Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    六月の花嫁
    −2−



     車の行き交う大きな通りを折れて細い道に入ると、倖人は、遠目にも真知を見つけられた。教会の前の石畳に凛として立っている。ふわりと裾の広がるドレスはこの季節に似つかわしいラベンダー色で、真知を引き立て、何人もの人の中にいてもひときわ目を引いた。
    「晴れてよかったよね。六月の花嫁は幸せになれるなんて言うけど、やっぱり梅雨のない西欧諸国の慣習よね。日本には合わないわ」
     薄く透けたショールを引き寄せ、むき出しの肩と大きく開いた襟元を隠すようにして、真知はにっこりと倖人を見上げた。
    「真知、変わらないね。きれいだよ」
     懐かしさが、倖人にそう言わせた。真知は一瞬だけ恥じらうような顔をしたが、すぐに屈託のない笑顔に戻った。
    「倖人もカッコイイ。礼服、よく似合うね。会社にもいつもスーツなんでしょ? きっとカッコイイだろうな」
    「そんなに誉めても何も出ないよ」
    「モテモテだろうなあ。ちょっと悔しいなあ」
     そんなことを言いながら、倖人の腕に手を添えてきた。
    「わたしの結婚式のときにもカッコよくしてきてね。今日はエスコートをよろしく」
    「え?」
    「中に入ろう?」
     倖人は軽く肘を曲げて真知の意向に応え、歩き出してから、ああそうかと思った。真知にも結婚を考えるような相手がいるのかもしれない。大学を卒業して二年が経つのに、何も変わらないのは自分だけのように思えた。胸の底が急に冷えていくようだった。今日、ここに来た本当の理由に、今ようやく思い当たった気がする。
     教会は結婚式場に併設されたような商業的なものではなく、青空をいただいた本格的な建造物だった。中は薄暗く、木のベンチが左右に並び、正面にはステンドグラスが見える。天井も壁も床も重厚な色合いの木造だった。
     これからこの場所で、慎司は佐緒里と永遠の愛を誓う。そう思ったら、たまらない感情が突き上げてきた。
     終わらせたのは、自分なのに――。
     真知に付き添って、親族のすぐ後ろの列に着いたのは失敗だった。『バージンロード』の脇の席になってしまい、講壇がよく見えて、倖人は居たたまれなくなる。式が始まるまでは真知に話しかけられて曖昧にも言葉を交わしていられたが、しょせんは気休めだった。
     間もなく司式者が姿を現し、場内は静粛になる。慎司が入場してきて、倖人は否応なしに目を奪われた。
     昼の正装のモーニングコートに身を包んでいる。華やかでいて厳粛な佇まいを目の当たりにし、倖人は唐突に涙ぐみそうになった。
     やっぱり好きだ、失いたくなかった――。
     このときになって、その一心で胸がきしむ。倖人は、そっと目を伏せた。他人のものとなる慎司は、その服装でいっそう輝いて見えた。
     やがて佐緒里が父親にエスコートされ、長くトレーンを引く純白のウエディングドレス姿で入場してきた。倖人は目を伏せてもいられなくなって、今さらながら、この場にいることを激しく後悔した。講壇の前で佐緒里を迎える慎司には二度と目を向けられなかった。
     だが倖人がどんな気持ちでいようと式は粛々と進み、賛美歌に始まって祈祷が上げられ、聖書の朗読に続いて式辞が述べられ、いよいよ新郎新婦による誓約となった。
     隣にいる真知の様子すら倖人にはわからない。身を強張らせる自分に呆れているかもしれないが、少しも気にしていられなかった。
     誓いの言葉を朗々と発する司式者の声が、嫌でも倖人の耳に響いてくる。これで慎司が答えたなら、紛れもない永遠の別離となる。
     そう思ったら、どうしようもなくなった。結婚式という晴れの場にいながら、倖人は涙をこぼした。誰にも決して気づかれないよう、ぐっとこらえるのだが、止まらなかった。
     膝の上で硬く握りしめた手にしずくが落ちる。目を拭うわけにはいかない。そんなことをしたら、真知には絶対気づかれてしまう。
     この場に自分を引き出した真知を恨みそうになり、それでは間違いだと自分に言い聞かせる。現実を認め、受け入れさせるために、真知は自分をここに連れてきた。
