Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    不惑の果実
    ‐2‐




     その週の土曜日、岩瀬は何をするより先にクリーニング店に足を運んだ。とっくに仕上がっていた一週間分のワイシャツを受け取り、だが新たには出さない。木曜日のことが懲りて、会社の近くのクリーニング店を利用すると決めた。
     家に戻り、げっそりとした気分になる。自分しかいないのだから散らかりようもないはずのリビングは、一週間放置されてそれなりのありさまだ。掃除機を取り出し、慣れない手つきでさっそく掃除を始める。そうなってから気づいて、エアコンを止めて窓を開けた。
     室内の掃除はまだよかった。取扱説明書を読まなくても掃除機は使える。バスルームとトイレはいまだ手つかずで、そもそも掃除の仕方がわからない。夏はシャワーで済ませていられるからバスルームはまだ先送りできるにしても、トイレはそうはいかないだろう。
     だが一番の悩みはゴミだった。マンションの集積所に出すまではしたのだが、先日の夜遅く、会社から帰ったら玄関の前に戻されていて唖然とした。分別ができていないとメモが貼られていて、ベランダに運び出したきりになっている。
     あれは、今日中に片づけないと――。
     思い出してうんざりしそうになるが、気を取り直す。インターネットの区のサイトで、分別の仕方は既に調べた。思いがけない細かさに驚いたが、それに従うだけでいい。
     寝室と、書斎にしているもう一部屋まで掃除機をかけて額の汗を拭った。家事をやり始めた勢いのあるうちに、分別方法をプリントアウトした紙を持ってベランダに出る。
     午前十一時を前に、太陽は夏空にぎらぎらと輝き、ようやく作業を終えたときには汗だくになっていた。室内に戻り、窓を閉めてエアコンをつける。すぐに洗面所に行き、手を洗うついでにシャワーを浴びた。
    「はー……」
     やっと落ち着けて、エアコンの風に当たる。洗い髪がさらされる感覚が心地いい。そっと目を閉じる。
     ……ひとりなんだな。
     実感として湧き上がった。誰の目もないとわかっているから、こんな行儀の悪いことも無防備にできる。手にバスタオルがあるだけで、裸でソファの肘掛けに浅く腰かけている。
     元妻が見たらどう思うだろう。当然ながら、母親を始め、家族にも見せたことがない。
     冷風に熱を奪われ、肌が乾燥する。週末になるとジムで泳ぐ習慣を崩さなかったからか、いまだ細く締まった体型を維持しているのはせめてもの救いか。
     明日はジムに行くか――。
     もう、買い物につきあってくれと言われることもない。もっとも、とっくに言われなくなっていた。今は自分で買い物をしなくてはならないのだから皮肉なものだ。
     ふと、キッチンカウンターに目が行った。充電器で携帯電話の着信ランプが点滅している。電話があったサインだ。携帯電話は主に仕事で使っていて、休日に電話がかかってくることは珍しい。手にとって眉をひそめる。
     ……嶋田?
