Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    六月の花嫁
    −1−



     いまだ熱を持て余す体をベッドに沈め、倖人[ゆきひと]は深く呼吸を繰り返す。聞くともなしに慎司[しんじ]の声が耳に低く流れてきて、胸だけが冷えていくようだった。
    「だから、なんで電話してくんだよ。そっちがドタキャンしたんだろ。急用じゃなかったのか? なんで電話できてんだよ」
     ケータイで話している相手は佐緒里[さおり]だ。確かめなくてもわかる。こんなときにも慎司が電話に出る相手と言ったら佐緒里しかいない。
     今夜、慎司が急に訪ねてきた理由がわかったように思えた。慎司とは高校生のときからのつきあいだが、その頃は普通に親友だった。関係が崩れたのは同じ大学に通っていた四年のあいだで、それぞれに就職してからは顔を合わせることさえ格段に減ったのに、二年が過ぎようとする今では、会えば必ず抱き合うまでになっている。
     それも仕方ないと倖人は思う。仕方がないのだ、自分にも慎司にも。まったくの親友に戻れる機会はこれまでにも何度もあったのに、どちらもそれができないできたのだから。
    「だから! どう考えたらそうなるんだよ。俺のせいじゃないだろ? ドタキャンしてきたのはそっちなんだし、ほかのヤツと俺が会ってたって文句ねえんじゃねえの? だから倖人だって。なんでわからないかな」
    「貸して」
     だんだんと苛立っていく慎司の声を聞くのでは居たたまれなかった。倖人は、裸の広い背に向けて手を伸ばす。ベッドの端に腰かけたまま、肩越しに慎司が振り向いた。気まずそうに顔を歪めるのを見て、強引にケータイを奪った。
    「久しぶり。最近、どう? 仕事忙しい?」
     仰向けに身を返し、倖人はことさら明るく話しかけた。苦い顔で慎司が覗き込んでくる。
    「うん、そう。慎司が来たの、九時ごろかな。ぼくも今日は残業なかったから、一緒に買い出し行って飲んでたところ」
     佐緒里にはそう言いながら慎司に目を向けた。すっと細めて微笑みかける。ムッとしたように眉が寄るのを見て口元で笑った。
    「このあと? 泊まるんじゃない、明日は土曜日で休みだし。帰るように言ったほうがいい? べつに、そんなふうには思わないよ」
     気安く受け答えしながら慎司の頬に触れる。なだめるかのように、そっと撫でた。その手が捕らえられ、手のひらに口づけられる。やわらかく温かな感触に、ズキッと胸が痛んだ。
    「て言うか……そんなに心配なら、もう決めたらどう? うん、結婚しちゃえば?」
     そう言った途端、手のひらをなぞっていた唇の動きが止まった。手首を掴んでいた手にぎゅっと力が入る。
    「冗談で言うわけないじゃない、こんなこと。つきあって四年だっけ? ん……早すぎでもないでしょ、まだ二十四でも」
     さらに強く手首を握られ、顔を横に背けた。静かに目を閉じて、ケータイに耳を傾ける。
    「うん――もちろん、そうだ。ぼくが何か言えることじゃない。だけど、ぼくも慎司には幸せになってほしいし。あたりまえじゃない、そう……高校のときからの親友だもの。え、慎司? 今キッチンにいる。聞こえてないよ。なんか拗ねてるっぽいから、また改めて電話したら? うん――じゃ、おやすみ」
     ケータイを閉じたら溜め息がこぼれた。それまで息をひそめていた慎司が低くうなる。
    「どういうことだ」
     どういうことも何もない。佐緒里との会話を聞いていたのだからわかっているはずだ。倖人は、うつろな目で慎司を見上げる。
    「本当のことを話したほうがよかった? 慎司は裸でぼくのベッドにいるって」
     慎司はぐっと眉を寄せて倖人を睨むように見る。
    「だからって、佐緒里をそそのかすことまで言わなくたっていいだろ」
