Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    不惑の果実
    ‐1‐




     一

     昼休みのオフィスは、まったりとした静けさに包まれる。二交代制を取っているから、席に残っている社員はほぼ半数だ。
     窓際の課長席にいて、岩瀬は吐息をついて顔を上げた。たった今読み終えた報告書は、二度ほど書き直させたためか十分な仕上がりになっていたが、まったく別のことでまた吐息をつきそうになる。
     ――まいったな。
     どうしたものか思案してオフィスを見渡す。
     自分の管理する経営企画部一課で席にいる社員は三人だ。女性社員の吾妻と、自分より年上で主任の平野、そして七月一日付で異動してきたばかりの嶋田。それぞれにデスクの上にノートパソコンを開いて、手を動かしている。隣の二課に目を向けても、さらに隣の生産管理部に目を向けても、あたりまえに誰もが仕事中だ。
     やっぱり、嶋田しかないか。
     昼食に出ている部下に席を離れる前に頼めばよかったと思いかけるが、頼めそうな相手はやはりいなかったと思い直す。
     先に吾妻を呼びつけ、読み終えた報告書のコピーを十部作成するように指示を出した。吾妻の細い後ろ姿が廊下に消えるのを待って、今度は嶋田を呼びつける。
    「嶋田、ちょっといいか」
    「はい」
     はじかれたように顔を上げ、嶋田はすぐに目の前まで来た。岩瀬はすばやくメモ用紙を取って走り書きする。
    「悪いが頼まれごとをしてくれないか」
    「なんでしょう」
     姿勢を正した長身の高みから、にっこりと見下ろしてくる。隙のないスーツ姿で、短く整えた黒髪も清潔感に溢れ、いつもながら男前だ。態度には余裕すら感じられる。
     そんな嶋田を私用に使おうとしているのだから、岩瀬はいっそう気まずかった。ちょいちょいと手招きして、軽く身をかがませる。
    「昼食のあと、銀座店に行くことになっていたな? ついでに買ってきてほしいんだ」
     近づいた耳にささやくように告げ、すっとメモを滑らせた。
    「これを……ですか?」
     嶋田が怪訝そうに目を瞠るのも当然で、メモには『ワイシャツ、白、三十八』と書いてある。
    「私は一時から会議で、昼食で外に出るのも無理だ。退社後に済ませるつもりでいたが、今日は遅くなりそうなんだ」
    「わかりました」
     嶋田が深くうなずくのを見て、デスクの下で財布から一万円札を取り出した。手の中に隠し、メモに重ねて嶋田にこっそりと渡す。
    「こんな頼みごとをしてすまない。退社の際に私が席にいなかったら、自分のデスクの下にでも置いておいてくれ」
    「了解です。誰にも見られないようにします」
     いたずらでもするような目になって嶋田は見つめてきて、だが仕事の話のあとのように、悠然と席に戻っていった。
     ……ったく。
     岩瀬は自分が不甲斐ない。こんなつまらない用事を部下に押しつけてしまった。それも、嶋田に。
     配属になって二週間にも満たないが、嶋田のことはよく知っていた。嶋田が新人だった当時、岩瀬は同じ営業部にいて嶋田の指導を任されていた。実務を通してさまざまなことを教え込んだ期間は半年ほどだったが、経営企画部に異動になるまでの三年間、同じ部署にいたのだ。
     その後、二年して嶋田も大阪支社の営業部に異動になったが、そのときには自分にまで挨拶状を寄越し、その印象が強く残っていた。それから三年を経て、今回の異動で再び同じ部署で働くことになり、配属初日には、またお世話になります、よろしくお願いしますと笑顔を向けられ、見違える思いだった。