     シャワー中の着信だったようで、しかし留守電には何も入っていない。怪訝に思う間もなく、呼び鈴が鳴った。マンションのエントランスからの呼び出しではなく、玄関からだ。
    「はい――」
     インターフォンを取って驚いた。モニターに嶋田が映し出される。
    「すみません、突然お伺いして」
    「ちょっと待ってくれ」
     寝室に駆け込み、慌てて衣服を身につけた。急いで玄関を開ければ、特に悪びれたふうもなく、嶋田は笑顔で頭を下げた。声も出ない岩瀬を穏やかに見つめて続ける。
    「やっぱり気になって、ダメ元で来てしまいました」
    「ダメ元って……きみ」
     営業の仕事じゃないんだから――喉元まで出かかった声は飲み込んだ。やはり嶋田だと思う。何ごとにも率直で、物怖じしない。
    「とにかく、上がれ」
     岩瀬は、ほとんどあきらめの気分で嶋田をリビングに通した。ソファを勧めてキッチンに入る。
    「あ、課長! お気遣いなく――」
    「いいから座ってなさい。暑かっただろう?」
     腰を浮かせた嶋田にカウンター越しに言う。
    「すみません……」
     大きな体でかしこまる嶋田を横目に、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出してグラスにふたつ注いだ。両手に持ってソファに戻り、嶋田から少し離れて隣に座る。
    「こんなものしか出せなくて悪いな」
    「そんな! ……いただきます」
     ごくごくと飲む様子に呆れそうになりながらも、岩瀬も冷たい緑茶を飲んだ。ホッと息が出る。
    「なんか……もう、片づけられたあとみたいですね――」
     室内に目を向けて、決まり悪そうに嶋田がこぼした。岩瀬は、フッと笑ってしまう。
    「よくここがわかったな」
     だから気さくに尋ねられたのに、かえって嶋田は恐縮して、もごもごと答えた。
    「あー……すみません。結婚されたときに挨拶状をいただきましたので――」
    「……そうか」
     聞かされて、なんだか遠い話のように感じた。嶋田が大阪に転勤したときに挨拶状を寄越していたから自分も送ったのであって、そんな挨拶状なんかまだ持っていたのかとまでは言い返せなかった。
    「ま、せっかく来てくれたんだし、一昨日の礼に昼はごちそうしよう。何が食べたい? 外に出るか」
     笑顔を作って向けた先で、嶋田は大げさに手を振って見せる。
    「とんでもない! お手伝いに伺ったんです、なんでも使ってやってください。あ、俺が作りますよ」
     言うなり、立ち上がった。失礼します、と口早に言ってキッチンに入っていく。
    「きみ――」
     驚いてあとを追うが、もう冷蔵庫を閉めて、続けて戸棚の中を物色する。岩瀬はぽかんと、その場に立ち尽くした。
    「冷たいスパゲティはどうです? 嫌いじゃないようでしたら、それにしますけど」
     にこっとした顔を向けられた。岩瀬は目が丸くなる。
    「嫌いじゃないが……材料なんて、あるか?」
     元妻が出ていってから生鮮食料品を買った覚えはない。根菜類が残っているだけだ。
    「簡単になっちゃいますけどね。調味料がそろっているから、味はどうにかなるでしょう」
     話しているうちに、嶋田は手際よく大鍋に湯を沸かし始める。冷蔵庫からニンジンとタマネギを取り出して洗うと、慣れた手つきで包丁を使った。スパゲティをゆで始めた鍋の横でそれらを炒めて皿に移す。戸棚からツナとマッシュルームとグリンピースの缶詰を取り出し、これもまた手際よく開けて中の液体を切って、ガラス製の大きなボウルに移した。
     スパゲティを箸で一本すくって口に入れ、ゆで上がったのかザルに上げる。それを蛇口の下に持っていき、流水をまんべんなくかけて大胆に水を切ると、ツナとマッシュルームとグリンピースのボウルに入れた。ニンジンとタマネギも加え、冷蔵庫からドレッシングを取り出して全部をあえた。
    「できあがりです。簡単でしょ?」
     ボウルごと、にっこりと岩瀬に差し出す。
    「あ、ああ……」
     そうなって、一部始終を呆然と見ていたと気づき、岩瀬はどんな顔をしたらいいのかわからない。
    「そうだ」
     思い出して冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
    「何もなくて、本当に悪い」