    「本心だけど」
    「倖人――」
     部屋は薄暗く静かだった。春まだ浅い夜を暖めるエアコンのうなりがかすかに聞こえる。ベッドの枕元に小さなスタンドが灯っているだけで、その仄かな明かりが倖人を覗き込む慎司の顔を頼りなく照らしている。
     倖人はつまらなそうに目をそらし、浅く息を漏らした。すぐそこにあるローテーブルの上は食べ散らかされたままで、ベッドの下にはふたり分の衣服が乱れている。
     佐緒里に明かされた事実と隠された事実、それに嘘がない交ぜになった、淫猥な光景。悲しくなった。
    「……倖人」
     甘くひそやかに呼ばれ、倖人はうつ伏せになって枕に顔をうずめた。被さってきた慎司の体温を裸の背に感じる。ずっしりと、たくましい重みで押し潰された。そのぬくもりがせつなくて、涙が滲みそうになる。
    「ごめん。俺、最低だよな」
     何を今さら謝るのかと思った。慎司が最低なら、自分は輪をかけて最低だ。
     肩を抱きしめられ、唇で髪を払われ、頬にキスされる。繰り返し、やわらかく何度も。
     せり上がる気持ちは抑えられるはずもなく、また抑える気にもなれず、倖人は顔を上げた。たちまちのうちに熱っぽいキスにさらわれる。
     再び始まった行為に何も変えられることはないとわかっていても、倖人は溺れて現実を忘れる。慎司といつまでもこんなことをしていられるはずがなかった。五年もの歳月を費やしても答えを出せないでいるのだから。
     でも、やっぱりやめられない。
     慎司との始まりは高校二年の春だった。初めて同じクラスになって、すぐに打ち解けた。それぞれに他の友人とも親しくつきあう合間を縫って、いつしか互いに特別な存在になっていった。
     卒業しても同じ大学に行けたらいいと何度も話してはいたが、現実にそうと決まったときには、それこそ手を取り合って喜んだ。どちらも自宅通学で、大学に入ってからは以前にも増して親密につきあうようになった。
     その年の夏休みにはふたりで自転車旅行に出かけた。都心の熱さから逃れるように東北を目指す、そんな気まぐれな思いつきだった。
     宿も決めずに、気の向くまま海岸線を北上して自転車を走らせた。キャンプ場や民宿を転々とできるなら文句はなく、場合によっては野宿もするつもりでいた。
     旅立って四日目だったはずだ。陽が落ちてから慎司の自転車がパンクした。途方に暮れるどころかふたりで笑い出してしまい、その日は近くの浜辺で夜を明かすことにした。
     どのあたりの海水浴場だったのか、夜がふけても人影が絶えず、ふたり並んで砂浜に腰を下ろし、見知らぬ人々が花火に興じる様子を遠くから眺めた。やがて誰もいなくなり、夜の海が恐ろしいほど黒々と目に映るようになってから、防砂林の陰に移って身を寄せて眠った。波の音が眠りの中でも聞こえ、それは永遠の響きのように胸の底に残った。
     翌日は日の出とともに鳴き出した鳥の声に起こされた。色のなかった海を鮮やかに染めながら、水平線をきらめく光に濡らして昇る太陽に目を奪われた。誘われるように砂浜に出て、その光景を見つめて立ち尽くした。
     そのときに慎司の吐息が倖人の耳を掠めた。倖人はドキッとするものがあって、恐る恐る顔を向けた。海風に髪を散らされる陰で、慎司の目がやわらかく笑っていた。倖人も吐息をこぼし、近づいてくる慎司の唇に引き寄せられるようにして顎を上げた。
     重なった瞬間の甘酸っぱく突き抜けた感覚は、五年が過ぎた今でも鮮やかによみがえる。あのときに、あの感情に、ふたりで名前を与えていられたなら、それからの日々は違ったものになっていたのだろうか。
     しかし重なった唇はすぐに離れ、気まずい思いに取り残された。いっそのこと、言い訳でもすればよかったのかもしれない。互いに声もなくその場を離れると、前日までと変わらない一日が始まった。海水浴場のシャワーを使い、コンビニで朝食を調達する。時間を見計らって町に出て自転車のパンクを直し、それからは、また海岸線に沿って北上した。