     気持ちが追いついてこなくても頭では理解している。それなら無理にも現実を直視して、気持ちをねじ伏せるしかないと思った。
     倖人は涙で潤む目を上げ、薄く滲んだ視界に慎司を捉えた。今まさに新郎の誓約のときとなり、返答が待たれ、わずかに間があいた。
     慎司は口を開きかけ、佐緒里に顔を向けるようにして、背後に並ぶ列席者にそっと視線を流した。
     信じがたい一瞬だった。
     中央の通路の空間を越えて、倖人の視線はまっすぐに慎司の目と合った。その途端、慎司ははっきりと振り返り、驚くように大きく目を瞠った。
     倖人の目から、ぽろりと大粒の涙が落ちる。
    「倖人!」
     倖人は、自分に駆け寄ってくる慎司を夢の出来事のように見つめた。
     強引に手を取られ、引きずられて立ち上がる。足をもつれさせて引かれるままに走り出し、佐緒里が歩いてきた通路を慎司と逆に進んでいると知って、やっと正気が戻った。
    「――慎司! なんで……っ!」
     それまで呆気に取られていたような周囲が急に騒がしくなる。教会の重い扉を慎司が押し開けたときには、背後は騒然となっていた。
     そこに佐緒里の声を聞き取れていたなら、倖人の足は止まったかもしれない。だが倖人の耳に届いたのは、真知の呼ぶ声だけだった。
    「慎司、マズイだろ! こんなことして――」
     何を言っても振り向こうともしない慎司にきつく手を引かれ、倖人は息を切らせて走る。来るときに通った細い道を戻り、車の行き交う大きな通りに向かっていた。
     そうして、慎司はどうしようと言うのか。
     慎司を止めて問いただしたくても、慎司の力にはかなわなかった。体格差を恨めしく思うよりも、こんな暴挙に出た慎司に歓びそうになっている自分がいる。
     まるで夢だった。結婚式の途中に、新郎の慎司が列席者の中から男の自分をさらって、教会から逃げ出すなんて――とんでもないことに加担していると、焦りは募ってくるのに、あまりにも非現実的すぎて、気持ちはおかしなほど浮き立っている。
     道を行く人々が、次々に自分たちに振り返る。モーニングコートを着てタクシーを止める慎司に、衆目が集まる。
     倖人を先に無理やりタクシーに押し込み、そうしてから慎司は乗り込んできた。行き先は上野駅と告げ、シートに体を沈めて大きく息を継ぐ。
    「慎司――」
     だが倖人は、慎司の少し青ざめた横顔を見て我に返る思いだった。やはり、とんでもないことをしてしまったのだ。すぐにも慎司を戻らせないと、取り返しがつかなくなる。既に取り返しのつかない事態に違いないが――。
    「倖人」
     声を喘がせて慎司が呼んだ。
    「俺、本当に最低で、ごめん」
     しかし倖人に目を向けてはこない。正面を睨むようにして、苦しそうに続ける。
    「佐緒里には、とっくにバレていたんだ。結婚が決まってから言われて驚いた。それなのにあいつ、どうしても結婚はするって言って。招待状出したあとだったし、すぐに離婚してもいいから式だけは挙げてくれって泣かれて、俺、どうにもできなかった」
     倖人は胸が押し潰されそうになる。慎司は最低だと、初めて本気でそう思った。
    「悪かったと思ってる。佐緒里にも、おまえにも、俺、本当に悪いことした。俺なんかには、償えないってわかってる。だけど、本当にどうしようもなかったんだ。どうがんばっても、誓いの言葉が言えなかった。あの教会、ちゃんとしたところだから、事前に何回か通わなくちゃならなくてさ。そこまでしたのに、俺はあそこで嘘をつくのかと思ったら、嫌で嫌で、叫びそうになった。そしたらおまえ、泣いてるしさ――」
     うっと息を詰まらせ、慎司は声もなく泣いた。片手で口をふさぎ、うなだれて肩を震わせる。晴れの日の衣装を濡らし、ぽたぽたとしずくが落ちた。
    「もっと早く、こうすればよかったんだ。佐緒里と結婚しろなんておまえが言い出したときに、それより前に、おまえを初めて抱いたときに、それより、もっとずっと前に、一緒に自転車で旅行して、あの海岸で初めてキスしたときに、おまえが好きだってちゃんと言えてたら、おまえも佐緒里も誰も、俺は傷つけないでいられたのに」
     背を丸めて膝に突っ伏し、慎司は声を殺して泣き続ける。倖人を連れ出してここまで来たというのに、悔いるばかりのようだった。
