は眉をひそめる。何を言われたのか。 「俺が誘わなかったら誰かとしちゃいそうで、だったら俺がって、そんな気持ちだったのに、何してもいいなんて、かわいくて……やりすぎた。――ごめん」 「ちょ、待って! ぜんぜん怒ってないんだけど! て言うか、ぼくのほうが悪いだろっ」 ようやく飲み込めて焦りまくって言えば、渡瀬は怪訝そうに顔を上げてくる。 「ぼくがあんなこと言ったから、ああなったわけで、渡瀬は少しも悪く――渡瀬っ?」 言い終わらないうちに、また腕を捕られた。渡瀬はずかずかと歩き出して、背中で言う。 「その話、ちゃんと聞きたい」 郁也は顔が熱くなる。返す言葉が見つからずに、ひたすらに広い背中を見つめて従った。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