     それなのに倖人は、日暮れが近づくにつれて夜明けに味わった一瞬の感覚に支配されていくようで、その日は民宿に泊まろうと慎司に言われたときも、どこか夢見心地で頷いた。
     宿が取れて部屋に入り、風呂も夕食も済ませ、ひととおりくつろいで明かりを消した。それぞれに蒲団に入ってからも、ひとしきり話して笑い合った。だが倖人は、そうしたあとになってもなかなか寝つけなかった。慎司も同じように眠れないでいると気づいて顔を向けたら、薄闇を裂いて手が伸びてきた。
     ためらいは確かにあった。自分だけでなく、慎司もためらっていると倖人にはわかっていた。それでも唇は重なり、手は相手の素肌を探り始めた。どうあっても止まらなかった。だから、抱き合っても互いに言葉を発せず、気まずさだけに彩られていきながら、相手の興奮を手に包み、互いの快感を追い求めた。そうして、これまでにないほどの絶頂に果て、だが拭いようのない後ろめたさを感じた。
     翌日目が覚めたときには別々の蒲団にいて、起き上がるのも待てない様子で、旅行は今日で終わりにしようと慎司が言うのを倖人は上掛けを引き寄せた陰で聞いた。異論はなかった。ただ、たまらなく淋しいだけだった。
     その後しばらくは何もなかった。旅行から帰ったあとは、ふたりともアルバイトに忙しかったこともあって、時間を作って夏休み中に会おうとまではしなかった。しかし倖人は、あの日の出来事がいっそう鮮明になっていくようで、それは自分だけで慎司は違うのかと思うとやけに悲しかった。
     後期が始まり、ふたりはまた学内で会うようになった。慎司の態度は夏休み前と変わらず、やはり慎司はあの出来事をなかったことにしたいのだと倖人は思った。慎司がそのつもりなら、自分もそうしていられると思った。
     だが、長くは続かなかった。
    「俺がこんなことしたら、怒る?」
     慎司はずるいと倖人は思う。慎司の部屋にふたりきりになる状況を作り上げ、先に触れてきておきながら、倖人がたまらなくなってキスするのを待ち、股間に手をもぐらせてきたのだから。
     初めてのときとは違った。ためらいを打ち消しながら探る手つきではなく、明確な意図をもって求めてくる手つきだった。
    「怒る? 倖人――」
     それはもう甘いささやきでしかなく、秋の温度に冷やされた木の床に押し倒されていきながら、やっぱり慎司はずるいと倖人は思った。そんなふうにされて歓びに染まっていく自分を慎司はしっかり見て取っていた。
    「は、あん」
    「やっぱ、色っぽい……エロいよ、倖人――」
     慎司のほうが、よほどいやらしかった。あれほど素知らぬ顔を通してきたのに、急に男の自分に欲情して、これまで親友だった相手に欲情して、どこか荒っぽく、どこか忙しなく、何かに怯えるかのように熱っぽく自分を貪った。
    「ん、あ、ああっ!」
     だけど、歓んで声を上げ続けた自分のほうが、はるかにずるかった。慎司が胸に抱える後ろめたさに乗っかって、自分だけ逃げようとしていた。キスはしたけど体まで求めたのは慎司だ。自分じゃない。あの夜とは違う、これではもう、雰囲気と状況に流されたとも言えない。慎司から体をつなげてきた。そうなって歓んだのは慎司よりも自分だけど。
     それからも時折思い出したように慎司に求められると、慎司にはそれと知られないように、ひそかに歓んで応じた。こんなことでいいのかと、慎司が迷っているのはよくわかっていた。迷いながらも慎司がやめられないでいるのもわかっていた。それほどまでに慎司とのセックスは、慎司にも自分にも、たまらなく甘美だった。まるで、麻薬のようだった。