    「慎司……」
     倖人の胸は、さまざまな思いでせめぎ合う。だがひとつ、慎司に言えることは明白だった。
    「しょうがないよ。どうしようもなかったんだ。そうしてこなかったら、慎司が傷ついていたんだから」
     それきり沈黙に包まれ、ふたりはタクシーに運ばれるだけになった。倖人は自分で行き先を変える気も失い、泣き崩れる慎司を見つめるだけだった。
     六月の花嫁は幸せになれる、か――。
     皮肉にしかならないけど、そのとおりかもしれないと思った。佐緒里は、ぎりぎりのところで慎司と結婚しなくてよかったのかもしれない。そんなことを本人が思うはずもないけれど、慎司と結婚して佐緒里が幸せになれたとは、今となっては考えにくいと思った。
     なんでこんなことになっちゃったかな――。
     佐緒里を気遣うふりをして、この事態を自分に都合よく捉えようとしていることに気づき、倖人は激しく嫌悪する。元を正せば自分が引き起こしたことではないのか。
     本当の気持ちに向き合えなかった慎司が悪いのではない。自分も本当の気持ちを慎司に明かせなかった。曖昧に濁しているだけならまだしも、苦しさに耐えかねて慎司を試す真似をしてしまった。深く考えずに放った自分の一言が、この事態を引き起こしたのだ。
     慎司を……失いたくなかっただけなんだ。
     佐緒里まで巻き込んでしまったことを思い、全身から血が引いた。涙が溢れる。
    「ぼくが、最低だったんだ」
     今になって、倖人は胸に秘めていた思いをすべて吐き出す。
    「慎司が好きだった。愛してるって言える。だから慎司に彼女ができても、あきらめられなかった。慎司がぼくを捨てないでいてくれるなら、二股でも何でも構わなかったんだ」
     言いながら、自分をずるいと思った。泣くことで胸が洗われていくように感じている。
    「ぼくのほうこそ、ごめん。慎司を苦しめるだけって、わかっていて離れられなかった。佐緒里と結婚すればいいなんて言って、本当は慎司をつなぎ止めたかっただけなんだ」
     バカよ――真知の声が脳裏に響いた。
    『慎司もバカよ。でも、一番は佐緒里よね』
     真知は、こうなることを心配していたのだろうか。
     まさか――。いくら真知でも、ここまでは考えなかっただろう。
     どうするの。
     真知の声で聞こえてくる。
     こんなことして、どうなると思ってるの。
     倖人の礼服のポケットでケータイが鳴った。取り出せば、偶然にも真知からの電話だった。
    「倖人! 今どこ? 慎司、そこにいるんでしょ? もう、戻ってくるなって言って!」
     予想とは正反対のことを言われ、すぐには飲み込めなかった。
    「戻ってくるな、って――」
    「あたりまえでしょ! 佐緒里の親族はかんかんだし、慎司のお母さんは泣くだけだし、お父さんたちは式場の人に呼び出されてるし、みんな、めちゃくちゃよ!」
    「佐緒里は……佐緒里は?」
    「倖人がそれ訊く? もちろん泣いてるわよ。今、お母さんと控え室にいる。わたしもね!」
     言えることなど、あるはずがなかった。口を閉ざし、倖人は強く唇を噛む。
    「あ、ちょっと待って。切らないでよ!」
     真知の声が遠くなり、誰かと話すのが聞こえた。倖人は、そっと慎司に目を向ける。うなだれた陰から、目だけで見上げていた。
    「倖人――」
     聞こえてきた声は佐緒里だった。倖人は息を呑み、神妙に耳を傾ける。
    「うそつき。一生、許さないから」
     ぐさりと胸に突き刺さった。
    「慎司なんて、いらない。あんたに、あげる」
     涙に喉を詰まらせた声で、そう言われた。
    「もっと早く、そうすればよかった。少しはどうにかなるって、思った私がバカだった」
    「そんな、佐緒里……」
    「あんたになんか、何も言われたくない!」
     ぼやけた視界に手が伸びてくる。愕然としたまま、ケータイを奪われた。
    「佐緒里――」
     やさしく呼びかける慎司の声を聞いた。
    「うん……うん、わかってる。――ごめんな」