     勤続八年目を迎えた嶋田は、実績に基づく自信を備えていた。何ごとにも意欲的で率直なところは新人のときと変わりなかったが、今はもう頼りになる中堅社員だ。だからこそ、ひとつの業務を丸ごと任せた。
     経営企画部は、自社製品の売れ行きや市場の動向を調査分析し、経営陣に報告することが主な仕事だ。一課は、そのうちの化粧品と衛生用品を担当している。化粧品の直営店の経営指導もあって、医薬品を専門に受け持つ二課よりも仕事の多様性が高い。
     嶋田には、入社以来七年に及ぶ営業部での実績を買って、まさにその『化粧品の直営店の経営指導』を預けた。それで今日の午後もデパート内に店舗を構える銀座店に出向くことになっているのだが、それを逆手にとって私用を頼んだとあっては、あまりに情けない。
     そもそも社内の者に私用を頼むなど、岩瀬にはあってはならないことだった。しかし、明日着るワイシャツがない。今日のワイシャツを再び着て出社するなど、日頃から部下の身だしなみに厳しい岩瀬には、それもあってはならないことだった。
     ……みっともない話だ。
     離婚して、まだ二週間も経っていなかった。嶋田が配属になる直前の六月の末に、元妻が出ていったきりだ。結婚の際に購入した2LDKのマンションに今はひとりで住んでいる。
    『志信[しのぶ]さんは、誰でもよかったのよ。こんな生活、わたしには耐えられない。ほかの人を探してください。むしろ家政婦を雇うほうがいいと思います』
     元妻とは見合いで知り合い、とんとん拍子に話が進んで三ヵ月後には結納を取り交わした。自分では早いとも遅いとも思わなかったが、一年余りで離婚したことは早かったに違いない。
     結婚するまで実家暮らしだった。ひとりで暮らした経験がまったくなかったどころか、帰宅すれば食事も風呂も用意され、翌日の着替えの心配などしたこともない生活だった。生まれて以来ずっとそんなふうに生きてきたからにしても、今になって自分の生活能力の低さに気づくとは、誰よりも自分が呆れる。
     元妻を家政婦の代わりにしていたつもりは決してない。しかしそうとしか見えなかったと言われるなら否定のしようがない。そう思われても仕方ない態度でいたと、離婚を口にされてから振り返って自分でも思った。
     今ならまだ人生をやり直せる――そこまで言われては何も言葉が出なかった。三十五歳の元妻より、三十九歳の自分こそがそうだ。ほんの一年余りで離婚を言い渡されたことで、自分を改めるなら今しかないと、深く思った。
     四十にして惑わず、か。
     ふと浮かんで岩瀬は苦笑する。離婚したことに比べれば、それまでの人生の惑いなど瑣末にすぎない。今が一番に惑っている。
     明日着るワイシャツがないんだからな。
     吾妻が戻ってきて、コピー十部と原本を差し出してきた。岩瀬は、ざっとでもすべてに目を通してから吾妻を席に戻す。細かいと陰で言われていることは百も承知で、やり方を変える気はない。
     どんな仕事も、完了の都度に確認を取ることが肝要だ。それが結果として仕事をスムーズに運ぶ。確認を怠ったことで仕事をやり直すなど言語道断で、そうして築いてきた実績が自分を三十七歳で課長職に押し上げた。
     だから……生活も同じようにすればいい。
     先週の土曜日にクリーニング店に行きそびれたことが悔やまれる。忘れないように手帳に書き込んでおいたのに、すっかり見落とした。おかげで木曜日の今日でワイシャツがなくなった。
     少しずつでも慣れていかないと。
     届けられたばかりのコピー十部を手にして岩瀬は席を立つ。社員食堂で昼食を取りながら、もう一度目を通して会議に備え、会議室には直接行くつもりで席を離れた。