     だから、何も責められなかった。断続的にも自分たちの体の関係が続く一方で、慎司に彼女ができたと知ったときも。そうでもしなければ、慎司は壊れていたのだと思う。
    「あ……」
     今また慎司の愛撫に喘ぎ、倖人は体中に満ちてくる潮騒を聞く。あの夏の日に、どことも知れない浜辺で、一晩をかけて胸の底に結晶となった波の音だ。絶え間ない揺さぶりに、硬い結晶が蜜のように溶けて全身に流れ出す。そうして身も心も蕩かされて、倖人はこの瞬間が永遠であるかのような錯覚に酔う。
     でも、今だけ――。
     何度漂っても受け入れがたい快感だった。歳月を経ても消えない後ろめたさがあった。
     それなら、やめたらいいのに。
     慎司もそう思っている。思っているのに、慎司も酔わされてやめられない。
     あのときに、あの感情に、ふたりで名前を与えていられたなら、あの場で終わらせられたのではないかと思う。
     男同士でキスなんて変だよ。恋人でもないのに。それとも恋人になる気? やめようぜ、そんなのキモイ。
     笑い飛ばせなかったから、引きずっている。目を背けたから、いつまでも消えないでいる。
     もう、手遅れだ。
    「あ、ああん!」
     快感にむせび、倖人は高く声を上げる。慎司に深くまでうがたれ、歓喜に啼く。迷いながらもやめられない行為にどっぷりと浸り、身も心も甘く痺れる。繰り返し寄せる波の音、永遠のリフレイン。ふたりにあの夏の記憶がある限り、決して断ち切れそうにない関係。
     いっそ溺れて息もできなくなればいいのに。慎司に揺さぶられ、永久の果てまで漂えればいいのに。思っても、倖人は伝えられない。この瞬間にも、慎司が迷っているから。自分と同じように。
    「あっ、は……あ、ああっ」
    「くっ、う」
     絶頂にせめぎ、もつれ合ってふたりは達した。会わなかった時間を取り戻すかのような激しさだった。ここ最近は、いつもそうだ。一晩で精根を使い果たすつもりにでもなってしまうのか、会えば何度でも体を交え、そのあとは、そろって深い眠りに落ちる。
    「……倖人」
     暗闇を這うような声に呼ばれ、倖人は目を開けた。まぶたが重い。体中がだるい。枕から顔が上がらずに、目だけを動かして慎司を見る。まっすぐに注がれる眼差しと合った。
    「さっき言ってたこと……本当に、本気か?」
     慎司はうつ伏せの姿勢で腕を組んでいた。枕元のスタンドの仄かな明かりを受けている。
    「――どれのこと?」
     倖人は頭がまだ甘い霧に煙るようで、うまく回らなかった。何時だろうと無駄に考えながら、ただぼんやりと慎司を見る。
     精悍な顔立ちに淫らに散った髪がアンバランスで、セクシーだと思った。前髪は長めでも襟足は短いから、首筋がすっきりと見える。肉づきもよく、硬く締まった肩と腕。きれいだ。慎司はきれいな体をしている。高校生だった頃にも男を感じた。未完成ながらも軽くむせるような色香を。
     だから……ぼくは慎司でよかったのに。
     ふと思い、たまらないせつなさに胸が締めつけられた。熱の消えない体の奥が疼く。
    「倖人」
     目を細め、慎司が手を伸ばしてきた。慣れた手つきで、倖人の顔にかかる髪を払う。
    「いいのか? 俺を佐緒里にやる気か?」
     ああそのことか、と思った。
    「やる、って。今だって変わらないじゃない」
    「変わらないって、おまえ……」
     慎司が困ったように顔をしかめるのを見て、投げやりな気分になる。
    「そんな、うろたえることないだろ。今後はしなくなる、それだけだ」
    「それを『変わらない』って言うのか?」
    「……もう、月に一度もしてないじゃないか」
     自分で言って嫌になった。もっとしたいと言ったようなものだ。呆れて溜め息が出る。