     それから慎司と佐緒里とのあいだでどんな言葉が交わされたかなど、倖人には知れるはずもなかった。心は最果てをさまよい、現実から切り離されたようだった。
     倖人の手にケータイが戻されてからは重苦しい沈黙に支配され、そのうちにタクシーは上野駅に到着する。倖人が支払って、ふたりで降りた。空は目の覚めるような青だ。慎司が眩しそうに振り仰ぎ、おもむろにモーニングコートを脱いだ。真昼の日差しを受けて、シルバーグレーのウェストコートが光沢を放つ。
    「これから、どうするの……」
     力なく倖人が呟けば、慎司は意外な強さで返した。
    「電車に乗る」
    「本気か? そのカッコで?」
     呆れる倖人の手を取り、また慎司が先に立って歩き出した。
    「今さら常識なんて、振りかざしたって意味ない。みんな捨ててきたんだから」
     倖人に振り向いた慎司は笑っていた。
    「財布、持ってなくて悪いな。また貸してよ。クレジットカードも持ってるよな?」
    「……どこまで行くつもりだ?」
    「福島県」
     倖人は唖然とするばかりで、慎司に手を引かれてついていくだけだった。何も考えられない。むしろ考えたくない。衆目の的になって、特急列車に乗り込む。慎司が何を考えているのか、まったくわからなかった。
    「倖人――」
     自由席に空きは見えたが、発車してからもふたりはデッキにいた。ドアの脇にもたれ、慎司が手を差し出してくる。倖人はうつろな目で慎司を見上げた。
    「好きだよ、倖人。誰よりも」
     これまでにないほど甘くささやき、慎司は倖人の頬に触れてきた。倖人が顔を背けようとするとそれを止めて、身をかがめてくる。
    「俺は、決めたから。俺と一緒に落ちてくれ、倖人――」
     間近で視線が絡み、倖人はトクンと小さく胸が鳴った。熱い吐息が唇からこぼれ落ちる。
    「……バカ」
    「うん」
    「バカだよ、慎司」
    「うん。そうだな。こうなるまで、わからなかった」
     慎司の声があまりにもせつなく胸に響いて、倖人は目を上げていられなくなる。
    「遅いんだよ――」
     拳を作って、慎司の胸を軽く叩いた。
    「うん。――だから、取り戻したい」
    「慎司……」
     そっと上目でうかがえば、慎司は蕩けそうな笑顔を見せた。近づいてくる唇に抗えない。まつげを伏せて、倖人は慎司のキスを受けた。
    「ん……」
     あの夏の日の甘酸っぱく突き抜けた感覚に襲われる。鮮烈な快感が、背筋を駆け抜けた。
     耳の奥によみがえる、絶え間ない波の音。胸の底にあった結晶は弾け、きらきらと舞う光のちりとなって、倖人の全身に散った。
    「……あ」
     指の先々まで甘美に彩られて痺れる。幼いキスにさらわれて、倖人は膝から崩れた。
    「倖人」
     心許なく呼ばれ、慎司の胸にすがった。
    「倖人」
     力強く呼ばれ、しっかりと抱きしめられた。
    「倖人――」
     慎司が頬をすり寄せてくる。倖人は息を喘がせ、慎司の耳に唇で触れてささやいた。
    「慎司となら、どこへでも。落ちるって言うなら、一緒に落ちる。――愛してる」
     言葉では返されず、いっそう強く抱きしめられて倖人は満ちた。唇で慎司の熱を感じた。


    「ここ――」
     防砂林を抜けて開けた景色に倖人は大きく息を呑む。目の前には大海原が広がっていた。六月の太陽に、遠くまできらめいて見える。
    「どうして」
     思わず慎司に振り返った。紛れもなく、あの夏の日に慎司と夜を明かした場所だ。地図を見ながらの旅行だったが、あの日は行き当たりばったりで野宿を決めたから、帰ってからも明確な位置がわからなかった。
    「去年の夏、探しに来たんだ」
    「それって……ひとりで?」
     頷いて返され、それならどうして誘ってくれなかったのだと言いそうになり、慌てて口をつぐんだ。
     ふたりの思い出の場所を探し当てるのに、慎司はひとりで出かけるしかなかったのだ。自分を誘ってしまえば、本当の気持ちを認めないわけにはいかなくなるから。
     ――でも。
     たとえひとりででも探しに来てくれていたことがうれしい。慎司も自分と同じように、この場所と、ここでの出来事を大切に思ってくれていた。