    「いいんですか?」
     今度は嶋田が目を丸くした。
    「いいだろう、休みなんだし」
     口走るように返し、岩瀬はフォークと皿も取り出して、先にダイニングテーブルに着いた。ボウルを持って、嶋田も席に着く。
    「ごちそうになるよ」
    「こちらこそ。いただきます」
     さっそく缶ビールを開けた嶋田を見つめて、岩瀬はやわらかく目を細めた。ホッと息をつき、自分もビールを一口飲む。スパゲティをフォークに取り、口に運んだ。
    「うまいじゃないか」
    「そうですか? おいしいドレッシングのおかげですけどね」
    「いや、アルデンテで歯ごたえもいい」
    「なら、よかった」
     いたずらっぽい目になって嶋田は笑う。その表情に、なんの前触れもなく岩瀬はドキッとした。どうして、と思う。
     そうだ、あのときも――。
     ワイシャツを買ってきてほしいと頼んだときも、同じような目になって笑った。こんな笑い方は過去に見た覚えがない。今回、異動してきてからではないか。
     ……それだけ余裕ができたと言うことか。
     たぶん、そうなのだろう。自分の知らない五年のあいだに、嶋田は自信を備えて戻ってきた。
     戻ってきた、って。
     自分で思ったことなのに違和感を覚える。
     ……本社に戻ってきたんだ。
     誰に咎められたわけでもないのに、内心で言い訳した。
    「でも、押しかけてきて言うことじゃないですけど、なんか、照れますね」
    「え?」
     唐突に聞こえて顔を上げる。嶋田は、言葉どおりに照れくさそうに頬を強張らせていた。
    「課長とふたりで食事してるなんて。それも、課長のご自宅で」
     低くつぶやいて缶ビールを口に持っていき、はぐらかすように視線を横に流した。
    「新人だったときも、課長とプライベートで飲むなんてなかったじゃないですか。職場の飲み会ぐらいで」
    「……そうだったな。あの頃は、そういったことにまで気が回らなかったから――」
     事実をぼそっと返したら、急に慌てたようになって目を戻してきた。
    「いえ、違うんです! そういうことが言いたかったんじゃなくて」
     そこまで言って、気まずそうに口ごもる。
    「課長のお人柄はよく存じ上げてます。あの頃は、俺も同期と遊ぶほうが多かったですし。飲みに連れていってもらいたかったとか、そういうんじゃなくて、て言うか、仕事で多くのことを教えてもらえて充実してました」
     ――え。
     目を伏せた顔をじっと見つめた。わずかに頬を染めたように感じられるが気のせいか。
    「ああっ、もう俺! なに言ってるかな」
    「……嶋田」
    「白状します、俺、大阪の三年間で身にしみてわかりました。自分にできることを見つけて動け、自分にしかできないことを探せって、何度も言われたじゃないですか。あと、無駄を省けもそうでしたよね。ほかにもいろいろあって、そういうこと全部、大阪に行って、一から自分でやらなくちゃならなくなって、やっとわかったんです。本社では、ひとの仕事を引き継いだにすぎなかった。大阪支社でもよくしてもらいましたけど、営業先はそうはいかないですから。課長がどれほど親身に指導してくださったのか、わかったんです」
    「きみ――」
     そんなことを聞かされ、まっすぐに見つめてこられ、岩瀬のほうが恥ずかしくなった。そっと目を伏せて、自分では気づかずに頬に缶ビールを押し当てる。ヒヤッとした感触に慌てて離した。嶋田が見ていた。うろたえたように、また視線を横に流す。
    「……ですから。そんな、恩を感じる人と、こんなふうにいられるのが照れくさいって言うか……強引で、すみません」
    「いや」
     謝られてしまい、岩瀬はたじろぐ。
    「久しぶりの手料理で、うれしかったよ。こういうものは、どうやって覚えたんだ?」
     咄嗟に話題を変えられて、ホッとした。目の前で、嶋田は苦笑したようになる。
    「適当に。これは、スパゲティを水で流していいってことだけ、ひとに教えてもらって」
    「あとは自己流?」
    「ですから適当です」
     やっと嶋田はくつろいだ笑顔に戻る。それを見て、誰に教わったのかまではあえて訊かなかった。単に自炊に慣れているのではなく、あれだけの手際だ。外見の男くささに加えて、女性に放っておかれるわけがない。
    「でも、やっぱ、なんか新鮮です。私服姿の課長、初めて見ました」