    「佐緒里とならうまくいくよ。言いたいこと言い合って、ケンカして別れてもまたつきあって、くっついたり離れたり、なんだかんだで四年も続いてるんだ。それまでの彼女とはぜんぜん違う」
     ある意味、自分と同じに思えた。慎司と何度別れても結局は元のさやに収まる。
     佐緒里とは、倖人も慎司と同じ時期に知り合った。大学二年のときだ。たまたま同じ講義を取っていて、ある日それが終わったあと、佐緒里から慎司に声をかけてきた。慎司の隣には倖人がいて、佐緒里の隣には真知という友人がいた。それがきっかけで、四人で次第に親しくつきあうようになっていった。
     思い返すと、四人まとめて友人でいた時期はかなり長い。それまでの慎司が、女の子から声をかけられて気に入ればすぐに彼女にしてきたことを考えると、佐緒里は別格だった。友人の関係から始まった彼女は、慎司には佐緒里が初めてで、今のところ最後だ。それは、これからも変わらないように思う。
    「いいんじゃない、結婚してあげたら?」
    「おまえ――」
    「だけど、佐緒里がそう思っているうちだ。もしかしなくても……薄々気づいてる」
     たぶん、かなり前から。そうでなかったら、さっきの電話はなかったはずだ。
     だが倖人は、あえてそこまで口に出さなかった。慎司が一番恐れていることだ。自分との関係が本当はどんなものか誰にも知られたくないと思っている。佐緒里なら、なおさら。
    「だから……だから潮時とでも言うのか?」
     潮時とは、うまい言い方だと思った。そうだ、潮時だ。胸の底に結晶となった波の音が消えるとき。
    「永遠には続かないよ」
     慎司に抱かれると体中に満ちる潮騒を思って、そう言った。
    「おまえ――そんなふうに思ってたのか」
     取り違えられたとわかったが、訂正しなかった。ふたりでは断ち切れない関係を佐緒里が壊してくれるなら、それでいい。そうして慎司が心から安堵できるなら。
     いつまでも迷いを残す関係なんて、苦痛だ。
     それが自分よりも慎司に当てはまるなら、佐緒里に奪われても仕方ないと思える。自分とでは、慎司は安堵できないのだから。
    「俺は……最低だからな」
     しかし、その一言には胸が痛んだ。最低なのは自分のほうだ。慎司の迷いにつけ込んで、ずっと慎司にすがってきた。それでは答えを見つけられないと、わかっていたのに。
    「今のうち、か」
     それでも、ぽつりと聞こえた声に叫びそうになってしまう。自分が言うことなど、真に受けないでほしい。自分よりも佐緒里がいいと、言わないでほしい。慎司を失いたくない、どうか捨てないでほしい、本当は、慎司がこんなにも好きだ――誰よりも。
     喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、倖人は奥歯を噛みしめて枕に顔をうずめる。肩が震えそうになるのを懸命にこらえた。
    「……倖人」
     その声が、ひどく悲哀を帯びて耳に響いた。やっぱり慎司には本心を見透かされているとわかってしまう。こんなことでは慎司を追い詰めるだけなのに。
    「嫌なら、そう言えばいいんだ」
     思いやりを感じる温かな声音だったが、どことなく手を焼くと言いたそうにも聞こえた。
    「おまえ、一度も言ったことないよな」
     言えなかっただけだ。慎司もわかっているはずだ。言えなかった理由もあわせて。
    「でも、おまえが真知とつきあい始めたとき、なんだかホッとしたのを覚えてる。もしかして、おまえもそうだったのかと思ったこともあった」
     慎司が佐緒里とつきあい出してしばらくしてからの話だ。わたしたちもつきあってみないと真知に言われ、そうした時期があった。
     倖人が彼女としてつきあった女の子は真知が初めてだった。小さくてほっそりとした体格で、小顔にベリーショートの茶色い髪がよく似合い、くりっとした瞳が目を引く愛らしい顔立ちだったが、さばけた性格の上に賢さが手伝って、ボーイッシュな印象が強かった。