     倖人は、終点の駅で特急を降りてからの、ここに至るまでの道のりを思う。タクシーに乗り込み、慎司が淀みなく行き先を告げたことに驚いた。そのときに、少しは予感した。だが、車窓の外に海が見え始めても信じられない気持ちのほうが強かった。防砂林の続く道端で降ろされ、笑顔で振り向いた慎司に手を取られ、緑の陰の茶色く踏みしめられた細道を辿り始めても、まだ信じられない気持ちでいた。
     今、温かな海風に吹かれ、倖人はまっすぐに慎司を見上げる。モーニングコートを腕にかけ、晴れやかな婚礼の衣装で慎司はそこにいた。
    「慎司」
     呼びかける声が震えてしまったのは、どうしようもない。
    「お願い……キスして」
     口にした途端、また涙が溢れた。
     明るい夏の砂浜で、ふたりは唇を重ねる。倖人は礼服の上から腕を回され、しっかりと腰を引き寄せられた。慎司の大きな手が頬を包む。倖人も慎司の背をそっと抱き、思いの丈を込めて、この口づけを確かなものにした。
     ふたりは心で誓う。あなただけだ、と――。
    「あ、ん……」
     ベッドに場所を移してからのキスは、浜辺で交わしたようなかわいいものではなかった。
     あれから慎司が去年の夏に泊まったホテルまで長々と歩き、そのあいだも言葉はほとんどなく、ふたりでいられる幸せにただ浸るようで、そうして部屋を取った。
     部屋の窓からは、あの浜辺が遠く見下ろせた。そんなことにも倖人は胸を震わせて、慎司が背に被さってきただけで一息に昂ぶった。
     常でない衣服を脱ぐのはもどかしく、それでもそれぞれに手近なソファや椅子にかろうじて掛けて、倖人は慎司にすくい上げられるようにしてベッドに入った。
     陽は、まだ高かった。カーテンの開いた窓から、今も光が降り注いでいる。
    「ふ、ん」
     唇を深く貪られ、倖人は胸を上ずらせる。慎司の首に両腕でしがみつき、いっそう深く欲しいと舌を絡ませる。
     脚も絡み合っていた。互いの興奮が素肌にこすれ、蜜を滲ませていた。
    「倖人……倖人」
     慎司の呼ぶ声はどこまでも甘い。やさしさと情欲をしたたらせ、倖人の胸にしみていく。
    「好きだ、好きだ――」
     繰り返し聞かされる言葉は波の音にも似て、途切れなく続く。気持ちを言葉にして、こんなにもたくさん浴びせられるのは初めてで、倖人は胸がいっぱいだった。
     どうなってもいいと思った。慎司にされるなら、慎司といられるなら、自分なんてどうなってもいい。
     置き去りにした現実が、わずかに頭を掠めて消えた。今は慎司しか見えない、見えていない。
    「慎司……愛してる」
     気持ちを言葉にされるとたまらなくうれしいのに、自分の気持ちを言葉にすると、どうして物足りなく感じるのか。
     もっと伝えたかった。言葉では尽くせない気持ちも何もかも、慎司に伝えたい。
    「はっ、あ、ああ!」
     慎司の愛撫を受けて、倖人は素直に応える。あえかな声を漏らし続け、せつなく身悶えた。
     胸に口づけられ、背をしならせる。浮いた脇腹を指先で掠められ、腰が跳ねた。
     したたる先を執拗にいじくられる。じくじくと溢れる蜜が根元まで伝った。
    「慎司、ぼくも……」
     倖人は、身をくねらせて腕を伸ばす。手に包んだ屹立の猛々しさに湿った吐息が溢れた。
     慎司に遅れずに、倖人もまた慎司の興奮を口に含んだ。受ける刺激以上のものを返そうと、丹念に舌と唇を使う。
    「ん、倖人――」
     艶に濡れた声を耳にし、鼓動が格段に跳ね上がった。口に含んだものは喉の奥まで突き刺さるようで、倖人はそれをきつく吸う。
    「う……っ」
     同じようにされて慌てて放した。だが慎司は放してくれない。
    「は、あ、慎司!」
     慎司の腿に額を押しつけ、倖人は射精の快感に身を震わす。自然と、慎司の屹立を捕らえていた手が緩んだ。
    「おいで」
     力の抜けた体を慎司の思いどおりに動かされる。仰向けにされ、左右に脚を開かされた。
    「あっ……」
     慎司はそこを覗き込むようにして、ぬめる指先を這わせる。次第にぐりぐりと圧をかけてきて、ずるりと一度に奥まで刺した。