     会議が終わって岩瀬が席に戻ったときには、嶋田はまだ外出中だった。それからしばらくして二課の課長と共に部長に呼ばれ、専務を相手に、明日の部長会で報告する内容の事前説明をした。
     そうして再び席に戻ったときには終業時刻を大幅に過ぎていて、経営企画部一課には、あとを任せていた主任の平野と嶋田が残っているだけだった。
     待ち構えていたように嶋田がやってきた。ファイルを広げ、銀座店での業務報告をする。
    「それで、課長――」
     隣の二課にも、その向こうの製品管理部にも残業をしている社員はかなりいる。嶋田は周囲をはばかるような小声で呼びかけてきて、場所を変えましょうと目で合図した。
     いったん嶋田は席に戻り、帰り支度をして平野に挨拶を済ませ、オフィスを出ていく。少し遅れて岩瀬も廊下に出た。会議室に入る嶋田を目に捉え、足早にあとに続く。
    「これ、頼まれたものです」
     ほかには誰もいない、がらんとした会議室で紙袋を受け取った。中を見れば白い半袖のワイシャツが入っていて、襟のサイズも頼んだとおりに三十八だ。
    「それと、レシートとお釣りです」
     わずかに見上げる先で、嶋田はにっこりと笑う。その屈託のなさに岩瀬は恥じ入った。
    「本当に悪かった。こんなつまらない用事を押しつけて」
    「お役に立てたなら、よかったです」
     ほがらかに即答され、ますます身の縮む思いだった。苦笑して、岩瀬は釣り銭を財布にしまう。
    「助かったよ」
    「それ、明日着られるんですか?」
    「ああ」
    「そういうことでしたら、差し出がましいですけど、ハウスキーパーを雇われたらいかがですか」
    「え」
     驚いて顔を上げた。嶋田は変わらぬ笑顔でいる。岩瀬は、自嘲していっそう決まり悪い思いで答えた。
    「もっともな意見だな。それは私も考えたんだが、留守の家に他人が出入りすると思うと馴染めないんだ。四十にもなって実家に戻るにも、弟夫婦が同居している状況だし」
     思わず溜め息が漏れた。言葉にしたとおりだ。十歳も年下の部下に愚痴を吐いたと思うと、やるせなくなる。
     しかし嶋田はさらりと返してくる。
    「そうなんですか。実は俺も同じです。俺が大阪にいるあいだに姉が結婚して、孫ができたものだから親が呼び寄せて、今は同居していて――あれ? 課長、もう四十ですか?」
    「いや、まだだが、八月生まれだから、もう目の前だ」
     自分で言って、くすっと笑ってしまった。どういうことか、嶋田は戸惑った顔を見せる。それには構わずに、観念する思いで続けた。
    「みっともない話だが、三十八になるまで実家暮らしで、この歳になっても自分では何もできないありさまだ。きみは大阪からひとり暮らしなんだな? もう、慣れたものだよな」
    「まあ、それは……。転勤になってすぐの頃は遊ぶ相手もなかったから、暇つぶしにいろいろやってましたし」
    「なるほど」
     つい感心してうなずいた。そんなふうに気負いなく慣れていくことが肝要かも知れない。
    「あの、課長」
    「なんだ?」
     呼ばれて目を戻す。嶋田は、やけに真剣な顔になって見つめてきた。
    「ご迷惑じゃなかったら、俺、何か手伝いに伺いますが」
    「えっ」
     それこそ目が飛び出るほどの勢いで驚いてしまった。嶋田のほうが慌てたようになる。らしくもなく、うっすらと頬を染めた。
    「差し出がましいことは十分に承知してます。でも、ずいぶん不自由されてるようですし」
    「いや、今日のことで、もう十分だ。きみは会社の人間だ、私用を押しつけて恥じている。これ以上、気を遣わないでくれ」
    「でも――」
     精いっぱい言い繕ったつもりが、即座に言い返されてしまった。
    「俺は知ってしまったわけですし。日に日に顔色も悪くされてるようで、見過ごせません」
     あまりに嶋田が真剣で、岩瀬はふと頬がゆるんだ。おのずと笑みが浮かび、やわらかく嶋田を見つめ返す。
    「異動してきたときは見違えたと思ったが、新人の頃と変わらないな。何ごとにも率直で、物怖じしない。きみの美点だが履き違えるな」
    「……はい」
     思ったことを口にすれば、まさに新人の頃と変わりなく、嶋田は素直にかしこまる。それが好ましく目に映り、岩瀬は温かな気持ちになった。
    「今日のことは本当に感謝している。今週もあと一日なのに、ワイシャツがなくて困っていたんだ。明日は部長会もあるし――」
     また愚痴をこぼしそうになって、そっと口を閉じた。嶋田が困ったように目を細める。
    「課長……」
    「いや、引き止めて悪かった。もう退社しなさい。無駄を省くことも大切だ」
    「そうでしたね」
     ハッと目を瞠り、にこっとしてから嶋田は軽く頭を下げた。
    「では、お先に失礼します」
    「ああ。お疲れさま」
     先に会議室を出ていった。ふうっと、岩瀬は深い溜め息をつく。知らずに緊張していたようだ。しかし嶋田の人となりが自分の知るままでいて、安堵するような、やはり温かく満たされるような、そんな気持ちだった。


    つづく


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