     つきあい始めるまでに十分に気心が知れていたし、何よりも気が合ったし、特別に好きな友人だったことは確かだ。だから、真知となら恋人にもなれそうな気がした。あとになって思えば失礼極まりないことではあるが、あのときはそう感じたのだ。
     結局は続かなかった。いつになっても友人の範疇を越えられかった。しかも真知の賢さは意外なところにまで働いて、倖人が本当には誰が好きなのか言い当てられてしまった。
    『なんだ、倖人は慎司が好きだったのね』
     そのことで哀れまれることもなければ蔑まれることもなく、つきあい始める前もつきあい出してからも、そして別れてからも、真知とは何も変わらずに、ただ親しいだけだった。
     真知とつきあって何か変わったかを考えるなら、どうも自分は女の子とは恋人になれないらしいと気がついたことくらいだ。それなら慎司以外の男ともつきあえるか試したかったが、駄目だった。それも本当に駄目だったわけではなく、慎司に気づかれて駄目だった。
     真知とのことを持ち出すなら、慎司はあのときのことも持ち出すだろうか――?
     真知と別れてから、ふとしたきっかけで知り合った男だ。学部もサークルも違うひとつ上の先輩だったが、強く惹かれ合うものがあって友人以上の関係になりかけていた。その頃、慎司は佐緒里とつきあっていて自分とは友人の関係に戻っていたから、もめるようなことはないと思っていたのだ。
     しかし、そのことに気づいた慎司は猛烈に怒った。佐緒里と別れるから倖人も別れろと、強引に迫ってきた。真知とつきあい出したときには何も言わなかったのにどうしてと、うろたえている間に本当に佐緒里と別れてしまった。すぐに自分もその先輩との縁を切った。
     自分たちにも蜜月と呼べる時期があったとするなら、あの直後の数ヶ月だけだ。だがそれも慎司が佐緒里とのよりを戻して終わった。
     あのとき見せてくれた慎司の言動が嫉妬でないなら、どんな感情だったのか教えてほしい。そんなことは訊けずに、佐緒里と別れてまで自分を奪い返してくれたと思って震えるほど歓び、ひたすらに慎司だけを求めた自分は何だったのか。あれほどに自分を求めておきながら、慎司が佐緒里とのよりを戻したのはなぜなのか。
     嫌になるくらい思い知った。自分は、慎司には毒でしかないのだ。抜けたいのに抜けられない毒。終わらせるなら、あのときだった。
    「だけど、違うんだろ?」
     期待を滲ませた言い方をされ、倖人の胸は悲しみでいっぱいになる。
    「今さら、よく言う――」
    「なら、本当に佐緒里と結婚してもいいって言うのか?」
    「ぼくが真知とつきあったとき、ホッとしたんだろ?」
     枕にきつく頬を押しつけ、倖人はシーツを固く握る。女の子とつきあうのであれば慎司は嫉妬しない。それが慎司には当然だからだ。
    「――おまえにとって、俺って何なんだ?」
     それこそ、倖人が訊きたかった。
     倖人は、ぎゅっと目をつぶる。こみ上げてくる激情を押さえつけ、震える息を吐き出した。意識して呼吸を深く繰り返し、どうにか気持ちを静める。そうしてから顔を上げた。まっすぐに慎司を見つめる。
    「愛してるって言っちゃっていいの? それじゃ困るんだろ?」
     一瞬で慎司の顔色が変わるのを見て取って、涙がほろりとこぼれ落ち、倖人は笑った。
    「もう結婚しちゃってよ。佐緒里となら、きっとうまくいく。いつまでも迷って自己嫌悪してるおまえなんて、もう見たくない」
    「倖人」
    「二度と引き止めない。解放してやるよ」
     突っぱねて言うのに声が震えてしまうことに耐えられない。泣いてはいけないと思うのに、涙が溢れてきてどうにもならない。