    「は、ああん」
     鼻に抜けた声が上がり、倖人は胸を突き出して背をそらせる。続けて体の奥で指を蠢かされ、膝が小刻みに震えた。確かな箇所を熱心に攻められ、重い熱が腰に溜まっていく。
     一度は萎えたものが、首をもたげた。慎司の視線にさらされて、しっかりと起ち上がる。そのことでも昂ぶり、再び蜜が滲み始める。
     倖人は恥ずかしかった。こんなことは慎司と何回したか、覚えていないほどだ。慎司の手順も手つきも、頭よりも体に刻まれているくらいなのに、これまでになく感じている。
    「倖人、かわいい」
    「んっ」
     慎司がやわらかく笑いかけてくるのがいけない。声や言葉までやわらかく、少しの濁りもなくて、すんなりと胸に響くのがいけない。
     慎司で、いっぱいになる――。
     そして、慎司も自分でいっぱいになるのが見て取れるようで、それが一番いけなかった。
    「倖人」
     眼差しを蕩けさせて、慎司が顔を近づけてくる。
    「好きだ、愛してる」
     体をほぐす指の動きには容赦がないのに、見つめてくる慎司の顔はひたすらにやさしい。
    「欲しい、倖人」
    「あ、はっ」
     答えられるわけもなく、倖人は潤んだ目を返すだけで精一杯だ。
    「俺に、全部ちょうだい」
    「は、ああん!」
     鮮明な快感が走り、ひときわ高い声が口から飛び出ていった。
     どうなってしまうのかと思う。慎司とつながるために、つながるその部分を慎司の指にほぐされて、まだ前戯なのに、それでこんなにも感じてしまい、これで慎司とつながったなら、意識が飛んでしまうのではないか。
     そんなことになったら――。
    「倖人」
    「あ、あ、あ」
     きっと、これまで以上に離れられなくなる。
    「倖人……!」
     倖人を抱きしめ、倖人の肩に顔をうずめ、慎司は硬く猛ったかたまりで倖人を貫いた。
    「倖人、倖人、好きだ、愛してる」
     いきなり箍[たが]がはずれたように、慎司は唐突に突き上げ始めた。そのたびに倖人の体は跳ね、どこにも力が入らずに、ぐちゃぐちゃに乱されていく。
    「は、あ、ん、ああっ」
     もう何も考えられなかった。喘ぎ続けて喉はからからで、口を閉じることもかなわず、何度もキスを貪られ、屹立は間断なく慎司の肌にこすれて蜜をたらたらと溢れさせている。
     未知の領域にまで押し上げられる。深い官能の海に溺れる。もう、息も継げない。だけど、それがたまらなく気持ちよくて、無意識にも絶頂に留まろうとしている。
     朦朧として、繰り返し打ち寄せる快感の波に漂うばかりになった。そうなっても慎司の動きは止まらず、重ねてやさしい愛撫が続く。
    「はあっ、あ、あ」
     慎司も声を上げて喘いでいた。ぼんやりと目を向けて倖人は胸が痺れる。本当に気持ちよさそうだと思った。何の迷いもなく、自分を追い求めている顔――きれいだった。
    「あ……っ」
     かすかな声を漏らし、倖人は自分が弾けたと知る。そのときに、意識も遠く去っていった。温かく深い海に沈んでいくような感覚は、そのまま慎司の中にすっぽりと取り込まれる幸せだった。意識が立ち消える最後に、慎司の熱も放たれたと感じた。初めて慎司とひとつになれたと、そう思った。
     やがて倖人が重いまぶたを上げたとき、窓から射しこむ光はずいぶんと変わっていた。探さなくても慎司は自分の上に半身を預けて眠っている。あどけなさを感じるような寝顔を間近に見て、倖人の胸も穏やかに満ちた。
     幸福に彩られた時間を思い返す。これまでにも慎司に抱かれれば幸せだったことに違いないが、これまでとは比べものにならないほど満たされた。理由など考えなくてもわかる。
     もう、どんなことがあっても素直でいられると思った。置き去りにしてきた現実が気にならないと言えば嘘になるが、今だけは考えたくない。
     ……でも。
     ためらいながら倖人は椅子に掛けた礼服に目を向ける。手を伸ばせば届く、すぐそこにある。ポケットの中のケータイが気になった。
     上野駅に向かうタクシーの中で、真知からの電話で一度鳴ったきりだ。あれから二度と鳴らないのはどうしてだろう。