    「それは、きみも同じだろう?」
    「でも課長は、まだ髪が濡れて――すみませんけど、下ろしてると五歳は若く見えます」
     ふざけた調子で嶋田が言うから、岩瀬も同じように返してやった。
    「若く見えたって、五歳じゃな。きみだって、私服だとずいぶん若く見える」
    「そうですか?」
     さらりと返され、笑ってしまった。でも、本当にそうだ。
     嶋田は、もとから体格がいい。それが、ビシッとしたスーツでいるときよりも、今のようなラフな印象のシャツでいるときのほうが、はっきりわかる。
     第二ボタンまで襟が開いて肌が覗いているせいかもしれない。手も大きく、指も太いだけではなく長い。短い黒髪も、社内で見るときほど整えてなくて、かえって男らしい顔立ちを引き立てているように感じられる。
    「にしても、ちょっと意外でした。そんな、セクシーなデザインのものも着られるんですね。よくお似合いですよ、その黒いTシャツ」
     一瞬、からかわれたのかと思った。しかし嶋田にそんな素振りはない。セクシーと言われたことに岩瀬は戸惑う。咄嗟に身につけたもので、自分に言わせれば、ごくシンプルなデザインだ。ゆったりしたボートネックが楽で、てろんとした素材が肌に心地いいので気に入っているが、自分で買ったわけではない。
    「いや、これは」
     元妻が買ったものだと言いかけて、ハッと口を閉じた。なぜかわからない。気が引けた。
    「どう言えばいいか……がっかりしたんじゃないか? 会社で見るのとは、ぜんぜん違うだろう――?」
     そこまで言って、岩瀬は片肘をついて額を支える。ボウルから取り分けたスパゲティが、皿にまだあるのが目に映る。
     自分で言ったことが身につまされた。会社では実績に裏付けられた自信を誇っているのに、家ではまるで何もできない男だ。
    「まったく逆ですよ。失礼かもしれませんが、ずっと完璧なひとに思えてたんで、なんか、親近感が湧いちゃいました」
     うつむいたままそれを聞いて、岩瀬は頬が熱くなるのを感じる。目に映るスパゲティを急ぐように平らげた。
    「――すみません」
     少しして、嶋田の声が気まずく聞こえて目を上げた。
    「トイレ、お借りしていいですか」
     なんだ――その前に言ったことを謝られたのかと思った。しかし、ギクッとする。
    「悪い――いや、使ってくれていいんだが、その……私はまだ掃除したことがなくて」
    「――え」
     嶋田がきょとんとするのを見て顔を背けた。
    「恥の上塗りで言うが、掃除の仕方がわからないんだ」
     しばし間があいた。プッと嶋田が吹き出す。
    「課長――本気で言ってるんですか?」
     なぜそう言われるのか、岩瀬はわからない。
    「自社製品を熟知されているのに」
    「あ――」
     そうか、と岩瀬は愕然とする。洗い流せるトイレ掃除専用シートと、スプレータイプのトイレ洗剤を思い出した。
    「もしかして、しわ取りスプレーも忘れてました? アイロンは大変でしょう?」
     う、と声に詰まった。まさしくそのとおりで、スーツのスラックスはプレッサーを使い慣れていたからいいものの、上着をどうしたものか困っていたのだ。
    「俺、来週も伺います」
     やわらかな笑みに顔を崩し、嶋田は言う。
    「今日は、これから買い物に出ましょう。冷蔵庫がカラでしたよ。今の食生活じゃ、近いうちに体を壊されます」
     もう、何も言葉が出なかった。いっそ開き直った気分になる。自社製品の使い道さえ、思いつかなかったのだ。
    「少しでも課長のお役に立てるなら――俺が、お役に立ちたいんです。新人のときに、本当にお世話になったから」
     しみじみと言われ、胸にしみた。それが嶋田の本音でも、そうでなくても、思いやりに満ちた気遣いに違いなかった。
    「頼むよ――味噌汁ひとつ、作れないんだ」
    「大丈夫ですよ、炊飯器が使えれば」
    「それは、できる」
     思わず言えば、また、くすっと笑われた。
    「じゃ、トイレお借りします」
     廊下に出て左手だと、離れていく後ろ姿に向かって言った。その背中がいつも以上に大きく感じられ、岩瀬はわずかにも戸惑った。


    つづく


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