    「違う……そうじゃないだろ? 倖人――」
     怯えた眼差しで慎司が手を差し伸べてきた。思わず倖人は枕を投げつける。
    「どうしたって、慎司は決められなかったじゃないか!」
     だが枕は慎司の顔に当たっても、ポスッと軽い音を立てただけでシーツに落ちた。
     倖人は半身を起こして肩で息を継ぎ、呆然と慎司を見る。よけられたものをまともに受け、慎司はひどく傷ついたような目になって見つめ返してくる。
     胸が痛んだ。きりきりと強く。それなのに声を絞り出して倖人は言う。
    「慎司は普通に幸せになればいいんだ。無理してぼくに合わせることなんてないんだ」
    「合わせる、って。――ないだろ?」
    「合わせてきただろ! どう言い訳したって、結局はそうなんじゃないの!」
     そこまでを言ってしまい、倖人はもう慎司を見ていられない。顔を背け、シーツに向かって吐き捨てる。
    「ぼくのことより、自分のことを考えろよ。残酷なんだよ、そのやさしさが!」
    「倖人……」
    「ぼくが耐えられないんだ! お願いだから、もう、やさしくしないでよ!」
     言い切って、わずかな間があいた。沈黙に包まれ、倖人は見開いた目からぽたぽたとしずくが落ちてシーツにしみができていく様をただ見つめる。
     本当は、抱きしめてほしかった。どんなにずるい言葉を使ってでも、なだめてほしかった。拗ねるなよ、おまえが俺を欲しいんだろ、と言われるなら、すぐに頷いた。
     しかし、そうはならなかった。
    「……わかった」
     弱々しい声が倖人の肩に降りかかってきた。
    「わかったよ。何も言い訳できない。俺、最低だし。彼女ができてもおまえから離れられなかった。離れたら、いなくなっちゃいそうで――おまえは何も言わなかったけど、二股かけてたのと同じだ。悪いことしてる気持ちがずっと消えなかった。あたりまえだよな、悪いこと、してたんだから」
     違う、と言いたかった。ただひとつ、自分だけを選んでくれたならよかったと、伝えたかった。だがそれは、慎司には決してできないこと。慎司の言う、『悪いこと』――。
    「帰るよ」
     引き止められなかった。二度と引き止めないと、自分が言った。
     マットレスが沈み、慎司がベッドを降りていく。衣擦れがして、倖人はシーツに突っ伏す。玄関のドアが開いて閉じる音が聞こえるまで、とてつもなく長い時間に感じられた。そのときになって、倖人は声を上げて泣いた。こんなにも簡単に、唐突に終えられるとは、思っていなかった。


    「久しぶり。今、話せる? できれば会って話したかったんだけど、年度始めで時間取れなくて。長くなるかもしれないけど、平気?」
     真知からの電話は本当に久しぶりだった。四月の日曜日の夜で、倖人は自宅でケータイを取った。
    「平気。もしかして、あのこと?」
     努めて明るく答え、冷蔵庫から缶ビールを取り出して寝室に戻った。ベッドに腰を下ろしてプルトップを引く。たぶん、飲まずには続けられない話だ。
    「あのことって、何その言い方」
     電話の向こうで、くすっと小さく真知が笑った。それは倖人のよく知る、真知のやさしさだった。倖人が失恋したとわかっているからこそ、気安く接してくる。
    「でも、あのことって言えるなら、やっぱり倖人にも招待状来たのね」
    「佐緒里からだけどね」
     六月七日の土曜日、慎司と佐緒里は結婚式を挙げる。招待状は、その披露宴のものだ。金で縁取られた純白の上等な厚紙に、堂々と並ぶふたりの名前は眩しすぎて、封を開けたときに見たきり引き出しにしまった。
    「え? 大学のときの友人は、みんな佐緒里の招待よ。佐緒里がそう言ってた。席の数の関係とかで、バランスがどうのって」
    「……そうなんだ」
     なんとなく呟き、ビールを一口飲む。