     思い切って手を伸ばした。椅子を引き寄せて礼服のポケットを探った。ケータイを取り出してギクッとする。電源が切られていた。
    「……倖人」
     掠れた声がして、背後から伸びてきた手にケータイを取られた。そして、片手で肩を引き寄せられて慎司の胸に包まれた。
    「今は、やめとけよ」
    「でも……」
     誰からどれだけの着信やメールがあったかを思ってしまい、胸が苦しくなる。
    「頼むから」
     すがりつくように言われ、そんな慎司にも胸が痛んだ。現実を思い出して苦しいのは慎司も同じだ。いや、自分よりもずっと慎司のほうが苦しいはずだ。
    「電源……慎司が切ったのか――」
     なのに、質問とも納得ともつかない呟きを漏らしてしまった。責めたようで申し訳なくなり、倖人は慎司の胸に頬をすり寄せる。
    「うん。――勝手に切って、ごめんな」
     しかし慎司は詫びてきて、ケータイを枕元におき、倖人をやさしく両手で抱き直した。
    「俺、覚悟できてたから。戻るまでは、もう誰にも邪魔されたくなかったんだ。真知からの電話で佐緒里と話せたし。これからもっと話さなくちゃならないけど、今は、あの一回で十分に思えた。佐緒里と話せたから、もうケータイは必要ないって思ったんだ」
     倖人は、そっと息をつく。慎司の胸にうずめた耳に、慎司の穏やかな鼓動が響いていた。
    「俺、幸せだよ――」
     熱い吐息を溢れさせて慎司がささやいた。
    「最低なことしたのに倖人がついてきてくれて、本当にうれしかった。一緒に落ちてもいいって言ってもらえて、これからどんなことがあっても乗り切っていけるって思った」
     慎司の大きな手が倖人の頬を包む。その手が、ゆっくりと倖人の顔を上げさせた。
    「俺は幸せだけど、おまえを幸せにできるのかな?」
    「慎司……」
     倖人の眼差しを受けて、慎司はフッと笑う。
    「遅すぎた分を取り戻せるかな?」
     倖人は声を出せずに唇を震わせる。慎司の笑顔が胸にしみる。やわらかな笑顔、愛しさを溢れさせた表情――。
    「そんな、こと……言うなよっ」
     喘いで吐き出し、慎司にしがみついた。
    「あたりまえだろ? ずっと好きだった人に好きって言ってもらえたんだ。もう幸せだよ」
     それに、どんなことがあっても乗り切っていけると、たった今、慎司ははっきり言ったのだ。
    「ぼくは幸せだ、ずっと慎司といたい、これからも、ずっと」
     そうして慎司を支えられるようなら、自分もまた、欠けていた何かを取り戻せるのではないだろうか。
     ――欠けていた、確かに。何かが。
    「倖人」
     被さってきた慎司を受け止め、深くキスをする。絡み合う舌に再び溶かされ、身も心も甘く痺れる。
    「放さない。もう、絶対に放さないから」
     しっかりとした声を聞き、倖人は潤んだ目で慎司を見上げた。頬を包む大きな手に自分の手を重ねる。
    「ぼくも……もう放さないよ」
     まぶたを閉じたら、しずくがこぼれた。
     倖人は、遠く潮騒を聞いたように思う。絶え間ない繰り返しの、永遠の響き。それは、素肌で重なり合う慎司から伝わる鼓動なのか。
     ああ、そうか――。
    「慎司」
     静かにまぶたを開き、倖人は、しっかりと慎司を見つめる。
    「ずっと放さないでいて。そうして、ぼくにも勇気を分けて」
    「倖人……」
    「ぼくが慎司の力になれるならいい。慎司もぼくの力になって」
     愛してる――。
     何度でも言える。何度でも言いたい。だから、いつまでも一緒にいてほしい。
    「倖人……好きだよ、心から、本当に」
     崩れて抱きついてきた慎司は泣いていた。
     慎司の重みを全身に受け止め、倖人は頬を重ねる。愛しさがこみ上げ、今また潮騒が全身に満ちてくる。窓の外には遠く海原が広がっているけれど、あの夏の海はふたりの胸の中にあることを思った。あの夏の日から、ずっと胸にある。永遠の響きのように、確かに。


    おわり


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    素材:KOBEYA