    「倖人」
     真知は、少し改まった声になった。
    「とっくに返事出したでしょうね? まさか欠席なんて、ないよね?」
     すぐには答えられなかった。招待状は返信用はがきを入れたまま、引き出しの中だ。
    「まだ出してないなら、絶対、出席にして」
     きっぱりと言われ、少しばかり胸が痛んだ。
    「欠席になんてしないで。倖人のためにも」
    「どうして、ぼくのため?」
     あんなふうに別れてから、慎司とは会っていない。メールは何度かやり取りしていて、佐緒里との結婚は招待状が来る前に知らされた。自分がけしかけたようなものだが、こんなにも早く本当に結婚するとは思わなかった。
     一般に考えても、二十四歳の結婚は早すぎではないが、急ぐほどでもない。佐緒里も同じ歳で、女の子でも違いはないと思える。
     何よりも、慎司がそんなに早く決断するとは思えなかった。佐緒里が急かしたにしても、慎司は言いなりになって応じたりはしない。
     どうして、と思った。答えは明らかだった。きっと最初に結婚を持ちかけたのは佐緒里ではない。慎司が自分の意思で決めて、言い出したのだ。迷ってばかりだった、あの慎司が。もう駄目だと思った。
     だから、佐緒里との結婚が決まったとだけ書かれたメールを受け取ったときも、おめでとうとしか返せなかった。
     慎司とは、それっきりになっている。
    「佐緒里から聞いたの。倖人に、もう決めたら、って言われて決心がついたって」
    「そう――」
    「なに考えてんの?」
    「え?」
    「バカじゃない。慎司もバカよ。でも、一番は佐緒里よね」
    「……真知」
     何も言葉がなかった。手に缶ビールがあることに今さら気づき、ぐいっとあおる。
    「佐緒里のためもあるけど、むしろ倖人と慎司のためだわ。披露宴には、必ず出なさい。結婚式にも出なさい、つきあうから」
     結婚式と聞いてギクッとした。
    「結婚式は――」
     披露宴とは違う。披露宴は、その気になりさえすれば宴会のノリで出られるが、結婚式はそうはいかない。
    「教会だから親族じゃなくても出られるの。倖人が来るまで待つから。わたしが結婚式に出られなかったら、倖人のせいになるからね」
    「真知」
    「いい? 披露宴の一時間前よ。メールするから、ちゃんと読んで」
     嫌と言えなくなった。これが真知の思いやりとわかるから。あとに何も残さないよう、きっちりカタをつけさせようとしている。
    「倖人」
     やわらかな声音に変えて、真知は言う。
    「言いたくないけど、言うね。大学のときに仲よかった人、かなり招待されてるの。それなのに倖人がいなかったら、みんな変に思う。晴れの席で、新郎新婦に嫌な思いさせないで。どうして倖人がいないんだとか、誰にも言わせないで」
     ごく常識的なことを言われて釘を刺されたとわかった。真知に気づかれないほどの小さな吐息をついて、倖人は口を開く。
    「行くよ。約束する」
     真知が、すっと息を呑んだのが伝わった。
    「うん、そうして。わたし、思い切りドレスアップして行くから。一緒にいて倖人に恥はかかせない。倖人の礼服姿も楽しみよ」
    「そうだね……きれいにしてきて」
    「まかせて」
     じゃあメール待っててね、と言って、真知が先に通話を切った。倖人はケータイを閉じ、その姿勢からしばらく動かなかった。じっと見つめていた缶ビールを一気にあおり、飲み干した。立ち上がって、引き出しを開ける。招待状の封筒から返信はがきを取り出し、頭をからっぽにして出席の二文字に丸をつけた。


    つづく


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